はてなキーワード: 愛についてとは
直近こじらせたきっかけは多分2つ。
2つめは飲み会の場で男も女も下心丸出しで異性にべたついているのを見て、なんかいろいろ気持ち悪く見えてしまったこと。
それぞれのきっかけと自分の精神状態、思考方法、思想、そういったものを絡めながら言語化していく。
大学来の親友が結婚した。彼がもうすぐ結婚するであろうことは、なんとなく察していた。
洗面所にはずっと歯ブラシが2本あったから、半同棲をしていたんだと思う。
そいつに彼女がいるかは聞いたことがなかった。そもそも自分は、友人に恋人がいるのか聞くことが割と苦手だ。
だから聞かなかったけど、長いこと付き合っている風だし、もうすぐ結婚すると思っていた。
先週あたりにその連絡がきた。普通に嬉しかったし、本当にめでたいことだと思った。
ただ、恋人がいない自分のことをやはりネガティブに捉えてしまう。「結婚」というワードは、いまだに自分に対して大けがを負わすらしい。
匿名で書き込んでいるから説明しておくと、私は一昨年末に離婚している。当時27歳だった。
1年保たずに空中分解した自身の情けなさに対して、当時は大いに病んだ。
そこから恋人はいない。結婚願望が自分の中にあるのかは正直分からない。
ただ自分があさましいというか、自分が叶えられなかった幸せを他者が、それも境遇が近いような人が掴もうとするその姿を、100%の祝福で見ることができない。
どうしても羨望とか嫉妬とか、そういう感情がコンタミする。それに端を発し、また自己否定のフェーズに入る。
我々はそれなりにいい大学を卒業した。もっとも自分は留年して学部卒、友人は修士卒なんだけど。
学歴至上主義を否定できない現代日本で、母校の新卒カードは結構な効力を持っていることを、今なら知っている。
ただ当時はすべてがアホらしかった。ガクチカとか資格とかTOEICとか。自分は専門を活かしつつ、会社の雰囲気が良い小企業に入社した。
社内環境には本当に不満はない。同世代の全国平均以上の給料ももらえているし、友人と飲みに行ったり遊びに行ったりするくらいの余裕はある。恵まれている自覚はある。
ただやはり、新卒カードを上手に切った同級生たちは、名だたる大企業に就職して、それなりに稼いでいる。
経済的に羨ましいとは思うが、努力した彼らとそうでない自分の差を無視し、一方的に羨望することはお門違いだと承知している。だから他人を呪ったりはしていない。
ただ、自分の生き方の下手さにほとほと愛想が尽きて泣きたくなる。
社会人になってからは、老後とかも見越した資産運用を始めたりしたが、学生の頃は本当に刹那的に生きていたと思う。その結果を今になってまざまざと見せつけられているに過ぎない。生きるのが下手くそすぎる。
昔からそうだ。
第一子として生まれて、親との喧嘩も何度もしてきた。言葉を文面通りしか捉えられないような節があることも自覚している。愛想のよい会話も苦手で、可愛げがないと何度言われたことか。
弟はそのあたり非常にうまくやっている。ユーモアで大人を笑わせ、親が望むような労いの言葉を見逃さずにかける。そういうのを見るたび、やるせなさが募る。
幸い、頭だけは良かった。特に、物事の法則性を見出す能力に優れていると思う。まあ、自分より優れた人間なんて掃いて捨てるほどいるんだけどさ。
だから勉強には困らなかった。自分の身の丈に合った環境に身を置くことが幸福につながると信じていたから、特に苦労しないで入れる高校や大学に進学した。
そこで出会う友人たちは、どことなく自分と同じところがあった。頭のデキとか、公立故の家庭環境とか。そんなに大差ない半生を送ってきたんだろうなって。
ただ、社会進出は孤独だ。それまでの半生の判決が下されるような感覚。
特に何もなさなかった自分と彼らの差は、いったいどこで決定的になったのだろう。
俺は知らなかったんだ。そんな判決が下る日が来るってことを。
頭がいい友人はみんな気が付いていた、早い奴は高校生のころから気付いていたと思う。そのあたりは、本当に馬鹿だなって今でも思う。
自分にもポテンシャルはあったはずなんだけど、どこで失ってしまったのか、または持っていると錯覚していただけなのか…。そんなことを考えて少し病んだ。
まあ、優秀な同級生と自分の対比はよくやってる内省のテーマだから、大きくこじらせることはないはずなんだけど。
続けて、先日の飲み会の話。
その飲み会には酒癖が悪い女の子が来ることになっていた。みんなそのことを知っている。
自分も飲み会の前までは、隣にその子が来てベタベタされたらラッキーくらいには正直思っていた。
案の定、男が寄って行った。男がトイレ等で席を立つたび、他の男が代わる代わるやって来た。
それが素直にきしょいと思った。彼らと同じことを考えていた自分もきしょいと思った。
どいつもこいつも、「自分は介抱しているだけで、下心なんてありませんよ」みたいな顔して近づいていく。なんかそれが無理だった。
もうおっぱい揉んだりキスしたりしろよ。その方が素直だよ。もっときしょいけど。
自分よりイケてない(と自分が勝手に思ってる)やつが、その子とイチャイチャしてるのを見て、なんか正解が分からなくなった。恋愛とか人生とか、そういうのの正解。
たまたま先日開いたまとめサイトで、「外国人は日本人の女をスケベだと認識している」というレスを読んだ。
この女もスケベか。じゃあこのスケベ女にも相手にされない俺はもう終わってますね??(謎理論)
自分は、女は淑やかであるべき、みたいな思想を持っている。割と封建的で昭和チックな価値観を持っていると自覚している。
だからこそだらしない女を見てるとウザイなと思う反面、「ヤレそう(ヤレない)」とも思うし、その自己矛盾も気持ち悪いし、そこに群がる男もきもい。
うーーーーーん、わからん。べつにその特定個人から好意を持たれたいわけじゃない。
他にも夫子持ちの既婚女性が叫んでたり、恋人がいる男女がなんか楽し気に盛り上がっている様を見ながら、理性とか本能ってなんだろう…と一人沈んでいた。
なんか矢印がいっぱい見えちゃって非常に疲れた。という話。
最近は金の事ばかり考えている。なぜか。
ならば自分はモテたいのか?自分の性欲を直視するのが気持ち悪くて、そのあたりは考えないようにしている。でもこれを直視しないといけない。
離婚してから性風俗以外で性行為をしていないが、セックスが普通に好きなので。
自分のセックスに対するコンプレックスもあるが、最終的にヤリたいに帰着する気がする。
恋人とか新婚夫婦って、ほぼ確実にセックスしてるじゃないですか。
死ぬほど羨ましい。そういう愛の確認がしたい。愛がなくてもいいけど。
「同棲してます」は、「昨日もセックスしました、今夜もします」にしか聞こえないし、
「結婚します」は、「今までいっぱいセックスしました」にしか聞こえないし、
頭おかしくなるって。いやもうなってる。なってるからこう聞こえてるんだって。
男子中学生も男子高校生も、ここまで人生観やライフステージや愛についての解像度は高くないと思う。
だからこの拗らせ方は、セックスにコンプレックスを持った哀れなオス特有のものでは。
「風俗行けや」と思われるかもしれないが、安い店はそれなりの嬢しかいないし、それなりに高い店は経済的に厳しい。
だからこそ、セフレを作って性的にも経済的にも得をしたいと考えてるんだけど、これは異常者の発想なのだろうか。
…言語化しなくても気が付いている自分の本心を直視するのが本当につらいんだ。なんやこのバケモン。
色々努力したつもりなんだ。
元嫁にはそういった「努力」が足りなかったから見放された節があることも分かっている。
そのへんの1000円カットから、カット&パーマで15000円する美容院に鞍替えした。
眉毛の処理は欠かさずするようになった。
爪磨きを買って爪を磨くようになった。
こういうのを当たり前にできる人もいるんだろうけど、自分はできていなかった。だから努力の一歩目を踏み出した。
ただまあモテない。顔が悪いか会話が壊滅的に下手か金がないか。まあ全部か。
マッチングアプリでモテてる男を見てみると、盛ってるのかどうか知らんが、同年齢の連中は軒並み年収1000万を超えている。勝てないって。
女さんサイドもなんでそんな男がアプリやってるのか考えろよ。よほどの異常者かヤリモクの二択だぞ。
ヤリたいなら知らん。マザーファ●カー。
…で、ごく平均的で顔にも金にも取り柄のない自分は、埋もれていくしかない。
正直この歳で彼氏がいない女は、別れた直後かよっぽどヤバい奴しかいない思っている。
からこそ、自分はよっぽどヤバい奴だという論が成立して萎える。
そしてそのヤバさを自覚できていないから、方向性の修正の仕様がない。
もしくは高望みしすぎか。
学もある。職もある。顔も終わってない(はず)。
ただこの普通過ぎる男でも、「つまらない」という理由で、加熱した恋愛市場では全く相手にされない。狂ってないか????
というか、自分のモテなさを棄却しようと色々論じてるのが情けなさすぎる。
なんのために「努力」してきたのかももう分からん。ぶつかりおじさんになった方が幸せまである。
弱者男性の言動や思想を追っているうちに、えっげつないエコーチェンバーを引き起こして、思想汚染されている自覚もあるが、生きづら過ぎる。
自分の性欲が本当にノイズでしょうがない。ヤリたいのにヤレない哀れなオスでいることが精神的にきつすぎる。
去勢したら楽になれるのか。ただ、生命活動の一端をそこで止めてしまうことのリスクがあまりにも大きいことも確かだろう。
なんかもう詰んでね?
書き方が悪かったせいで、自分と学友のBLを想起する人が少なからずいたため、該当箇所を修正しました。
ブクマコメントや言及の中で、特に結婚・離婚の話が薄いみたいに言われていたが、確かに離婚の話は自分のコンプレックスであって、それはそれで大いに病んでメンクリにも通った。
ただその話は今回の題意にはそぐわないと思っているし、破局原因をすべて言語化することを拒んでいる自分がいることも自覚している。
だから離婚の細かい話について、ここで掘り下げて共有するつもりはない。
勝手な推測でグチグチ言われるのは心地いいものではないが、それも匿名性のある意味よさだと思うので、やめてくれとも言わないけど。
それから、一部「本心が全然書かれていない」的な意見が散見された。
これが本当に分からない。自分でぐちゃぐちゃ書かれていることをなるべくゲロ吐いたつもりだったんだけど、本心ってなんだ。
自分軸で生きてるか他人軸で生きてるか的な論?かと考えたけど、そういう話?
そもそも人間は少なからず他人からの評価を優先して生きてるっぽいですよ(ソース:https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000011.000030921.html)
いくつもあった励ましとか、匿名性ゆえの叫びを評価してくれた人には改めて感謝を。
みんなの言語能力が高くてちょっとビビる。読書量の差を感じた。
私は友人の結婚式の中でもBGMが結構楽しみなタイプ。新郎新婦がチョイスした思い出のプレイリスト集もあれば、全部流行歌でお任せする人たちもいる。
大掃除をしていたら、5年前に私が挙式した時のBGMメモが発掘されたのでここに記す。
全曲自分たちで選びました。
誰かの参考になれば幸いだし、トラバブコメでみんなの使用楽曲も知りたいです。
・散歩道(JUDY AND MARY)
・fanfare(Mr.Children)
・渚(スピッツ)
・口笛(Mr.Children)
・歩いて帰ろう(斉藤和義)
人に勧められてチェンソーマンを読みました。たしかに面白い。でもその面白さは、ある程度情緒を育んできた大人が、登場人物たちや作者の意図しているのかしていないのかわからない精神的浅さをスリリングに楽しむ、みたいな方向に昇華して生まれるものでしょう。
デンジの動機も、マキマの心理描写のなさも、他キャラクターたちの全く一面的な性質も、突然出てくる詰めの甘い設定も、すべて浅いししょうもないけど、それがなんやかんやうまいこと噛み合って生まれる浮世離れした感じにヒヤヒヤニヤニヤして楽しめる。藤本タツキはどこまでそれを自覚してこれを描いてるのかなあ。ぜんぶわかっててやってるならすご〜く良いよね。他のも読んでみたい。
なのに、終盤愛に関する描写が出てきました。嘘でしょ?
そりゃ普段しょうもない人間のしょうもなさを悪く言うなんてことはしません。しょうもないってのはそもそもそんなに悪いことじゃないし、しょうもある(笑)側の人間が自分はしょうもありますよみたいな顔して気持ち悪い選民思想を抱くほうが異常。恥づべき行為なのは間違いない。
でもここで愛についてまでしょうもなさで侵すのはやめてほしかった。愛に対してだけは誠実に表現してほしかった。ずっと幼いうちに解決したはずのしょうもなさへの嫌悪、嫌疑が沸き立つ。愛についての描写はあれだけだけど、じゃああれが愛の全貌だなんて藤本タツキは思ってるんだろうか。愛を正しく理解したいと願う人間が、愛についてまでいい加減なことを書くだろうか。どっちにしろ藤本タツキがわからない。チェンソーマンを勧めてくれた女の子になんて感想を言えばいいかなあ?その点でずっとモヤモヤが消えない。
誰かと話す時、寂しさが和らぐ。
人と話すと、私には話を聞いてくれる人がいる、共感してくれる人がいると感じる。
そして不安が減る。
私はずっとこのことを考えてきた。
私はそれが欲しかった。
見返りがないと成り立たない愛は、愛と呼べるのだろうか?
相手が自分に何も与えなくても愛することが、本当の愛なのではないか?
そんなことをずっと思っていた。
幸い、愛については少し進展があった。
それは私にとっての僥倖だった。
この愛を元にして、私はもう一つの問題、つまり寂しさについて向き合っている。
愛する人がそばにいなくても、私は寂しさを感じずに生きていけるのだろうか。
私は可能だと思っている。
これは私の挑戦である。
一生を賭けた挑戦。
こういう生き方は本当に生きづらい。
普通に恋愛し結婚して、家族を持てば、それなりの幸せを築けるだろう。
寂しさ、孤独とは何なんだろう。
まだ答えが出ない。
哲学書や心理学や宗教をかじったが、そういうことは書物では解決できないと思った。
本はもう捨ててしまった。
ただ生きることによってのみ、それが分かるのだろう。
まだまだ諦めない。まだ人生は残っている。
いいとか悪いとかじゃなくカルチャーとして、誰かを愛する、パートナーをもつをガチで考えてるからだと思うよ
日本人は自分含めそこんとこあんまりガチで考えてないと思うんだよね
正直どっちでもいいというか、生まれた性でとりあえずいいやみたいなのが大多数だと思う
なんとなく見つけた相手で数年間距離近く過ごしてあとは距離を取ればいいだけ
これが、本当はどっちが好きなんだ?!今後一生かけて頻繁に何を相手にセックスするんだ?!て詰められたら違う結論になる人いると思う
今日から女でやれ、男でやれ、こっちを恋愛対象にしろっていわれても、ああ、まあ・・・それでも別に・・・て受け入れられると思う
マジでこれ。バカなのかと・・・というかいわゆる『生きづらい』さんみたいやな
一部の増田やブクマカ(https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20220523032059)を見るに
・・・みたいやぞ?
商品の未購入・無課金をわざわざ表明してファンを自称するのと同じ世界線にある人たちみたい
『○○を買ったことないけど○○のファンなのでオーナーズクラブに参加したいです!!』
キャラの設定やイラストから着想を得て創作(妄想)している点は変わらないし
・・・が、ぶっちゃけ商業で活躍するプロ作家かつそれなりに売上持ってる作家であっても
『企画で呼ばれたから書きましたw 未読・未視聴・未プレイで〜すw』やったらドンびかれるし場合によっちゃ叩かれるよね?
ーーー
b:Id:xevra さんに何かしていただきたいとかないです。野菜食べてて
ーーー
知ってた速報ではあるがブクマカと増田の一部が生きづらいさん過ぎて震える
どうやら商品の未購入・無課金をわざわざ表明してファンを自称するのと同じ世界線にある人たちみたいやな・・・
アニメ・ゲーム・マンガ・創作のオタク界隈だけほんま地獄やで・・・
『○○を買ったことないけど○○のファンなのでオーナーズクラブに参加したいです!!』
『XXを買ったことどころか別シリーズも買ったことないけど生産中止になって残念です!!ファンでした』
『生まれてこの方サーフボード持っていないけど僕のサーフ愛について語りたいです!!!』
ーーー
これも生きづらいさんだからこそなのだろうけど、正面から課金や商品の購入を拒否していて震える
で、拒否・ギブアップするのは結構ですけど、それファンが集まるところでわざわざ公言する必要性ってありそうです?
黙っておけばよくないですか?ちなみに炎上目的はないのだとしたらわざわざ公言するのは何目的ですか?
わざわざ買ってない・課金してないって公言したら買い支えてるファンから顰蹙を買いそうって想像の埒外ですか?
人はそれぞれ必要なお金の額は違いますし、すべての人がそこそこの額を稼ぐ必要は無いと思いますけど、
『髪型・服装だけパロったコスプレAV的な18禁作品で純粋なファン向けの作品ではないですよというお知らせ』
→ 確かに艦これ(艦ショタ)『島風くん』みたいのだったらお知らせはあったほうが良いと思う
『原作読んだことない/プレイしたことないのに優れた二次創作できちゃう自分アピしたい欲』
→ これは目から鱗だった。原作読んだことない・プレイしたことない自分すごいって人もいるんだね
ちなみに、プロ作家の商業アンソロジー・18禁作品・同人ゴロ(大手サークル・万フォロワー絵師)に限定した話ではなくて、
純粋に趣味でやっている小規模な二次創作者でもわざわざ未読・未視聴・未プレイを公言する人がいるのよね
いまのところただ単に生きづらいさんなのかなって気がしている
https://anond.hatelabo.jp/20170828205222
あれから5年だ
滑るように時が経った
結局のところ、どんなに人と触れ合っても何の意味もなかった
相手を思いやっているようで、その実は自分がどう見られているかを気にしているだけだった
相手に尽くしているようで、自分の思う通りにしていたいだけだった
最後の最後になって、こんな所まで来て、私の所には何も残らなかった
「相手を一番に想うなんて無理だ。この気持ちはこの一瞬だけで、永遠ではない」と冷めてしまう
「誰かのために、自分を変えていく」「愛する者のために、恥も外聞も気にせず努力していく」
そんなことは、私には無理だ
誰かのための努力なんて、そんな面倒なことはしたくないと思ってしまう
その時々でやる気にはなるかもしれない、しかしそれは続かない
さて、いったい誰がこんな私を望むのだろうか
相手のために一生を賭けるつもりもない、努力するつもりもない、虚勢を張って嘘を本当に変えようとする意地もない
本当の意味で自分を見てくれるわけでもない、関わっているつもりでも自己満足に振り回されるだけの相手
「でも一人の女に骨抜きになったことはないだろ」
「見つめられるだけで卒倒しそうなくらい神様が自分に与えてくれた天使だと思って地獄から救い出されて、自分も彼女の天使になる」
「愛の力で彼女を引き止めようと病晩乗越えて私は病室で2ヶ月間妻の手を握り締めて座ったまま寝た」
「医者も面会時間なんて決まりが私には通じないのを知って諦めた」
「本当に失うってこと、それは自分を捨てて誰かを愛した者にしか分からん」
「そこまで深く人を愛したことがあるか?」
「君を見ていると知性と自信を持った男には見えない」
「自惚れだけ強いただの臆病な餓鬼だ」
「君の深さを推し量る事は誰も出来ない」
「だが君は一枚の絵を見て全て知ったような態度で私の人生を引き裂いた」
最後まで、他人と関わるのを避け、人の思いに触れるのを避け、自分の思いを曝け出すのを避け、他人と真剣に向き合うのを避け
妥協と回避と「合理的で現実的な判断」などを並べ立てて、大人な振りをしているだけの、ただの、臆病な、ガキだ
そんなことを、もうそれこそ一生やり続けるんだろう
「お前みたいな人間は、一生逃げ続けて、本当の意味では何にも手に入れられず、輪の中に入れずただ一人で何の意味もなく孤独のまま惨めに死んでいくんだ」
そんな、予言じみた声が聞こえる
【追記・返信】
・2022/2/26
本当に他人に興味がない人って他者からの評価は気にならないと思うんですよ。だって、興味がない人からの評価とか、どうでもいいから。
自分がどう思われてるか気になる、否定されたくないっていうのは人が大好きなんだと思うので、変に気取った文章書いてないで自分の気持ちに正直になったほうが良いよ。
別に自分が愛されたいからと言って、相手を愛さなければならない法律なんかないのだから
愛されるために嘘ついたり金払ったりなんでもすりゃいいだろ。
いいや、これだけは違うね
それは「人が大好き」とは言わない
相手を「物」として見ているだけの、自分の価値を測るものとしてだけ見ているだけに過ぎない
そんなのを「好き」とは言わない
他人から見られた時の視線に耐え切れないだけの、後ろめたさだけがあるだけの、ただの臆病者の、他人に本当の意味では興味がないガキに過ぎない
だから、それだけは違う
自分にしか興味がないと言うけど、本当のところは他者との比較の中で、本当は価値がない自分を発見してしまうのが怖いのかもなー。
後半については、本当にその通りだと思う
自分の価値にしか興味がない、それを見たくもない、気付きたくもない
「他人に興味がある」のではなくて、「他人の目に映る自分に興味がある」なのであれば、それは結局は自分にしか興味がないってことになる
@Gesu_Masuda
チェンソーマンは一見すると少年漫画的展開が中心の典型的なアクション漫画と思い込んでしまうが、一種のラブストーリー、恋愛が中心の少女漫画みたいな流れとも言える。実際、デンジを女性に変えて登場する女性キャラを全員イケメン男性にしてしまえば凄まじく歪んだ少女漫画ができあがる。
少年漫画、青年漫画の主体は男主人公の夢や目標を叶えることであり、恋愛は全く話に入ってこないかサイドストーリー的に適当に扱われるだけだった。チェンソーマンの主人公は典型的な男主人公の壮大な夢や目的が初めからない。その結果、女性と付き合うことが彼の目標となり周囲のキャラクターとの関わりも恋愛的な視点が大きい意味を持ってくる。胸を揉む行為からキスの約束まで、次々と登場する女性陣から彼は恋愛について学び、疑問を抱き、苦悩する。これがハーレム漫画にならないのはデンジが積極的に愛について模索しているのと、女性キャラ達がハーレム漫画特有の都合よく主人公に尽くす目的で描かれてはいないことがこれ以上となくハッキリしているからだ。
チェンソーや悪魔のセットアップはある意味、この漫画の主題が少年/青年漫画的な夢を追いかける話ではなく、少女漫画的なラブストーリーであることから目を逸らさせるための目眩しともいえる。
日本文学編(anond:20210222080124)があまり注目されなかったけれども、記憶を頼りに続きを書く。
どの作品を入れるべきか迷った。古典の翻案に見られる知性とユーモア、晩年の作品にみられる迫害的な不安、どちらの傾向を持つ作品であっても、元文学少年の心をひきつけてやまない。特に「歯車」などの持つ、すべてのものが関連付けられて迫ってくる凄味は、学生時代に再読したとき、行き詰まりかけていた学生生活の不安と重なり、ただただ恐ろしく、読み終わってからしばらくは寝床で横にならされた。
「河童」を選んだのは中高生の頃で、河童の国を旅する要素に心を惹かれたことを思い出したからだ。それは、大学生の頃よりも不安が弱かったからなのか、この作品に潜む女性への憧れと恐れが自分に響いたのか、あるいは架空世界の架空の言語に魅せられたのか、その理由はわからない。
アンデルセンの小説を読んでいると、きっとこの人モテなかったんだろうなあ、ってのがひしひしと伝わってきて、何だったら今晩一杯つきあうよ、的な気分にさせられる。一人寂しいときへの痛みと、女性への復讐心が入り混じっていて、読んでいて心がきりきりとする。
で、この作品の中でひたすら「いいなあ」と思うのは、悪魔の鏡のかけらが心の中に入ると、どんな良いものもその欠点ばかりが大きく見えてしまうという設定だ。
ところで、ディズニーの作品の価値を貶めるつもりはないけれど、原作とは全然違う話に似たタイトルをつけて世界中に広げるのってどうなんだろう。デンマーク人は怒らないんだろうか(「人魚姫」だって原作改変をやってるし……。いや、ディズニーは普通に好きなんですけど、最近こうした異文化の扱いって難しいですし……)
「白熱光」にしようかと思ったのだが、これはエイリアンがニュートンとアインシュタインの物理学を自力で発見していく過程が延々述べられるだけの話で、燃えるけれども物理学の基礎をかじっていないとちっとも面白くないのでやめた。ついでに、彼の欠点として「科学者とエンジニア最高、政治家と宗教家と文学者は役立たずのクズ」という態度を隠そうともしないところがある。要するに理系の俺TUEEE小説なのだ。それに、しょっちゅうヒロインから説教されるし、作者はいったいどういう恋愛経験をしてきたか非常に心配になる。
そうしたえぐみが比較的少ないのがこの短篇集で、最初に読んだ本だから愛着がある。それに、上の隠しきれない欠点にも関わらずイーガンが嫌いになれないのは、科学的な真理に向き合う姿勢と果てしのない好奇心がかっこよく、さらに己に課した厳しい倫理に身が引き締まるからだ。
友人と富士山に登るときに持っていったこともあり、これも自分にとって思い出深い小説だ。これは、大戦後の新しい時代に適応できない英国の執事の物語である。
彼の小説の語り手は基本的には何かを隠していることが多いので、いつも歯に物の挟まった言い方をする。そのうえ、誰もが自分の信念にしがみついているものだから、登場人物同士の会話は勝手な主張のぶつけ合いになり、実のところ会話になっていない。
カズオ・イシグロはそうした気持ちの悪さを楽しむ作家だ。そして、「日の名残り」は自分の本当の気持ちに蓋をして生きている人、やりたいことよりもやるべきことを優先してしまう人に、刺さる作品であるに違いない。
彼の作品は不快だ。主人公のボヤキは原則として次の通り。俺は非モテだから思春期の頃には思いっきりセックスできなかった(2023年10月3日追記。「処女と金銭のやり取りなしでイチャラブできなかった」が近いか?)。中年になって女を金で買えるようになったが、ちっとも楽しくない。子供も老人もみんな大っ嫌いだ、バーカ! これはひどい。
作中に出てくる西欧文明の衰退だのなんだの宗教への逃避だの一見知的に見える議論も、すべて上記の嘆きを補強するためのダシに過ぎない。それでもなお、なぜオススメに入れたのかというと、人をエゴ抜きで愛することの難しさを逆説的に語っているからだ。そして、自分が愛されておらず、必要ともされていないと感じたとき、人間がどれほど孤独とみじめさを感じるかを緻密に描いている。皮肉なことに、これは性と愛について真摯に思考した書物である。
ただ、どの作品も言っていることが大体同じなので何冊も読んではいない。
僕がウルフのことが好きなのは、単純に文章が美しいというだけじゃなくて、迷っている人間の頭の中で浮かぶ複雑な段階が細かいところまでよく見えているからだ。例えば親しい人への憎悪が浮かび、言葉ではそれを否定して見せるが、態度にふとこぼれ出てしまう。そうした過程を子供が貝殻を見つけたときのように、ひとつひとつ並べている。
そして、意識の流れとでもいうのか、ある人物の意識から別の人物の意識へと、外界の描写や連想を経てシームレスに移行していく感じが、本当に巧みな脚本の映画みたいで、やっぱり映画って文学から相当影響を受けてるんじゃないかって勘ぐったりするのだけれど、本当のところどうなのかは知らない。眠る前の自分の意識もふと過去に飛び、すぐに現代に戻り、夢想し、眠りに落ちていく。
「灯台へ」とどっちにするかこれも迷った。
さえない少年が万引きした小説を読んでいると、いつしかその物語の中に取り込まれてしまう。これは主人公が異世界に行き、そこでなりたい自分になるが(まさに公式でチートだ)、その報いとして自分自身が本当は何者であったかをどんどん忘れてしまう。何よりも面白い小説なのに、その小説が現実に向きあう力からではなく現実逃避の手段となることの危険性を訴えている。主人公が万能チート野郎になってになってどんどん嫌な奴になっていく様子は必見。また、後半で主人公を優しく包み込む人物が、私の与えたものは愛でなく、単に私が与えたかったものに過ぎない、という趣旨の台詞を言うシーンがあり、これが作品の中で一番自分の心に残っている台詞だ。
ちなみに子どものころ映画版を見て、原作とは真逆のメッセージのストーリーになっているのにショックを受け、初めて原作破壊行為に対する怒りを覚えた。僕が大人と商業主義を信用しなくなったのはこれ以来かもしれない。
基本的に自分は何かを知ることが好きで、だから知識の物量で殴ってくるタイプの彼の作品も好きである。それでいてユーモアも忘れないところが憎い。フィクションとは何だろう、言葉や文字で物語を語るってそもそもどういうことだろう、そうしたことをちらりと考えたことがあるのなら楽しく読めるはず。「Self reference Engine」で抽象的に触れられていたアイディアが、漢字という具体的な文字によって、具体的な形を与えられている。
元々SFの人だけれども、最近は日本の古典にも守備範囲を広げ始めていて、SFが苦手な人も楽しいと思うし、慣れたらSFにも手を出してほしいとこっそり思っている。
どうしてこれほどあなたを信仰しているのに、手を差し伸べてくれないのですか。せめてささやかな奇跡であなたがいらっしゃるということだけでも示してください。そういう人類が何千年、何万年も悩んできたことについて。神に関しての抽象的な疑問は、具体的な舞台設定を与えないと机上の空論になる。
以前も述べたが、ここに出てくる仲間を裏切ったりすぐに転向したりしてしまう情けないキチジローという人物がとても好きで、彼の「迫害さえなければまっとうなキリシタンとして生きられたのに」という嘆きを、情けないと切り捨てることができない。
ただただ弱くて情けない人物が遠藤周作の作品にはたくさん出てくる。だから好きだ。僕が文学にすがらねばならなかったのは、それなしには自分の弱さ、愚かさ、卑怯さ、臆病さ、ひがみを許せなかったからで、強く正しい主人公たちからは救われなかった。
「男性読者」という名の作中人物が本を買うが、その本には落丁があった。続きを探すために彼は同じ本を手に取った別の読者である「女性読者」を探し求める。彼はいろいろな本を手に取るが、目当ての本は結局見つからない。枠物語の内部に挿入されるつながらない小説の断片は、それだけでも完成度が高く、まるで本当に落丁のある文学全集を読んでいるような楽しみがある。
世界の文学をパロディー化した物語のページをつないで作った「鏡の中の鏡」かと思わされたが、それ以上のものだった。語りの文と物語の関係とは、新作と偽作とは、そんなテーマが物語レベルとメタレベルの二つの層の間で錯綜して語られている。
知的障害者のチャーリー・ゴードンが脳手術で天才になるが、その知性は長続きしなかったという悲劇として知られている。けれども、僕はこれをただの悲劇として読まない。障害者とセックスについて正面から向き合った最も早い作品の一つだからだ。
チャーリーは女性の裸を考えるだけで罪悪感からパニックになってしまう。それは母からの過度な抑圧と体罰が原因だったが、それはチャーリーの妹を彼の性的好奇心から守ろうとするが故の行動だった(チャーリーの母が、周囲からもっと支援を得られていたら、あれほどチャーリーにつらく当たらなくて済んだんではないか、とも思う)。
天才になったチャーリーは恋をし、トラウマを乗り越え、苦労の末に愛する人と結ばれ、やがて元の知的障害者に戻ってしまう。一見すると悲劇だが、彼にはセックスに対する恐怖がもはやなくなっている。彼がただの障害者に戻ってしまったという感想は、その視点が抜けているのではあるまいか。
素晴らしかった。中年の仲良しグループというか、ツイッターでいうクラスタの間を行き交う書簡を通して話が進む。居場所をなくすこと、愛情を失うこと、自分の子供をうまく愛せないこと。そして、友人の死。テーマは深刻だ。なのに、読後感は良い。それは視点が距離を取っているからか、登場人物を公平に扱っているからか、それとも愛を失う/奪われる過程だけじゃなくて、そのあともちゃんと書いているからなのか。長い時間の中で、家族や友人が近づいたり離れたりする感じ、これこそ人生だ、みたいな気持ちになる。
子供の頃、太陽が五十億年も経てば地球を飲み込んでしまうと知って、非常に恐ろしかったのだけれど、それ以来人類の運命について書かれた物語がずっと好きだ(H・G・ウェルズの「タイムマシン」も何度も読んだ)。
人類は滅んでしまうかもしれない。生き延びるかもしれない。しかし、宇宙に出て行った結果、ヒトとは似ても似つかないものになってしまうかもしれない。彼らは人類の何を受け継ぐのだろうか。そして、今しか存在しない自分は、果たしてこの宇宙で意味があるのか。
人類の運命が気になるのと同じくらい、僕はきっと遠くへ行きたいと思っている。だから、ヒトという形から自由になってどこまでも進化していく話に魅了され続けるのだ。
おっさんが飲み会で真実の愛について延々語るだけなので、哲学書の入門編にいいんじゃないかな。楽しそうにしてるおっさんはいいぞ。
どうしてフィクションで人は感動するかについて述べた本の走りで、後半は散逸しているんだけど、カタルシスについてはなるほどなあ、とは思った。作家になりたいんだったら普通にハリウッドの三幕構成の本を買ったほうがいいかもしれないが、この読書リストを読んでいる人は実用的な知識よりも読んでいて楽しいかどうかを求めている気もする。
読もうと思ったまま長い時間が過ぎてしまった本で、まだ読めてない。アウグスティヌスが若いころややりたい放題やっていた時期のことも書いてあるらしいので、宗教書として以外にも楽しめるんじゃないだろうか。
塩野七海がエッセイですごく推していたから読んでみたけれども、普通に面白い。例えば、中途半端に生かしておくと復讐されるから、いっそとどめを刺しておけ、みたいなことが書いてあって、優しいと人から言われてしまう自分には大いに刺激になった。ところで「孫子」もそうだが、戦争や政治学について書かれた本はたいてい「そもそも戦争は大悪手で、戦争になる時点で何かやらかしてる」という趣旨の言葉があり、全くその通りだと思う。
未読なんだけど、結婚とはある種の契約なんだから、まず処女と童貞がお互いに裸を見せ合ってからだ、みたいなディストピア的な描写もあるらしく、ディストピア文学好きの人は楽しめるんじゃないかな。あとは非モテ界隈の人とか。実際、完全な平等な社会を目指そうとするとどっかしら歪みが出るもので、それについて考えるのにも使えそう。
自然科学的な考え方、ロジカルシンキングのマニュアル。長くないのですぐ読める。得るものがあるかどうかはわからないけど、逆に普段している論理的思考がそもそも存在しない時代があったことは、実感しておくと歴史を学ぶ上で面白いかも。
平凡社の上巻を読んで挫折。純粋な理性っていうけれども、ヒトの心にはデフォルトで時間とか空間とかの枠組み、基本的な概念が組み込まれているよね? 的な話をやたら細かく述べていく内容だったように記憶している。長いので三行でまとめたくなる。
この本に限らず、いくつかの哲学書は「この本さえあればあらゆる哲学的論争をおしまいにできる」「この本からあらゆる結論が導き出せる」的なスタンスで書かれたものが多い印象。
エヴァヲタなら読まなきゃという謎の義務感から読んだ本。要は、どうすれば自分を信じることができるか、について語った本であったような気がする。自分は救われないだろうという絶望から、それでも神を信じるという境地に至るまでの道筋を延々と語ったようなものだった、はず。
自分は特定の信仰を持たないが、どうせ自分なんてと己を見捨てた境地から、まあ自分は自分だよね、的な気分に至った経験がある人が読むと楽しめるだろう。
「善悪の彼岸」と「ツァラトゥストラはかく語りき」なら読んだ覚えが。自分はカトリックの中高一貫校出身であったせいか、キリスト教思想にある欠点を指摘したこの本を面白く読んだ。キリスト教になじみがなくても、たとえば来世があると考えることで現在を生きることがおろそかになるといった指摘は、興味深く読めるんじゃないだろうか。あとは、増田で定期的に出てくるルサンチマンがどうこうとかいう話が好きな人にもおすすめ。マッチョぶってるところはあるが。
新潮文庫の「夢判断」「精神分析入門」「トーテムとタブー」「一神教の起源」なら読んだ。フロイト自身はヒトの心を脳から探りたかったらしいのだけれど、当時はMRIやら何やらはまだないので対話式の治療法を導入したらしい。
彼の理論は今となってはツッコミどころがたくさんあるのだろうけれど、クラインだとかビオンとかについて触れるなら頭に入れておきたいし、心理学特にパーソナリティ障害について読むなら知っておきたい。自分はフロイトやアドラーよりもユング派だが。
ラブストーリーの「ナジャ」だけ読んだ。謎めいた女のあるある的な話だ。
「論理哲学論考」だけなら読んだ。これもカントみたいに「俺が哲学のくだらない争い全部終わらせてやる」的な立場で書かれている。定理がずらずら並んでいるだけで、余計な表現がなく、簡素。
ただ、言語の限界について今の人が持っている感覚ってのは大体この時代の人が言っていたことだった気がするし、そういう意味では面白いんじゃないかな。この辺は数学ともかかわっていて、ペアノとかゲーデルとかヒルベルトとかその辺興味があったらいかがでしょう。
ちなみにウィトゲンシュタインがポパーとの議論でキレて火かき棒を振り回したヤバいやつだというのは哲学界隈では有名らしい。
シン・ウルトラマンの予告編でちらっと映っていたので読んだらいいかもしれない。
この本そのものは未読で「悲しき熱帯」ともう一冊なんか専門書を読んだことは覚えている。面白かったエピソードの一つは、ある民族は身分を入れ墨にするんだけど、入れ墨のない人間(白人たち)を見て面食らう。要するに身分証明書を持ってないようなものだから。
定期的に異民族と共に暮らすドキュメンタリーが読みたくなる性分なのだが、それはたぶん、自分のやり方や考え方が絶対じゃないってことをよく教えてくれるからで、これも本を読む効用の一つだろう。趣味なので効用なんて本当はどうでもいいが。
面白い。僕自身のスタンスとしては、日本人が海外で誤解されていることを批判するんだったら、自分も外国に対する偏見や無知を減らそうと努力するのが筋だと思っていて、それの理論的な補強をしてくれた本。身近に外国人の多い環境ではないが、すぐに役に立たないからと言って読まないというのはなんか違うんじゃなかろうか。自分はイスラーム世界やインドについて、どれほどわかっているのだろう?
どっからがいきでどっからが野暮なのか、直方体を使った図があった気がするが忘れた。
「遠野物語」しか読んだことがないし、それも「マヨヒガ」のことしか覚えていない。
自分が現代思想に出てくる名前がわからなすぎて最初に読んだ本の一つ。四コマ漫画だがかなり本質をとらえており、いしいひさいちの本業は何だったのかよくわからなくなる。素直に笑っておきましょう。勉強ってのは楽しみながらするもんだ。
上のリストでは省略した20世紀哲学者が実名で登場するミステリなんだけど、フーコーがサウナで美青年とイチャイチャしたり、七十年代の音楽を聞きながら薬をキメたりしているので、現代思想だのポストモダンだのをかじったことがあるならおすすめ。著者がやりたかったのは、たぶん上の世代の脱神話化というか、強すぎる影響の破壊なんだろうけれども、ここも素直に笑っておくのがいい。
以上。
最近おけけパワー中島とかって話題が流行ってて、承認欲求が満たされないオタクの悲しい叫びが良く見られた。
逆に神が必要以上にヨイショされすぎて悩んでいる増田も見かけた。
でも少ない技量で存在を神に近づける事はできるので、その方法を今から教える。
そのためには、まずSNSで以下のようにふるまう。
「他の作品、カップリング界隈なら他のカップリング についてなるべく触れない。」
「極力日常ツイートも減らす。生身の人間ではなく、偶像であるというように見せかける。」
「フォロワーに分け隔てなく接する。」
「すかさず落ち込んでいる人間が居たら慰め、作品を発表した人間がいたら褒める。」
「綺麗な事しかいわない。」
そうだね、それこそ神の持つ苦悩そのものだ。
ただ逆に言えばそれさえ守れば、ある程度神になれるんだよ。
何かを作るのが下手でも、ひたすら感想を言い続けたり、オフ会の主催をしたりすればいい。
すると勝手に持ち上げられて界隈を掌握できるよ。
神になれないとか、神に近づけなくて困ってる人、こういう風にちゃんとセルフプロデュースしてる?してないでしょ。
あ、神として持ち上げられて困ってる人は逆にいきなり「安倍死ね」みたいなこと言ったらいいよ。
是非お試しあれ。
私はかつて、信じられるものが欲しかった。信じられるものとは何かを考えた時、絶対に正しいことなら信じてもいいと思った。だから、絶対に正しいことを探して物理やら数学やらに取り組んだ。
けれども、計算できる正しさを信じることは何か違った。もっと人間的な何かであり絶対に正しいことこそ信じられるものだと思った。
そんな折、ある小説に出会う。『エンジェル・ハウリング』という全10巻の長い小説だ。この小説はオールドタイプに巻頭詩から始まる。
かつて、地図には空白があり
空白には怪物が潜んでいた
人々は恐れ、すべての空白を知識で埋め尽くした
空白がなくなり
誰もが疑問を失う
知識に満たされ、もはや誰も問わないが
空白はどこへいったのだろう?
怪物はどこへいったのだろう?
御遣いの言葉が
いつかそれを明かすこともあるのかもしれない
この詩がなぜかとても心に刺さった。この小説、最初はとても退屈なのだがもそれでも続けて読む気になったのはこの詩があったからだ。
そして次第にこの物語が語ろうとしていることが分かってきた。これは、信じるものについての話なのだ。だから、絶対的なものについても語られていた。
絶対に信じられるものとは何なのか?それを期待しながら読み進めるうちに違和感に気づいた。この物語は、絶対的なものを否定している。
しかし、信じるものについては私の疑問に答えてくれそうでもあった。ベスポルトという登場人物が語る真っ暗闇の世界の話が私が抱いていた疑問そのものと言ってよかったのだ。
「もしも真っ暗闇の世界で、そこに空気がなく、身動きできないとする。だがそこに、誰かがいる。君もそこにいたとして、その誰かに君のことを気づかせることができると思うかね?」
これは思考実験だ。何も見えず、何も聞こえず、動くこともできない中で誰かに自分のことを気づかせることができるかという問い。そしてこの問いを考えると、一つの疑問に行き着く。ベスポルトは続ける。
「そんな方法はない。だが、それならばそもそも私はどうやってその相手に気づいたのだろう。どうしてその相手がそこにいることを信じているのだろう。相手にわからないのなら、私にだってわからないはずなのに。私が信じているのなら、信じざるを得ないなら、相手もまたきっと自分のことを信じてくれるに違いないと。それを信じることはとても難しい」
そうなのだ。自分が相手の存在を信じているのなら、相手もまた自分の存在を信じているのではないのだろうか?それが疑問だ。でも、それを信じることはとても難しい。この疑問を理解したのなら、それを信じる難しさもまた理解できるはずだ。ベスポルトはこの話を愛についての話だと結んだ。
では、これを信じることは出来るのだろうか?それが出来るのならば、きっと私が探してきた絶対的な何かは必要ないはずなのだ。
結論から言えば、信じることは出来る。結局のところこの物語は、絶対的な何かは無くとも信じることは出来る、それを文庫本10冊をかけて丁寧に誠実に語る話だったのだ。
だから私は満足した。絶対は無い。絶対に正しいことなど無い。けれども信じることは出来る。
なのだから、地図の空白を埋め尽くさなくともよい。空白を、怪物を恐れなくともよい。私たちの世界には、例え地図の空白が埋め尽くされていても、どこかに空白がありどこかに怪物が潜んでいる。無くすことは出来ないはずのそれを無くそうとするのは、絶対を求めるが故に何も信じられない賢者の態度だ。
しかし私たちは隣人を信じることが出来る。信じるに値しないことに思えても信じることは出来る。それは愚者の態度に思えるかもしれないが、それは違う。愚者は疑うことなく信じるが故に信じるに値しないことを信じることは出来ない。
以下駄文。
恋なんて面倒くさい。
恋は嫌いだ。
ただただ鬱陶しくて面倒くさいだけ。
「恋愛感情なんてものは一時の気の迷いなのよ」とは私がこの世で1番好きな作品、涼宮ハルヒの憂鬱に書かれていたセリフだ。
正しいと思ったし、恋愛感情に振り回されて本当にやりたいことをやらなくなった人をたくさん見てしまったために、絶対に恋愛なんてしないと誓った。
両親にも、頼むから結婚とか子孫とか期待しないでくれと伝えたほどだ。
近年、結婚した友人を何組も見てきた。
ただし私にそれは幸せの頂点に見えた。
「結婚はゴールではない」誰もが耳にするお決まりの言葉だが、見てきた結婚式は全てゴールにしか見えなかった。
ゴールしたらその後は?
ゴールした後に目指すものなんてあるのか?
充実しているのか?
趣味を通して繋がった友人たちだが、結婚してからもうしばらく会っていない人たちも多い。
趣味も行っていないのだろうか?
あれだけ本気で取り組んだ時間を置いていくのだろうか?
恋は嫌いだ。
だから私は誰の事も好きにならない。
異性とは距離をおいた。
誤解をされても困るから「好き」という言葉はどんな状況でも異性には言わなかった。
ボディタッチも無し。
お酒の場でも、どれだけ酔っ払っていても徹底して異性との接触を避けた。
恋や愛について人が話しているのを聞くのも嫌になった。
いつしか、人との強い繋がりを全て避け、インターネットに繋がりを見出すようになった。
インターネット上にいる名前も知らない誰かたちは、恋だの愛だの、もっと面倒くさい政治だの宗教だの語らなかった。
ただ永遠に下らない話をして、好きなアニメやゲームの話をして、笑ってるだけで時間が過ぎ去るそんな人たちだった。
しかし、数年経ち、その人たちが恋や愛の話をしていることに気がついた。
書いてないだけで恋をしていたのだ。
恋愛話以外にも、インターネットの発達、万人が使うようになってからというもの、私の理想のインターネットは消え去ってしまった。
インターネットも嫌いになった。
孤独を感じた。
本心の状況とは裏腹に、趣味として行っていた活動は徐々に成功していった。
友人も増えた。
会場での付き合いだけ。
他に遊んだり飲んだりはしない。
そんな選択をした。
正直、嫌になった。
生きてても楽しくないって思う時さえあった。
そんな時に君は現れた。
最初は避けた。
みんなに対して距離を置いていたし、君は異性だ。
しかし徐々に話すうちに、君とずっと喋っていられる気がした。
それはずっと喋りたいという思い、願いにすぐ変わった。
それって恋じゃん。
ある日気が付いた。
声に出した。
涙が出た。
恋なんて面倒くさい。
恋は嫌いだ。
そう言ったはずなのに。
君が別の子と話しているのを見た。
お酒の場だった。
付き合ってはいないはずだが、仲が良さそうだ。
ボディタッチしたな。
知らない人だけど、無性に腹が立った。
同時に焦った。
誰かとこれからすぐ付き合ったら。
嫌だ。それは嫌。
せめて気持ちは伝えておきたい。
すぐに告白をした。
日程を取り付けて、それまでにも何回も会って、いい感じと言っても良かったのかな。
「今は誰とも付き合ったりする気はないから、ちょっと無理かな」
OKではないがそれはつまり暫くしたらOKなのだろうか、いやそれとも肝心な本心を何かはぐらかしているだけか、いやでも何だろうその微妙な表情は、私ではダメな理由が他に何かあるのだろうか、というかつい先週もうこれはいわゆる脈ありみたいな発言あったがあれは何だったのですか。
色んな思いが頭をよぎったが、君の考えを大事にした。
恋なんて面倒くさい。
その後何度も会っているし、これまで通りに喋っている。
機会があれば私が君を好きだと分かる発言もしている。
君が私と共通の友人たちと遊んでいるってツイートを見かけた。そこに私はいない。
私がそこにいないことに苦しくなった。
告白しなければそこに呼ばれたのかな。
そんな考えがずっと繰り返しよぎって悲しくなった。
どうしたらいいのかも分からなくて普段飲まない度数の強いチューハイを飲んで。でも眠れなくて。涙が出て。
恋なんて面倒くさい。
もう断られるのかなって思って来月、2人きりで飲み行くように誘った。
OKだった。
ますます分からなくて、どうすればいいのかも分からなくて、でもチャンスがあるならなんとかしたくて、君にいいよって言われたくて。
恋なんて面倒くさい。
私をこんな思いにさせる君はなんなのだろう。
ひたすらにかき乱されて。
夢にまで君は出てきて。
恋なんて面倒くさい。
こんなに苦しいならやっぱり
恋は嫌いだ。
付き合ったところで、その後どうなるかも分からない。
万が一結婚したらそれはゴールだから、その後何をすれば良いのだろう。
何も前は見えないのに、付き合ってもないのに考えてしまうね。面倒くさいな。
恋なんて面倒くさいよ。
恋なんてしたくないよ。
今も強めの缶チューハイ。
おいしくない。眠れない。
眠りたい。
恋は嫌い。
でも君が好き。