はてなキーワード: 寝取られとは
好きなジャンルは数あれど、中でも上位に食い込む物がある。NTRである。
読んでいてスカッとするものではないし気分が良くなるものでもない。
しかし今まで彼女ができたことは1度もない。セックスはおろかキスすらしたことがない。
にもかかわらずNTRが好きなのは以前からずっと疑問だったが性癖の1つだろうと思っていたが今日、唐突に理解した。
今まで自分には彼女がいないがNTRの主人公(この場合寝取られる男を主人公とするが)には寝取られるが彼女がいる。
つまりその哀れな主人公に対して自身を投影して疑似的な恋愛をしているのではないだろうか。
そして今まで彼女ができたことがないという自己肯定感の低さから疑似恋愛をしているものの自身とは身の丈に合っていない恋に対して寝取られる状況が現実的に大いに想像できてしまうためNTRというジャンルは
私にとって疑似恋愛かつ現実に起こり得てしまうリアリティのある空想になるため夢中になれるのではないかと思いに至ったのである。
休日のイオンでなんとなく歩いていたら、そう聞こえてきた。若い女の子の声だ。
ビンゴしたのは18歳ぐらいの女の子、驚いた顔をしながら景品を受け取りに前に歩いて行っている。
「このご時世で、呑気だな」と思いつつ、
本気でビンゴに当たって景品のニンテンドースイッチだかに当たっている少女の笑顔が、俺の目を捉えて離さなかった。それは思わず見る人の口元をゆるませるような、ほんとうの笑顔であった。
その笑顔を見て温かい気持ちになりつつも、ノソッとと、僻みのような黒い感情が湧きあがった。いけない、こんな感情が出てきたらもう見ていちゃいられない、と思いつつも嬉しがっている女の子の笑顔が俺の心をがっしり掴んでいた。
オレはもうその女の子を好きになっていた。別に付き合いたいとか、そう言うのじゃない。でももう好きになったのだ。38歳無職半ヒキニートのおっさんに惚れられた女の子には気の毒だと思うが、あの笑顔は何にも代え難いものだと思った。
そんな複雑な感情に飲まれそうになっている中、群衆の中からその女の子と親しそうな男が出てきた。多分、彼氏かなんかだろう。
ただイオンを歩いていただけなのに、21歳の頃、当時の彼女をバンドマンに寝取られた経験を思い出して吐きそうになった。
25歳の時、結婚寸前の当時の彼女に「女々しくて気持ち悪い」と振られたことを思い出して泣きそうになった。
28歳の時、当時の彼女が妊娠したと思ったら他の男の子供だったこと思い出して腹が痛くなった。
33歳の時、当時の彼女がドアノブで自分の死を選んだのを思い出して頭を掻きむしった。
・頼むから誤解するな
誤解しないで欲しいのが俺は普通に巨乳キャラがたくさん出る漫画やアニメを消化しまくってる。
エロ本含めたらこの文章を読んでいる10000人中の10000人より読んでる。
ちなみに好きなサイズは顔よりも大きくて乳首も大きめ、パフィーニップルでロケット型が好きだ。
・目元が描かれない事と、その理由
本題に戻るが、単刀直入に言うと「男主人公の目元が描かれていないのが気持ち悪い」。
良く知らない人のために説明すると、エロ漫画において竿役(まんこにちんこを挿す男性役)の個性が強すぎると読者が集中できなくなってしまう現象がある。
それを避けるために竿役男性の外見の個性を減らしていった結果、「竿役の目を描かない」という表現を手に入れたのが現代のエロ漫画だ。
もちろん一般の少年漫画にも内気な少年や物理的に髪の毛で目が隠れてる男性キャラというのは存在する。
でも前者は個性を消すための目消しであり、後者は引っ込み思案や感情を表に出さないという個性のための目消しである。
ここまで説明すれば分かったと思うが、月曜日のたわわの主人公の目元を描かない表現は明らかに前者だ。
主人公は引っ込み思案なキャラでもなければ感情を表に出さないキャラでもない。
ヒロインが性的に魅力のあるキャラとして描かれており、男性主人公は「読者に気を散らさない竿役として個性を減らされたキャラ」として描かれている。
俺はこれこそが本作最大の問題だと考えている。
作中世界の1人格をもつ架空のキャラではなく読者として描いてしまっていることがたわわの最大の問題点なのだ。
作者の比村奇石はリスクを背負ってでも男主人公に人格をインストールするべきだったと思うし、
結局男の人格を生み出せなかった結果、次回作で相当な苦労をすると予想される。
エロ漫画というのは基本的に読者に抜かせることをゴールに作られている。分かりやすく言うと勃起して射精させれば勝ちである。
そのため、過去の時代では爆乳扱いだった胸のサイズも年々増大した結果、今では一般的に巨乳キャラ扱い。
過去の巨乳キャラは普通サイズとなってしまい、過去作を読み返すと違和感を感じるほどになってしまった。
他にはスレンダー派よりもムチムチ体系が主流になりつつあり、ライザのアトリエの下半身ややムチ体系の発達と周知により、グラマーどころかちょい太めまで世間のストライクゾーンとして確立されたのが現代である。
とにかくエロ漫画というのはモテない男性であろうが、モテる男性であろうが抜ければ何でもいいの精神で進化してきた。それがエロ漫画の根幹となる文法なのだ。
同人などで必要以上に胸のサイズが盛られるのも「抜ければ何でもいい」の精神だし、眼鏡かけさせるのも然り、とにかくシコリティ(シコシコしたくなる度合)が高ければ勝ちなのがエロ漫画の世界なのだ。
エロ同人というのは自由なようでいて実際は外的にも内的にも売り上げという数字で殴り合う過酷な生存競争の世界なのだ。
その結果、進化したエロ漫画業界は胸を盛ることを覚え、上半身は太らせずにふとももやケツの下半身をムチムチさせることを覚え、寝取られによって快楽物質を操ることを覚え、
メスガキによってロリコンの需要を満たしつつユーザー層の拡大を増やす手法を覚え、大爆発的な進化を遂げてきたのがこの30年間のエロ漫画業界である。
女性キャラに対して「スレンダー体系から下半身ムチムチ爆乳体系への進化」があったのなら男性はどうか?
その中の1つの表現や文法として「竿役の徹底的な無個性化」と「テンプレート化」が行われた。
竿役の無個性化は先ほど説明したように男性に必要以上に個性を持たせない徹底的な引き算の美学だ。
竿役が奇妙な語尾を使ったり竿が2本だったりあまりにも不細工だったりギャグ風のデフォルメだったりすると
女性キャラよりも男性キャラが目立ってしまいエロシーンに集中できないという読者は少なくない。
というか男性に個性は要らないと思うシコり手の方が多数派なので改善すれば数字として必ず結果が出るくらい鉄板と言われてる。
一方、無個性化の発達と共に「テンプレート化」も発展を遂げる。
ここまで書いたけど横道にそれ過ぎて長くなるし眠いので寝よう。
言いたいことは
たわわはエロいから問題でもないし巨乳だから問題じゃなくて、「エッチな青年漫画」ではなく、「エロ漫画の文法で描かれたエロ漫画が青年漫画のフリしてる」から気持ち悪い。
ふたりエッチはエロいけどエロ漫画じゃない。でもたわわはエロ漫画なんだ。ふたりエッチは「エッチの勉強として読める」けどたわわは「エッチの勉強として読める」か?
トラブルはエロいけど少年漫画なんだ。でもたわわはトラブルより肌の露出なくてもエロ漫画なんだ。「トラブルはラブコメディとして読める」けど「たわわをラブコメディとして読める」か?
いちご100%はエロいけど恋愛漫画なんだ。というか恋愛漫画って結局恋愛という戦場でのバトル漫画なんだ。たわわをバトル漫画として読めるか?
たわわを最近流行ってる人気のラブコメ漫画やファミリー漫画みたいに角度や解釈を変えることで読むことができるか?できないだろ?
エロ漫画なのが悪いんじゃない。エロ漫画の文脈で描かれたエロ漫画なのに青年誌で連載している。ルールから逸脱してるのが問題なのだが、それについて作者本人が全く気付いてない。
なんとも説明しづらいんだが、なぜフェミ婆から標的にされるのかというと、そういうことなんだ。
エロ漫画の文法は表に出しても知らない人は知らないが、感覚的に本質はバレてしまう。
しかし知らない人にとっては原因が分からず不快感だけをずっと抱え続けることになり、最終的に攻撃という行動に出てしまう。
昨今のフェミ問題の根底にはエロ漫画の文法・表現は表の世界に出してはいけないというオタク・製作側の自制心が欠けているのではないか。
もちろんこれはBLや行き過ぎたジャニーズの裸露出にも言えることだ。
確かに表現の自由は守られるべきだがエロ漫画の文化というのは裏に隠すからこそ発展してきた歴史がある。
それをもう一度考え直してくれないか。
・少年漫画から「女の裸」が日常的に消えたことによって起きた問題
・当事者が誰も気づかないフェミニストが攻撃的になってしまう最大の理由
・女性の権利を守りつつエロティシズムという芸術を子供に継承するためには
・「月曜日のたわわに対する批判の正体」と「フェミニズムによるグラマー女性(実在・非実在)への表現規制活動」は別軸で考えるべき
・無個性男性キャラは男の読者から非実在キャラと向き合うリスクを消失させかねない
でもたわわ、おまえという作品は創作の世界において守るべきルールを破っている。
まずそれから反省しなければこれからも問題は起き続ける。まず個人として解決しろ。
「りぼん」に新連載「りぼんの拳伝承者」を掲載して売り上げトップ飾って雑誌に貢献したとしても、それは絶対に許されないことなんだよ。
最近はNTR界隈も一時期のピークを乗り越えて、さらなる円熟味を増している。
王道と呼ばれる流れを汲むものから一発ネタに走ったものまで幅のある様々な作品が日々生まれる中、改めてNTRについて考えてみたい。
しかし、NTRという単語はかなり広い範囲の意味合いを含む言葉となってしまったため(NTRとさえ付いていれば何でも好きだという好事家は少ないのではないか)、今回は個人的にその肝だと感じる部分を、登場人物の性質という視点から考えてみる。
広く浅くインターネットを眺めていると、NTRというジャンルへの罵倒を見かける機会は割と多いように思う。
「NTR好きは頭がどうかしている」だとか、「ただただ不快」、「経験の少ない童貞向け」、「他ジャンルから流入があっただけ」などなど、これらの指摘が本当に的を射ているのかはともかく、各所のランキングで人気人気と持ち上げられる割に、NTRはかなり好き嫌いの分かれるジャンルだ。
なんなら、毛嫌いしている人の方が多い気もする。往々にして、毒づく発言に反論する人は少ない。「素質あるよ」だけでは、いかんせん受け身にすぎるきらいがある。
無論、俺苦手だわという人の意見には頷ける部分も多々あったりするのだが、個人的にはこのNTRというジャンルがとても好みに合っているのだ。
妙に捗ること以外にも人気となるだけの良さがあると思っているので、あまりにひどい言われようを目にするとそれなりに悲しくなる。
なので、このジャンルの良さがどの部分にあるのか、少しでも説明できればと思ってつらつらと文章を書いてみることにした。
また当然のことながらこの良さとは、一切現実とは関係のない、妄想の詰まった袋の内をたゆたう上での良さである。
まず結論から書けば、個人的に感じるNTRの良さとは、登場人物の心理描写の中に存在する。
より正確には、物語の進行に応じて生じる彼氏彼女の負の感情、その濃淡によって否応なく生まれるすれ違い、それらに強く打ちひしがれながらもぎりぎり薄氷を踏み割らないで関係を維持し続けようとする、登場人物の心境そのものの強度に依る部分が大きいと思う。
つまり、NTRの勘所というものは、寝取られたその結果にあるのではなく、寝取られるさなかのその過程の内にあるのだと。
これは例えば、床に落としたガラスが割れる瞬間を想像した上で、その数フレーム前からぎりぎりまでスローモーションカメラでじっと眺め続けていたいという願望に近いところがあるかもしれない。
言うならば自分は、ガラスの割れる瞬間を見たいわけではないのだ。いや最終的には見たいのだが、その決定的な瞬間に至ってしまえば、あとはガラスの破片が飛び散るだけにすぎなくなる。
もちろんその光景は派手だし、うるさい音もなるし、人目を引きつける力は言うまでもなく強い。このガラスの割れる瞬間こそが、NTRにおいては俗に言う堕ちた瞬間であり、そうした場面の押し出しの強さがこのジャンルの人気の一因とされることに異論はない。
ただその一方で、「おしとやかな彼女があんなにあられもない表情を」という描写の裏側にあるもの、その下支えとして連綿と存在する物語の持続性を無視することはできないように感じている。
いやむしろここで言う数フレームの連続性のさなか、張り詰めた緊張感がかろうじてほどけないまま維持される状態こそが、実はどんなNTRにも通じる本質なのではないか。
言い換えれば、わざと直ちに解決させないこの煮えきらなさを楽しめるかどうかがNTRというジャンル全体を楽しめるかどうかにつながる、というのが今回自分の伝えたいことである。
果たして、あらゆるNTRの設定はこの独特な緊張感を演出しつつ、できるだけ長く持続させるためだけに存在すると言ってもよいかもしれない(これは言いすぎかもしれない)。
ときにNTRの基本的な登場人物を考えると、その多くは男二女一の組み合わせであり、一組の男女に対して間男が登場するという設定が王道だと思う。
そして自分が目にする限り、男二人に関して言えば、あからさまなほどこの両者は対比的な描写が目立つようだ。
性的な部分ではもちろんのこと、例えば彼氏役の男が年若く、彼女に対して奥手であり、女性の扱いに慣れていないような描写をされるのならば、間男側は女性に対して積極的、またはその扱いに手慣れているいわゆるチャラ男系であったり、社会的地位があるようなやたらと人生経験を積んだ人物像が設定される(たまにNTR好きのチャラ男信仰はなんなんだという発言を見ることがあるが、たぶんその理由はここにある)。
逆に間男が汚っさんと呼ばれるようなマイナス寄りの描写をされるのであれば、彼氏側はそれなりにまともな人格、女性と関係を維持できるだけの人柄を持つ人物描写になる。
取りも直さず、一つの作品の中で彼氏と間男は相反する、対立する要素を持つ間柄として広く理解されているところがある。つまり両者の引きつった関係はNTRをNTRらしくする要素と見なせそうである。
思えば、この両者が作品内で直接ぶつかり合うことは少ない。極論、顔を合わせる機会すらないこともあるが、そうであるからこそ、二人の対立的な関係性は最初から最後までほとんど変わらずに維持され続け、効力を持ち続ける。
あるいは彼女役の女性に関して言えば、多くの場合、規範的な性質を持たされることになるだろう。よほどのことがない限り、性に奔放な性格付けはなされない。
その性質上、彼女は彼氏への秘密を極限まで隠し通そうと行動することになるし、間男はそうした女性の動きに応じて、薄皮をはぐようにその秘密を明らかにしたがる。間男は常に女性の意識の逆側を突く。
この両者の行動方針には、やはり対立的な要素が見て取れる。男二人の関係性と同じく、この対立には緊張感を生み出してNTRをNTRらしくする効果がある。
一方でこの関係には相互の駆け引きが避けられない以上、必ず終わりが見え隠れするという点で、先の例と異なることには注意が必要だ。
物語は畢竟、いつしか終わるものであるが、NTRの終わりは基本的に誰かの性質が変化すること、もしくはそのきっかけが見えたところで幕が引かれる。
幕を引く役割を担うのは主に女性である場合が多いが、その理由はここの違いにあると思われる。
…本来ならここでもっと多様な例を挙げて自分の意見を補強する材料とするべきだろうが、自分の力ではこれ以上書いても枝葉末節としかならない気もする。
NTRについて肯定的に受け止める感想をあまり見たことがなかったのでなんとかここまで書いてみたが、同じ好事家がいればまた異なる視点があるはずなのでぜひ誰か書いてくれたら幸いだ。
ちなみに、もともと自分はおねショタ好きだったが、あまりに一方的な献身が続く関係性にいつしか疑問を持つようになり、その答えとしてNTRを見出したいわば闇落ち勢である。
まさか自分がこうした好みを持つようになるとは夢にも思わなかったが、NTRの沼は思いもよらぬところで口を開けて待っているものだ。
他にある?
「娘が夫の子を妊娠しました」というのがインスタで流行っている
どうやら、小学生の頃から父親に「気持ちいいこと」をされてきていたらしい。
完全に性的虐待なのだが、娘が父親に執着し父親を愛しているためか、語り手の母親にその意識は薄いようだ。無理矢理ではないと娘から聞いて、そのまま受け止めている。
語り手は娘を「性的虐待の被害者」ではなく「夫の浮気相手」とみなして夫共々見捨て、「不倫」や「サレ妻」の話として語り、読者もそう消費している。
そしてコメント欄には語り手に同情しつつ娘を「女」として「気持ち悪い」「(父親について行った後久々に語り手に連絡してきた娘に対して)何を今更連絡してきた。見捨てろ!」叩くコメントが並んでる。
近親からの性暴力の「同意」ってそんなに簡単な話じゃないんだよ…。
愛着はあるし、生活を握られてるし、それが気持ち良くて良いことだと信じ込まされてしまって、大人になってから引き裂かれて苦しんでいる人はたくさんいる。
だが、娘の性的虐待に気付かなかった母親は「娘に夫を寝取られた被害者のサレ妻」で、娘は「父親と同類の加害者」であるらしい。