はてなキーワード: ディストピアとは
オンラインCo-op専用のライブサービス型ルーターシューター。一人でやるゲームではない。一人でやったが。
スパイダーマンのマップとシナリオを10倍くらいに薄めて、あちこちで湧く雑魚敵を延々と倒していくだけのゲームにした感じ。
動きはもっさりしているが、壁を駆け上がったりなどの自由度や、シューターとしてのアクション性は高い。
四人チームで操作キャラを切り替えることができるが、一人でプレイしているときでも他の三人がオートで動くのはとても良かった。
「せっかくチームなのに単独行動になってしまう」というゴッサムナイツに感じていた不満を解消してくれた点だけは称賛したい。
でも次はジャスティスリーグのほうを操作するゲームを作ってくれ。シングルプレイでな。
オンラインCo-op専用のライブサービス型海戦ゲーム。一人でやるゲームではない。一人でやったが。
海のグラフィックは綺麗だし、自分の船を自由に駆る楽しさは確かにあるが、とにかく内容が薄い。
「ライブサービス」を名乗ってはいるが、その実態は完成形をうすーく切って、小出しにしているだけである。
海戦メインと割り切っているのかゲームプレイの幅が狭く、探検要素や交易要素を期待するとがっかりする。
フィールドが狭い。ほとんどの街に入れない。現時点では船種や装備が少なくてカスタマイズも物足りない。
これから買うとしたら全てのアップデートが完了するまで待ったほうがいいのではないか。
シングルプレイ用に作り込めばどれだけ面白くなったか…と残念に思う。
スースクとあわせて「オンライン専用」「ライブサービス型」というのがどれほど足枷になるかを痛感した。
なぜ「Marvel's Spider-Man 2」は失敗したのか
移動の自由度は低く、オープンワールドとしては前世代的なつくり。
それ以外は平均点で、全体として卒なくまとまっており、飽きずにラストまで辿り着けた。
またぞろディストピアSFか、とは思ってしまったし、気持ち悪いアートワークもあまり好みではないが。
ウルトラハンドの面白さをゼルダというフォーマットでは活かしきれないというか、
初見で「ウルトラハンドすげえ!いろいろ出来るじゃん!」と期待したほどいろいろ出来なかったというか、
このシステムならぶっちゃけ完全にクラフトゲームにしたほうが面白くね?と思ってしまったな。
要素が増えたせいで操作がかなり煩雑になっているし、それが「自由度」よりは「縛り」に感じた。
まあブレワイ・ティアキンって結局はオープンワールドに大量にミニゲームを散りばめているだけで、
それが任天堂クオリティで完成度が高すぎるから成り立ってるにすぎないんだよな。
『指輪物語』の世界観をベースにアサクリと無双を足して2で割ったようなゲーム。
システム的にはハクスラなのでスースクと似ているが、遥かに出来が良くて爽快感がある。
高速で走りまわり、城壁を駆け上がり、物陰に隠れ、さまざまな攻撃手段で敵を圧倒する。
ステルスで一匹ずつ倒すこともできるし、オークの大群を相手に大立ち回りもできる。
似たような敵をひたすら倒し続ける作業ゲーになりがちなところで、敵に個性を持たせるシステムも面白い。
ただ、ストーリーに興味が湧かないせいか途中で止まってしまった。続きをやりたい気持ちはある。
2の前座としてやってみたが、シリーズの一作目として足りないところはあるものの、順当に面白かった。
Ubisoftはやはりオープンワールドの作り方を知っている(スカボンから目を逸らしながら)。
身体能力の高いナヴィを操って(不気味な極彩色の)大自然を駆けまわり、さらに翼竜に乗って自由に空を舞えるのが魅力。
戦闘はかなりクセがあり、敵が強すぎて正面から撃ち合うとまず負けるので、敵の多い基地では高難度ステルスを強いられる(それはそれで面白いが)。
あとはUIデザインが酷くて、メニューまわりは何だか古くさくてダサいし、説明文などもわかりづらい。
サブクエで「〇〇を××しろ」と言われても、どこに行って何をすればいいかわからない、という事態が頻発する。
良い部分と悪い部分がはっきりした尖ったゲームではあった。
こういうのでいいんだよという順当な面白さ。
どちらかというと変則的な前作ヴァルハラのほうが個人的には好みだったが、今作ミラージュのスタンダードな作りも悪くない。
どの入口からでも、どういう順路でも、どんな手段を使ってもいいので目標を達成する、という自由度が、
アサクリの、ひいてはオープンワールドの魅力であって、今作はその面白さをシンプルに実現できている。
もちろん、実際のところは「複数の順路を用意してプレイヤーに選ばせている」だけだったりするので、まだまだ改善の余地はあるのだが。
前作のショボい悪役が今回の主人公なのでぜんぜん魅力を感じないのが最大の短所。
このDLCのために本編から新しくやりなおしたが、いま一度言おう、神ゲーである。
DLCのメインシナリオ部分はややリニア感が強かったものの、全体としては非常に満足できる。
ひとつひとつのサブクエストが短編小説のように気が利いていて決してミニゲーム的ではなく、
家の周りに畑があった。生計の足しになってんだか、税金対策や趣味のレベルなのか、微妙に分からんレベルの規模のやつが。
繁華街にほど近い都心部で生まれ育った連中からは田舎と言われそうな、トーキョーといえば全部大都会だと思ってるような田舎者からは全然文明のある方だろと言われそうな東京西部の郊外だ。
道路を挟んでウチのマンションの目の前にその畑の直売所があった。ガキの頃よくお遣いで行かされて、毎度オマケを持たされた。おれが通い始めた時はウコンとかよう分からんものを貰ってきて、姉におまけの豪華さでマウントを取られ大変不快な思いをした。曰く、自分が行けばトマトとかもらえるのにお前はウコンなんぞもろてきてどう食うねんと。
それでも通っていくうちにインゲンとか枝豆とか、トマトさえも貰えるようになってきた。ある日目当てのものがなくて手ぶらで帰ろうとしたところ、タダで数種の野菜を袋に詰めて持たされたのを割とよく覚えている。
そんな光景も中学になれば無くなってきた。直売所が閉じたからか、おれが自我を持ち反抗期を迎えたからかは忘れた。
今やその手の地域のヌクモリティ的なものも煩わしいなと思う。事あるごとに「昔は素直で優しかったのにねえ」と言う母にイラッとして、人間は変わるもんなんです〜〜〜変化を否定すれば成長をも拒んでしまうんです〜〜〜いつまでも自我がなくて可愛かった子供の記憶に縋りついててウザいです〜〜〜と反抗期のおれは心の中でそう思っていた。今でも全然思う。それでもやっぱり他人の親切に素直にあやかっていた時期もあったんだよなとも思う。
お遣いには行かなくなっても畑は以前在る訳で、家の周りの光景として、原風景の一つとして心に刻まれてる。好きから嫌いかはともかく。
中学高校の頃、さっさと家を出たいという気持ちが常に頭の半分以上を支配していた時によく夢を見た。家の庭のフェンスによじ登って、夢特有のフワフワとした跳躍で畑を超えて行く夢だ。
逃げた先に何があったかは覚えてない。何もなかったかもしれない。少なくとも天国ではなかった。でも逃げる事に意味があった。
夢なんて大体理不尽で不条理で謎の存在に謎に追っかけ回されるばっかりだし、脳のウンコでしかない。示唆的なものがあるとかユングの類は全部まやかしだと思ってる。それでも家の裏の畑ばっかりは固有のモチーフとして何度も何度も出てきた。ウンコでも健康状態を知るのには役に立つのかもしれない。予知夢とかは全部嘘か偶然か思い込みだと思う。
夢に限らず、100mほどの畑沿いの道を歩くのは好きだった。夜中にひっそりと家を抜け出して、音楽聴きながら畑越しに見える団地や電波塔、送電塔みたいなデカ建造物をボーッと見てるとナイトホークスでも鑑賞してるような気持ちになれた。都会のダイナーには行けないけれど、郊外には郊外なりのものがある。
住宅街には住宅街の良さがあるとか言う人いるけど、おれは人の生活の息づきとかには何の魅力も感じない。人様の生活に勝手に思いを馳せて勝手に感動するステーションバーめいた行為をおれは下品とすら思う。だから住宅街の静かな畑の特に静まり返った夜中が好きだった。公園も悪くないけど、浮浪者とかおれの同類みたいな陰気ティーンや騒いでる学生風の集団がいたりしておちおち黄昏ぶってられない。
そんな畑もおれが高校卒業する手前辺りで、なんぼかを残しつつ潰されて家の建設が始まった。噂じゃ畑の持ち主はマンションを持ってて不動産収入があるらしい。やっぱり畑は本格的な仕事ではなかったんだろうか。
大学入って暫く経ってから一人暮らしを始めて、都心へよく行くようになった。今までは交通費も覚束なくて両手で数えられる程度しか行けなかった都心に。バイト先もわざわざ遠くの都心を選んだ。人の金で行けるのだから美味しい話だ。駅から駅の間を歩いても途切れる事なく繁華街が続く光景には心踊るものがある。夜中でなくとも歩いてて楽しい。夜中だと尚更楽しい。
それでも人のいない静かな場所で過ごすのは変わらず好きだった。聖蹟のゆうひの丘までよく1時間かけて歩いて行った。カップルが多かったりしてちょっと落ち着かないけれど、高台から見下ろす夜景は畑越しに見える景色と通ずるものがあった。終電で行く冬の鵠沼海岸も夏の芋洗い状態が嘘みたいに人がいなくて趣深かった。多摩川もいい。場所さえ選べば人がいなくて、トランペット担いで行って一応ミュートつけて練習してみたりたした。「河原でトランペットを吹く青年」を自分がやっている状況に興奮を覚えた。夜釣りと称して魚がいるかも分からん場所で竿を振り回したりもした。ボウズのまま迎えた朝陽はマジで綺麗だったし、なんか何かを急かされてるような気もした。この頃にはもう家の裏の畑を飛ぶ夢は見なくなっていた。
大学で色々あって最近また実家に戻ってきた。近所の景色もマイナーチェンジはありつつ、まあたかだか数年の事なのですぐ目に馴染んだ。
畑の跡地の住宅地は、おれが出ていく前はほとんど更地だったのが割と家の形になっていた。家の骨格越しに電波塔が点滅する景色はなんだかディストピアめいた味があって、これはこれでちょっと好きだった。
施工は日々進んでいって、人気のない家の殻が出来上がって来る頃にはもう遠くの景色は遮られて見えなくなってくる。新しい住宅地の中には公園と称した小さなスペースも出来ていた。空き家に囲まれたそこで夜にタバコ吸いに行くのがなんとなくルーティンになっていた。
カーテンも張られていないガラス戸からは工事用?の照明が付けっぱなしなのか、ほんのりと照らされるもぬけの空の部屋が見える。それを見ているとガラスをブチ割って土足で座り込んでタバコでも吸ってトレインスポッティングを気取ってみたい気分になってくる。廃墟どころか新居だし、そもそもそんな度胸はないので妄想止まりだけれど。
つい最近からその住宅街にも一挙に人が棲み着き始めて、夜中に歩いていても家々から放たれる息づきからなんだか圧迫感のようなものを感じる。
件の公園も日中はすっかりガキの遊び場になっているのを目にする内、なんとなく足が遠のいた。自分だけの場所が地域の(幼い子供を持つ家庭の)共有物となってしまったような気分だ。元々おれの場所などではないのだけど。
それでも時々ベンチにストロング系のロング缶が置いてあったりして、なんとなく捨て主にエンパシーを感じたりする。
平成狸合戦ぽんぽこで描かれたような再開発へのメッセージとはまるで別種だろうし、開発といってもごくごく小規模なものだけど、おれはおれなりのイヤさを感じているのかもしれない。
おれは地域のヌクモリティがさァ!文化資本がさァ!とかそういう話がマジで嫌いだ。ネットでその手の話題が露悪的に語られがちなのもあるけれど、土地がどうあろうが各々の生き方次第だろって思うから。おれは構造主義より実存主義が好きだ。
発達の女が昭和だろうが令和だろうがずーっとハードモードだという主張はわかった
けど、じゃあなんで淘汰されてないのかって
平成初期までは社会が、きちんと教育されることを条件に存在を許していたから
もっと容姿・学歴・性格に寛容だったはずなのに、いまは完璧を求められてそれについていけない
でも今は発達に限らず、あらゆる免罪符が守ってくれるからイージーではある
障がい持ちだから、メンヘラだから、ブスだから、お金が無いから
なんというディストピア
結婚という話は置いておくと、昭和よりはイージーなのは間違いないし
最初に立ち返って発達の男と比べても過度な競争にさらされないことからイージーであるのには変わりはない
ま、発達はスペクトラムなわけで「人による」で結局は片付く程度の話なんだけどさ
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20240219/1708344000
仕事内容についても実際には各職場、各担当で必要とされる能力が違う。
すべての人が同じ会社にいるわけじゃないでしょう。
〇〇さんはここではやって行きにくいけれど、あの会社なら適材適所でやっていけるはず。
そういう職場そのものの選択肢を増やしていけば、シロクマ先生のおっしゃるようなディストピアっぽい展開にはなりにくいのでは。
実際クセの強い人を同じタイプの人の多いところに集めていくと、トラブルの発生率がかなり違う。
勿論似た者同士だけになると考えが片寄りがちになるから、モデレーター的な人を普段何もしなくていいからとその集団に紛れ込ませておいて、あ、危ない!と思ったときだけさり気なく方向性を穏やかなものに変えることは必要だと思うけれど。
それの担当者が胃に穴を開けないように、その人たちの愚痴をお互いに話す場も必要だろうけれど。
ラッダイト運動が失敗した世界では人はどのように暮らしているのだろうかと考えることがある。
資本主義の暴走を止めたと称賛されるが、もしあのときラッダイト運動が失敗していれば人類はさらなる繁栄を手にしていたのではないかと思う。
もちろん、非人間的な労働による生産性の向上は労働者(=消費者)の消耗とセットなので結果的に経済は委縮する、
あるいは資本家の増長で富が偏在し国民の経済格差によって社会が不安定になりどのみち経済は破綻する、という理屈は分かる。
でも逆にうまいことバランスが取れれば、生産技術の開発が政府にコントロールされない世界の方がよりダイナミックに社会が進歩すると思うんだよな。
わざわざ社会をそんなディストピアにするほど人類は間抜けじゃないと言われるかもしれないけど。
例えば、歴史上、優生思想を害のある思想だと思っていた人が居たけど、そういう人たちの考えが主流になるまで蔓延した世界だったら、
今みたいに国によって遺伝的に優れた人間だけしか子孫を残せないよう管理された社会だって非現実的なディストピアと呼ばれるんじゃないか?
コスパ論は排除の論理である。そしてコスパ・排除論者に言いたいのは、君らミクロしか見えてなくてマクロで物を考えるってことが全然できてないってことだ。その結果、社会全体やひいては世界を亡ぼす。部分最適の総和は全体最適にならない、なんてことはもう一世紀以上前から常識だ。君らの論は、放置すると以下のような言説になる。
……
その結果、人は障碍を得たり年をとったり社会的に弱い立場に立っただけで簡単に人権を失い、強者が権力を振りかざす、安全・安心からほど遠いディストピアに住むことになるんだけど、それがコスパの果てに待つ社会だということを「コスパコスパ」唱える連中は理解もしない。自分がそういう主張をしているということを認めないばかりか、「そんなのはほかの誰かが対策すること」で「自分たちは目の前の問題についてだけ冷静に意見を言ってる」と思っている。その結果、20世紀から21世紀の現在、どういう社会が訪れたか、
コスパと排除の論理を突き詰めれば、すぐそこまで行く。歴史や世界情勢を見れば、一目瞭然である。
だから、コスパ論者は、自分に全体を見る目がないという認識があるならせめて黙っていた方がいい。とはいえ、自分の理解の及ばないことについては沈黙する、というのは意外と高い知性が必要な行為なので、人類そこまで頭良くない、っていうのも悲しい現実だ。その結果やがて、そういう「普通の人々」からの人気を当て込んで極論を振りかざすデマゴーグが現れて、多くの人が進んでその養分になり、社会や国家は破滅的な被害を受ける。なのに、喜んで養分になった人々は、全てが終わった後口をそろえて「知らなかった、騙されていた」と言い出して、自分には非がないと言い立てる。そうして数十年後、また同じことを繰り返す。世界のあちこちで。
人間の一員として生きるということは、そういう愚かさと共に歩む覚悟をもつということでもある。言い換えれば、その愚かさと共に歩む覚悟がない者は、政治についても社会についても何も実のあることを語ることができない。理念だけのリベラルが常にデマゴーグに敗北する理由がこれだ(それは数や勢力というだけの意味でなく、リベラル寄りの思想の持主もまた、たやすくコスパ論にからめとられて排除論者に闇落ちするということでもある)。
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さて、以下は、上記を踏まえた愚考である。ぶっちゃけ読まなくていい。けど、少し暇があり、与太話に付き合ってもいいというなら、読んでいただければ幸いだ。
民主主義には「少数意見の尊重」という、コスパ論に堕しないための重要な楔が打たれているのに、民主主義を標榜しながら人は安易に「多数決」を持ち出して、少数意見を無効化しようとする。少数意見を顧みず議論も廃した「多数決」は、現実主義でなく単なる数の暴力なのだが、近視眼的なコスパ論者にはその違いが分からない。そうして、コスパ論者、すなわち民主主義者と自認する「多数による独裁」主義者は、「諸外国の脅威に対抗するため」「緊急事態に対応するため」などの言い訳をつけて、やがて民主主義を独裁主義で蚕食しようとし始める。「その方がコスパいいと思う」から。
人間の脳のバグ、たとえば、動物的に振舞いたいというバグは、2000~3000年前ごろから「宗教・道徳」というパッチが発明されたことで世界的にデバッグが進んだ。結果、社会や文化は大きく進展した。宗教や道徳が整えば、人と人、国と国の協力が可能になり、交通が利便に、経済が発達し、国はうるおい文化が発達する。しきりに法が作られたのも、こうした理由である。道徳や法が国を栄えさせるという実例を見て、またほかの国もそれを真似るようになる。こうして急速にパッチは普及した。
だがその後、宗教パッチを当てると人は神秘主義に陥り、ある一定のレベルで文化の発達が止まるという新たなバグが見えてくるようになった。それに対して一般に「科学・哲学」パッチが発明され適用されるようになったのは、割と最近のことだ。科学が宗教に優越する地位を占めるようになったのは、近世になってからのことだ。科学は実証によって宗教に優越する効果を示した。ただ、同時に道徳を破壊することになる危険性についても、パッチ適用当初から危惧されてはいた。ただし、宗教パッチの害悪の方が重くなっていた当時の時代から見れば、それはまだ些細な問題に過ぎなかった。「科学・哲学」パッチによって、停滞していた文化は学問となって更に発展し、国の規模は拡大して強大な国家が生まれた。人は世界の果てまで到達し、文化の発達を謳歌した。
ところがその先に生まれたのが、狭くなった世界における衝突と排除の論理である。特に、宗教パッチの効果を低下させたことによる道徳性低下の影響はやはり無視できなかった。文化の発達によって世界は狭くなり、道徳性の低い強者がより一層大きくなることで、弱者が「合理的」に使い潰される状況が起きてきた。道徳性が高いと思われる者でさえ、「善意」と「合理性」により、異文化を侵略・排除する帝国主義が世界を支配した。つまり、コスパ論の時代である。
これに対し20世紀後半になってようやく、これではまずいという判断の下、「民主主義・人権」パッチが発明され普及を始めた。そのために人類は、数度にわたる世界大戦という苦い代償を払うことになったが、その教訓とともに適用されたパッチで、世界大戦の脅威をいくらか遠ざけることができるようになった。だが、何度もこれを無視した戦争が引き起こされ止まらないように、依然としてこのパッチは十分適用されていない。劣化版のパッチ(ポリコレ棒)やパッチに対抗する新たなウィルス(多数決万能論)さえ出てくる始末であり、パッチの普及にも暗雲が垂れ込めている。
それだけではない。狭くなった世界、拡大を続ける資本主義の下(拡大し続けることは資本主義の仕組自体の問題で、本質的には解消不能である)、環境問題といった新たに別のパッチが必要な問題が生まれてきた。それに対する「SDGsパッチ」はまだ発明されたばかりで、その有効性も不透明だ(このパッチ自体にバグがある可能性もまだ否定できない)。これが21世紀の現状である。
これらのデバッグが完了し、人類が「戦争」と「環境問題」という2つの危機を乗り越えるのは、一体いつになるのか。いや、そもそも乗り越えられるのか。優秀なデバッガーや啓蒙家の数がどれほどになれば、人類は生き延びられるのだろうか。