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はてなキーワード: テクストとは

2020-05-22

anond:20200522162846

プログラマーは『他の職業は頭使わないけど俺らは使うからしかけられても困るんだぜ(ドヤァ』と言う」って意味で書いてると分かるだろ

プログラマーは話かけられたら困るときがある」を

『他の職業は頭使わないけど俺らは使うからしかけられても困るんだぜ(ドヤァ』って解釈するのがテクスト読めてないよね?

anond:20200522162205

それってテクストが読めてない状態じゃない?

「ゾウさんが好きです」って話に

じゃあ「キリンは嫌いなのか!」ってツッコんでる感じだよそれ

参考

https://twitter.com/sacreconomie/status/1260362695150194688

2020-05-01

anond:20200501131536

フェミニズム同士で意見対立したらどうしてるの?

テクストに一番近い意見の人に従うとか?

2020-04-14

『「星野源がはっきり安倍批判しない」のに怒り、失望する人とそれへの反論』がツラい。

ツイッター政治でワッショイやってる連中なんて発達障害しかいないんだという現実を突きつけられた思いがする。

雰囲気」や「行間」はわからない。だから白黒はっきりした言葉を求める。そういえばあの映画評論家発達障害だったな、、、。それまでの雰囲気ベース日本映画批評とは一線を画し、テクストベースロジカル映画解釈するという彼のウリは、その特性によるものだったのだと思う。

2019-11-18

続きが気になった瞬間本を閉じる病気

かかってしまった。本気で悩んでる。

アニメとか漫画とか小説とか長編同人文とかソシャゲとか全てに該当する。

なんなら長編じゃなくても、1万字足らずの話の途中で一旦閉じて無意味ブラウザゲー(ソリティア系統)とかやってしまう。

これは多分よく言われてる「歳をとってコンテンツ摂取力が落ちた」現象ではないと思う。

スケダン・彼方のアストラ篠原先生が以前「最終回が読めない」現象話題にしてたけど、あれはお話が終わってしまうことが寂しくて、というのが主な話だった。それも違う。

簡潔に言うと、物語に何か期待した瞬間、その期待を実際のテクストが下回ることに恐怖を覚えてしまう。のだと思う。

実際そこはかとなく怖い。

ちなみに先のネタバレをどれくらい知っているか、はあまり関係ない。結局はそれを聞いてどれほど自分が期待をふくらませるか、あるいは萎ませるかにかかっているわけだから(そして前情報で萎んだならこの悩みにかかずらうことは無い。それはそれで問題なんだけども)

結果としてちゃんと見られるのは「既に読んだ作品アダプテーション作品小説アニメ化とか)」「可もなく不可もなくそれなりで見た作品」「ソシャゲ期間限定イベントで素材欲がこの病気に勝ったもの」とかそのあたりになる。

要するに本命になればなるほど見られなくなる。

例えばソシャゲ、言ってしまえばFGOなのだが、2017年の頭から始めてまだアガルタにいる。戦力はあるし周回もできる。飽きていないはずだ。アガルタは(賛否あるようだが)ネタバレをある程度聞いて逆に楽しみになり、レジライが出てきて話が動き出してきたな、と思った瞬間止まってしまった。少し手を出したアナスタシアも、パツシィくん可愛いね、と思った瞬間に止まった。

他に幾らでも例が出せるが概ねこんな感じだ。

ちなみに音楽なら普通に聴ける。

映画劇場まで行けば見通せる。BDそもそも借りないのでよくわからないが。

原因もきっかけもよくわからない。

そして類似の悩みを抱えているオタクを周囲(タイムライン)で見ない。これで悩んでいるオタク活動的オタクとしてやっていくのは難しいからかもしれない。

数年来ずっと抱えていたものなのだが、最近更に顕著になってきた。このままではただ見たいものけが無為に増えていってしまう。滑稽すぎる。

かい解決策、ないし類似例を知っていたら教えてほしい。切実に。

anond:20191117234258

うちだと二十代のうちはマッキノン、ドゥオーキン、バトラーらのテクストを徹底的に読み込む。

かに実践に移るのは大抵三十過ぎてからだ。

2019-11-16

anond:20191116001154

分野によってはあるらしいね

テクストヴェーバーが本当に言いたかたことは何か?

2019-11-09

anond:20191107140353

節子、それ社会学フェミニズムやない、文学理論フェミニズムや。フェミ違い。

何にでも「ジェンダー関係の不均衡」を見出して語る芸の一派でな。

他にも見出すべきネタによって、「階級闘争」(マルクス主義)、「統一のある経験可能性」(ニュークリティシズム)、「エディプス的葛藤」(精神分析)、「転覆的なエネルギーの封じ込め」(ニューヒストリシズム)、「テクスト自己脱構築的な性質」(ディコンストラクション)、「帝国主義の閉塞」(ポストコロニアル理論)、「ヘテロ・セクシュアルな基盤」(ゲイレズビアンスタディーズ)とかいろいろあるんや。

2019-08-12

フーコー言葉と物」二の五「言語(ランガージュ)の存在(エートル)」を読んだ。

シーニュの配置がシニフィアンシニフィエだけになった近代以降は、ランガージュが物質的な実在とは限らなくなったこともあって“第一義的なテクスト”への接続が断たれている。文学はそのランガージュの生のままのエートルに遡ろうと頑張るけど、もはや第一義的パロールが失われてるから昔のように上手くはいかないようだ。(末法思想みたいだな。)

2019-04-27

anond:20190427193151

レトロスペクトにおもしろおもしろくないと断罪するのはテクスト批評としてはあんまり賢い方法じゃないね

それよりもシェークスピアが後世の英語空間に与えた影響の大きさに目を向けるべき

2019-04-15

anond:20190413114026

 私は現役東大生だが、

 「現役東大生だが、上野千鶴子祝辞ゴミだと思う」(https://anond.hatelabo.jp/20190413114026)に反論を試みたいと思う。

 ここには上野氏の祝辞https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html)がほとんど引用されていないので、論旨が追いづらいかも知れないが、読んでくださる諸氏にはご容赦願いたい。

 以下、引用中略は[……]、上野から引用は「」、上記はてなから引用は四角い枠と “ ” 、私自身の強調は[]で示した。



ソースはここhttp://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2018/09/10/1409128_002_1.pdfで、六年間の推移が1.17→0.76→1.31→0.95→1.04→1.04でその平均が1.03なので仮説検定をすれば有意でない、すなわち平等とわかる数値なんですが、なんでこんなに持って回った言い方するの?

 この後に述べられている通り、「医学部を除く他学部では、女子の入りにくさは1以下であること、医学部が1を越えていることには、何らかの説明が要る」。そして平均としては確かに1程度である女子医学部にだけ特別に入りにくい)ので、他の大学より遥かにマシだとはいえ、このデータには読み解くべき何かがあることになる。


↑ここまでの話をまとめると、私立医学部ではどうやら不正入試が行われているが東大では医学部はじめ全ての科類で平等入試が行われている。ということなんですが、これはもはや私大医学部問題[……]で、東大入学式祝辞の一発目に持ってくる話題としては不適当では?

 東大は(権利問題として)特権的学府ではなく、他の最高学府と並列の、ただの[大学]だ(事実問題は置いておいて)。だから、他の大学の話は、東京大学という固有名において確かにそれだけ関係が薄いし、しか大学であるという点において強く関係している。他の大学との交渉も避けられない状況、そして例の不正が、入学試験という、どの[大学]にもある制度於いて発生した不正である、ということに鑑みると、やはり他大入試不正無関係であるとは言えないだろう。


↑ここ統計データを示せよ。なんで女子差別されてる話は具体的な数字しまくったのに女子が優れている話は具体的な数字さないんだよ。

 これは、追記

https://anond.hatelabo.jp/20190414151912

により推察されているとおりだと思う。


↑これどういう意味だよ。偏差値の平均は女子の方が上ってさっきお前が言ったんだろ。

 女子学生偏差値のほうが上だというのは、東京大学受験者を母集団とした時の偏差値のことで、偏差値正規分布性差はないというのは、母集団を全体とした時の話である。そのくらい、現役東大生なら読み取りましょう。


↑なんで親の性差別って断言してるんだよ。統計どこ行ったんだよ。

 大学進学率の男女差の原因分析は、統計一本では不可能だ。たしかに、その差が統計的に有意かどうか示されていないのは穴かも知れない。原因が性差別によるものだということも、根拠は示されていないのもそのとおりだ。だが、それは先にも指摘したように統計のみによる分析ではない。他の統計フィールドワーク社会学的な先行研究などを踏まえて、より厳密な研究において慎重に示されたものだろう。それが省略されたものだと読むのが適切だろうと思う。

 まあ、なにか根拠を示して欲しいとは思うが、そこは論文を読めということを世論誘導しているのだろう()


↑並列された三つの主張から導き出される結論は何だよ。ちゃんと言えよ。

 そう……彼女はここに於いてことごとく結論を省いているのだ。それを私が補うこともできようが、それは実に恥ずかしいのでしない。とにかく、その空隙はみな、彼女の策略だと読むことができる。……できる、というのが曲者であり重要で、テクスト読解における著者の意味論的意図をどう扱うかという問題に繋がるのだが、とりあえずここでは、そのように[読める]ということはそのような解釈を受け入れて良いと言うことでもあると述べておこう。


↑てか普通に考えたら 第一女子安全志向 第三:親が性差別している を要因として 第二:東京大学入学者の女性比率が二割以下 が発生してるって話になるだろ。なんで並列なんだよ

 ここは正直、言っていることがよくわからない。第一及び第三を原因として第ニは導き出される、ということを言いたいのだろうか?それを指摘すれば丁寧だったかも知れないが、特に指摘する必要はない。

 ここで示されているのは、①女子安全志向(ゆえ男子と比べ偏差値的の高い人が東大受験する)、②女性比率が二割以下であり、偏差値の高低に性差はないため、男子と比べ(略)、③女子男子より四年生大学進学率が低く、大学受験自体への逆風がある、ということだ。追記にある、③への疑問はもっともで検証必要かも知れないが、大学進学をdiscourageする気風がある中で尚、東大進学を果たす人の集団がそうでない人の集団に比べ優秀であると推測するのはそう不自然なことではない。

 東大の「1.03」という数字不正の影を見るかどうかはわからないが、少なくとも医学部女性を入れにくくする何か(不正に限らず)が働いている、と疑いを抱く読み解きはおかしものではないだろう。


↑「娘の翼を折らないようにしてきた」という父親の事例を挙げて得られる結論がどうして「多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきた」なんだよ。

 確かに論理的にはそこからそれは導き出せないが、これは論理的な筋を追う文章ではなく、レトリックとして、別の事例に於いてしかし同様の自体が起こっていることに結びつけ、全体の帰結を引き出している、ある種の帰納的な修辞だ。繰り返すように、これは論文ではなく演説である


↑どうやって?

 差別に満ち溢れた社会の中頑張って勉強してきて。


↑突然男子学生を画一化したなお前。性差別って知ってるか?


 確かに画一化。まあしかし東大男子が全体の傾向として異性にアトラクティヴなものとして映るというのは間違いではないように思う。


↑突然男子学生を画一化したなお前。性差別って知ってるか?


 男子大学生は東大生であることに誇りを持っていることは傾向として否定できないと思いますけどね。

 統計的傾向は個人説明し切ることが出来ないが、かと言ってそれ自体否定できるものではない。

 そもそもここでの画一化は突然ではない。初めから、男女という、大きな別々の傾向性を持つ、二つの、緩やかな集団の話をしている。



〜同様のため中略。極めて不毛。〜



↑どんな目で見られてるかちゃんと言えよ。マイナスイメージ[……]が正しいと言いたい(文脈的にこっち)ならそれは性への圧だろ。

 [どのように]見られているか明確に言わない、というのはやはり演説的(というか普通意味で)レトリックであろう。文学於いて、全てゴテゴテ説明したら品がないし衝撃を薄めてしまうのと同じかと思われる。

 高学歴男性批判なのだから、『彼女頭が悪いから』における見方一定価値を置いていることは明白であるし、“性への圧”をかけていることを批判しているのだから、その抑圧的な側の“性への圧”になるのは当然だ。“圧”をかけねば批判できないのだから


男子サークルって書き方からして完全に男子悪者にしてるけど他大学女子競争相手を減らすために東大女子を入れないようにしてる可能だってあるだろ。性差別か?お?

 そのような事例は、全体の傾向からして少数派である判断たからだろうという反論と、他大女子がそのような行動をしているというのならば、やはり女子勉強が出来ると魅力が減るという偏見存在証明することになるという反論の二つが想定できる。


↑その原因が東大内の性差別という意味?だったらこんな時代性が交絡するようなデータじゃだめだよね?

 原因ではなく、東大於いて性差別が存在していることを、別の形での表出を例示することで補足的に示している。

 “時代性が交絡するようなデータ”というのが何を指しているのかよくわからないが(学部などの学内女性比率データと、学部長などに女性が極めて少ない上東大総長に女性がいないことを示すデータ、という2つがあることか、それぞれのデータが何年度の調査であるのか示されていないということなのではないかと思う)、両者は比較されていないので、双方共に有効データであれば問題なし。


↑これを祝辞で喋る意図が明確になるように主張のギャップを埋めて欲しい。

 これも文意がうまく取れなかった。

 上野氏の話の内容が“祝辞で喋る”のにふさわしいかどうか、というのであれば、個人スタンスによると思うので割愛。私の意見結論だけ言えば、全く問題ないと思う。……少しは気の毒と思うけれど。素朴な親御さんにとっては。


↑これ普通に気になるな

 気になりますよね。


↑後述の話を先取りするけどお前のは恵まれ環境のおかげじゃなくて努力の成果なのかよ。

 闘ってきた、ということは事実記述。恵まれ環境がそれを支えてきたかどうかとは別の問題。もちろん、その闘争も、努力のみならず、阻害しない環境が最低限整っていたというのは間違いないと思う。


↑冒頭で不正がある話したの私立医学部だけだろ。

 不正入試だけではなく、大学における女性差別という[がんばってもそれが公正に報われない社会]がある、という話。


↑そこ断言するの流石に祝辞としてダメだろ。毒親から逃げて東大来たやついるけどそいつにこれ言えんの?

 傾向は個人説明しない。

 加えて、それでも、努力が[東大合格]という結果に対しての最低限、報われる環境という必要条件を満たしていたことは、観測選択効果により論理的に明らかである


↑これはまあそういう意見もあるよね。

 そうですね。


↑恵まれない人を助けることに繋がらない学問やっちゃいけないの?ブラックホール撮影しちゃだめ?ニュートリノ観測しちゃだめ?

 学問の話だけではない。普段生き方価値観の話だろう。

 第一ブラックホール観測は、恵まれない人々を貶めない。むしろ間接的にではあれ勇気を与えることもあろう(嫉妬深いポスドクを苦しめるかも知れないが……)。

 この言葉は決して、能力の使途範囲積極的規定しようとするものではない。「弱者」を貶めるために使うな、と言っているのだ。そうしなければ、差し当たり何に使っても構わない。「弱者」を助けるため[だけ]に使えなどとは言っていない。

 そして、ここは確かに難しいところだが、社会的「強者である東大生が持つ、大きなリソースが「弱者」に分配されれば、社会状況は良い方向へと一歩進むだろう。そのためにも、その力を「弱者」のために使ってほしいと、[お願い]しているのだ。命令でも、べき論でもない。これは[自由意志]に訴えるしかないのだから


結局東大生弱者であって欲しいのか弱者を助ける存在であって欲しいのかが見えてこない。弱者を助ける存在もまた弱者で、だから他の弱者に助けてもらいましょう。ということなのかな?全員弱者なら女子受験生の話をした意味は?

 おそらく全ての人は、あるところに於いて強者であるとともに、また別のところでは「弱者である。絶大な権力を持つ政治家社会関係の多くの場面で「強者」だが、病院に行けば脆弱身体医者晒しいるかも知れない。東大女性だって社会通念に於いてはそれが負の属性であるかもしれないが、知性を持つという事実於いて強者」でもある。「弱者」というのはここでは女性という属性のことだけではない。みなが持ち、みなが足蹴にする可能性のあるものだ。


↑まずこの弱者って特に女性を指してるの?だとすれば女性は謂れなき差別を受けていてそのために被害を受けているという話だったよね?てことは女性は謂れなき差別を受けたままで尊重されるべきってこと?意味不明じゃない?

 [「弱者である]ということは差別を受けるということと等価ではないだろう、当然。分かるよね?

 ……付言するなら、「弱者である自己否定否認して「強者」に成り上がることだけがこの社会に生きる唯一の道だというなら、それは極めて殺伐とした恐ろしい世界だということだ。相対的に見て、ある能力に乏しい存在であるということは、[悪]を意味しない。そもそも能力の優劣自体も、極めて価値論的な事態なのだから


総評として、全称記号任意記号恣意的混同によってデータ自分の都合のいいように改変して使用する、統計学ひいては学問を完全に馬鹿にした祝辞であったように思える。思想としてのフェミニズムであればこのような「過激な」スピーチにより注目を集めるのも一つの作戦なのだろうが、この人は「学問としてフェミニズムを修めている人間」として「これから学問を修める3000人の東京大学新入生」にスピーチしたわけで、その内容としては甚だ不適当だと言わざるを得ない。

はっきり言って、こんなものを褒めそやす人間は、たとえそれがどれだけメタ的な視点から評価のつもりでも、科学世界を脅かすありふれた権威主義愚か者集団に含まれる一人にすぎないと言えよう。

 統計根拠を一々述べ立てるアジなんざ、アジとしての役割を果たすわけないのだ。全称命題存在命題とを断りなく混在させているのは事実だが、どれがどちらかというのはきちんと読み解けば理解できるものだし、そこで意味されている内容も至極真っ当なものばかりだ。根拠が常に明示されているということが学問第一条件ではないし(科学方法論に於いて絶対かも知れないが、それでも初めは根拠の見当たらないところから探求はスタートするのである)、目の前に立っている人間がいつも親切に根拠を示してくれると思うなら、それは歩行器に頼り切って自分は歩けると錯覚してしまっている憐れな赤ん坊しかないだろう(そんな自意識的な赤ん坊はいないけれど)。

 それに、学問営為実践と不可分であるような領野などいくらでもある。工学社会実装を常に見据えてあるだろうし、医学看護学臨床心理学などは常に目の前に他人がいて、それにどう働きかけるかという視点がなければ成立しない。クローズドスキルだけでは学問は成り立たない。倫理学者が、平気で己の立てた操に反しているならば、それこそ非倫理的だろう。厳密にいうならば、程度の差こそあれすべての学問日常接続しているはずなのだそもそも、このスピーチ学問的に水準以上の盤石さの上に成り立っているものだと思われるわけだし。

 権威主義を警戒する姿勢は全く健全ものであるが、目先の手触りのザラツキに神経を逆撫でされて走り出してしまうのはいただけない。きちんとテクストを読み解いてから非難に当たるべきだろう。そのようなあり方こそが学問的な……という以前に、真摯姿勢による対応だと思われる。

2019-01-06

anond:20190106022832

ちな文学系はゴリゴリ論理系な

鑑賞じゃなくてテクストから根拠引っ張り出して論じる訳なので

2018-12-28

怪談と隣人―波勢邦生「トナリビトの怪」を読む

【読んだもの】本を購入しようと思ったら、リアル書店ネット書店最近では出版社による直販(弊社もやってます)などさまざまなあるかと思いますが、今回ご紹介したい『アーギュメンツ#3』という評論誌は「手売り」、つまり関係者による直接販売というきわめて珍しい流通チャンネル選択した書籍です。売り方の時点でかなりチャレンジングな企画なのは明らかで、魅力的な論稿も多数収録されているのですが(レイ・ブラシエ(佐藤正尚訳)「脱水平化―フラット存在論に抗して」や、大前粟生さんの小説断崖」もすごかった)、その中の波勢邦生さんの論考「トナリビトの怪」が本当に本当にすばらしかった。ので、今回はそれについて書きます

当該論考のテーマをおおきくまとめると、理性的自己判断できる存在としての近代主体(いわゆる「強い主体」)の淵源にあるものとしてのキリスト教という一般的イメージに対して、ハワイ日本沖縄におけるキリスト教受容史をふりかえることで別の可能性(本書でいう「隣人」)がたちあがる場としてダニエル書・イザヤ書を読みかえすという試みといえます

いろいろ論じたい点はあるのですが、とくに筆が冴えるのは、小原猛『琉球奇譚 キリキザワイの怪』に紹介されている怪談ジーマー」の話です。曰く、ある男性が「ジーマー」という老婆に「神様用事の手伝い」を頼まれる。それは波上宮という砂浜で、彼女三味線に合わせて民謡を歌うというもの。そこで事は起きる。

知ってる歌は歌い、知らない歌は手拍子うつ適当にこなすうちに背後の砂浜に人が集まりはじめるが、おしゃべりの中に英語やうめき声が聞こえるなど、奇妙な何かがそこにあった。徐々に不審なおもいにかられたその男性は後ろを振りかえる。「すると、そこには誰もいなかった」やがて夜も明けて、ジーマーの三味線も鳴り終わったあとに砂浜をみてみると、声が聞こえた場所には子どもをふくめた無数の足あとが残されていたという。こうした情景に、その男性は戦争太平洋戦争のことか?)の傷跡を読みとり、波上宮鳥居を抱きしめて泣く。「みんな死んでしまった。父親も、幼馴染の友達も、学校の恩師も、みんなみんな死んでしまった。自分は生き残ったが、果たしてこれは良いことだったのだろうか。自分のようなくだらない人間が生き残って、優しく勇気のあった友達や、才能のあった人々が死んでしまう。この差は何なのだろうか?」(30ページ)

この「ジーマー」は沖縄固有の物語ですが、波勢さんはここに「死者との交換可能性」という「怪談本質」を見ます。生者と死者の想像力が同時に起動する場所、そこに怪談という物語は立ち上がる。そして同論考にとって重要なのは、この「怪談想像力」はキリスト教テクストにも見出されるという点です。

(「怪談として聖書を読む」というこの箇所は本稿でもっとも屈折し、そして読みでのある所なのですが、そこはあえて飛ばします。気になる方は「アーギュメンツ#3」をお買い求めください)

この怪談という想像力からみて、「西洋近代的自我による主体区分による解釈は、恣意的グロテスクな切断」(34ページ)となりますしかバベルの塔神話が示すように、神は常に「言語文化を奪われたものの側に立ち上がる」。つまり強き主体の側にではない、という点が重要です。

「神は奪われ排除されたものの側に立ち上がる。歴史と非歴史境界で『主体』と『弱い主体』を隔てる壁は消失し、ありうべからざるものが現れた。」「ぼくはそれを『隣人』という言葉に求めたい。なぜなら聖書において隣人とは、まさしく自他の交換可能性を示す言葉からだ。」「隣人が現れるとき、『神を愛せ、己を愛するように隣人を愛せ』というイエスの声が、聞こえ始める。隣人は、神の赦しを伝達するぼくらの似姿であり、またぼくらの赦しを待つ異形のものでもあったのだ」(35ページ)

ここで提示された「隣人」は、大仰で圧倒するような<他者>、私たち理解を拒む絶対的な<他者>ではないでしょう。どこにでもいるあなたであり、わたしであり、そして誰かです。これはブルーハーツの歌に出てくるような、といっていい。そう思います。(すこし恥ずかしいけれど、いや、しかしそう言ってしまっていい)

「隣人の思想」、波勢さんの論考が到達した地点をそう呼んでいいと思うのですが、ここで示された思想の内実とともに、この思想に至る論述あくまでもキリスト者としての波勢さんの信仰に貫徹されている。ここに本稿のもうひとつの傑出した点があります

たとえば「昨年11月、九三歳で祖父が死んだ」ではじまる本稿は、「キリスト教信仰告白せずに死んだ祖父天国でないどこかへ行ったのではないか不安になった」という文章地の文で、鍵括弧抜きで出てきます。たぶん信仰をもたない人にとってこの一文は、理解の遠い、「向こう側の人」の言葉に聞こえるのではないでしょうか。(本稿の最後、註のラスト文章も「神に栄光、地に平和、隣人に愛と怪。感謝して記す」です)

聖書怪談として読む」という本稿の試みをもし信仰をもたない人がするならば、さじ加減をまちがえたとき即座に「他者信仰否定」になるでしょう。でも、波勢さんはあくまでも信じることで聖典を読み替える(またはこれまで読まれなかったものを読み解く)という姿勢を貫く。そこにこのテクスト独特の緊張感と救いがあります

イスラーム法学中田考先生や、このたび『トマス・アクィナス』でサントリー学芸賞を受賞された山本芳久先生などもそうですが、これまで護教論や宗学として避けられがちだった信仰自身による学問考察のいくつかには、相対主義決断主義あいだでさまよう私たち課題を乗り越える何かがあるように思います。私にとって本稿はまちがいなくその一つです。そう断言していいものがこの論稿にはあると考えます

以上、編集Aは自社本を紹介していないどころか本すら紹介していないのではないか疑惑もあるのですが(広報誌とか、雑誌特集号の論稿とか)、これにて「トナリビトの怪」の長文の感想を終わります。ご清聴ありがとうございました。

2018-12-04

anond:20181204211436

文系か?迷わず読書会にいけ。学問と向き合う上で他者との視点共有や議論がどれだけ実りある理解してないと見える。発表をぼけっと聞いて、何か一つだけでも質問するだけでもいい。研究畑で真っ先に潰れていくのは大抵孤立した奴だ。テクストはお前の孤独癒してくれやしないぞ。

年増学生孤独

大学中退し、ニートをやったりブルーカラー労働をしたりしていたが、どうしても学歴コンプを拭い切れず、前からやりたかった文系学部編入した。

友達ができないのも、まともな就職が望めないのも覚悟していたので大きな問題ではない。

しかし、編入して8ヶ月が経ち疲れが出てきたのか、最近活字が頭に入って来ずしょっちゅうゲシュタルト崩壊を起こす。

勉強が滞ると、三十路を前にしていよいよ自分は一体何をやっているのかと追い詰められてくる。

周りを見ていれば、勉強したい連中は読書会なんかをやっているし、そうでない連中はウェイウェイやっている。

歯を食いしばって一人でテクストと向き合えば山を越えられるのだろうか。

大学のあちこちにある学生相談室の掲示自分を呼んでいるような気がする。

2018-11-29

何を言ったかよりも、誰が言ったか重要

なんだな、と思った。

今日見た隊長記事中年男性の心情の吐露として非常に興味深かったのだが、ブコメではお前が言うな系のコメントであふれてたし、童貞は美しいなんてはあちゅうが言ったらぼっこぼこだったのに、ニャート氏がいうとなんて優しい人なんだと褒められていた(ついでにいうと告ハラは滅しろというはてな民がニャート氏の告ハラには なんて優しい人なんだっていってた)

いやいや、これは今に始まったことではなく昔からホリエモンもそう、小泉旋風もそう。結局テキストをどう読み解くかに任意性があるせいなんだろうな。

どんなテクストであっても真理性・慈しみが含まれている。その一方、欺瞞傲慢偏見もまた含まれている。自分好意的に読みたければ、そのように読むし、悪意や反発を持って読みたければそのように読む。どのように読むかはテクストの内容はもちろん、テクストが誰によってもたらされたものなのかであったり、自分党派性によるところが大きいのだろう。

はてブコメントなんてたった100文字Twitterは 120 文字なので、なおさら 自分の読みたいように読めてしまうのだろう。逆に言えばどう読んだかは自分がどう読みたいのかをある程度浮き彫りにしてくれる。

はてブコメントはその点面白いよ。「女性は抑圧されているんだ!」みたいなコメントを付けているアカウントブックマーク一覧をみるとそんなコメントばっかりしてるし、「KKOいじめるな。KKO はかわいそうなんだ」みたいなコメントを付けているアカウントブックマーク一覧を見るとそんなコメントばっかりしている。

文系理系対立煽りを思いついた。

文系的なバックグラウンドの人は、古典文学歴史的資料・各種思想など、総体としては価値があるけど 部分を見ると時代背景的だったり社会的な制約で明らかに間違った言明が含まれているテクスト相手にする。そしてそこから価値をすくいとる、という作業をする。なので、不完全・不明瞭なテクストの読み方が上手いんじゃないかなあと思う。一方、理系的な学問ではそういう作業基本的不要だよね。

テクストをどう読むかという現象に対して、文理の違いがどのように表れるかは不明だけどそういう観点では文系的なメンタルモデルを持っておくことは重要なのかなあと思う。どうも理系的な人間は「文章は明晰で一意に意味付けされるべき」みたいな固定観念に縛られている気がする。自分もそうだけど。

ブコメで「(記事が)何言っているのか意味不明」みたいな知能指数が低いコメントをするのは、本当に知能が低いのか、上記のような すくい上げて読むという習慣を持たない人の発想なのかなあとも思った。

2018-09-28

anond:20180928122025

男の癖に弱者ぶるなど笑止千万、許容される道理がないだろう!

ジェンダー論と女性学テクストを百回読んで出直してこい!

ストレート男性差別で草も生えない

ジェンダー論と女性学テクスト」って毛語録みたいなもんか?

anond:20180928121714

男の癖に弱者ぶるなど笑止千万、許容される道理がないだろう!

ジェンダー論と女性学テクストを百回読んで出直してこい!

2018-09-25

anond:20180925001737

ニキビ若さ象徴とかよりも、もっと何を手がかりに文章を読むかみたいなのを習いたかったよな

羅生門は愛され過ぎて変な読まされ方してる可哀想テクスト

2018-09-20

anond:20180920185558

え、観光系って統計とったりしないのか……

心理とか経済だとか、場合によっては文学系でもテクスト分析とかで使うのに。

統計やるのなら行列というか線形代数が要るって言うけど。

統計排除した観光学とか、

それこそトップレベル大学で「役に立たなくても良い」から観光に関する思想象牙の塔でこねくり回してるひとだけで良いでしょって思ったけど。

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