はてなキーワード: 兄弟とは
そもそも出会いが無さすぎてモテるとかモテないとか以前の問題。
男兄弟→男子校→理系大•修士→技術職という人生で周りに女が存在しない。
20代後半の頃に何回か街コン行ったけど、第1希望とマッチングできるのは皆無で第2希望とか第3希望の人としかマッチングできなかった。
ただ、そういう第2希望第3希望の人達って正直俺の好みからいくらかズレるような人達だったので結局1回会ってお互いにサヨナラがほとんどだったな。
こんな人生だし趣味もほとんど金かからないから金は貯まったよね。
40〜45歳には1億円貯まってFIREできるくらい。
子供いらないし、結婚できてもどうせ自分より年収低いだろうから金銭的にメリットないし、離婚して財産分与なんて絶対嫌なので。
そもそも出会いが無さすぎてモテるとかモテないとか以前の問題。
男兄弟→男子校→理系大•修士→技術職という人生で周りに女が存在しない。
20代後半の頃に何回か街コン行ったけど、第1希望とマッチングできるのは皆無で第2希望とか第3希望の人としかマッチングできなかった。
ただ、そういう第2希望第3希望の人達って正直俺の好みからいくらかズレるような人達だったので結局1回会ってお互いにサヨナラがほとんどだったな。
こんな人生だし趣味もほとんど金かからないから金は貯まったよね。
40〜45歳には1億円貯まってFIREできるくらい。
子供いらないし、結婚できてもどうせ自分より年収低いだろうから金銭的にメリットないし、離婚して財産分与なんて絶対嫌なので。
前回の増田の補足。
頭が冷えたら投稿しようと下書きに沈めていて、そのままタイミングを見失っていた。
注意 性虐待に関連する記述があります。フラッシュバック等がある人は注意してください。
前回の下書きが完成して真っ先にしたことは、多数派に不快感を与えそうなワードを削ることだった。話の幅を狭めてでも、固有名詞と具体的な性被害、実際の事件を想起させる表現をなくした。
できるだけ多数派の繊細な部分を刺激しないよう気を遣った。思ったままに書けば、斜め読みで脊髄反射の罵詈雑言を浴びせられて終わる確信があったからだ。
拙い筆力をしぼって敵意を抱かれなさそうな表現を選んだ。
結果的に冗長な記事(この記事もきっとそうなる)になってしまったが、
・小児性犯罪者(チャイルドマレスター)への怒りを転嫁しないでほしい
この3点は伝わる形で表せたのではないかと思う。
が、問題はそこではなかった。読み手が文意を汲もうとしてくれるかは全く別の課題だった。
ただ意見を表明しただけで石を投げられる状況を被差別階級に準えている人がいて、それが実に言い得て妙で暗澹たる思いだった。
わりとムキになる性質の私は、追記でその全てにレスしそうになった。そういうことじゃないんです、と。
しかし、実行すれば被害者面をした異常者の逆ギレだと誹りを受けるのは想像に難くない。
治療しろ・嫌い・差別されても仕方ない・元ペドの知人は大人の女と結婚した・諦めろ・いつか飽きる・矯正できないのか・薬を飲め・首を吊れ・死ね・しね・しねよ……酷いもののうち、いくつかは削除されたようだ。
小児性愛者として名乗り出るのは内心の自由から外れている、だからお前は何も語るなという呆れた話も複数出ていた。
あげく「何が辛いのかわからない」
トラックバックとブックマークに並ぶ、理性を投げ捨てた暴言の数々、これが辛さだ。小児性愛者として生きるのは苦しいと吐露しただけで苛烈な攻撃を受ける。
「生まれてくるな」
小児性愛者も人間だ。好意、交わりたい欲求、実行してしまう衝動性はそれぞれ独立している。少なくとも私は自制できているし、実在児童を襲いたいとも思わない。
もちろん小児性愛者の一部に認知の歪んだ者がいることは否定しない。
では、児童への性加害者が多数属する異性愛者は、おしなべて反社会的なのだろうか。
繰り返すが、「無害な性的指向」の範囲を決定するのは多数派の胸三寸でしかない。多数派の暴力的感情論が少数派の階級を決定している。
ただ、すべての大人は、子を持つ人の警戒と不安を甘んじて受け入れる必要がある(いわれなき中傷は勘弁願いたいが)。
そして加害する大人は外面だけで選別するのが難しい。
セクシュアリティに関係なく下心を持って子供に接触する危険な輩はいるので、みだりに近付く人には注意するに越したことはない。
個人的体験談を語りたい。私に性加害したのは13歳年上の従兄弟だ。小学生の間はたびたび親戚の家に預けられていた。そこで何度も被害に遭った。加害者の従兄弟は現在成人の女性と子をもうけたのち離婚し、別の成人の女性と再婚しているらしい。アイツのせいで私はろくな性体験もないまま性器ヘルペスの保菌者となった。早く死ねばいいと思っている。
従兄弟のような少数の犯罪者が多数の被害者を生み、とばっちりのような形で属性ごと糾弾される苦悩は、小児性愛者でなくとも男性なら多少なりとも共感していただけるのではないか。
私は自分に性加害した人物と同じ括りで異常者扱いされるのは極めて不本意だ。
社会は小児性愛者を抑圧するより先に、チャイルドマレスターの概念の周知と対策について議論すべきではないか。
あなた方は先入観に基づく嫌悪にばかり注目して、問題の根を取り違えている。
気味悪がって疎外する前に、知ろうとしてほしい。
市民権を与えろと言うのではない。奪わないでほしい。
小児性愛者に限らず例え20代にせよある一定の年齢までしか愛せないというの、人間は絶対に歳をとるのに相手が老いたら性愛の対象じゃなくなるのが、自分の欲望ありきで相手を人間扱いしてないように思えてしまう。
「成長」を別の現象に置き換えれば理解してもらえるかもしれない。たとえば「5年付き合うと恋人の性別が変わる呪い」にかかったと想像してほしい。彼女が筋肉バキバキの髭達磨になる。彼氏が小柄で声の高い女性になる。それがきっかけで別れたとして、原因は果たして相手を人間扱いしていなかったからでしょうか、という話だ。
仮に心から好きになって成長したら(学年が変わったら?)好きじゃなくなるのってどういう感情なんだろうって。「◯年生? 無理」みたいなの。
小4以下と書いたのは二次性徴の兆候がある子が少ない時期だからであって、数字そのものにこだわりはない。見た目の問題なのだ。
俺はジブリでいうと宗介やマルクルのような子に特に魅力を感じるのだが、もし宗介が実年齢15歳だったとしても別に冷めはしない。
また、同じ当事者でも、好きになる「発育度合い」にはかなり個人差がある。思春期前期にこそ惹かれる人も少なくない印象だ。
性欲はあるが、並外れて強いわけではないと思う。私はあなた方と同様に自分を律せるので、実在児童を襲うことはない。
だけど性欲をゼロにもできない。だからせめて代替手段を奪わないでくれと繰り返しているのだ。なにも大手を振って通りを歩かせろというのではない。
自分でもわからない。根っからのペドが偶然被害に遭っただけかもしれないし。
純粋に、小児性愛であるという自覚をどう持ったかが知りたい。可愛いと感じる気持ちと性欲がどこでどう結びついたのか、そこにしか性欲が湧かないと自覚したのはいつなのかが気になる
本格的に目覚めた時期は中学生ぐらいだったが、それ以前から年下が好きなことには薄々気付いていた。
きっかけはネットで小さい子のスナップ写真やイラストを見てめちゃくちゃ可愛いくて興奮したことだと思う、たぶん。それからはネットで色々なものを漁った。
当時は規制が緩く、幼児も出演しているイメージビデオのシリーズ(※1)(※2)(※3)が普通に転がっていたりして、それを観る頃にはもうはっきりと「小さい子が好きだ」と自覚していた。
奇妙な話だが、私は児童そのものに惹かれると同時に、自分が児童になりたい気持ちが常にどこかにある。子供が可愛くて、もう自分がこれになってしまいたい。
小4ぐらいになって性的なことをしたいし、されたい。
なぜかこの願望は性虐待の記憶に干渉せず、虐待者への憎しみからは独立している。
※1 コンテンツが小児性愛を助長したという話ではない。遅かれ早かれ、どのみち私はこうなっていた。
※2 当記事は児童が出演する性的コンテンツを肯定するものではない。
※3 わかる人にはすぐわかるだろうがコメントに書かないように。
特に男性は肉欲と愛欲の距離が密接だから混同しがちだけど、誰かを愛してたり愛されたいんじゃなくて、一方的な欲望の捌け口にしているようにしているように見えるんだが…。異性愛でも同性愛でもそれはだめだよね?
愛し愛される関係には憧れる。しかしどうアプローチしたって、パワーバランスが極端に偏っている限り健全な関係は築けないし、相手の将来を思うと可哀想だ。だから何も望むべきではないと考えている。
口約束のみの交際なら、成長を待つまでもなく子供の気が変わって終わるだろう(※4)。
「シコるオカズが入手できない」ことを「生きるのが辛い」とまで言うのが理解できない。少なくとも、「パートナーとの関係を社会的に認めてもらえない」というLBGTの人の苦しみと同列に語れるものではないと思う。
「パートナーとの関係を社会的に認めてもらえないどころか、パートナーを作ることすら不可能でシコるオカズまでボコられる」という悩みはLGBTとは同列に語れないよな、確かに。
ゲイかつペドフィルかつ小児性被害経験者の俺としては、「ゲイはいいけどペドはダメ」という言説のあまりの多さに、己が分裂していくような思いがしますね。あーはいはい死ねばいいんでしょ、ぐらいの自棄さえ。
共感する。このコメントを読めただけで前回の増田を書いてよかったと思えた。
欧米なら2次表現も単純所持で刑事罰だったような?そういう意味では日本は大分恵まれてる?と思うが、何が生きるのは辛いんだろうか?
“欧米なら2次表現も単純所持で刑事罰だったような?”これが怖い。いつか欧米に右倣えで日本がそうなるかもしれないという不安が拭えない。
正直に言えば、どこか残念でありほっとしている。
※
対馬市長は先日、最終処分場への文献調査候補地として、応募しない旨の宣言をした。
もともと、核廃棄物の処分場はもう十五年くらい前から誘致をしてはどうかという動きがあったのだ。当時は調査を受け入れるだけで10億円が支払われると言われていた。
しかし、前市長はこれをバッサリと切り捨てた。このときは市民運動というほどでもない、変わり者が少数でわめいていただけだったので、それですっかり火は消えてしまった。その後、前市長の後継を取った現市長が就任。
二期目の市長選では対抗馬として核廃棄物処分場の誘致を謳う候補が立候補したものの大差で現市長が当選したのである。
ただし、この時の対立候補は対馬となんの関係もない大阪の右翼活動家で刑務所服役復帰戦のような様相があり、本気で当選する気はなかったと思われる。
いずれにせよ、現市長は『最終処分場誘致派を下しての当選』という事実を得てしまった。実際は堅実な市政への評価と、なにものともしれない右翼活動家への嫌悪もだいぶんあったのだけど。
※
しかし、原子力に関するどこかの組織に旅費を全部出して貰って、どこかを視察してきたらしい。
日本に最終処分場などないのに、何を見てきたものか。酒宴などの歓待を受けたのか否か。日当や土産代などの現金を受け取ったのか。
それもしらない。
もしかしたら、貧しい旅行で勉強だけして帰ってきた可能性もある。
それでも旅費を利益関係者に出させたというのはいかにもまずかったのではなかろうか。議会でも反対派議員から突っ込まれていたし、それはそれとして今後揉めるかもしれない。
とにもかくにも、議会で正式な議題として『処分場の誘致』が上がってしまったのは事実である。もちろん、誰だって別に核廃棄物や処分場が欲しい訳ではない。それに伴ってついてくる金が欲しいのだ。
その額たるや、文献調査を受け入れるだけで20億円。
ざっと検索したところ、対馬市の年度支出額はおよそ250億円程度であることがわかる。
すでに文献調査受け入れを表明している北海道の寿都町の年間予算規模が60億円ちょい、神恵内村に至っては20億以下だ。
これが500億円とかなら、もっとグッと賛成に傾いたかもしれないが、提示額がいかにもしょっぱすぎる。
中には「文献調査だけやって20億を貰い、本格的な設置は断ればいい」と堂々と言うものもいたが、それで国から怒られるくらいなら最初から応募しない方が市長としても、市役所としてもいいだろう。
なんせ、国境離島として国から沢山の税金を貰ってどうにか回しているのだ。国の機嫌というのは、往々にして自治体を殺すことがある。
つまり、20億円があまり見合っていない気がする問題があるのだ。
だから推進派がいくら勢いを出しても、反対派を黙らせることはできない。
なんせしょっぱいのだ。
20億あればあれもこれも、とはならない。少なくとも市民に実感のある使い方は全くできないで消える金額でしかないのだ。
さらに、対馬は住民の半分くらいが水産か観光で飯を食っている島だ。
この人たちの家業にはマイナス補正がついて回る。なんせ、処分場や核廃棄物と記念写真をとりたい。推したい、みたいな変わり者はとても少なそうだ。最大限、好意的にみて「気にしない」。最悪「対馬産の物は徹底的に避ける」人が出てくる。実際はその間のグラデーションのどこかに皆が分布される。
逆に、仕事の恩恵を受けそうな土木業者も兄弟なり親戚、友人などの近しい者がかならずそういった職に就いている。
だから、みんな微妙なのである。推進派議員はあまり勢いが出せない。
対して、反対派議員は誰はばかることなく大声で反対運動を展開する。
それに伴って、推進派議員が「心ない言葉を投げかけられたので、市民を訴える」だのワケのわからない展開に発展したのだが、それは横枝だ。
対馬という島は歴史的に、ずっと国家中央の差し出す意向を飲んだり誤魔化したりして過ごしてきたのだ。騙したことは沢山あるが、面と向かって国家に反逆したことはないし、大きい島には必ずついて回る独立運動も皆無である。
推進派議員も熱心に燃えさかり続ける老婆などがいたが、全体的にはトーンダウンしていき、最終的な採決では賛成10、反対8で決定した。
※
『核廃棄物の最終処分場として、文献調査の受け入れを進める』のが議会の結論となった。
『意見書提出権にもとづいた市長への、議会としての意見の提出』であったわけだ。
実のところ、市議会でどう決定しようとそれは、『市議会としてはこう思っていますよ』という枠をはみ出ないのだ。
もちろん、市政というものは市民の為に行われるものであり、市民を代表する市議会の意見というのはかなり重要な物だし、常に尊重されている。たいていの場合においてはそのまま通る。
それでも対馬市長はこれを突っぱねた。
理由として、風評被害がすでに起きかけていること。市役所に様々なところから苦情の連絡があっているらしい。
そして、観光や水産業が年に200億円近い経済規模を持っている点。風評被害で一割売り上げが減れば、それで20億の交付金は吹き飛んでしまう計算になることを上げ、最後に住民の合意形成がなされていないと告げた。
確かに現状で推進派と反対派が分かれているのなら、当然まずは見送ってみるというのは一般的な判断だろう。
もっとワンサイドに推進へ傾けばともかく、議会でさえ半分に近い票が反対だったのだ。仮に市民の半数が内心的反対者なら、市長の経緯と立場から現状維持が当然だと思う。
利益を得る者は一部で、大勢が不利益を被る危険があるのだから。
これは、まあ逆に言えば市民がもっとずっと大勢賛成して誰も反対など言えないほどの金額が約束されるのなら受け入れに傾いていた可能性は高かろう。
対馬といえば小さな離島と思われがちだが、長崎県の面積の2割以上は対馬が占める。案外にデカいのだ。経済規模もそれなりにデカいし、特産品もある。マグロやアナゴは景気も良い。
分散した20億円の余波など個人にはいくらも入らない。今時は田舎の集会所を建て替えるのにも一億円がかかる時代だ。
もっと、もっと巨大な、皆が涎をたらして狂う対価が必要だったのだ。
そうして、それが提示されない以上、対馬市には縁がなかった。保守的な田舎の住民が変化を突きつけられて、ストレスに耐えられなかったというのもある。
個人的には、誘致が決まればいち早くニューモに手紙を送るなどして、自分の山を買わないかアピールするつもりだったが、土地成金の夢はあっという間に醒めてしまった。
はじめましての場で「私人見知りなんです」と自己紹介されることが時たまあるのだけど、その翻訳がいまだに出来ない。
なのか、
「人見知りなんで、あなたにも人見知り発揮してます。あまり話しかけないで」
なのか
「人見知りなんで、多くの人とは話せないから、自己紹介できたあなたとゆっくり話をしたい」なのか、、。
人類皆兄弟!って本気で何の抵抗もなくコミュニケーション取れる人って少ないと思ってるんだよね。。
それでもみんなコミュニケーション頑張るわけで。。
なので、人見知りカードをドーンと出されると、拒否感強くて、hp削られるようで、太刀打ちできない。
いつも「はじめましてって緊張しますよね」と共感できる部分を伝えて、そそくさとその場を離れてしまう。
何が正解なの、、、。
元増田です。何度も出てきてすみません。慰謝料について、進展がありまし..
後日談読ませていただきました。
何度でも出てきて良いんですよ。鬱陶しいと思う人も居るかもしれないけれど、貴方の話を興味を持って聞いている人もいるのですから。例えば私とか。
ご家族と相談し、相手の所に行き婚約を解消したとの話、お疲れ様です。
結果的に良い方向に進んだのではないかと読んでいて思いました。
「お見合い結婚=愛の無い結婚」ではないし、「お見合い結婚=断れないもの」でも有りません。
私の知り合いにもお見合い結婚した人が居ますが、一人だけでなく、何人もの人とお見合いをしています。
基本的に、一回~三回会って「この人とはSEXできないな」と思ったらお見合いをそこで打ち切って次の人とのお見合いに進むという形でした。
女性にとってSEXはとても大切なものです。
それは地球上に生命が誕生した時から定められた、子孫を残していくという行為であり(中略)だからこそ、女性がSEXの相手を慎重に選ぶ事に問題は有りません。
23歳なんてまだ人としては、言っては失礼ですが若いです。4年制大学に通っていた人なら、22歳で大学を卒業し、23歳なんて社会人1年目か2年目です。
まだ、親に過度にならない程度なら甘えて良い年齢なんですよ。
23歳なんて、親の前で泣いたって何にも恥ずかしくは有りません。
慰謝料とか裁判とかの話ですが、相手方が余程おかしな家でもなければ多分無いと断言できます。
ただ、既に結納まで済ませていたとの事なので結納金の返済等は必要になると思いますが、
それは、結納金に手を付けていなければ、渡されていた結納金に少し(10万程でしょうか)色を付けて返せば良い話です。
やばい女ではありません。
貴方が「この人とはSEXできないな」と思ったのは女性として当たり前の事です。
おそらく、貴方は今まで本物の恋を、本物の恋愛を経験した事が無いのでしょう。
23歳ぐらいなら、本物の恋や本物の恋愛を経験した事が無い女性なんて世の中、たくさんいます。
きっと貴方がお見合い相手にたいして持ったSEXはしたくないけれど一緒にいたいという感情は
父親に対して感じる「親愛」か、兄等に対して感じる「兄弟愛」の様な物なのだと思います。
「親愛」や「兄弟愛」が恋愛感情とどう違うかは、きっと、本当の「恋」と、本当の「愛」を知った時に自然と解ると思います。
最近では女性は30代(30歳)の内に結婚出来れば充分だとも言います。
焦らず落ち着いて、ゆっくりと、仕事等を通じて様々な人と知り合い、その中で
「この人とSEXしたい」と思える人をゆっくり見つけていけば良いのです。
「この人とSEXしたい」と思える人が見つかった時、それが恋愛感情というものがどういうものか解る時です。
焦らず落ち着いて、ゆっくりと、悪い人に騙されない様に気を付けながら、今は一歩ずつ進んでいく事を考えてください。
貴方は若いのです。あと20年以内に結婚出来ればいいや、ぐらいの考えで生きていけば良いのです。
そりゃ辛いねー。でもそれはたまたま向こうの兄弟事情で奥さんが負担無くても何とかなりそうってだけで、こっちはお姉様と増田氏でなんとかするしかないんだから、状況が違うってことを合わせて言うしかないのでは。
・続編なの知らなかった
・予告で初めて悪役じゃないファン・ジョンミン観て俳優さんってすげえや!ってなった
・デコボコ個性の男捜査官3人が力を合わせて事件解決!ものかと思ったら終盤まで各々の組織の思惑を隠しつつ接してて腹割り100%!俺らマブ兄弟!ものとはちょっと違うやつだなこれ…ってなった
・爆発は…男のコ同士のキヅナを深めるの…ッな爆発シーン
・兄貴、前半お肌ツヤッツヤだ…
・ゆとり社員?の退勤への熱意草 どこの国もこんな感じなんや…
・ロシア将校?のくだりは流石に無理があるだろ!!と思ったけど「まあ俳優さん映画だし…」と言い聞かせた
・近接戦アクションみんな一緒に見えてしまうので終盤ちょっと眠かった なんでこの映画観ようと思ったの?→二次創作の参考になると思うて…
・家庭の女性陣、みなとても美しき…美しすぎるだろ!こんなド美人と結婚できる兄貴、すごすぎる
これはメイクアップYouTuberで余裕で生きていける 「俺が歩く捜査令状だ!」「エースが来た!」のとこ、実写作品あるある顔面偏差値インフレのラインが分からなくなった クラブでエースはれるってことは「超顔がいい」という前提認識でいてええんやね…?ってなった
・お姉さん、最後よかったね!ってなった
・配信でもいいっちゃいいけど最近映画館で観る判定がガバガバだから観るという判断をした
・僕はジョン君派!
兄弟といった近しい関係だからこそ同じような髪型や髭でお互い誤認されるような服装は避けて
遠くの国の別人であればそれぞれが流行に合わせた同じファッションをそれぞれ採用して結果似た容姿になることはあるんじゃないかな
人間の顔が見分けらんないの?
じゃあ、なんで英国王ジョージ五世と、ロシア皇帝ニコライ二世は、側近でさえ見分けが付かないほど似てたの?
髭や髪形まで全く同じなのは何で?
ジョージ五世の弟のアルバート・ヴィクターも、なんでヘッセンカッセル伯フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセンにそっくりなの?
とか、子供の人数に関する議論(子育て、教育方針など)を通じて、子供に関する考え方をヒアリングしてみれば、ある程度参考情報を引き出せると思います。
セックスレスについて聞き出すトーク(台本)を考えて、聞き出すしかないですね。
例の婚活増田の話題を利用させてもらって、「結婚してもセックスはしたくないという考え方の女性がネットで話題になっていたけど、そういう女性って結構多いのかな?」と話しを振ってみると。
昨今、LGBTQなど、性にまつわる多様性や人間関係の話題が多いので、そういった話題を導入として利用して、セックスレスの話題も会話に入れてみれば、ある程度聞き出せるかも?
いやもう子ども作れないしやっぱり従兄弟とかさ経験のある協力者必要だし
作れてもこんな状況で育てられないし二十歳まで大きくしてあげれないしあともうわたし死ぬだけだし情報持ってても仕方ないんよな
そもそも出会いが無さすぎてモテるとかモテないとか以前の問題。
男兄弟→男子校→理系大•修士→技術職という人生で周りに女が存在しない。
20代後半の頃に何回か街コン行ったけど、第1希望とマッチングできるのは皆無で第2希望とか第3希望の人としかマッチングできなかった。
ただ、そういう第2希望第3希望の人達って正直俺の好みからいくらかズレるような人達だったので結局1回会ってお互いにサヨナラがほとんどだったな。
こんな人生だし趣味もほとんど金かからないから金は貯まったよね。
40〜45歳には1億円貯まってFIREできるくらい。
子供いらないし、結婚できてもどうせ自分より年収低いだろうから金銭的にメリットないし、離婚して財産分与なんて絶対嫌なので。
オナラをするたび夫に「も~!汚い!」と言われる。
他人に屁をこかれるのも、他人の前で屁をこくのも嫌だけど、家族なら別によくない?というのが私の考え。自分の家でくらい自由にオナラをしたい。
人前でオナラをすべきではないことは物心ついた頃には理解していたし、両親は私に家の中では好き勝手屁をこかせてくれていた。
あまりにも豪快な屁を5連発くらいすると苦笑いされたが、過剰に反応されたことはなかった。私以外の家族も自由に屁をこいていた。
母はさすがに私ほど好き勝手ブゥブゥ言わせてなかったが、それでもぷすぅ~くらいの控えめな屁をしている姿はよく見かけた。父も兄弟も特に悪びれることなく気持ちよく放屁していた。犬も時々オナラをしてはその音に自分でびっくりしていた。猫はあんまりオナラをしなかった。
今の夫となる人と付き合い始めた頃、当然最初のうちはオナラなどしなかった。
彼も「君の前でオナラするの恥ずかしい…」と初心ぶって屁は控えていた。
まあそれも半年もしないうちに徐々に彼がオナラを解禁していったので、私もいいか~と自由放屁運動の流れに乗じた。
私は夫が目の前でオナラをしても特に反応はしない。とんでもなく臭ければ「臭い~!」と言ったりはするが、夫自身の方が「臭い臭い」と騒ぎ立てて換気したりする。
夫は自分のこく屁にもうるさいが、私がこく屁には毎回「もー!汚い!臭い~!」といちいち反応する。
屁というものはそんなに毎度毎度筆舌に尽くしがたいほど臭いわけではない。無臭の屁もあろう。大して臭くない時でも「汚い!」と騒ぐ。
私の下半身が分厚い布団に入っている状態で屁をこいて、ほとんど匂いは漏れてこないはずなのに、夫はわざっわざ距離を取ってあまつさえ扇風機までまわしはじめる。(夫は同じ布団には入っておらず隣にいるだけなので、布団の中で私の屁と同梱されているわけでもない)
夫も屁をするなと禁止してくるわけでもないし、怒るといってもおふざけ程度の言い方ではあるのだが、こうも毎回反応されると正直面倒くさい。屁だけに。
特大ホームランを放った時だけスクープしてくれればいいのに、バントでもいちいち号外を出されてる気分だ。野球知らんけど。
何故夫はここまで屁に過敏に反応するのかを知るべく、
夫の生家では家族の放屁活動はどのように行われていたのかを聞いた。
父親と夫は自由にオナラをしていたが母親と妹の放屁音は聞いたことがないという。また、父親や夫がオナラをするたび母親に注意されたらしい。
放屁の自由がない家庭で育ったがために夫は屁に不寛容になり過敏に反応するわけだ。
夫自身も母親に注意されるたび、「オナラくらいで」と思っていたのに、いざ自分で家庭を築き、そこに屁を取り締まる人物がいないと不安になってしまっての放屁注意委員会だったと言うわけか。そう言えば私も「鏡は表向きに放置してはいけない!」と実家で母に注意されるたびめんどくせぇ〜と思っていたが、実家を出てからは自主的に鏡は裏向きに置くよう心がけるようになったな。
更には夫の生家では女性で屁をする者はいないため、私に強く当たっているというのもあるのだろう。
だからこそ私は強く、自分の家庭内での男女放屁均衡法を訴えていく決意をした。
皆さんはご家庭でどのように屁をしてお過ごしでしょうか。
ここに欠けているのは、人類の進化についての真の理解である。第3章で、G&Wは、人類学の主流派のコンセンサスとされる、現存するアフリカの狩猟採集民-「小さな移動集団」で生活する素朴な民-に私たちの採食祖先をなぞらえたことを批判している。そして第4章で、彼らは考えを変える。人類学の主流派のコンセンサスとは、オーストラリアのアボリジニのような狩猟採集民のことである:
大陸を半周し、まったく異なる言語を話す人々の間を移動しても、キャンプは自国と同じようなトーテムの部族に分かれている。このことが意味するのは、住民の半分は彼らに歓待の義務を負いながらも「兄弟」「姉妹」として扱わなければならず(そのため性的関係は厳禁だった)、もう半分は潜在的な敵であると同時に結婚相手でもあったということだ。
ルイス・ヘンリー・モーガン(1877年)は、いわゆる「分類的」親族関係の発見に基づいて、私たちの学問分野を創設した。その原理は「兄弟の同等性」として要約できる。たとえば2人の兄弟は、その関係性に関して互いに相手の立場に立つ。ある女性は妹に、『あなたの子どもは私のもの、私の子どもはあなたのもの』と言うでしょう。だから、子供に関して『私有財産』という概念はない。家族生活は『核家族』ではない。すべての子どもは、数多くの異なる「母親」や他の支援者である親族の間を自由に行き来することができ、大人になるまでそのような自由を享受し続ける。
人生がこのように構成されるとき、その結果は並外れたものとなる。誰もが、広大な地域に広がるつながりの鎖の中で、形式的には互いに同等に扱われる「兄弟」や「姉妹」からのもてなしを期待できる。この結果のひとつは、国家が成長する土壌を持たないということだ。人々が自主的に組織化され、互いに同盟を結び、育児やセックス、ダンス、家庭生活の喜びがより共同的に経験されるようになれば、国家が入り込んで埋めるべきデッドスペース、つまり社会的空白はなくなる。国家に取って代わることなく国家を廃止することはできず、共同体的な家族生活(今日の世界では、自己組織化された近隣地域やその他のより広いコミュニティ)は、そのためのひとつの方法なのである。
不思議なことに、グレーバーとウェングローはその長い著書の中で、親族関係についてほとんど何も語っていない。グレーバーとウェングローは、モルガン=エンゲルスのパラダイムを批判する代わりに、『家族、私有財産、国家の起源』(エンゲルス1972[1884])におけるエンゲルスのヴィジョンをひっくり返している。彼らの言う「はじめにあったもの」は、私有財産、宗教、そして国家である。第4章の結びの言葉を引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの観念と同じくらい古いものであり、おそらく人類そのものと同じくらい古いものであろう」。マーシャル・サーリンズとの共著『王について』(2017年)では、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威を行使してきたのだから、国家の原理は人間の条件の不動の特徴であるとさえグレバーは示唆している。
アナーキストが私有財産と国家の必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、『万物の黎明』はそのメッセージに重みを加えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。個人的には、すでに燃え尽きようとしている惑星に、どのような「飛び地」があるのか想像するのは難しい。グレーバーとウェングローは、「もうひとつの世界は可能だ」という革命的スローガンを放棄したようだ。代わりに彼らが提示するのは、「階層と平等は、互いに補完しあうものとして、ともに出現する傾向がある」という悲痛なメッセージだけである(p.208)。(p.208)彼らは、どこか別の場所で抑圧を受け入れなければ、ある場所で自由を手に入れることはできないと言っているようだ。
このような批判はあるが、本書の重要な点は、振動を提唱していることである。すべての生物には脈動がある。生きては死に、目覚め、眠り、息を吸っては吐き、季節の移り変わりや、私たちの生命に優しい地球・太陽・月の軌道系のその他多くの周期性によって動かされているのだ。
私たちは、物理的にだけでなく、社会的にも政治的にも、惑星地球をもう一度回転させる必要がある。これは、人々に配慮と支配や統制を混同するなと言うことでできることではない。それは、学校のストライキを支援し、そのピケラインで歌い、職場まで行動を広げ、通りで踊り、交通を遮断し、資本主義を完全に停止させることによってなされるのだ。
しかし、いったん主導権を握ったら、次はどうするのか?ストライキが長引けば、すぐに飢餓に陥る。だから、揺り動かそう。例えば、週1回の学校ストライキをもっと長くし、月に1回実施し、賃金奴隷から全人類を解放するまで世界中に広げよう。炭素排出量は即座に50%削減される。それから仕事に戻り、必要に応じて再編成する。資本主義に逆戻りしないと確信できて初めて、仕事に戻るリスクを冒すことができる。そして、次の新月には子どもたちとともにピケラインに戻ると誓い合って初めて、それを確信できるのだ。世界が再び揺れ動き、息を吹き返すまで、私たちは権力を奪い、それを放棄し続けるのだ。未来を取り戻そう。家父長制でも母系制でもなく、月による支配のようなものを。
それは、最初の人類革命の階級とジェンダーの力学を、今度はより高い次元で繰り返すことだ。このようなことは可能なのだろうか?みんなに議論を開いて、何ができるか見てみよう。それはきっと、活動家であり人類学者であるデイヴィッド・グレーバーが望んだことだろう。
G&Wは、私有財産は宗教と不可分であるため、根源的なものだと主張する。その例として、先住民の伝統的な儀式で使われるトランペットやその他の道具を挙げている:
このような神聖なものは、多くの場合、存在する唯一の重要かつ排他的な財産形態である......神聖な文脈に厳密に限定されるのは、命令関係だけではない......絶対的な、つまり今日でいうところの『私的』財産も同様である。このような社会では、私有財産の概念と聖なるものの概念には、形式的に深い類似性があることが判明する。どちらも本質的には排除の構造なのである。(p. 159)
ここで「絶対的なもの」が「私的なもの」と訳されていることに注目してほしい。祭祀財産が「絶対的」な程度に神聖であるならば、それは定義上「私有財産」として適格である、という主張のようだ。
この混同は、著者が宗教と私有財産の関連付けに権威を求めているときに強化される。この時点でG&W(p.159)は、エミール・デュルケムの「聖なるもの」という古典的な定義を持ち出している:
デュルケムは、聖なるものの最も明確な表現は、ポリネシア語で「触れてはならない」を意味するタブーであると主張した。しかし、私たちが絶対的な私有財産について語るとき、その根底にある論理と社会的効果において、非常によく似たもの、実際にはほとんど同じものについて語っているのではないだろうか。
そして著者は、アマゾンの原住民と仕事をする民族学者たちが、「湖や山から栽培種、リアーナ林、動物に至るまで、彼らの周りにあるほとんどすべてのものには所有者がいる、あるいは潜在的に所有できる可能性がある」(p.161)ことを発見したと述べている。ある種や資源に対する霊的存在の神聖な所有権は、その種や資源を他の世界とは一線を画すものである。同じような理屈が、西洋の私有財産の概念を支えているとG&Wは書いている。もしあなたが車を所有しているならば、あなたは全世界の誰であろうと、そこに立ち入ったり使用したりすることを妨げる権利がある」(p.159)と彼らは説明する。
G&Wが、精神的な「所有権」についての伝統的な概念と、自分の車を所有することについての考えを混同しているのを見つけるのは、非常に息を呑むようなことである。現代の私的所有権を、超自然的存在による天然資源の「所有権」と、その「根底にある論理と社会的効果」において「ほとんど同じ」とみなす彼らは、いったいどこの世界にいるのだろうか?
先住民の活動家たちが、湖や山は強力な精霊にとって神聖なものだと語るとき、彼らは「私有財産」に等しいものを支持しているわけではない。もし「偉大なる精霊」が森を所有しているのであれば、その森は売り物ではなく、私有化されるものでもなく、伐採会社に所有権を主張されるものでもないという明確な含意がある。
デュルケムの洞察の中で最も強力なもののひとつは、人々が神性を呼び起こすとき、そのコミュニティ全体の道徳的な力を想定しているということである。つまり、ある山が神のものであるならば、それは私有化できないと宣言していることになる。G&Wがそれを逆手に取り、「私有財産」という概念は、あるものが神聖であるという考え方そのものと不可分に生まれたものだと主張するとき、これがいかに粗雑な間違った表現であるかがわかるだろう。
デュルケム(1965年)にとって、「分離」は私的流用のアンチテーゼであった。近親相姦に対する世界的な文化的タブーの起源を説明するために、彼は「ある種の隔離的な力、つまり男性的な集団を遠ざける力を女性に持たせている」(1965: 72)という伝統的な信仰を当惑させた。デュルケムは、このような信念体系において、女性の隔離する力は血の力であり、聖なるものの概念と密接に結びついていると書いている。女性が血を流すと神性が目に見えるようになるとすれば、それは女性の血そのものが神であるからである。血が尽きるとき、神はこぼれ落ちる」(Durkheim 1965: 89)。
デュルケムにとって、「分離」という原初的な概念は、私有財産とは何の関係もなかった。問題は、成人した若い女性に何が起こるかということだった(1965: 68-96)。月経が始まると、彼女の親族は、彼女の所有権を主張するために、つまり彼女を「入門」させるために、体として集まり、彼女を男性との付き合いからも世間からも隔離した。彼女の隔離は、特別な儀式である成人式によって達成された。これにより、彼女の身体は神聖なものであり、それに関する彼女の選択は、姉妹や他の親族に対して説明責任があることが確立された。デュルケムにとって、このような集団的行為と関連して、人間の意識、言語、文化の出現は、共同体という新しい種類の権威が初めて誕生した時点であった。
もしG&Wが現代の進化科学に関心を示していたなら、こうしたデュルケーム的洞察が、血のように赤い黄土色が、男性に女性の肉体が神聖なものであることを新たに認識させるために、女性によって化粧用の「戦化粧品」として使用されたという考えに基づく、人類の進化における黄土色の記録に関する最も新しく権威ある現代の考古学的説明を、いかに先取りしていたかを認識できただろう(Watts 2014, Power 2019, Power et al.)
さて、『万物の黎明』の中心的なアイデアにたどり着いた。それは、私たちはかつて皆自由であり、生き方を選ぶことができたからである。
人類学を学んだことのある人なら、エスキモーのアザラシ猟師たちが伝統的に冬の間は性的共産主義を実践し、夏の間は家父長制的な家族生活に切り替わる。G&Wは、この振り子あるいは振動モデルをヨーロッパ後期旧石器時代の氷河期文化に適用し、これらの複雑な狩猟採集民は、エリート特権と権力の垂直階層を意図的に築き上げ、古い季節が新しい季節に移り変わるときに、それらをすべて取り壊す喜びを享受していたと論じている。
この革命を大いに楽しんだからこそ、氷河期の天才政治家たちは、革命で得たものに永久にしがみついていてはいけないことに気づいたのだ。彼らは、連続する革命を楽しみ続けるためには、その間を一過性の反革命で埋めなければならないことを理解していた。次の革命的高揚のための格好の標的を提示するために、「特別な」個人が支配力を確立するのを許すことによって、そうするのである。
私はこの考えが大好きだ。偶然にも、30年前に『血の関係』が出版されて以来(ナイト1991年)、私たち急進人類学グループが狩猟採集民の平等主義の奥義として分析してきた振動原理と酷似している。一方、私の振動モデルはまったく同じではなかった。というのも、私たちは亜北極圏ではなくアフリカで進化したのだから、季節的なリズムよりも月ごとの周期性が優先されるべき十分な生態学的理由があったのだ。つまり、G&Wが想像したような方法で権力が掌握され、明け渡されたのであれば、社会生活は月の満ち欠けと連動する月周期でひっくり返されたことになる(Knight 1991: 327-373)。
G&Wの歴史は、狩猟採集民の対立と交替に満ちているが、その周期性は一方的な季節性である。狩猟採集民は太陽だけでなく月にも従うことを彼らは知らないのだろうか?彼らの最も重要な儀式は、女性の月経の満ち欠けと結びついており、月によって予定されている。
コンゴの熱帯雨林では、女性たちは男性に勇気と潜在的な支配力を示すよう意図的に促すが、ンゴクと呼ばれる女性だけの儀式では、男女間の「権力の振り子」で遊び半分に降伏する前に男性に反抗する。G&W (pp. 114-15)はこのことに言及しているが、その後に次のように主張している:
単一のパターンはない。唯一の一貫した現象は、交代という事実そのものと、その結果としてのさまざまな社会的可能性の認識である。このことから確認できるのは、「社会的不平等の起源」を探すことは、本当に間違った問いを立てているということである。
もし人類が、その歴史の大半を通じて、異なる社会的配置の間を流動的に行き来し、定期的に階層を組み立てては解体してきたのだとしたら、本当の疑問は「なぜ行き詰まったのか」ということかもしれない。
この最後の質問は実に深いものである。しかし、この問いに答えるには、以前はどのような状況であったのか、ある程度現実的な認識を深めてからでなければならない。私たちの先史時代の祖先が、本当に自由で、本当に「身動きがとれなかった」時代があっただろうか?
中央アフリカの森の民バヤカでは、月は「女性の最大の夫」と言われている(Lewis 2008)。どの男性の立場から見ても、妻は血を流すたびに、事実上、天国の夫のために彼を捨てることになる。この古代の比喩(Knight and Lewis 2017)の背後にある現実は、女性が月のある期間、遊び半分で「権力を掌握」した後、自分の主張が通れば進んで男性に譲るという伝統であり、Finnegan(2008)が「動く共産主義」と呼ぶものが確立している。このような社会における親族関係と居住のパターンは、月経と排卵、兄弟と恋人、親族関係と結婚、共同体の連帯とセックスの親密さの間で揺れ動く振り子を設定する。
このようなパターンが古代から存在した可能性が高いことを考えれば、G&Wが政治的な揺れに対するある種のブロックを、歴史の過程で実際に起こったこととみなすのは正しい。しかし、そのブロックを説明するには、G&Wが触れようとしないトピックを扱う必要がある。それは、月経をめぐる先住民の慣習に敬意を持ってアプローチすることを意味する(Knight 1991.)また、親族関係のパターンや結婚後の住居の多様性を理解することも重要である--これも決定的に重要なトピックだが、G&Wは著書でほとんど触れていない。
非貯蔵型狩猟採集民の間では、女性は一般的に、少なくとも子どもが2、3人生まれるまでは実の母親と暮らすことにこだわる(Marlowe 2004)。遺伝学的研究によれば、私たちの種が進化したアフリカでは、このパターンははるか過去にまでさかのぼる(Destro-Bisol et al.)終生結婚の代わりに「花嫁サービス」が一般的で、アフリカの狩猟採集民の女性は、母親のキャンプに住み続けながら、選んだ恋人を受け入れる。一時的な夫は、狩猟した肉を花嫁とその家庭に持ち帰ることで、自分の役に立たなければならない。それができなければ、彼は出て行く!このような取り決めのもとで、誰もが親族関係と結婚生活の間を交互に行き来する。
母親と同居するのは弾力的なパターンだが、夫からの圧力で住居を変え、夫とその親族と永住せざるを得なくなることもある。このような場合、子供連れの若い母親は逃げ出すことが難しくなる。かつての自由を失うと、夫の世話は強制的な支配へと変貌する。エンゲルス(1972[1884])が「女性性の世界史的敗北」と雄弁に表現したのは、この悲惨な結果だった。世界の多くの地域で、結婚を固定的な絆に変えた家父長制的な力は、それに応じて社会生活全体にも固定性を押し付けた。
これは、「なぜ私たちは行き詰まったのか」という問いに対する有望な答えのように見える。では、G&Wはこの問いにどんな答えを出すのか?彼らの最終章は非常に蛇行していて、それを知るのは難しい。彼らは、人へのケアが強制的なコントロールへとシームレスに変化する可能性について言及しているが、なぜかこれを結婚後の住居や家族生活の変化とは結びつけていない。最も身近なところでは、17世紀のヨーロッパと北米のウェンダットにおける処刑と拷問の光景を描写している。国王が臣民を罰する権利は、妻子を躾ける家長の義務をモデルにしていたことを思い起こさせる。このような政治的支配は、公に王の注意義務として表現された。これとは対照的に、ウェンダットが囚人に長時間の拷問を加えるのは、支配と統制を愛情によるケアから公的に区別するという、正反対の点を強調するためであった。囚人は家庭の一員ではないので、拷問される必要があったのであって、愛される必要はなかったのだ。
そうしてG&Wは、ケアと支配の区別の中に、私たちがなぜ行き詰まったのかについての待望の説明を見出したのである:
私たちは、ケアと支配の間のこの関連性、あるいは混乱が、互いの関係を再創造することによって自分自身を自由に再創造する能力を私たちがいかにして失ったかという、より大きな問題にとって極めて重要であると考える。つまり、私たちがいかにして立ち往生してしまったのかを理解する上で、極めて重要なことなのだ...。
狩猟採集民の研究やジェンダー研究を探求する代わりに、G&Wは視野を先住アメリカ人の軍事指導者、拷問者、ヨーロッパの君主の経験に限定し、これらの人々の心理的葛藤を想像することで、私たちがどのように「行き詰まった」のかを探っている。上に引用した当惑させるような言葉に意味があるとすれば、私たちが行き詰まったのは、特定の権力欲の強い人物が、人々を思いやることと暴力的に支配することを混同してしまったからだと示唆しているようだ。
これはまともな説明だろうか?人々は本当にこのように混乱してしまったのだろうか?答えの代わりに、G&W自身が行き詰まったようだ。私たちは、同じ質問を少し違った言葉で提示されているだけなのだ:
外的な暴力と内的なケア、つまり最も非人間的な人間関係と最も親密な人間関係との間に新たに確立された結びつきは、すべてが混乱し始めるポイントを示しているのだろうか?かつては柔軟で交渉可能だった関係が、結局はその場に固定されてしまった例、言い換えれば、私たちが事実上立ち往生してしまった例なのだろうか?
この本全体で最も重要な問いに答えようとする努力は、これ以上なされていない。
(続く……)
【前知識】
ガンダムって何と戦ってるんだろ?
「父さんにも殴られたことないのに!」だっけ?言う人が主人公なんだよね?
あとシャア専用だっけ、なんか赤い仮面被った敵っぽい人いるんじゃなかったっけ?
【観たアニメ】
アマプラにあるしオリジンって書いてあるから昔からのガンダムならして見やすくした感じかな?と思い観ることにした。
【感想】
戦隊モノチックな戦うアニメかと思ったら人間関係アニメだった!
ガンダムだなー
斧攻撃かっこいい!
・キャスパル
懐かしいな…
お金持ちで頭が良くてプライドも高くてそこそこ性格もキツくて良いキャラだなあ
・妹ちゃん
お父さんに抱っこされた感じ3歳くらいかと思ったらめっちゃ喋るなー7歳くらいか?
・キャスパルのお母さん
地球に一緒に逃げれば良かったのでは??
正妻にいろいろ言われるのはまぁ仕方ないよね…
正妻、若い時から思想家に惚れ込んでお金も時間も使ったのに子どもできないし浮気相手に子どもできたからそっちと暮らすわーってなったの可哀想
・ザビ家
みんな見るからに悪いなあ笑
ゴリラっぽい人がコメディリリーフなんだろうな、マッチョで単純な性格のキャラ大好き!生き残って欲しい
ザビ家のプライドと努力で好青年に成長→キャスパルに上手いこと利用されるみたいな展開ありそう〜。
ザビ家のお母さんってどんな人なんだろ?
・おじいちゃん
武器用意して立てこもりからの地球行き聞いた時の喜び方、これフラグでは?
上手くいきかけたのにおじいちゃん暴走して失敗、おじいちゃん死亡、みたいな
・街の人
治安悪いなー。貧乏そうなのにキャスパルの家はなんであんなお金持ちそうなの?
お父さん悪いことしてたの?
ちなみに15歳未満は出場できないので仲邑菫(14)は選考外
なお仲邑菫のライバルである中国天才少女・呉依銘五段(16)と韓国天才少女・金恩持六段(16)は出場している
男子団体戦(9月29日~10月3日)一力、芝野、井山、関、佐田
キャプテン。めちゃ強い
兄は龍之介二段
他の棋戦では下のほうで負けたり強いのか弱いのかよくわからない人
アジア大会代表を決める戦いで伊田篤史とのドッペルゲンガー対決を制して代表に内定
スリッパを履いたまま家に帰ろうとする天然
終盤のヨセが正確
ハンマーパンチで相手の大石をまとめて撲殺して大勝を狙う豪快な棋風
見てて楽しい
https://www.youtube.com/watch?v=U2sRNUi-fLs
上野愛咲美の妹
最年少メンバー
Youtubeで解説ライブがないのが残念だが棋譜中継はここで見れる模様
https://jgof.or.jp/19th_asiangames_go/results/mi.php
現地速報X
https://twitter.com/kidowebnews
https://www.youtube.com/live/F-ivvkGlZ8U
台湾代表にはあの黒嘉嘉もいる