はてなキーワード: ゲーテとは
結婚している同僚がいた。
しかし彼は所帯持ちであることを公言しながらも妻についてのことは一度も口にしたことがなかった。
そこで何度目かの飲み会の席で、俺は思い切って聞いてみた。
すると彼は酔いが覚めた様子でもごもごと喋ることを渋り、俺は酔いに任せてさらに聞いた。
彼は口篭るように「各家庭にはそれぞれの不幸がある、といったのはゲーテでしたかね?」と云った。
要領を掴めず話を促すと、彼は淡々としゃべり始めた。
そんな完璧超人のような奥さんがいるとはと驚き、今度会ってみたいなと軽い気持ちで呟いた。
すると同僚は「そうです、そういうことなんです!」と身を乗り出して俺に迫った。
気性の荒いところを初めて見たので驚き「お、おう…」と生返事を返すと同僚はため息を吐いた。
この話をすると必ず会わせてくれって言われるんです、と同僚は云う。
俺は慌てて否定した。
別にとって喰おうってわけじゃない。ただ一目見てみたいだけなんだ、と。
実際邪な気持ちはなかったし、というか人の奥さんを狙おうなんていう不届きな社会人は現実にそう居ない。
なんてことを言いたいんですよね?と同僚は俺の心を読み取ったかのように云い、俺は目を瞬いた。
気付くと俺は眠っていて、酔いつぶれたらしい。
夜中に目が覚めげーげー吐き、便座に座った時に顔を上げ自宅に居ることを知った。
翌週、同僚は涼しい顔をして俺に挨拶をすると耳元でささやいた。
「覚えていますか?」と彼は云った。
俺は新しいワイシャツを着ていた。
それは糊がきいて、パリッとしていた。
「活動的な馬鹿より恐ろしいものはない」や「真に恐れるべきは有能な敵ではなく無能な味方である」みたいな言葉をやたら好む人いるよね。
出典がナポレオンとかゲーテとか言われてるから調べてみたけどいずれも出典がない。
よっぽど周りに足を引っ張られてると感じてるのか知らんが、この言葉を好む人の方が問題があるんじゃないか?とふと思ってしまった。どういう人が使ってるのだろうか。
ナポレオンの言葉だとは断言できないとして堂々とwikipediaにも登録してしまった疑惑の格言。
ナポレオンは濡れ衣だと思うが石原慎太郎が都知事時代に政府のことを指して引用している。
ネットで調べて感心したのがwikipediaのクルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルトの項目。これが真相だと思う。つまり元々軍事ジョークみたいな扱いで、軍事ヲタが面白がってたのがいつの間にか広まってしまったのだろう。
この記事https://wezz-y.com/archives/74014は一応真面目に出典探して見つからなかったのにたどり着いた結論がおかしいのでは。格言でもなんでもないがべつにいいのだと開き直ってるとも言える。
ゲーテの言葉としての引用プログは大量にあるし、ドイツ語原文まであるのにwikipediaにすら書けないほど怪しい格言。偉人の架空の名言ジョークだと言うならそれでいいのだが「おやおや?」という人まで大真面目に引用して活動的なバカを憂いてくれている。適菜収という人はゲーテの本まで出してるけど真面目な研究書ならこれを出典にできるはずだが・・・。ちなみに適菜が得意げにこの言葉を引用していた対談の相手が呉智英だった。たしかに先代のバカバカ言う人、とでもいえる人物なので編集部がマッチアップさせたのだろうがあれだけ俗流教養を批判してた人なのでちと残念ではある。
数学を研究するといいメリットは、到達不可能なものを提示しているので、驚愕的な手段を繰り返し、組み合わせるなどによって、お前がしたいことの邪魔に到達できる可能性の
モデルを提示するものとしてその体系や構造を研究する意義がある。
また単なる趣味としても、数学は人類が到達できないことを成し遂げているとしてゲーテも絶賛しているし、やるに越したことはない。
なるだけ完全無欠なものを手段として用意し、適切に発動することを繰り返すと、誰も寄せ付けない高みに到達することを教える点でも参考になる。
しかしこれは東京大学理学部数学科の主導することで、警察の主導になるものではない。
また、FLTは、 メイザーによる、初等幾何学的直観により、 very クラシカル、 very well-known な完全無欠な方法によってエレガントに到達されたので、
この、 very クラシック、very well-knownなものはあらゆる正解を教えるし、子供にばらしても流行る可能性がある。
数学において スパコンでも到達できないような問題に対して人類はなぜ到達できるかというと、いかに難しい定理でも神がそこに到達するための技術を用意してるからですが、
まれに決定不可能性などの問題で決定不可能ではないかなどを議論されることがあるがそれはここではどうでもいいとして、要するに、ちゃんとした由緒正しいK群からなる群のような
ものを用意しておいてそれらに有能性をもたせられれば場合によっては届くことがあるからで問題はそういうものをどんどん教科書に書いて問題に使えるかどうかを検討していけばやがて
届くわけですがその際に、もう届くようになっているので、フェルマー予想もちゃんと由緒正しいものが最後に出てきてちゃんとできたので、あのゲーテも数学は人類が到達できないことに
到達できているとして絶賛していたがそういうことを子供が聞いたら普通は喜ぶと思いますよ。ただし届かないとか無理だろうと思われた段階で、実は届いたということにならないと
全然面白くないと思いますがね。但しのその際に必要なのは神を信じることと、いかに真面目に勉強するかということと、いかに美しいものを発見しようと思うかどうかなのでお前のような
ゲスにはむりだよ。やる気もねーし。フェルマー予想は、 正則でない素数 67等に対して、決定不可能で最後まで残ったんだけど、全部証明されたから、67の場合も存在しないことが
いえたし、無限降下法が発動しないと思われてどうにもならないと思われていた17,19,23、29とかでも全部できた。
赤羽のタワマンというのですか、タワマンって自転車で行けば分かると思うのですが、でかいものなんですよね。まず、なんで、でかいのか、ということで、人間の発達機序とはどういうものか?
日本人は赤ちゃんのときは非常に醜悪で弱くて破綻しそうになるが、ではどういうことをすると、そんなに大きなものになるのか?
江戸時代の武家屋敷から、タワマンになるまでにはかなりの距離があると思いますが人類はなんで、屋敷をタワマンにしようと思うのか、その辺が分からない
それにしても東京にあるものはなんでこうもでかいのか?さらに、赤ちゃんのときの日本人が何をするとそこまで大きくなれるのか?大きくなろうとするからするのか、古典的な成長という意味では
ハーディ空間で有名な数学者のハーディが言っているように数学の偉大な定理は驚愕の一要素から生じていると言ってますが、驚愕ってなにかというと、ただ驚くだけでなく、
真に驚くっていうんですか、天を衝くというのですか、ゲーテは、驚きは人類の最上の部分であるといって、驚愕のように激しく天を衝くことについては特に言っていない。
ただし、素数の中に等差数列のセットが完全に入っていたらそんな感じではないかと思うがよく分からない。
美しいというときに何が美しいのかは分からないが、 新しい、普遍性があって強固な有能性をそなえてるというんですか、それも美しいっていうらしいですが
天を衝ているということもそういうらしいですからね、それと一刀両断とか必要最小限でやるとかね。ABC予想は一般に、それがあると重要定理を一気に演出するので
有能であると言われるが、そういえば三平方の定理の証明は、実質は、シンメトリー&キャンセルなので、 23年前は、中島礼香はその全部を備えているとか、それ以外の芸能人でも
数学の課題を解くときはたいていの場合、定理(THEOREM)は自分で発見して証明するもので、定理自体は真実の深い愛のところから探るもので、それに対してそれの証明は
自明ないし陳腐な場合以外は、アイデアであるので、そのアイデアは着想であり、それを確定させていって、最終的なものに到達するというような構成の体系となっている。
このような構成は全ての学問に同じように認められるので、数学のもっとも理想的な論文はそのまま形而下の学術に対して用いられる。
ゲーテは最初から、人間に与えられる最大のものは驚きであると言っているので驚きを言い換えたものでそれを美しいというのですが、東京23区ってやたらと大きすぎて理解できないものが
あると思いますが昭和の人が驚きすぎたのですね。やるところまでやったから出来たのではないかと思うが。ところで、ぺちぐらいになると、とか、ぺちがままんから認められてフォロワーが19万人
になっていた時代があったのって結局、ぺちぐらいになると、それくらいのことが出来るので、しかし、ざちゃんは、できなくてもいいという見解を持つ学者か警察官なので、ままんは、出来ないものを
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分からないですね。
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で、こんま目標が、警察が何もできないようにするというかですね、しようと思ってもできない状態を作るというか、こう、そういう世界を作るというときの劇というか、欲しいのは結論だけで
そういえばなんで哲学って、 欲しい結論は予想されるだけで、構成しなきゃいけないのですかね。
確かに、哲学的に、法則的支持って重要だと思うのですが、人間って一般に結論が欲しいだけなんですね。確かにゲーテも、法則しか自由を与えないと言ってるので、まあ、
警察というんですか、特に、奥秋とか村田ですね、なんでもいいですが、警察は警察が、何もできない、という命題をいるわけですね。
ゲーテが書いた詩集というのは、昭和30年代頃に日本の文学者がまとめた奴を晴生が持っていて高校生時代にまあなんともなく横に置いておいたが、そこには正解が書いてあるようにも
見えたし、くそつまんねー見解だなという見解と半分だったのですね。で、そこに何が書いてあったかというと、ローマン的なものはクソで、古典的なものは強いとかですかね。
それとまあ色々あったと思いますが、有用なものから真を通して美へいきなさいとか、驚きは人生の最上の部分であるとかね。ただしゲーテは、技術的な見解は何も書いていなくて、
それ以外にも何も書いてなかったですね。一番最後には、もはや愛しもせねば迷いもしないものは埋葬してもらえとかね。
あとはそうですね、人生の目的は生きることであって生きた結果ではない、とか。 人間に与えられる最大のものは驚きであってその後ろにはなにもねえとかですかね。
それと、人間だけが不可能なことをなしうるとか、神はいるとか、 えー、可能なものの限界は図れないから希望する方がいいとかですかね。それだけなんか、人間はやたらなんでもできると書いてあった
ような気がしますね。
わたしが大体この者がほとんど正しいことを言っているだろうと信じている詩人に、ヨハン=ヴォルフガング=ギェエテがいますが、この詩人が言っている人類の人生哲学みたいなものとして
真理は深いところにあるのでそれを見つけるのは誰でもできるものではないとか、ただ、ゲーテは、数学について、私が一番数学をバカにしてるように見えるが、私は数学を一番尊敬している、
なぜなら数学は私が成し遂げられないことをできているからだと別の本で述べている。それから、古代の数学者について、やはり幾何学をしない者は論外であると言っているし、ただしそれは
数学者であることを意味しないとかね。ユークリッドの初等幾何学は、公理公準(Axiom)っていうんですかそれから成り立っていてちゃんと一つの分野になっていて大量に問題があるという
ことで。あとそれ以外にも、人類が到達できる最大のものは驚愕であるとか人生の正解みたいなのを全部言ってるので詩集は読んだ方がいいと思いますが。それとゲーテは、法律学が大嫌い
なそうですね。シラーもそうですがローマ法大全は悪魔の書物であると。その理由として人間に対する猜疑心が強すぎるといっている。ゲーテは法律学に対して詩集でほとんど何も言っていない。
法律学については、碧海純一という法哲学者が昔東京にいたんですが、2003年に死んでるんですね。それ以外にもラートブルフとか色々いるらしいですが文部科学省の金森越哉が相当前
に、法律学は法的安定性と具体的妥当性の調整であるというエッセイをインターネットに掲載していて、それから、東大の憲法学の教授もまあ基本書でそう書いているし、LECのプロヴィデンス
にも、法律ってのは基礎的に幾何学のインターセクションと同じでとにかく決めておくことに価値があるといっているしね。2005年発売の法学入門では、法律は専門技術的であると書いてあって
それ以上のことは書いていない。私が民事訴訟法の判例を読んでいた時に、最高裁判例で、やたら、このように解しないと法的安定性を害するという文章が出てきて、それだけ実務法律学は
技術性が高いし難しいと思っていてその時は何を言っているのか分からなかった。また憲法に関する最高裁判例でも、別に、正義、道徳、合目的性が法の目的の1つであると判示したものが