はてなキーワード: 本居宣長とは
ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・03 逢坂《おうさか》(の関
・04 ティラミス
・05 [すべて][4つ]札幌(市 旭川(市 函館(市 苫小牧(市
・08 2131億11(00万円
・09 ウィンストン・チャーチル
・10 25
・11 2(番
・13 安達祐実 あだちゆみ
・14 くぎ(煮
・15 本居宣長 もとおりのりなが
・16 かかし
・17 3(番=弐
・18 長崎(県
・22 にんじん
・yy 天王山 てんのうざん
ロリコンでマザコンなイケメン主人公と聞いて、シャア大佐みたいなモテモテ人生なのかなって思ったら、歳とったら普通にモテなくなって、若いイケメンに若い妻を寝取られて自分の子として育てるハメになる因果応報の話だった。
作者きっとすげーむっつり。
溢れ出すリア充臭。
語彙力があるパリピ。
紫式部と合わないのもすげーわかる。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。とか始まるから、虚しさが残る話かと思ったら、普通に爽快な軍記ものだった。
卑屈さと承認欲求が交互にやってくるのが人間臭くていい。くだらない噂話や伝聞に偉そうにマウントとるんだけど、そのマウントの取り方が枕草子の微塵も迷いなくイケイケな感じじゃなくて、ウジウジしてる。
徒然草(兼好)「花は満開でもあえて引きこもりするのもなかなか風流」
って後の世のやりとりが好き。
■教養を身に付けられる本を教えて欲しい。
この問いに答えるには先に「『教養』とは何か」ということをクリアにしないといけないと思うが、これを抽象的に論じ始めると喧々諤々の議論となって、増田の「本を教えて」という望みにたどり着かない。
しかし、日本の「教養人」と言われる人/自称している人たちの中で「教養」の範囲は割と共通していて、だいたい以下のラインナップに自分の専門や好みを付け加えたものになるのではないかと思う。
これはもう間違いない。およそ西洋で発展した学問は深掘りすればすぐにキリスト教にぶち当たる。
ただ日本でキリスト教について知識を身に付けようとしてもなかなか良い本が無いのが現状。(その辺で売ってる入門書は表面をなぞってるものばっかりなので読んでも誤解して終わりだと思う)
個人的には内村鑑三の一連の著作から入るのが分かりやすくて良いと思うが、古くて読みづらいかも。田川建三から入るのも面白いかもしれないけどどうかなぁ。
なお、「教養人」といえど聖書は誰も通読していないので、上記の本で引用されたところを拾い読みしておけばよい。
ひと昔前までマルクス主義はすべての学問を包括する「グランドセオリー」と言われていて、どんな問題でも切れる便利なナイフのように活躍していた。
その残滓が今でもあって、社会科学においては今でも学生が知らず知らずのうちにマル経用語を覚えさせられていたりする。
むかしは手に入りやすくてわかりやすい入門書が不破哲三のものしかなかったが、数年前のマルクスブームでたくさん良い本が出ており、個人的にはデヴィッド・ハーヴェイの入門書をお勧めしたい。(ただ抵抗が無ければ不破哲三の著作は今でも分かりやすくてよい)
みんなの憧れ『資本論』も上記入門書の傍らに置いてちびちび読んでみると良い。そこらの難解な哲学書に比べればぜんぜん読める。
マルクスをやればみんな歴史がやりたくなる。マルクス主義史観を学校で習った日本史/世界史に当てはめて、その切れ味を試したくなるからだ。
好きな時代や分野をやれば良いと思うが、「教養人」はみんな網野善彦と遅塚忠躬の著作が大好き(偏見)なので、ぺらぺらめくっておくと良いだろう(マルクス主義史観の多少の解毒剤にもなる)。
ウォーラーステインも読みたくなるが、長すぎて誰も通読していないので、川北稔のアンチョコを読んで、読んだふりをしておくと良い。
なお、第二次世界大戦については最近、川田稔『昭和陸軍全史』という誰でも読めるすばらしい本が出たので、知ったかぶりができなくなった。
文学となると何を読むか、ということになるが、サマセット・モーム先生が『世界の十大小説』というすばらしいアンチョコを出しているのでまずはこれを読むと良い。
そこで採り上げられている小説のうち、『カラマーゾフの兄弟』と『戦争と平和』は「読まなければ人ではない」という風潮があるので、せめて読んだふりはできるように。キリスト教の知識がここで生きてくる。
日本の小説では、夏目漱石についての柄谷行人の論考を読んで、日本の近代について一席ぶてるようにしておこう。
それと『失われた時を求めて』はとりあえず買って挫折するのが大事。
わが国では哲学について昔から「デカンショデカンショで半年暮らす、あとの半年寝て暮らす」という有名な言葉があり、デカルト・カント・ショーペンハウアーが昔の「教養人」の必須科目となっていたらしい。
ただショーペンハウアーがここに入っているのは少し不思議で、今ならニーチェが入るのではないかと思う。
どうせ正確な理解なんて無理なのだから、適当なアンチョコを読んで知ったかぶりができるようにしておくと良い。
なお、なんか知らんが日本人はヘーゲルが大好き(な割に誰も理解していない)なので、一応挨拶だけしておこう。
「教養」として名前が挙がることが多い一方で、まともに条文を運用できる人がほとんどいない分野。
上述してきた分野と違って、本を読むだけではだめで、指導教官のもとで実際の事例にぶち当たってトレーニングを積まなければならないので難しいのだろう。
下手に基本書を読んでも本職に知ったかぶりをすぐ見抜かれるので、時折ネットで話題になる法律問題について法曹の解説を読んで都度勉強すると良いだろう。
ここまで挙げた学問はいずれも西洋で発展したものなので、「日本にはなんもねぇのか」という気分になってくる。
こうした「教養人」が抱えるコンプレックスについて内田樹が『日本辺境論』という本で書いているので、ちょろっと見ておくと良いだろう(Amazonで1円で売っている)。
ここらで本居宣長とか丸山真男とかを読み出す人も多いのだが、どうせ不毛な作業になるので、視野を広げて中国思想・インド思想辺りに目を向けるのが良い。
「教養人」というのは大概文系であり、自然科学についてはからっきしな奴が多い。
自然科学の話題になると、トーマス・クーン『科学革命の構造』をそれらしく引用して逃げ切りを図る人が多いのだが、本職に馬鹿を見抜かれるので素直に勉強しましょう。
ヨビノリをはじめとした学習コンテンツがYouTubeに転がっているので、せめて高校数学と物理ぐらいはやっておかないといけない。
上述してきたような分野をやっていると、唐突に詩が登場したりして困惑する場面が多々出てくる。
論理的(笑)な「教養人」の中にはこれを不得手として敬遠する人が多いのだが、どこかで対決しなければならない。
幸いなことに最近、詩人の渡邊十絲子という人が『今を生きるための現代詩』という詩についての分かりやすい概論を出したので、一読した上で適当な詩のアンソロジーでも買ってくれ。
なんか知らんが「教養人」は映画が好きな人が多いので、ある程度は観ておかないといけない。
イギリスのエンパイアという雑誌が「史上最高の映画500本」という特集をやっているので、上から適当に観ておけば良い。
とりあえずこの辺を押さえておけば周囲からは「教養がある」という認定を受けるのではないかと思う。
ただ教養があったとしても「教養人」からマウントを取られる可能性が低くなるだけであり、「他人との会話が盛り上が」るなんてことはまず無いから気を付けて呉れ給へ。
/*追記
朝起きたらブクマがいっぱい付いててびっくりした。これは、素人増田の素人論考です。増田本人は無宗教、消極的な無神論で、円滑なコミュニケーションのために宗教行事に喜んで参加します。身近には浄土真宗、浄土宗、日本のプロテスタント福音派、ゆるふわユダヤ人などがいます。
追記*/
無神論と無宗教(≒特定の宗教に強くコミットしていない)は違います。
無神論は、神はいないという"積極的な"主張であり、ひねくれた言い方をすれば「無神論教」と言えます。
ちなみに、「カトリックが自由な感じではなく、プロテスタントが自由な感じ」というのも偏見のように思います。
(おそらく、自分自身はカトリックの教会に行ったことがなく、周囲のプロテスタントからそう聞かされているだけでは?)
仏教について
仏教は、立場にもよるが、本来的には神のような超越存在はいないと考えていると思います。哲学に近い。
神道について
ご存じ八百万の神なので、多神教。そもそも1人(1柱?)ではないし、「私"だけ"を信仰しない者、異教の神を信じる者は滅びる」という嫉妬深い神はいません(or少ない)。そもそも、日本語の「カミ」というものは、本居宣長の古事記伝第3巻によれば「すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさを)しきことなどの優れたるのみを云ふに非(あら)ず、悪しきもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神とは云ふなり」となっていて、今っぽく要約すると「SUGEE存在全般」という意味でしょうか。アブラハム系の神とは大きく違います。
特定の一宗教にコミットすることを求める一神教に対して、上記の通り仏教は厳密・本来的には教義の無神論であり、神道は八百万である点が大きく異なると思います。神社に行って賽銭を投げても、仏教葬式に参列しても、そこにいる超越存在"のみ"にコミットすることにはならないのだと思います。
いわゆるリベラルとされるグループでは都合良く「ゆるふわ」で通るかもしれませんが、福音派とかであればそうもいかなそう、と思うのは私の偏見、、でしょうか。
以下、追記
watchcat
まったくその通りですね。「強くコミット」っていうのが違うのかな。特定の宗教を信仰している意識があるかどうか?多神教&掛け持ちOKの宗教だと話がややこしい。
cameraojisan
無宗教≒特定の宗教に強くコミットしていない、って広く共有されてる感覚なの?元増田は「それゼロじゃないじゃん」という主張だと思ってた
ごめんなさい、適当にレスポンスしただけです。こんなへぼいテキストに反応が集まってしまい申し訳ない。
ak248
多神教的考えや習慣を一神教の人は理解できないってことかな。あとカトリックの方がプロテスタントより厳しいルールが多く、信者以外は行事に参加できないと思ってたのですが違います?教えて詳しい人
カトリックの方が伝統や慣習を重視していると言う点で、厳しいルールが多く見えると言うことかも?プロテスタントにその種のルールはないが、ゴリゴリの福音派だと聖書に従って生きるという(別の種類の)厳しいルールがあると感じる。
なわとび:602回
ボクシング:109kcal/21歳
徒歩:110.4kcal/3590歩
体操ザムライ見てて、フィットボクシングやるときも一つ一つの動作を丁寧にやっていこうと思った
少し前から「夜明け前」をちょっとずつ読んでて、この間ようやく1部が終わって折返し地点に来た
島崎藤村が自分のお父さんをモデルにして書いた幕末から維新にかけての歴史小説
1部の前半は木曽街道馬籠宿の庄屋の平穏な暮らしぶりが描かれるばかりなのだけれど、後半に入ると怒涛の勢いで日本の情勢が転変していく様が描かれる
あまりの情報量の多さに幕末素人な自分はめまいがするような心地がした
主人公の半蔵は幕末の青年らしく、自分も日本のためになにかしたいと焦りを募らせるのだけれども、彼が依って立つ平田篤胤の国学の思想というのがどうもちょっと曲者
本居宣長あたりから発するものらしいのだけれども、神の国である特別な日本古来のものを大切にしてそれによって国を作っていこうというもので、中国由来の儒学などの排斥を主張し、神仏習合を廃して純粋な神道を取り戻そうと言っている
これって、詰まるところは日本SUGEEEのネトウヨ思想の先祖なのではないか
半蔵くんは(ローカルな)ネットで真実に目覚めてしまった残念な子なのでは
明らかに鈴奈庵エアプかもしくはあまりにも読解力がないと思われるyoutuberが考察()と銘打っておそらく炎上上等で投稿していた
「東方鈴奈庵で易者が殺され小鈴が生き延びた理由」とか何とかいう動画で久々にブチブチにブチギレたので
鈴奈庵本編から読み取れる情報を元に、自分なりにちゃんと考察していこうと思います。
とは言っても独り言かつ、昔読んだ記憶だけで書いてるから間違ってても許してクレメンス
正直これに尽きると思います。
書籍作品での霊夢の様々な行動を思い返して(書籍を読んだことがないなら話半分で聞いて)いただきたいのですが、
金儲け、信仰心、神社への参拝客と基本的に異変モードじゃない霊夢は欲にまみれ、浅はかな行動に出ることも多いです。
これは霊夢が劣っているだとか未熟だからではなく、あくまで霊夢は「人間」であるからだと読み取れます。
幻想郷には僧侶である聖や、仙人である茨歌仙など欲に囚われなさそうなキャラクターもいますが、
一方で霊夢は妖怪と言えども容赦なくしばき倒して退治して回る、いわゆる『鬼巫女』のイメージもありますが、
これは単純に妖怪がそう簡単に死なない存在であるから、悪さを行わないよう懲らしめる程度にシバきまわってるだけかと思われます。
(「求聞史紀」でも阿求が定期的に妖怪をこらしめることを頻繁に記述している)
さて、正直ちゃんと「鈴奈庵」の7巻を読んでいれば気付けるかとは思うのですが
小鈴と対峙する際、霊夢は明らかに動揺し、紫に罪をなすりつけて事を解決しようとします。
これは「小鈴が自分がよく知る人間であるから、何とかして救おうとしている」事は明らかでしょう。
ではなぜそうしているかと言えば、易者を退治した際に明らかとなった「人間が妖怪になることは最大のタブー」の問題があるからです。
ルールに則れば、妖怪化した小鈴は博麗の巫女として、易者のように退治しなければならない。
こう考えることは何ら不自然ではないでしょう。
正直、易者の死はこの描写をするために存在していたのではないでしょうか。
Q.では易者はなぜあっさりと殺されたのか?
易者が殺されたのは単純に霊夢にとって赤の他人かつ自分を全部知ったような口ぶりで話しててムカついたから…
というのは正直あると思いますが、もっと明確に殺されても仕方ない理由がありました。
一つは「里の人間が妖怪化したから」ですが、正直これは例外があるルールかと思います。
勿論里の人間がじゃんじゃか妖怪化すれば、人間が減る上に妖怪の人間の境界が曖昧になり
結果的に他の妖怪が損をしてしまうので幻想郷の安定を保つために存在しているルールなのかと思います。
妖怪>人間の図式を保ち続けるため、人里が強くなりすぎないようバランス調整してるんだと思います。多分。
さて、殺された理由ですが…もう一つは「静観する姿勢を見せたから」だと思います。
えっ酷くない?と思うかもしれないですが、幻想郷にはもう一つ大きなルールが存在します。
「スペルカードルール」についての詳細は説明がめんどくさいので省きますが、
大事なのは「スペルカードルールでの取り決めは絶対」であることです。
逆に言えば、「スペルカードルールを使わないのであれば何をされても文句は言えない」のです。
もし、あの場で易者が霊夢に対してスペルカードルールに則って勝負を申し込んでいれば、
博麗の巫女として受けざるを得ない。
そしてそれは、「幻想郷の妖怪」として受け入れられる一つの儀式めいた行為でもあります。
そうすると勝ったにしろ負けたにしろ、彼が「妖怪」として受け入れられる可能性は大いにあったのではないかと思います。
人間を辞めて妖怪になり、かつ妖怪として幻想郷に適応しようともしない。故に退治されたのではないでしょうか。知らんけど。
これも前述のクソみたいな動画で触れられていたのですが、小鈴が本居宣長と関係あるのではないか、という話です。
これについては設定で語られていないのでなんとも言えないですが、私は血筋的には関係ないと思います。
だってそうなら影狼ちゃんは今泉吉典に関係あることになるじゃん。単純に神主の遊び心じゃないんですかね。
ではただの村人Aかと言われると、そうとは言えません。
なぜなら彼女は「あらゆる文字を読める程度の能力」を持っているからです。
何故この能力があるのかは分かりませんが、これにより人里では到底学ばないような英語、さらには妖怪の文字も読むことが出来ます。
(頑張ったら書くことも出来る)
そしてその能力故か、単純に気まぐれか、阿求も小鈴の元に頻繁に通っています。
そのせいなのかまた偶然なのか、霊夢も小鈴に対して特別な感情を持っています。
幻想郷にとって重要な人物2人の近くにいてかつ、最低限友人程度には意識されている。
これは彼女の才能か、何らか(主に紫とか)の介入があったのかは定かではありませんが
少なくとも村人Aではない事は明らかでしょう。
以上です。
正直他の動画は見てないからあの一本が特別酷かったのかもしれないけど、
もともとはある人が
「本居宣長って古事記に書いてることいちいち真に受けてるけど、天皇が150年以上生きてる時点でおかしいじゃんw」
と批判し、
宣長が「天皇家を貶すようなキチガイは鎖につないどけ!」と激おこしたことがきっかけで、
そこに横槍を入れた上田秋成と本居宣長とのあいだで論争になったもの。
特に「日の神論争」は「天照大御神が照らす範囲」についての論争だった。
「天照大御神は太陽なんだから日本のみならず世界全土を照らしてる」
「そもそも外国にはそれぞれの神話があるわけで、こっちの神話を押し付けてもしゃあないやろ」
「おまえそれで外国人が言うこと聞くと本気で思っとるんか?」
「は?日本は万世一系だし侵略されたことないし田んぼが多くて稲穂は美しいし世界の最上国なんだが?」
「おまえ日本人のくせに日本を貶すとか何なの?俺の主張にケチをつけたいだけか?嫉妬乙!」
こんな感じで論争は終了した。
新井白石はマジでマルチタレントっぷりが異常で、沖縄やアイヌ研究みたいな民俗学も事もやってるし、もうなんかすごすぎる。
というか国語辞典作ったおかげで本居宣長みたいな国学者の活動が活発化したわけだしだいたいこいつのせい感はある。
何でもかんでも成果出しておいて当時は詩人として有名だったとかいうのがおかしい。
本居宣長の影響力は文学の方面ではヤバすぎ、未だに源氏物語読まされてるのだいたいこいつのせいだし、
いや、戦国時代の幼名見てみろや、教養ある武将達が酷いのつけてんぞ
天才丸
聡明丸
奇妙丸
人
江戸時代は江戸時代で本居宣長が「最近の若いのは奇妙で読めない名前が多い」と憤慨して、門人の名前はふりがなをふって対処したり苦心してたし、明治から戦前辺りのキラキラネームをまとめた名乗辞典とかも見なさいや
周耀星(テルトシ)
舟坂宙子(ミチコ)
薄井無子(ナシコ)
叶凸(タカシ)
於菟(おと)、茉莉(まり)、杏奴(あんぬ)、不律(ふりつ)、類(るい)
森鴎外の孫は
真章(まくす、Max)、富(とむ、Tom)、礼於(れお、Leo)、樊須(はんす、Hans)、常治(じょうじ、George)、爵(じゃく、Jacques)、亨(とおる、Thor)、五百(いお、Io)
結構ブクマついててびっくりした、叶凸さんは早稲田出て政治家でWikipediaとかもあるからどんな人生を歩んだかとか見るのも面白いよ
普通の勢いでスターをつけた後に日付確認したらすげえ過去(垂仁天皇28年)で、
しかもスターつけたコメントをよくよく見たらもうすでに俺スターつけてたじゃねえか!
も~やめろよ~~ちょう恥ずかしいじゃんよ~~~
でも古事記を再読すると有用な記事が見つかったりするのがはてブのいいとこだけどな!
あ、あと、古事記が偽書じゃないかと思っていちどつけたスターを消したりする賀茂真淵にも文句言っとく!
・・あ、あれ?どこ?俺っちのブコメについたはずの☆はどこ?
って10秒くらいきょときょとしたあと、じわじわと悲しい気分が胸を浸すことになるのでぜひやめてほしい。
学説が違ってちょっぴ恥ずい思いをすることは罰として受け容れる。
それが男の生きる道。