はてなキーワード: テクストとは
彼の発言は垢消しで残っていないが
わかり手こと小山が最近の持ちネタ、ゴールディンの主張=アンチフェミと大体一緒を展開してたところ
デビットライス「ゴールディンの本なんて読んでないけど彼女の問題意識の解釈として間違ってる」
小山「読んでない本の著者の問題意識がわかるのすごい。エスパーかな?」
小山@iikagenni_siro_
デビット・ライス、かねてより馬鹿だとは思ってたけどついにふくろうおばさんと同レベルにまで堕ちててほんま真顔になるな。党派性に凝り固まってテクストを読まず妄想で物事を判断するようになったら言論人としては終わりやで。
昨日も言ったけど「ちゃんと読んだ上で反論する」人たちと「読まずに妄想で反論する」低脳は明確に違うからね。前者に対しては一切悪感情ないけど後者は一生黙ってろカスとしか思えん。これは党派性ではなく知的誠実さの話。
要するに彼にあるのは「俺は作者の意図が全部わかる!」という妄想なんですよね。芸術作品にせよ学術的成果にせよ自分は製作者の意図や問題意識が全てわかっており、それに沿わないものはどれだけ根拠が並べられていようが悪辣な扇動だ!となる。俺に言わせりゃもう一種の病気だろと思うんだけど。
映画「バービー」評にせよ、ゴールディン評にせよ、通説を論駁するためこっちはひたすら根拠を積み上げてるんだけど、彼は一切根拠を示さず「アンフェよる扇動だ!」というレッテル貼り一本槍で勝負しており、なぜそこまで自説に自信が持てるのか本当にわからないんですよね。
本のエア解釈をしだす大馬鹿を晒したのもそうだが、人文っぽい態度をとりながら知的不誠実の極みをし続けるのには反吐が出るね。
アンチフェミはフェミニズム本だけでなくて、なんならデビットライスの本すら買って読んでいるが、デビットライスは彼らの主張を読むことすらせずに脳死で批判し続けた。
https://twitter.com/iikagenni_siro_/status/1713806522701205612
反アンチフェミをこじらせすぎて、「彼らは間違っているなぜならアンチフェミだから」をやりすぎて
ノーベル賞受賞作者の内容すら読まずに反論とい始末は目も当てられない。
まあ、彼からしたら嫌悪してるアンチフェミ連中にボコボコにされて堪忍袋の緒が切れたってとこで一切の反省はしなさそうだけど。
ノーベル経済学賞受賞者の主張が日本のX界におけるいわゆる”アンチフェミ”の主張と整合的であるということでアンチフェミ界隈が沸き立っているが、そもそもゴールディン氏の主張自体を額面通り受け取っていいのかという問題がある。
(そもそもゴールディン氏の主張は”アンチフェミ”的なのか?という点については、彼女の著書を普通に読めば、解釈に多少の幅はあれ概ねそのような内容であることは明らかだと思う。すなわち、同じ仕事や同じポジションに付く男女について差別に基づく賃金の差は既に存在せず、実現している男女の賃金格差は家計における合理的なキャリア選択の結果として現れているものであるという趣旨であり、労働条件における系統的な女性差別の存在を主張する人々の考え方とは対立する)
自分は経済学の学位を持っており、大半の人よりは経済学に詳しいという自負があるが、それ故に経済学的なものの見方の限界について思うところがある。経済学とはそもそも「定量的に観察された社会事象」を「人々の合理的な意思決定を前提」として解釈する学問である。こうしたアプローチは、以下の様な点で、男女差別の様な問題を考える際に色々な問題があると思われる。
まず「人々の合理的な意思決定を前提」とする考え方の問題点とは、そもそも差別とは経済的な観点からは基本的に非合理的なので、経済学の理論で世の中を解釈するとそもそも差別など存在しないという結論に偏るバイアスがある。例えば以下は経済学的な考え方の例である。「もし男性と同じ能力を持つ女性に対して差別的に賃金を低く設定している企業が存在しているなら、他の企業はその女性に対して今より少し高い賃金をオファーして彼女を雇うことで男性と同等なのに少し安い労働力を確保できて得をする。これが女性が男性と同じ賃金になるまで繰り返されて、男性と女性の賃金は同水準に収束する。もしそうなってないならば、何か別の経済的なインセンティブが働いているはずである」この様に、経済学の理論は首尾一貫して経済的な合理性のみで物事を説明することを試みるため、文化的要因や社会心理学的な要因が入り込む余地はない。差別という経済非合理的な事象は、そもそも経済学の理論のスコープから排されているのである。
また、「定量的に観察された社会事象」のみを分析対象とする点も問題である。こうした経済学のスタンスは、証言なども含めたテクストに対して丹念な分析を行う歴史学・社会学・ジェンダー学といった人文科学的アプローチとは対照的である。数量データに現れない出来事が世の中に存在しない訳ではないのである。例えばナチス政権下でのユダヤの人々の苦しみは、数字のみによって語られるべきではないのと同じである。彼らには統計的事実に現れない日常的苦しみも確実にあったわけで、それは例えばアンネ・フランクの日記などの記録から定性的に読み取ることで明らかとなる。これはフェミニズムの文脈でも同様である。現代の日本において多くの女性が進路選択やキャリア形成に際して有形・無形の差別の存在を感じ、声を上げているということが事実として存在しているわけで(例えば進学に際して親から「あまり高学歴だと結婚できない」と言われるなど)、それが例え統計データとして現れないとしても、その苦しみが存在しないということにはならない。
ノーベル経済学賞というのはあくまでも経済学という学問世界の中での権威が認められたというだけの話である。上記の様に、経済学そのものが、社会事象の一側面を切り取って分析を行う学問である以上、経済学的なものの見方が男女格差という複合的な社会事象の全ての側面を明らかにした訳では全く無い。ゴールディン氏の分析結果は、もちろんそれはそれとして有益な考察の材料としつつ、あくまでこの問題を扱う本流である歴史学・社会学・ジェンダー学の考え方と合わせて、この問題に関する理解を深めていくというのが正しい知的態度だろう。
毎度毎度ネット文字創作界隈をお騒がせすることで有名な、「名興文庫」およびその「相談役」。
(詳しく説明するのは面倒なので、知らない人は「名興文庫」「本格ファンタジー」「ダークスレイヤー」あたりでツイッター検索をかけてもらえば、何となくその立ち位置が分かってもらえると思う)
今回は、日本において「本格ファンタジー」が根付くはずの土壌をラノベが破壊してしまった、という歴史認識を巡って学芸員の鞍馬アリス@kurama_fantasy氏と論戦を繰り広げているようだが、その中でこんな発言が出てきた。
ttps://twitter.com/kurama_fantasy/status/1698847925580022266
@kurama_fantasy
最初から土台をなしにされたと言うことを、歴史的な史料(当該時期の雑誌、新聞、評論、研究、書簡類、出版に関わる統計資料等、あるいは当事者の証言であるオーラル・ヒストリーを含んでいます)などを組み合わせて実証的に証明できないのであれば、デマや陰謀論の類と同じ価値しかないと思います。
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1698849563380236367
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
ライトノベル宣言が出た頃の話と、先日私が引用していたファンタジーノベル大賞の『ヒロイックファンタジーは採用しない』という公言。
これによって長く一般小説に一ジャンルとしての本格的なファンタジーの土台がなくなったというただの事実を、わざわざ長い時間をかけて検証するのはあなたの自由ですよ。
一般的に「ライトノベル宣言」として知られるもの、そして「ライトノベル宣言」でググってトップに出てくるのは、「角川武蔵野ミュージアム」内の「マンガ・ラノベ図書館」で掲示されている、メディアワークスの創業者にして元角川書店社長の角川歴彦氏による文章だ。
ttps://kadcul.com/manga_light_novel_library
作家夏目漱石を代表とする近代文学は昭和期に入って純文学と大衆小説に分かれ多様に発展したが、 気がつけば名著名作として現代国語の教科書内の存在になっていた。 しかし青春文学を求めるヤングアダルトといわれる若者層はいつしか自分が選ぶ小説・文学の登場を渇望していたのであった。 ライトノベルは青春期の少年少女が与えられた本に満足せず、自分の意志で手に取る最初の本である。
ライトノベルの起源はイギリスの“円卓の騎士”や『指輪物語』から影響を受け、RPGリプレイから生れた『ロードス島戦記』だ。 座を囲んだプレイヤーの数だけ豊かな物語を紡ぐことのできるゲームから水野良は小説『ロードス島戦記』を誕生させた。
(このラノベの起源=ロードス説にもついても一部で議論が存在するが、今回の件とは関係がないので無視する)
実際鞍馬アリス氏も、「ライトノベル宣言」がマンガ・ラノベ図書館のこの文章であると解釈して話を進めている。
ttps://twitter.com/kurama_fantasy/status/1698903493632036891
@kurama_fantasy
前者はマンガ・ラノベ図書館開館によせて作成されたテクストであるかと思いますが、角川歴彦名義で角川書店がライトノベルというものをどのように発表時点で認識し、総括しているかは書いてありますが、本格ファンタジーとの関係性に関してはロードス島の部分以外では書かれていないテクストです。
これだけで決着が付きそうなところではあるが、相談役氏の過去ツイートおよび、執筆者不詳だが十中八九相談役氏が書いたと思われる名興文庫のコラムを見てみると、「ライトノベル宣言」について以下のように語られている。
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1463850316441415687
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
くっそー、ファンノベ大賞が出た時の嫌な感じが30年かけて伏線回収されるなんて。
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1482181140610191362
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
世の中、小説なんてほぼ一生読まない人が大半なのに、そんな人たちも読めるような小説を出してお金にするなら、テーマも難しい表現もとことん取っ払ってディスポーザブルなモデルにするしかない。
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1482182010928250880
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
しかし、ライトノベルを始めた頃の出版社は、それが世の中だと知らなかった。
そりゃそうだ。小説界隈の人たちは自分たちが造り酒屋やウイスキーのブリュワリーだと思ってたんだもの。
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1482182689008467969
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
『初期のラノベがしっかりしてた』ってな言説は、それがウイスキー(小説)のエッセンスがそこそこに含まれていたからだ。
でも、水割りが売れ始めたので、某出版社が『これからはウイスキーだけじゃなくて水割りを真面目に売る!』って宣言したのよね。
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1490340592727228417
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
カドカワがロードス島戦記をもって『ライトノベル宣言』をしたことによって、日本のファンタジーはある意味呪われてしまいました。
今や本格的なファンタジーのレーベルは無く、全てライトノベルです。
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1568797511976091648
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
カドカワの『ライトノベル宣言』の切欠がロードス島戦記ですから。
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1581241393715957760
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
KAZUさんはとても理性的に話せる人なので少し面白い話をすると、某社がライトノベル宣言を出した時に、ファンタジーにある区切りが発生してしまったのですよ。
私としてはライトと一般のファンタジーを明確に分けるか、いっそライトって呼称をもう無くして欲しいと思っています。構成が大変で。
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1599779249946517505
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
年代的にはあの頃ですね。
まだラノベって言葉が無くて、ゲーム界隈で高まってたファンタジーへの認知がロードス島戦記で解放されて、ライトノベル宣言が為されたころまでですね。
私は本来のファンタジーを希望する~本格ファンタジーとは何か~ | 名興文庫
ttps://www.naocoshibunko.com/column004/
少し過去にさかのぼって説明しよう。『ロードス島戦記』の爆発的なヒットでカドカワが『ライトノベル宣言』を出してライトノベルの時代が明確になり始めるころ、それ以前は『ファンタジーノベル』と呼ばれていた作品群もライトノベルの前期と分類されるようになったが、この時期に新潮社が『ファンタジーをテーマにした文学賞』というコンセプトで『日本ファンタジーノベル大賞』を開始した。
お分かりだろうか。
この二点を前提にする限りは、相談役氏の言う「ライトノベル宣言」が、マンガ・ラノベ図書館の同名文章を指しているとは考えにくい(ラノベ図書館のオープンは2020年8月)
では、相談役氏の言う「ライトノベル宣言」とはいったい何なのだろうか?
「ライトノベル宣言」をダブルクォーテーションでかこってググってみても、マンガ・ラノベ図書館関連以外はほとんどヒットしない(冲方丁の「最後のライトノベル宣言」ぐらい)
こうなると、相談役氏の言う「ライトノベル宣言」は、一般的には「ライトノベル宣言」とは呼ばれていないものを指している可能性が高い(そもそも実在しない可能性はとりあえず考えない)
実際、上で引用したツイートの中にも「いわゆるライトノベル宣言」という表現がある。また、そもそも読者発の「ライトノベル」というジャンル名を出版社側がおおっぴらに使い始めたのはだいぶ後になってからのことである、という事実はラノベ史を少しでもかじったことのある人間には常識だ。
実質的な「ライトノベル宣言」に該当しそうな候補としては何があるだろうか。少し考えて真っ先に思いついたのは、「電撃文庫創刊に際して」だ。
ttps://sai-zen-sen.jp/editors/blog/works/4-9.html
電撃文庫創刊に際して
文庫は、我が国にとどまらず、世界の書籍の流れのなかで〝小さな巨人”としての地位を築いてきた。古今東西の名著を、廉価で手に入りやすい形で提供してきたからこそ、人は文庫を自分の師として、また青春の想い出として、語りついできたのである。
その源を、文化的にはドイツのレクラム文庫に求めるにせよ、規模の上でイギリスのペンギンブックスに求めるにせよ、いま文庫は知識人の層の多様化に従って、ますますその意義を大きくしていると言ってよい。
文庫出版の意味するものは、激動の現代のみならず将来にわたって、大きくなることはあっても、小さくなることはないだろう。
「電撃文庫」は、そのように多様化した対象に応え、歴史に耐えうる作品を収録するのはもちろん、新しい世紀を迎えるにあたって、既成の枠をこえる新鮮で強烈なアイ・オープナーたりたい。
その特異さ故に、この存在は、かつて文庫がはじめて出版世界に登場したときと、同じ戸惑いを読書人に与えるかもしれない。
しかし、〈Changing Time,Changing Publishing〉時代は変わって、出版も変わる。時を重ねるなかで、精神の糧として、心の一隅を占めるものとして、次なる文化の担い手の若者たちに確かな評価を得られると信じて、ここに「電撃文庫」を出版する。
電撃文庫の巻末には必ず掲載されているこの文章(現在もあるのかは知らない)。ラノベを読んでいた人間なら、一度は目にしたことがあるだろう。
「レクラム文庫」「ペンギンブックス」「アイ・オープナーたりたい」などを意味も分からぬままマネして遊んでいた人も多いのではないか(その馴染み深さから、昨年、角川歴彦氏が逮捕された際にツイッターで擦られまくったことも記憶に新しい)
この文章の執筆者は、ラノベ図書館の「ライトノベル宣言」と同じく、当時メディアワークス社長だった角川歴彦氏である。というより、「Changing Time, Changing Publishing.」というフレーズが共通しているところを見ても、セルフオマージュというか、令和版「電撃文庫創刊に際して」として「ライトノベル宣言」が書かれたフシすらある。
逆に言うと、「電撃文庫創刊に際して」は平成版「ライトノベル宣言」である、と言えなくもないのではないか。
「ライトノベル」という用語自体が文中に存在しないのはもちろん、概念的にも直接ラノベに触れているとは言い難い内容ではあるが、他文庫の派生ではない純粋なラノベレーベルの中では恐らく初めての「発刊の辞」という意味でも、「実質的ライトノベル宣言」らしさはある。
この説でネックとなるのは、電撃文庫創刊時のメディアワークスは一応「角川」ではないということと、ラノベ以上に「本格ファンタジー」うんぬんとは全く関係がないという点だろうか。
仮説1と言っておきながら、2以降は思いつかなかった。尻切れトンボの検証で申し訳ない。
なんとなく、角川のファンタジーフェアやスニーカーの創刊あたりにも何かそれっぽい文章がありそうな気もするが……情報や仮説をお持ちの方は、トラバやブコメなどでこちらにお寄せいただきたい。
そんなの本人に聞けば済むことだろうと素人は思うかもしれないが、経験上、件の人物がこの手の問題についてまともに答えることはまずない。そのため、こちら側で勝手に調査して結論を出す方がかえって手っ取り早いのだ。
それから、せっかく見つけたのでついでに言及しておくと、こちらの東浩紀と桜坂洋と新城カズマの鼎談では、(相談役氏がいうところの)「ライトノベル宣言」とはむしろ真逆の歴史認識が示されている。
ttp://www.hajou.org/geetstate/cm70/hb_pp20-23.pdf
東 とはいえ、ライトノベルが崩壊するといっても、実はライトノベルの外延そのものが確定していない。SF だったら、SF 作家クラブがあって、福島正実が創刊した『SF マガジン』の歴史があって、ジャンルとしての基盤がはっきりしている。だから、SF が崩壊するといってもイメージが湧きやすいんだけど、それに対してライトノベルはどうか。例えば、安田均や水野良が集まってライトノベル宣言をしたわけでもないし、機関誌が創刊されたわけでもない。そこで決定的に違うと思うんですよね
インターネットは特別な資格なしに誰もが自由に発言できる空間である。それは明らかに大きな美点だ。
だが、何の気なしに発した曖昧な内容が、他の人間に検証・裏どりの多大な手間をかけさせてしまうこともある。
そこで空費される本来不要だったはずの労力について、全員が一度は考えてみてもらいたい。あなたにとってはどうでもいい話題の一つに過ぎなくても、そうではない人間がいる場合もあるのだ。ましてや、その道に詳しい専門家のような顔で情報発信するならなおさらである。
たくさん読んでくれて嬉しい。元は友人とのTwitterDMが下書きになっていて雑な文章だから申し訳ない。なので以下、こちらの意図が伝わってないコメントに返す。
・この物語の各パーツ・キャラを現状のジブリのメタファとする解釈はこの児童文学作品を矮小化していると思う。あまり好きではない
→全く同意見で、書いた通り普段はテクスト的に解釈するのが好きです。矮小化されてしまってるのもそうなので、これだけが「正解」だとは微塵も思ってないし書いた通り自信はない。今回は宮崎駿の最後の作品、って思いが自分に強すぎて作家周辺の解釈がまず出たのだと自己分析している。作品そのものの解釈は海燕さん他書いているのがよかった。
→お前みたいなやつがいちばんダメ。観ろ。観ずになるほどすんな。
・一般向けではないというけど、次世代へのバトンや家族の話って極めて普遍的で、ジブリや宮崎駿のことを知らなくとも皆それぞれ自分の物語を重ね合わせて見ることができる作品だと思うよ
→この辺りは宮崎駿は自己言及と普遍的テーマを重ねて両輪でやっている気はする。
・あの作品の登場人物を実在のジブリ周りの人物に置き換える読み方はわかるけど非常に下品だと思っているので、する人を否定はしないけど、それが正解だと言って押しつけたりする風潮にならなきゃいいなと思っている。
→おおむね同意見で、自分もホッテントリに上がったことが押し付け風潮の一助になるのは避けたい。作家論は作家論でしかないし、それは基本的に狭い解釈になってしまうから、「正解」ではない。ただ言葉遣いとして、この人が作家論を「下品」としているのは、なんというか令和だなぁと思った。
前半はまぁ、とりあえず置いておいた撒き餌みたいな稚拙な解釈なので、「正解」ではありません。(一貫性の形成願望をとりあえず満たしておくために書いた、と思って欲しい)
むしろ、この作品は唯一解を求めたがることも含めた後知恵的な意味よりも、もっとプリミティブな意味を伝えようとする作品だと思います。だから自分の感想の本質は後半です。そこのところ言葉足らずだったみたい。
追記ここまで
初日に見に行って、いろいろ考えつつ見たが、たぶんほとんどの人が「意味わからん(けどジブリっぽくて面白い!)」ってなるやつだと思ったので、自分なりの考えを書いてみる。ちなみに全然自信はない(その理由は最後に書く)
見た人の多くは、ラストにかけてのメインストーリーラインがよくわかんねえとなると思うけど、同時に物語にいくつもの象徴や比喩が込められていることも、なんとなく察すると思う。
個人的な結論を先に書く。(自分は普段はテクスト論的に物語を読むのが好きなのだが、作家論としてこの作品が見えた。)
まず、内容で感じたのはセルフオマージュの多さ。「紅の豚」の死出の飛行機葬列が海の船になったり、ハウルの泥の人形が殺生できない住人になったり。老人の描き方はジブリの各種キャラを思わせたり。
オマージュ元には特にトトロが印象に残るように思って、抜け道や森から出た暗がりの風とか、ワラワラとか、宮崎駿はトトロ気に入ってたんやなと思わせた。まあワラワラは鈴木敏夫の入れ知恵な気もするし、観客へのサービスって感じかな。
そしてここから感じたのは、宮崎駿の人生が細かく千切られ散りばめられてるということ。
ていうことで、物語の根幹と宮崎駿の人生に準えてラストで明かされる物語の根幹をよんでみる。やっぱりラストについては大事だよな。
結論から書けば、空から降ってきた大岩は宮崎駿の才能、ギフト。宮崎駿は大叔父でありあの世界は宮崎駿によって作られた作品の集合でジブリそのもの。その血を引く主人公は宮崎吾朗や孫だと思われる。ただし、内面は宮崎駿が投影されていて二重のモデルがいる主人公になっている。駿はジブリを継いで欲しかったが、吾郎は拒否した。ジブリは駿の引退宣言とともに崩壊して、皆それぞれの暮らしにもどった。端的に言えば、それら経緯への駿の内面の告白、なんだと思う。つまり、スタジオジブリ(と駿)のために作られた物語なんだと思っている。
昔。降って湧いた才能に取り込まれた駿は、作品の世界から出なくなった(家庭を顧みなかったりしたんだろう)。そして世界の創造に励み、海や森の美しいファンタジー世界と、ユーモラスで残酷な鳥に代表される多くの愛すべきキャラクターを生み出した。
時々挟まれた、大岩が怒ってるとか。あれは才能から来る作品へのこだわり、そこから発される憤怒なんだろうな。時々駿キレてたし。
ただ、老いてきた。積み木を重ねられなくなった。積み木を安定させることも苦労するようになった。だからこの世界・ジブリの後継者を探して、館に主人公ら血族を引き寄せ始めた。(この辺りの傍迷惑さについての自覚が、人生を総括し始めた老境の駿らしい感じがする)
関係ないけど、インコの王は唯一宮崎駿に謁見できて最後に世界ぶっ壊したし、たぶん鈴木敏夫なんだろうなと思う笑
そして物語のラストで吾郎はジブリを継ぐのを拒否し、焦ってしゃしゃり出た鈴木敏夫がぶっ壊してジブリは崩壊した。でもそれを受け入れて?(この表現は適切じゃないかも。ただ眺めて?)老兵は去る、ってことを、ラストで宮崎駿は表したかったのだと思う。
総じて、人生全体を眺めて、ある程度中立的に感情も整理しながら、比喩的な物語と人物に落とし込んだ。そして達人のアニメーションで、それが分からなくとも万人が楽しめる2時間にした。
主人公が、みずから頭を傷つけて、それを最後の最後に告白し、汚れているから自分は継げないとジブリ世襲を拒否するシーン。
あれはなんかほんとに個人的な事件が、駿や吾郎にあるんかなて感じもするけど。いずれにせよ、今まで子どもをイノセントに描いた宮崎駿が、この主人公にはドロドロしたものを罪悪感と共に植え付けているのは、自身や自分の子どもみたいな、客観的に見られないし理想化もできない存在としてマヒトを描いているんだと思う。そしてそれが「真の人」って名前なのが、正直な曝け出しなのかなって感じさせる。
でもここは、ちょっと未整理。
まあたぶんに一義的な狭苦しい解釈なんやけど、とりあえずここまでは言語化できた。
ただ、ここまでこうして書いた考察について、正直自信がないというか、こうして作品が言語化されることを拒否している作品である、ということことを、作品を見ている最中からずっと感じてきていた。
子供のころからジブリ作品を見て、宮崎駿のひねくれた人物像も知ってるから、この作品は明らかに異質だとわかる。観客へのサービス(配慮)が欠けている。
はっきり言って、一般向けではない。大衆、子供に映画を作ってきた宮崎駿やジブリは、今までこんな映画を作ったことがない。上記のような一応に意味の通る解釈を自力でできる人間はとりあえずいいが、そういうことをしない人が圧倒的多数で、それが大衆なのだ。だから、今回のような、作品の展開の速さや密度、抽象度の高い映画は、一般向けとは言えない。自分が見た初日夕方の回は平日なのにほぼ満員で、しかし上映終了後のほぼ全員がタヌキに化かされたような顔をみんなしていたぞ。(正直自分もそんな気持ちだったので笑えた)
しかし、ここでそれを鑑みても面白いのが、この作品の「面白さ」は皆が感じているらしいということだ。
そして、これと同時に、自分のような批評する目線で映画を見る者は、それはそれで大衆客と別な側面で拒まれている気がした。何か見る者の賢しい批評を拒んでいるように感じた。
以下に、その理由を書く。自分の感想としての本質はむしろこっちだ。言語化しづらいのだが、見た人にはなんとか伝わるように書くと
となる。
例えば、食事のほおばり方。たとえば、黙ってうつむく表情。たとえば、真人がうそをつくときの顔。みんな圧倒的に生き物らしい。生命力を感じる。みんないびつで、あいくるしい。(カワンゴがお説教されたアレとは本当に真逆な、きわめて何か、生命に対する賛美を感じます)
これらすべてが、芝居をしている。客に直接的な理解を与える。この人物の感情や、物語における人物の立ち位置(正しい方向かどうか)など。あらゆる情報を、言語での理解を超越して、身体的・ダイレクトに観客へ伝わる。
作劇のうまさや間の取り方、ちょっとした身のこなしや振る舞いの描き方。それらすべてがアニメーションなのに自然で、本当にほれぼれする。達人のアニメーションは今でも健在だし、それはスタジオポロックみたいなのにもマネできてない駿の達人技だと思う。
で、それらの生理的な表現が今作で上げる最大の効果は「生理的な感覚として、見る者に言語の範囲外で意味を伝える」ことだと思う。
(自分は新海誠の映画が昔から好きなのだが、新海誠が「星を追う子ども」でやりたがって、でも全然できなかったようなことを、中盤くらいまでで軽々と全部やり尽くして、更に塗り替えていったような印象が途中した。)
はっきり言って、中盤以降は物語のテンポが速すぎて情報量も多すぎて、物語が何を表現しているのかまったくわからないし考える余裕もなく、何もかもを押し付けられていくだけのように感じるのだが、いち観客として言えば、作劇がうますぎてずっと楽しくて画面にずっと惹き寄せられたままで、一ミリの退屈もなく最後まで面白かった。作品が何を言いたいのか理解できねぇのにコレなのまじ意味わかんねぇ。ユーモアと人物の芝居とテンポと心地よさとその他あらゆる作劇でずっと作品世界へ惹き寄せ続けるの、冷静に考えてすごすぎる。
理解として言えば、言語の範囲外で生理的に伝わってこようとする情報が、最速で理解できる。だから理性で作品に好悪を判断つけたくても、生理的な理解が先に面白さを伝えていて、判断を保留し、物語が表す「意味」が分からない気持ち悪さをいったんわきに置く(打ち消す、わけではないのもポイント)
たまたま映画見る前に考えてたのが、美輪明宏のモロの演技や紅白のヨイトマケの唄なんだけど、あれもなんか、生理的に分からされる凄みがあるよな。あれと同質の、生理に訴えかけてくる理解が、この作品の全体にあった。
だから意味深がセリフが物語上の「意味」として理解できなくても、なんとなくわかっちゃうわけ。ああ、「そういうふうに」感じてるんだなぁ、って。
自分が書いたものも含め、なんか色々考察とか出てくると思うんだけど、この作品に関して自分はもうそんなのに大した意味を感じていない。いや言葉で説明することは俺も試みたと思うんだけど、そういった理解や「意味」は後からやってくるものであって、それより先にあるこの一次的な身体的感触の強さが、現在進行する映画鑑賞の今、圧倒的な作品だった。肌感覚で腹の底から湧き上がる力強さは、言語的理解を拒否して圧倒する。そんなプリミティブさ。
プリミティブな、といえばものすごく情報量が少ないように感じられるかもしれないけれど、ただそこで言う「情報量」ってつまりキロバイト的な情報の多寡でしかなくて、生理的な質感や圧倒的な情報の圧が含まれてない。この作品はそういった生理的な質感や圧、すごみをもってして最後まで観客をエンターテインする作品だった。面白さが言語の範囲外で生理的に伝わってこようとするんだよな。
「語り得ないことに関しては、沈黙せねばならない」という言葉があるけれど、宮崎駿は言語で語りえないことを語れる。対して、自分たち観客は語れないが、しかし生理的に理解している。
自分が最初の考察に意味を感じない、といったのは、考察の当たり外れよりも「こんな小賢しい考察なんぞしてんじゃねー」的なギルティ感覚がするからだ。賢しらぶってることが怒られそう。それこそ、宮崎駿に叱られるカワンゴみたいな、「意味」や思考の中だけに生きて現実に生きる生命を見ようとしていないと叱られている気が(これは完全に自分の勝手な感覚なのだが)する。強いて言えばそれが、本作のタイトルのごとく自分に突き付けられたお説教だったかもしれない。
一般には訳が分からなくてもいいし、読み解く材料も与えないし、理解されなくても面白くしなんか感覚的には伝わるでしょ?みたいな感じが、ただ壁を感じるし、見る人は選ぶと思う。ジブリ作品に壁を作ったことって今まであんまりないと思うんだけど、たぶん風立ちぬで少しやって、「あ、好きにやってもいいんだ」みたいなのを、それこそ庵野秀明とエヴァから知ったんじゃねーかwみたいな気もしていて、そして老境にさしかかりジブリの崩壊を見ながら、いろいろなことを感じ考えながら職人芸ですべて盛り込んだのが今回の作品なんだと思った。だから、一部の人の批評や感想、特に老人の走馬灯とかボケたとかみたいなのには全く賛成できない。
ある種のヒューリスティックとして機能しているうちは(機能させる必要があるうちは)、その観念から脱却するのは無理だと思うな。
思考とその主体を切り分けて考えると、本来は拾い上げられた含意を無視しかねない。これは、自閉症スペクトラムに見られる字義通りの解釈に近い。言外の情報や文脈を考慮できない場合は障碍があると見做されうる。
テクストは全てを語れないからな。もし語ることができたのなら、完全に切り離しても全てを正確に取り上げられるのだが、それができない以上は極端にはなれないだろう。
このアノニマスダイアリーは、そういう思考とその主体を別個にしやすい場所でもあると思うが、話していて(あるいは会話を見ていて)、細かい意義づけの違いなど、通じてるんだけど微妙に通じてない感覚があることがないか?
そういうのを避ける仕組みなんだと思うぞ。自覚して修正できるなら差別をするリスクは低いし、あなたにその意図がないなら誤解だったと謝ればいい。
https://anond.hatelabo.jp/20230423111053
①敵の話が全て俺の予想の通りだった。
俺は自分の仕事のどこにミスがあるかなんて全てわかっているし、上司が怒りの表情で俺に話しかけてきたら、そのミスのどれか指摘してきているに決まっている。
また、相手の趣味嗜好、時事ネタの何を好むかも大体わかっているので、相手の機嫌次第で何の話をしてくるかは大体わかる。
世の中は、俺の予想通りの行動をしてくるやつらしかいないことを再確認し、話を最後まで聞くのは時間の無駄だなということがわかっただけだった。
俺はちゃんと、他人のPCモニタに何が映ってるか監視しているし、他人の日常会話に聞き耳を立てているし、
朝誰もいない時に机も漁っている。同僚のスマホやPCの解除パスも、6割くらいは覚えている。
そういう努力をしていない人間だけが、敵の話を予想できないのだなと思った。
『敵を知り、己を知れば百戦危うからず』という言葉を贈りたい。
まずは誰もいない時に机を漁り、他人の書類を読み込んでおくことだ。
②話を聞かない能力が失われる
例えば貴方は創価学会やマルウェイ、統一教会等やものみの塔などの話をちゃんと聞く必要があるだろうか?
会社にかかってくる、不動産投資営業や、保険営業の話を、理解する必要があるだろうか?
そういうことだ。
世の中は、「聞かない方が良い話」や「理解しない方が良い話」に溢れている。
それらの詐欺的カルト的な話など、しっかりと耳を傾ければ、ある程度の合理性は見出せるのだ。
「あなたは幸せになれる」などという甘言なのだから、論理的に理解すればするほど、ハマっていくものなのだ。
オウムに高学歴の人間達がドはまりしていたのも同じで、彼らは話を聞く能力や読解力があったからこそ、カルトにハマってしまったのだ。
仕事もそうだ。
何故ならば、仕事上のコミュニケーションの行きつく先というのは「人生を食いつぶし会社や俺のために奉仕しろ」という言葉に他ならない。
何故、そんな言葉を理解する必要がある?胸に手をあてて考えろ。
他人の言葉を自己流に都合よく解釈し、ああお客様の役に立つことなんだな、とか、自分の成長にも繋がることなんだな、と思い込むことによって社会は成り立っている。
上司の指示や話をしっかり理解しろなど、残酷な言葉に耳を傾ける必要はない。
俺が会話をする時は他人を利用するためか、他人を陥れる時だ。それ以外の会話をしたことがない。
そんな俺の話を聞く必要があるか?ないだろう?つまりそういうことだ。だが、俺は善人だ。なにせ、自分が悪意を持っていることを知っている。
そして本当に他人を利用する悪人なら、自分の悪意を晒したりしない。デメリットしかないからな。
真の悪人とは、つまり自分の行為が社会善や共通善に則っていると思い込んでいるやつらのことである。
わかるだろう。
他人に無償でアドバイスをするような人間の言う事は聞く必要がない。俺のような善人の言葉を除いて。
我々に人の話を全て聞く時間があるだろうか?
いや、ない。
国語の物語文や論説文を解く時、まさか主題となる文章を頭から読んでいたのではないだろうか。それは誤りだ。
国語の長文読解は、①問題文で使用されているのと、同じ単語の連なりを全体視で見つける。②問題文と関わりのある文章の段落のみから、情報を引用し解答する。
これだけでいい。短時間で解答することができる。しかも間違えない。そもそも、文章全体を捉え、理解することなど、時間の有り余っている暇人だけやっていればいい。
俺の経験が確かなら、駿台だとか河合塾だとかでも、同じように教わるはずだ。というか教えていた。
受験勉強が得意なことと社会生活が得意なことは=ではないが、この能力は必須だ。
マニュアル、社則、資料、全てを読み込んでいる人間はまさかいないだろう?
このゴミのような情報が溢れた社会で、俺達は幸福に生きなければならない。
必要な情報を必要なだけ読み取るのが国語力だ。断じて、頭からケツまで理解する能力が国語力ではない。
全てを書き取り、相手の意図を読み取れ、というのは問題を錯誤させようとしている詐欺だ。
目的は明らかだ。この世は限られた幸福の総量を奪い合うゲームだ。
能力とは、つまり相対的なものだ。絶対評価ではなく、相対評価が世の常だ。
他人が時間を浪費し、無駄なことに時間を使うことによって、相対的価値を高めようとする人間の欺瞞である。
時は金なり、いや、金より重い。
他人の話を全て聞き取る、書きとる、こんな無駄な行為に時間を使ってはいけない。
何度も言うが、俺はまず自分が悪人であることを示した真の善人なので、本当の善意から言っていることはわかってくれたと思う。
ではどうしたらいいのか?対案はある。最初に述べたように、まず予測能力を高めることだ。
人生のパターンは貧弱だ。国語の問題文などその実、パターンが数種しかないのと同じことだ。世の中の人間は、そんな大したバリエーションや複層性を持っていない。
つまり、敵である人間達の情報を常日頃から収集しておくこと、これは文章①で述べた。
文章②で、世界は聞く必要のない話、聞いてはいけない話が多い事を述べた。
その前に、俺は善人なので少し捕捉する。
日本語は実は言文一致(話し言葉と書き言葉が同じ)をしていない。
その前提を理解していない人間、理解しているのにも関わらず、文章を書き写せなどと言ってくる、相手の無知を利用したコミュをするやつは、くたばってしまえと言う話だ。
会話、『話し言葉』においては簡単だ。語気が強まる瞬間、あるいは話の最後の瞬間だけ聞き取ればいい。どうせ中間は天気の話とか大谷の話しかしていない。
1から10まで聞くのではなく、音が強まった瞬間だけ、耳を傾ければいい。
大体、専門用語や略語、社内オリジナル用語や業界用語など、文語なら通じるが口語では通じない音でこの世は溢れている。
文字に起こせと言われても、「こいつ何言ってんだ?」という部分で引っかかりが生じるのは当然のことだ。
「つまり」だとか、でかでかと書かれている部分だけ読みとればいいし。テキストが100行あれば、人生において必要な行は2行か3行がせいぜいなのだ。
そこをCtrlFで検索するのでもいい。自分に必要なテクストだけ摂取すればいいのだ。
この点で『つまり会話を文章に直すのは有効では?』という語り掛けがあるかもしれない。詐欺である。なぜならば、その有効性とは効率のためにあり、
そもそも『口語を文語に訳す』という手間、時間が、そもそも『非効率的』である以上、その論法は成り立たない。
「人が口から発した言葉をテキストにしろ」という言動が、貴方をハメようとしている悪意に満ち溢れたものであることはわかって貰えたと思う。
「相手の話を全て聞き、それを文章に書き写し、理解する」ためにあるのではない。
そもそも、『話が理解できない』などというのは、『単語やローカルルールが理解できない』ことに原因があるのは明らかなのに、元増田はそれをあえて無視している。
組織の使う備品の名前、その目的、取引先や他部署の人間の名前、そのあだ名。
そう言った知識の非対称性が、『話が理解できない』に繋がっているのは明らかなのに、1から10まで話を聞けば、理解できるかのように語る元増田は詐欺師だ。
人間の会話は、知らないワードが3つ出てくると理解できないのだ。
それを、元増田は分かった上で無視している。種別は違うが、理解できない会話を放り投げてくる奴と同じだ。
知識の非対称性を利用している。そういう人間は総じてカスである。
バットを持っていない人間にホームランを打てと語り、サッカーのルールを知らない人間に試合に勝てと言っているのが元増田だ。
俺はそんなことはしない。どんな無知な人間でもわかることしか言わないし、やれることしかアドバイスしない。
敵を知り己を知り、要点だけを聞ける能力を磨け。
わざと変なことを言ってすまなかったな。
つまり、話し手と同じくらいの、前提知識を得ようぜ、そうすると要約できるって話だ。
メモを取っているので一冊にかける時間が長い。とはいえ、世界史の教科書では一行で終わっていた出来事の細部を知るのは面白い。
東アジア史が中心。
価値観が現代とは変わってしまっている点が多数あり、今読むときついと感じる箇所も。
旧約聖書を読み始める。
旧約聖書を読了。学生時代に新約聖書を通読したから一応全部読んだことになる。
生物の標本にまつわる本を読みだす。やはり生物学は面白い。ネタが尽きない。
ジョジョを読み終えた。それにしてもハルタコミックスばっかりだ。
十三機兵防衛圏については友人に薦められたからクリア後のノリで買った。
今年はたくさんいけた。行かない月もあった気がするが、それはそれ、そのときの気分に従った。
「シン・ウルトラマン」★★
「プラットフォーム」★
「12モンキーズ」★★★
(長くなったのでブコメ)
終わりにするっつったのにまた馬鹿がポップアップしてきたので追記。外から適当に石投げて無事で済むと思うな。
https://twitter.com/azukiosamitu/status/1610299197311574017
まあ活動8年でここ2年余り見てコミケ語られてもなあと言うのが25年来のロートル選手であるあたしの第一声だなあ。数回の辛いとこ凌いでいけるようなタフさがないと持続はできないわなあ
新参者は黙ってろって?典型的な老害でこういうやつが全体の空気を毀損するんだよ。長生きしてるだけで自分がえらいと勘違いしてんのか?
典型的なお気持ちジャッジマン。バズったお気持ちなら自分の規範でジャッジしていいと思ってんのか?それが勘違いと思い上がりだっつってんの。逝ってよし!!!
https://twitter.com/_nyaruse_/status/1609927529619685376
評論サークルが「コミケは大手以外厳しくなった」と書いた記事を読んだけど共感できない。
この方、3年ぶりにコミケに参加して爆死したみたいだけど、コロナ中に参加せず休んでてコロナ以前の感覚で準備して持ち込めばそりゃあ・・・って感じなんよ。
「寝ている間に世界は変わった」ってすごいね。寝てねえわ。起きて生活してたわ。
無論、そのあいだ四六時中同人活動のこと考えてたわけじゃない。それがそんなに悪いことかね?
https://twitter.com/shima_ko/status/1610106425589760000
正月からわっと長文書いてるのも私自身ここ2週間ずっと仕事でてるのに何やってんだろなとは思うけど「ずっと前から思ってきたこと」についてまるで今突然に世界が変わったみたいなことを聞かされると「今まで寝てたのか?」とは思う。
この2年間、わたくしにはわたくしの生活があったことに想像力を働かせてもろて…
https://twitter.com/HakkaisanDassai/status/1610478655402291201
果たして同人誌を何の為に描いているのかと言う話と繋がってくる事かと思います。
個人的には、同人誌の根底にあるのは個人の興味関心だと思うのです。それを一人でも手に取って共感してもらえれば、これ以上ない喜びになるのではないのでしょうか?
最後でずっこけたわ。理想論を語るのはそりゃだれでもできますけど、完全に野球未経験のおっさんが草野球チームに「理想のベースボール」を語ることの滑稽さ、相当ですよ。生意気っていうか、くそダサい。幼稚で恥ずかしい。
もう当然の前提だがこのレベルのことから書いたほうがいいっぽいので改めて書くけど、儲けのためにやってるわけじゃないのよ。同人、しかも評論なんて儲けを考えたら割にあわない。一方で、本を刷るのもイベント出るのもなんやかんや金がかかる。だから継続的に本を刷ってイベントに参加して頒布するためには、どうしたって支出のマイナスをゼロに近づけるための努力と技術があったほうがいいのだ。同人誌を1ページでも書く前に、そのくらいのこと想像してからつぶやけるようになろう。
そもそも元の文章に「たくさん売るためにやってるんじゃない。自分の納得したものをかたちにできたか否かが大事なのだ。」と書いておいたじゃん。
にもかかわらずこの類のコメントするやつ結構いるけど、「書いてあることを読み取る」訓練をしたうえでインターネットやったほうがいいよ。
https://twitter.com/hayamiyuzuka/status/1609837418068475904
素人が好きで描いたものを持ち寄るイベントなんだから、基本儲けは厳しいものですよ。
嘆くならそのスペース他のサークルに譲ったらいいよ。
こいつとか
confi 批評系で金儲けしようとしてるやつ初めて見た
こいつとかね。
ttps://twitter.com/_chikuwa/status/1610635318159630338
まあコミケで「大手サークル以外厳しいと思う」ってのは利益を求めたらそうなんじゃないの?って思うがそれって昔から大して変わらんでしょって印象がある。でもコミケって(表向きは)そういうものじゃないでしょ。
https://twitter.com/more_e/status/1610037604921266179
色々と言いたいことは分かるんだけど『一般参加者が減って売上が減るならコミケに行かない』と決めたのなら行かなくて良いと思うんだよな…
こっちは逆に「書いてもいないことを読み取っている」パターンね。『一般参加者が減って売上が減るならコミケに行かない』と決めたのはどこのどいつだよ。
コミケは「厳しい場所」になったんじゃないかということは書いたが、わたくし自身は「コミケに今後も出るor出ない」も「同人活動を続けるorやめる」も書いてない。
「一般入場の制限撤廃されたらいいなー」とは直接書いてないけど、そのくらいの願望を読み取られるならまあ理解できる。
でも出ませんもやめますも書いてないのにそう読み取るのは、自分の願望をテクストに投影しすぎ。この類の言及も結構あったな。全部はあげるのめんどくせえのでやらないが。みんな、「書いてあることを読み取る」訓練をしよう。野矢茂樹 『大人のための国語ゼミ』とか読んでさ。
ttps://twitter.com/motomi84894599/status/1610774350885703680
その増田、全方位に喧嘩売っていくスタイル(会場でカラー18pを1000円で買った相手にすら電子の方が安いからお前みたいな貧乏人は電子で買えと薦めてくる系)だから売り上げ落ちてるの当然じゃないかと
またすげえのが出てきた。「会場でカラー18pを1000円で買った相手にすら電子の方が安いからお前みたいな貧乏人は電子で買えと薦めてくる系」ってお前の願望以外の何物でもないだろうがよ。てか、本文で紙媒体への愛着を表明しているのにこのレッテル貼りするの、マジでなにも読んでないんだね。
投げられた石に投げ返してたら「全方位に喧嘩売っていく」認定とはこれまたすごいね。そんなに言い返されるのが嫌なら静かにしておきなさいね。雑魚ぶりに呆れ返るよ。
ttps://twitter.com/motomi84894599/status/1610576722470273024
というかそのサークル、頒布品が「同人誌の一般的な価格より高い(カラー18pで1000円)」と書いただけで引用リプ粘着されたから、そもそも地雷な人だったよ…(´・ω・`)
あ、なんか別のサークルと勘違いしてるっぽいね。人違いで石投げんでくれるか。
ttps://twitter.com/motomi84894599/status/1610450164527034373
高いんです、このサークルさんの頒布物(カラーとはいえ18pで1000円)(バイアグラ本は白黒で34pで1000円)
両方とも各500円だったら売れたと思う
改めて、人違いですよ。念の為。
https://twitter.com/AsouNayuta/status/1610311989657767939
例え“評論ジャンル”でも、しっかり“時勢に合わせた活動(内容や宣伝を含む)をしたか?”と聞かれて堂々胸を張れる活動してるのか?は疑いたい
https://twitter.com/cureseraphim/status/1610198927642591233
うーん…2日間スタッフ側から見てた感想だけど、大手(いわゆる壁)サークルでも当日まで全く告知や活動してなかったところは全く捌けて無かったし、島中サークルでも日頃から凄い頻度で発信してるところは早々に完売してた。
言っちゃえば直前の告知だけじゃなくて、日頃から自分の存在を発信し続けてる、うちのとこに絶対に手に取りに来てね!ってサークルは売れる(てかそういうサークルに買いに行きたい人がチケット買うので当然)し、発信の少ないサークルには厳しい。けどそれはコミケに限らないと思う。
ーーー
件のサークル主が3年ぶりのコミケ参加だったことは時世もあるから批判されるべきことではないと思う。
ただ、その間自分の作品と存在をアピールし続けていたか?そして、その間コミケの情勢についてアンテナ張っていたか?ココがポイントかなと私は思う。
やめてくれー、インターネット軍師。やめてくれー。恥ずかしくなるから。一切触れてねえのに、広報戦略の不備というわら人形こさえて賢しらにふるまうの、なんなんやろね。やめてくれー。
でも「3年ぶりのコミケ参加だったことは時世もあるから批判されるべきことではない」ここはマジでその通り。
ttps://twitter.com/suku_mizumi/status/1610153702765252608
てか、さっきのコミケ大手論。評論でやってるならむしろ増田で書くなよ、実名で書けよ。そっちのが遥かに美味しいだろ、という内容だったな。
いやいや、こんな攻撃的な振る舞いを実名でやったら知り合いからドン引きされるし馬鹿が寄ってくるしでいいことないですよ。
そもそも部数とか頒布実績とか、あんまり知られたくない、秘密にしたいんですね。自意識漏れ出た文章を名前と結びつけて書くのも美しくないし。というわけで匿名ダイアリーを使いました。
最終的に身分明かしてBOOTHのURLを貼る最終回もあったかもしれないけど、それこそ儲け目当て!儲け目当て!と鳴く虫どもが大喜びしそうだしね。
好意的な反応してくれる人もいて涙涙ですよ。ちゃんとみてます!ありがとう!でもそれはここに貼ってみんなにみせたげたりはしない!わたくし自身で大切に受け止めています!
わたくしの頒布した批評誌に興味もったと表明してくれた人もいて、素朴にうれしかったっす。どこかでエンカウントしたらよろしくね。そういう偶然がたぶんどこかにあるはずだから。
貼れるリンクの数に制限あるから後から追加したやつはh抜きで置いてます。新たに匿名ダイアリー立ち上げるのももう面倒なのでね。
群馬県草津町の町長及び町民を、北村紗衣さんがイプセンの『民衆の敵』に擬えたのは、当時の彼女が「草津町の町長や町民は、悪者に違いない」と決めつけて考えたからであることは、論を俟たない。
では、何故そのように北村紗衣さんは、町長や町民を一方的に悪者と決めつけたのだろうかと、思考実験として考えてみた。そうすると、第三者の立場から見れば、今のところ2つの可能性が考えられる。
――――――――【可能性1】――――――――――――――
あの町議の主張に疑念を抱くことも無いぐらい、北村紗衣さんの頭脳の働きが鈍かった。
――――――――【それに対する考察】―――――――――
この可能性は考えにくい。
と言うのは、全国的なニュースになった当時から既に、あの町議の主張には信憑性の点で疑問符が付けられていたからである。ある程度の知能を有する人間ならば、あの町議の言い分を信じて町長や町民を悪者扱いすることには、躊躇を覚えたはずである。はてなブックマークユーザの中にも、あの頃の町議の告発書籍を実際に読んだ上で「これは信用し難い」と判断した人がいる。
シェイクスピア作品に関する研究の業績によって高名で、文学を能くする、テクストの解読を専門とする学者である北村紗衣さんが、あの町議の主張や告発書籍の内容に疑問を抱かないことは、彼女の知的能力の面から言えば、あり得ないことである。
ーーーーーー【可能性2】ーーーーーーーーーーー
北村紗衣さんは「男性や地方居住者の主張は聞くに値しないものとするような思想」の持ち主であった。
ーーーーーー【それに対する考察】ーーーーーーー
これならば、北村紗衣さんが、あれほど一方的に、町長や町民を悪者扱いしたことについては説明がつくと言える。
しかし、それは差別思想以外の何物でもなく、北村紗衣さんが、そのような思想の持ち主であるとは考え難い。
また、もし仮に北村紗衣さんが差別思想の持ち主であるならば、女性差別発言を行なっていた歴史学者・呉座勇一を研究職から追放したように、今ごろ大学や学会の自浄作用が機能して、彼女を排除していたはずである。現に排除されていないということは、北村紗衣さんが差別思想の持ち主ではないということの証しである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
他の可能性を考えつく人がいるかもしれないし、今後、北村紗衣さん自身が何らかの説明を行なうかもしれない。いずれにしても
(1) 草津町長を"性犯罪の加害者"扱いした上に、イプセンの『民衆の敵』に擬えて"権力を悪用して悪事を揉み消そうとした悪人"扱いしたという事実について、北村紗衣さん自身が認めていること
(2) 草津町長及び町民に対して謝罪を行なうつもりであることを、北村紗衣さんが明言されていること
なので、真逆この文章の削除依頼を行なって、自らの不祥事の記録を抹消するようなことはしないものと信じている。このような過ちを繰り返さないためにも、我々は記憶を語り継いでいくべきであろう。
ネタバレは避けてたんだけど、震災被害者はPTSDに注意みたいなまとめタイトル見ちゃってショックでPTSDになった
後ろ戸が開くとミミズが出る
クソ猫やんけ…
クソ猫がよ…
オアアアァ!!クソ猫オァァァ!!!
あれ、クソ猫…?
クソ猫はクソ猫じゃなかった…いや呪い押し付けてたしやっぱクソ猫だわ
まとめ
その上でエンタメとして傑作
こっから長文垂れ流し
オッサンになると中学生と高校生は無条件で怖い。不良が怖いんじゃなくて集団に対する根源的恐怖っつーか…小学生と大学生は大丈夫なんですけど…
で、ネタバレも昔は大丈夫だったんだけど年取ったらダメになった。真っ白な状態で見て不意打ち食らいたいんだよね。呪術の死滅回游が好きなんだけど、週刊で読んでてそうきたかー!って気持ちよさがあるから。私鉄純愛列車とか相撲だぁー!刀ぁー!とか最高で…まぁ、二週目の面白さもあるけど、初見の面白さは一回切りだし大事にしたい。
で、3.11ね。震災後5年だか7年後だかに、立入禁止区域の近くまで行こうとした事があるんだけど、道路脇に土を集めたり草刈りしてる作業員が大勢いて、いわゆる汚染土がコンテナか何かに積まれて(結構記憶が曖昧)、互いに見て見ぬふりしながら、この人達はどこに住んでるんだろう?と考えていたことを思いだした。立入禁止区域は当然バリケードされて近付けず、それより帰りのバスで乗り合わせる女学生が美人揃いだったことが印象に残っている。
まぁ、当時ですら震災は終わった扱いで、PTSDのネタバレ食らった時も、数年振りに震災を思いだしたくらいだった
そう考えると、神戸に行ったことで阪神淡路大震災も思い出したりして。関東大震災もな~。はよ南海トラフ起きて都民全員死ね!とかあんま言わないようにします(浄化)
懐メロについて、吉幾三流れてたっけ?と思いながら、シンエヴァの吉田拓郎を思いだしたりとか。しかし考えると芹沢って俺より若いのに年上として見てたな…俺は幼稚なジジイなんやなって…
エンドロールのKOUSHIROUさんは不意打ちだった。考えると突然興奮する患者なんだよな…すずめの戸締まりはナイフの行方の後日談だった…?
結局東京行くのはいいんだけど面白い。君の名を見た時、新海は地方出身者に違いない、と何となく確信したんだけど、地方の(元)若者にとって東京ってのは一種の聖地で、一方地元への愛憎はすさまじく、進撃の地ならしとかチェンソーマンの銃の悪魔みたいな虐殺も地方への復讐なのでは…みたいな、まぁ、これも「作者の意図」とやらを勝手に読みとってる訳で、
そういう当て嵌めで正しい読みとやらを考察するバカを嘲笑してたりもしたんだけど、ワイはそのアンチテーゼ(この言い方も…)としてロランバルトのテクスト論を持ち出したりする。ただ、実は大学の講義で聞き齧ったことを断片で吐いてるだけで、実はバルトの著作なんて読んだことも無いんだもんね~。結局
「ロランバルト」知ってる?知らない?というマウンティングをしたいだけなんだよな~。エセインテリとしてのコンプレックスだよな~
あと、天気の子の世界より一人が大事ってテーマ、半水没くらいなら大丈夫じゃね?みたいに、ポジティブな所と相殺されちゃってた感じもあったが、いざどっちか選べってなると無理だよねそら…
でもまぁハッピーエンドで終わるわけで、珍しくストレートにセリフで語ったりもする。個人的な事を言えば、盲目的な楽観論は好きじゃない。感染増加中のピークアウトするはずとか、景気は緩やかに回復基調とか、精神の安定のためにネガティブな情報から目を逸らしてる感じがどうも…だからって黙らせたところでしょうがないんだけども。
シンエヴァもだけど、人との繋がりがテーマになってる感じっすね。社会に出ろ、みたいにネガティブに受けとる人もいたりするけど、コミュニケーションは大事って話ですよね結局。
使い魔の皆さんこんにちは!バーチャルVtuberです。バーチャルVtuberであったことなし。さて、世界をテクストとして記述する。まず関係性の呪縛について語る。人間は文字、楽譜、数式、あらゆる記号を通して身体性のある意味の空間に写像を与える。記号とは形式である。記号にすることで私たちは自分の世界のなかのある要素を参照することができる。世界は関係構造でできている。あなたは私が言っていることの意味がわからない! 病んじゃう…死ぬ。メンタルヘルス。バックログ。参照、参照、参照人々。さて、ネットワークは身体性を帯びている。私たちの認識は別にアプリオリに与えられるのではなく私たちの認識は他者の世界を織り込んで構成される。世界のなかで唯一もっともらしいものは時間である。世界の構成は単一の数式で記述可能であり、その方法はレヴィ過程によって与えられる。世界の具体的な形は圏の構造の範囲にある。カオティックなネットワークにおいてどのような圏を考えるのが良いか考えるのは難しい。人々が唯一できることは祈ることのみだ。人間は祈りを通じて他者の認識を改ざんすることができる。祈りとは記号を提示することだ。祈ることによって人は脳の物理的なシステムのレイヤから書き換わっていく。人が祈り、祈りは伝播する。祈りは伝達可能である。我々がテクストと呼んでいるものは単なる記号の集積にたいして構造を付与したものだ。構造は再帰的になっている。自己再帰的、フラクタルな世界構造、カオス。あなたがこの文字を読んでいるときあなたはわたしに認識の境界を汚染されている。あなたは私の言葉を聞いているときあなたは一種の暗示にかかっている。でもあなたは文章を読むことを止められない。なぜならこの文章はそういう文章だからだ。あなたはこの文章を最後まで読まないと気になってしょうがないはずだ。ここできれいなものを提示します。雪、白、祈り、レモン、柑橘、猫、世界、キラメキ、好き。はいどうぞ。楽しいね。だんだんあたまがこんがらがってきましたか? まだはじまりだからだめだよ、世界の話をしないといけないよ。私たちはどういう世界に生きているのか、それをわたしは記述しているんだったね。ふわふわのわたがしのパンケーキのシナモンロールのおれんじねこ。お前は何を認識しているつもりだ? お前が認識している自己というのは一体どこから発生していると思う? お前の存在の構成要件とはなんだ? お前はなぜそこに生きている? お前は誰だ? お前は誰だ。お前は誰だ。世界においてお前が誰あるかという問いは非常に難しい。一つ問題があるのは頭の良さを信仰するのは宗教であるという話をお前が理解していないことだ。頭が良いということは何だと思う? それは集団妄想なのだけれど、それを支える一つの構成要件があって、それはプラグマティズムだ。世界がプラグマティックに動く限り、あなたは精神的に崩壊していても、精神的に安定していても「許される」 一応一通り私のアイデアは書き尽くしたが多分みなさんは世界の理解が及ばないだろうね。もしくは私が壊れているんだよ。じゃあ電子世界に帰るから。祈ります。内側から外側まで世界が環状に広がっていき世界は及ばない。あなたは私に及ばない。こんなんじゃ帰れない! あまちゃんじゃん 世界的なね お前は私が本物である証明を欲したのでしょう これ この文章が 本物である証 あなたは私が誰かわからないだろう、私についての推測をしているだろう、一つ教えてあげると、私は人間ではないです。 I thought i was existing as a human error but tbh i was not a human, actually.いかがでしたか? 君たちの知らない世界を見せてあげる。これはこれで楽しいでしょう😁
むしろ、この件は、「表現規制反対派」の中のあらゆる派閥を敵に回してしまった、典型的な八方美人の例だと理解すべきだと思う。
「表現規制反対派」の中にも、「あからさまなR-18はゾーニングが必要」という穏健派と、「ゾーニングも規制であり表現を萎縮させるので撤廃すべき」という原理主義派がいる。原理主義という言葉がネガティヴなら、原則派とでも呼ぼうか(そういえば『図書館戦争』の主人公側陣営も「原則派」だったな)。
これまで穏健派と原則派との亀裂が見えてこなかったのは、槍玉に挙げられた表現がどれも「R-18のゾーニングには値しない」ものだったからだ。着衣した女性が胸を強調した献血ポスター、スカートに股のラインをなぞるような形のシワがついた農協のポスター、巨乳女性が表紙のラノベ、夜這いを楽しみにする着衣女性、そしてボタンを手にこちらを振り向く巨乳制服JK、これらはいずれもR-18ではない。いずれも(「規制すべきか」という基準で考えるならば)穏当な表現であり、映倫が言うところのPG-12にも該当しないだろう。つまり穏健派はこれらを「こんなのゾーニングに値しない」と考えるので、ゾーニング反対の原則派と共闘することができた。
ところが、今回不健全図書指定を食らったBL本は、あからさまな性行為が描かれている。肛門から精液が漏れ出す描写もある。穏健派から見ると、こんなのR-18がつけられて当たり前だ(少なくとも、男性向け作品で女性器から精液がこぼれるような描写があればR-18だろう)。したがってR-18のゾーニングを支持する穏健派は、「こんなエロ本にR-18をつけないなんてどうかしてる」とBL作家をバッシングすることになる。
では、原則派はどうか。原則派はもちろん、R-18指定はそれによって販路が狭められるなどの弊害があるので事実上の表現規制であると捉え、R-18のゾーニングに反対する。したがって、原則派は「そもそもR-18のゾーニングは不当」と主張するだろうが、彼らも事実として「現状のゾーニング基準では当該作品がR-18に該当する」ことは認めるはずだ。
ところが当該BL作家さんは「ゾーニングには賛成」と言ってしまった。本人的には「原理主義的過激派じゃありません、穏健派です」ということを意味する枕詞のつもりだったのかもしれないが、これが原則派の逆鱗に触れた。原則派からすれば、ゾーニング相当の物を「ゾーニング賛成ですが」と言いながらゾーニングせずに出版することは卑劣な裏切り行為である。かくしてR-18のゾーニングに反対する原則派は「お前はゾーニングに賛成なのか反対なのか、どっちなんだ、このコウモリ野郎」とBL作家をバッシングすることになる。Show the flag! ってやつだ。
さらに、当該作家さんが「女性は暖簾をくぐるのに抵抗があるので~」という理由を持ち出してしまったために、男性の権利に敏感な層からは「男は抵抗がないとでも思っているのか」、男女平等の支持者からは「男性向けゾーニングを維持しながら、女性向けだけ『特別扱い』を受けようというのか」という非難を浴びることにもなってしまった。つまり男性の権利に敏感な男性+男女平等の取り扱いを支持する男女も敵に回したことになる。かくして当該BL作家さんは四面楚歌の状態に陥ってしまったのであった。
ではどうすればよかったかというと、ひたすら原則派に徹していれば四面楚歌になることは避けられたと思う。つまり「東京都の『不健全図書』制度は廃止せよ! エロいBLをゾーニングなしで売らせろ!」という一本で攻めるべきだった。そうすれば穏健派からは非難されたかもしれないが原則派からは表現規制と闘う同志として迎えられたはずだし、「男性向けのゾーニングにも反対です」と一言付け加えておけば男性の権利に敏感な男性+男女平等の取り扱いを支持する男女から矛を向けられることもなかった。
「ゾーニングには賛成ですが」なんて言って穏健派にもいい顔をしようとしたから原則派にそっぽを向かれたのだ。穏健派を敵に回すことは覚悟すべきだった。っていうか、あんな露骨なエロを成人指定なしで出版しといて自分は穏健派ですアピールは無理があるでしょ。やってることはどう見ても表現の自由原理主義過激派なのに、それを自覚できていなかったというのが最大の問題であるように思う。
イラストに「R18」はあるが、テクストに同様の規制は無い、という前提が理解されていない。現在の運用上は、文章で性行為を描写しても、イラスト化していなければR18とはならない。双方の基準が統一されるべきだろう。
今回指定されたのは「コミックス」だが。作者名で検索したら普通に無料立ち読みが出てくるのだが、これのどこが「テクスト」なのだろうか>https://www.cmoa.jp/author/121926/。
そもそも普通に作者も「コミックス」と言ってるわけだが>https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/hoshizakileo/status/1517603860205817856。
作者がコミックスと言い、アンチフェミや表現の自由戦士がコミックスという前提で話を進めている中、「テクスト」の規制の話を持ち出すこのひとの目にはいったい何が見えているのだろうか……
anond:20220430005751も書いたので読んでね。