はてなキーワード: 哲学的とは
ブサイクで哲学的に遊べないと決まっていて埼玉県からの容姿補正命令装置がなかったらほとんど刺されてもおかしくなく形式に拘り中身はなく出来上がっているのだけが
取り柄で形式文言の出現だけをこととし無内容極まりない世界で残酷で消防署前で拡声器で怒鳴り上げられるにいたるも催眠装置を作動させ殺す殺すと嘆くその毒気は
一般人を惑わせる。しかも形式文言の出現だけをこととしながら何を言っているのか分からず全然面白くなく生産性も何もないしクソという2文字だけが会心の一撃で警察官に
一番効果を発揮し、ミツルプラス警職法3条で強制保護もするしソフト日向はほとんど支持者対策で特定の嬢を出現させているだけでその仕事は趣味にも遊びにもならず苦役な
だけなのに平成時代は背後に金もうけがあったので行政と検察は禿でクソで話にならないも薬局とスーパーだけ繁栄していてそれ以外無内容というしまつで手に負えない。その惨劇を
補完するためにインターネット上ではデリヘル以外に出会い系等も流行っているが機能してなくくそつまらないし何にもならないので裁判等で遊ぼうとするも子供が遊べないような制度設計
なんかがんばって生きてたなーって思ったしとにかく疲れてるなー
楽しかったのかもしれない
その夢に引きずられ高校のときの「〇〇さんに聞いてるんだけど」などを思い出す。学祭終わりに、体育館でチームみんなで打ち上げのようなことをしていて、お菓子いる?と聞かれてわたしが受け答えしたところ言われたこと。もしみかが受け答えしたときには「増田さんは?いる?」と付け足されただろうか。うめなんとかくん、〇〇のこと好ましく思ってただろう(恋愛とかでなくとも)。こういった記憶ばかり残っていて、わたしは不遇だ、選ばれない人間だと思っているが、逆にわたしが選ばれ他のひとが除け者にされたときのことは、わたしは覚えていないんだろう。勝手な人間だ。人間とはかくあるもの?除け者にしたではないかと責められたくないのであれば、除け者にされたことを責めるべきではないよ。でもつらーーい
〇×△□(俳優)、たいへんかわいい。ムリだ。ガチ恋かよというレベルだ。なにかにハマるのはたのしい。
つらい。ひとを心の底から好きになれるときなんて来るのか?と思春期のようなことを思う。ひとをしんらいすることが難しい。下手をうつとそのうち刺されるんだろうと思ってしまう。刺されるならそれはそれでいいのかも。
別れたときのこと。人生が楽しくないというはなし、自分が自分である限りこの人生はたのしめない、だから人生巻き戻りボタンなんて押さない、というようなことを言ったら「中学とか高校のときの俺もそう思ってた」。だからなんだよ。だからなんなんだよ。思春期のクソガキみたいなことを言っているのはわかってるよ。我ながらバカみたいなことに苦しんでると思ってるよ。でも昔の俺もそうだったっていうお得意のフレーズでぶった切られたらどうしたらいいの。そんな人間をこの先の人生のパートナーにするの?無理でしょう。昔の俺もそうだったならこうこうこうしたら楽になったとかこういう考えかたがあるとか、欠片も示せないわけ?真剣に自分を開示したってまだまだ子供だな☆みたいな返答されたらもうなにも言いたくないじゃん。ほかのときだってわたしがそれはこうなんじゃないかな?と言ったら「俺もそう思うんだ」としか言わないの腹立ってたよ。そこからわたしの考えに付け足すなにかが出てくるならいいけど出てこないじゃん。「俺もそう思うんだ」「そっかあ」「…」「…」「…」ってお前ほんとうに思ってた?乗っただけじゃないの??ふざけんなよ。「増田の哲学的な話きくの好きだったんだけどな」じゃねえよ。ひとの知識をただで消費してんじゃねえよ。「妊娠させたら結婚する?」とかもヤバイから。性暴力しますぼくちん~っていう犯罪宣言なのわかってる?狂気的な俺かっこいい☆とか自分に酔ってない?気持ち悪い。最後に「俺…増田にバイバイって言ったことないんだ…」宣言からのわたしが遠ざかってギリギリ聞こえる声量での「――バイバイ…………」ほんっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっとうに気持ち悪かった。ヤバい。自分に酔いすぎ。自分のこと好きすぎ。オナニーにわたし使うのやめてくんない?ナルシシズムに溺れて二度と浮き上がってくるな。
言葉は力だということは強く思ってるけど言葉は力だと思っているひと同士でないと通じない力なのではとも思う
プラスというか、何て言うんだろう
言葉で傷をつける、言葉で元気づける、というのは割りとわかりやすく広く通じやすい観念の気がするけど、言葉によって目の前が開けるような、価値観が変わるようなことって、言葉には力がある!とかいうやつらにしか通じないのでは?と
わたしも○○ちょう感動した!人生変わる!とか言われてもなーにいってんだこいつってなるジャンルや作品はたくさんあるので、向こうからすればきっとそうなんだな
こういうことを考えていると、自分は大変幼稚で、付き合っている人間に「中学とか高校のときの俺もそう思ってた」とか言われても仕方ないのかなと思ったりもする
まだ傷ついています
つらいわーー
なんか、すごく疲れている。自律神経がうまいこといっていないのかな。
ふつふつと色々なことを思い出しては、怒り傷つき悲しみみたいな、マイナス感情を自分で引き起こしている気がする。思い出さなきゃいいのにね。
△△と会ったときのこと。今月17日。付き合いたいという好きがわからない話をしたかったのにイタイやつみたいに見られた。わたしの言い方が悪かったんだけどもう全然がんばれない。誤解したままどうぞ。そもそもいつもイタイやつとか変なやつという目で見られているし。職場の若い子のノリについていけなくて~とかもう年だから~とかずっと言っているので疲れてしまった。この国に蔓延するすぐババアになりたがる病ってなんなんだろう。疲れる。どれだけババアを名乗ったって平均寿命まで生きるのならあと半世紀生き続ける羽目になるんだよ。すぐには死ねないよ。半世紀もババアやるの疲れないのかな。
疲れた。
わたしの意思とはなんなのだろうか。××氏は、わたしには意思があると知っていただろうか。たわむれの性的接触だとしても、いちゃいちゃみたいな、そういうつもりだとしても、拒否が拒否として受け取ってもらえないこと、そこに不満を持つのはおかしいのだろうか。ヒステリックに叫んでようやくやめてもらえること、それはおかしくないのだろうか。人形のようにおいておきたい、胸だけほしい飾っておきたい、そんな言葉誰が喜ぶの。わたしは人間ではないのだろうか。そういわれるのいやだわたしだって生きてるんだよ意思があるんだよと言ったらそんなつもりじゃないってぐずる。きもい。しにたい。ころしたい。はやくしんでほしい。みんなしんでほしい。もういやだ。なんでつらいものから距離をおくことを許してもらえないんだ。余裕があればがんばれても余裕がなかったらむりだ。しにたい。
俺が黒羽で解くのに苦労した2012年のIMOの最後の整数問題だけど、あれは結局AoPSを見たら、inductionが出てくるという問題だったらしいね。inductionが出てきて完了するか
Lemmaを2つ作ってそれにinductionを横から使うだけで、そのLemmaを発見する方が難しいとか大量の解法が掲示されているけど、結局は、inductionが出てくるという解法がもっとも
美しいのではないかと解する。この場合哲学的には出てこないはずのものが出てくること自体が驚愕的であると解されているが2012年の問題はそういう内容の問題だった。
定理内容は、その連立方程式を満たすnは MOD 4で 1,2のときであるという定理なのであるが証明は難しい。世界中でも数人しか出来なかった。
AoPSでも、1,2,5,6,9,10まではworkするが、13,14,17,18,21,22以降は確認がとれない。俺も解いてるときに n≧16では確認が
とれないし、どうやっていいか1つも分からなかった。誘導を出すときには、 4k+1→4k+2 4k+1→4k+13の議論が必要となるが、誘導で出ると思わなかったらそこでおしまいなので。
定理を検討すると、1,2,5,6,9,10まではworkすることは理解できるが、13、14以上になると、確認がとれるのもあるし面倒でたまらんなってくる。そこで模範解答は、
n≧16のときにやや面倒な議論をしてinductionを使っているが、実質的に、1,2,5,6,9,10では書きだせば該当するので。私は最初、n≧16では存在しないのではないか
なんか哲学的な感じだねー
昭和時代の日本共同体のようにおおいに盛り上がっていた例外的な時代は別論としても、昭和54年以降、食べていくだけの日本国民共同体には非常に余裕がないので
一度において日本国民から否定されそれ自体が使用されなくなったときは、たとい、その内部において、時代を超えて輝くものがあったとしても、クソになったものと解するのが相当である。
(最高裁大法廷判決昭和22年(れ)第123号、昭和27年(あ)第324号、昭和36年(し)第81号等)
警察官とは警察法により設置されたものであるけれども、その警察官には拳銃が貸与されており、具体的な個別的事案に対して、例外的な事情があるときは、その拳銃を取り出して
撃つことが出来る。この際に、警察官が所持している拳銃それ自体はただのものであって使用されていないときには哲学的にみても朽ち果てたものであり何の魅力もないけれども、それが
個別の事案に対して適正に使用されて結果を得るときはそれが輝く余地があるとしても、日本共同体自体が警察官の職務を否定している以上、仮に哲学的に警察官が拳銃を使用する
ことに魅力があると理解しても、それ自体を誰も見ていない以上、クソという評価を免れないと解するべきである。
本件は、警視庁に勤務する26歳の巡査が、都内の某所において、100メートル先から、包丁を振り回している20代男性が5名で接近してくるので、ホルスターから拳銃を取り出し
撃鉄を起こして5名の者に5発のたまを撃ち出したというものであるけれども、それ自体を日本共同体が見ていない以上、クソである。
『刑務所の中』か何とかという本でですね、 平成7年頃の受刑者が刑務所のテレビをみていたら、何が、SPEEDの島袋寛子とかが出る直前の時代だったので、SPEEDほどではないが
何かそれまでに存在しなかったような女の子が、コマーシャルに出て、受刑者の男性が、「ぐわあああああああああ、おい、あんなのってあるかい?」っていう場面があったんですね
その男性受刑者は、その女の子が紹介していた菓子について言っているように描写されていますが、なんか違うような気がする。 ただもんじゃねえっていうのは誰でも感じたことがあると思いますが
あの、島袋寛子が最初に出てきたときの美しさの感想というのがね、 ここもこうなっちょるし、そんだけで驚くに、そん中もけ、みたいなね、それを多分哲学的美形象として驚愕というと思うんですが
GLAYのTERUの時は、なんか、あんげなイケメンがおるけ!という感じでしたが、そうでなく、BELOVED、REVIEWのときは、なんけあん光るような普遍性は、普通すぎるが!
っていうかね、そういうのもあったんですが今はそういうのもないと。だからそういう数学的美的形象っていうか、もう出てるんですけど、そういうのは、小泉純一郎首相より前の中央官庁の1つの
目標っちゅうんですが、あったんですが、今はそうではないと。
そういう風に昔はさんざん盛り上がっていたんですが、佐藤の映像でですね、 美的輝彦とかそんな感じの支持者対策ばかりで、やる気なんかないんですよ。
いたばし花火大会が開催されたがその特徴などについて以下に記載する。
(1)通常の日は存在が確認できない、存在するはずがない、一般的に公営団地などから、弾丸のように大量の人が出現し、「いるはずがない」ような昭和のような人が大量に出てくる。
(2)座り込んで焼きそばを食べる若者、 シートを引いて弁当を食べている、 自宅の前で、バーベキューをする一戸建ての家族などがみられる。
(3)行きも帰りもとにかく大量となるが、でかぺちなどの警察官が、自転車から降りてくださいなどの大声がきかれる。
(5)その人並みの特徴として、自分たちはインターネットなんかしていないしみていない、といった強いオーラが出ているが、それがどこから来るかは分からない。基本的には警察主導。
(6)花火大会にしゅつげんする人々は一般に、一般人と呼ばれており、律令時代からいる人であるのか、昭和時代から常に大量にいる人なのか分からないが、通常は存在するはずがないような
(7) 花火大会は、哲学的形象に訴えかけ、驚愕的な音とともに天空に打ち上げられる花火として成立するものの美をみることで1年おきに板橋区民を啓発する趣旨である。
近年の者はなんのためにこれをしているのかが分からないと思われるが、結局は、驚愕的な手段によって天空に花火を打ち上げ、そこに成立する美をみて、生活上の科学の成果を
披露する。
(8) 花火大会をみる一般人が大量に湧き出てくるときだけ、これらの者が善良な一般人として固定的に認識される一方で、このような一般人が大量に湧き出ているときだけ、
日常は、「ちっ」「き」「ま」「71」などと連呼している一部の者が明瞭にただのクソガキであることが理解できる。しかし、この花火大会で大量に湧き出てくる、どこからともなく弾丸のように
出現する、善良な一般人なるものは、それ以外の日には影も形もなく、インターネット上でも存在を認識することは困難である。結局は、これらの者の存在は、裁判所の判例を
通じて認識することになるわけのものであるが、それをもっても、ただの活字で認識することは困難であり、花火大会が現に行われている日に、実際に自分の目で見る以外に、
自分が消えて無くなりたいのは自分の存在が嫌だから、生きているのが苦痛だからでしょう。
生きる意味なんて生き物全員に無いんだから、そしたら生き物全員死にたいはずでしょ?
なんで他の多くの人は生きる意味なんかわからなくても死にたいなんて思わないのに、
おまえは死にたいと思うのか考えてみろよ。
生きる意味が無いから死にたいとか言うと何か哲学的でかっこいいような感じがするしね。
おまえかっこつけるために嘘付いてるんだよ。
生死に関わる大事な問題を、かっこつけたいために嘘付くとか本当かっこ悪いなおまえ。
昔、青貓さん(仮名)という人が英語の勉強をするためにフィリピンの学校に行きました。
青貓さんもダメ人間の例に漏れず無駄に見栄っ張りでかっこつけなので、自分がダメだという実態を見るのに耐えられません。
一週間でやめて日本に帰りました。
得意のかっこつけ嘘ですね。
その後もブログを書いてるのですが、青貓さんは嘘の世界に逃げ込んで嘘の世界で暮らす廃人となってしまいました。
「ピノキオ」を読むと、嘘を付くと人間の子には成れません。一生、木の操り人形のままです。って事が書いてありますよね。
あれって本当だなーとつくづく思います。
人類で頭のいい人間っていうんですか、最近の東京人のかなりの人が頭がいいとしか抽象的に言わないのですが、昔から絵に描かれていたように、頭がいいっていうのって、
最近はめっきり言われなくなったが、単に集中していて、大脳に刺激が走っているだけの状態だと思います。しかしそんな生活をしている人とか実在しないので、っていうか
昭和時代はいたのですが、今の警察の地頭が言っている、頭がいいっていうのはうそなので、うそというかたてまえなので、だから私は話を聞いていないんですが。
哲学的にいうと、真理の発見にしても構築にしても、その大脳に電流が走ることが必要であると言われているが、地頭が言っているのはただのうそなので。
大脳に刺激が走っている状態を驚愕といいますが、なんでも価値のあることは驚愕からくると言われているのですね。それでそんな生活をしている人はいないし、
フェルマー予想自体は証明ではなくて結論の予想なので、真面目に考えてそうではないかとひらめくようなことはあると思いますが、予想するのと証明は違うので。
フェルマー予想もコラッツ予想も、そうではないかというただの予想なので、特に後者の場合は、 4^n-1/3 という自然数の存在から無限大のところでも成立している体系などから
話運びが上手いやつとか哲学的なやつとか。
ぺちでもぺちおじ(くまがい)でもいいのだが、 多分きもたが一番、ぺちに似てると思うが、きもたってぺちではなくて、ぺちに統制されてるだけで、本人ではないし。
では、平成28年に一緒に数検受けに行った郁夫本人はどれかというと分からないというか、recgnizeしたことがない。
ごみおじという概念は存在してなく、令和5年現在では、ぺちおじとか、座ちゃんとか、
GLAY / ホワイトロード GLAYの曲の中で一番内容がない曲。 無内容すぎて驚愕している。
さらにGLAYってこんなに無内容なバンドだったのかという感想である。 哲学的に、 from the view of philosophy 、 真理は確立されたら存在しているので、利用され終わってクソになる
というものではないが、
最盛期や、既に多くの一般人が飽きていて魅力や先がないという意味でないといっているとしても、イオンであれなんであれ、存在しないわけではなく存在しているし
お前の中でいう、ない(does not exist 404 void) というのと、哲学的に、ない (例 桜坂やっくんは自殺して葬式が終了しているので、やっくんは存在しない)というのは
意味合いを異にするように思う。やっくんでも藤圭子でも、自殺したという信憑性は高いため、この2名が、 都内に、 does not existであろう。
また、団藤重光は、98歳で亡くなったので、これも、does not exsit。それはおろか、藤林益三は、平成19年に亡くなったので、明らかに、 存在していない。
しかし、佐藤がいうところの、存在していない、というのが、その物体がこの世に存在していて生命体として活動している以上、存在していないはずがないし、イオンに行ったときにそこに米が
おいている以上、そこに米が存在していないなどという者はなかろう。平成時代の法がいつごろから詐欺になったかは分からない
わてくしが、板橋区にきてから、すぐに河川敷にいくようになったわけではなくて、佳代子のハウスに入ったときは自転車もなかったので多分走っていたと思うのだが、記録によると、平成31年
2月にサイクルハウスヒロで自転車を買ったと書いているので、わたしが黒羽を出た後は、なんか、あしがもげていたので、その足を再生するために延岡市を4時間くらい必死で走っていた
のでそれどころではなかったんどすな。それとなんでわたしがあの場所で騒ぐようになったかというと結局、鬼丸かおるとかが最初から用意していたというかそういうことがあったので
サイクルハウスヒロは中国人がやっていたが精神がおかしいというかね、平成31年に白い自転車を買いに行ったときはなんかおかしいというか、でも誰も何もいわないんですね。
あとなんか志村福祉事務所って夜間にいくとただの廃墟なので、あれはあれできもいし、悪魔の巣窟なんだけど、夜にいったらただの建物ですね建物以前にただのもの、というか物体というか
社会的公共的に、建物ですらなくて、ただのセメントというか、多分、建物ですらない。ただのセメントで建てたものがあるだけというか。
ところで、哲学的にも全然明らかではないのですが、偉大で価値のあるものの美しさって驚愕の一要素からきてるみたいなのがありますが、舟渡の一戸建てとかをみたときにあれはものですが
存在するもの自体は技術ではないので驚愕するようなものはないと思いますが、驚愕ってたとえば、天から降ってきた技術的着想の部分っていうか、結論が演繹されてくるときの過程だから
たとえば、シムソンの定理それ自体ですが、結論で、3点がコリニアなのって驚くとは思うが驚愕なのかどうかは分からない。演繹過程でパスカルが出てくるときは驚愕と言われるが、激しく出すから
しかし激しく演繹された結論そのものが何なのかって分からないんですよね
宮崎駿の最新作『君たちはどう生きるか』を見てきたんで、ある程度ネタバレありで感想書きなぐっておこう。
正直、観る前に想像してたより悪くなかった。
作画が徹底的に心象風景に寄っているのも、職人芸の趣があった。
火災とか草原の描き方なんて、ゴッホともセザンヌともなんだか判らんけどとにかく印象派的に歪みまくっていて、主人公の高熱に魘された夢のような心が伝わってくる。
田舎の家も、当初は主人公の内心の萎縮ぶりを示すかのように何もかも巨大で、玄関なんてどこの古刹の大伽藍かと見紛う巨大さであり、今に残ってたら家ごと国宝になりそうだ。
心象風景として東大寺大仏殿並の巨大建築に見えているだけである。
敢えて心象風景とわかるように表現している事で、主人公が実際には父の後妻を嫌っていない事も想像がついた。
なぜならすんごく清潔感のある優し気な美女として描かれているからである。嫌っているなら心象風景でそうはならない。
でまあ、作品は途中から塔の中パートと、塔の外パートという二輪構成で進んでいくのだが、
まず塔の中パートだが、なんというか、とにかく意味があり過ぎる。
これは褒めてない。
宮崎駿はもののけ姫辺りから、やたらと意味のあるものを描こうとするようになってしまってるように思える。
1シーン毎に意味があり、多分本人に質問すれば「このシーンはこういう意味がある」と全部答えてくるだろう。
つまり、寓話的で哲学的で記号的で、イソップ童話とか不思議の国のアリスとか、そういう感じの、「意味の塊」として作品を作ってしまっているのが塔の中パートだ。
ムスカがラピュタの雷をぶっぱなしたシーンに意味なんてないだろ。王蟲がペジテのドーム食い破ったのも意味なんてないだろ。
「どうやお前らこんな凄えの見た事ないだろ。俺も見た事ないから作ってやったぞ。見て驚け。」
妄想を爆発させるためにそこには当然無理がある。歪みがある。そのシーンを効果的に描くために、他のシーンで入念に爆発物を積んでいる。
その無理、その歪みが、ある人には滑り、ある人には刺さるのだ。
本人が見せたいのは爆発の部分だが、関係なく歪んだ部分が受けたりする。それが創作の快感である。
ところが、この作品含めて後期宮崎はその「見た事ないだろ」をやらない。庵野もだけど。
なぜなら、名前が売れて裁量が大きくなった事で、作りたいものを作れるようになったからだ。作りたいものは作ってしまい、もはや「こんなの見た事ないだろ」が無い。
庵野はその無理のなさを、その歪みの無さを、オタク知識で埋めてシン・ウルトラマンやシン・仮面ライダーを作った。
そこにはTV版エヴァのような溜めに溜めた便秘大解放のような妄想の爆発は無く、無い物を何とか絞り出した感のある細長いウンコでしかない。
一方、宮崎駿はそれを哲学と記号で埋めてこの作品の塔の中パートを作ったのだ。これは最早宮崎駿のバランス感覚のみで構成された世界だから、やたらとデジャヴがある。
もののけ姫と変わらずに「鎮まりたまえ~鎮まりたまえ~」とやってるし、千と千尋と変わらずに仕事やらされたり禁忌に触れて怒られたりしている。
でてくるのもやたら思わせぶりな妖怪連中である。思わせぶりなだけで、記号であるために特に伏線とかない。どういう存在か説明されてフェードアウトする。
エンタメに徹するなら、塔の中はクトゥルーばりの別の星・異星文明でも良かったはずだ。せっかく宇宙から飛来した謎物体的な設定があるんだから、一気にスターウォーズの世界になっても良かったのだ。
そこから進めて、「現代日本を主人公の迷い込む異世界として描く」まで手が伸びても良かったはずだ。
ところが、そういうエンタメに走らず、やたら寓話的な見たような話で埋めてしまうのが今の宮崎駿である。
ブチ切れるセンス・オブ・ワンダーではなく、賽の河原の石積みみたいなひじょーに心象的なもので埋めてしまうのが今の宮崎駿のマイブームである。
そういう「意味」だけで構成されたパートだから、ストーリーなんてあって無きがごとしである。断片的な寓話を職人芸でつなぎ合わせた取り留めのないタペストリーである。
一方、塔の外パートは違う。庵野と同じく、オタク知識で埋めている。
人力車の描写一つ、言葉遣い一つ、看板一つ、食事のお膳一つから、「当時はこうだったんだぞ」という聞いてもないのに披露されるオタク知識臭がする。
多分、キャノピーも実在のナントカ式とかそういう裏打ちされた設定があるんだろう。田舎がどこの県のどこの地方かも絶対決まってるねありゃ。
っつーことで塔の中パートより終わってる感のある塔の外パートだが、そこで主人公の父親が妙な存在感出してるおかげでかなり良くなっている。
というのも、この父親はある意味で主人公と後妻という二人の問題の元凶と言える一人であり(まあ、亡くなった実母の方がより存在感は大きいが)、更に経営者であり金持ちで何でも自分で決めてしまうタイプ、
こういうタイプは、通常は出て来ても悪役なのだが、この作品ではそれを悪役として描かない。塔の外の部外者として描く。(大叔父と血のつながりもないし)
そんなわけで、このキャラについては宮崎駿の才能の爆発が感じられるのである。
経営者であり第一線でもある、という後期宮崎駿が手にした立場が意図せずに作り上げた鬱屈が爆薬になってこのキャラに込められているのだろう。そのせいで、後半になって妙に生き生きしている。
主人公の心象にだけフォーカスするなら、後半の塔の外パートは要らなかったはずだ。少なくとも、もっと小さくなり、警察とかが来て事務的に進むのがセオリーだったはずだ。
しかし、おそらく宮崎駿はこの父親を描くことに創作の快感を感じたのではないかと思う。
なんかもう藤井聡太ばりに全く失着を犯さず最善手を打ち続ける主人公の代わりに、
この父親は勝手にやらかすし勝手に決断するし部外者でありながらガンガン行くしで、
前半には明らかに狂言回しだったこのキャラだけが、後半に「キャラが勝手に動いた」を感じさせるのである。作中で唯一、記号を感じさせないのがこの父親である。
そんなわけで、ち密に意味を積み上げて作り上げたであろう全体の印象を、後半の父親がぶっ壊して変になっているが、その父親がぶっ壊した所こそが個人的には最も見ごたえがあった、という何とも評しがたい作品である。
まあ、悪くなかったよ。
x^p+y^p=z^pはなぜ解けないのか、論ぜよ。
フェルマー予想は元々は、n≧3では存在しないということである。フェルマー予想は、存在しないことが驚きで規模が大きく、それが全てのnについて存在しないことから大規模で驚愕された。
存在しないことの証明は無限降下法という天空のアイデアにより、3,4のときに証明され、n≧5では使用できなかった経緯がある。x^p+y^p=z^pにすることは出来るが、
こうした場合には、p≧5の素数という限定が付く。しかし、素数は2,3も素数であり、2の場合は存在する。3の場合は、きれいな解き方があることから、x^p+y^p=z^pに対し
無限降下法が降ってこない場合は、p=3でそれが天空から降ってきた場合と比べて平仄を欠くというほかない。x^p+y^p=z^pが信じられて以降、ソフィージェルマンが不完全な定理を
発表し、その後、イデアル理論で、61%の素数では成立するとしたが、これらを集合的にまとめた場合でも構成の仕事が著しく遅滞しているか、全く結論に到達しない方向に行き詰っている。
このような場合、哲学的な美的思考の美しさに障害がある、すなわち、俗にいう頭の悪い検討法といえることとなる。そこでもっともエレガントな数学者の共同体の考え方として、p=3では
induction and Cntradictionで証明できたことから、x^p+y^p=z^pを捨て、両辺をzで割ることにより、 (x/z)^n+(y/z)^n = 1 とすれば、GCD(x、y)、GCD(y、z)
=1となるような楕円関数の不存在という確実なものとして定式化できる。これを間違いなく研究を押し通していこうとしたのが、1950年代の志村谷村予想で、非常に美しく通るように
複素関数論で析出を進めた結果、モジュラー理論として本質が出てきた。しかし、志村谷山はその同値性を補完するためのアイデアをそれ以上議論できず、イギリスのワイルズがこのモジュラー性
に価値を見出し、秘密裏に研究を進めた。x^p+y^p=z^pのような不毛な方向に走ったのと違って、哲学的に確実に通過しそうな方向で検討したため、最終的に現代数学の理論により、
なんかこう10代、20代のクソガキに、警察がいかに裏で悪事をしているかを脳にねじこむのが難しいというか、予め、お前って泳がされてるだけでそのうちいきなり捕まるんやぞって教えても
たいてい、向こう岸に出てくるガキって理解しないし、その理解しない機序っていうんですか、何で理解しないのかが分からない。
で、こんま目標が、警察が何もできないようにするというかですね、しようと思ってもできない状態を作るというか、こう、そういう世界を作るというときの劇というか、欲しいのは結論だけで
そういえばなんで哲学って、 欲しい結論は予想されるだけで、構成しなきゃいけないのですかね。
確かに、哲学的に、法則的支持って重要だと思うのですが、人間って一般に結論が欲しいだけなんですね。確かにゲーテも、法則しか自由を与えないと言ってるので、まあ、
警察というんですか、特に、奥秋とか村田ですね、なんでもいいですが、警察は警察が、何もできない、という命題をいるわけですね。
どのような歌を出しても、ヒットするという定理。 ちょうど、コラッツ数列で、 1000から開始した操作で、必ず1にいく、それ以外の自然数からやっても同じである、という過激な法則が
価値 そもそも何なのか? ただの真理である。ただし人類の至宝であり、相当高いところにある。
類推 グリーンタオの定理やフェルマー予想が既に存在していることから、あるだろうと思われている。
哲学的な価値 簡潔で美しすぎる、驚愕的である。また、規模が大きい。ゆえに、届かない。
ポール=エルデシュの見解 私がもっとも興味を持つ課題だが、説明はできないのではないか?
備考 Erdosってだれ? 子供が好きな頭のいいジジイ。 三角形幾何の難しい問題ばかり解いて生きてきた。
ラガリアスの見解 はまりだすと危険な問題? 現代数学に乗せても届かない。 危険とは何か? 生命にかかわる。
Collarz数列についての間違った解釈 必ず 1→4→2→1の繰り返しに陥ると指摘。 この部分が1つの価値でもあると言っている。
Collarz数列の性質 1000以下で調べると、 53→160→80→40→20→10→5→16→8→4→2→1
が非常に多い。しかしそれ以上の数になると茫漠としていて全然分からない。かなり大きな数になると滅茶苦茶な数にあがってから
落ちてくる。
Collarz数列をめぐるアマチュアの解き方 ひたすら場合分けをして行き詰っており数学的実質がない。
Collarz数列に関する議論 そもそも予想であってあるのかどうか分からない。反例があがるとアウト。
テレンス=タオの構成 n~0.84くらいな濃度のnに対して構成。
見解 2019年の論文では私は登山の山登りの重要部分にロープを張ったが一か所危険な箇所があり、到達には程遠い。
私の洞察 無限遠点にある自然数は操作で1にいくか? 2^nという数を考えると、これはひたすら2で割るので1にいくのは当然。 n→∞にできる。よって十分に巨大な自然数は
自体は、成立する。