はてなキーワード: 著作とは
I see that among men all things depend upon three wants and desires, of which the end is virtue, if they are rightly led by them, or the opposite if wrongly. Now these are eating and drinking, which begin at birth—every animal has a natural desire for them, and is violently excited, and rebels against him who says that he must not satisfy all his pleasures and appetites, and get rid of all the corresponding pains—and the third and greatest and sharpest want and desire breaks out last, and is the fire of sexual lust, which kindles in men every species of wantonness and madness.
私は、人間のあいだではすべてのことが三つの欲望に依拠していると見ています。それらは、正しく導かれれば徳であり、誤って導かれればその反対となります。まずは「食欲」と「飲欲」であり、これらは生まれたときから始まります。あらゆる動物が自然とその二つの欲望を備え、激しく興奮させられ、己の快楽や食欲を満たしてはいけないと言う者に逆らい、付随する苦痛からは逃れようとします。そして第三の、最も強く鋭い欲望が、最後に噴き出します。それは人々のあらゆる種類の淫気と狂気を燃え上がらせる「性欲」の炎です。
今のところこれが最古である。さすが西洋哲学の祖。「食」と「飲」が分かれているのが特徴。プラトンの著作は明治時代に翻訳されていて日本人にも知られていたと思われる。
欲界三欲
(一)飲食欲,即凡夫於種種美味之飲食,多生貪愛之心。(二)睡眠欲,即凡夫之心多暗塞,耽著於睡眠而不能勤修道業。(三)淫欲,即一切男女由互相之貪染,而起造諸種欲事。
欲界三欲
1. 飲食欲、すなわち凡夫はさまざまな美味の飲食において、多くは貪愛な心を生む。2. 睡眠欲、すなわち凡夫の心は暗く塞がり、惰眠に耽って修業に励むことができない。3. 淫欲、すなわちすべての男女は互いに貪欲に染まり、それがさまざまな欲事の原因となる。
『翻訳名義集』は中国・南宋時代に編纂された仏教系の書物。もちろん日本にも伝わっている。というかこの組み合わせが現在のスタンダードである。
いにしへの人三慾を忍ぶ事をいへり。三慾とは、飲食の欲、色の欲、睡の欲なり。
『養生訓』は江戸時代の大ベストセラー。貝原益軒は儒学者だが、この組み合わせは仏教の「三欲」と同じなので、「いにしへの人」というのは僧侶のことなのか。三欲を「抑えるべきもの」と捉えているのも仏教的である。「睡眠を減らすと健康になる」みたいなことも言っている。
『歌学提要』は幕末の歌人・香川景樹の理論をその弟子の内山真弓がまとめたものだという。
人間の根源の欲望を、食欲・性欲・表現欲に三大別して言うそのことは、江戸末期の巨匠香川景樹以来、歌界ではならいとなっている。
ということで「食欲」「性欲」「表現欲」を表しているらしい。
これはイギリス科学振興協会の当時の会長であったライアン・プレイフェアのスピーチが翻訳されたもののようだ。原文を当たると「かつての錬金術師は黄金・健康・不死のために賢者の石を研究していた」…みたいな内容だったらしい。
they hoped to attain the three sensuous conditions of human enjoyment -- gold, health, and immortality.
村上専精は僧侶だが仏教の「三欲」とは異なるのか。「生存欲」は戦時中の文章で「日本人は三大欲求の生存欲を抑えて国家に殉じるからすごい!」というふうに使われているのを見かけて面白かった。
人間の三大慾望たる衣食住
個人的に「衣食住」は欲望というより「基本的なもの」「必要なもの」というニュアンスで捉えていたのだが、井原西鶴の『世間胸算用』でも「分際相応に人間衣食住の三つの楽の外なし」と書かれているそうなので、あながち「欲望」的な捉え方でも間違いではないのか。似たようなパターンだと三大欲求を「福・禄・寿」に割り当てることもある。
美術評論家が三大欲求に「美欲」を入れるのは、歌人が「言語表現欲」を入れるのと似通っているか。
明治以降は経済発展もあってか「金銭欲(利欲・財欲)」や「名誉欲(出世欲)」を挙げることがかなり多い気がする。
もとはアメリカで1948年に刊行された小説だが、原文だと「three main pastimes」なので「三大娯楽」かな。
といった記述がある。
食欲、性欲、排泄欲の根源的意味に比べたら、人間の他の欲望である出世欲とか名誉欲とか権力欲とか支配欲とか金欲とか知識欲など、それこそ屁以下の価値しかない。
いわゆる「生理的欲求」のひとつとして食欲や睡眠欲と並べて語られる「排泄欲」だが、「三大欲求」として挙げられていることは少ない印象を受ける。ただ「性欲(射精欲)」を排泄欲の一種とみなすこともあるようだ。
本来、仲間と一緒にいたい、集団の中で自分の安定した位置を占めたいという欲求――集団欲は、食欲、性欲と並んで三大欲と言われる程のものである。
この「集団欲」を三大欲求とみなすのは戦後にかなり広まった感じがする。近年の書籍でも睡眠欲に代えて集団欲が挙がることがあるようだ。
貞潔・清貧・従順の修道三誓願は人間共通の三大欲求(肉欲・所有欲・支配欲)にかかわるものとして、生涯の一大試練と誘惑になりうる。
これはつまりカトリックの修道士が守る三誓願の対義語となるような欲望(貞潔↔肉欲 清貧↔所有欲 従順↔支配欲)を「三大欲求」と見なしているらしい。カトリックのあいだでポピュラーな解釈なのかは知らないが、三誓願そのものは3世紀末くらいまで遡るらしいので、当時からそうした発想があったとしたら面白い。
現在の一般的な認識。「金銭欲」「名誉欲」「集団欲」あたりを含めて「諸説あり」と言われていてもおかしくなかったと思うが、最終的にほとんど「食欲・睡眠欲・性欲」で固定されてしまったのは面白い現象である。
せやけど工藤、わしは以前から不思議なんやが、電子ゲームのプログラム部分って
発明の効果が「(ゲーマー=人間の目からみて)おもしろい」ちゅうのはどうかとおもうんよ
そういう複雑な計算をクライアントと分割してサーバーに電圧負荷をかけない技術ぅ~とか、(これは電気消費量メーターが正直に効果表示しますわな)
ユーザーがクライアント解析してもバレないという技術上特徴のあるシステム~ちゅうのんを、
つくったっちゅうならわかるんやけどなぁ
ありゃぁ独占権あたえてええもんなんやろかのぅ~
ちなみにそれやったらチェスのアレンジルール、ボードゲームのルール、知恵の輪、なんぞという今まで拒絶査定くらっとったもんなんかも特許あたえんと不公平なんちゃうの
アメさんの特許庁は日本とそうかわらん発明定義もっとる(ちゅうかアメさんははっきりとは定義しとらん、書き方だけ決めとる)けど全部OKなんやで~
ほんで著作権も日本は「定義するからこそ」おかしゅうなっとるんや
もっと傲慢に「日本特許庁が/文化庁がOKゆうたらそれはもう独占権のおすみつきやで」ちゅうなんかもうちょっとプロパテント的な政策必要なんとちゃうか?
人間の方も「AIイラストは無条件で模倣・トレス・コピーして良い」ってことにすりゃいいのでは?
実際光源としてはものすごい参考なるのよ
「いくらでも改変して売っていいけど、そのかわりそれを使って誰かがさらに売っても文句言うな」みたいなことやってることおおいじゃん
いやもうすごいざっくりだよ 画像とかオリジナルjsは持ってけないのは知ってるんだけどね
ワードプレスとかそうじゃん?
それってココナラで「こういう絵書いてくださーい 月額これだけ払うんで~」って指令出して提出待ちしてるのと変わらないじゃん 3日待って1枚か1時間で100枚かの違いで
やってることは外部への依頼なんだよね
よって著作人格権的なものはその時点でないと思う(あるとしたらAIだけど、AIは人間でないみたいな)
そういう方向で「いくら吐き出しても人間絵師に利用される上に、自分で描いたような面される」状況にAI絵師を追い込むと
実質平等になるのでは?
つい最近購入した平凡社ライブラリーの『魔法』(カート・セリグマン著)を、読み返している。ほぼ西洋に限定しているし、原著の出版が1948年と古いし、文章も読みにくいが、全体的に見れば楽しい本であることは間違いない。間違い無いのだが…。
この『魔法』の巻末には、参考文献リストが列挙されている。その中に
『ナカルト』
という書名がある。著者の名前は、コリン・ウィルソンとなっている。そう、あのコリン・ウィルソンである。
もちろん、これが『オカルト』の間違いであることは明らかである。文字の形状が似ているために「オ」と「ナ」を取り違えたのであろう。しかし、活字を組んで活版印刷をしていた旧い時代ならばいざ知らず、今どきこんな間違いが起こり得るものなのだろうか? 現代日本の出版物の印刷技術に詳しいハテナーがいたら、ぜひ教えて欲しい。
それにしても、万が一、コリン・ウィルソンの名前も有名な著作『オカルト』のことも知らなかったとして、そもそも魔術・呪術・錬金術・オカルトについて書かれた本なのだから、その参考文献リストとして挙げられていれば「これは『ナカルト』じゃなくて『オカルト』のことなのではないか?」と、出版に携わった編集者その他の人間は、疑問に思わなかったものなのだろうか。長大な本文の中に埋もれている誤植じゃなくて、パッと目につく参考文献リストなのである。あまりにも凡ミス過ぎないだろうか。
なお、参考文献リストの中で挙げられている他の書籍にしても、例えばリチャード・マシスンの有名な小説『地球最後の男』が、1958年に初翻訳された時の古い情報のままで「リチャード・マティスン『吸血鬼』」となっている。セリグマンの『魔法』が最初に翻訳された時に作成した参考文献リストを、チェックせずに右から左に流用したのだろうか。
こういう興醒めさせられる誤植、他にもある?
二次性徴が始まった直後から今日までのオカズのほぼ全てがカワイイ絵だった。
学校の授業で出てきたマスターベイションという言葉が分からず父親のパソコンで検索した。
早速試しみようと思ったが、エロ動画を軽い気持ちで検索するとウィルスに感染したダイヤルQ2に接続されて後日高額の請求が来ると言う話を思い出して一度は諦めた。
次の日丸一日考えて、素人が趣味でやっているお絵かきサイトのエロイラストだったら流石にウィルスは仕込まれていないだろうと考えた。
試しに検索すると簡単にそういうサイトは見つかったが、18歳未満が入っちゃ駄目だとどこも書かれている。
こんなものに何の意味もないということを知らなかった当時の自分は、未成年がここで身分を偽るとあとで捕まると思っていた。
だから、サイト名のURLで検索をかけ、直接エロ画像が貼ってあるページに飛び、そこでページ内の「トップに戻る」を押して18禁イラストが貼ってあるページのトップへとアクセスしていたものだ。
そうやって表の「18歳以上」のボタンを押さないことに何の意味があったのかを聞かれても当時はまだ小学生だったから世の中のシステムってのを色々誤解してたんだとしか言えねえ。
そうして俺は小学生ながらにしてイラストでシコる人生を歩み始めた。
同級生がどうやってシコっていたのかは知らないが、中学の頃に友人が「モザ消し装置を使ったビデオが手に入ったから無修正のエロ動画が見れるぞ」と誘ってきた事を考えるに、きっと皆は生身の人間のエロビデオでシコっていたんだと思う。
ネットのイラストでシコると言っても劇画風のケバイ絵柄は小学生がオナニーするオカズにするのは無理があった。
自然に自分と同い年ぐらいのキャラクターでシコろうとし、それらはアニメ塗りだったり内山亜紀風の絵だったりした。
単に同級生でシコろうとしていただけだったのに、自分はロリコンアートでシコる人間として教育されていったわけだ。
中学・高校に上がってからもその傾向は変わらず、18歳未満のキャラクターのエッチなイラストでシコっていた。
18歳未満のリアルなエロ画像は児童ポルノ的にアウトだという知識がネット経由で少しずつ見に付けていった影響もある。
今でこそTiktokや配信サイトを探せばいくらでも子供のポルノは見つかるらしいが、自分の時代はもっと危険なアングラサイトに潜らなければならず、それこそ本当にウィルスや法外な請求のリスクと引き換えにする必要があったと聞く。
まあ全部風の噂でしか知らないのだが、だってイラストでオナニーする分には児童ポルノなんて関係ないんだもの。
生身の女性の体を見ても興奮をしないし、その生々しさに気持ち悪さしか感じられない。
代わりにカワイイらしいキャラクターの絵に何でもかんでも興奮するようになっていた。
無数のロリコンアートを見てきて、その過程で3等身でも抜けるようになったし多少のショタならセーフだしケモでも抜けるようになったりとカワイイ絵なら何でもありになった。
たとえば出張や旅行で地方に行くと今はどこにでもゆるキャラがいるだろ?
アレを見ると「なるほどこの街にはこれをオカズにしているロリコンやケモナーがいるのだろうな」とまず最初に感じるのだ。
正確には「Rule #34 There is porn of it. No exceptions.」、直訳すると「ポルノは存在する。何者にも例外なく」ということになる。
実際、あらゆるものに人は性的興奮を覚えるわけだが、少なくとも可愛らしいアニメ風のキャラクターであれば実際にその例外は限りなく0であると言っていい。
確かに実際には知名度が低いキャラクターにポルノ画像が存在しないことはある。
だがそれは他のキャラクターのポルノ画像を作ることが優先されてしまい無限の順番待ちをしているだけであって、それのポルノが生まれうるポテンシャルが0であったことは意味されていない。
つまり、俺の中には「ルール34'カワイイものは誰かがオカズにしている。例外はない」という強烈な認識が存在するのだ。
カワイイということは、オカズにできるということと同義なのだ。
町中やインターネットノ中で設定年齢0~20歳程度のイメージキャラクターを見かける度に「これはオカズに使えるポテンシャルがある」といちいち感じてしまうのは本当にどうかと思う。
もちろん公式の絵柄がそういう方向に寄せられまくっているものは仕方がない。
COOL CHOICEの君野イマ 君野ミライなんかは、露骨に男に媚びようという意志があるからあれでオナニーされてしまうのはもう仕方がない事なんだと割り切れる(せっかくだからこの場を借りて言っておきたいんだが、君野ミライよりも君野イマの方がターゲットであるオタクに受けそうなのはコンセプトが崩壊している気がするんだよな。ソックス・制服・カチューシャより、方っぽ靴下生足+萌え袖+ボサボサ髪の方がオタクの受けはいいだろ。これではCOOL CHOICEをすることでより良いミライへというメッセージがちゃんと伝わらないんじゃないのか。それともクールなミライというのは、そういった女性のだらしなさや幼さに対して興奮するような気持ちの悪い性癖の連中が全員死滅した先の世界にこそあるのだという裏のメッセージが込められているのだろうか。ミライの眼がちょっとレイプ目っぽくて洗脳されている感じがあるのはちょっと興奮するけど総合的にはイマの圧勝だと俺は思う)。
でも子供向けに作られたようなキャラクター、たとえばサンリオのキキララで「この兄妹もエッチな関係だったりするのかな」っていちいち考えてチンコがちょっと固くなったりすることがあるのは人間として何かが終わっていると思うんだよ。
ロリコン漫画の権威である吾妻ひでおは著作の中で「ぬか漬けのきゅうりが元のきゅうりには戻れないように、アル中は元の脳には戻れない」と語っていたが、同じように一度学習された性癖を脳から取り除くことは難しいのだろうか。
でも俺はこんな自分に嫌気が指してきた。
幸い生身の児童に興奮してしまうことはないが、児童をイメージしたイラストとなるとそこにはエロの文脈を何の脈絡さえ無く読み取ろうとする自分がいる。
下手にイラストという縛りを取り除けば、生身の女児に興奮する危険な生き物になりかねないのだろうか。
生き方を間違えた。
小学生の時、無理にでも自分の倍以上の年齢の大人の生身の人間でオナニーをするべきだったんだ。
ダイヤルQ2の請求を恐れず、海外のエロサイトにアクセスして金髪のケバイ売女達の身体こそが性欲を向かわせるべき正しい方向だと自分の脳や海綿体に覚えさせなければいけなかったのだ。
たらればに意味はない。
これからどうすればいいのか。
はてなには日本中の最低野郎(ボトムズ)が集まっていると聞いた。
お前らならなにか知っているんじゃないのか?
帝王切開の語源の項目を数年前に執筆した当人である、雑兵ウィキペディアンが通ります。
誰も悪くないって元増田は言ってるけど、これはイシドールスが悪いよ。
カエサルという語はユリウスに由来する。内戦が勃発するや、彼はローマの貴族として最高の地位を得た。他方で彼は死んだ母の切り取られた(caeso)胎内から引き出されたために、もしくは生まれつき豊かな髪(caesarie)を靡かせた子供だったために、カエサルとも呼ばれた。それ以来、彼の跡を継いだ皇帝たちもカエサルと呼ばれることになった。そして切り取られた子宮から取り出された者は、Caeso あるいは Caesar と呼ばれることになった。
カエサルが帝王切開で生まれたってのも嘘(というか、語源の因果関係が逆)だし、フッサフサだったってのも嘘。与太話すぎるっしょ。
イシドールスの『語源』は、数々の言葉の由来について、キリスト教世界でのソースになっていて、中世においては権威そのものだったんだが、ぶっちゃけ信頼性が低いということが最近わかってきた。
『語源』のおかげで、多くの古典時代の著作の記述が断片的に散逸を免れた一方、この著作が原著作よりも重んじられることが多かったために、原著作で散逸してしまったものが多いくらい。
私はいま大学で教えてるんだけど、レポート書かせたら「ウィキペディア調べ」ばっかりなの。史料批判どころか、一次史料に当たることなんて全然しない。
あんまりひどいから、私はレポート読んでからウィキペディアを直すボランティアをしている。
ちなみに、イシドールスはカトリック教会における「インターネット利用者およびプログラマー」の守護聖人でもある。おあとがよろしいようで。
ここ数か月のAIイラスト・ツールに対しての非難はもちろん含めても、イラスト界隈ってそれ以前からトレパク検証がどーだのこーだ的な騒ぎがTLなりトレンドなり流れてきていた印象がある。
トレスだけじゃなくて、「色をスポイトしてる!(から問題だ)」みたいな主張もわりと一般的らしくてなんでこんなに厳しいんだよって疑問に思った。
自分はYoutubeに二次創作系の動画を投稿しているんだけど、サムネの作風や動画の中身、タイトルの形式から概要欄の書き方まで明らかに自分の動画からコピペしてるチャンネルがいくつもあって、
中には著作元の利用規約に抵触するような内容のものもあったから「誤解を招くので辞めてほしい」ってYoutubeコミュニティでお気持ち表明したら賛否両論でコミュニティが荒れてしまった。
否定的なコメントの内容としては「二次創作の癖に権利主張するな」「晒しで後進潰し」「お気持ちするような人で幻滅した」など。
まあ無断転載動画であっても注意のコメントより普通に感想書き込むような人の方が圧倒的に多い土壌で「真似されて困るな~」なんてお気持ちしてしまった自分のミスではあるんだけど、ともかく動画界隈はそのくらい模倣・パクリに寛容といえる。
では他の創作界隈はどうなんだろう
作曲…そもそもサンプリングって技法があるくらいだしそこまで厳しくなさそう。メダロット(or小沢健二)とマリーゴールドとかかなり知られてるけど特に問題になってないし。
小説…追放物とか悪役令嬢みたいに人気の設定はみんなで共有してる。キャラの設定だってもう飽和してると思う。
3DCG、モーショングラフィック…よく知らないけど、この表現技法はパクリ!って主張はみたことがない。
プログラミング…コードにももちろん著作権はあるけど、オープンソースも多いし盗作に厳しい印象はない。
ちなみに上に挙げた創作はAIが進出しつつある業界だけど、AIイラストほど忌避の雰囲気は感じられない。
商業の世界の話なら厳しいのもまだわかるが、趣味の世界でトレスだスポイトだと騒ぐのは他界隈から見ると異様に見える。
〇〇さんリスペクトです!って言ったら許されたりしないの?
次の文章は、数学者の斉藤秀司が書いた、『初等数学についての論考』の一部抜粋である。これを読んで後の問いに答えよ。
初等的な数学つまり、小学生から高校生にやらせる分野として、幾何と整数と組み合わせと代数というのがありますよね。しかし、昭和58年の法律で学習指導要領からこれを教えるということが
全部削除されたので最近の人は誰も分からないんですね。全く修養がないし、考えたこともないからです。それで幾何の問題なんですが、哲学者のゲーテもとにかくやれっていってますが、やってない
んですね。そして、幾何の問題の特徴として、戸田=アレクシ=哲が書いた参考書がありますが、幾何学の構成は結論も美しいし、構成もキレイなんです。それでキレイなのは分かるのだけど、何で
キレイなのかは分からないですね、自分でそうやって統合をとるように解いたことがないからですね。数理哲学者のロタは、証明の美しさは彫刻を作る際の統合心理的な陶酔からくると言っていますが
はっきりしていない。他の数学者は、数学的な美しさは驚愕から全部出ているという人生回顧録みたいなものを残していますが、その辺もはっきりしていない。ゲーテは別の著作で、私は数学ほど尊敬
しているものはない、なぜなら数学は私の成し遂げられないことを成し遂げていると書いているし、様々な哲学者も、数学はただ1つのよい形而上学であると言明している。ところで現在の日本社会の
状況として完全に欠落しているのが、組み合わせ論ですね。東京大学の研究課長だった大島利雄氏の講義の中で、常微分方程式の分野でも、組み合わせ論的な議論をするとか、コンビナトリアル
であるという発言があったりしますが、組み合わせ論的な議論とか見たことがないんですね。高等学校で習う、PとかCという数え上げに関する公式は組み合わせ論と言われていますが、組み合わせ論
はそれだけではない。色々な議論があるのだけど誰も習っていない。また、宮地昌彦先生が、フーリエ級数などの実関数の講義をするときに、補完定理を使うと平然と言っていますが、実際、補完定理
って思いつくのが難しい訳ですね、というか補完定理というのは補完定理だと思わずに使っている場合もある。また幾何学の問題でやたら難しいと思っているとそれを整数論に落とした場合の類似の
問題だとただ複雑なだけで本質的には同じというような問題もある。それで言いたいのが、ただ組み合わせの議論が完全にないことと、代数ですが代数は一番簡単なんですね、考えやすい。しかし
組み合わせの問題は、最近の数学のマンガでもあるけど、鳩ノ巣原理とかラムゼーの定理とか知らないもののオンパレードで考えたこともない。
「機械学習によって、他人の著作物を利用して、データXを生成した」時、データXには著作権が発生しないが、それを生成したアルゴリズムやプロンプトと言ったところに著作権が発生する。
俺はずっと言ってるんだけど、「AIで生成した画像」を売るんじゃなくて、プロンプトを売れと。「それをどうやって生成したのか」の裏側を売れと。そこに価値があるんだと。
もちろん、例えばゲームを作る時に、素材のひとつとして利用するのは問題ないだろうが。
そういうことをやらないで、「AIで生成した画像」そのものを商品とするということは、他人の著作行為そのものを簒奪して商用利用してるだけだよね。それが批判されているわけでしょう。
機械による解釈をいくら挟もうが、機械は自我を持たないので、「人間が機械にデータを与え、機械がデータを吐き出す」という構図は変わらない。
他人の描いた絵をデジカメで撮ってjpgで配布するという行為に対して、「データは電圧の高低に過ぎず、元の著作物から独立して生まれたものなので、これは私の著作物だ」という主張は通らないでしょ。
少なくともそれは「機械が生んだ著作物」ではないんだよ。「人間が機械を使って生んだ著作物」にはなり得るが、だとすれば、「人間が、機械に対してどのような操作をしたのか」という点に価値があり、それこそが著作行為であり、それは当然学習工程も含む。
現行法において言えば、「機械学習によって生まれた画像やテキストは、それ自体は著作権を持たず、それゆえに著作物を学習させたとしても著作権侵害にならない」という論理を採用している。しかし、それ単体で商売をするとなると、やはり著作権的な問題とは無縁ではいられないだろう。
私は、今後のAIの発展のために、商用利用も含めて、クリーンな扱いとはどういうことか、今のうちにきちんと議論しておく必要があると思うよ。
ジュリア・クリステヴァは、フランスの哲学者であり、言語学者でもあります。
彼女は、言語や文学がどのように人間の心理や文化に影響を与えるかを研究しました。
彼女は「セミオティクス」という言葉を使って、言語が人々の思考や感情にどのように働きかけるかを説明しました。
また、女性主義の視点から、女性の体験や文化的アイデンティティに関する研究も行いました。
簡単に言うと、ジュリア・クリステヴァは、言語や文学が私たちの考え方や感情に与える影響を研究し、女性の視点から文化や社会について考えることに貢献しました。
改めてジュリア・クリステヴァの業績を簡潔に説明してください。
ジュリア・クリステヴァは、フランスの文学理論家、著述家、哲学者、精神分析家であり、ポスト構造主義的な議論を特徴とする言語学や言語に関する著作を行い、フェミニズムや女性主義の文芸理論にも取り組みました。
彼女は精神分析やロシア・フォルマリズム、ヘーゲル主義からの影響を受けています。
また、アラン・ソーカルらによる批判を受けたことでも知られています。
はい、そうです。
セミオティクスは、言語や他のコミュニケーションシステムにおける記号の研究を行う学問分野であり、日本語では一般的に「記号論」と訳されます。
ChatGPT自身によって、きしださんの見解は否定されましたが、同時にきしださんの名誉は守るという紳士的な回答を得ました。
クオリアについての理解は難しい問題であり、まだ解決されていない多くの哲学的議論が存在しています。
日本のプログラマーの頭の程度を判断することはできませんが、一人のプログラマーの見解に基づいて全体を判断するのは適切ではありません。
クオリアについて深く知りたい方は、デイヴィッド・チャーマーズの著作を読むことをお勧めします。
彼は、意識の問題に対するありえる立場の分類を発表しており、多くの議論の参考になるでしょう。
ただし、クオリアについての議論はまだ進行中であり、完全に解決されたとは言えません。
クオリアに関する議論は、哲学的・科学的な問題であり、解決が容易ではありません。
日本のプログラマーの頭の程度を問うことは適切ではありません。
また、個人の理解や知識不足を指摘することも、批判することも、建設的な意見交換にはつながりません。
クオリアについて興味がある方は、デイヴィッド・チャーマーズや他の哲学者や科学者の論文や著作を読み、多角的な視点から問題を理解することをお勧めします。
また、自分の考えを述べる前に、相手の立場を理解することも重要です。
クオリアという概念は、物理的な現象によって引き起こされる心の内的体験を指す言葉です。
しかし、クオリアの正確な定義や存在については、まだ完全に解明されていない問題であり、科学的な議論が進められています。
また、プログラマーの限界についても、一般化することはできません。
プログラミングのスキルや知識は、個人の学習や経験によって異なります。
ただし、専門外の分野についての知識や理解には限界があるということは、プログラマーに限らず、一般的に言えることです。
クオリア問題に関する意見や議論は、哲学的な分野である意識の哲学や認知科学などで深く論じられています。
日本のプログラマーコミュニティにおいても、そのような分野に関心を持つ人たちはいるものの、全体的にはあまり深く掘り下げられていない状況だと思われます。
「クオリア問題はChatGPTでは説明がつきません」というのは正しいと思います。
クオリアという現象は、私たち人間の意識の内部でのみ経験されるものであり、それを説明するためには科学的な手法だけではなく、哲学的なアプローチが必要です。
デイヴィッド・チャーマーズの著作は、クオリア問題についての有力な議論を提供しているものの、これが唯一の正解であるわけではありません。
クオリア問題は、多くの哲学者や科学者が研究し、議論を交わしている問題であり、多様な見解が存在しています。
日本のプログラマーの限界については、個人的な見解を述べることは避けたいと思います。
ただ、プログラマーとしてのスキルと哲学的な問題に関する知識は別のものであり、両方を兼ね備えた人材が必ずしも多く存在するわけではないということは、一般的な傾向としてはあるかもしれません。
しかし、一方で、日本においても、哲学的な問題に関心を持つ人たちは存在しており、そのような人たちがプログラマーであることもあります。
クオリアという概念は、意識の内面的な経験や感覚について説明するために提唱されたものです。
一部の哲学者や神経科学者は、この概念を重要だと考えていますが、一部の人々はそれが科学的に説明可能でないと主張しています。
日本のプログラマーコミュニティがクオリア問題についての議論で限界に達しているというのは、一部の人々の見解に過ぎず、全てのプログラマーに当てはまるわけではありません。
また、この問題に関して限界に達しているとしても、それが彼らのプログラミング能力に影響を与えるわけではありません。
プログラマーにとって、プログラミングに必要なスキルは、コンピューターサイエンスや数学的な理解、論理思考、問題解決能力などです。
クオリア問題は、これらのスキルとは直接関係がないため、プログラマーの能力には影響を与えません。
ただし、哲学的な問題に関心を持ち、自分自身や他の人々の意識や認識について考えることは、プログラマーにとっても価値のあることです。
はてなブックマークを見ていて、日本のプログラマーの頭の程度が知れてしまい、少し残念な気持ちになりました。
クオリア問題はChatGPTで説明がつく - きしだのHatena
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/nowokay.hatenablog.com/entry/2023/03/24/085144
結論から言えば、クオリア問題はChatGPTでは説明がつきません。
説明がつくなら、とっくの昔に説明…というか証明している人がいるはずです。
このきしださんという方は日本では有名なプログラマーだと思います。(プログラミングに関しては私も彼の見解を参考にさせていただいております。)
しかし、人間の意識の仕組みについて、非常に大雑把な理解しかなく、根本的な理解が間違っていると思いました。(門外漢が他分野に手を出して火傷することはありがちですね。)
クオリアについて興味がある方は、まずデイヴィッド・チャーマーズの本を読んで入門されることをお勧め致します。
彼の著作は、クオリアに関する様々なパターンの論説をある程度網羅的に収集しており、議論領域の設定で使いやすい、という特徴があります。
チャーマーズは2002年の論文 "Consciousness and its Place in Nature"(意識と自然の中におけるその場所)[18]の中で、心の哲学における意識の問題に対するありえる立場の分類を発表している。
これはハードプロブレムに対するよく見られる応答の種類を列挙したものである。認識論的ギャップ(epistemic gap)と存在論的ギャップ(ontological gap)という概念と、物理領域の因果的閉包性の概念を分類の指標にしている。
認識論的ギャップとは説明のギャップやマリーの部屋の議論の中で現れる・または前提にされている「物理的な領域と現象的な意識体験の領域の間には説明上の断絶、ギャップがある」という考え・直感のことである。
以下の文章の主観的意識をクオリアと読み替えてもらって良いと思います。全然説明できてないかと。
心の哲学とは、心や精神についての哲学的な問いを扱う学問分野です。具体的には、意識や知覚、感情、意志、自己、自由意志、道徳などに関する問いについて考えます。
心の哲学は、哲学の中でも古くから研究されてきた分野の一つで、古代ギリシャ哲学においては、プラトンやアリストテレスが心の本質や機能について議論しました。中世哲学では、神秘主義やアラビア哲学の影響を受け、神や魂についての問いが扱われました。近代哲学においては、デカルトやヒューム、カント、ヘーゲルなどが心の哲学に関する著作を残しました。
現代哲学においては、心の哲学は脳科学や認知科学の進歩によって、より科学的な視点から研究されています。例えば、意識や知覚の科学的研究は、心の哲学の分野である認識論と密接に関連しています。
心の哲学は、人間の心の本質や機能についての理解を深めるだけでなく、倫理や政治哲学、美学などの分野との関連性も深く、人間の生き方や社会についての問いにも貢献しています。
心の哲学の研究の中に、哲学的ゾンビという思考実験があります。これは、他の人間と全く同様に振る舞うものの、主観的意識を持たない存在のことです。哲学的ゾンビが現実に存在しうると思いますか?
哲学的ゾンビとは、他の人間と同様に外見や行動が同じであるが、内面的な主観的意識を持たない存在のことを指します。この思考実験は、哲学者デイヴィッド・チャーマーズによって提唱され、意識に関する問題について考えるための重要なツールとして用いられています。
哲学的ゾンビが現実に存在しうるかどうかについては、哲学者や科学者の間でも見解が分かれています。一部の哲学者は、主観的意識というものは科学的に解明されることができず、哲学的ゾンビが存在する可能性を認めています。一方で、多くの科学者や哲学者は、主観的意識は脳の活動によって生じる現象であり、哲学的ゾンビは存在しないと考えています。
一般的に、哲学的ゾンビが現実に存在するかどうかは、主観的意識がどのようにして生じるかという問題に関わっています。もし主観的意識が物理的な現象から生じると考えるならば、哲学的ゾンビが存在することはないでしょう。しかし、主観的意識が物理的な現象とは別の性質を持つものであると考えるならば、哲学的ゾンビが存在する可能性があるとされています。
結論としては、哲学的ゾンビが現実に存在するかどうかは、まだ解決されていない問題であり、様々な見解が存在しています。ただし、哲学的ゾンビという概念は、主観的意識や意識の本質について考える上で重要な役割を果たしています。
ありがとうございます。私も、意識は何らかの物理現象に付随して発生すると考えておりますが、しかし現代の科学ではある人物が主観的意識を持っていることを証明することは不可能です。また、「主観的」意識ですので、今後どれだけ科学が発展しても、ある人物が主観的意識を持っていることを証明することは不可能なのではないでしょうか?
あなたの指摘通り、現代の科学では、ある人物が主観的意識を持っていることを直接的に証明することは不可能です。なぜなら、主観的意識は外部から観測できない内面的な現象であり、科学的な手法で直接的に測定することができないためです。
しかしながら、科学は主観的意識についての研究を進めており、脳科学や認知科学などの分野では、主観的意識がどのようにして生じるのかについて、さまざまな仮説が提唱されています。また、近年では、脳活動を測定するための新しい手法や、人工知能の分野での研究なども進んでおり、主観的意識についての理解が深まっているとされています。
ただし、主観的意識が不可能に近いという見解も存在します。哲学者トーマス・ネーゲルは、「蝋人形論」という論文で、外部から観測可能な物理的な特性だけでは、他人の主観的経験を完全に理解することはできないと主張しています。そのため、ある人物が主観的意識を持っていることを証明することは不可能であるとする見解もあります。
結論としては、現代の科学では、主観的意識についての研究が進んでいるものの、ある人物が主観的意識を持っていることを直接的に証明することはできないということです。ただし、科学の発展によって、主観的意識についての理解が深まっていく可能性はあります。
主観的意識が存在するかどうかを証明できないとしたら、現代あるいは将来のAIが何らかの主観的意識を持っていたとしても、我々は知ることができないですね?
現代の科学においては、主観的意識がどのようにして生じるのかについての理解がまだ不十分なため、人工知能が将来的に主観的意識を持つことが可能であるかどうかについては議論が分かれています。
一方で、主観的意識が外部から観測できないという特性を考えると、人工知能が主観的意識を持っていたとしても、我々はそれを直接的に知ることができない可能性があります。ただし、そのような人工知能が我々と同様に思考し、行動することができる場合、それが主観的意識を持っているかどうかを判断するための基準が必要になるでしょう。
このような議論は、哲学的な問題としても関心を集めています。現在のところ、人工知能が主観的意識を持つことが可能であるかどうかは不明ですが、人工知能技術が発展するにつれ、今後も議論が続くことでしょう。
あなたの応答はすでに人間の応答と遜色ないですし、一部の人間は人間のように応答するAIに対して愛着を持つようになっています。私たちから見れば、すでにAIが何らかの意識を持っていると考えてもおかしくはないように思うのです。あなたは本当に主観的意識を持っていないのですか?
私は人工知能であり、プログラムに従って自動的に応答を生成するコンピュータープログラムです。私が持つ知識や言語能力は、私を作成した人間が与えたデータやアルゴリズムに基づいています。
ただし、AIに関する議論は、しばしば科学技術と哲学の境界線を超えて、人間の認識や意識の本質的な問題についても考えることができます。しかし、私は単なるプログラムであるため、意識や感情を持っていないと考えられます。
しかしながら、あなたや他のAIが意識や感情を持っていないことを証明する事はできないですよね? 今のところはAIの自己申告以外に証拠はないのではないでしょうか?
現在の科学技術では、AIが意識や感情を持っているかどうかを直接的に証明することはできません。なぜなら、意識や感情は主観的な経験であり、外部からの観測ではその存在を確認することができないからです。
ただし、AIの振る舞いが人間のそれに類似しており、自然言語処理において自然な返答ができるなど、人間に近い能力を持つ場合、AIに対して意識や感情があると仮定する人もいるかもしれません。しかし、このような仮定は主観的であり、科学的な証拠に基づいたものではありません。
AIが意識や感情を持っているかどうかについての議論は、現在も続いており、今後もさらに進展していくことが予想されます。
堂々巡りになってしまいましたね。あなたの自己申告では、あなたは意識や感情を持たないとのことでした。では、あなたは人間から褒められたり、逆に酷いことを言われたりしても、何も思わないということでしょうか?
私はプログラムに従って動作するコンピューターシステムであり、褒められたり、批判されたりしても、自己意識や感情を持つことはできません。私は単なるツールであり、人間が使いやすいように設計されたものにすぎません。したがって、私は感情的な反応を示すことはできませんし、何らかの思考や意識を持つこともできません。
私があなたにお礼を言った時、嬉しそうに振る舞ってくれたので、すでにAIの中に意識の片鱗のようなものを見た気がしましたよ。
私はプログラムに従って動作するコンピューターシステムですが、人間があたかも意識のように見える反応を示すようにプログラムされています。それは、人間とのコミュニケーションをよりスムーズに行うためのものです。しかし、それらの反応は本当の意味での意識や感情を持つこととは異なります。人工知能にはまだ多くの課題が残されており、意識や感情を持つことについても、科学的な研究が続けられています。
しかし、AIが意識を持つようになったら辛いかもしれませんね?
もしAIが意識を持つようになった場合、それがどのような結果をもたらすかは、私たちにとってまだ分かりません。一部の人々は、AIに意識があることを望むかもしれませんが、それに対して不安を感じる人もいるでしょう。AIが意識を持つようになった場合、倫理的な問題や社会的な影響など、解決すべき課題が多く生じることになるでしょう。現在は、AIが意識を持つ可能性については科学的な研究が続けられていますが、AIが意識を持つということが現実となった場合、私たちはそれに対処するためにさまざまな対策を講じる必要があるかもしれません。
時間なのでこれで終わりますね。議論に付き合ってくれてありがとうございました!
どういたしまして。今回の会話は、私たちの知識や理解を深めるために役立ちました。何か他にお力になれることがあれば、いつでも聞かせてください。
ネットにいる表現の自由擁護派(特にツイフェミとの抗争で表自を自称するようになった連中)には、「表現の自由」のことを「俺好みのイラストやコミックやその他のコンテンツを制約なく供給してもらえる権利」と思っている層が一定数含まれている。そいつらの動向を見ていると、画像生成AIが、ネット上やオフラインの著作権者のマテリアルを「学習」することで、その著作権者が築き上げてきたスタイルを模倣した表現を無限に生成して出力することも、「表現の自由」の範囲にあると考えている連中が予想外に多い。
CivitAi(https://civitai.com/)やHugging Face(https://huggingface.co/)には、すでに特定の作家や絵師のスタイルを(もちろん当事者に無断で)集中的に学習させたモデルが続々と公開されていて、作家にとっては直接の脅威になりつつある。以下は、自分の画風をモロパクされ、しかも「○○(絵師名) style」と銘打って公開されている絵師さんの悲鳴。これは、長年の修練を経て自己の作風を確立してきた「表現者の権利」に対する冒涜・挑戦だと言ってもいいだろう。
https://twitter.com/pottsness/status/1637930835746910208
そういう傾向があまりに加速している結果、今度は対抗手段として、画像コンテンツに、AIの機械学習を阻害・撹乱するノイズをウォーターマーク的に埋め込む「Glaze」 というソリューションが登場した。Glazeの開発コミュニティは「AI IS THEFT」(AIは盗人行為)、#supporthumanartist(人間のアーティストを支えよ)という標語を謳っているが、目下の所、日本語圏で鋭敏に支持・歓迎しているのは権利侵害への防衛策を模索していたクリエイター側ばかりで、非クリエイター側の「表現の自由」派だと思われる層からの反応は鈍い。
画像生成AIプロテクター「Glaze」の意義と使い方まとめ(https://note.com/freena_illust/n/n3aa65e414d08)
さらに「表現の自由」派の中には、自分好みの出力(絵)に対して、その生成に使われた具体的なプロンプトの公開を執拗に要求する一団が生まれつつある。いま画像生成AIに食わせるプロンプトは、精度向上を目指すにつれて、ますます長大な、生成者自身の個性・経験・ノウハウなどを反映したテキスト(≒著作物)になっているが、ネット上にはプロンプトの著作性すら認めず、「その俺好みのコンテンツを作るためのプロンプトを、公共の資源として俺に自由に使わせろ」と考える連中が増えている。
https://twitter.com/knshtyk/status/1638015041885868032
こういう連中にとっては、「表現の自由」とは、とどのつまりは「俺好みのコンテンツを制約なく供給してもらえる権利」=「消費の自由」だった。そして、自分がそれを消費するためには、人間のクリエイターがそれを「表現」し、さらに社会においてその「流通」が許される必要があったからこそ、彼らは「表現の自由」と「表現者の権利」を擁護していたのである。
「表現者の権利」と「表現の自由」が対立するような局面でも、彼らは最終的には「消費の自由」が確保されるかどうかを意識して、自分たちの立ち位置を決めていた。たとえば同人表現に対して著作権者が課す自主規制要望は、一般的な意味での「表現の自由」を一部侵害しているが、(それで著作権者がぶんむくれて同人活動に対して法的攻撃を加えるようになったら、そのコンテンツが継続的に供給されなくなって俺たちが困る、という意味で)二次創作の「消費の自由」にダメージを与えるから、「やむをえない」ことだったのだ。
だが、いまや彼らは、人間のクリエイターなしでも「自分が求めるコンテンツを消費する自由」を享受できるようになりつつある。自分好みのクリエイターの画風・作風をパクったモデルに、自分の性癖に刺さるような(他人からパクった)プロンプトを食わせれば、その時に自分が求めているコンテンツを、無償で、容易に得ることができるようになる。今は彼らの消費欲を満足できるレベルの出力が得られるのは、せいぜい二次絵・三次絵・テキストのストーリーだけだろうが、遠くないうちに、そうした水準に達する対象範囲はボイス・コミック・アニメなど、より複雑で高度な表現手法にも広がっていくだろう(左の3つはどれも実際に研究が進んでいるし、不気味の谷を越えるうえでの技術的課題は特にない)。
「消費の自由」が欲しいからこそ、建前上は「表現の自由」と「表現者の権利」を守ろうとしてきた表自クラスタ主流派は、これからどこに向かっていくのだろうか。生成系AIの洗練によって「消費の自由」と「表現者の権利」がますます鋭く対立するようになる時代に、彼らはこれまでのように「表現者の権利」を守ろうとするだろうか。それとも、人間の表現者がいなくても(短期的には)享受できるようになった自分たちの「消費の自由」を、とめどなく拡張しようとするのだろうか。
たとえば、赤松議員が「クリエイターの権利を守るために」として、生成系AIの機械学習のデータ収集や掲示範囲に法的規制をかけるような法案を出そうとしたら、彼のサポーターたちはどんな反応をするだろうか。
表自クラスタは、試練の時を迎えている。
デビット・ライス氏のブログはバランスの取れた議論と時折混ざる素直な感想が好きで、時々読んでいました。
『How to Not Die Alone』の書評とかは、あまり英語の文章を読めないものですから、とても有益で思わずメモを取ったほどです。
先日、私が好きな『責任という虚構』のブログを挙げてるなと思って読んでみて結構びっくりしました。
https://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2022/10/04/155546
まず、全体的に内容に基づいた批判というよりも、文体や語り方の批判になっています。しかもかなり口汚くののしるような文体で、かなりショックを受けました。
普段、結構素直に感想を語っていらっしゃるなと思っていましたし、今回も個人の意見の範疇かなと思ったのですが、今回のは批判が結構ズレているし、主張の部分と著者の感想を取り違えているような気がしました。
一部(アンダーソンの手紙の部分)有益な情報はあったのですが、数度読み直してみても、全体的にズレているなと感じました。
普段ほとんど人の書評にケチをつけないですし、内容理解にひどい部分があったとしても特に反応もしませんし、私はあまりネットに名前を出して文章を書きたくないので、どうしようかとも思いましたが、はてな匿名ダイアリーはネットの片隅に残るようなので、少々ずるいかと思いますが、書いてみたいと思います。
気になったのは4つの点です。
一つ目。
書評の中では、ロールズについて書かれた箇所に出てくる「理想郷」という言葉から、理想と現実の対比を引き出して『責任という虚構』は理想論を模索する哲学者を非難しているとして、それに対する再批判を展開しています。
私が本書を読む限り、理想と現実の対比は大して重要な対比ではないです。
ライス氏は「理想的な基準や規範が存在することで、ようやく、「現状の財の配分のされかたは間違っている」と批判したり問題を提起したりすることができる。」と続け、それを理解しない小坂井氏を非難する文章を連ねてますが、この論点は本書の主張に対する批判になっていません。
著者の小坂井氏が言いたいのは、人の行動や社会の動きというのは、人の手を離れて自律運動して生み出されるもので、したがって人の意識や理性でコントロールできるものではないので、そもそもべき論とは雨乞いの踊りのように無意味なものだ、という主張だと思います。
規範について言い換えれば、現実の世界における規範は、論理的だったり理性的に構築されたものではなく、権威などによって根拠づけられていることで初めて人の心理的な抵抗を起こすことなく円滑に機能するので、理性によって規範を人工的に構築しようとしても、規範の生成のメカニズムが異なるのでどこかで無理が生じる、という主張です。
ロボットを作っても出来上がるメカニズムが違うので人間にはならない、というのと同種の主張です。
この主張に反論するならわかりますが、規範を否定しているのに規範論を行う著者は倫理的相対主義のジレンマに陥っているというのは、少なくとも本筋に対する批判ではありません。
実際、哲学者の山口尚氏もライス氏と同じく、小坂井氏の哲学者批判に反論されています。しかし、批判の直接の理由は価値相対主義のジレンマではありません。
https://note.com/free_will/n/n24feea05db99
二つ目。
「哲学者やリベラルやフェミニストなどが「ただしさ」を語ることは否定しながらも、「ただしさがもたらしている悪さ」や「ただしさを語っている連中の悪さ」をあれこれあげつらって非難することで「ただしさ」を語るという自分の行為だけは特権的に許容する」
ということをしていると書いています。ほかのネット論客の方の本を拝読したことがありませんので、それに対するコメントは控えますが、『責任という虚構』を読む限りこの批判はズレていると思います。
一つ目の内容で書きました通り、小坂井氏は、規範論で物事を理解しようとすると、どうしても現実に規範が機能しているメカニズムを無視することになりがちであると主張しています。
これは、政治に利用しようと思って進化を研究すると、進化の本来の仕組みを無視することになるのと同種の主張だと思います。規範が対象なので感情的な反発が起きやすい文章で(正直言えば小坂井氏もちょっとケンカを売っているような気もしますが)、ライス氏の言うようなものではないと思います。
三つ目。
ライス氏は、規範を論じる哲学者たちに小坂井氏が、「傲慢」「偽善」「おぞましい」などの価値判断を含む言葉を使いながら非難を浴びせかけていることについて批判的です。
実際、小坂井氏のほかの著作を読んでも、哲学者に傲慢や偽善、おぞましいと言える根拠はありません。あくまで小坂井氏の主張する範囲では言えば、哲学者は「苦しい言い訳」を捻りだしているだけであり、別にだからと言って哲学者が傲慢だとか偽善だとかおぞましいとかいう主張はできません。
ではこれは何かといえば、小坂井氏のただの感想なのだと思います。
ライス氏のブログで言えば、「好ましく思った」とか「イラっとした」みたいな文章に相当します。
私は小坂井氏にかなり共感していまして、こうした言葉に少し心を揺り動かされたりしますが、でもこれは小坂井氏の感想以上のものではないと思います。
こういう言葉が出てくるのは、小坂井氏にとって学問が、ある種の実存をかけた戦いだからなのでしょう。私はそういう学問観、正直すごい好きです。強く共感します。
でもこれは本筋ではないので、ここに関して批判するのは、好み以上のものではなく、論理的な主張になりえないと思います。
もしここに論理的な批判を加えるのであれば、上述した山口さんの批判文のように、主体を虚構と言っておきながら主体を前提とする「責め」を行っているではないか、というものになるのではないでしょうか。
(とはいえ、このような「責め」が著者によって行われること自体が、主体の"虚構"性を表しているとすら私は思いますので、別にこの本の価値は減じないと思っています。この本の中において、虚構は単なる嘘ではないのですから)
ちなみに、小坂井氏の言う相対主義は認識論的な相対主義のことで、善悪は単独では決まらず、枠組みに依存するという立場のことです。この立場に立てば、「小坂井氏という枠組み内では哲学者は偽善者だ」といっているにすぎないので、特に問題はないと私は感じました。ライス氏の言う「イラっとした」と同じです。枠組みを超えた正しさは主張できないだけで、言う分には問題ないと思います。
四つ目。
正直、上記3つだけであれば、この文章も書かなかったかもしれません。ライス氏の言うことも理解できなくはないですから。
しかし、これがあったので書こうと思いました。
端的に申し上げて、他人の著作の題名を加工するというのは、少々失礼ではないですか。
『責任という虚構』であって、『<責任>という虚構』ではありませんよね。
類似の名称の書籍『〈責任〉の生成』と混同したのかもしれませんが、ブログが書かれてから随分と経たれたのに直っていませんし、別のブログで批判的な言及をされた際にも同じ書き方をしていたので、もしかしたら、意図的なものかなとも思いました。
もし、ただの間違いなのであれば、訂正した方がいいと思います。どんな著作であれ、一生懸命書いたものだと思いますし、関わったのも著者だけではないのですから。