はてなキーワード: 大河ドラマとは
数年来の歌舞伎ファンだけれど、ネットに放流される歌舞伎の感想を見ていると、グロっ!と思うときがある。
いちばんそれを思うのは、歌舞伎の家に生まれた子ども(特に未成年)に対しての、「お父さん(orお爺さんその他親戚)に似てきたね!」っていう感想。そういう感想には、ふと見ていて自分で思い至ることもあるけれど、一方で、自ら振り返ってみると、又は他の人の感想として見ると、うわっ!グロっ!と思ってしまう。
思っているだけだとモヤモヤするから、何がグロいかを言語化してみると、それは、本人が決めるべきこと(将来の職業選択、そこで役者を選択するとしてその芸風・方針)について、生まれや血族といった本人の意思ではどうしようもできない事実を評価の基準として、第三者にすぎないいちファンが勝手に判断して評価しているから、だと思う。
もっと踏み込んで言うと、無限の職業選択の自由が拓けているはずの子どもに対して、第三者がその子どもの将来を(職業だけではなく芸風まで)決めつけてしまっているという点について、無意識であるにしろ、ものすごく高慢に見える。
この所感は、古典演目を、比較的若い役者が、過去の大役者が確立したような型に倣ってやるような場合に、当該大役者の親族(又は、その中でも風貌が似ている者)にやらせないとおかしい、みたいなコメントが出てくる場合にも同じことを思ってしまう。結局それは、今の演者ではなく、過去の演者を求めているに過ぎないし、(こういう鑑賞態度は歌舞伎だとあるあるではあるけれど、)個人的には、そのような鑑賞態度である限り、今の演者を(自ら理想化した過去の演者と比較して)批判的な目でしか見ることができないから、観劇が辛いものにしかならず、実りのある観劇体験にならないんじゃないかと思う。
(逆に、役者に対する「〇〇屋に生まれたんだから(or所属しているんだから)、△△さんから指導を受けて××(演目)をやらないとおかしい」みたいなファンの意見も同じ。言ってるファンは、親祖父母から指導を受けて同じ仕事やってるんだろうか……。)
いや、そもそも上記のようなことを言ったら、御曹司のかわいい初舞台で、ベテランのお弟子さんがセリフもなく後ろに座っているという構図自体、あたりまえだけど普通にグロい。
もっとも、もうこういう家による階級制度は、あと20年(いや、10年?)経ったら、消えて無くなってるんじゃないかなあと思う。そして、そういう兆候がちらちらと現実にも顕れていることは、今の歌舞伎ファンならば分かると思う。
つまりは、これからの中心的なファン層は、歌舞伎への入り口が、刀剣乱舞歌舞伎その他の2.5次元歌舞伎、又は、大河ドラマその他の映像作品である人が多いと思われる。そういう人たち(そうでなくても、これからファンになる若者層)に、「お家」とか「名跡」とかに重きを置いて、扱いに差を設けることを正当化するような価値観は、もう通じないんじゃないかなあ、ということだ。ただでさえ、「親ガチャ」が流行語を超えて浸透しているような世代だし。
(個人的に、初報が発表されたとき、刀剣乱舞歌舞伎は今できる最高のコラボ歌舞伎だと思った。和の世界観と親和的で、既存のファンの方の数が多くて、しかも観劇に抵抗がなく、むしろ積極的であるというのがすごい。これから若い歌舞伎ファンの殆どが刀剣乱舞が入口、ということは、普通に起きるんじゃないかなあって思う。いや、もう起きている?)
一方、上記で、階級制度が無くなるという兆候が顕れている、とは言ったけれど、現状は、それは、名家の御曹司が座頭を務める舞台で、実力のある弟子を大役に抜擢することがある、という形にしかなっていないとは思う。つまり「使う側」(座頭)と「使われる側」(大役に抜擢される弟子)がある、という権力構造には変わりはなく、単に「使う側」のお慈悲が発揮される回数が増えただけ、という状況にしかないようには思う。すなわち、従来の力関係にはそこまで変わりはないんじゃないかっていうことだ。
(あと個人的には、そういう「抜擢」をした役者/「抜擢」をされた役者のことを、美しいストーリーとしてSNS等で賞賛する行為は、度が過ぎると、上記の権力構造の再確認になりかねないし、弟子の苦しい立場ごと消費しているような感じがして、あまり乗り切れないところがある。歌舞伎御曹司の感動ドキュメンタリーと消費の仕方が同じというか。但し、そういう風潮が抜擢を後押ししていることは否めないし、全部を否定はできない。結局、観劇というのは突き詰めると観客による役者の消費ではあるし、役者のバックグラウンドごと観客に消費させるのは、歌舞伎が今まで取ってきた手でもある。)
(さらに言うと、一部SNSによる一部の役者・家への軽率なDISも好きではない。ちゃんと芸単体を見て評価できる人が評価しているならともかく、SNS(というか、その人が構築しているタイムラインに流れてくる限られた情報)の、この人なら批判対象としてもいいんだ、という雰囲気に流されて、大した芸の批評もせず批判をしてるんじゃないかって気もするし、自分が「見巧者」であることのアピールとして軽率に使われてるだけな気がする。)
じゃあどうするんだという話だけれど、近い将来、御曹司と弟子をキッパリ区別して取り扱うような現行制度について、どこかのタイミングでアナウンスがあって形式的な解消がなされる、という事象が起きてもおかしくないんじゃないかなあとは思っている。あくまで、上場企業である松竹が、今の門閥制度は上場企業に相応しくない、とか言って形式的にやることかなとは思うけれど。具体的には、まずはポスターに名前を載せる基準とか、筋書きの後ろの方の写真の大きさとか、動静表のあの色分けとか、あそこら辺の形式的な取り扱いから(一律、名代試験→幹部昇進で区別するとか。)。
もっとも、役付きも、それに伴って柔軟になっていくってこともあるかもしれない。ただし、私は幕内の事情は全く知らないし、上記権力構造は変わらないのかもしれないし、この考え方も全くの的外れかもしれないけれど。そもそも、歌舞伎名家の権力(私から見えるのは、歌舞伎座古典の大役の配役くらいだが)がどこに裏打ちされているのかもよく分からないし(メンツを見てると、必ずしも集客じゃない気がする。そうすると、本当に“名家”であることの一点のみで権力たりうるということなのかもしれないけれど、平成生まれの自分にはピンと来ない。)。
最近の御曹司はみんな上手いなあと思う。やっぱり、現代になって、色々な選択肢が拓けている中で、今の若手世代の御曹司の皆は、自ら歌舞伎役者になることを選んだんだと思うし、やはりその覚悟に見合うだけの実力がある。これから歌舞伎がどうなっていくか全くわからない中で、歌舞伎を将来の道として選択してくれたことは、歌舞伎ファンとしてとてもありがたい。そんな御曹司たちとそうじゃない人達とで切磋琢磨していくのが健全なんじゃないかなあと思う。
そして、冒頭に戻ると、「お父さん(orお爺さんその他親戚)に似てきたね!」といった一連のグロい感想も、今の価値観にそぐわないものとして自然と淘汰されていくんじゃないかなあ。そして、価値が大き過ぎて空席になっていたはずの大名跡の価値は、空席のまま忘れ去られることになり、古典演目が歌舞伎座でかかるとネット上でもかろうじて見受けられる、あの動作は過去に誰々が始めたものだ、みたいなコメント兼マウントと、それを把握しなければならないという価値観も、良くも悪くも間もなく消えていくんだろう。
――最近は研修所への入会やお弟子さんの入門自体微々たる数しかないから、まずそこから増やさないと、歌舞伎文化の継続自体がかなりマズい? それはそう。
パワハラはあったんだろうと思う。
おそらく全国の報道のほうが盛り上がっているだろう。
臭いものに蓋をしたいのかという話ではなく、論点は前知事に遡る。
世間的に話題になったのは大河ドラマ「平清盛」で汚いだのなんだのボロクソに言ったことだろうか。
記憶では定期的に失言しており、コロナ禍では介護職に補助金を出す必要なんかない的な話をして炎上したのが最後くらいだったか。センチュリー?
大阪との間に壁を作るとか東京に地震が来たときがチャンスとか、震災後の知事とは思えなかったが、震災復興(経済は落ち込んだが)に尽力した(と言うしかないだろう。実際は県民の後悔と防災意識が高まったせいではないか)という評価で長期政権を築いた。なお更にその前の知事が震災でやらかしているし権力で地震の可能性への指摘をスルーしたり色々あったので、前知事の初選挙は盛り上がったのだろう。
なぜ長期政権が続いたのか理由は色々あるのだろうが、これを実力とは言いたくない。
兵庫県知事選挙は昔から立候補者が少なく、出てくるのは芸能人とか変な人。自民党と公明党がしっかり手を組んで、前知事を祀り上げて長期政権をさせるように導いていた。そもそも公明党が強い占拠区であったはず。
前知事が失言を繰り返す中で出てきた若い人、それが現知事である。実績なんか誰も知らない。そもそもなかったのかもしれない。
前知事と全く違う人を県民は望んでいただろう。とくに現知事が選挙戦で派手だった記憶もない。でも他の候補者も酷いもんだったので、結果的にそこに投票するしかなかった状態ではあった。
さて結果的に告発をされ知事のパワハラが問題視され死者までだしてしまった県政なのだが、月日を考えてもおそらく県職員たちは前知事から大きく変わっていないだろうと思う。
県民的に疑問は大きく3つ。
「前知事はパワハラ気質ではなかったのか?誰から見てもそうだったが」
「物品をねだったり知事の権力をふるっていたのは前知事からの慣習という話」
「パワハラで堕ちた明石市前市長がいまだにメディアで活躍している状況」
誰と話しても現知事をかばう気は一切ない。ただよく知らない人で、全然よくわからない人だ。
まぁ年寄りにパワハラ振るわれるより歳下にパワハラされたらプライドが傷つくのもよくわかるのだが…。
ただ、兵庫県政は少なくとも1980年代に腐っており、自民公明と前知事が蜜を吸わせた職員が今幹部に居て現知事を批判したということ。そしてその腐敗は現知事が辞めても続くということだ。(辞めなくていいという話ではないさっさと辞めろ)
虎に翼、どうにも主人公とその恋人の恋愛が全然ドキドキしない。何が悪いのか?なんだっけ、あのアイドルの男性だったり、今度大河の主役やるまぁ普通っぽい俳優だったり、今は岡田将生だけどどの人も全然。サブの轟(異性愛者じゃないらしい)とよねの方がまだどうなるのかなってどきどきがある。その前の前の植物学者のやつ、神木隆之介と浜辺美波はすごいよかった。でもあれだって、ゴジラの映画で共演してそれまでも何度も共演してるほど相性が良い、観ててすごくどきどきさせてくれる組み合わせだからこそだったのかもしれない。植物学者は妻たったひとりだが虎に翼は3人も相手の男がいるのにどれもなんか…へぇ…みたいな感じになる。大河ドラマも観てて、主演の吉高由里子と柄本佑の組み合わせは、民法ドラマの時に初めてみてやべーすごいどきどきするーって感じで、大河ドラマでみてもやっぱり素敵だなと思う。舞台平安時代だし髪も格好も違和感あるはずなのに引き込まれる。虎に翼の伊藤紗莉にも、こんなしっくりくる素敵な組み合わせが!?みたいな相手役がいるんだろうけど、いまのところなんか違ったみたい。
俺は何か騒いでるなあと外野から見てたんだけど途中から関心持つようになった
何か今ではウヨサヨ対立みたいになってるけど最初からそうだったのだろうか?
ネトウヨ参戦してネトウヨ嫌いのサヨがネトウヨ叩きのために参戦して
結果ネトウヨがサヨ叩きを…ってウヨサヨ双方が相手を叩くための材料と化したような
だが俺が関心を持つようになったのはそこではない
彼らが騒ぎ始めたから関心を持ったのだ
最初から関わってた歴クラもいたかもしれないが、一気に広がったのは先週末くらいからか
きっかけは何だったかといえば、岡美穂子という学者がこの騒動に介入したからだと思われる
岡氏に対する批判が始まった。これが歴クラの癇に障った
歴クラはそういう人達ばかりではないが、こういったことが気にくわない人達がかなりいる
有名なのは「呉座勇一vs井沢元彦」あるいは「呉座勇一vs八幡和郎」などだ
一般には井沢・八幡氏は右派にカテゴライズされる。当時の呉座氏は現在のイメージを一般には持たれてなかった。
トンデモ素人と戦う「人斬り呉座抜刀斎」などと称賛されていた。
ただし呉座氏の鍵垢に集う「御伽衆」とも呼ばれる人達は呉座氏の政治的立ち位置を知ってたかもしれない
とにかく一部の歴クラにとっては、相手が右だろうが左だろうが専門家に盾突く素人は敵である
そして先週末に呉座氏と同じ日本中世史の研究者である平山優氏が参戦した
平山優氏は去年の大河ドラマ『どうする家康』の時代考証を担当したのだが、
時代考証が甘い、おかしいといった批判を素人から浴びることになった
平山優氏は言われたら百倍返しくらい言い返す人で、それが一部歴クラから絶賛された(批判する人もいたが)
そういう経緯があったので、今回も素人一般人が批判するといつものバトルが始まった
御伽衆は当然、平山氏が「弥助は侍」というのだから侍なんだ、素人は黙ってろと主張。素人のくせにといういつもの見下し。
全然わかってない素人ももちろんいたが、かなりの知識を持っている素人もいた。
実際のところ侍の定義はそれほど明確なものではない。素人一般人もそれで黙っちゃいない。
一方、その頃岡美穂子氏の発言がいかにも「サヨク(リベラル)」だったので、当然ネトウヨが食いつく
さらに平山優氏も元共産党員の過去からサヨクとしてネトウヨに叩かれることに
歴クラは学者がサヨクだろうがウヨクだろうが、そんなことは気にしない(平山氏と呉座氏を同時に崇められる)ので
だがウヨサヨの対立構図になったことで、数の上では少ない歴クラの声は埋没
今に至っているように俺には見える
※なお岡美穂子氏に関しては歴クラもあまり馴染みが無いので最初はともかくあまり言及なし。さすがにあのグダグダでは擁護も難しいのかもしれない。素人批判者の誤読があればそれを叩く方針で「日本が黒人奴隷を生んだ」など数点に的を絞って「素人批判者全体」を馬鹿にする方向で。
この問題、主張してるやつの説明が雑すぎて何が問題か全然伝わってこない。なのでこんなもんじゃねという自分の意見
文化の盗用
これも日本に限っては該当しないでしょ。それよりはおんにゃのこが可愛いかどうかを気にするでしょ
これには2つの側面があって、歴史的な事実関係を忠実に描く、というものと、当時の文化・習俗を出来るだけ忠実に描く、というものがあると思っている。
ここが自分的には一番大きな問題に見える。特に後者。アサシンズクリードはこういうディテールを大事にしてきた作品だと思っているのでそれでいいの?という気がする
畳の形、桜と田植えとか細かいジャブみたいな間違いが重なってダメだろ感がある
ここまでは理解できる。
どうやらロックリーなる人物の弥助について書かれた本やこの人物の主張で燃えているらしい。
例えばロックリー氏の作品がこのゲームの大事な部分を成しましたとか事実として広く宣伝されるなら問題にはなるだろう。氏の作品は問題が多いと指摘されている。
下記の主張は少なくとも私はこんな歴史を知らないし、習ってもいない