はてなキーワード: 面白とは
推定50代女性が無表情のまま人混みを割って駆け下りてきたの面白すぎたので増田に書き残しておく。
子供の頃の経験から無理だろと思ったんだけど、大人なら降り切れるもんなんだな。
因みに朝なので2列びっしり。
びっくりするくらいに子供を車に乗せることに対する想像力が働かないのかなというのはあるんだが、そりゃわからんよな。
子供を車に乗せるっていうのは「重い荷物を車に乗せる」というのとは全く違う。言っとくが子供を車に乗せるだけでもかなり事故の可能性がある。
それは間口が狭くて子供をうまく扱えずに落としてしまう(子供は常に動いてるしそれが危険かどうかなんて全く想像しないからな?言っとくけど)なんてのもあるだろうし、狭い車内に体をねじって乗せるなんていうのは毎日何回もやるならかなりの負担になる。
出産直後の女性は筋肉なんかも相当減ってるから男性には想像つかないレベルできついはずだ。
元増田は「広いとこに移動して乗せりゃいいじゃん」なんて言うことも考えているようだが、これはかなり思いやりのないアイデアだ。「お前がもうちょい頑張りゃいいじゃん」と同じだからな。
今みたいに核家族化が進んだ時代の子育てっていうのは、周囲の人はなにかにつけて助けてくれる心強い仲間じゃなくて、油断したら何されるかわかったもんじゃない魔物と同じだ。これは時代とともに人々から子育てに対する想像力がなくなっていったことやマスコミが「そういう人」ばかりクローズアップして人々の不安や不信感をひたすらに育て上げていることが原因だとも思っているが、なんにせよあまり悠長なこと言っていられない。
スライドドアじゃないというのは、間口が狭くて作業が大変になる、ということの他にも、扉を周囲の車にぶつけてしまわないように扉の行き先にも気を使うという余計なポイントが増えるということでもある。
試しにだけど釣り上げたばかりのカツオを毎日車に乗せるとかできりゃもうちょいわかるかもしれんけど元増田の場合は自分の意見に固執しているようなので、そうなると今度は自分の体力をものさしにもの考えそうだから先に言っておく、将来に禍根を残したくないなら死んでも言うな。
ちなみに、何も掴まないし人間じゃない分カツオのほうが楽だぞ?
本人が大変だ、と言っているなら、大変だ、という前提で話をしろ。奥さんは面白半分に話してないからな。真剣に話しているからな。どう考えても子育ての初期は母親を中心に回る、こればかりはもうどうしようもない、俺達男には予備知識もなければ情報源もない、そんな世界でやらなくてはならない。残念ながら日本では子育てにおいて男は凄まじいハンディキャップ戦を強いられているし、これを改善しようという動きもほとんど見られない。育休だの産休だのはほんとに誰も傷つかないようにこっそり入れた変化でしかない。
お前は助けることに喜びを感じなくてはならない。
乗りたい車に乗れないことが嫁さんより重大な問題か?
子育て中の親御さんが車のボンネットや屋根の上にかばんやベビーカー、買い物した荷物を置いたまま発進しているのを見たことがあるか?もうそのくらいにパンパンでやっているって言うことを理解してあげてほしい。
元増田に車を選べるだけの余裕があるなら、もう子供が生まれたら奥さんに選ばせてやれ、その後の生活がそれだけでかなり楽になるのは増田にとってもかなりのストレス軽減になるからな。
でもだんだん同じことばかり書くなと感じ
それはつまり私がその人を消費したということかと思い
しかしたまにやはり面白いと思わせてくれるから相変わらず好きではあり
何か本とか書いたりするかと楽しみにしたりもしたけれど
一種の演技のような書きっぷりが痛々しく悲しく
裸になれなくなるし妙にカッコつけてしまうしいいことがないよなと
それでも一度好きになったものに対して私はしつこく執着するので
まぁあまり期待し過ぎず楽しみに待っていたりする
もう一度あの人にことばのミューズが宿らんことを。
辛うじて趣味といえるものが読書ぐらいしかないから、読書好きコミュニティに登録してる相手にばかりいいね!している。だがコミュニティというのは目に留まるようとにかく沢山登録することが推奨されるものだから、プロフィール文の趣味は全く別であることの方が多い。
運よくプロフィール文で読書好きといってる人を見つけても、あまりにも一般的な趣味ゆえに嗜好が合致することはほとんどない。こちらは「辛うじて趣味といえる」程度の読書量で、かつ流行りなど一切無視して読みたいものを無軌道に読んでるだけだから尚更だ。最近何読みました?がマッチング後最初の常套句だが、返ってくる作家や書名は(有名なものでも)99%読んだことがない。
しかしそこで知らないと言うと話が終わってしまうから、その後の応答は必然的に2つに絞られる。まずそれがあまり有名でない作家の場合は、面白そうですね!と興味のある風を装いつつ、作品のディティールや周辺のジャンルについて聞き出してゆく。メジャーな作家の場合は、適当な作品のあらすじを調べて矛盾のない(漠然とした)感想を捏造し、昔読んだが詳細は忘れてしまったふりをする。そしていずれの場合も、話題となった本をAmazonで即時買い求める。
このとき、前者の場合でも本を買ったことはまだ話さない。二言三言話しただけでいきなり買いました!と来られるのはあまりにキモいだろうから。やり取りが続いて直接会うとなった際、そういえばこの間言ってたあれ読んでみたんですよ~と持ち出すのが理想的だ。後者の場合、後々になって奥付を見られても大丈夫なよう古書を選ぶ配慮も重要だ。どちらにしても、届き次第すぐさま読み始めて話題に追い付いておく必要がある。
こう書くと読みたくもない本を無理やり読んでいるみたいだが、不思議なもので今まで見向きもしなかった本でも人に面白いと言われると俄然興味が湧いてくる。これはロゴスのアウトドアグッズを見かけて旅のラゴス(名前だけ知ってた)が読みたくなるような自分の無軌道さのせいかもしれない。星野道夫、ルシア・ベルリン、米澤穂信、徳田秋声、ケン・リュウ、平野啓一郎、チェーホフ……。この1年で本棚のレパートリーはずいぶん広がった。
マッチングアプリは、相手からのメッセージが返って来なければ終わりの世界だ。ほとんどの作家は結果的に話題に持ち出す機会を得られず、手元に本だけが残っている。昨日は木下龍也の『天才による凡人のための短歌教室』が自宅に届いた。誰かと話をするあてはもうないのだけれど、週末はひとつ短歌でも練ってみようと思う。
以前、自分の働いている業界のネタを増田に書いたら、1000ブックマークを超える反響があった。
何年か前に半導体業界に興味を持ってる友人と個人的にやり取りをしていたら、業界ネタを意外に面白がってもらえたので興味本位で増田に書いてみたのがきっかけだ。
https://anond.hatelabo.jp/20200813115920
ブコメやTwitterで言及している人の反応が気になって、ちょいちょい増田で業界ネタを書くようになった。
反応を読んでると、この人は本職の人だなとか、知ったかぶりしてるだけだなとか、そんな視点があったのかとか、いろいろ発見があって中毒的なハマり方をして、気づけば第2弾、第3弾と投稿した。
https://anond.hatelabo.jp/20200813164528
https://anond.hatelabo.jp/20201219004424
何回か投稿したら新鮮味が無くなってきたのか、そこそこ気合入れて書いたのに全然反響のない記事もあった。
https://anond.hatelabo.jp/20210311005848
■ 政府の成長戦略会議で半導体が取り上げられたようだがダメダメな件
https://anond.hatelabo.jp/20210414092457
みんな飽きてきたんだろうなと思ってたのだが、最近の半導体業界の変化が激しくなってきたので情勢をアップデートしたくなった。
https://anond.hatelabo.jp/20230602020358
久しぶりに気合を入れて書いたら1000ブクマ越えの反響で、いろんな反応が読めて面白かったんだけど、今回はいつもと雰囲気が変わった感を感じた。
なんていうのかな、半導体産業の注目度が一般層に広がった感がある。昔はうんちく披露だったり、マウントだったり、業界への知的好奇心的から来る人が大半だった気がするのだけど、普通っぽい人がニュースでよくやってるから気になってブクマ的な流れで、見に来る層が以前と違うというか。
あとは投資ネタというか、半導体業界にお金のにおいを感じている人もチラホラ出てきたようにも思う。最近よく聞くようになった言葉で、『半導体人材』なる言葉あるよね?(昔はこんな言い回しせずに単に半導体技術者としか言ってなかったような)
なんていうか『プログラミングスクールでIT人材育成』的な言葉の響きを感じて、このまま数年間半導体ブームが続いたら、半導体スクールみたいなの作られそうだよなとか思ってしまった。
まあ、何を教育するんだろうというのはあるけども。
https://comic-days.com/episode/4856001361249018766
(*入れ込むってのは競馬用語でウマが畜生特有の脈絡のない興奮で空回りして自滅へ向かっちゃう状態のこと)
その上で、俺この主人公の黒い女の子みたいなのがすげー納得いかんのな。
この子とそれを取り巻くすべての状況が不条理かつ低能過ぎて呆れちゃうというか。
ここまでで何言いたいかピンと来たって人が居たら教えて欲しい。あんたは俺の仲間だ。
まずさあ、
大事件か?NO。
そもそも文化祭のクラスの出し物なんて初期状態では誰もコミットしてないわけじゃん。
頑張りましょうねなんて誰も思ってないし責任もない。
誰もそんなたまたま選ばれた人に期待してないし、と言うことはその人の責任もねーのよ。
やる気なく流したっていいし、凄いビジョンを持って取り組んだっていい。
LINEでボケーっと何の足場も提示せずにアイデア募集しました、そりゃなんもこんわ。
無能なのはいいけど感情的なのはやめて欲しい。意味わからんから。
「クラスの出し物が一定の成果を出せなければ全員死にます」なんていう
マガジンのクソ漫画みたいな状況にあるならまだわかるよキレるの。
みんな自分の命がかかってるのに人任せにするなよ!ってことだよね。
でもそうじゃないじゃん。
そのことで責めてくる奴もいない(もし責められたらLINE見せて「お前もなんもしてへんやろボケェ!」ってキレ返せばいい)。
どういう感情で「実行委員という役割」や「文化祭というイベント」に臨んでるわけ?
「有能な自分がやる以上は何らかの成果を必ず出すのだ」っていう自負があるならそれはいいと思うよ。
そういう自負で取り組んだのに上手く行きませんでした、自分の能力の低さに涙が出ました。
でもこの子ってなんか周りへの恨みみたいなものが見えるじゃん?
いやいやいや、別にクラスメートは文化祭のクラスの出し物にコミットするなんて約束してねえじゃん。
そんな意思表示は一度もしてないわけじゃん。
だから実行委員としてはやるもやらないも自分のコントロールで勝手にやってよって話じゃね?
みんなに合わせて適当に流すのはわかる。
我がこととして主体的に取り組んで失敗して涙もわかる。
でもこの子は変な風に当事者意識は強いのにイベントの行方についてはクラスメートに任せてるんだよね。
でもこういう奴マジでいたよな。
ありもしない責任を捏造して他人を糾弾したがる人間がウザくてたまらん。
実行委員にあるのは(人間にあるのは)自分がやると決めて主体的に取り組んだ時の成功や失敗だけだろ。
実行委員は流すことも出来るしすげー頑張ることも出来る。
だからこの子だけじゃなくて終盤の「いい子になった」描写らしいクラスメートも意味わからん。
黒い子が仮にあんま参加してなかったとして、たぬきちゃんに詫びを入れなきゃいけない理由なんかあるか?
「文化祭のクラスの出し物が成功したらクラスメート全員の口座に100万円ふりこまれます」みたいな
クラス全員、お前も利益を受け取るからにはちゃんと労力分担しろやって感情はわかる。
でもクラスの出し物なんてそうじゃないわけじゃん。
やった人間がまあなんか達成感とか良かったねっていう思い出とかの報酬を受け取るだけ。
どっちも自由であって、どっちかがどっかに怒るとか恨むとか詫びるとかマジで意味がわからん。
黒い子が反省すべき点があるとしたら
LINEで「アイデア募集ー!」ってのは到底コミットが集まるようなアプローチではねーよなとか
やりたそうなやつに目を付けて直で話しに行って折衝すべきだったなとか
全員無理矢理追い込むなら教師を動かして説教させてコミット圧を高める手もあったなとか
そういうことじゃねーの?
俺は学校の出し物のたびに思ってたわ。
ここには感情的にならんといけない要素なんかどこにもねーじゃんと。
楽しく自分の裁量でやったりやらなかったり成功したり挫折したりすりゃいいだけじゃんと。
例えば「私はここで結果出すと内申点よくなると睨んでて私の将来のために協力してほしいの!」ってキレるならそれはよくわかるわけ。
おもしれ―女だなってちょっと協力したくもなる。
でも実際はそんなおもしれ―女もいいなくて、ただぼんやりした他人任せの進捗と挫折があるだけで
なんでそこでいちいち感情を持ち込むの?
あの手の出し物で感情的になる女子を見てた時、或いは俺が直で吠えられた時、
「この低能な生物には何をどうしてあげたらいいのかなあ・・・」という感慨しか湧かなかった。
俺はいい奴だから現実的なアイデア出して付き添ったりしたことがある
最初「大喜利」とか言ってたからこいつらスゲーなどんなバカだよと。
世間にキャラを知られたプロの人気芸人がネタを仕込んで台本組んでようやく面白くなるものをお前等がやってどんな勝算が?
しかももちろんネタも出ないしろくに練習する予定もないうえにネタ候補ってのが内輪ネタばっかなの。
それを誰に見せる気なんですかウギャーと。お前等のことなんか何も知らない人達がくるんですよと。
なのに上手く行きそうにないことや狭い友達以外積極的でないことに感情的なの。
んでえーそれは難しいよーつって何で暴発するかわからん感情を刺激しないよーにやめさせて
元から高校生レベルじゃない芸を持ってるやつがいたのでそいつを頼ることにしてそいつ中心の指導で地獄大喜利改めお遊戯発表会くらいにはなって
高校生がみんなで努力した跡は見れるから結構評判が良くてみんな達成感出ましたねーみたいになった。
軌道に乗って以降のクラスには最後までこの漫画みたいな低能丸出しの感情が横溢してた。
いい人とか悪い人とかじゃなくてその低能さと混乱しきった感情を何とかしてくれってずっと思ってた。
最終的にその女子やそいつの友達から「増田くん有難う!」とか言われちゃったんだけど
この低能な生物達とは最後まで疎通が出来なかったなという挫折が俺の手にしたものだった。
俺にとっては自分のミッションとして頑張った結果の挫折っていう満足のいく成果だったからいいんだけど、
自分が一体何に対して感情的になってるのか、一度でいいからきちんと整理してみて欲しいんだけど
一生そういうこともせずにああいう感じに生きていくんだろうな。
元々コミュニケーション能力低いほうだとは思ってたけど、いうて日本人平均よりちょい低いくらいやろ、程度に軽く考えてたんだよな。
ただ大学卒業して会社員(法人営業)やってると周りより格段に劣る能力を痛感することが多くて泣ける。
全然思い出せないけど例を挙げるとこんな感じ
みたいなことを、慣れとかではなくずっと繰り返してる。
どうも「人に話しかける」「メールを送る」といった処理コストが俺の脳には重たいらしく、仕事を始めると速攻で気力を使い果たして人と関わりたくなくなってしまう。
逆に客先の売り込みとか説明とかは全然楽しいんだけど、上のことができなさすぎて準備時間がほぼないまま突撃して糞みたいな結果に終わることも多い。
とはいえ提案自体は上手くいってもお客さんとの仕事以外の雑談とか会食とかは無理すぎるのでまあ営業としては広がりがなくて終わってる。
先輩も最初は気を遣って遊びとか飲みとかに誘ってくれてたけど、俺のおもんなさとおもんなさそうさを察したのかほぼ完全放置されるようになった。
後輩は今のところ気を遣ってくれてるのかとりあえず媚び売ってくれてるのか、楽しく話せるようにいろいろ話題を振ってくれるけど申し訳ない気分になる。その先輩への気遣いも俺がやろうと思っても全くできない行動なので猶更負い目がある。
最初は一瞬部署が合わないせいかと思ったんだけど、冷静に考えると俺が溶け込めそうな場所なんて殆どない。
かといって適応するために無理すると心が壊れそうなので流れに身を任せて諦めつつある。
人生でこれだけはなりたくなかった、無口で仕事のできないおじさんに、まさに今なりつつある。
仕事でも遊びでもなんでもいいから積極的に人と関わって、それを楽しいと思えるようになっておくって大事だったんだなぁと糞当たり前のことを今さら痛感した。
これからどうしたらいいんだろうな、って質問には色々答えがありそうだけど、そのどれにも応えられなさそうな自分が容易に想像できる。悲しいなあ
俺は元々延岡生まれで勉強とかしなかったけど平成10年に晴生とこうすけがふっかけてから没頭するようになって勉強したんだよ。しかしダメだった。
違った。北予備
森脇先生 評価 : 人間公害 https://w.atwiki.jp/kitayobi/pages/278.html
長谷川慎一 (英語) https://w.atwiki.jp/kitayobi/pages/18.html
当時の感想 英語芸能人みたいな感じで有名で面白かった。 高い山に登ったら気持ちええけど、そっから落ちたら痛いわな、が口癖だった。検察庁の職員に似たようなのを発見。
うちは電子書籍派なんだが、お互いにハマっている漫画を教え合って、面白かったらそれぞれが電子で単行本を買っている。よくよく考えるとけっこう無駄なんだけど、各自が好きな時に読めるし、好きな漫画の売り上げに貢献できるから、まぁいいか。
まあ家族の生活重視なら便利だし運転もノンビリ流すなら案外わるくない。自分はけっこうミニバン好きになった。
ダンナの趣味に付き合って、ランエボとWRX、ロータス(全部MT)で幼稚園の送り迎えまでやってたママ達が何組か知り合いにいたので夫婦の問題は正直しらんがな、だけど。
幼稚園とかショッピングモールで爆音でエアロついたWRXやランエボから、ごくごく普通の格好のママが子供連れて降りてくる、そのギャップにまわりがギョッとするのが面白かったとは言ってた。
ちょうど最近立ち退きから退去金請求したライターの話が実用的で面白かったから参考にぜひ読んで
全6話だけど良質なドキュメンタリー
【絶望】大家から「部屋を出ていってくれ」と言われたので弁護士に相談した結果 → 自分の無知を恥じた / 立ち退きバトル第1話
https://rocketnews24.com/tag/%E7%AB%8B%E3%81%A1%E9%80%80%E3%81%8D/
「ちなみに、立ち退き料の内容は事案によって異なりますが、一般的には転居に要する費用に加え、転居先と現住居の差額賃料の一定期間分などになります」
子持ち女性って増田には少なさそうなんだけど、子持ち男性も含めてやっぱ子供作る人って生まれてきてよかった~って思ってるタイプなのかな?
私は幼少期に病気も多かったし、生きるって辛いって思うことが多く、生まれてきてよかった~~~がなかったんで、子供は産まないことにしたんだよね。
生まれてしまったからにはつまんなく生きるよりは楽しく過ごすことにはしてるんで、なるべくいろんなことを経験したり面白がったりして楽しく幸せに暮らしてはいるけれど、
平成20年11月30日に霞が関職員の後頭部を東大法学部の名前使って切りさばいて殺したから、長谷川と、森脇がとち狂っただけの事。
黒羽は長谷川と森脇の自作自演だったが、長谷川はろくでもない奴で、今でも似たような奴が浮間舟渡とか延岡に出てくることがあるが、
森脇はなんなのか分からない。前記事件は非常に面白い事件でかなりの国民が喝采したが、黒羽刑務所に連行したのは面白くもないし最悪な事件であり、
後者の事件が成立したため、お前に対して拳銃が撃ち込まれていても正当であり、お前が執拗にまとわりつくのも、東大法学部に霞が関職員の後頭部を斬りさばかれて殺された
恨みが根底にある。東京の一般の老人世界では、平成の若者に脳をやられたくらいの通念がまかり通っている。他方でめぞんときわだい202号室に住んでいるのはなんかブタのニートであり
対話も成立しないため意味が分からない。最後に、確定させておく必要性があるのは、俺が好きであり何としてでも関係を成立させたい個人は平成29年に理科一類合格者の特定個人で
【理解できる】
→これはわかる。好きなこと、望むこと、大事にしたいことは人それぞれだよね。
【理解できない】
・子孫を残すことは種としての本能、あるべき姿、果たすべき義務だから子供をつくる
→本当にそう思ってるの……???
子供が要らないという意見に対して後者のような反論がついているのを見ると、本当の本当にそう考えてるの?と不思議になる。
自分の人生なのに、本当に子孫繁栄のことを考えて子供をつくるかどうかの選択をするの?
本来は前者のような考えが裏にあって子供を持つ判断をしているけど自己理解が足りずに後者のような言い方をしている、という場合は普通に理解できるからこの話の論点ではない
例えばだけど、「別に子供が欲しいわけでもないし親に見せたいとかもないし世間体も特に気にしないけど、種としての本能や義務感のみを理由に子供を作らなくちゃと思って子供を持つことを選んだ」人がいたとして
その人って自己肯定感が低すぎるのでは?と思ってしまうのだけど、違うかな?
種としての義務を果たすことでしか自分の人生を肯定出来ないってことだよね?
子供を作らないことを選択すると自分の人生に対して自分で納得できなくなるか、もしくはそれ以外に優先したいことが特に無い虚無人生かのどちらかそう
やりたいこととか趣味とか何も無さそう
偏見10割の内容だけど、本当に不思議に思っていて、こういうことなのかな?という推測で書いている
もし【理解できない】タイプに当てはまる人でわたしが言ってる内容に対してそれは違うんじゃない?と思った人がいたらよければ冷静に解説して欲しい
▼6/8の朝 追記
なんとなく書いて寝て起きたら思ったより反応を貰ってた
もっと頭ごなしに否定して怒られてしまうかと思っていたけど、思っていたより普通に教えてもらえて色々な解釈になるほどと思いました。ありがとうございます。
子供を持たなかった人の負け犬の遠吠えだみたいに論点と違うことを言われるのが嫌だったからあえて自分の立場は書いていなかったために分かりづらい点があったと思う。申し訳ない。
「本能」の単語の使用にいくつかツッコミをもらっていたけど、わたしは「【理解できない】の意見の人たちはこんな感じのことを言ってる気がするなあ」でざっくりと書いただけだったので、なるほどたしかに、本能と義務を一緒くたにすると少し話がややこしくなるなと思った。
考えてみれば、本当に本能(何も考えずに中出ししたら子供が出来ちゃった、とか)に従って動いた人のことは私も理解できる。本能だもんね。
そうじゃなくて、「これが人間の本能だから」「これが義務だから」「こうするべきだから」という理性的な思想のみで子供をつくる人って本当にそれだけが理由なの?もしかして本当にそれだけが理由な人は実はいなくて、皆何かしら【理解できる】方に当てはまる理由や動機があるけど言語化出来てないとかで言ってるだけなんじゃない?という話がしたかった。あと書きながら思ったけど、本能で動いてしまうことを正当化したい人もいるのかもしれない。
これにとても「たしかに」になった。
「子供をつくらない選択肢がない」ということはイコールで「子供をつくることより優先したいことがない」ということだと安直に推測して、自己肯定感のない虚無な人なの?と書いたけれど、無条件に子供をつくろうと思える人は人間をひとり増やすことに不安感や責任感を覚えたりしないからそうなれる面もあるんだろうな。
といってもこの場合も「無条件に子供をつくろうと思える人」にも私が理解できる範囲の理由があって子供をつくろうとしているはずだから、当初の論点からはずれるかもしれないと思う。
自己肯定感と書いたから話がややこしくなったけど、結局は「子供をつくりたい理由がないのに子供をつくることを選ぶ人がもしも本当にいるのだとしたら、もしかしてそれ以外にやりたいことが何もない人生を送っている人なのでは?」という話です。子供をつくりたい理由があるなら理解出来るけど、って話。
▼6/8の夜 追記2
私が適当なタイトルを書いたせいもあり(後から見たら本文と乖離の大きい釣りタイトルになってしまっていると思った。適当に要約したからちょっと主題とずれていた)、いつの間にか「子供をつくることは本能なのか?」みたいな方向性に話が広がっちゃった。でもそれはそれで興味ある話だったから面白かったです。
ちなみに子供をつくるのは本能だろうという意見を多く見たけど、私は中出しセックスまでが本能でその後の「子供を産み育てたい」については「選択」だと思っていたので、そこら辺の認識に差があるのかなと思いました。
以降は隙自語になってしまうので申し訳ないのだが、「子供がほしい」に理由とかない、なんとなくほしいでいいじゃん、って言ってる人が結構いたので、ここが私に欠けているものなのだなあと感じた。
普通になんとなく欲しいと思える人からしたらどうして子供をつくる理由とかわざわざ考えてるの?と思われるみたいなのだけど、それはマジョリティ側の思考回路だと思うんだよね。
欲しくないが普通の考えの人間からすると「自分はどうして大多数と違うんだろう、何が違うんだろう」っていうのが気になるし、理解したいし、(私の場合は)理解することで共感はできなくても安心できるんだよね。
○○をすれば子供がほしいと思えるよ、という意見もあったけど、同性愛者に異性愛の良さを説くのと同じくらいずれた話だと思う。(そもそも今回の主題ともずれてるし)
子孫を残すことは正しい行いだと私も思うけど、別に正しい行いを出来るようになりたいわけじゃないので……
色々な意見に目を通させてもらって、本来想定していた話題とは違ったけれど、私が理解できないと言ったことについても触れてる意見も多かったのでありがたかった。
後者の理由だけで子供をつくろうとする人はいないんだよね?みんな何かしら他に理由(とか、それこそ本能に従ってとかの行動原理)があるんだよね!?というのは別にそれほど間違ってはいないみたいで、それなら理解出来るから少し安心した。
でも1番の理由でなくとも2番目3番目くらいには子孫残さなきゃなという考えがある人とか、あと理由とかなく何となくで子供をつくる人が思ったよりも多くいて
どうして自分は「そうじゃない」んだろうと思ってしまって少し落ち込んだけど、
https://anond.hatelabo.jp/20230608105137
https://anond.hatelabo.jp/20230608124155
https://anond.hatelabo.jp/20230608184634
子孫を残したいと思わなくてもいいんだ。
本能がないのはおかしいんじゃないか、どうしてなんだろう、と思っていたけど、私に本能がないわけじゃないんだ。知識と理解が足りてなかっただけだったんだ。
いらっとするたびに筋トレするといいぞ。
そのうち快感になって声の主にも「筋トレさせてくれてありがとう」という感謝の念が僅かながらわいてくる。ここでポイントなのは面白みの有るメニューにすることだ。相性があるところだから取っ替え引っ替えしてみる他ないが仮の候補としては斜め腕立て伏せや斜め懸垂をおススメしておく。
あんまり掘り返すことでもないないけれど、最近の男性タレント事務所の性加害者に関するニュースみてると、どうしても“淫夢”のことを思い出さずにはいられない。
あれ、ことの発端は、ドラフトの目玉とも目されていた大学野球のエース投手が、ゲイビデオに出演してたことが発覚したというスキャンダルだったけど、当時、体育会系の大学生の“闇バイト”としてゲイビデオに出演、というのは他にもあったようで、“菅平のラグビー合宿であんなことやこんなことを”みたいなビデオ作品も実在している。
で、その野球選手の出てたビデオのタイトルからとった“淫夢”という言葉がいろいろ面白おかしくネットで消費されたわけだけれども、あれ、今思えばある種の“男性の性加害者”の話だったんじゃないのかな?
例の選手も、先輩の紹介で出演をことわれなかったたとかいう噂も聞く。
当時は“お金のためにそんなバイトしちゃうなんて”という受け止められ方がほとんどだったように思うけど。
で、例の事務所だけど、いわゆる体育会系とはちがうけど、男性ばかりで、先輩と後輩の関係がわりとしっかりしている特殊な社会という感じはある。
なくなった創業者のことだけが、いろいろ話題になっているけれど、所属タレント同士の上下関係の中で、いろんなことあったんじゃないかな?と、どうしても想像せざるを得ない。
しごきとかいじめと同じで、自分が上からされたことを後輩ににとかなると、いろいろ連鎖しそうだし。
さらにいえば、もともと“そういう気のある人”が入所して、そこそこ先輩になって…とかなると、またいろいろありそう。
さっくりまとめんたんで他の人もどうぞ
不規則なリズムで、しかし短い間隔でリビングに響くその音を聞いていると、30分も経たないうちにまるで面白半分に自分の頭を蹴られているような気分になり
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「子供や家族連れで賑わう公園が突然の閉鎖。そのきっかけは、子供の声がうるさいという近隣住民からのクレームだった」
そんなニュースを聞いてあなたはどう思う?
――そいつは何て心の狭いやつなんだ!せっかくの遊び場を、どうせ使いもしない奴が文句言いやがって!
――死にゆく老人がこれからを担う子供の遊び場を奪うな!
そう感じるだろう?俺も同感だ
子供はしっかり外で走り回り、きゃっきゃと声を上げ、草や土を掴み、全力で遊ぶのが何よりだ。本当に心からそう思う。
だが、そんな俺も公園を管理する市に対してクレームを入れたことのある1人なんだ。勿論、騒音について。
つまり傍から見れば、俺は「公園で大きな声を上げて遊ぶ子供を愛しながら許容しない」不思議な存在だということになる。
日本各地にあるこの問題、まず確実に言えることがある。
「公園クレーマーと非公園クレーマーが見ている公園の姿は違う」。
そして、「現状、公園クレーマーたちはクレームを上手に世間に伝えられていない」。
次に、これを読んでいるあなたが「公園クレーマーってちょっとオカシイよね」と思っていることを前提に、以下の事実を列挙したい。
・公園クレーマーは必ずしも子供の声が無条件に嫌いな偏屈ジジイではない。
・非公園クレーマーが公園クレーマー化するのは、一部の非常識な利用者のせいである。
・非常識な利用者だけを除外する仕組みを、行政は持ち合わせていない。よって、公園クレーマーは全ての利用者を敵視するしかなくなる。
・公園クレーマーは、クレームをつける行為に負い目がある。
さて、じゃあ早速冒頭の文章をニュース原稿だとして、続きを想像してみよう。
――子供や家族連れで賑わう公園が突然の閉鎖。そのきっかけは、子供の声がうるさいという近隣住民からのクレームだった。
とすれば、次に来るのは男性ナレーションの低音ボイスであえて野暮ったく読み上げられる次の語句だ。
――「子供の声が、うるさい」
その次は行政の記者会見のシーン。
――「近隣の方との話し合いを続けてまいりましたが、双方の納得には至らず、やむを得ず閉鎖の判断を致しました」
で、そこからが問題だ。恐らくここで、普段の公園の様子か、或いはイメージ映像などで、元気よく遊ぶ小さな子供たちが映し出されることになる。
――「家族連れで賑わう平和な公園で、何が?」
これが大問題なんだ。
少なくとも俺は、こうした元気よく遊ぶ小学生、保育園児、幼稚園児は、好きなんだ!癒される!
きゃっきゃきゃっきゃと楽しそうにおいかけっこをして、たまにミ゛ャー!と寄声を発して、あーあーと泣き出して、しばらくすれば何でもなかったかのようにまたギャーギャーと走り回って…
心から平和を感じるんだ。
精一杯走りたまえ。あーあー、転んじゃって。大丈夫?
俺はこれを、うるさいとは思ってはいないんだ。
じゃあ、「子供の声がうるさい」と言ったクレーマーの気持ちはなんなんだ?
俺はそのクレーマーの気持ちを理解しようと努めることができる。恐らくその人も、最初からそれがダメだったわけではないんだ。「ダメになった」んだ。
(一応補足しておくが、この日記では「俺」と「公園クレーマー」という主語をほぼ同一として扱う。いわゆる「主語がでかい」状態だが、便宜上許して欲しい)
俺が公園クレーマーになった原初のきっかけは、とある夜のことだった。
当然すぎて端折っていたが、俺の家の目の前には公園がある。住所はとりあえず北関東ということでボカさせてほしい。
大きくはないが、追いかけっこは勿論、キャッチボールやフットサルくらいなら十分できる広さがある。
2階の窓からすぐ見下ろせるところにベンチがある。そこに、夜な夜な中学生か高校生くらいの男子連中がたむろし、談笑しながらボール遊びをするようになった。
変声期を終えた男子の声は、かなり通る。そして、ボール遊びの中でもとりわけサッカーボールを蹴る音というのも、実はかなーり、通る。
少なくとも俺の家の窓は全く防音性という面で貢献しなかった。
ボン、ボン。ギャハハ。ボン。ボス。ギャハハ。ボン。
不規則なリズムで、しかし短い間隔でリビングに響くその音を聞いていると、30分も経たないうちにまるで面白半分に自分の頭を蹴られているような気分になり、怒りが湧いてくる。
ここで、自明の事実を書く。
こうしたたむろ連中は、必ずしも「迷惑をかけるつもりで」やってはいない。
彼らは、「自分達の発している音が、目の前の家の中にまで達していることを想像できない」のである。
壁を隔てた向こうに、自分たちの存在が察知されていることを知らないのである。
これは誰しもが陥りがちなことであるが、どうも人間と言うのは「見えていないならば聞こえていない」と認識しがちである。
自分から見て、近くの家の中など当然透視はできない。ならば聴覚も届かぬ場所であると錯覚するのだ。
要は、「想像できないことは認知できない」のである。
結局その日は警察を呼び、お帰り願った。(夜9時台だったので世間一般的にも迷惑案件だと判断した)
翌朝、その場所にはペットボトルやカップ麺などの大量のゴミが散乱していた。
夜の騒音はその日で終わらなかった。
ここでのポイントは、「同じ連中が毎晩たむろしに来るわけではない」ことである。
とにかく色んな人が来る。
金もなく公園に行くしかないカップル。
夜しか時間が取れないのであろう、子供を引き連れてバッティング指南をするおっさん。
花火をしに来た家族連れ。
先程の件と別の男子学生グループは幾つもいた。
中には缶チューハイで酒盛りする中学生男女グループというのもいた。世の中的に見れば全く珍しくもない、可愛い非行の一種だが、目の前で見せつけられるのはさすがに弱った。
そしていずれの人達も、当人らが思っている以上にその声や動作音は聞こえてきた。
中にはTikTokの流行りの動画を大音量で流す奴もいた。
ただ、それですら、彼らはこちらのことを認識していないのである。
単に「流行りの音楽を好きな音量で鳴らす俺」という環境を欲しているのであり、それが他者に聞こえているとは思っていないか、考えたこともない。
彼らにとって俺の家は書き割りの背景と同じなのである。
そのうち、夜に公園に来るすべての人間がバカに思えてくるようになった。
先ほど書いた通り、「自分の出した音がどのくらい遠くまで聞こえているか」「それが思いもよらぬ誰かの耳に届いているか」というのは「想像力」の話である。
なので、彼らは「想像力の無いバカ達」だということになる。
一方こちらは常に公園の音が耳に入ってくる。
自分の感知エリアの中に公共の場があるのだ。自分の感知エリアの中にバカが入り込んでくる可能性が常時あるのだ!
これは結構大変なことで、つまり自分自身が「公園の24時間警備システム化」してしまったのである。
これは良くないと思い、市に電話を入れた。
クレームではない。「夜間の大声やボール遊びを禁じる看板を立てられないか」という要望としてだ。
「あくまで自分は要望のつもりだったんですがねえ」と言い訳したいのではなく、あらゆる体裁において実際要望として伝えた。
いわゆる公園クレーマーとしての立場になりたいわけではないし、日中の利用のマナーは良く感じているというようなこともできるだけ言った。
結果、1週間内には夜間早朝のボール遊びや集会、騒音を立てる行為はご遠慮ください、といった旨の即席看板が立った。
この看板にはある程度の効果があった。
ありがたいことに地域の全体的な民度は低くなく、夜の利用者がこの看板を見て「もう1個の広い公園行こうか」などと発言する様子も見られた。
だが、それでも無視する者も少なくなかった。
そして、俺ももう手遅れだった。
警備システム化した神経は、最早日中の音ですら気になるようになってしまったのだ。
常時テレワークであるため、在宅せざるを得ない中、ボールを蹴る音や子供の騒ぎ立てる音が聞こえる。
いや、それでもやはり冒頭書いたような、「小さな、天使のように朗らかな子供たちの駆ける音」は何の問題もなかった。
中高生男子の声とサッカーボールの音が、いかにもたむろ連中を想起してしまい、聞くだけで頭痛がするようになった。
大半の少年たちは育ちが良く、騒ぎ立てはするものの、辺りが暗くなればささっと帰ってくれる。
だが恐ろしいことに、「そもそもいること」が許せなくなった。夕陽が沈みかけ、薄暗くなったあたりで「早く帰れ早く帰れ」と念じるようになった。
そして――どうにかベンチを撤去出来ないか?一部の区画だけでも閉鎖できないか?
いつしか「クレーム」を入れるようになったのだ。
ここで、非公園クレーマーであろうあなた方に問いたい。
あなたが想像する公園クレーマーが「子供の声がうるさい」と言った時、あなたが想像する声の主はどんな姿だろうか?
小学生や、幼児たちを想像していないだろうか?
そのうえで「まさかこんな子供たちを排除するなんて!」と憤っていないだろうか?
また、「勝手に昼間で想像している」のではないだろうか?
違うのだ。
もう少し上の年齢の、「自我が目覚め、夜遊びもしたい、生意気盛りの子供たち」なのだ。
そして、俺には今自宅の目の前にいる利用者が「良い利用者」なのか「悪い利用者」なのか判別がつかない。
全ての音を拾うしかないのだ。
そうなれば俺が言うことはただひとつ、「子供の声がうるさいんだ」である。
しかしその言葉から逆引きされる「子供」とこちらのいう「子供」には隔たりがあるし、経緯はいっさい伝わらない。
さて、そろそろあなたには幾つかの疑問、というより「ツッコミ」が生じていることだろう。
――引っ越せばいいのでは?
――家の防音性能を上げればいいのでは?
――イヤホンとか耳栓でなんとかならない?
――他の住民が気にしてないなら気にし過ぎなのでは?
引っ越しはそう簡単にできるものではない。膨大なローンが残っているし、自分ひとりの問題ではなく家族を巻き込んだ話になる。
窓を増設するという手がある。しかしこれも公園に面した各窓に処置するだけで100万円はカタい。マインクラフトみたいに素材があればポンと設置できるものではない。
イヤホンや耳栓というのは応急処置として有効である。しかし「自分の家で行動を制限される」ストレスの方が強い。なぜ自分の家で、家族との会話もシャットアウトし外界の音に我慢させられているのか、ということになる。
それに、これはまた派生的な「症状」なのだが、俺のようになると音だけでなく「窓を開けたら人がいる」という状況ですら悩みの対象になるのだ。目の前のバカがいつバカをやり出すかわからない恐怖が発生してしまうのだ。
大体、「夜間の集会はご遠慮ください」という看板がある状況で集まっている時点でそいつはルールを自己都合で無視できる人間なのは確定しているのである。
そんな奴が自宅から10m強先にいること自体がストレスになってくるのだ。
そして最後。
ここがまた、公園クレーマーと非公園クレーマーの隔たりの原因である。
公園クレーマーとは、恥ずかしいものなのだ。
だって、公園は良いものである、という世間の認識があるのだから。
そして既に、公園にクレームを入れるのは「わからずやの偏屈ジジイ」だとする一般通念があるのだから。
俺だって、もし街を歩いていてテレビの取材にあたり、「公園にクレームを入れるのってどう思いますか?」と聞かれたら、
「ウフ、うん、まあその、公園って子供たちがねえ、元気よく遊び回る場所だからねえ、その、それをねえ…」
などと口ごもるだろう。
「アッ、こいつ公園クレーマーの仲間だぞ!」と思われたくないので。
恐らくだが、インタビューで公園の騒音を肯定的に捉えている人の中にも、「実は参ってるんだけどね…」という人がいる可能性はゼロではないと思う。
こうして、公園クレーマーの印象は「誰にも理解できないキチ○イ」へとどんどん先鋭化されていく。
とはいえ、この日記では解決策を示して欲しいわけではない。
あくまで公園クレーマーとは何なのかを公園クレーマーの立場から書いているだけである。
ということで長くなったが、それでも、俺のような公園クレーマーに対して「偏屈」「気にし過ぎ」と感じる人は多いだろう。
それはそれで問題ない。何せ事実、神経過敏になっている。
最早俺は、バカが来て騒音を出すのがダメなのではなく「常にバカが来て騒音を出す可能性がある」ことがダメになっている。
もしかすると、今はまだ俺が愛おしく思っている小さな子供たちすら、今後は煩わしくなっていくのかもしれない。
そうなれば、次にニュースに登場し、世間から罵られるのは俺ということになるだろう。
だが、非クレーマーたる皆さんには、少しだけ想像をしてもらえないだろうか。
あなたがイメージする「公園」「公園の騒音」は、クレーマーの思うそれとは時間帯も対象人物も在り方も違っていないだろうか。
また、あなたは公園の目の前には住んでいないのではないだろうか。
ならば、「自分が自宅に居ながら公共の場の音を感知する警備システム化する」という感覚を知らないはずである。
何も公園クレーマーを理解しろとは言わない。
ご推察の通り、精神疾患的な症状は少なからずあるので、そこを含めて理解しろというのは傲慢であろう。
ただ、公園の騒音という社会問題について何か語ろうと言う時、少しだけ、想像をしてほしいのである。
最後に余談として。
あなた方が考えるツッコミにはもう一例あると思う。
――自分が若い時もやんちゃしたのに、今の若い子のそれは許せないの?
これはこれでデカいテーマなので書くなら別の日記として書くべきだろうことだが、正直に言えば「許せない」が「心の慰めにはなっている」という程度だろうか。
俺も学生のころ、男子連中で友人の家に寝泊まりし、近くの公園でバカ騒ぎした記憶がある。
下校時に彼女を連れ立って、公園の木の陰でいい思いをしたこともある。
迷惑をかけたし、その近隣の住民に我慢を強いたうえで「仕方なく許された」のが今の俺であることは解る。
実際それらは個人的には「いい思い出」として処理されているし、懐かしく思うこともある。
だが、「ならば自分も許そう」はそもそも道理でない。単に個人の思想の一種でしかない。
あえて極端な例を言えば、過去にゲーム感覚で万引きをした経験のあるヤンチャ坊主が成長して小売店の店長になったとして、自分の店の万引き犯に対して「でも自分もやったことだしなあ」と許せるかという話である。
学生の頃イジメを働いた人間が社会人になって会社でイジメられて「でも俺もイジメっ子だったしなあ」となるかという話である。
そういう因果律で人生を捉える人がいてもいいが、それがイコール正しい考え方ではない。