はてなキーワード: テレビとは
普段アイドルはそんなに見ない。ライブもほぼ行ったことがない。坂道グループは配信でいくつか見たことあるくらい。
そんな自分がこの前、ジャイガ(OSAKA GIGANTIC MUSIC FESTIVAL)で日向坂を見た。
日向坂はたまにテレビで見て、可愛いな〜と思っていたので楽しみだった(デビュー当初しかほぼ知らないけど)。
「キュン」とか「ドレミ」とか一般人でも知っている曲を数曲歌ってくれて、かわいいな〜と思っていると、なぜだか曲間に客席まで全員で寄ってきた。ステージの端っこまで来て、一列に並んでこちらに手を振ってくる。しかも誰かが何かを話しているというわけではない。ひたすら笑顔で手を振っている。オタクたちは思い思いのタオルを掲げ、一生懸命名前を呼んでいる。
アイドルのライブってこんな感じなんですか……?ファンは嬉しいのかもしれないけれど、人数が多いからか、正直かなり異様な光景に映った。
パフォーマンスは正直普通だった。可愛いけど、そんなに歌っていないし全力で踊っている感じもしないし、へぇ〜……という感じ。
四期生?新人?の子たちのユニット?が頑張っていてそれはやや好きだった。
あと、「君はハニーデュー」という曲の歌詞に全力で引いた。
女性を果物に例えた上で、「少し硬い果肉だけど」「瑞々しい若さいっぱい」て。
モニターにその歌詞とアイドルたちが一緒に映し出されていることにかなり気まずさを覚えた。
フェスが終わった後ネットで検索すると、「曲は良いのに歌詞が……」と残念がっているファンが多くて気の毒だったのと、ちょっとホッとした。いつもの(?)炎上商法なのかもしれない。
あとその曲のセンターの子は可愛かった。「見た目はごく普通」なのになんかグッと来る、みたいな歌詞にはフィットしているように思えた。
坂道グループはたまにテレビや動画で見ていて、日向坂には「正統派、全力明るいアイドル」というイメージを勝手に抱いていたので、なんか意外と普通で拍子抜けした。
ワイドショーのコメンテーターって話を振られると必ずそれなりに量言えるよね。
モーニングショーなんかは「○○さん」と振られただけでほとんど考える間も見せずにすらすら言うことが出てくる。
逆に一回でも「別に」とか「特に思うことがないです」と言ったら次からは呼ばれなくなるだけなんでしょうが、その一回のに立ち会えたことがない。
誰か番組でコメンテーターが言葉に詰まってほとんど何も言わなかったのを見たことあったらどの番組のどの回か教えてくれない?
別にテレビに出てる芸能人や文化人もその後犯罪を起こす例はあるわけで、その犯罪ほどではないが紛れもない失態を生放送中に起こす例というもの少しはあっていいものだと思う。
そして、テレビや教科書のフェイクニュースには何万人もの人が騙されてる。
俺が高校生だった25年前くらいには
テレビじゃアナウンサーが「北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国」とか略さずにいうのも気味悪かった
当時のメジャーニュースサイトじゃ報道されないことが書かれてたのも事実
統一教会の話とか、イスラエルがアメリカを牛耳ってるだのも、ジャニーズとかもそうだし
今は答え合わせみたいになってるけどさ
めざめよ日本人()みたいなサイトじゃないとこういうのは報じられなかった
映画MIBで好きなシーンがあって、宇宙人がどこにいるかを探すのにゴシップ新聞を頼りにする場面があるんだよね
なんか書いてて思い出した
いや、アメリカはほんと凄い。
スマホ、冷蔵庫、洗濯機、乾燥機、テレビ、パソコン、バッテリーEV
傷つけられたから同じくらいの痛みを与えたいとか
自分はこんなに不幸なのになんで誰も救ってくれないんだとか
心がカラカラになって枯れ果ててもそういう感情がモチベーションになるときがある
友達と会って話した、猫が可愛かった、好きな曲を聴いた、テレビが面白かった、風呂が気持ちよかった、YouTubeで動画を見た、ラジオでメッセージが採用された、直接的・物理的に何かを得たり摂取するわけでもないのに心が弾んで嬉しくなったり楽しくなったり、その日一日がまるで最高に幸せであるかのように感じれる
いわば、恨みや憎しみはそうした養分が失われたときの反動から来るとでも思えばいいのかな
でもそうした感情にずっと身を任せていると今度は自分の心が壊れちゃうんだね
恨みや憎しみに駆られていると、自分の好きだった物事や人まで嫌いになることだってあるし、ゆくゆくは“好き”って気持ちを抱いていた自分自身をも否定する結果になるのかな
https://togetter.com/li/2422881
その昔、テレビもカセットデッキも普及していなかった頃、人々は共通の興味関心がなかった。板書された内容を学習帳に書き、家に帰り、飯を食い、寝る。ただそれだけ。
人によってはガキンチョ同士でつるんで何かしていたかもしれないが、つるむ必要も特になかった。つるんでやることなど万引きだのイタズラの類であったからだ。
テレビの収録スタジオでモニターを見るのではなく市民会館みたいなところを貸し切って上映していて、
芸能人や子どもたちやドリフ世代のジジババが席に座って見ていて
放送ではワイプや客席の人たちが爆笑している姿が頻繁に映されていた
それについてドリフへの敬意がないとか客席の反応はいらないとブチ切れている人たちがかなりいるが
一方で「令和の子どもたちが笑っているのが嬉しかった」っていう声もあったんだよね
真顔の時はお堅く見えそうな白髪でオールバックで眼鏡のおじいちゃんが下ネタコントで爆笑してる姿とかもなかなかよかったよ
リアルタイムで見てた世代なんだろうなーとか志村が死んだ時はショックだっただろうなとか思いを馳せたりしてさ
テロップやワイプなしで真剣に見たいって言うならドリフはBSチャンネルで放送されてるしサブスクやDVDで見ればいいだけで
今テレビで放送されてる時に本放送にないようなものがゴチャゴチャついてるのはまあそんなもんでしょって思う
こんなことにすら「ドリフに失礼だ!敬意が足りない!!」って道徳的優位に立って正義棒で叩く立場に回ろうとするの本当に狂ってると思う
今から12年くらい前(フジテレビの韓流デモがあった時)に「テレビはオワコン」「いや今でもテレビの影響力は大きい」という論争があった。
12年の歳月が経ったわけだが、結局あの論争の解答は何が正解だったのだろうか。
私個人的には、今はテレビはニュース報道と大相撲中継しか見ていない。
バラエティやドラマは見ないし、ドキュメンタリー番組は絶滅してしまった。
バラエティは見ないと書いたが、お笑い芸人の千鳥が好きなので、例外として千鳥が出ている番組だけは見ている。
バラエティに興味はないが千鳥に興味があるので、「千鳥の番組」というフィルターを通す形でバラエティ番組とは関わりを持っている状態。
その千鳥の番組を見ていても、「千鳥が出なくなったら多分観なくなるだろうな」というレベルでしかない。
むしろ自分の好きな千鳥が、こんな低予算番組を一生懸命盛り上げているのを見ていて不憫な気持ちになってしまう。
一つ気になっているのは、千鳥本人たちや出演者の言動や態度を見ていると、「テレビに出させてもらってありがたい」と本気で思っているフシがあるように見えることだ。
テレビの影響力は今どうなっているのだろうか。
いやまあ途中経過の報道一切なしでいきなり総裁決まりました!ってやられるのもそれはそれで微妙だけどさ。
でも我々が何を聞かされて何を思ったところで何か出来る事があるかったら無い訳じやん。
“家でもバラエティ出てるみたいな感じに盛り上げてくれそう”
っていうわかるようなわかんないような理由
元々特別好きなわけじゃなかったけど、ライバル視というか自分には無いものを持ってるという理由で嫌うようになった
あれから10年、その人とは別に懇ろになるでもなく気持ちを伝えることもせず、というか相手既婚者だし何もしないまま時間が過ぎて気持ちも無くなったけど、大泉洋のことは今でも好きになれない
普通、私たちの発する言葉には、意味があるものだと考えています。
しかし、大半の言葉はそうではなく、それは何の考えも持たない叫びのようなものです。
私が誰かに憤慨して、「うるさい、馬鹿、嘘吐き、うんこ垂れ、死ね」と言ったとしても、それは本当に、大声で、頭が悪く、嘘をつき、脱糞する人だと心の中で考え、口述し、死ぬことを命じているわけではありません。
それは、「うぎゃー、むきー、あっ、むむ、ひー、うおぉ」といったような、動物の叫び声にも似た、習慣的に獲得された感情のオートマティックな自動機械の働きから生ずる音声でしかありません。
例えば、テレビで日本に来て間もない外国人タレントが、周囲の人に「オマエ、バカ」と言っても笑って流せるのは、彼は日本語をまだよく分かっていないため、見よう見真似によって獲得した言語行為をなしているだけであり、心の中の考えを述べているわけではないと分かるからです。
私たちの使う言葉の大半は、それと同様、何の考えもなしに、感情と状況に合わせて発せられる、単なる条件反射的な習慣の産物でしかありません。
そもそも論として、心の中の考えを言葉にするためには、かなり覚めた集中力と、主体的な意志を必要とします。
怒りや悲しみのような情動に支配された人が、そんな理性的な行動をとれるはずもありません。
だから、彼らの発する言葉の意味内容を、彼らの考えそのものだとして、自分の心を傷つけたり、相手に仕返しをしたりする人は、オウムの言葉に傷つき、オウムの言葉に憤慨し叩き殺すようなものなのです。
喧嘩をしている本人同士は、相手の言葉を相手の本心、自分の言葉を自分の本心だと、マジに思っています。