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はてなキーワード: 江戸とは

2024-07-24

男が女に買ってあげるときは、高いもののほうが買い甲斐があるんですよ

安い方がいいこだなって思うこともあるのでは?

それは野暮天の田舎者 江戸のイキな男はそんなこと考えませんよ


こんなセリフが出てくるマンガよみとうなかったわ

胸糞悪い

2024-07-23

anond:20240723160909

まり宇宙人を描いた春画存在しないからといって、江戸宇宙人がいなかったとは言えないってワケ

2024-07-20

anond:20240717122310

家康公を批判してしまったのは尊敬者としてちと反省だな。

三英傑では圧倒的に無駄な殺生をしなかったし、江戸の泰平を作った偉人批判したのは誤りだった。

2024-07-18

anond:20240710182836

尾張名古屋紀州将軍家のお膝元で、利休切腹直前につくった涙の茶杓なんかも空襲で焼けずに残ってる、なんてことは東京人は知らないし。

東京なんて名古屋よりもっと江戸以前は)ど田舎だ。

六本木なんて六本の木しかなかったし、赤坂は赤土の坂だからね(名古屋にも七本松という地名があるぞ)。港区あたりは全部海。浅草海苔

名古屋に勝てるのは京都くらいだから、そう卑下したモノではない。

名古屋がすごすぎるだけ。

ちなみに江戸ってのは日本全体あつめてようやく一千万人という時代(まあ明治の直前には三千万まで増やしたけど)。

わかるか、郊外でなくても今の郊外以下だったってことだよ。

2024-07-17

海外行ってきたけど本格的に日本人土人化している

ここでいう土人定義とは、グローバルスタンダードに乗り遅れて、いつまでも昭和江戸のしぐさを引きずっている状態のこととする。

まあ結論からいうと、しょーもないプロセスやしょーもない「お作法」、「儀式」みたいなものにとらわれている。

やってる仕事の7割8割は無意味という人も多いんじゃなかろーか。

人が多いからそれでもおまんまは食えてしまうというとこが大きな罠よな。

 

あと他人を気にしすぎ。お前らが電車や道端で会う人なんて3秒も人生で関わらないじゃん。

その3秒の関係性に、えらく他人を気にしてネッチョリとした視線で気にしてしまう。このあたりの土人みがすごい。

おそらく江戸時代家康さんが作った五人組とかの農村統率の手法がまだ効いているのだろう。

なんか隣人がやらかしたら全員罰せられる、連座制ってやつね。

から遺伝子として相互監視みたいなものが残ってるのだろう。

 

余談だけど家康さんがパパママを知らなくて、家族の愛を知らない人だったというのを忘れてはいけないよね。冷酷怜悧なとこはあったと思うよ。

自分以外は全部他人、そんな人が作った今の日本の骨組みは、「上意下達のお作法儀式」「相互監視」というとこに行きついたわけだ。

まーこういうのにいち早く気づいてる0.001%くらいの人はSaaSベンチャーとかですごい仕組みの組織を作ってたりするけどね。

信長さんが80歳まで生きてたら全然違う面白い日本になってたかもな。

 

結論20代とかは土人に合わせる必要はないから、海外とくに英語圏モデルにして生きたほうがいいと思う。

若いのにすでに土人に「仕上がってる」人もいるけど、未来はないか無視して有能な人とだけ交流しとくのがいいよ。

進化馬鹿は取り残されて無視される時代が到来している。AIもなんだかすごいしな。

2024-07-12

郷土防衛的な意味民俗資料郷土資料大事だと思ってたりする

そのへんの民俗資料館無造作に置かれてる資料を捨てる話について

 

どこの郷土資料館に行っても置いてあって、個人的にもあんまり見分けつかないので

まり大事に見えないのは心情として理解するし、

農機具なんか自分の家で置いとくのが邪魔になって押し付けたんだろぐらいの気分になるのはわからないではないのだが

自分江戸明治まではじっくり見ても昭和のコーナーは早歩きですっとばす)

 

それはだいぶ贅沢な話で、歴史資料に乏しい国は自国存在証明のために必死証拠をかき集めてるんだよな

イスラエルなんかわかりやすく発掘にやたら力を入れて、

なにか見つけては旧約聖書に書かれたのはこの遺跡だと主張するのに余念がないし

それにくらべると日本自称保守は甘いというかユルいというか危機意識に欠けるというか

たとえば維新系みたいのが対馬勢力を得て郷土資料処分した日には

それこそ対馬半島系の人たちの文化圏だったのだ、みたいな主張に反論するための証拠日本文化圏民俗継続的存在していた)を失うわけだが、

グローバルな人的移動が当り前の昨今、本州内陸だってから100年もしたら「1000年前からここはXX民族土地」みたいな話は出てくるだろうになあ

 

俺もだいぶ年齢を経て保守的な態度になったので、YASUKEはすごい侍大将だったのだ、みたいなのは

どうしたって心理的に反発してしまうわけだけど、

そこに文句を言えるのはYASUKE以外の同時代日本人についての記述資料がそこそこ残ってる

信長配下武将たちの名前事績が直接間接の証拠を積み上げてきちんと記載されてきていて、それら数十名数百名の名前に比してYASUKEの資料はないので比較的な意味可能性は極めて薄いと主張できる)から言えることで、

それすら、まだまだ調べきれてない資料はいくらでもあるのに、今、日本各地で中身も見ずにシュレッダーにかけられたら

SAMURAI COMMANDER YASUKE"にも反論できなくなっていくのだなと思うと、残念

 

現在ある様々な資料の全部の保存ができるとは思わないし、今を生きてくのに過去だけ見ててもしかたない(歴クラみたいな態度で歴史でキャッキャするのは嫌)のだが、せめて自分たちが手慰みに弄ぶ日本スゴイなるものの拠って立つ根拠がどこにあるかぐらいは意識しておいて欲しいよな…

anond:20240712130912

気遣いはありがたいが、そもそも江戸やらかした罪人と農民が住んでた地域に、経済成長期に東北から大量に人が入ってきただけの土地なので、秩父を除けば文化東北弁を捨てた東北県民ヤクザと一部の選ばれし田舎者しかいない所である

最近東南アジア人も多い

古墳新興宗教のでっけえ建物以外、文化らしい文化などないのである

せっかくイオン映画館を建てても文化的な人間そもそも少ないので常時ガラガラである

文化的な人間は全部南に消えた

2024-07-11

うちは貧乏で、普段から節約生活をしている

だけど今年はどうしても夏祭り浴衣が来たくて親に相談した。

そしたら「じゃあ近所のレンタル着物屋に行こう」って言い出すんだわ。

私はセパレートでワンピとしても着られる浴衣が良かったし、高い値段出さなくてもしまむらにもあるよって言ったら

でも「見るからに安っぽいポリエステル生地浴衣なんて娘ちゃんに着せられないから!」って気圧されて渋々承諾。

案の定サイズ合うものは全部借りられてて両親と帰りながらしまむらでも良いから着たかったな〜と思ってたら

レンタル着物屋から連絡着て借りられるようになった。

でも出てきたのが私の好みじゃない、真っ赤な総柄でレトロといえば聞こえはいいけど江戸の町娘みたいな感じ。

私はパステルの淡い色が良かったからお店の人に「もっと淡い色の浴衣無いですか?」って聞いたら「淡い色は下着が透けるので無いです」って。

普通にしまむらでもイオンでも淡い色の浴衣売ってますけど?

親は涙ぐみながら良かった良かった言ってるしもう最悪な気分だったけど、まあうち貧乏だし?仕方ないやって我慢した。

でもその夜に「ささやかなお祝い」とかやってて「そのお金浴衣買えたんじゃないの?!」ってちょっと思った。

でさ、翌日浴衣を着せてもらったんだけどさ、あれすごい苦しいんだね。

お腹圧迫されるし、普通に歩くだけでどんどん裾がはだけていくし、草履は歩きづらくて靴擦れなるし。

でも両親は着付けなんて出来ないかボロボロになっていく私見て「ゆかったね」って笑ってるから私も合わせて笑った。

これは貧乏なのに浴衣来たいなんて贅沢を言った罰なのかな。

ワンピ浴衣サンダル夏祭り楽しんでいる子が羨ましい。

最後レンタル浴衣代聞いた。余裕でワンピ浴衣買える値段だった。

2024-07-10

anond:20240710115514

もうちょっとまとめて質問してもらっていいですか?

(平均年齢も特別若くない(44.13歳)し、単純な若者の数も世田谷区杉並区江戸区や足立区ほど多くないので省略しました。

 土地勘のない人のために補足すると、ホストキャバ嬢がウェイウェイしてる歌舞伎町があって、トーキッズがいて、渋谷とも近いとこです。

 早稲田大学地上げで歯抜けになった悲しい集落もあります下町ではないです。大企業オフィスデパート(伊勢丹など)があります)

2024-07-09

意図せぬマジレスになるが

anond:20240708145343

金で解決できるタイプ文化的な楽しみを見つけなよ

わいの実家京都から江戸からも最果ての天領にあるので、室町時代までさかのぼってど田舎と胸をはって主張できる。当然、スタバもねぇ、おしろいも売られてねぇ、映画館名古屋までいかねぇとねぇ、昭和30年代はかろうじて向かい映画館だったらしい。そんなところで文化的って何?と思うでしょ。ところがどっこい、実は門前小僧習わぬ経をなんとやらで、謡曲をうなれたりするんだよね。当方現在関東民だが、周囲にそんな知人はいません。記憶を辿るに、近隣の衆が江戸もしくは京から観世流講師を定期的に招き、寄り合いながら稽古に励む姿を見ていたんだよね。半年に一度くらい、それなりの規模の発表会が開催され、祝いの席では年長者が高砂をうなれる文化的素養があるわけ。いまにして思えば、暗い山あいの村落に、文化匂いを渇望する民がいて、都の香りを数百年届ける師匠筋がそれなりの厚みで文化基盤として維持されていたんだよね。世阿弥すごいよマジで。まぁ、そういう金で解決もあるんだよという話。ちなみに観世流講師ネットワークって現存してるからな。

2024-07-08

anond:20240708135855

そうだよ。民主主義以前には、民主主義が無かったから、革命必要だったんだぜ。

普通のことじゃないか

 

江戸たかが諸外国が来ただけで、薩長幕府内戦になったし?

任期がないせいで、アヘンボロボロになるとかしだすクソ無能政府を落とせなかったのが清王朝だが?

 

なんでこっちの意見を補強するのお前。

最近読んでる本教えて

まずは増田から

最近「しつこさの精神病江戸の仇をアラスカで討つ人」って本読んでる

かいやなことがあってまあいいかと思えるのって本当にありがたいことだと思う

あいいかが降りてこない時、起きたことはしょうがないとどれだけ自分に言い聞かせても偏執的にモヤモヤがたまり続けてしま

その悩みをときほぐしてくれる本

みんなの読んでる本も知りたい

2024-07-02

職場テレビで「遠山の金さん」が流れていた。再放送なのか?配信?

小さい頃、時代劇再放送をよく見ていたのだが

どの遠山金四郎が良かったかなあと考えると

初代?の中村梅之助だなと思う(今日テレビで見たのがコレ)

でも、遠山金四郎伝法でいなせな感じは杉良太郎の方が良いかな?

一番記憶に残ってるのは松方のかなあ?でも合うか合わないかって言ったら上記二人の方が良い感じ

松平健高橋英樹は論外

というか正直、自分が見た記憶があるのが中村と杉良と松方のものだけな気がする

(他にも様々な俳優が演じているが、全く知らないので除外)

松平は上様過ぎるし、英樹は桃太郎過ぎる

とはいえ中村自分の中で伝七だし、杉良は大江戸捜査網江戸の黒豹だ(まだ歌うところじゃない)。ちなみに松方も大江戸捜査網

関係ないが今日見た遠山の金さんには若かりし里見浩太朗も出ていた。そして、ひっどい演技だった

里見浩太朗と言えば助さんかな(水戸光圀をやったのは見たことない)

つーか、里見浩太朗検索してたら、江戸を斬るもやってたのを知り驚いた。知らんなあ。里見の遠山?イメージ湧かん

江戸を斬るも様々な俳優が演じてるんだな。自分の中では辺見えみり父親イメージだ。イケメン過ぎる

遠山の金さん江戸を斬るでは同じ遠山左衛門尉でもイメージ違うよな

後者ちょっとシュッとしてるというか。金さんに化けてる時、町人か侍かでそもそも風体が違うしな

ところで、江戸を斬るのwikiを見ていたら初代は竹脇無我でありしか遠山金四郎の話ではないことが判明。全然知らん

竹脇無我大岡越前伊織イメージめくらめっぽうイケメン

でも、時代劇俳優の顔(化粧済み)の中で好きなのは普通に銭形平次大川橋蔵市川雷蔵と同じでメイクを落とすと普通のおじさんだけど

あー昭和時代劇って良いよなあ。大河ドラマとは全然違う良さがある

2024-06-29

高級食材マツタケ江戸以前まではどこにでもそこらじゅうに生えてたらしい

逆にシイタケは高級食材だった模様

江戸時代シイタケ栽培方法確立されると立場が逆転、今度はシイタケがそこらじゅうで生えるようになって

マツタケ特定の群生地しか育てられなくなり希少性が上がってしまった

まあマツタケよりシイタケの方がダシもよく出るし味も良いし焼いたり煮たり干したり用途も様々だもんね

2024-06-27

[]

●授業の感想

江戸は,すごく礼儀が正しい世の中だったと分かった。だから外国の人は武士にあこがれていたのかが改めて分かった。

・昔の日本人のように,お互いが思いやりを持って生活したいと思った。

現代日本人江戸しぐさのような考えをなくし,自分さえよければそれで良いという人が多いです。昔の考えを忘れてはいけないなあと思いました。

関東おすすめ美術館神奈川県編)

はい学芸員資格持ちがまずは神奈川県おすすめ美術館を書くよ。

なお増田観点により近現代が多くなっています

神奈川県近代美術館通称かまきん)~

昔は鶴岡八幡宮境内にあった(建築坂倉準三で有名)けど、今は葉山の海沿いにある美術館。(鶴岡八幡宮そば鎌倉別館は今もあるはず)近代美術館としては国近美に次ぐ歴史のある美術館で、長いだけあって渋めも多いが、確かな企画作品が多い。葉山雰囲気も良いね。ここにいた学芸員のかたがいろいろな美術館の館長として活躍していたりするよ。

~江之浦観測所

現代美術家、杉本博司氏が設計した施設

個人的には彼の作品では「シアター」シリーズが素晴らしいと思う。その後の歴史宗教接続する作品群も戦略的とは思うけどね。ちなみにこの施設中学生未満は入場不可。

横浜美術館

改修工事が終わり、トリエンナーレから再開。建築丹下健三ロビーが印象的。作品としてはダリ等の近代美術が有名。個人的にはコンスタンティンブランクーシ作品が好きかな。

Bankart1929~

横浜創造都市の一環で創設された美術館類似施設。メインの施設銀行跡→倉庫駅構内と変えながらもボトムアップでの運営が続く。代表が亡くなったが、今まで積み上げた関係性の中で様々な取り組みをしている。ボルタンスキー展覧会とか刺激的なことをときどきやっている。

横須賀美術館

海沿いの丘の途中にある美術館プリツカー賞受賞の山本理顕氏の建築。近年はジブリとか巨大ロボット展とかやっている。窓の形や位置などもあり、空間への陽の入り方が特徴的。増田は、開館の時の展覧会木村太陽氏の作品が印象に残っているね。

岡本太郎美術館

川崎まれを縁に生田緑地に造られた岡本太郎美術館

屋外の立体作品いいね

TARO賞」の受賞作品の展示が毎年あるからその時に行くといいよ。賞の性格上、エッジの効いた作品が見られると思います

ポーラ美術館

箱根にある美術館印象派展覧会が多い。たまに現代もやっている。

彫刻の森美術館

フジサンケイグループ運営する美術館。イロモノかと思ったら良い作品が広い空間に配置されていていい意味想像を裏切ってくれる。彫刻って触れる作品もあるし、「モノ」感がすごいか絵画とはまた別の印象を与えるよね。ニキ・ド・サン・ファールとか。ピカソ館、ネットの森、幸せを呼ぶシンフォニー彫刻かいろんなものがあるから好きなものひとつは見つかるんじゃないだろうか。

岡田美術館

趣味的には合わないけど、お金かけて良いものを集め、いい箱をつくったの間違いない。企画展は江戸期の作品を中心に組み立てることが多い。

他に川崎市民ミュージアムも書きたかったけど、水害があったり、今は閉館しているのね。施設なしでも活動自体継続しているみたいだけど、どうなるんでしょうかね。

気が向いたら、

茨城千葉埼玉群馬編を書くかもね。

追記

WOW!こんなにコメントが来るなんて!

コメントのとおり確かに江之浦とBankartは正確には美術館ではない(4要件を満たしていないですし、登録もしていないでしょう。さらに言うならBankart施設ですらなく、プロジェクトですね。)ですが、展示の機能性質からここに含めています

東京とその周辺ののおすすめ博物館美術館

ってなんかあるの?

都心にある国立博物館美術館は人多すぎるし知ってるからそれ以外で

府中市美術館八王子市夢美術館はとても良かったのでそういうのを教えて欲しい

あそこらへんみたいな郷土に必ずしも関係ないのに割と尖った展示ができるところこそ真に東京じゃないとできない美術館個人的には思った

(追記)

元増田です

まさかこんなに伸びるとは!

みんなありがとう!行ったことないところたくさんあるわ

おすすめしてくれてる人が多い佐倉歴博江戸東京建物園、横須賀美術館増田お気に入り

少し離れると混雑が幾分緩和されていいところ多いよね

上野国立博物館系は一昔前なら常設ならそこまで混まなかったけど、最近はヤバくてフラッと行けるレパートリーが減ったなと思ってたから色々とありがたい

特に区立の美術館とか全然手を伸ばしてなかったわ

しかしやっぱ東京東側より西側の方がいい美術館博物館多いよなあ

2024-06-21

大岡裁き2.0

大岡裁き。それは我が子を想う母親の心情を巧みに掬い上げた大岡越前守が名裁決である

白洲に引き出されたは二人の女と幼き稚児。女どもは我こそが子供母親であると口々に申し立てる。母は己が益よりも我が子の心身を重んじるはずと考えた大岡越前守は、自らこそ子供母親であると声を上げる二人の女に子供の手を引っ張らせ、まこと母親であれば子供を諦めないはずであると、敢えて真逆行為をけしかけた。果たして本物の母親はすぐさまに我が子の身体を想い手を離したのであるが、偽りの母親最後まで子供悲鳴にも聞く耳を持たずに手を引き続けた。

この、お白洲という非情がまかり通る場所での親子の情を重んじた名裁決は、またたく間に江戸中の評判となった。大岡越前守の公正かつ賢明な裁きに感銘を受けた江戸母親達は、我と我が子が白洲へ上げられる最悪の事態に備え、こぞって相手よりも素早く手を離す訓練を始めた。はじめは隣近所で集まり細君同士で児戯の如く交流を重ねていたのだが、次第に規模が膨らみ長屋単位で集うようになり、数月経つ頃には江戸の町全体の奥方網羅した「大岡裁き番付」が作られるようになっていた。

これが大岡裁きの極限競技エクストリームスポーツ〉化である




大岡裁き」の基本ルールについては今更語るまでもないだろうが、念の為、以下簡潔に説明をする。まず試合場にて競技者たる二人の女と奉行所より公正な基準に則って選ばれた稚児が並ぶ。三者が正面の裁き手へと礼をした後、女・稚児・女の並びに移動し、女がそれぞれ稚児の片腕を取る。そして裁き手の号令にて一斉に手を離す。このとき最後まで手を持っていた方が敗者となる。お白洲に立ち裁き手の最高位たる大岡越前守より御裁きいただけるのは、番付上位のごく限られた存在だけである

競技化してから大岡裁きについて、その全貌を余さず語るには頁が幾らあっても足りることはないが、ここではその初期にあった一つの名勝負を紹介しよう。「突き」が体系化されて技法が複雑化する直前の、純粋たる「離し」の名人達による今もなお語り継がれている試合である

その日お白洲に現れたのは、枯れ木のようにやせ細った女と、それとは対象的に首や四肢たっぷりと肉を蓄えた肥えた女であった。二人は丸々とした稚児を挟み向かい合うとニヤリと笑いあった。両者とも当代一の達人との名高い見知り同士であり、両者五勝五敗のこれが通算十一回目の試合であった。

枯れ木のような女の腕名は湖越えのちよという。彼女は軽やかに美しい所作により「離す」名人であり、彼女の「離れ」による跳躍は水辺を渡る鷺の如きであったという。ちよのあまりにも優雅な「離れ」を語る逸話には限りがないが、その中で最も有名なもの彼女の腕名となっている湖越えであろう。ある武家屋敷にて試合を行っていた彼女であったが、裁き手の号令の瞬間にはそこに残っているのは砂けぶりだけであり、その姿はもはや稚児の傍になく、邸内の池を越えて対岸へと着地していたという。池の幅は少なく見積もっても六間(約11メートル)あり、常人ではとても真似することの出来ない幅であった。彼女の跳躍を間近で目撃した御隠居は、もしあれが池ではなく湖であったとしても、彼女は間違いなく越えていただろうと語った。

もうひとりの太り肉の女は箱根のお松という。彼女はちよと異なり跳躍ではなく縮地による「離れ」を得意としていた。彼女の張りつめた四肢から繰り出される俊足は、十間(約18メートル)を瞬きの間に駆け抜けたという。暫し誤解されることであるが、彼女は純然たる江戸っ子であり、腕名の箱根はちよと同じく試合逸話に基づくものである彼女が縮地を己がモノにした頃のある試合において、「離れ」の瞬間、大砲のような轟音が響き、試合の場である屋敷全体が震えた。その揺れの源は、屋敷の塀に衝突したお松であった。塀が大きくたわむ程に突っ込んだお松の縮地は常人が捉えられるものではなく、かろうじて越前守の弟子であった見届け役が認識できただけであった。その驚くべき俊足を見た屋敷に逗留していたとある粋人は、仮に塀がなければ彼女箱根の峠まで飛んでいったであろうと称したのである

当代一の名人である二人の勝負は一回で終わることはなかった。裁き手の大岡越前守が号令をかけた瞬間、そこには土煙が残るだけであり、お白洲の両端にちよとお松。そして砂煙が晴れてふくよかな稚児の姿が現れるという始末であった。近年ますます加速化する「離れ」の瞬間に、裁き手たる越前守はこれまで辛うじて追いついていたものの、この二人の速度は群を抜いて速く、副審からくり手の技能を持ってしても勝敗判別不可能であった。

土煙が判決邪魔をしているのではないかと、砂地に水を撒き再度取り直しをさせたが、稚児の両脇に残ったのは深々と空いた丸穴と抉れた足跡だけであった。何度取り直しても決着がつかず、ついぞ判決に困った越前守は奇策を思いつく。稚児を立たせるのではなく二人で釣り上げて、先に爪先が落ちた方がより早く「離れ」た方だと。この日の稚児は二十五貫(約94キログラム)ある恵体であったが、お白洲に立つの江戸の最高番付の二人であった。両者は再びニヤリと笑い合うと、片腕で軽々と稚児釣り上げた。ちよが右手、お松が左手越前守が号令を下した瞬間、先に爪先が落ちたのは右足──即ちちよの方であった。

後年、お松は「あれは稚児の左足が短かっただけであり、離れは同時であった」と語り、自分の負けを死ぬまで認めることはなかったという。この勝負を切っ掛けに「離れ」の主流はちよの跳躍となった。彼女が残した縮地は「突き」において花開くことになるが、それを本人が見届けることはなかった。




次は、「離れ」に対して「突き」の興りを記さねばなるまい。あくまでも原点に忠実に手を「離す」ことを重視する「離れ」に対して、何よりも早く手を振りほどくことを重要視するのが「突き」である。「突く」行為のもの競技の興り時点から散見されていたものの、体系化されるまでには長い時間必要であった。

最初期にはっきりとした「突き」の使い手として名が後世まで残っているのが千手観音の桂子と呼ばれる存在である。それまでの「突き」の使い手と彼女の最大の相違点は、「突き」の「離れ」に対する優位であるといち早く看破したことにある。すなわち、「離れ」る前に「突き」押すことで、相手稚児身体押し付けるのである。この発見により、「突き」戦法が大流行し一時は「離れ」が番付から消滅寸前にまでなった。その後、「突き」に対して優位を取ることができる「躱し」が発明され、今に至るまで知られている三すくみ「離れ」・「突き」・「躱し」が完成された。

この篇の最後に「突き」の名人同士の試合を一つ紹介しよう。「突き」手同士の戦いは間に挟んだ稚児を押し合うこととなるため、両側から押された稚児が地に転がることは日常茶飯事で、中には体にかかる力の作用により、大独楽のごとく勢い良く回転する稚児の姿も見られることも珍しことではない。しかし、「突き」の達人同士となれば、人知を越えた奇跡の瞬間が興り得るのであることを示したのが次の試合である

その日の最後の取り組みは、寅と辰という、うら若き双子の「突き」手の試合であった。二人は千手観音の桂子の孫であり、祖母から直々に手ほどきを受けた若き俊英であった。二人が公式の場で手合わせをするのは今日が初めてであり、観衆は期待を胸に見分け難い二人を見守っていた。

裁き手の大岡越前守の声とともに同時に二人の体が動き、稚児を押した反動で揃って稚児から半間(約90センチメートル)ほど離れた位置にゆるりと着地する。はじめに異変に気がついたのは観衆であった。

お裁きを見守っていた観客の間から「ホウ」という感嘆の声が上がった。続いて興奮を隠せない小声が観衆の間から漏れ聞こえ始めた。その段階に至り、判決を下すのに集中していた大岡越前守はようやく気がついた。彼が注視していた稚児が、まるであやかしに持ち上げられるように宙空へ浮かんでいることに。稚児は宙に「丁の字」を描くように腕を開いて静止していたのだ。

双子が全くの同時に両側から稚児を押したことで、稚児に伝わった力が正中線でぶつかり合い、その力が幼き肉体を地から持ち上げたのである。しばらくの間稚児は宙へ浮き続け、やがて萎れるように地上へと降り立った。その間、双子たちは周りの喧騒に顔色を変えることもなく、裁き手の判決をただ待ち続けていたという。記録には、さしもの稀代の裁き手大岡越前守も、この妙技の前には両者引き分けを言い渡すしかなかったと記されている。

2024-06-18

   下戸田交番に寄ったが、相変わらずのクズの不在ぶりで、いつ行っても誰も座っていないし、所長もいない。場所によって多くの者が単に動画を電磁的に流しているだけで、街や

  社会自体存在していないような感じで、地域一帯が犯罪者の思惑に支配されているような感じがする。蕨警察署ドンキホーテの先にあるが、いつ行っても、パトカー無線車のおっさん

  偽計で、蕨警察署発見したことはない。無線車が2台停車しており、仕方なさそうにあぶり出されてきたものが、停車している。こいつを嵌めて犯罪現場に完全誘導すればいいと思うのだが

  やり方は分からない。蕨消防署と書いているが、明かりも何もついてなく、延岡消防署とは相当に違う。六辻交番から浦和警察署電話すると、29歳の、おぺちのような者が出る。

  説明意味が分からないの繰り返し。非番の日は何をしているのかという質問に、家族サービスをしていると言うが、そんなことをこちらが目撃する手段はないだろうというと、そうですね、などと

  言い、何も話が進展しない。最後の言葉は、 私の29年の人生・・・ ちーぎゅちーぎゅ、ちぎゅあああああああああ、という感じ。3時30分に六辻交番から戸田橋の方向に傘を差しつつ

  向かうと確かにドンキホーテがあるし、そこの先に、蕨警察署もあったが、何の変哲もなく特に中身は見なかった。六辻交番で、さいたま妖怪が多いだろう、電磁場で動いてるんじゃないかという話

  をしていると、交番前を若者が都合が悪そうに走行しているし、自動車運転者不審な顔の者が多い。4時に大雨が降って来たので、戸田川岸1-4-20の前の工場で雨宿りをするが

  その時間帯はその一帯に犯罪者が住んでいるような電磁的動画ではなかった。犯罪者が住んでいるのはとうに分かっているが、電磁的動画で、平和な街に見せているので、吐き気がした。

   実際には犯罪者が住んでいる場所を、運営基地局が電磁的動画平和にみせているだけなので、もうばれているので、その辺は信用せずにスルーをする。4時25分過ぎに荒川緑道に

  行くがこの辺も電磁信号により動画をみせているだけなのでたまに風景全体が禿げてただの江戸社会ではないかという正体を現す。

2024-06-08

国会図書館デジタルコレクションで見る明治時代新撰組の扱い

明治時代新撰組庶民からどのように思われていたのかを調べるために、庶民の目に触れていそうな(?)雑誌記事だとか読み物だとかを抜粋していく。

明治10年『昔今豪雄見競鑑』

こちらは明治10年頃の「番付表」を集めた書籍のようだ。

『昔今豪雄見競鑑』は歴史上の英雄明治期の英雄を対比したものだが「都ノ猛勇 悪源太義平」と並んで「脱走ノ勇士 近藤勇とある

近藤勇ってどっかから脱走したっけ?と思ったが、幕府瓦解後の旧幕府軍のことを「脱走方」と言ったらしいのでそのことだろう。

同じく「古今英雄競」「本朝今昔英雄鑑」「古今英雄三幅対」などにも近藤勇の名が挙がっている。

このような番付でよく名前が挙がる程度には知られていたらしい。

明治16年『徳川義臣伝』岡田霞船

まずは近藤勇について。

近藤勇武勇衆に秀で当時其英名尤も人に知られり新徴組の隊長となりて始め京師に在り又大坂に退き伏見の戦ひ幕兵乱るる中より取て返し迫る官兵を追捲り銃丸足に当ると雖も屈せず大ひに勇名を現し江戸に返りてより諸士を煽動して甲府に至り勝沼駅にて寄手を破りしが遂に衆寡せずして敗軍なし残兵を率いて走りたるが官軍厳重に探索を遂流山に於て勇(いさみ)を捕へんとす勇(いさみ)力戦して縛に就き板橋駅にて斬せらる

新徴組と間違えられとるやんけ!

新撰組時代よりもその後の甲陽鎮撫隊時代のほうに力点が置かれた説明のような気もする。

土方歳三も紹介されている。

土方歳三幕府の旗下にして始め京師にあり伏見鳥羽戦争破れしより江戸に返り諸士を募り主家を再興せんと謀り軍議を決して榎本永井の人々と共に品海を脱し函館に趣き尚ほ奥羽の士を募り官軍の来るを待受屡々寄手を脳す然れ共官兵は新手を入替無二無三に攻立たるに脱兵防戦に尤も苦む歳三毎も真先に進み敵を切る数十人に及ぶ後乱弾にあたりて死すといふ。

新撰組について何も触れられてねえ!

とはいえ「義臣」と銘打っているだけあって悪いようには書かれていない。

明治18年『汗血千里駒』坂崎紫瀾

『汗血千里駒』は坂本龍馬主人公として、その名を一躍有名にしたという小説。その龍馬暗殺犯として近藤勇が登場する。

縦令ひ其不意を打ちたるにもせよ鬼神と呼ばれし海援陸援の両隊長をば斯く容易く一挙に斃し負せる其の手練と謂ひ肝気と謂ひ天晴れ日本一の剛の者と思はるるも実に理りなり彼の刺客は当時徳川将軍の御内に其人ありと聞えたる新選組の旗頭近藤勇等にてありしと

近藤勇とその腹心の土方歳三が、二人で近江屋に討ち入り、坂本龍馬中岡慎太郎を斬って、「そのとき義経少しも騒がず…」と高らかに謡いながら出ていき、今際の際にそれを聴いた龍馬が「あの刺客は只者ではない、彼らのような豪胆さがあってこそ大事を成せるのだろう」と慎太郎に語る、という描写があり、これがのちの様々な作品踏襲されていったようだ。

当時幕府の亡びなんとするは天の命なり民の望なり社会自然の気運なれば今は百の勇(いさみ)ありとも亦之を如何ともすることなきをば思はずして健気にも唯忠を己が仕ふる所にのみ尽さんとしたるは愚かにも又哀れとや謂わん

時代の流れに逆らって忠を尽くした健気だが哀れな武人…といった感じで「敵役でありつつ悪役ではない」という扱いに思える。

明治22年『女侠松竹梅』奥村玄次郎

偖は其方が近藤なるか。其方幕府を笠に着て国を憂ふる正義の士を多く害せし大罪人。此処で遇しぞ僥倖なれこれまで其方の手にかかり不幸にも寃に死したる正義の志士の忠魂を弔ふための復讐せん

お松・お竹・お梅という三人の娘が勤王の志士を助けて新撰組と戦う、といった話らしい。

こうしたいかにも勧善懲悪な読み物では「典型的な悪役」として描かれていたようだ。

明治26年『活文字』鈴木力・佃信夫

近藤勇の話

江川太郎左衛門が琴の譚に比らべて、劣る事なきは、近藤勇の謡なりけり、以て幕臣中の双美とこそは為す可けれ、左に説かむ。

武勇と剛胆とは、麾下九万の士人中、勇(いさみ)ぞ其第一位を占めたりける、さればまだうら若き身を以て、新撰組の頭領として、海内動揺の中心たりし京城鎮護の命を稟げ、一時其独力をもて、鷙悍狂躁の浮浪はらを打鎮め、幕廷擁護干将莫耶とは成りたりけり。

めっちゃ褒めるやん。

土方歳三は、豪邁不屈、肝気非常の男なれども常に勇(いさみ)を相輔けて、死生を共にせむ事を約し、巴港戦死の時に至る迄、其生前の交義を追想し、風吹く日雨降る夜ども、寒窓の下に俛泣し、時世は既に望なし、片時も早く、泉下に亡友を尋ねましとぞ歎ちけるとぞ、其人をしらまく欲せば、先づ其の友を見るべかる、この一斑の譚を見ても、勇(いさみ)が全豹をぞ推すに足る。

国粋主義系の雑誌らしいんだけど朝敵をこんなに褒めていいのか。忠義を尽くして死ぬ話がやはり好きなのか。

コラムの後半では坂本龍馬暗殺の話が書かれていて、この頃はやはり「龍馬を殺した男」という印象が強かったようだ。

明治29年『近藤勇の少年時代』中野三鷹子

『家庭雑誌』という婦人向け雑誌掲載されたコラムらしい。

著者本人が古老に取材したもので、幼少期の勇が近藤周助の養子に迎えられて「近藤勇」と名乗るまでを紹介している。

是より後のことは明治維新の史にくはしく、今更いふべき要もなし、唯其妻の事継嗣のことおよび処刑後の事并びに近藤勇と尤も関係ふかき土方歳三ことなどは、世に知られざるふし多しそは又時をかへて語らん。

として次号に「近藤勇の妻及子」、また別の号に「土方歳三少年時代」が掲載されている。

婦人雑誌でも「今更いふべき要もなし」と言うほど近藤勇知名度は高かったのだろうか。

花を浮べし徳川の流れの末荒浪立ち騒ぎて、二百六十余年は名残の夢となりける時、武士道の意気地を立て貫きて、板橋の草に赤きこころの血を染めたる近藤勇の名を知る人は、函館の浦吹く風に露と消えたる土方歳三の名を忘れざるべし。

かっこいい。

明治30年『幕府名士近藤勇』松林伯知

松林伯知は、永倉新八から『浪士文久報国記事』を借りパクした疑惑があることで知られる講談師で、新撰組講談主人公とした最初期の人物だったという。

巻末に「夢物語」と題した短編が収録されていて、それは函館に入った土方歳三が「公武合体成功した新政府のもとで陸軍を率いる近藤勇海軍を率いる坂本龍馬が仲良く会話する」という夢を見る、というifルート的な内容のようだ。胸熱

本編では、坂本龍馬暗殺したのは近藤勇ということになっているし、新撰組結成前に江戸近藤勇坂本龍馬が手合わせをしていた、というような場面も描かれている。

明治30年『坂本龍馬(名士伝)』竹林巌

少年世界』という、その名のとおりの少年向け雑誌掲載された坂本龍馬の伝記で、そこに近藤勇が登場する。

人と為り魁夷、斗酒を嗜なみ、勇悍独歩肝臼の如し。幕の末路に当り新選組の長となりて徳川氏の為め新日本の活舞台上に仇すること実に巨多なりとす。彼は常に歩百歩の外に潜行して西郷大久保坂本等を暗殺せんと睨むこと茲に年ありき。就中龍馬が大勇は向に新選組百有余人をして全く色なからしめ、以て其長たる勇(いさむ)の面目を天下に唾し去り。(中略)勇(いさむ)は今や血燃え、涙滾りて自から禁ずる能わず。すなわち刎頸の友、土方歳三を招きて何をか耳語すること久し。忽ち相頷きつつ頗る決色ありき。

として近藤勇土方歳三は、二人して坂本龍馬暗殺に向かうのだった、という筋立てになっている。暗殺の場面は『汗血千里駒』を踏襲している。

明治31年『新撰組十勇士伝』松林伯知

こちらも松林伯知の講談を筆記したもの

前述の『幕府名士近藤勇』には沖田総司永倉新八は出てこないが、こちらの『新撰組勇士伝』には登場する。

ただし、沖田が天才剣士だとか、そういうキャラクター付けはまだ無く、せいぜい「名前のある脇役」くらいの立ち位置のようだ。

芹沢鴨暗殺山南敬助切腹伊東甲子太郎との敵対池田屋事件などのエピソードはある。

また、こちらでは龍馬暗殺近藤本人ではなく「近藤勇の命を受けた佐々木只三郎」によるものということになっている。

京都見廻組佐々木只三郎らが龍馬暗殺したという説は明治2年には出ていたようなのでそれを取り入れたものか。

明治41年『二十世紀之京都』

京都観光ガイドブックらしいが、壬生寺についての紹介で新撰組言及がある。

節分には疫除祈祷の為め参詣者群れを為せり、去れば維新前後天誅組と称し近藤勇土方歳三など当寺に立籠り壬生浪士といへば婦人子供の戦慄せし当時を思へば御代太平を喜こばぬ者はない

当時の京都人の認識がうかがえるものの、「天誅組」といえば倒幕派武装集団なので新撰組とは正反対存在である

単なる勘違いなのか、それとも庶民あいだでは混同されていたのか。

明治44年『幕府名士近藤勇』『怪勇後の近藤』玉田玉秀斎

松林伯知のものと同じタイトルだが別の講談師によるものらしい。

こちらには沖田総司永倉新八斎藤一らも登場するが、池田屋事件の場面において、

中にも沖田惣司の働きに至っては実に目ざましい、此処彼処と戦ふて居りまする中に、最う最後と思ふ、折りしも何処からか一人の敵が、惣司の袖の下を潜って逃げんとする 沖田「己れッ………」と云ひながら躍りかかつて、エイッ……只だ一刀に斬って落とした、其の時に急に持病の肺患が起つて其の場に気絶をした

とあり、喀血ではないが、沖田総司の発病の描写があるのが興味深い。

同じ明治44年に刊行された鹿島淑男『新選組実戦史』(デジタルコレクションには1975年の復刊版しかない)にも同様の記述があり、そちらは新聞連載をまとめたものだというので、講談師が紙面で読んで取り入れたものか。

ちなみに『新選組実戦史』は吉島力『新選組顛末記』の元ネタで、『新選組顛末記』は子母澤寛新選組始末記』の元ネタらしい。

まとめ

明治の始めにはまず「近藤勇個人が知られ、「新撰組」はそれに従属する情報にすぎなかった。

・『汗血千里駒』によって坂本龍馬の人気が高まるにつれて、「坂本龍馬暗殺した男」として近藤知名度を上げた。

近藤の腹心として土方歳三が登場することは多かったが、それ以外の隊士たちはほとんど取り上げられなかった。

近藤は概ね「維新志士の敵ではあったが立派な剣士だった」と捉えられていた。

しかエンタメ寄りの勧善懲悪ものでは典型的な悪役を演じることもあった。

・やがて永倉新八の『浪士文久報国記事』などをもとに、近藤勇主人公とした講談が演じられるようになった。

明治末にはさまざまな証言資料が揃ってきてディテールが深まり近藤土方以外の隊士が取り上げられることも増えていった。

・やっぱり京都からの評判は悪かったらしい。

2024-06-03

   舟渡2丁目には結論から言って一戸建てが並んでいる。視認できる、技術的に構成されたものといえば、それと車である。これをまたお前の価値観で言っても、それが食べられるかというとき

 あらゆる角度からみても、家というものが残っていてそれが見えるだけで中に何が住んでいるのか分からない。それだけここの住人は外に出てくるということがない。その、外出しないということについて、

   なんで外出しないのか、というときに、自分社会的摂取できない、食べられるようなものではなく恥ずかしいから出て来ない、というのは飽くまで警察の、昔からある、他に手の取りようがないか

  仕方がなくそう考えているといった、くだらない建前というものであろう。私ははっきりいってここを5年前からみているが、家があることしかたことがなく、何が住んでいるのかということを見たことがない。

   またこの辺に、自分摂取できるようなものではない、社会的に食べられるようなものではなく恥ずかしいか世間体があるから出て来ないのだという通念がここにあるとは思えない。

  更に東京埼玉にはそういう通念があるようなところではないので、この辺に住んでいる人間の何を考えているのか分からないこと甚だしいものがある。車の番号では、ひたすら、 ちっ、などと言い、

   そういう人間他人に食べさせるなどということを考えているとは思えない、その意味でも、こいつらに、自分摂取できるようなものではない、世間様、他人様に害を及ぼす存在から我慢しているのだ

  といったような考えがあるとは思えない。そんな善良な考えをしている者が、ちっ、などと舌打ちをするはずがないかである。確かに、令和3年の東京大学の現代文問題は、 食べる話、江戸妖怪

   といった論文が出ている。そのように、東京大学が、食べることと、今の東京江戸であって、そこに妖怪が出ると考えているのではないかということが理解できる。

2024-06-01

anond:20240601220048

江戸の昔から東京っぽさというのは雑然として猥雑ななんでもありなイメージステレオタイプからは程遠い

田舎者向けに記号化されてるところだけ見てるからそう思うんじゃない?

広いんだよ東京

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