はてなキーワード: 江戸とは
数十年も経って数千万で売れると思ってるの芝
新築で買って子どもは小4くらいで10年くらい住んで売る設定であっても
常識的な価格で買って最低でもプラマイゼロにできるならむしろドヤるべきことで
不動産投資について語るとかはじめていいよ
一応、世の中には都内で築35年かつ5000万以下のマンションに2年住んで収支をプラス400万弱にした人とかもいる
同レベルの賃貸だと家賃相場は15〜20万なので、家賃を入れると安く見積もっても700マンくらい得をしている
阿波連さんと古見さんの発音というかイントネーションがおかしい
阿波連さんはあ↓は↑れんさんで
古見さんはこ↓み↑さんだった。
何がおかしいってかぐや様とか式守さんや高木さん、長瀞さん、宇崎ちゃんはちゃんとイントネーションが↑↓になってて正常な発音になってて違和感がない
普通はあ↑は↓れんさんでこ↑み↓さんでしょ?
日本語が拙いのかね。それともいわゆる山手弁(山の手言葉とも)って奴?
このイントネーションの響きは独特で東京以外だとあんまり使わないイントネーションだよね。
それとも音響監督とかナレーターが東京の江戸の局地的な所の方言を扱う地域出身だったのか
梅毒と妊娠に対してノーガードで、梅毒については治療できないから死ぬし、
妊娠も無理やりな方法で堕胎してたから、普通に考えて死ぬと思うんだよね。
「生まれては苦界 死しては浄閑寺」という言葉が刻まれた石碑が浄閑寺にありますよ。
吉原遊女が梅毒などの性病で亡くなり次々と浄閑寺に投げ込まれたというのは有名な話。
なぜ浄閑寺だったのか。
いくら着飾ろうと、江戸中の男たちに愛されようと、しょせん遊女は商売道具でしかなかった(「遊女」を「芸能人」に置き換えれば現代に通じるか)。
休みもほとんどなく、食事も粗末なものが出るだけだ。いいものを食べたければ、懸命に働いて客からお捻りをもらい、そのお金で自前の食べ物を買っ
たり、見世にあげた客に台の物をとらせご相伴にあずかるしかないのである。
さらに、着飾る着物、帯、化粧品に至るまで、すべて自分で買い整えねばならない。そのために、見世から借金しなければならなかったから、借金は増
える一方である。
大名や大商人が贔屓にしてくれる遊女はほんの一握りで、ほとんどの遊女が手練手管を労して客からお金を吸い上げることに精を出した。
遊女の務めは「苦海十年(苦界とも書く)」と呼ばれ、十八歳から二十七歳くらいまでが吉原で遊女として商売できる期間である。この期間に、身を売っ
た代金、つまり身代金を働いて返さねばならない。これに加えて、前述のように借金が加算されていく仕組みになっており、馬車馬のごとく働かされる。
遊郭の掟や慣例も遊女たちを苦しめた。その掟の見張り役が、遊女上がりの遣手たちである。
遊郭の一ばんの掟は、見世の若い衆と遊女が男女の仲になってはいけないというものだ。見世側とすれば、商品に手をつけられてはその商品が働か
なくなる。つまり、若い衆といい仲になると、その遊女が客を取りたがらなくなるのである。
この関係が深くなってしまうと、やがて手に手を取り合って遊郭から逃げ出すということも起こる。いわゆる駆け落ちだが、見世側としては、黙って見逃
すわけにはいかない。吉原の地回りなど大勢を使って二人を見つけ出すのである。見つけ出された男はほとんどの場合殺されてしまった。遊女は吉原
へ連れ戻され、凄惨な折檻を受けることになる。殺してしまえば商品としての価値がなくなってしまうが、それでも他の遊女たちへの見せしめの意味もあ
遊女が苦海から抜け出る方法は三つしかなかった。一つは年季奉公を勤め上げた、いわゆる「年明き」で遊女から足を洗う場合。二つ目は、金のある
客に見初められて「身請け」される場合。そして三つ目が死んだ場合。
吉原の年明きは二十八歳なので、この年になった遊女は見世から暇を出される。中には遣手として見世に残る遊女もいたが、多くは吉原の外を望ん
だ。吉原を出た遊女は、年明きになったら一緒になろうと約束していた男と所帯を持ったり、そのまま吉原以外の色里・岡場所に行く女もいた。
客に身請けされるのが遊女の幸せといわれるが、なかなかそんな客は現れない。特に太夫クラスの上級遊女になれば、身請け金は膨大な額だったの
である。もともとの身代金に加え、これから働いて稼ぐであろう金額、これまでの借金、見世や周囲の人間に出す祝い金など、合計すると何百両にもな
る。このような大金をぽんと出すのは、大名や大商人以外は不可能である。
中級あたりの遊女でも、やはり百両前後はかかったという。ランクが下がれば身請け金も下がるが、宵越しの金は持たねぇと突っ張る江戸っ子には数
十両のまとまった金は調達不能だろう。それでも、中にはコツコツお金を貯めて、身請けした町人もいたようである。
死ぬほど辛い苦海・吉原では、実際に死んだ遊女の数は知れない。粗末な食事で馬車馬のように働かせ、体力は消耗する一方だが、さらに病気が追
梅毒はもともと西インド諸島の風土病で、コロンブスが西インド諸島に到達し、スペインに帰国した際、その船員たちがヨーロッパに運んだといわれてい
る。シャルル八世のナポリ攻撃以来ヨーロッパから世界に広がり、日本にも十六世紀の半ば南蛮船の来航によって上陸した。ちなみに日本の文献には
それよりも前、1512年に「梅毒」という言葉が登場している。
当時梅毒は、「かさ」などと呼ばれていた。感染すると感染部におできのようなかたまりができ、これがかさぶたのようになるからである。この「かさ」が
潰れると、痛みを伴うがしばらくすると治ってしまう。実際は一次症状が収まって潜伏しているだけであるが、当時の医学知識ではこれで治ったと思って
一度「かさ」にかかって治った(と思っている)遊女は、二度と梅毒にかからないとされ、客の方でも病気のない遊女として認知された。見世からも一人
前の遊女として扱われ、遣手は客にどんどん勧めた。おまけに病気が潜伏している影響か、妊娠しにくい身体になっているから、見世としては大変重宝
した。こうして、梅毒はどんどん広がっていったのである。客の方でも、梅毒にかかることは一種のステータスで、遊びを極めているという目で見られた。
何年か後、再び症状が現れると、今度は皮膚にゴム状の腫れ物が出て、その部分の肉が落ちる。鼻が落ちるといわれる梅毒の症状はこの時期だ。
やがて神経系が冒され、死に至る。
こういう症状が出ると遊女としての価値はなくなり、吉原を追い出されたり、生きたまま投げ込み寺へ捨てられたという。悲惨な結末が遊女を待ってい
たのである。
梅毒とともに遊女を悩ませたのが妊娠だった。妊娠は遊女の恥とされ、さまざまな避妊法を用いたが、当時の知識では妊娠は避けられない出来事だ
った。
当然見世側とすれば中絶させたが、この手術も原始的なもので危険極まりないものだった。中条流というのが堕胎専門医師の看板で、中絶に失敗し
て命を落とす遊女も多かったという。
堕胎できずに子供を産んでしまった場合もあった。この場合は、見世の子供として育てられ、女の子なら遊女の道へ、男の子なら見世の若い衆として
江戸の社会は寧ろ酷かったからこそ娯楽が栄えたという話を最近知ったが、
そのへんが白人は北アメリカやオーストラリアを原住民から奪い取れたのに対し、
東南アジアや中国大陸でパッとしなかったことにもつながる気がする
要はお上に逆らわず、かといってそのお上の支配を逃れるために新大陸を奪いもしない、
遊女は貧困家庭から10歳未満で売られてきて「禿(かむろ)」として教育を施される。
15歳に新造出しでお披露目を受けて振り袖新造になり、17歳には客を取り始める。
27歳で年季明け(高齢により引退)となるが、多くは27歳になるのを待たずに性病などで死んだ。
才気も美貌も凡庸なままに死んだ者>美貌を強みに金持ちに水揚げされた者>才気を強みに遣手婆になる者
まあとにかく死ぬ者が多かった。
「陰間」と呼ばれる売春少年は、もっと客を取り始めるのが早かった。
少年は、遊女よりもかなり早くから性的サービスを客に提供し始めた。
(12歳で売春し始める少年と、17歳で売春し始める少女、この年齢での5年が大きいことを考えると結構な差だ)
第二次性徴が来ると、ひげ抜きをしたりお化粧をしたりして、中性的な幼い見た目をなるべく長続きさせようとした。
当時の陰間を買う値段は2時間=4分の1両、現在の金額に換算すると2万5000円程度で、
庶民にはなかなか手が届かず、富裕層が利用するものであったそうだ。
しかし20歳になってしまうと身体がどうしても大人の男性になり、
「年増陰間」などと呼ばれ、男性客には見向きもされなくなる。
「年増陰間」になると、彼らはターゲットを女性客に切り替え、御殿女中や富裕な商家などの未亡人を相手に身体を売った。
これがまったくジャニーズ事務所にそっくりなのだ。12歳から18歳くらいまでがジャニー喜多川の領域。
19歳20歳になりジャニー喜多川のストライクゾーンを外れて、男性加害者の性虐待から解放されると、
今度は女性加害者相手のビジネスを始める…まさにジャニーズなのだ。
「子ども大好き」な男性の「お古」を女性があてがわれる構造は、江戸も平成も同じだったようだ。
アメリカでは…というか日本以外のほとんどの国では屈強な男性が女性にモテるらしいが、
日本ではジャニーズ系、中性的で若々しい美男子が女性にモテるという特徴がある。
「"ショタコン男性"の好みに染められた"お古"を女性が引き受けてきた歴史」の影響が
今もなお残っていることに理由があるのかもしれない。
https://togetter.com/li/1878287
女性の居乳がエロいかどうかなんて言うのはそもそも日本にはなく、うなじやふくらはぎに江戸の庶民は興奮したそうだ。
だけどこの手の議論をフェミがするとなぜか男性の支配欲とかそっちで説明しようとするんだよな。
もっと昔の時代に行けば、男女は興奮するから交わるのではなく、たとえば農業が終わって収穫をしたからじゃぁみんなで子供作るかとまるで年次イベントの様に子供を作っていたのかもしれないし、大奥があるような大名にもなれば、とにかく女を孕ませろ、興奮し様がするまいがやることやれよといわれていたので、性欲もくそもなかったかもしれない。
ただ、性欲は本来ないのかといわれればあるだろう。解消の仕方が最近ではバリエーションが豊富すぎるということでもある。
性欲は自然で本能的なものだが、その性欲を解消するための発情のメカニズムは不自然に捻じ曲げられていると思う。というのもそこにも商売があるからだ。というよりもここでいう自然で本能的な性欲とは一体何かの定義もしていないので安定のフェミしぐさだな。