はてなキーワード: 分析とは
ちなみに夫が稼いだお金は「家庭のお金」であり「家庭のお金でプレゼントを買うこと」に関してどう思うかの話である。「稼いだ給与は俺の金だろと主張する夫」や「家事も育児もしていない専業主婦」というゴミの話はしていない。
本題に入るが、プレゼントの本質はなんだろうか。「あげる行為」と考えているか、「あげた物(結果)」と考えているかで考え方が異なると思う。
行為派であれば、渡そうとする気持ちや渡す人を想ってプレゼントを選ぶ時間そのものが「プレゼント」であるから、仮に原資が家庭のお金であっても喜ばれる。
一方で結果派は渡された物やサービスそのものをプレゼントと考える。そして祝いの気持ちで渡す物である以上、プレゼントにおけるリスクやコストの大部分を渡す側が負っていなければおかしいということになる。
お小遣いを貯めた場合を除いて夫婦の給与は共有財産なのだから、単にポチっただけのプレゼントの場合は妻と夫がほぼ半々にコストを負うことになる。プレゼントではなく、ただの買い物である。
行為派の場合は好きにプレゼントを贈れば良い。家計に影響のない範囲であれば相手は喜ぶだろう。
結果派の場合は、(お小遣いで用意するのが難しい場合は)コストの大半を負うもの...例えばちょっと手の込んだ料理や手作りのケーキの方が喜ばれる。入手するのに一定の労力がいる物もこれに入る。
どちらの考えも間違っていない。
問題は、インフレを予測する正しい方法とは何かということです。最近の物価と賃金の測定値をパンデミックによる特異性に重点を置いたボトムアップ分析するか、経済がどれだけ上または下にあるかを示す従来のトップダウン分析です。その通常の容量。
影響力のあるスタッフを含むFRB内部の一部は、後者をより重視しており、これはより長期にわたる引き締め政策を主張するだろう. 他の人は前者を好み、より穏やかなアプローチを主張する可能性があります.
FRB は水曜日に金利を 4.5% から 4.75% の範囲に 4 分の 1 ポイント引き上げる可能性が高く、 2 回連続の会議での上昇は鈍化します。そうなれば、当局者は以前の利上げの影響を研究する時間が増えるだろう。彼らは、利上げをいつまで続けるか、そしてその高い水準をいつまで維持するかについて議論する可能性が高い.
連邦準備制度理事会と民間部門のエコノミストがインフレを予測するために使用する主力モデルは、国の財とサービスに対する総需要と、「産出ギャップ」で表される総供給を比較します。これは、実際の国内総生産と利用可能な資本に基づく潜在 GDP の差です。そして労働。また、失業率が一定の自然で持続可能な水準を下回ると、賃金と物価がより速く上昇すると予測するフィリップス曲線にも依存しています。
これらの変数を推定することは、パンデミック後やウクライナでの戦争中はもちろん、平時でも困難です。自然失業率は、物価と賃金の動きからしか推測できません。10 年前、FRB 当局者はそれを 5% から 6% の間に置いていましたが、実際の失業率が 4% を下回ったため、賃金の大幅な上昇は見られず、その後 4% 前後に下方修正されました。
ジェフリーズのチーフエコノミスト、アネタ・マルコフスカ氏は、12月の金利とインフレの予測は、自然利子率が一時的に約4.8%まで上昇したと彼らが考えていることを示唆している. 失業率が現在 3.5% であることは、労働市場が逼迫しすぎており、賃金圧力が高くなり続ける可能性が高いことを示唆しています。
先月の連邦準備制度理事会の議事録は、中央銀行のスタッフエコノミストが、仕事のマッチングが非効率なままであるため、自然利子率がゆっくりと低下する可能性があると考えていることを示しており、価格圧力が以前に考えられていたよりも長く続く可能性があることを示唆しています.
スタッフはまた、労働力の伸びが鈍いため、潜在的な生産量の見積もりを下方修正し、実際の生産量は持続可能なレベルをさらに上回った. スタッフは、この産出ギャップが 2024 年末まで続くことを確認しました。これは、わずか数週間前の予測よりも 1 年長くなります。
ジュネーブで経済コンサルティング会社を経営する元FRBのエコノミスト、リッカルド・トレッツィ氏は「これは大きな動きだった」と語った。「スタッフは委員会に、『今あきらめてはならない。そうすれば、中期的にインフレ率は2%を大幅に上回ったままになるだろう』と言っている」と述べた。
それでも、FRB当局者は、GDPギャップとフィリップス曲線に過度に固執することに慎重です。過熱した労働市場は賃金に最初に現れる可能性が高いため、多くの当局者は、それらを潜在的なインフレ圧力のより良い指標と見なしています。賃金は、雇用主が物価や生産性を通じて回復できると考えているものと、労働者が自分の生活費を考慮して何を期待しているかを明らかにします。
賃金が最近の 5% から 5.5% のペースで上昇し続ければ、生産性が年間約 1% から 1.5% 上昇すると仮定すると、インフレ率は FRB の 2% のインフレ目標をはるかに上回ります。
これが、FRB の政策担当者が先月、今年のインフレ予測を上方修正した理由です。より高い賃金上昇は総所得を押し上げ、より高い価格を維持できる消費力を提供します。当局者は、1970 年代に起こったように、労働市場が逼迫しているため、賃金が物価に連動して上昇する可能性があると懸念している。
先月の会合以降、臨時雇用や労働時間の減少など、労働需要が軟化した可能性を示す証拠が増えている。賃金の伸びが 4% に落ち込んだ場合、インフレ率を 2% にすることはより簡単になります。
労働者の供給が増えれば、賃金の不安は和らぐだろう。UBS の米国チーフ エコノミスト、ジョナサン ピングル氏は、移民が回復するにつれて労働力不足が緩和される可能性があると考えています。先月、国勢調査局は、2017 年以来初めて、6 月までの 12 か月間の純移民が 100 万人を超えたことを示す見積もりを発表しました。
FRB 当局者は雇用コスト指数を注意深く見守っています。第 4 四半期の数字は火曜日に発表される予定です。
食品とエネルギーを除く個人消費支出の物価指数の 12 か月間の変化で測定されるインフレ率は、9 月の 5.2% から先月は 4.4% に低下しました。FRB の 2% の目標をまだ上回っていますが、過去 3 か月で年率 2.9% まで緩やかになりました。
商品の価格が下落しているため、インフレは鈍化しています。住宅費の大幅な上昇は鈍化しているが、まだ公式の価格計には反映されていない. その結果、FRB議長のジェローム・パウエルと数人の同僚は最近、食料、エネルギー、住居、商品の価格を除外することで、労働集約的なサービスのより狭いサブセットに注意を向けました.
パウエル氏は、12月に前年比4%上昇したこのカテゴリーの物価は、消費者物価に波及する高い賃金コストの最良の尺度を提供すると述べた。
今月のスピーチで、FRB副議長のラエル・ブレイナードは、その見解をより楽観的に再評価し、賃金と住宅以外のサービス価格との関連性が弱まる可能性がある理由を強調しました。
彼女は、賃金の伸びとは対照的に、現在反転している最近の世界的な混乱の波及効果を反映している場合、物価上昇が緩やかになる見通しを指摘しました。たとえば、レストランの食事、自動車保険、航空運賃の価格は、主に食品価格、自動車価格、燃料価格の上昇がそれぞれの原因である場合、緩和される可能性があります。
UBSのピングル氏は、「賃金圧力が自然に緩和している場合、賃金と価格のスパイラルが進行することを本当に心配するという話をするのは難しくなる」と述べた。
連邦準備銀行の元エコノミスト、ジョン・ロバーツ氏は、サービス・インフレへの圧力を緩和するために、賃金以外のコストを削減する余地があると見ている. 「しかし、中期的には、ここでパウエルの議論に頼らなければならない. 「もし賃金の伸びがこれまでと同じように高水準にとどまるなら、彼らは依然としてインフレの問題を抱えることになるでしょう。」
鈴木は陣営外の人にも話が通じる右翼として有名だったが、実は朝まで生テレビの成立に大きな関りがある。鈴木が居なければあの番組は無かったんである。
また風桶式に鈴木が居ねばネットの団塊叩きも無かったんである。ちょっと説明しようと思う。
鈴木の親は民族主義新興宗教の「生長の家」の熱心な信者だった。その為大学時代は六本木にあった生長の家道場の寮に住み込みんで大学に通うと共に国粋宗教活動と学生運動に身を投じ、全共闘の左翼学生と殴りあいをしていた。最近話題の宗教二世だったのだな。
この道場は乃木坂の緑の中にあった。https://goo.gl/maps/tv9eakNek34ZLQXU6
今では生長の家の3代目がエコロジー志向になったので建物も塀も取り払われて開放的な森として一般にも開放されているが、一昔前は周囲の階段が「おばけ階段」と呼ばれるほど鬱蒼とした場所だった。
日本会議の中核メンバーも多くここに入寮しており実はこの寮は戦後の右翼運動の胎盤みたいな場所なんである。安倍政権で日本会議が急接近した事で政治にも影響を与えた。米議会は安倍政権と日本会議の関係を問題視していたのでこの寮の輩出者も分析把握されているかも知れない。
この敷地内には日本教文社という出版社もあってこれは生長の家の教祖谷口雅春の著書を出版して思想と教義を広める為に設立された出版社だ。しかしフロイトの『精神分析入門』や『夢判断』、ユングの選集などをいち早く出版するなど、実は学術分野でも存在感を示してきた社でもあった。
余談だが防衛庁(当時)の庁舎は2000年まで六本木にあり(現ミッドタウン)、更に60年代まで門が開いていたので近所の人は庁舎内の売店で買い物をしていたそうである。六本木、赤坂の物価より安い上に生長の家道場と防衛庁庁舎は目と鼻の先だったので鈴木も利用して安いパンツ等の購入に重宝していた。
ところがある日、左翼学生による防衛庁突入事件があり、それ以来門は閉められ部外者が売店を使用することは出来なくなった。
六本木交差点の先や青山まで行ってハイソ価格のパンツを買うしかなくなってしまった為に怒り沸騰、全共闘と衝突した際には「お前らのせいでパンツが安く買えなくなっただろ!」と叫んで相手を殴っていたとの事である。相手も何を言われているのか不明だったろう、と鈴木は述懐していた。まー、面白おかしく話を盛ったんだろうけど。
1970年に三島由紀夫の市谷駐屯地東部方面総監部占拠と割腹自殺事件が起きて世間を揺るがしたが、三島の介錯、つまり斬首をしたのが森田必勝。森田もまた割腹し介錯された。この森田必勝は鈴木の後輩で、思想的に鈴木の影響を強く受けていたという。
この為に鈴木は強く動揺、やがて右翼として生きる事を決意する事になる。やがて勤めていたサンケイ新聞も退職してしまう。(デモでの狼藉で解雇されたとの話)
鈴木はこの事をずっと気にしていて十字架を背負っているかの如くだったが、2000年頃になると「森田氏」と敬称を付けて呼ぶようになった。十字架を下したのかもしれない。
余談だが、小泉政権時代に男性か女性か判らんと評判になった井脇ノブ子という政治家が居たが、彼女は学生時代、右翼学生運動のマドンナで、ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』の様に数万の男塾みたいな学生の先頭に立ち、当時新右翼学生運動のプリンス的立場だった森田との交際の噂もあったとの事である。
1977年google:image:『おまえらがかわいいけんなぐるんや!』は井脇31歳の時の刊行だが表紙写真の井脇は暴力教師だかダチョウ倶楽部上島だか素人には見分けがつかない。
鈴木らは「新右翼」であり、これは全共闘などが含まれる新左翼に対抗する為に生まれ、政治権力に癒着した旧右翼らと違う軸を志向した。そもそも対抗する相手の新左翼自体が、日本共産党が暴力路線を放棄する事に反発して生まれたもので、要するに暴力vs.暴力。
最初から硬派なバンカラと軍国路線で、彼らが卒業して政治結社を結成するようになると国防色(カーキ)の街宣車を使うようになった。これが80年頃になると威圧感を与える黒塗り街宣車と旭日旗、日章旗、軍歌を流すというスタイルが定着した。
鈴木が代表を務める一水会も黒塗り街宣車で軍歌を流して通行人を威圧して居たが、やがて鈴木はこのスタイルは良くないと考え出す。こんなスタイルでは話を聞いてくれる人が居ない。
という事で今の機動隊バスのような爽やかなブルーに塗り直して大音量の軍歌も怒鳴り声も止めた。これは今で言うとテニスサークルヤクザとか好青年暴走族みたいな強烈なミスマッチである。(考えれば機動隊バスが国防色止めたのも同じ動機だ)
すると傍目には社会党などの街宣車に見えるから、すれ違う右翼街宣車に怒鳴られる事もあったそうである。「あー、てめえらふざけんじゃねえぞおいゴラ!」「あ、一水会さんでしたかどうもすいませんでした」って事が度々あったそうだ。
ただ、話を聞いて貰えないスタイルが流行したのは大人の事情もある。威圧感があって相手が震えあがるというのは、例えば企業相手の抗議に行くときは相手が折れてやり易い訳だ。
更に活動費というのは支持者の寄付と機関紙の購買費で稼ぐのだが、相手が折れた先に機関紙の購買も持ち掛ければ受諾されやすい。そこで心付けを渡してくる相手もいる。
するとシノギの手段としてヤクザが参入してくるようになる。民事介入暴力だ。ヤクザは元々旧右翼と不可分だったが、それが新右翼のスタイルを模倣して参入するわけ。威圧感を高める為に街宣車もカーキや灰色じゃなくて黒塗りの方がいいし、車格も小さいライトバン等より大型のワゴンやバスの方がいい。こういうのを警察用語で右翼標榜暴力団という。当時沢山いたヤクザが参入する事で「業界」のパイも大きくなった。
鈴木はこういう威圧じゃなくて議論や対話を好むスタイルだったので、敵のはずの新左翼側とも交流があり、新左翼出版社から自書を出版して居たりもした。それで「一般人の方も向いている面白右翼」という評判が高くなっていた。
そこで1985か86年に全共闘上がりの活動家と鈴木含む新右翼の大討論会というのを開催する事になった。司会はあの田原総一朗である。
この当時は全共闘とか学生運動というのは完全に過去のものになっていて嫌悪さえされていた。流行っていた思想はポストモダンで、モダンの内容も踏まえずに言葉の戯れを繰り出すのが流行していた。これは凄惨な内ゲバを繰り返して自滅したのに青臭い異議申し立てさえすればよいという立場で「議論」の場に居座っていた学生運動的なものに参加したくない、そうではないものが新しい価値ある態度なんだという、以前の政治的なものへの強い忌避、反感がベースにあった。あの田中康夫も事あるごとに全共闘残滓の異議申し立て的態度や代ゼミ講師的ノリをコキ下していた(湾岸戦争で日本が参戦を求められた事に衝撃を受け転向)。
そんな時代背景では政治議論なんてものはカビが生えた扱いで部外者には面白い訳がない。
そう思われていたのに、いざ討論会をやってみたら部外者にもかなりウケがいい。やってる方も面白い。
それでこれはいけるぞと踏んだ田原総一朗がテレ朝に持ち込んだ企画が朝生だったんである。
当時、エロ一本鎗だった深夜放送枠でフジTVが色々実験的な番組を放送し始め、その深夜枠のいい加減さも相俟って好事家的視聴者層にウケていた。そこにCNNの放送権をゲットして社会路線で行きたかったテレ朝が乗ったのだろう。
こういう経緯だから最初の頃の朝生は体制派vs.反体制派orリベラルという構図が鮮明だ。田原は最近「朝生は最早保守だ左翼だという時代ではないというのが朝生を始めた動機だ」みたいな事あちこちで言ってるんだが、この経緯を見ればこれが嘘って事は判るだろう。ボケちゃってるんじゃないの?討論なんてウケない時代に「激突全共闘と新右翼」討論会の成功で行けると踏んだのが朝生なのだから。
そしてこの討論会は鈴木の左右を超えた交流と議論好きの人格が無ければあり得ず、田原も来なかった筈なのだから、鈴木の存在が朝生を産んだと言って差し支えないんである。
こういう風に鈴木の活動と波及した社会現象は停滞して煙たがられていた政治議論を活性化した。すると全共闘上がりの人士らは元気になって「異議申し立てが必要だ」「もう一度騒いでもいいだろ」と言うようになった。これらを受けて刊行されたのが1994年の『全共闘白書』である。
この動きに対し、同世代の松原隆一郎が文藝春秋社の雑誌『諸君!』で批判を加える。更にこれを受けて諸君!誌では「うるさいばかりで無責任 上と下からぶっ叩け全共闘世代」という特集を組んで、その名の通りに上の世代と若手の執筆者が全共闘叩きをする記事を寄せた。
つまりはこれがネットで長年繰り返された団塊批判の始まりなのだ。この全共闘的振舞いへの批判から団塊Jr.世代(増田もそう)の日本を支配するオヤジ世代へのルサンチマンと甘えが被さり、「団塊世代」全体を叩くという風にスライドしてきたのである。そこでは例えばいい年になっても漫画を読んでるというスタイルを確立したのが団塊だ(劇画市場の成立)とか子供部屋が個室とか結婚は好きな相手とすれば良いしなくても良いという常識とか若者向け流行歌の市場とか個人のプライバシーとか時給制アルバイトとかが団塊世代がわがままをしたせいで出来たって事にも向き合わないで済んだ。
些か「風が吹けば桶屋が儲かる」的だが、鈴木の活動が無かったら全共闘上がりが活性化して『全共闘白書』が刊行されることも、それに対して下の世代が反発する事も無かったのである。そしてそれがネット民の甘えを吸収して団塊叩きに変化する事になったのだ。
最後に現在も統一教会との関係で取り沙汰される朝日新聞襲撃殺人事件の赤報隊に関して。
1990年代に新右翼を名乗る男の脅迫で柳美里のサイン会が中止されるという事件が起きた。鈴木はSPA!誌に連載を持っていてそれを批判したところその男が抗議してきた。その中で男が赤報隊の名を語った為、鈴木は「赤報隊とは面識がある、名前を騙ったお前を赤報隊は必ず殺すだろう」と伝え、懺悔の言葉を引き出す事に成功し、それを連載記事に書いた。
すると、直ぐに警察が何らかの容疑で令状を取り事務所を捜索して書類の類を皆押収してしまったのである。赤報隊の情報を得る為の別件事件だ。これに鈴木は怒って赤報隊の情報は二度と官憲に提供しないと書いてそれきりになってしまった。
結局赤報隊と鈴木の面識が脅迫犯へのブラフだったのか真実だったのかは不明なんである。
ヤクザの根絶やしを目的とする暴対法が施行される事になった時、任侠右翼とも付き合いがある野村秋介に鈴木はヤクザの人権を守れデモに参加しようと強く誘われたが、鈴木は「イヤですよヤクザなんて」と気乗りがしなかったが、野村は親分肌なので断れない。仕方なしに参加したら呉智英らに「アウトローの人権とは笑止」などと言われてしまった。
なぜニコ動が流行ってsecond lifeは流行らなかった
どこまで行ってもただの結果論だなーって思った
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0711/23/news005.html
その"幼稚園児の落書きみたいな絵"に評価で負けてるのは何故だろうとは考えないんだ?
女クリエイターってこういう腐り方する奴多いよね。冷静に分析したり策を練ることもせずに私の積み重ねた努力ガー!ってお気持ちお気持ち
国民の皆様の暮らしや生活の「閉塞感」は何ら改善していない、むしろ、将来に向けて、新たな光が見えない、というのが実感ではないでしょうか。
私は、この背景に、「日本は将来何で稼ぎ、何で雇用していくのか」が見えていない、ということがあるように思います。
これまで、「日本は高度なものづくりでやっていけるんだ」「いやいや、ものづくりは古い。金融とITで食べていくんだ」
「これからは内需だ」「いやいや、これからは、成長するアジア市場に出て行くんだ」
「それじゃ、企業はみんな海外にいってしまうんじゃないか」と、様々な議論がでています。
これに併せて、根拠のない日本礼賛論、何も生み出さない悲観論、実態から乖離した観念論が飛びかっています。
どれも、真実の一面をとらえているのでしょうが、日本の産業の将来像を示しているとは言えません。
全体として、日本の産業の将来像を示し、それに向かって行動を起こさない限り、国民の皆様の閉塞感は払拭できないと思います。
そこで、今回の「産業構造ビジョン2010」では、徹底して、日本の産業の課題と、世界の動きを分析しました。
そこで明らかになったのは、世界の企業や市場の新たな動きに取り残された、日本の官民の「行き詰まり」の現状です。
この行き詰まりを打開するためには、現状分析に立脚して、政府、民間を通じて、発想の転換を行う必要があります。
徹底した現状分析から、混乱した議論に対して、いくつかの「神話と真実」が見いだせます。
例えば、日本は過剰貯蓄だから消費の比率を拡大しないといけない、という議論を良く耳にします。
しかし、最近では、日本の家計の貯蓄率は、既に米国を下回り、先進国の最低水準となっています。
所得を増やさないで、消費を拡大するのは持続可能ではありません。
しかしながら、賃金の水準を見ると、2000年代の戦後最長の景気拡大期においても、賃金の上昇は見られません。
企業がもうけすぎているから、企業に負担させて消費者に再分配すべきだ、という議論があります。
しかし、国際的に見ると、労働分配率は先進国で最高水準だというデータもあります。
いずれの事実も、「単なる再分配ではなく、全体のパイを増やし、それを所得の拡大につなげていく、という好循環を作り出さなければならない」ということを示しています。
近年、日本の産業は、付加価値拡大の多くを、自動車等の特定のグローバル製造業に依存してきたのは事実です。
しかしながら、実は日本の輸出比率は国際的には低い水準にあります。これは、特定の企業以外の多くの企業は、世界の成長市場と直接つながっていないことを示しています。
グローバル製造業に極度に成長を依存している日本とドイツは、労働生産性が大きく改善しても、賃金水準はこの20年間殆ど向上していません。
これは、特定のグローバル製造業に依存した成長モデルは、新興国との賃金競争に直面して、なかなか賃金があがらないことを示唆しています。
日本全体の付加価値をあげていくためには、特定のグローバル製造業以外の産業が、成長市場につながっていく必要があります。
日本の企業については、「日本のハイテク技術は世界一。だから日本企業は強い」という議論があります。
しかし、液晶でも、DVDでも、日本企業が世界を席巻していたのは最初の数年だけで、世界市場が急拡大するとともに、日本企業の世界シェアは急激に低下していっています。
企業の利益率で見ても、多くの業種で、日本の企業は、同業種の世界の企業と比べて、半分以下の利益率になっています。
こうした事実は、特定企業や、特定製品の問題というよりもむしろ、日本の産業に共通したビジネスモデルが、世界から取り残されていることを示唆しています。
グローバル化については、見方が分かれています。「グローバル化は国内雇用の空洞化を招く」という議論があります。「だから、外需ではなく内需依存に転換するべきだ」という議論もあります。
確かに、保育園の待機児童問題など、国民の需要に供給サイドが追いついていない、潜在的な内需拡大分野は、たくさんあります。
しかしながら、市場全体で見ると、市場拡大は、少子高齢化が進む我が国や他の先進国から、新興国に移行するのは明白です。
日本が衰退しないためには、むしろグローバル化を積極的に進めるしかありません。
しかし、国内立地の国際競争力の低下をそのまま放置してグローバル化だけ進めれば、国内から雇用も付加価値も失われてしまいます。
最近のアンケート調査によると、この数年で、アジアの中での日本に立地する魅力、すなわち立地競争力は、急激に低下しています。
実際に、日本企業も外国企業も、日本国内の拠点を他のアジア諸国に移転する例が、次々と出始めています。
この、いわゆる「空洞化」を回避するためには、グローバル化を止めるのではなく、税制も、空港・港湾等の社会基盤も、国際的に魅力あるものにすることにより、付加価値や雇用を生む拠点を国内に引きつけていかなければなりません。
人材も、グローバル市場で戦える即戦力の高度人材を一人でも多く育成し、あるいは呼び込まなくてはなりません。
さらに、グローバル化を進める一環として、日本で付加価値や良質な雇用を生んでくれる外国企業は、積極的に呼び込んでいかなくてはならないのです。
「企業を補助するのか、労働者を支援するのか」「外国企業を支援していいのか」という国内の内向きの配分論ではないのです。
グローバル化に直面して、各国政府は、国内で付加価値と良質な雇用を獲得するために、熾烈な競争を行っているのです。
日本だけが内向きの議論に終始していては、衰退するしかないのです。
厳しい現実を直視した上で、なお、日本の産業には新たなチャンスがあることを忘れてはなりません。
環境・エネルギー制約や少子高齢化は、日本が世界各国に比べて極めて厳しい挑戦を強いられる社会課題です。
しかし、日本の技術を活かして、世界に先駆けて課題解決のビジネスモデルを示せれば、むしろ新たな国際競争力の源泉になります。
こうした数々の「転換」を実現するためには、政府はもちろんのこと、企業、産業、そこで働く方々、各々が変革に向けた行動を起こさなくてはなりません。
そして、官と民の関係も、世界の動きや、社会課題解決の要請を踏まえて、新たな関係を構築していく必要があります。
「産業構造ビジョン2010」は、その具体的な処方箋を示したものです。
雇用を生み出すのは企業であり、産業です。雇用の質を高めるには、企業、産業の競争力を高めることが必要です。
その先に質の高い雇用、賃金の上昇、消費の拡大という好循環が見えてきます。単に企業の利益を上げさせるために、ビジョンを提示し、政策を打つのではありません。
その先にある、「国民の皆様一人一人が豊かさを実感する」という目的に向かって、閉塞感に満ちている現状と課題をしっかりと受け止め、官と民双方の、今後のあるべき姿と処方箋を、我が国全体で共有することが必要です。
自己愛も愛だからな。古代ギリシア人は愛を8種類に分類していたという。現代ならばより複雑だ。
俺たちが愛を語る時、それはより分析的でなくてはならないということだ。
ある漫画の登場キャラクターについて考えたブログを投稿する時に、それをどういうタイトルで発表すればいいか、考察を名乗って良いのかいつも迷う。
このキャラはこういう含意があるんじゃないか、このネーミングはこういう元ネタと関連してるんじゃないかというよくあるオタクの深読み的な記事だ。
はてなで有名なキャラで言えば、ドラゴンボールのベジータが自ら洗脳された時の心情を、王族、格闘家、戦闘民族、滅びた種族の末裔などの面から考えてみる、みたいな感じだ。
クリアしたい条件は、
・不特定多数が読む気になってもらえること
だが考察って言葉はネットのオタクが軽々と使いすぎて、考察を名乗るのがちょっとダサくなっている気がする。
また、少なくとも一万字くらいは語っていなければ考察を名乗るに値しないと思うので、五千字弱の記事で考察ですと出すのは名前負け感がして恥ずかしい。
次が「解釈」。
というのは、考察と名乗るのはちょっと荷が重いと思った人たちが、我も我もと「解釈」を名乗り、ついには考察と呼んでいいくらいちゃんと書き込んだものまで「解釈」と名乗る。
さらに、ツイッター上の気軽なやり取りでも「これはあくまで個人的解釈です」みたいな言い方が沢山みられるようになり、あれが露骨に逃げ口上って感じで非常にダサく、印象が悪い。
嫌いというのはダメだけどnot for meならいいよね、みたいな、くだらないおためごかしって感じでよくない。
もちろん、ちゃんとした意味で「解釈」という言葉を選択しただろうなという人もおり、それは美しい。
だが、「ベジータが自ら洗脳された理由を、彼の様々な立場から解釈してみた」というのは、考察と言いたいけどビビって解釈を選びますというのが見え見えでダサいだろう。
次は「感想」。
まあ、明確に間違いではない。
「ある作品の感想を書きました」という名乗りで出てきたのが、作中の、1キャラの、特定時期についてだけ考えた記事だったら、それはちょっと違うだろとなるだろう。
「作品の感想」という名乗りは、作品全体とか、せめて○○編とかの、ある程度の規模のもの全体についていう時に相応しいだろう。
これも、ワンシークエンスではなく、作品全体について語ったものでなければしっくりこない。
また、評論を名乗るならば考察に準ずるような分析精度、レビューを名乗るならば読者に対ししっかり紹介できる親切さが必要だろう。
「妄想」。
「ベジータは滅びたサイヤ人王族の数少ない生き残りであり王族であることがアイデンティティであり心の支えであり強くなるモチベーションだったのに、悟空という他のサイヤ人も残ってくれたし、まして自分にはトランクスという跡継ぎができたしで、どうしても彼の孤独や将来への絶望は薄れて、心に甘ったるさが満ちてしまうよな。臥薪嘗胆していたのに、いつのまにか苦い肝がキャンディになっていたのだ。また、尻尾の切断という要素も忘れてはならないだろう云々」みたいなオタク語りは、キモい妄想と呼ぶのが一番相応しいかもしれない。
女オタククラスタでは、恋愛カプ語りを「妄想」と呼んで発表することが割と一般的なようだが、ベジータと悟空の巨大感情を語っているわけではない……ということもないが、まあ主眼ではないし、想定読者層も女オタクではない。
「○○語り」。
洗脳された時のベジータ語り、みたいな。この増田内でもオタク語りって多用してるし。
うーん。なんか自意識過剰なのがバレそう。あとやっぱりこれも、五千字弱で語るを名乗るのはおこがましい気がする。
かげきしょうじょを楽しく無料話を読み切った
とりあえず未読の4巻は買って読んでみよう
9巻読んだのだから、この先大外れの読み心地ということもないはず
読み切って急激にどうでも良くなる、という可能性は無くはないけど
7seedsは読了後の引きが早かった、後ろ10冊まとめ買いしたけど読み返したいという気持ちがまったく一切ない
自分にとってはオチが知りたいタイプのマンガだったんだなと分析する
次はどうなるかが気になり続きは続きはと一気に読める、が結論出たら終わり
直接言えはもっともだけど、
ただ自分の感情について誰かに分析したほしくてここに吐き出したんだ
他のコメ主もそうだけど、
俺は正しい仕事がしたいだけだ。
ある会社に所属し、そのサービスを良くする仕事をしている。会社のサービスは大好きなわけではないが、お金を頂いているプロとして一生懸命やっている。
俺はデータ分析を業務の一部とするチームに所属している。データ分析によって論理的に導いた結論は、客観的な目線では自信を持って正しいと言える(もちろん、いくつかの仮定を置いていたりはする)。
一方で、それを事業の偉い人にプレゼンすると、「俺のやり方と違う」という反応が返ってくる。
俺は論理や仮定を積み上げて議論をしているので、「ここの仮定が間違っている」「このデータ分析結果は間違っているんじゃないか」といった議論をした上で、結論の正しさを導きたい。正しいことを正しいと言いたい。
ボクサーを撲殺したのは僕さ
これから満で数つけるわ
ナンを何枚も食べるのなんて、なんでもないよ
新患の新幹線に関する新刊に新館を立てて震撼し信管が作動する。
ケニアに行ったら生贄や
柑橘類の香りに歓喜し、換気を喚起したが乾季が訪れたので、寒気がした。
塗装を落とそうか。
観光客がフイルムに感光させた写真を刊行することが慣行になった。
サボってサボタージュ
景気が良くなりケーキを食べる契機を伺う徳川慶喜(とくがわけいき)
夫を成敗するオットセイ
つまらない妻の話
竹の丈は高ぇなー
餅を用いて持ち上げる
ロストしたローストビーフ
サボテンの植え替えサボってんな
過度な稼働は可動範囲を狭める
伯爵が博士の拍手に拍車をかけて迫真の爆死をし白寿の白人を白紙にもどす。
紅葉を見て高揚する
甲子園で講師をする公私混同した孔子の実力行使には格子窓も耐えられない。
死んでんのか?「心電図を取ってみよう!」
夜祭で野菜を食べる。
信玄餅を食べながら震源を特定するように進言する新元素を発見した人。
蜂の巣(honeycomb)を見てはにかむ
五反田で地団駄を踏む
ようやく要約が終わった
海溝で邂逅
豪華な業
甲板で甲板をかじる
甲板で乾パンをかじる
店頭で転倒
大枚をはたいてタイ米を買う
醤油をかける人「えっっ?」
神田でした噛んだ
少食な小職
牛の胆嚢の味を堪能する
あの娘にはどう告っても(どうこくっても)慟哭する結果に終わるだろう。
キーンという高音の起因が掴めない。
こんな誤謬は秒でわかるだろ
壊疽した箇所が治るというのは絵空事だ
経口補酔液
痴的好奇心
セントーサ島に行くのは正恩が先頭さ
軽微な警備
冬眠する島民
ベットは別途用意してください
The deserted desert in desert desert.
九尾のキュービズム
罹災者へのリサイタル
画家の画架
不納が富農になるのは不能だ
理工がRICOHに利口な履行
I sensed tha it is in a sense sense.
私はそれをある面では扇子だと感じた。
鯖を食べている人と、それを見ている人の会話
鯖 ça va?
ça va 鯖
ça va
ゆめゆめゆめをみるわけにはいけない
早漏で候
凪に難儀
東上線に搭乗した東條が登場
高校を後攻で煌々と口腔で孝行
蝉が転んでセミコロン
道徳をどう説く
写真はフォトんど撮りません
ダリ「絵ぇかくのだりぃなあ」
華美な花瓶のカビに過敏に反応
檻に入っておりいった話をする
夏のおサマー
夜は寝ナイト
渦中のカチューム
渦中のカチューシャ
リスボンでリスがborn
どうないはどないなってんねん
苫小牧でてんてこ舞い
市内を復旧しないと
石狩の石を借りる
おが置いてあるのを見た人「おはおっかねぇーから置かねぇ方がいいぞ」
砂がどしゃーw
東上線に登場した東條が登場
飽きない商い
おなか吹田市
観劇で感激する
側転に挑戦し即、転倒
別件を瞥見
凹地のお家
魚を初めてみた人「うぉー」
カラヤンの頭の空やーんw
豚をぶった仏陀
只見線をタダ見w
菊名でそんなこと聞くなよ
五秒で死んで御廟に埋葬
がらんとした伽藍
有給を使いすぎて悠久の時が流れた
長谷に想いを馳せる
Thinkerの真価
不具の河豚
暗記のanxious
半世紀にわたる半生での藩政を反省
タンチョウが単調増加
ショック死内親王w
カルカッタの石軽かった
天皇のこと知ってんのー
蒋介石を紹介した商会を照会した商會の船で哨戒する
其方のソナタ
先王に洗脳される
防潮堤で膨張した傍聴人
砂漠で鯖食う鯖を裁く
筒に入った膵島
サイコロを使った心理テスト(psychological test)
カラシニコフが辛子個踏んだ
皇帝の高弟が公邸の校庭の高低差を肯定する工程に拘泥した記録を校訂
にようかで酔うか?
うるさい人が売るサイ
どんなもんだい、を、どんなムンバイ、と言い間違える人
透徹した饕餮の眼球
チャカで茶菓を破壊
slimyなすり身
ゆうほど広くない遊歩道
いにしえのイニシエーション
コーランをご高覧ください
K殻の傾角を測定する計画
協賛した共産党員に強酸をかける
負けたのは聖者の静寂のせいじゃ
裏地見るウラジミール
カミオカンデの上に紙置かんでw
県大会がおわり倦怠感を感じる
夕暮れのユーグレナ
ストライキをする公務員に呼びかける人「 Stay calm(公務)」
エド・はるみの穢
祭壇を裁断
腐卵ダースの犬
全然人が集まらないクラブの人「参加数人は我々の十八番ですから。だけに。」
四苦fuck
都バスが人を跳ね飛ばす
怒るカロテン「なにカロテンねん」
嫌がる慰安婦「いやんっ」
かえるがえる帰る蛙
沈厳な青梗菜
トリコロールの虜
布陣を組む夫人
栗けっとばすクリケット🦗
婉容と遠洋漁業
アマルガムで余るガム
ハラスメントの疑いを晴らす
滋賀を書けない人を歯牙にも掛けない
他意はないタイ人の鯛の態度
鯛が蛇足
ダジャレではない↑
割と面白い
ハラッパーの原っぱ
紫に関して思案を巡らす
Huluが夏の風物詩だと思っている人「Huluですなぁ」(風流)
下調べのムニエル
わからないので
意味ない諱
よく分からんリポーター「うわぁ〜美味しそうですね!少なくとも不味そうには全く見えません!」
どうしても下がりたくない人「黄色い線の内側は、境界を含みますか??」
計算ができない人
着ていく服を決めた高橋是清「これ着よ」
enough、enoughは工夫がenough
負け負け山(カチカチ山)
薬師丸せま子
トーマス・マンの書いたふるさと「うさぎ〜おーいし、魔の山〜♫」
その心は
焼結が猖獗を極める
これはstaleだから捨てるか
衒学的な弦楽を減額
完全な勧善懲悪
イボ人の疣痔
イブに慰撫
(訳 ぬるぬるしてるありふれた魚)
盲いるのに飯いるの?
アーヘンで阿片を吸った人「あー変」
毒吐く独白
明借りるアスカリ(車)
丁寧な砂浜「Could you九里浜」
ゴーンと奉公
その心は
サンクチュアリに山窟あり
熟れたウレタンは売れたんか?
清澄な声調を静聴し成長
プエルトリコで増える虜
象さんを増産
兄弟が今die
Dose heで始まる疑問文に答える京都人、Yea, he どす
ソフィカルのソロカル
美人局に筒持たせる
十把一絡あげ
篤信な特進が涜神を得心
これは何という植物かな?ムユウジュでは?あそっか、なるほど。
クートゥを食うとぅいいよ
マイソールで昧爽に埋葬
ドクサは毒さ
暗殺で朝死んだ
クラシックについて語る人をそしる人「弦楽なんてペダンチックだなあ」
凛々しいリリシズム
衛生的な俳人
御髪も亂とはオクシモロンだ
コロナ後の世界を分析する学問→postcoronialism
影響が色濃いイロコイ諸族
あてのあてないアテナイ
近いと思われることは良くある。
もう25年ぐらい前になるが、大学生の時に死ぬほどハマっていたパチスロをやめることができた。
きっかけは、バイト代をもらった翌日に80%ぐらいパチスロで溶かしてしまった帰りに、コンビニで小さいノートを買って、「1ヶ月だけ何の制約もせず、ただ入金と出金を記録していこう」と思ったことである。
このあと、いつものように暮らしながら、1円単位まですべての入出金を記録した(もちろんパチスロはガンガン打っていた)。
で。。。1ヶ月たった後、その小遣い帳を見ながらいろいろな集計値を出していった。
パチスロ投入合計額、金額ベースの勝率、パチスロに行った回数、、、、といろいろな値を出していたのだが、ふと気になって「こんな数値もだしてみるか」と出した値があった。
それが、「一日の最後の残高が100円未満だった日数」で、その集計値がなんと「15日」。。。
月の半分は財布に100円も入っていない日があった、というこの事実が相当ショックだったらしく、以後パチスロやるのが馬鹿らしくなった。
いまでも思い出すが、この数字を見た時に私は「・・・アホかオレは・・・」とつぶやいた。まあアホだよな。
余談だが、この後数十年の時を経て、私はデータ分析エンジニア(データサイエンティストとも言う)になった。
「将棋棋士の平均寿命は、世の中の平均よりも短い」と言うのが、なかば定説のようになっている。プロ棋士と趣味の将棋では肉体的にも精神的にも負荷がまったく違うとはいえ、将棋を普及させようとする上では、将棋界にとって少し耳の痛い話だろう。
将棋棋士の平均的寿命について - おおた 葉一郎のしょーと・しょーと・えっせい (2007年)
結果は・・67.51才である。短い!
棋士と年齢を分析する | 将棋ペンクラブログ (2014年)
全体の平均 68.5歳 (110人)
*最も長命だったのが加藤博二九段の90歳(2013年)、最も若かったのが村山聖九段の29歳(1998年)。
将棋棋士の平均寿命を調べてみた - 将棋ペンタゴン (2021年)
物故棋士は91人でその没年齢の平均は72.0歳となっています。
野月浩貴八段と藤森哲也五段の発言例も→ anond:20230124165248
しかし、これらの記事に書かれた棋士の平均寿命のようなものは、「既に死亡した棋士の死亡年齢を平均したもの」であって、いわゆる世の中で平均寿命として公表されている「今年生まれた0歳児が何歳まで生きるか」とは異なる。極端な話、江戸時代までさかのぼれば棋士の死亡年齢はもっと短くなるわけで、「過去400年間に死亡した棋士」と「今年生まれた0歳児」を比べるのは的を外している。(最初に挙げた記事のうち 将棋棋士の平均的寿命について にはいくつか但し書きも添えられているが、それでも不十分)
そこで、直接比較しやすい「死亡年齢」だけに着目して、5年ごとに区切って世の中の平均と比べてみた。
ただし、全男性の死亡年齢は、新生児の死亡なども含まれるので、特に古い時代ほど低くなりやすい。「棋士が0歳で死亡する」ことはありえないので、おおむね棋士の年齢に対応する「20歳以上」に絞った死亡年齢と比較するのがよいだろう。(棋士のプロ入り平均年齢は22.4歳)
(※1/24追記: 全男性と20歳+の計算に間違いがあり、すべて-0.5だけ下方修正しました。考察や結論に変わりはありません)
平均死亡年齢の推移:
年 | 全男性 | 20歳+ | 男性棋士 | 男性棋士の 誤差(95%) |
---|---|---|---|---|
1940年 | 54.7 | 5.2 | ||
1945年 | 61.5 | 16.9 | ||
1950年 | 41.1 | 57.8 | 61.0 | 22.0 |
1955年 | 50.0 | 61.1 | 48.5 | 10.1 |
1960年 | 55.5 | 63.3 | 43.0 | 6.0 |
1965年 | 59.3 | 64.7 | 67.8 | 6.9 |
1970年 | 61.0 | 65.3 | 64.8 | 19.5 |
1975年 | 63.1 | 66.6 | 64.6 | 8.5 |
1980年 | 65.7 | 68.1 | 69.3 | 7.0 |
1985年 | 67.4 | 69.1 | 73.5 | 6.1 |
1990年 | 69.2 | 70.5 | 72.4 | 8.8 |
1995年 | 70.4 | 71.4 | 71.3 | 6.4 |
2000年 | 71.4 | 72.1 | 68.2 | 16.4 |
2005年 | 73.3 | 73.7 | 66.1 | 10.1 |
2010年 | 75.1 | 75.5 | 73.8 | 8.8 |
2015年 | 76.9 | 77.2 | 81.3 | 6.4 |
2020年 | 78.4 | 78.6 | 78.9 | 6.9 |
グラフ:
こうしてみると、誤差は大きいものの、「将棋棋士の平均寿命は、世の中の平均よりも短い」という定説は、妥当ではないと言える。もっとも、1960年や2005年ごろにかけては世の中の推移に逆行して若くして亡くなる棋士が多かったため、誤った定説を生み出しやすい環境だったとは言えるかもしれない。
※ 政府の統計は5歳ずつの階級を中間値で平均して求めた(たとえば80-84歳での死亡を一律で82歳とみなしている)。新生児と高齢者は本来の死亡年齢より高く、それ以外は低く算出されやすいが、結果的にある程度相殺される。
※ 政府の統計は「その年」に死亡した男性だが、男性棋士の統計は「その年の前後5年(2020年なら2018-2022年)」に死亡した男性棋士である。
※ 政府も棋士も誕生日までは考慮していないので、「80歳と11ヵ月」で死亡しても80.0歳として計算される。(どうしても平均寿命と比べたいなら、+0.5するとよいが、本来は人口ピラミッドの影響も差し引かなくてはならない)
ちなみに囲碁棋士は女性も含んだリストしかなかったが、特に将棋棋士に比べて大差あるわけではなかった。
先日ニュージーランドの首相ことジャシンダ・アーダーンが辞任をしたのだが、それに伴って海外のメディアではいかに彼女が素晴らしい首相であったか、いかに国民目線で物を語っていたか、というような記事が散見されているが、はっきり言うが特に国民目線ではなかった。ニュージーランドの名誉のために書いておいたほうが良い気がしたので書くことにする。
noteだったり増田に書いたりしているが特に理由もなくなんとなく開いた方に書いている。
今回は彼女が以下に悪辣な独裁者であったかを説明するのではなく、ニュージーランドにおいて「国民目線」というのは存在しないという話をしようと思う。
ただ、あえて一つ言うならば彼女はいかに自分が国民目線で政治をしているかを表現する能力が高かったと言えるだろう。ようはポピュリストであり、最大公約数的に人々の機嫌を取ることが上手だったと言っても良いかもしれない。
人々はゆでガエルのようにじわじわと悲惨な状況に送り込まれていたことに政権末期に気づいたという方が良いかもしれない。おせえよ、ニュージーランド。
彼女が首相になってから6年、ニュージーランドは明らかに分断が進み、治安も恐ろしく悪くなったので、少なくとも素晴らしい政治家ではなかった。
そもそも多文化国家である新興国家ニュージーランドにはまだ「国民」と言うべき存在はいないと言ったほうが良いだろう。
建国当時にイギリスから来た人々がニュージーランド人かといえばそんなことはなく、やはりイギリス人としてニュージーランドにいたが、産業革命のブラック労働だけは嫌だと言っていたくらいの違いはある。
中国人はやはり中国人だしアメリカ人もやはりアメリカ人だ、いろいろな国の人々がそれぞれのコミュニティを作って共存している国家という見方が正しい。
かつてジョン・キー元首相がニュージーランドファーストのウィンストン・ピータースが「中国人やオーストラリア人が不動産を買い漁るせいでキウィ(ニュージーランド人は自分たちをそう呼んでいる)が家を買うことができない」と問題提起したときに、「このニュージーランドにおいて何を持ってキウィとするかは全く明確ではない(そのため外国人に不動産を買い漁られたとしてもうまく解決する方法を見つけることは困難だ)」という答弁をしたことがある。結局Resident VISA以上のビザがあるかで不動産購入の可否が決められるというなんとも乱暴で抜け穴だらけのルールになった。
移民国家であるニュージーランドには様々なビザを持って滞在している人がいる。
観光ビザを持って入国したからと言って旅行が終わったらそのまま帰国するとも限らないような国だ、何ならそのまま学生ビザを取得して留学をしたりする場合もあるし、投資目的の視察で来ている人もいる。
ワークビザを持っているからと言っても働く意志があるとも限らないし、永住権をとっても永住する気がない人もいるし、そもそも市民権を持つ人のかなりの割合がニュージーランドに住んでいない。
つまり、「この国にいる人々を明確にキウィとそれ以外に分けることは非常に難しい」ということでもあり、それはそのまま「この国では国民を定義することが非常に困難であり実質的に不可能である」ということでもある。
そのため、多くの人が彼女に対してする評価の一つである「国民目線の政治家」というのは一体誰の目線なのかもわからないということであり、そういう意味では国民目線の政治家は存在しようがない。
そういうわけで「国民目線の政治家」という表現が適切な政治家は少なくともこの国にはいないと言ったほうが良いと思っている。
もっと言うならば「ニュージーランドの文化」というものも存在しない。マオリ文化はニュージーランドではなんだかんだと排除されているし、イギリス文化をニュージーランドに適合させようとしているわけでもない。様々な国々の文化が溶け合って一つの文化を醸成するにはまだ時間がかかることだろう。
それでは国民目線と言っている人たちは何を持って国民目線と言っているかだ。
ジャシンダ・アーダーンは極左であることは割と有名な話であり、国際社会主義青年同盟の委員長まで努めたほどの筋金入りだ。
大学ではかつてプロパガンダと呼ばれたパブリックリレーションズを学んでおり、政治とプロパガンダを組み合わせることは容易な上に筋金入りの左翼であることを考えるなら、一体誰の目線に立っているのかというのはわかるかもしれないが、その誰かをここで勝手な予測に基づいて書くと恐ろしいことが起きるかもしれないから書かない。
先日就任した新首相のクリス・ヒプキンスは、「ジャシンダ・アーダーンにぶつけられた様々な攻撃を容認しない」と言っており、一体どこまでを「攻撃」とみなしていたのかは範囲が不明なため少々恐ろしい発言とも取れる。
実際に彼女に対する殺害予告だとか、事務所に刀剣が投げ込まれる事件なども政権末期には発生していたのだが、彼らを単にジャシンダ憎しのミサンドリーだと切って捨てるのではなく分析はしたほうが良いのではないかと思うが、クリス・ヒプキンスの来歴はわからないが、全体的な雰囲気からジャシンダ・アーダーンとは息が合いそうだ。
ちなみにニュージーランドの申し子とまで言った人がいるようだが、ニュージーランドの申し子なのだとしたら、ガチガチのキリスト教徒であるはずだし、キリスト教文化を破壊する人々を容赦なく排除したことだろう。
ライトノベルの作者が文学者として語られないのが腑に落ちない。
ライトノベル滅多斬りのようなそれに特化した書籍ならともかく、国語辞典や百科事典に載ってる人が全然いないわけだ。
特化した本では語られていてそうでない本では他のジャンルと同じ割合だけでもなく全然言及されないというこの状況は世間にとってラノベの価値は井の蛙的なものであるということを物語っているのではないだろうか。
後にも述べるがいまやラノベは純文学以上に熱烈な支持者は多いように思う。
が、そもそも本に対する愛着やこだわり自体あまりなく暇だったり必要に応じて読んでいるという人が、蝸牛の争いのような両者に比して圧倒的多数だと仮定するなら、権威ある事典などにラノベではなく純文学の作者について語られていれば浮動票のようにそちらの方が優れていると考えるだろう。あるいは世間一般の人がそれがなんとなくであるにすれラノベより純文学の方が優れているという考えを持っていることの現われなのかもしれない。
このような単にラノベが純文学より劣っているという考えは何の普遍性もない(無根拠な)価値判断が来ているのだろうか。
正直私にはたとえば恋愛を扱ったものに関してラノベと純文学で読後感という点で違いを見出せなかった。
ラノベ、魅力的な都合のいい異性を描いて娯楽に供させる。
一方で純文学、シェイクスピアのハムレットなんか見てみるわけだが、異性が魅力的でないこと以外読み物としては両者ともそれぞれ違った(優劣ではなく)面白さがあるだけで差を感じられなかった。
ブリタニカ百科事典先生によると、文学は芸術の一つで、芸術には美の要素があることが要件らしい。
逆に言えばより美しく、芸術性が高い作品が文学としてより優れたものなのだということになりそうだ。
でもそれじゃあ美ってなんだよって話になる。ラノベに書かれてることは美しくなくてシェイクスピアは美しいと頭ごなしに言われてにわかに納得できるか?ラノベ好きなら教条主義的な人以外そんなことを思考停止して受け入れるのは無理な話だろう。
文学といえばよくそのメッセージ性が問題にされているとは思う。
文学作品の物語、プロット、筋というのは何か崇高なことを訴えていることが期待されるものだ。
その点ラノベにとって物語というのは登場人物すなわち読者にとっての異性をより魅力的に見せるための小道具、オタク的に言えばシチュとしての役目しか持たされていないのかもしれない。
あるいは訴えることがあるにしても評価されている純文学のそれに比べれば余りにも素朴で浅はかなものなのかもしれない。
しかしそれがなんだと言うのだろう。
そのラノベを開くとマッチ売りの少女のように脳内に魅力的な異性が立ち現れてくる、そこに価値を見出している人が確かにいるのだからそれもまた確かに「価値」じゃないか。
むしろ紙の本が売れなくなっているこのご時世には電子出版と相性がいい漫画と同じくラノベのほうがそれ以外の小説よりよく読まれているのではなかろうか。
価値に対して人間が万物の尺度であってかつ尺度の多数決によってその度合いが最終的に定まるものなら純文学よりもラノベのほうが価値が高く優れているということになりそうなものである。
またどれだけ異性を魅力的に描けているかということならまだ美という観念にも通じるものがあるように思え、その作品の美しさを論じる余地があるように思える。
他方、ガリバー旅行記は人間社会の不条理さや醜悪さをこれでもかと抉り取った大人の読み物らしい。
そういうメッセージ、風刺、アンチテーゼの質が文学作品の重要な評価軸になっているようには思う。シェイクスピアも漏れなくその点で評価されているのだろう。
こうしたメッセージ等の価値というのはそれが真理を示しているか、生きる指針として役立つか、ということ等にあるのであって、これは美しさという尺度でどうこう論じれるものではないと思う。
たとえていうなら匂いについて判読性が高いかどうか論じようとするようなものだ。嗅覚上の情報に視覚に関係する尺度をあてがってもどうにもならない。
あるいは文学には描写そのものの美しさというものも見出すことが当然できよう。
その最たるものが詩だろう。
それは単純に視覚的に美的なものを描く、あるいはレトリックの巧みさという形で体現されるはずだ。
そういう詩的要素が散文においても存在するなら、その散文すなわち小説などは美しさを帯びていることになり文学の要件を満たしうるはずだ。
しかし文学からそういった詩的な要素に対してメッセージ性というものは論理の次元にあるものなのだから、そういう詩的フリンジを取り去ってもメッセージ性は保存されるはずである。
その文学作品が何を訴えているかということがノーベル賞においてすら重要な評価軸になっているのだから、詩的フリンジの有無はその文学的価値にとってさしたる要素ではない考えられるのだ。
文学の価値は何を訴えているかにあるはずなのにそこには文学の要件たる美がないとしか思われないのだから訳が分からない。
結局辞書の言っていることを手がかりに形而上的に考えても埒が明かないのかもしれない。
とはいえ主観のおもむくままに考えてみてもおそらく月並みな見解しか沸いてこないだろう。
それを承知で述べてみるなら、まず文学作品と呼ばれるようなものは限られた人しか楽しめない。少なくとも文盲や知的障がい者には荷が重い。
だからその価値判断というのはその限られた人の価値観に偏ったものになるはずだ。
知的エリートはそうでない人に比べ収入が高い傾向にあること言うまでも無い。
ただの女たらしが「紀州のドンファン」と一目置かれた称号を得るのも然り、財力があれば世間に対する存在感ひいては発言力も増すという俗物的な構造はまだまだ根強いと思われる。そうでなくても知的エリートは社会的地位が高い傾向がある。
そういうわけで彼らの考えは権威を帯びる。
ただそれだけなら楽しめる作品が多いというだけの話なのである傾向を持った作品ばかりが知的エリートに推されるということの説明にはなっていないはずだ。
彼らはより知的でなければ読めない作品に、自分を飾る嗜みとして、価値を見出すのだ。
なのでラノベではなくてそういう作品が、そういう作品の作者のほうが優れているという考えや言論が幅を利かせることになるのではないか。
教養とか皆無でもさっくり気楽に楽しめるようなものを尊んでいるのでは格好がつかない。それでは凡百と同じなのだ。
以上をひっくるめれば、彼らは美しい作品ではなく、強靭な教養や知性という顎でもってはじめて噛むことができるスルメ的な面白さがあるかどうかで価値を判断している。
そしてそれが権威ある辞書や事典の記述を通して本に対してさほどこだわりのない圧倒的多数の一般大衆に浸透し、そうしてラノベは純文学に対して劣ったものという既成観念が形成される。
月並みなばかりでなくいかにもルサンチマンに満ちた見解になっているとは思うが、そういうことなのではないか。
似たような話でアニメはドラマや実写映画より劣ったもの扱いされているということがあるだろう。
昔の大衆の娯楽だったものは今は高尚なものとして扱われるというパターンがあるけれど映画は割りと初めのほうから芸術的に価値あるものたりうると認識されていたような印象がある。
逆にアニメはジブリが(ガンダムなんかも?)例外なだけで今日まで芸術性が認められてないゆえにどこまでも映画に劣った娯楽作としか見られていないように思う。
さらに時間が経てば歌舞伎や浮世絵のように芸術として見られるようになるとはにわかに考えにくいのだ。
実はこの文章の原稿はいっぺんに書いているのではなく日をまたいで書いてるので、その間に得た知識によっては文章に反映されていくものもある。
その一つとして先ほど偶然知ったのは、大衆文学には少年少女小説、つまりほぼラノベと同義と捉えても差し支えない概念も含まれるということだ。
ただし付け加えていうなら大衆文学には純文学に対して価値が劣ったという含意がある。となるとこれはむしろラノベは劣ったものであるとう認識が存在する傍証になってしまったようだ。
本当のところはうだうだ言う前に早い話がもっとラノベと純文学をバランスよく読めば自ずと両者の面白さ以外の違いも分かって疑問も解決に向かうかもしれない。
しかし私はラノベもそれ以外も小説というもの自体平等にあまり読んでないので、今更自ずと分かるまで両者を読みまくって分析する気までは起こらない。
好きでもないジャンルの本を読むのは受験勉強に等しく苦痛だ。私はただなぜラノベ作者が純文学作者と比べ評価されたり公の場で対等に紹介されたりしないのか知りたいだけだから、私自身が苦痛を味わうまでもなく両者を愛読していて答えを知っている人に教えてもらう方が合理的に決まっている。
知恵袋にも質問の体をしているがその実は女がしがちな「どうしていっちゃうの?」式の不満に対する詰問でしか内容の投稿が多くあるが、結局風潮への反感が、反感は反問を生むという素朴な力学が私にその理由を知りたがらせているわけだろう。当然ここにも答えを知っているものがいるならばその提示を望むものである。
また私は私でただの判官贔屓かもしれないけれども、メーンカルチャーに属するコンテンツに対する感想が溢れるなかでブログや増田に埋もれたラノベやアニメの感想記事があったら、その飾らない感性とのその一期一会に感謝し、その価値観を慈しむことでこの世間の風潮に対抗しているつもりなのだが、それをこれからも続けていくつもりだ。
アラサーになってようやく仕事がある程度落ち着いたので彼氏を作ろうと思い立ったんだけど
今までそういうものと無縁過ぎたせいなのか複雑怪奇過ぎてもう諦めようかなってなっている
当たり前のように出てくる「脈ありサイン」「脈なしサイン」という言葉がもう理解できなさすぎる
何が脈ありなのかなしなのかが事細かに決まっていてそのルールから外れたら一発アウトな世界っていうのが自分のような大雑把な人間には無理すぎる
本当にみんなこんな面倒臭い事をやっているんだろうか…
恋愛ってそんな、脈のあるなしとかいちいち考えてするものなの?これまで漫画やドラマで見てきた恋愛っていちいち脈のあるなしとか考えずに普通に告白していた気がするし
それで駄目なら駄目でいいって世界だったような
自分の周りで結婚した人達を見てもいちいちそんな脈のあるなしとか事細かに分析して判断してはいないようなんだけど…
それとも無意識にやってるって事なのかな
とにかく複雑怪奇でレベルの高い世界過ぎてもう無理ってなってる
そうなんだ。
前半でもりもりに書きすぎて、字数制限で最後のほう言及が浅くなってしまったんだけど、
「ユニコーンに乗って」「ファーストペンギン」など、いわゆるキラキラ起業女子にまつわる話は、
現実社会では、承認欲求に飢えた主婦層につけこんで罠にはめる一方で、未知数なところがある、とも思っている。
+++
それにしてもひとたびブコメが付き始めると、雑に書いていた部分に一つ一つツッコミが入り、ほとんどがもっともだと思う反応だったり、ドラマをみるいいヒントだったりするんだけど、たまに、え?そこをツッコミますか?という反応もあったりする。向田邦子死去は81年だとか、いいじゃん、そんなこと。気晴らしに増田に書きなぐっただけなんでそんなに厳しくつっこまんでもとも思う。
後半グダグダになったというブコメがちらほら。そのとおり。途中からロールモデル論にすり替わり、そのあげく結論を急いだ。
女性の生き方の多様化・細分化、メディアの多様化。そのとおり。特にメディアはマスではなくなってニッチなものをネタにするようになった。
大映ドラマの影響。そうかも。読んだ評論は日本文化の流入制限下のなか、初めて触れたのがトレンディドラマだった、という分析だったのを覚えていたので。だけど大映ドラマの影響もあったかもしれない。しかし改めて量産されている韓国の時代物(トンイに代表される)などをみると、あの男女の世界観は完成され過ぎていて揺らぎのないものだったりする。それは輸入されたものではなく固有の文化だなあとも。