はてなキーワード: 身体とは
めっっっっっっっっっっちゃ気持ち悪い。
昨日、家にある色んな薬一気飲みしたけど酷い頭痛と幻覚と嘔吐だけで、はい、生きてます。
恐ろしいほどの倦怠感と吐き気を抱えたままきちんと会社に来ています。自殺未遂したあとの朝がひっどい二日酔いみたいなんて10年前は知らなかった。
思えば思春期の友情と恋心の錯覚も少しばかりあったと思うのだけど、全く知識の無い自分は自分の心と身体の性別が違うのではないか、と疑い、学校に行けなくなった。それが全てのきっかけだった。
感覚が気持ち悪くて、1年前に最愛の父を病気で亡くしたこともあり、父親の元へ早く行きたくて自殺未遂や自傷を何度も繰り返した。毎日人に迷惑をかけ続ける自分がいればいるほど希死念慮は増していくばかりだ。
精神病棟についてきてくれる母の死んだ顔を見つめたり、首を吊ろうとして泣きながら叔母に殴られるたびに「普通の人」になりたかった。
結局地元から逃げ出し、辺鄙な田舎町にある高校に進学した。その高校は所謂”曰く付き”というやつで、社会に馴染めず地元に馴染めずいじめいじめられ死にかけ命からがら逃げてきた16歳にして社会不適合者の奴らの巣窟だった。
そういった不安定なクラスメイト達を見て、あの暗黒の中学3年間をなかったことに出来るかもしれない、と思った。
ここは地元じゃない、自分のことは誰も知らない。だから新しい自分を作り上げればいいんだ。
普通じゃない人たちと一緒に生活をすれば(全寮制でした)普通に戻れるかもしれない、と思ったのだ。浅はかな上から目線である。
そこから自分はいたって普通で、ちょっと田舎町で暮らしてみたかった皆に平等で弱さにも理解がある、そういうおせっかいで浅くて馬鹿な人間を演じた。
朝、最低な気持ちになってすぐ身を投げたくなる気持ちは「朝が弱い」というと「だらしないな」と返ってきた。
無数の手首の傷跡は「猫をたくさん飼ってて」というと同じく猫を飼ってる人間から共感された。案外、どうにでもなった。
そんな人間を10年近く演じてきた、その内演じてることを忘れてそれが根本の性格だと錯覚してきた。取り繕うだけの10年間だった。きっと絶望的に悲しいことがあったとき、自分はまた中学生の時のダメでクズで最悪のゴミに戻ってしまう。それは絶対避けたい。だからあらゆる困難から逃げてきた。揉め事になりそうな時は中立の立場にいたし、そもそも作ってる人格でしか人と接してなかったので自分の意見がなかった。八方美人と噂されても、その後に待ち受ける暗闇よりはマシな方に思えた。
葬儀会場で大泣きしている母は「あんたは普通になってよかった」と抱きしめた。ずっと二人で生きてきた、母親が言うのだったら私は普通に戻れたのだろう!母を見事に騙せていた自分は、誇らしかった。
お母さん、だって私、あれから高校の友人の面倒をみて、大学に行って、就職して、友達もたくさんいて、異性の恋人もいる、普通の人だもんね!やったよ~!!!!普通の人になれた!!!!!!
はずでしたが、こうやって上手くいってません。なれませんでした。
高校3年生の時、アイドルオタクになったことが 自分の精神の均衡を保っていた。その時からアラサーの現在までずっと見つめ
ていた俗に言う”推し”を、自分は宗教や神様の類のように扱っていた。この世のもので唯一本当の自分と対面しているものだった。その推しが恋人との写真を撮られたことが、終わりの始まりというやつだった。嫉妬できて癇癪を起したらどれだけ楽だっただろう。そのことより、推しが1年間休むことなく批判を浴び続けていたことが、スイッチを押してしまったのだと思う。言い返せば、倍の黒い塊が返ってきた。推しが非難の言葉を浴びれば浴びるほど、化けの皮はどんどん剥がれ、八方美人は一方にしか向けず、日常生活は送りづらくなってきた。
数年が経って、メンバーや推しやファンやアンチ全員がそのことを忘れても自分は全く忘れられなかった。例えば誰か芸能人が犯罪を犯して捕まって、その批判や援護を遠巻きから見てるだけで発狂しそうだった。こんなアイドル風情のことで勝手に精神病んで病院に行くのなんて馬鹿らしくて、そもそも普通じゃないじゃん。となって病院には行かなかった。
それからずっと上手くいってた人間関係もどうやってこなせていたかわからなくなり、どうやって電車に乗っていたのかわからなくなり、どうやって生きていたのかもこの歳になってわからなくなって、昨日。
知らぬ間に人のことを迫害していたようで、そんな「知らぬ間に」なんて経験化けの皮を被ってから一度もなくて、自分が黒い塊を送る側になるなんて考えられなくて、どうしよう、人のことを傷つけるなんて、普通じゃない。
ふと前を向くと、推しのうちわの前に置いてある薬箱が目に入った。
朝、死ねてなかったことより、やはり私は普通にはなれないことに、どうしよもない絶望を覚えた。
日本酒飲んだ次の日の朝よりキツい。どうやら、親友に電話をかけていたようで親友からの最後のLINEは「でも死ぬのは逃げだよ」だった。
昨年ブームとなり、
そのサビで踊られるダンスのフリのことだ。
何人の日本人がそれに気付いているだろうか…。
おそらく何割の方はそれに気付いており、
このブームをバズらせる事に荷担してもいたのだろう。
そうは思っているのだが、
どのくらいの人数にそれが共有されているのだろうか。
そう不安にも思っている。
イイネ!と形容するくらいだから、もちろん良い意味で受け止められているのだろう。表面上は。
当然「Good!」を意味するジェスチャーから来ているのだろう。
しかし、
その曲に合わせシェイクする腕の振りに違和感を感じないだろうか?
その腕の角度と位置が高すぎるのだ(元ネタとされるshootダンスと比べても)。
そしてまた、その仕草は身体を画面に対し横を向いて行われるのだ。それはなに故だろう。
その立てた親指が描く軌跡が、親指がどこを通過しているか。
その意味を少し考えたら、その違和感の答えが分かるのだはないだろうか。
親指を下に突き下ろす仕草は、相手に否定の意志を示す行為であり、
その親指を首の前で通過させる仕草は、死ね!殺すぞ!という意味である。
そしてこの手の動きとセットとなっているのが、足で何かを踏みつけるような仕草でもある。
C'mon, baby アメリカ
これはちょうどイイネダンスが踊られている時に歌われてる歌詞である。
この、密かに重ね合わされている意味を、どれだけの人が自覚的に使っているのだろう‥。
無論、これはそう解釈できる…という話であって、振付師の意図を決めつけているものではない。
ただ、そんな解釈もしうるダンスを、あなたの家族や子供にこのまま踊らせていても良いとお思いでしょうか?
今なお気になって仕方がない。
いかがだろうか…。
ついでに蛇足ながら…、
それは単なる外部評価としてあるのだけではなく、
曲そのものの中に、相反するままに、貫かれているような気もする。
まず、今上げたC'mon baby にあるように、戦後ずっと常に日本を指導し先導し父親のようなポジションにあったアメリカを、あたかも目下の対象であるかのように呼びつける構図を描いている。
これは、昨今多少批判的に言及されるようにもなってきた「日本スゲー」勢を満足させる構図でもある。
アメリカを挑発し、見下し、かかってこい!と挑発しているのである。
気持ちの上では。
その潜在的な意味を、意識的にか、無意識的にか、人それぞれの割合で汲み取られていたことによって、この歌は、この時代に、必然的な条件を揃えて一大ブームとなっていたのだろう。
気持ちの上だけでは。
そう。潜在的な願望としては持っていても、直接面と向かって宣戦布告はできない。その度胸は無い。
横を向いてその意味を隠し、最初にイイネのサムズアップを強調することで言い逃れをまず先に用意しているのだ。
ダサイけれど、完全に服従している訳ではないという秘めたる信条がカッコイイのだ。
それは、夢を見せて成長の原動力を与えたくれた…という意味ではあろうが、
叶うはずのない夢を追って身を持ち崩すよう動機付けられたとも取れる。
サクセスの味方を organizer
成功の道筋を付け導いてくれたというように解釈すべきではあろうが、
儲けに繋がる見込みのない者には一切目もくれられないとも取れなくもない。
C'mon, baby アメリカ
英文の部分の意味は逆さに解釈するのだとすれば、この言葉はこうなる。「こっちに来ないでくれ」と。「アメリカよ、もう日本に関わってくれるな」と。
どっちかの夜は昼間
我々が、日本が、現状「夜」であることは、今、これまでが、アメリカが「昼間」であった事と必然的な関係となっているのだ。
…と、
しかし、こうも歌われている。
競合してくジパングで
より強くアメリカナイズされた沖縄は、日本本土に対して先行する存在だ!と、そこで育った若者としての自意識はあったりするのだろう。
しかし、そんな沖縄は基地問題にもあるように、日本本土から負担を一方的に押し付けられて続けている存在でもある。
どっちかの夜は昼間…その沖縄の「夜」を産み出している「昼間」とは、単純にアメリカとしてよいのであろうか、それともその標的は実は日本本土を指しているのであろうか。
それらをひっくるめて歌われている。
C'mon, baby アメリカ
これをただ無邪気に歌い踊っていてよいのだろか?
その親指を地面に向けて突き立てているその矛先は、どちらを向いているのだろうか…。
活躍っておもにどんなの?
身体能力なら成長期に「活躍の場」に乗せるのがビジネス的にも「勝ち続ける・成長する」が見れるのでという大人の事情があるでしょ
ピークに上ったからと取り上げるとあとは衰退する様しか使えないのだし
若い身体を使って大人のビジネスに付き合わせるのは昔より多くなったかもしれないし同じかもしれないが
人間の社会性価値は退路を確保しつづける撤退戦なので二十歳すぎたら衰えていくからだと進行する価値に逆流するような
自分の価値を抱えて生き延びる必要があるので義務教育望ましくは高校大学まで出て生き方を学んだり導線を得てほしい
若い人間がピークを過ぎたら使い捨てというのはあまりにも悲しい
子役で成功して後の生き方を見失った人や若くして神童と呼ばれ後の凡才に苦悩するなど成功例に比例してあるのかもしれないが
こえーよ。
なんでこんな考え方になるのかわからん。
じゃあえ、何、育児で追い詰められてる人は全員自己責任で悪いって話になるの?
それを言ってどうなるの?その人達が更に追い詰められて状況悪化するだけじゃん。
厳しい事を言えば目が覚めてちゃんと育児出来るようになる!って言いたいの?
そうとしか見えないからそうだと仮定して話すけど、そんなの人に寄るし、子供がどんな病気抱えてたり癇癪持ちかなんて親にはコントロール出来ないからね。
自分がたまたま簡単な育児だった(と思い込んで後から子供に恨まれたり、実は子供が何か生きていくうえで精神的、あるいは身体的な障害を抱えたりしてる可能性は考えないんだね)ってだけで、他人の事見下すメンタルの人に育てられたら、十中八九子供もそのように、人の痛みが想像出来ない人間になるのでは?と言わせていただく、レッテル貼りする人はレッテル貼りされても怒るべきではない。
言っておくけど、子供は産んでほしいなんて一言も頼んでないわけで、勝手に産んでしまったからには子供の受ける苦しみ全部、親のせいだからね。
そんなのがわかってて簡単だとか病まない、苦労ないなんて言えるなら、その時点で共感能力や想像力に乏しいから、子供の悩みにも鈍感な親の資格がない親だと言わざるを得ない。
ペットか何かだとでも思ってるんだろ、とね。
大人になるまで立派に育てて後は本人の問題、なんてのは無しだよ。
大人になるまでの間、親は学校や家庭の環境の決定権を持ってるし、例えば子供が他人を傷付ける人間になったならそれも全て親が被害者を傷付けてるに等しい、そう気づくべき。
正直今の世の中に子供を産み落とすなんて皆すべからく虐待でしかない。
悪意のたっぷり詰まったこの世界に子供を放流する、自分はこの世界の事など何も知らないのに、それは無責任な虐待だ。
でも生まれてしまったからには、虐待でもマシになるよう努力しなければらならない、親にはその責任がある。
まず、産む事自体が虐待である事は間違いない、その前提で動けば罪悪感で塗り潰される人こそ正常。
へらへら、育児簡単なのに病む人は暇人〜なんて高みの見物目線で人を馬鹿にするヤツはそんな暇あったら、少しは自分の子供の為に何かしろ、産むという虐待に対して贖罪しろ。
お前の子供は間違いなく将来お前を恨むよ。
物心ついた頃から、精神疾患の名前がつくもののいくつかに乗っ取られ、それを必死でひた隠しにし、自分を騙し、なんとか生き延びてきた。
病気はすべて私の妄想が産んだ被害者意識で、なんらかのメリットがあるから治らないのだと頭で分かっていても、今でも発作的に昔のトラウマが蘇り、みるみるうちに身体が支配されてしまう。
自分を理解できていないから、当然まわりのだれにも理解してもらえなかった。
傷つくことが怖すぎるから、
人との関わりが怖すぎて社会の中で生きられなかった。
誰も信じられないのに、承認欲求が暴れていた。
私は自分が嫌いだった。
そして他人も皆嫌いだった。
またとないチャンスだと思い、勇気を出して自分から抱きついてセックスした。
少しだけ、自分が好きになれた。
容姿端麗で、才能も資質も人とは違う、目を惹くものを持っていた。
光に虫が集まるように、彼のまわりにはいつも人が集まっていた。
女に囲まれるのは当たり前で、経験人数なんてとっくに数えることをやめていて、
しつこく聞いたら、ちゃんと答えてくれた。
ヤリチンは、まさに私が喉から手が出るほど欲しい「承認」を受け続けてきた人だった。
青春時代がすっぽり抜け落ち、恋愛もコミュニケーションも失敗し続けた私は、ダイレクトにコンプレックスを刺激され、嫉妬心がグラグラ煮えた。
これは彼の女性関係に対してではなく、彼自身に向けられた羨ましさだ。
「みんな君のことが好きだよ」と友達に言われていた、というエピソードを聞いた時、私は、劣等感からくる彼への憎しみで頭がおかしくなりそうになった。
こんな人生があったのか!と。出来れば知りたくなかったと思った。(今でもたまに思う。)
ただ驚いたのは、私たちは似ているところがあったということだ。
一際目立ったり好かれたりすることで、
たくさんのひとの、勝手な理想や期待を押し付けられてきたんだろうと思う。
たくさんの人が彼に恋愛感情を抱いていたとしても、彼自身を守り安心感をくれるものではなかったのではないだろうか。
そして彼も、誰も幸せにしてこなかったのだろうと思った。
ヤリチンは心を閉ざしていた。
自分の気持ちは伝わらないし、そんなことはどうでもいいと思って生きてきたようだった。
自分でない自分でいる状態を強いられ、求めるものと求められるものが食い違い続けるの状態は、とても不安定で、心が満たされないことだと思う。
それを不特定多数とのセックスで埋められるなら、私からしたらこの上なく羨ましいのだけれど、本当は欲しいものが手に入らない飢餓感が続くだけだし、彼自身も女性たちの気持ちを無碍にしたことを悔いており、幸せなことではないのだな、と自分を納得させるように考えた。
彼もまた、自分が嫌いだったのだろう。
私のように、他人を嫌う気持ちがあるのかはわからないけれど、人を信じることに恐怖心があるようには感じた。
真逆の人生を歩んできた私たちは、少しお互いのことが理解できたように思えた。
正確には、私は傷つくことを恐れすぎて、時間が経つほどに自分の劣等感を通してでしか彼を見られなくなり、彼の意図や感情を無視した。
彼はそのことを悲しんでいたのだろうけど、それも口に出さず、私に気を遣い、心を閉ざしたままだった。
私が弱さを振りかざしたせいで、自分だってつらい、という気持ちを我慢させてしまったことには後悔がある。
すごく感謝したし、大げさに言うと、彼に対しては生まれてきてくれてありがとう、という気持ちが生まれ、自然にそれを自分に対しても与えることができた。
損得勘定や条件のない関係性の中で、お互いが強く関心を持ち、認め受け入れられるという安心感は、
私が欲しいものだったし、今まで感じていた寂しさの正体を明確にした。
一緒にいるときは、お互いに影響を受けまくった。
私のようなタイプは人と自分の感覚と同一視しがちで、他人の思考に侵食されていく自覚はあったが、
意外にも、信念を貫いているように見える彼もまた、受け取りやすい体質だった。
皆、不安で揺らいでいるのだな、と思った。
愛があるとかないとかどうでもいい。
相手はヤリチンなんだから、私なんてただ流れては消えていく、女の一人で構わないと、今では思う。
人として、女として生きていてもいいと、自分を認めることができた。
勇気を出して、自分から抱きついてセックスしたことのご褒美だ。
物理的に離れることになり、会わなくなってようやく、自分がいかにセックスに溺れていたかに気づいた。
それが、承認されている感覚を助長させ、必要とされている実感を何割増しにもさせていたということも、それにしがみついていたということも。
最近、身体の繋がりがなくなったことへの不安感が、ようやく抜けた。
同時に、自分と彼との間に境界線を引くことができるようになり、自分と比較せず彼の人生を俯瞰的に考えられるようになり、気持ちがとても楽だ。
また不感症になった。
久しぶりなわけではないが、もともと感じにくいのでいつぶりかは分からない。
まず、行為の回数が減った。
交際期間はまだ一年程度だ。半同棲から今は本格的に同棲している。
セフレがいたことがあるような人間に、こんなに早く飽きられるものかと悩む。
しかし、1日に何度も行為に及んでいた時期はそう昔の話ではない。
頻度が減った理由は、私の見た目やスタイルの醜さ、もともと感じにくい身体など、自分のせいだとしか思えない。
相手に甘えている未熟な私は、ハッキリと「私に魅力が無いから?」とよく聞く。
落ち込みが増して相手に悪い刺激を与えるような態度でした質問に対して、「別に」「勝手に思い込んで落ち込まないでほしい」といわれた。比較的お互い落ち着いて話し合ったときは、「今は自分のことで精一杯だから余裕がない」と言われた。自分のせいかと辛くなった時はその言葉を思い出す。
しかし、相手への理解を深めようとする姿勢をへし折るように、相手と同じように自分のことで精一杯のはずの私の性欲は湧き上がりやがて相手への不満となる。
セックスはしたい
したいといえば、してくれる。
したいという気持ちにやっと応えてもらった矢先、先走る気持ちについてこれない体は行為中に完全に乾き、相手に心配をかけ、意気込んで及んだはずの行為は中途半端に終わる。
そんなことばかり繰り返していた。
自分の姿を醜いと思うので、そんな自分が交際相手にセックスという大胆な行為を求めることも非常に申し訳なく、恥ずかしく感じる。
セックスはしたいが、誘おうとしない男を誘って、誘いに乗った価値のあるような時間を提供できるわけではない。
セックスしたところで、私に対してほとんど行われない前戯に傷つくことにも疲れた。
勇気を持って「今の前戯ではあまり濡れない」と伝えたが、変わらなかった。
それでも交際相手としたいと思って、求められない日々に、思ったように愛されないことに勝手に傷ついてしまう。
自信が日々失われていく。
気がつけばしたいはずのセックスで得るものは虚無感だけになっている。
昨日挿入前に相手が寝てしまっておあずけになった分を取り返したはずの今日は、嬉しさすらなく「気持ち良くないな」「したかったはずなのに楽しくない」という感情で頭がいっぱいだった。
【承前】
https://anond.hatelabo.jp/20190216023228
本章では、オタク同士の関係性をテーマにした創作作品や、バーチャルYouTuber同士の関係性が消費されることについてより深く考察していく。
1章で述べたバーチャルYouTuber同士の関係性に視点を戻すが、バーチャルYouTuberは現在6000人が活動している。その中で人気を得ている配信者こそ、関係性を構築し、バーチャル上での物語を消費者に提供しており、姿かたちや趣味嗜好こそ多様なものの、ひとくくりにいえば大体の生まれは「オタク」である。つまり、「オタク」だからこそ萌えられるキャラクタと関係性をセルフプロデュースし、それをまた「オタク」が消費しているのだ。これがループのように連続することで、時には自らも憧れてバーチャルの世界に踏み込んでいくためにバーチャルYouTuberは日々増え続けているのである。自分の人生や趣味嗜好を、キャラクタというフィルターを通すことでシェアし、自らが創作物/キャラクタそのものになるということは、自伝やエッセイを執筆し、その読者と直接対談するようなことだ。「オタクの人生」を物語として消費し、絶え間なく新たな物語と関係性が発生していくというコンテンツに、オタクは萌えることができる。たとえパーソンが基底現実においてどんな人物であったとしても、「生けるキャラクタ」としてのバーチャルオタクの魅力に、オタクはシンパシーと巨大なエモーショナルを感じざるを得ないのだ。自分と近しい存在の人生を物語として消費することは、永久機関のような底の知れない魅力を持っている。
また、「このマンガがすごい!2019」*4 では、オンナ編第1位に鶴谷香央理「メタモルフォーゼの縁側」(2018)、第8位に町田 粥「マキとマミ」がランクインしており、この作品はどちらも腐女子同士の関係性を主題としたものである。2章で述べた「腐女子」特有の親密さは、既に広く認知されており、さらに創作物として女性からの支持を強く得ているということである。この背景にも、自らのオタク的言動やコミュニケーションを「あるある」と思いながら読むような自伝・エッセイ的な要素ももちろんのことだが、「腐女子特有の親密さへの愛着」や「登場する腐女子同士の関係性のリアリティに即した萌え」が確実に存在していると考えている。
上記のようにキャラクタ化したオタクや、親密さの自覚を持った腐女子は、基底現実においても関係するようになる。1章で述べた「バーチャルYouTuber同士が三次元で会った時の飲食物の画像」や、腐女子特有の「なりきりアカウント」文化の「背後交際」などが主な例だ。バーチャルYouTuberでコラボ放送をしていた親密なパーソン同士が3次元でも会うようになり交際に至ったという例も、キャラクタとして表沙汰にならずとも存在する。また、腐女子コミュニティにおける「なりきりアカウント」とは、主にTwitterなどで作品のキャラクタのロールプレイをし、自分の好きなカップリングの相手とネット上で交際したり、同作品のキャラクタと日常会話をする文化である。このアカウントの運用主を「背後」と呼ぶのだが、彼女たちは基底現実でもオフ会をし、実際にロールプレイで交際していた相手と現実でも交際に至ることがあるという。
つまり、関係性消費が加速し、自らもキャラクタ化したオタクは、パーソン同士としての基底現実でも「萌える関係性」を実践しているのである。この状況において、「わたしたちの関係性は萌える」という自覚の有無はもはや必要ない。パーソンとキャラクタの境界があいまいになり、オタクは自らを自らで消費することが可能になっていくのだ。
本論では、関係性消費が牽引していくというトピックからオタクそのもののキャラクタ化、そして完全なる相互消費の永久機関にまで言説が行きついてしまった。しかし、現実での関係性消費において立ち上がってくる問題はやはりジェンダーとルッキズムである。これに対するアンサーは2つある。1つは、すべてのオタクが理想のバーチャルキャラクタとしての3Dモデルの肉体を手に入れることである。バーチャル空間での関係性の構築はYouTubeだけでなく、「VRchat」という果てしない多様性を持ったもう一つの世界ともいえるVR空間でも今まさに進行中だ。全オタクが理想のキャラクタとなり、主体的に交流してその関係性すべてを消費することができれば、そこにはジェンダー格差もルッキズムによる格差も存在しなくなるのではないだろうか。2つ目は、キャラクタ化しない、あるいは関係性に参入せずあくまでも傍観者としての消費・あるいは創作を貫く選択肢を選ぶことである。2章で述べたように、創作物と消費者のセクシャリティ/あるいは創作物と作者のセクシャリティなどは分けて考えるべきというスタンスに基づく在り方である。
これらの二つの未来像は両極端にも見えるが、しかしこれらが混じりあい議論が巻き起こっているのが現状である。しかし、バーチャル空間上でのルールやマナーが議論の末に整えば、それぞれが理想の関係性を追い求めて基底現実とバーチャル世界を横断していくようになるのではないだろうか。創作だけに留まらず、現実世界と拡張現実へ侵食する「関係性消費」は、しかし古典の時代から物語として脈々と行われてきた文化である。オタクと文化、双方がその形を変えて混じりあう瞬間に、今わたしは立ち会っていると思うと感慨深い。
関係性を志向するファンたちのこれからは、今後のオタク市場の動向と、バーチャル技術の発展にかかっていると感じた。これからもジェンダー・セクシャリティ論とカルチュラルスタディーズ、両方の視点からわたしも一当事者として今後の動向を研究していきたい。
【引用文献】
*1 東園子,2015,「宝塚・やおい、愛の読み替え 女性とポピュラーカルチャーの社会学」新曜社
*2 難波優輝,2018,「バーチャルYouTuberの3つの身体 パーソン、ペルソナ、キャラクタ」『ユリイカ』第50巻:117-125
*3 斎藤環,2009,「関係する女 所有する男」講談社現代新書
*4 このマンガがすごい!編集部,2018,「このマンガがすごい!2019」宝島社
【参考文献】
玉川博章,名藤多香子,小林義寛,岡井孝之,東園子,辻泉,2007,「それぞれのファン研究 I am a fan」風塵社
山岡重行,2016,「腐女子の心理学 彼女たちはなぜBLを好むのか?」福村出版
2014,「ユリイカ 特集*百合文化の現在」第46巻第15号 青土社
2018,『ユリイカ 特集*バーチャルYouTuber』第50巻第9号 青土社
【あとがき】
期限ギリギリで提出したので粗も多いが、これをベースにディスカッションできる地盤固めができたので良かったと思っている。オタク!人生で遊んでいこうな!
本稿では、現在の「ファン/オタク」が「関係性消費」を志向するようになってきているという事象を踏まえ、その内部の「男オタク」と「女オタク」のジェンダー格差や、関係性消費の今後について多角的な視点から分析を試みる。なお、本稿においての「オタク」は、二次元三次元を問わずある作品・概念・グループなどを愛好すると自認している人々のことを指すポジティブな言葉として用いる。拡散し多様化するオタク文化は2次元と3次元の壁を超え、全体像を画一的に語るのはほぼ不可能なため、ジャンルやジェンダーに関する詳細については各部で詳細を補完したい。
「日常系」は広大なオタク市場の中でもかなりの割合を占める作品群だ。基本的には複数の女性キャラの日常生活を描写した4コマ漫画が多く、それを原作としたアニメは2010年代以降各クールに2~3本は放映されている。基本的にドラマティックで壮大な展開や激しい戦闘を行わない、いわば反「セカイ系」カルチャーともいえるだろう。源流としては美水かがみ「らき☆すた」(2004)や、なもり「ゆるゆり」(2008)などが代表的なものとして挙げられるだろう。00年代初頭から現代まで増加傾向にある「日常系」は、現在も各メディアで売れ続けている。この背景には、やはり弛緩した日常風景の一瞬・ごく短いセリフや1コマのシーンの行間を読む関係性消費への志向への高まりが一因であると思われる。日常系の「物語性のなさ」は、逆に巨大な「行間」を生み出し、そこにオタクが各々関係性や物語を想像して消費することができるからなのではないだろうか。
関係性消費について、2,5次元舞台での「リアリティの担保に参加しつつ、舞台裏も消費するファン」や、「タカラジェンヌの四層構造」(東 2015:96-98)*1 で取り上げられた「各レイヤーを横断し、その要素を複雑に融合させながら関係性を消費するファン」は非常に興味深い。これに似た位相にあるコンテンツに、「バーチャルYouTuber」が存在する。「バーチャルYouTuber」とは、2D/3Dの二次元的アバターを現実の肉体の動きとシンクロ(トラッキング)させ、そのキャラとしてゲーム実況や雑談配信などを行う人々の事を指す。そもそも「YouTuber」の動画には前提とされる物語や世界観はなく、その動画単体でも楽しめることが前提とされており、多くのバーチャルYouTuberも同じく、上記の「日常系」にも通ずる他愛もない放送を行っている。しかしここにおいて重要なのは、「日常系」を「実在の人物が演じる」ことがコンテンツとして確立し、今流行していることである。難波優輝は「Vtuberの鑑賞の構成要素は、パーソン、ペルソナ、キャラクタという三つの身体に分けられる。そして、ペルソナとキャラクタ画像がつねに重ね合わせられ、かつ、パーソン/キャラクタとペルソナの層がそのつど関係づけられながら、装われるペルソナが鑑賞者の鑑賞の対象になっている」(難波 18:121)*2 と論じ、これを「Vtuberの三層構造」と名付けている。
そしてバーチャルYouTuberは、電子の肉体によって軽々と他のバーチャルYouTuberとの関係性を構築する。コラボ放送などでみられる仲睦まじい様子を、鑑賞者は「Vtuberの三層構造」を横断し、「彼/彼女らのパーソンのレイヤーでの関係性」が見え隠れする片鱗をSNSや動画において意識しながら鑑賞しているのである。また、バーチャルYouTuber側も当然「パーソンを消費される」ことに対する意識を持っているため、現実世界でパーソン同士が実際に会い、その時食べた飲食物の画像を投稿する、それに対して「パーソン・レイヤーにおいても継続される強い関係性」を読み取れるようになる、といった事象もあった。これはまさにタカラジェンヌの四層構造における「芸名の存在」におけるパフォーマンスと相似であり、その表象が3DCGやVR機器の発達によりさらに「オタク」向けに変化(美少女・美少年だけに限らず多様化)したものではないだろうか。「日常系」と「関係性消費」の拡張であり、またジェンダーと次元の攪乱への大きな手掛かりとなるムーブメントだと考えられる。
つまり、「実在の人物が裏に存在するという事実に裏打ちされた生々しい日常系・関係性」が、液晶内のキャラクタバターと動画配信という形態の手軽さにより、オタクの関係性消費への志向は次元を超えてさらに加速していくと予想できる。
・関係性消費における性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)の無意味さ
前章で関係性消費への志向がさらに高まると予想したが、本章ではオタクのジェンダー格差について女性向けジャンル・男性向けジャンルという分類の持つ意味合いやその内部の消費形態に差異があるのだろうか。
もちろんHL(異性愛)文化を扱う少女マンガ・少年マンガにおいても恋愛・友情・ライバルなどの相関図は存在するが、メインとなるカップル男女の恋愛関係がメインに据えられることが多い。一方BL/GL文化ではそれ以外の登場人物の関係性をより深く読み込み二次創作に落とし込む、あるいは理想の相関図を一次創作で描き出す。今後どんどん規模を増していくであろう関係性消費においては、性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)は無意味になっていくのではないだろうか。しかしここではあえて、わざわざラベリングされている「腐女子」と「百合男子」という言葉の意味合いについて掘り下げ、BL/GL(同性愛)ファンの文化それぞれの特徴から考察してみたい。
女性オタクの人文学/社会学的研究に関しては、特に「腐女子論」か「ジェンダー論」による先行研究が数多くある。その中でも数多く散見されるのは、「主体的な女性の性的欲望の解放」といった視座からの言説であった。特に「腐女子論」と「ジェンダー論」を組み合わせた言説では、「自らの女性身体が侵されない安全な領域において、性的な表象を消費するためにやおい文化は発達した」といったものも存在する。しかし、現在においてこれらの言説に私は違和感を感じる。勿論そういった側面も確かに存在する(した)と思うが、現在の日本の混沌としたオタクカルチャーの中で女性オタクの中から腐女子だけを切り取って上記のように論じるのは既にごく限られた一部の事例においてしか適用されない理論であるように思う。
今あえて「腐女子」を論ずるならば、私は「腐女子同士の関係性」に目を向けたい。腐女子であることによる世間からのマイナスイメージを払拭しようとしたり、イベントやSNSでの趣味やスラングの共有による特殊な連帯が、このコミュニティでは無数に形成されている。やおいコミュニティの特殊性について東は、「やおいを好む女性たちは、一様に異性愛から疎外されているわけでも、異性愛を拒絶しているわけでも、異性愛を欲しているわけでもない。彼女たちはただ、異性愛を排除したところで成り立つ、女同士のホモソーシャルな絆がもたらす快楽を求めているのである。」(東 2015:236)と述べている。さらに、腐女子は扱う創作物の特性上セクシャルマイノリティに対する理解が深く、またホモソーシャルな絆から発展し、腐女子同士が交際していることなどもよく小耳に挟む。シスターフッドやレズビアン連続体、ホモソーシャルな関係性を含んだ腐女子コミュニティは、作品上においても現実世界においても強い「関係性」を追い求めている集団なのではないだろうか。
では次に、GLを愛好する男性オタクについて考察してみたい。残念ながら、男性オタクの先行研究は数多くとも、その内容は美少女キャラクタへの欲望やコミケでのゆるやかなホモソーシャルな交流などになり、「百合男子」単体にスポットライトを当てたものは見つけられなかった。なぜなら、GLというコンテンツは受け手のジェンダーによって大きくその意味合いが変化してしまう場合があるからである。そして男性のGL愛好者は、「美少女キャラクタへの性的な消費」という使い古された言説の中に含まれ見えなかった存在であり、その消費の仕方は齊藤によって「腐女子との比較でいえば、男性おたくの『萌え』にとっては、関係性のプライオリティはそれほど高くない」(齊藤 2009:154)*3 と評されていたのだ。よって、ネット上でGLを愛好するファンは「百合厨」「百合豚」などと呼称され、その性別は限定されていない。これはGLというジャンルを男性だけが消費することに対することが上記の齊藤の言説のような文脈を帯びてしまうことに対する対策と、実際にファンの男女比がほぼ半々であるため、両方の理由によるものと思われる。逆説的に考えれば、「腐女子」という呼称が流行ったのはBLというジャンルを女性が消費することを蔑視されることに対するアンチテーゼとして、BLファン当事者たちが自らをそう名乗ったことに起原するのではないかとも考えられる。
また、百合厨コミュニティにおける異性愛忌避の姿勢は、腐女子コミュニティのそれに比べてはるかに厳格なものに感じられる。先に述べた「男性による女性キャラクタの性的消費」とは違うことを宣言するために「百合男子/厨」を名乗った男性オタクたちは、腐女子のようにホモソーシャルな絆を構築することはなく、二次元三次元を問わずして異性愛的な欲望を抑圧されるようになった。この構造は腐女子のジェンダー論に見られた主体的な性消費の解放とは真逆の道を辿っており、非常に面白い点だと思っている。
こうして述べてきたように、同性愛コンテンツのファンの構造は非常に複雑で特殊なルールの基に成立している。しかし、上記の性的欲望を抑圧される百合男子に関しては、百合というジャンルの男女比がほぼ同じであることに大きく由来するだろう。つまり、「同性愛コンテンツを扱うにあたり、そのファンは異性愛を忌避しなければいけない」といった暗黙の了解のようなものがオタクの中で存在しているということである。これに関しては、創作物と消費者のセクシャリティは隔絶して考えるべきであるという立場をとりたい。そして、特殊な連帯がプラスにもマイナスにもなり得るBLファン界隈と、ジェンダー問題に揺れるGLファン界隈は、第一章で述べたバーチャルYouTuberの関係性消費をモデルとして再構築されつつあると考えている。バーチャルYouTuberの関係性消費は、非常に複雑なジェンダー攪乱が日常的に行われている。パーソンがシス男性、ペルソナがシス女性、キャラクタがシス女性のキャラ同士の「絡み」は、GLともBLともタグ付けをすることが難しい議論になってくる。しかし、その関係性に惹かれるファンはキャラクタとパーソンのジェンダーを軽々と越境し、その複雑な「関係性」を消費することができるようになるのである。これに似た現象はアニメ・漫画においても進んできており、創作物と受け手のジェンダーが必要以上にファンを語るうえで関係づけられることも少なくなっていくのではないだろうか。
【続きと参考文献リスト】
相変わらず無職な僕。だけど、少しだけお金が入ったのでエステに行くことにした。理由はもちろん、イケメンになるためだ。エステとはそういうものだろう。
こういうところで小顔マッサージとか痩身マッサージをしてもらえるのか、不安がよぎったが、かまわず突入した。
出てきたのは巨乳の熟女であった。たぶん中国の方だろう。ここでふと思い出した。僕が見たサイトには小顔も痩身も書いていなかったということを。リンパマッサージってやつがそれにあたるのかな?そう勘違いしたまま、僕は全裸でうつ伏せになっていた。
向こうはタイトな服を着ている。こっちは全裸。その状況を頭が理解して、股間に血が巡り始めた。
「お兄さん、今日はお仕事終わった?」とカタコトで言うMさん。ある意味終わっているので、「は、はい」と答えた。
Mさんは泡を使って僕の身体を洗っている。どうやら本気で洗う気はないらしい。フェザータッチである。
洗うならちゃんと洗って欲しい。これは叱るべきなのか? いや、きっとこのままでいい。だって僕の股間は喜んで大きくなっているから。
気づけばMさんは僕の菊門をいじり始めた。いくらなんでもこれで痩せることはないし、ましてや小顔になるわけがない。耐えることがエステの一環なのだろうか。気持ちいいので声が漏れそうになるが、真剣に菊門を洗ってくれているMさんに申し訳ないんのでなんとか堪えた。
耳元でそう聞こえた気がする。
嘘だろ? いま仰向けになったら丸見えだぞ。
「あおむけよー」
もう一回Mさんは言った。
僕は観念した。もう何年も誰にも見られていない僕の息子。しかも成長したこの我が子をさっき会ったばかりのMさんに見せてよいのか?
「は、はいー」
完全降伏した僕は仰向けになった。もちろん息子は手で隠した。頭の部分を中心に右手で隠した。
「ダイジョブよー」
Mさんは僕の右手を振りほどいた。ああ、僕の右手が、僕の右手が、行方不明になりました。
つづく
だから生存に必要な『弱者性』が、その資格を取得できないもの(人種や被差別部落、生物学的な性別や身体障害や知的障害など)から、誰でも自認でOKなもの(LGBTQ、精神障害)に進化したわけだね。
今までは「自分メデューサなので・・・」と言ったら学校の先生、高校、大学の面接などは鏡越しに会話をしてくれました。
でも企業面接では直接見ないと失礼とのことで直接目をみたら面接官が石化してしまいます。この時点で落とされます。(ちなみに治癒費の金の針代はこちらが負担しています。)
なので、1月ごろから電話面談をしてくれる所を探して、ついでにリモートワークできると楽かなとおもって何件か受けたんですけど、
やはり「社長面接」は直接じゃないと難しいらしく辞退となります。
今はなんとか、母親が首だけになって盾として働いて残してくれた遺産があるのですが、髪の毛の蛇たちのエサ代を考えたら後1年持つかどうか…
諦めて風俗店への面接(受付などの方です。受付だと目を合わせなくてもいいので。)も数店いったのですが、「メデュ子ちゃん、身体がすっごくきれいだし、おっぱいも大きいから嬢のほうでどうかな」と言われてしまいます。
アニメによる間接的性的搾取みたいな言説は最初は言いがかりと思ったけど、
ここまで何かにつけて炎上する世の中だと、あとものの数年でそう言われても仕方ない世の中になるかもな…という感覚がある
たとえば、生来の身体的特徴を揶揄するとして女性キャラのバストの大きさ比べとかも批判されたって仕方無くない?
そういうのは美少女アニメのお約束のようなものでいちいち目くじらたてるな、と言い返す態度が既に現実での性的搾取や女性に対する男性の眼差しの固定化を助長すると言われてしまうとまあ…そうなのかもと思ってしまう感覚もある
ある程度は否定もしたいのだが
正論に打ち勝てるだけのパワーを失っているというべきか
こういう話が大きくなると最早かわいい女の子が出てくるアニメやゲームは今の時代においては一層不適切なものになるのかもしれないな…
なんか1日目でなにもブコメつかなかったから放置してたらブコメついてて面白かった。
気になったブコメ。
triggerhappysundaymorning よく分からんけど二次元の嫁と妄想でセックスすんだから何回でも出来ちゃう絶倫設定になさったらよろしいのでは?/オナニー連動型だと厳しいのか…(´・ω・`)
そんなどこまでも絶倫で便利な性器を持つことは妄想でしか出来ないと思うけど、それって「自分」なのかなって思う。
自分はこういったらなんだけど、包茎なわけよ。そこで、口だけで包茎を剥いてくれるエロ描写って非常にえっちだと思えるわけじゃん。それは仮性包茎ならではなの柏手ポイントなわけですよね。
でも、ズル剥けの奴が「口だけで包茎を剥いてくれる」エロ描写を楽しんでたら「包茎でもないくせに楽しんでんのな」って思えるのが普通じゃないですか。
おねショタもそうだけど、ショタがズル剥けでかチンだと嫌なのってあまりにも幼少の頃の自分を重ねわせられないからだと思いますし、逆に、ふたなりってそもそもがファンタジーなわけだから、ふたなりだけはどんだけデカくても批判がされない。
そういうメソッドで生きているから妄想で自分の身体を脚色するのは違うんじゃねーかなって思う。
脚色するのならせめて、「催眠アプリ」だとか「サキュバスの唾液は媚薬なので摂取すると絶倫になっちゃう」とか「博士の発明で分身できる」とかそういうアイテムがないといけないでしょう。
確かに、絶倫で巨チンでズル剥けってのは理想ではあるけど、それは俺じゃなくて、絵に描いた餅であり、別人でもあるわけ。
ちょっと強い言葉を書いてしまった。ごめん。でも自分は身の丈に合ったオナニーをしたいってだけ。それだけは伝えたかった。
tripleshot フィクションに対して、「流石に6Pは難しいから誰が良いか選ばなくちゃ」って自分を前提に思考を巡らせる回路がおれにはないんですが、主人公を自分に置き換えて作品に没入するのってデフォなんすか…?
mosimosihtnsan tripleshot氏が「主人公を自分に置き換えて作品に没入するのってデフォなんすか…?」って疑問を呈してるけど、私もそれ聞きたい。女性には少ないけど、男性はそういうタイプが多いと勝手に思ってるんだけど実際どう?
風太郎だったらそりゃ6Pできるだろうから、自分は自分を見つめて「6Pをしない」という選択をとっただけ。
風太郎という存在がいるから「俺が二乃と四葉と五月とえげつないエッチなことをし始めても一花と三玖は風太郎と今までの話を歩むだろう」という安心もあるわけ。
これがもし自分が風太郎であって一花と三玖を選ばなかったら一花と三玖が悲しすぎませんか?人の血が流れてるとは思えない選択だと思います。
没入するなら、責任を持って全員を見るか、一人を選ぶかの二択で、それをしてないからこそ、3P,4Pで2~3人選ぶという事をしているのだと思います。
・その他「柏手の安ってなんだ」というコメント
これは最初に説明するべきでした。次回以降の増田に取り入れます。
皆さんの推察どおりで、これを読んだから「性の【柏手の安】」が出てきたというのはありますね。柏手の安が無意識に柏手をするのは、刺さるやチンピクとは少し違うような気がします。柏手の安が柏手をするのはなぜかと考えたら「おいしいよ」と作り手にアピールするためではないかと思ったのです。そういう意味で刺さるやチンピクは自分の中の感情ですが、性の【柏手の安】のことを客観的に見て「そうか、嬉しいのか」と自分に納得をさせてくれる。それが「性の【柏手の安】」だと思います。