はてなキーワード: 作品とは
変な趣味つーか性癖で言うなら吸血鬼の吸血シーンがものすごいエロを感じる
いや吸血鬼じゃなくてもそういうシーン(エナジードレイン的なやつ)にやたらエッチさを感じるけど、世の中の作品見てる限り別にそのシーンはエロ判定になってない
なんか吸い取られるのにエロさ感じるのかと言われると、搾精シチュには感じないエロティシズムなんだよな
吸血シーンがエッチな作品はいつでも募集中なので是非とも教えてほしい この世はまだレッドオーシャンなのではないかと踏んでいる
〜追記〜
わかりました!!!!!
「アーコロジー」という言葉に行き着き、アーコロジーの出てくる主要作品に『シャングリ・ラ』が載っていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%BC
ちなみに、講談社文庫だと思ったけど角川文庫だった。文字の大きなところが似てたから講談社文庫として覚えてた。
返信してくれた人、探そうとしてくれた人、ありがとうね。
〜追記ここまで〜
少なくとも10年以上、貴志祐介の『新世界より』と勝手に思い込んでたのだが、ググったら全く違うっぽい……w
違うとわかったら、めちゃくちゃ気になってきて、昨夜、徹夜で調べたけど見つからない……。
わかったら教えて下さい!!!!!
現実の戦争においても、正々堂々とフェアに戦い、技量精神に優れ恩寵に恵まれた者が勝利し栄光に浴する、っていうスポーツとしての側面を持っていたり、理不尽に暴力に訴えてきた敵から味方を守るための防衛戦争については、批判されること無く賛美されてきている訳で、そもそも最初から賛美される戦争のあり方というものがあった。
それと同時に、どれほど正当性のある理由を持つ戦争であっても、そこで死ぬ兵士にとって戦場が地獄であることには何も変わりはなく、その地獄に賛美されるべき対象は戦友愛くらいしか見つからないというのも現実であり、そのどちらにも目配りのある作品が俺は好きであるし、少なくともファーストガンダムにその目配りはあっただろう。
https://yonosuke.net/eguchi/archives/16363で「キモくて金のないおっさん」という言葉を久々に目にし、かつて別のところで書いたこんな文章を思い出して再掲。
http://wezz-y.com/archives/50640
この文章があまりに酷いので、誰か一人くらいどこが酷いのか指摘しておくべきじゃないかと思いました。北村紗衣さんという方の文章で、書籍にも収録されています。
「キモくて金のないおっさん」というネット用語がある。キモくて金のないおっさんには誰も注目しないじゃないか、という異議申し立てのための言葉である。しかし、文学はずっと昔から「キモくて金のないおっさん」を扱ってきたので、その中から特に2作を紹介する。というのが上記文章の趣旨です。
取り上げられているのはスタインベックの『二十日鼠と人間」とチェーホフの『ワーニャおじさん』です。ここで問題にしたいのは『ワーニャおじさん』の方です。ワーニャおじさんを「キモくて金のないおっさん」の一例として扱うのはシンプルに間違っているし、そもそも作品を誤った形で紹介しているし、チェーホフにも『ワーニャおじさん』にも「キモくて金のないおっさん」にも失礼だ、というのが私が以下言いたいことです。
「キモくて金のないおっさん」という、そもそも定義が曖昧というか、明確な定義なんかあるわけない用語の意味するところには不毛なので立ち入りません。シンプルに「キモい」「金がない」「おっさん」という3つの要件にわけ、それに『ワーニャ伯父さん』の主人公ワーニャさんがあてはまるかのみを問題にしてみます。
まず、作中年齢47歳のワーニャが「おっさん」にあてはまること、これは間違いありません。
一方、上記文章中でも一応断りはありますが、ワーニャが「金がない」は明らかに無理があります。理由は単純、ワーニャは19世紀末ロシアの地主階級の人間で、実際に相応の広さの地所を管理し、その地所からの上がりで食っている人間だからです。地主階級の中では決して経済的に恵まれている状況ではないことは作中で描写されていますが、社会全体の中で見れば断じて「金がない」人間ではない。
ある頃までの文学は基本的にブルジョアのものであり、働かなくても食っていける人間しか出てこない作品も多いのは事実です。その中で比べれば、ワーニャは相対的には「金がない」かもしれない。でも、チェーホフという人は自身が3代前まで農奴の身分で、父親は破産し、短編小説を書き出したのも家族を養うため、作家兼医師として働きづめの人生を送り、作品の題材の多くをロシアの普通の人々に求めた作家でした。日々働いてもぎりぎりの生活しか送れない人を主人公に据えた短編小説をたくさん書いていますし、そもそも『ワーニャおじさん』中にも地所で働く下層階級民の姿はきちんと描写されています。チェーホフの描いた世界全体の中でも、『ワーニャおじさん』という作品単体中でも、ワーニャは断じて「金がない」人間ではないのです。チェーホフはそのような意図でワーニャを描いていないし、実際、作品中でもそのような存在とはなっていない。まずこの点で、ワーニャが「キモくて金のないおっさん」だというのは明らかに間違っています。ワーニャが「金のないおっさん」なら、港区の地主の息子だって「金のないおっさん」になってしまいます。
「金がない」点については、北村さんも文中で触れているのでまあいいです(ただし、なぜ「金がある」人間を「金がない」扱いするのかという説明にはなっていません。「金がある」人間は「金がない」人間ではありません。)。はるかに酷いのはワーニャを「キモい」にあてはまる存在だとしている点です。先に断っておくと、チェーホフは多くの作品で美点を見出しがたい人間を取り上げ、そのような人物に対しても何らかの同情の念を読者に起こさせてきた、これは事実だと思います。でも、『ワーニャおじさん』におけるワーニャはそもそもそのような人物ではない。単純に言ってしまえば、ワーニャは「キモい」人物としては描かれていないのです。
文章中、ワーニャが「キモい」理由として具体的に取り上げられているのは、実は「エレーナに10年前(20年前は誤記です)に求婚していれば、エレーナは今ごろ俺の妻だったかもしれないのに…」と妄想していたという1点だけです。北村さん自ら書いていますが、そもそもこれは妄想であり独白です。この後、確かにワーニャは人妻であるエレーナに愛を告白しますが、別に上記のような妄想を彼女にぶつけたわけではありません。北村さんがワーニャより上等な人間であるとするアーストロフだって、エレーナに告白します。妄想を膨らませた程度のことで「いわゆるキモいおっさんであることを残酷なまでに明らかにしています」は作品の解釈として明らかに飛躍があり過ぎます。
ワーニャが「キモい」存在であることの根拠を一箇所しか上げないかわりに、北村さんの文章は、随所随所に読者がワーニャに対し「キモい」という感情を抱いてしまうような主観的な描写をはさんできます。
北村さんはワーニャの結末について、「財産のことで逆上して大騒ぎ」したと書きます。確かに、ワーニャと教授の間で財産について争いが起こり、ワーニャは教授をピストルで撃とうとします。でも、「逆上して大騒ぎ」という書き方は、普通に読めばワーニャが自身に理のないことで勝手に騒いだかののような書き方です。でも、そうでしょうか。
事実関係を整理すると、問題の地所の物語時点での名義人は、教授と先妻の間の娘であり、ワーニャの姪であるソーニャです。ソーニャは地所を母(教授の先妻)から相続しました。ロシアの法制度に詳しいわけではありませんが、多くの国の例に漏れず、その頃のロシアも夫婦別産制だったはずです。つまり、婚姻期間中も土地は妻の単独名義であり、妻が亡くなった際にも配偶者には相続の権利はない。相続権があるのは子だけです。要は、教授は地所についてはまったくの無権利者なのです。
もともと地所を購入したのは先妻の父(ソーニャの祖父)で、娘が教授のところに嫁ぐ際の持参金として土地を購入しました。土地の購入代金を一括で支払うのは厳しかったので、一部は借金しました。その借金はワーニャが土地の上がりから返済しました。地所の管理は、現在はワーニャとソーニャが2人で行なっていますが、借金はソーニャが生まれる前のことなので、借金返済のために立ち働いたのは基本的にワーニャです。
先妻の父が死に、ワーニャの妹が土地の所有権を相続し、名実ともに妹の土地になりました。その際、ワーニャは自身の相続分を放棄し、妹に単独で相続させてあげています。その妹も亡くなり、ただ1人の子であるソーニャが相続した、という経緯です。
ソーニャの所有する地所を、ワーニャとソーニャが2人で管理し、2人は上がった利益の中から教授に長く仕送りをして、教授の生活と研究活動を支えてきました。ところが、教授は退職し、土地からの上がりも減ってきたことから、土地を売却して利益を投資に回そう、と提案してきました。そこでワーニャが怒った、というのが「逆上して大騒ぎ」の経緯です。これ、逆上でしょうか?
教授は地所については無権利者です。しかも、地所に住んでいたわけでも、管理をしていたわけでもない。ただ、一方的に仕送りを受けてきただけの立場です。その人間が、利益が上がらなくなってきたからといって、独断で土地を売っぱらおうとする。ワーニャじゃなくたって怒って当然じゃないでしょうか。
しかも、「あんたの土地じゃないし、長くここに住んできた俺たちはどうなるんだ」と聞いても、教授は「そんな難しいことは分からない」ととぼけるばかりです。ピストルをぶっ放すのはやり過ぎにしても、この経緯で怒ることを「逆上して大騒ぎ」などと形容されたらたまったものではありません。
自分が誰の働きで食えてるのかもろくに考えず高等な人種のつもりの教授と、その教授を支えるため田舎で働いてきて気が付けば人生に行き詰っていたワーニャ。この構図は誰が読んでも明らかなのに、それをわざわざ「逆上して大騒ぎ」などという言葉で形容する。ワーニャに「キモい」印象を与えようという操作が露骨すぎます。
「チェーホフ全集」の後書きにこんなエピソードが書いてありました。
チェーホフの存命中、ロシアのある地方都市で『ワーニャおじさん』が上演された。その舞台では、ワーニャ役の俳優が自堕落な地主として演じ、長靴を履き、百姓風のルバーシカを着ていた。要するに田舎者のステレオタイプということでしょう。当時のロシア演劇では地主といえばそんな風に描かれるのが普通だった。それを聞いたチェーホフは怒って言った。「それじゃいけませんよ、いいですか。わたしの戯曲にはこう書いてあるのですよ。彼はすてきなネクタイをしている、って。すてきなのをですよ! ね、地主たちは、われわれやあなたがたよりもいい身なりをしているのですよ。」
このエピソードを紹介したのはメソッド演技の源流となるスタニラフスキー・システムで有名なスタニラフスキーです。スタニラフスキーは続けて書いています。「問題はネクタイではなくて、戯曲のイデーなのだ。才能ある人物のアーストロフや詩的にやさしいワーニャは片田舎の暮らしで朽ちて行くのに、鈍物の教授は首都ペテルブルグで楽しく暮らし、似たり寄ったりの連中とともにロシアを支配している。これがネクタイのト書きにこめられた意味なのだ。」(スタニラフスキー『モスクワ芸術座におけるチェーホフ』)
これでも、ワーニャは「キモい」のでしょうか?
今は人妻となっている女性との「あり得たかもしれないロマンス」を妄想する。財産のことで怒りのあまりピストルを持ち出す。自殺をたくらみ医師アーストロフのところからモルヒネを持ち出すが、見つかってしまい自殺もできない、というか多分はじめから本当にやる気はない。こういう断片だけ取り出し、著者の考えるところの「キモくて金のないおっさん」像にあてはめ、チェーホフだって「キモくて金のないおっさん」を書いていたんだと言い張る。女性観が歪んでいて、被害者意識が強く、些細なことで大騒ぎする小心者。「キモくて金のないおっさん」のことをそう考えるのは自由ですが、ワーニャおじさんはそういう作品ではありません。権威付けなのか何なのか、古典を歪めて持ち出すのは「キモくて金のないおっさん」論そのものより下品で、キモいです。
ハックルさんみたいな事言うけど、俺が思う『本質』はそこにあるんだよね。
悪徳に纏わる文化から派生したコンテンツを好むことは、果たしてその悪徳を肯定することに繋がるのかっていう。
たとえばコミックLOを自分から進んで読むという行為は「未成熟な肉体に対して欲情を持ってしまう性癖が存在する」というのを間違いなく肯定している。
そういった肯定は世界の水面下においてゆったりと広がり、まだ正常だった人間にさえ「もしかして子供の身体にエッチな気持ちを持っても良いのでは?」という意識を起こさせる。
これが果たして性犯罪の増加に寄与しているのか、むしろ捌け口となっているのか、暴走を防ぐワクチンとして機能しているのか、それについて安易な結論は出せない。
ただ間違いなく言えるのは、「人はロリエロに興奮してしまうことがある」という概念を世の中に広めているということだ。
そういったコンテンツは「法的に禁止された性行為に対して興奮してしまう人の存在」そのものは間違いなく肯定、認知している。
そこから実際に犯罪行為を行うか、漫画の中で済ませるかは別として、そういった行為、少なくともそういった行為が描かれたものに対して価値を感じる人がいなければ成り立たないものを安定的に供給しているわけだ。
アルコール・タバコ・ドラッグがもしも初めからこの世界に一切存在しなければ、誰もそれを求めることはしないだろう。
それらが存在することに気づいた時、それを求め、もっと強いものや、安価に手に入る代替品を探そうとしだすわけだ。
「ロリエロという性癖に気づかせてしまう」ということが、そういった探索の旅へと眠っていた犯罪者予備軍を駆り立てている可能性があるわけだ。
つまり、「戦争というものの中に人が憧れを抱くような要素がある」という事に気づかせるようなコンテンツが存在することが、そういった欲望を後押ししているのではないかという話だ。
賛美からは少しずれるのかも知れない。
テレビが流す戦争は悲惨であるというある種のハト派プロパガンダの中で戦争の中に秘められた格好良さや美しさが描かれることはない。
実験映像のような殺風景なカメラワークで撮られたキノコ雲や、そこから逃げ惑うタレント的な格好良さなんて持っておらずむしろ極限状態に顔をゆがめる醜い人間たちの姿が映し出されるばかりだ。
そうした映像の中でヒーローとして語られるのは兵士ではなく「悪辣な兵士同士のコロシアイから人々を守る普通の人達」である。
兵士は暴力を振るうことで金を得ようとする下劣で合法な現代の山賊でしかないかのようにメディアは語る。
それを見て軍人に憧れる人がいるだろうか?
美男美女、顔はともかく心は魅力的な数々のキャラクター達が、戦争という極限状態を通すことで自分の人生をより濃く美しくある意味で現代社会での歯車ぐらしよりもずっとずっと人間らしく自分らしく生きるさまが描かれてしまう。
その中ではロマンをくすぐるように脚色された兵器達が、少しでも魅力的に映るようにと工夫をこらして描き出されるではないか。
これを見た子供は「兵隊さんって格好いい!パイロットになりたい!」と思うのも無理もないことだ。
実際、ロボットアニメを見た子どもたちは自分もロボットに乗りたいと口にするし、ウルトラマンになって怪獣を倒すのではなく、最新兵器のプロトタイプに乗って敵陣営へのパイロットを撃ち落としたいと語りだすのである。
果たしてこれが「戦争を賛美していない?」と言い切れるのだろうか?
戦争の悲惨を描いている所はあるとはいえ、「戦争は賛美していないが、戦争の中にある輝かしい部分を箇条に脚色して見せつけようとしている」ぐらいのことは認めるべきなのではないか?
戦闘機がマッハで雲を割る姿に子供を憧れさせたことを「戦争を通して生まれたモノを過剰に持ち上げた。戦争は絶対的悪であり全面的に悪しきものであるはずなのだから、これはもう戦争賛美だ!」と叫ぶのは流石にやりすぎに思う。
だが「戦争によって失われる命を描いている。トレーズが戦いを賛美しているとは私には全く思えない」というのは作品をちゃんと見ろと言いたくなってしまうだろう。
「作者が戦争賛美のつもりで作っていなければ、それは戦争賛美の作品ではない」という人もいる
「読者が戦争賛美と受け取ったなら、作者の意図は無関係にそれは戦争賛美の作品だ」という人もいる
興味深い現象だ
まとめておこう
作者の意図 | 読者の受け取り方 | |
---|---|---|
A-1 | 戦争賛美のつもりで作成 | 戦争賛美と読み取った |
A-2 | 戦争賛美のつもりで作成 | 特に作品に込められた意図を意識しなかった |
A-3 | 戦争賛美のつもりで作成 | 反戦と読み取った |
B-1 | 特に意図を込めていない | 戦争賛美と読み取った |
B-2 | 特に意図を込めていない | 特に作品に込められた意図を意識しなかった |
B-3 | 特に意図を込めていない | 反戦と読み取った |
C-1 | 反戦のつもりで作成 | 戦争賛美と読み取った |
C-2 | 反戦のつもりで作成 | 特に作品に込められた意図を意識しなかった |
C-3 | 反戦のつもりで作成 | 反戦と読み取った |
個人的には「読者が戦争賛美と感じればそれは戦争賛美の作品(ただし他の人の同意を得られるとは限らない)」というスタンスにしておこう
一方で、作者の意図を重視する人は、A-1、A-2、A-3を戦争賛美作品とみなす……か?
なんかこのスタンスの人でもB-1、C-1を戦争賛美作品とみなす気がしないでもない
ついでに言うと、作者の意図が明らかになる作品って多くない気がする
この増田が元増田よりブックマーク数が少ない場合「表自は論理的な議論が出来ない」と見做します。
「萌え絵」は、日本のアニメ、マンガ、ゲームなどのサブカルチャーにおける特定の描写スタイルを指し、キャラクターが特定の属性(たとえばロリ、メイド、猫耳など)を持つことで観察者からの強い好意、保護欲求、または親近感(「萌え」)を引き出すことを目指しています。
「萌え絵」が性的消費と結びつけられる主な理由は二つあります。一つ目は、このスタイルがしばしば非現実的な描写や過度のセクシュアリゼーション(特に若い女性キャラクター)に頼ることがあるためです。これらのキャラクターは、性的な魅力を最大限に引き出すようにデザインされることが多く、そのために視覚的、物語的な工夫がされます。
二つ目は、一部の視聴者や消費者が「萌え絵」キャラクターに対して性的な感情を抱くことがあるという現象です。これはキャラクターのデザイン、描写、シナリオなどによって引き起こされ、一部の消費者に強い性的興奮を引き起こすことがあります。
これらの理由から、「萌え絵」は性的消費と関連づけられることがあります。しかし、全ての「萌え絵」や「萌え」文化が性的なものであるとは限らず、保護欲求や親近感、美学的な鑑賞など、様々な感情や評価を引き出すことがあります。
「萌え絵」が性的と見做される基準は一概には言えません。しかし、以下の要素がその基準として考えられます:
キャラクターが性的に暗示的な衣装を着ていたり、性的なポーズを取っていたり、性的なシチュエーションに置かれていたりする場合、その描写は性的と見なされる可能性が高いです。
描写の背景に性的な目的がある場合、それは性的と見なされる可能性があります。たとえば、ストーリーの進行とは関係ない性的なサービスシーン(ファンサービス)や、性的な表現が販売やマーケティングの主な目的である場合などです。
性的な描写は個々の受け手の主観的な解釈や感情によっても左右されます。同じ作品やキャラクターでも、人によって感じ方は異なるかもしれません。特に、一部の人々が性的な快感を得るために「萌え絵」を消費する場合、それは性的消費と見なされる可能性があります。
表自の言い分
フェミの言い分
特に前半はゴジラやガメラ、ウルトラマンなどを好き放題に描いていた。
なおかつ勝手にSD化して、可愛らしくするなどもしていた。
それらは主にモブキャラとして画面の賑やかし的に描かれていたが、
ペンギン村というほのぼのとした平和で親しみやすい世界観も魅力の作品だったので、
(もちろん後の完全版的なものでは全て描き直されている)
特に後ろ指刺されることもなく世界有数の金持ち漫画家として君臨していることに、
少し違和感は感じるのだ。
国語学の教授?の2010年代までの見解もそれはそれで参考にはなるけど、2020年代はダイレクトに文学部の知識がビジネスに結びつく時代だよ。
例えば、ディズニーのリトルマーメイド、カプコンのスト6、ネトフリのクレオパトラなんかの作品。
おれがガンダムシリーズみたの高校生からだから小学生視点だとどうなるかは分からんなぁ。
しかし「かっこよく見える」から「戦争を賛美」まで飛躍するのはおかしくないか?
その理屈だとルパン三世は「犯罪を奨励」アンパンマンや仮面ライダーは「暴力賛美」になっちゃうし、戦う系のフィクションは全部そういう感じの難癖付けれちゃうじゃん。
「COWA!」「カジカ」「SAND LAND」あたりの作品ってクッソつまんなくて当時は「ドラゴンボールで才能を使い果たした」「やっぱり鳥山に好きなものを描かせたらダメだ」って大不評だったけど今となっては名作枠なのか
しかも高いカメラとレンズ使って撮影された作品がだいたいゴミクオリティなんだよな。
たまに撮影会モデルの写真ばっか挙げてるブロガーいるけど、致命的にセンス悪いの。だせえ表情、だせえポージング、構図も色もクソ。
公共の福祉舐め過ぎ。お前のしょーもない例えに乗っかると映画館のr18が許されてるのは映倫が許可した作品だから。映倫の許可してない作品勝手に流したら一発アウト。今回の撮影会がどっかの審査通してんの?
近い話だとまんだらけの話もあるしその辺知らんのか?