はてなキーワード: 帰国とは
俺がニューヨークのパーソンハッタンでビジネスパーソンとして働いてたときは
周りに差別するパーソンはひとりもいなかった。
年齢・性別・容姿・人種、何であっても差別は一切存在しなかった。
まだまだ遅れているなという印象。
正しい感覚だと思います。時効だから書くけれど、あれは本当にただの内部抗争です。
元々、日本のテコンドー(以下、WTテコンドーと呼ばれる五輪種目の韓国側のテコンドーの話。北朝鮮側にITFテコンドーというのもあるがここでは無関係)は
【1】 在日本大韓民国民団(民団。会員数33万人の在日韓国人・韓国系日本人の為の団体)が韓国本国からテコンドー師範を連れてきて、テコンドーを在日コリアンを中心に広めた道場。現在では日本人師範・日本人選手も多数居るが、トップは韓国人師範である事が多い。
【2】 日本テコンドー協会(日本人のヤ●ザとか風俗雑誌の出版社がスポンサーについて作られた全日本テコンドー協会の団体)が韓国本国からテコンドー師範を連れてきて、テコンドーを日本人を中心に広めた道場。韓国から来たテコンドー師範は既に帰国済みで、指導者は日本人中心。
【3】 その他。(ソウル五輪を契機に流入してきた別ルート・あるいは独自に韓国から若い師範が来日して直接流入した道場など)
クーデター前の全日本テコンドー協会は【2】やそれに近い【3】の日本人を中心とした道場の出身者が理事の多数を占めており、明らかな日本人師範優遇で【1】や【3】の韓国人師範を露骨に冷遇する風潮がありました。また、【3】の系統の道場にいる日本人師範も【2】には良い感情を抱いていない師範が少なからず居ました。
トップの金原会長は元々は【3】に属する道場関係者が最初はタニマチとして外から連れてきた人物なので、テコンドーに関しては完全に素人です。【1】や【3】の韓国人師範としては良い感情を最初から持ちようがない状態でした。勿論、選手達も同じでした。
そういう常態なので、【1】や【3】の選手が代表に選ばれた場合も日本代表監督として【2】の指導者が選ばれている事が多々あり、選手たちや【1】や【3】の師範達は不満を抱えていました。
代表選手達は自分達を日頃指導してくれる【1】や【3】の師範に指導をして欲しいと考えていました。
そんな危うい状態で分裂したり色々揉めたりを繰り返しながら、東京五輪というビッグイベント開催直前になり、不満が爆発したのが先の事態でした。
【1】や【3】の指導者たちは【2】をテコンドー界から追放して自分たちがその後釜になる事を狙ったのですが、
結局はJOCの介入によって喧嘩両成敗。全員悪かったという事で、【1】【2】【3】全ての指導者たちが理事の座から追い出されて、テコンドー外部の人間達で理事会が作られることになります。
現在の協会では、その組織図を見るに適切な人物が適切な役職についていると言えますので、「雨降って地固まる」といいますか「塞翁が馬」といいますか、
ロンドン滞在経験のあるバンドを率いていた日本ロック界のレジェンド
ある日本の大物アーティストXがASKAを手引きしたとウワサされている。
「XはASKAより年上で、バンドを率いていたロック界のレジェンド。ASKAより先にロンドンの滞在経験があったことから、弟分のASKAに現地カルチャーの一つして、マリフアナや合成麻薬を教えたそうだ。当時のロンドンでは『よくあること』だったが、これがASKAを“覚醒”させる一つの原因になったことは間違いない」(ASKAを知る関係者)
ASKAがロンドンに滞在したのは半年ほどだったが「現地に家を購入し、移り住むことまで考えるほど気に入っていた」(同)という。
帰国したASKAはその後、ヒット曲を量産。91年に「SAY YES」、93年には「YAH YAH YAH」でミリオンセールスを記録した。この2大ヒット曲もクスリの力に頼って生み出されたものなのか…。
前出の音楽関係者は「ロンドンから帰国してからは、(薬物を)やらない時期もあったそうです。2大ヒット曲が生まれた時は、そこまでおかしいとは感じませんでしたね。むしろ『あれ?』となったのは、ヒット曲が出なくなった90年代後半から。歌詞に『ドラッグ』や『シャブ』を連想させる言葉が目に付くようになって…」と話す。
とはいえ、一部で指摘されているように90年代前半の曲にも薬物を想起させる歌詞はある。93年3月に発売された「YAH YAH YAH」の両A面シングル「夢の番人」では「運び屋の白い粉袋の秘密で」と歌っているのだ。また、96年4月発売のアルバムに収録された曲「港に潜んだ潜水艇」には「口の中に薬を撃ち込まれた気分さ あちらこちらの 心臓が一斉に騒ぎ出す」との歌詞も。
いくら着飾ろうと、江戸中の男たちに愛されようと、しょせん遊女は商売道具でしかなかった(「遊女」を「芸能人」に置き換えれば現代に通じるか)。
休みもほとんどなく、食事も粗末なものが出るだけだ。いいものを食べたければ、懸命に働いて客からお捻りをもらい、そのお金で自前の食べ物を買っ
たり、見世にあげた客に台の物をとらせご相伴にあずかるしかないのである。
さらに、着飾る着物、帯、化粧品に至るまで、すべて自分で買い整えねばならない。そのために、見世から借金しなければならなかったから、借金は増
える一方である。
大名や大商人が贔屓にしてくれる遊女はほんの一握りで、ほとんどの遊女が手練手管を労して客からお金を吸い上げることに精を出した。
遊女の務めは「苦海十年(苦界とも書く)」と呼ばれ、十八歳から二十七歳くらいまでが吉原で遊女として商売できる期間である。この期間に、身を売っ
た代金、つまり身代金を働いて返さねばならない。これに加えて、前述のように借金が加算されていく仕組みになっており、馬車馬のごとく働かされる。
遊郭の掟や慣例も遊女たちを苦しめた。その掟の見張り役が、遊女上がりの遣手たちである。
遊郭の一ばんの掟は、見世の若い衆と遊女が男女の仲になってはいけないというものだ。見世側とすれば、商品に手をつけられてはその商品が働か
なくなる。つまり、若い衆といい仲になると、その遊女が客を取りたがらなくなるのである。
この関係が深くなってしまうと、やがて手に手を取り合って遊郭から逃げ出すということも起こる。いわゆる駆け落ちだが、見世側としては、黙って見逃
すわけにはいかない。吉原の地回りなど大勢を使って二人を見つけ出すのである。見つけ出された男はほとんどの場合殺されてしまった。遊女は吉原
へ連れ戻され、凄惨な折檻を受けることになる。殺してしまえば商品としての価値がなくなってしまうが、それでも他の遊女たちへの見せしめの意味もあ
遊女が苦海から抜け出る方法は三つしかなかった。一つは年季奉公を勤め上げた、いわゆる「年明き」で遊女から足を洗う場合。二つ目は、金のある
客に見初められて「身請け」される場合。そして三つ目が死んだ場合。
吉原の年明きは二十八歳なので、この年になった遊女は見世から暇を出される。中には遣手として見世に残る遊女もいたが、多くは吉原の外を望ん
だ。吉原を出た遊女は、年明きになったら一緒になろうと約束していた男と所帯を持ったり、そのまま吉原以外の色里・岡場所に行く女もいた。
客に身請けされるのが遊女の幸せといわれるが、なかなかそんな客は現れない。特に太夫クラスの上級遊女になれば、身請け金は膨大な額だったの
である。もともとの身代金に加え、これから働いて稼ぐであろう金額、これまでの借金、見世や周囲の人間に出す祝い金など、合計すると何百両にもな
る。このような大金をぽんと出すのは、大名や大商人以外は不可能である。
中級あたりの遊女でも、やはり百両前後はかかったという。ランクが下がれば身請け金も下がるが、宵越しの金は持たねぇと突っ張る江戸っ子には数
十両のまとまった金は調達不能だろう。それでも、中にはコツコツお金を貯めて、身請けした町人もいたようである。
死ぬほど辛い苦海・吉原では、実際に死んだ遊女の数は知れない。粗末な食事で馬車馬のように働かせ、体力は消耗する一方だが、さらに病気が追
梅毒はもともと西インド諸島の風土病で、コロンブスが西インド諸島に到達し、スペインに帰国した際、その船員たちがヨーロッパに運んだといわれてい
る。シャルル八世のナポリ攻撃以来ヨーロッパから世界に広がり、日本にも十六世紀の半ば南蛮船の来航によって上陸した。ちなみに日本の文献には
それよりも前、1512年に「梅毒」という言葉が登場している。
当時梅毒は、「かさ」などと呼ばれていた。感染すると感染部におできのようなかたまりができ、これがかさぶたのようになるからである。この「かさ」が
潰れると、痛みを伴うがしばらくすると治ってしまう。実際は一次症状が収まって潜伏しているだけであるが、当時の医学知識ではこれで治ったと思って
一度「かさ」にかかって治った(と思っている)遊女は、二度と梅毒にかからないとされ、客の方でも病気のない遊女として認知された。見世からも一人
前の遊女として扱われ、遣手は客にどんどん勧めた。おまけに病気が潜伏している影響か、妊娠しにくい身体になっているから、見世としては大変重宝
した。こうして、梅毒はどんどん広がっていったのである。客の方でも、梅毒にかかることは一種のステータスで、遊びを極めているという目で見られた。
何年か後、再び症状が現れると、今度は皮膚にゴム状の腫れ物が出て、その部分の肉が落ちる。鼻が落ちるといわれる梅毒の症状はこの時期だ。
やがて神経系が冒され、死に至る。
こういう症状が出ると遊女としての価値はなくなり、吉原を追い出されたり、生きたまま投げ込み寺へ捨てられたという。悲惨な結末が遊女を待ってい
たのである。
梅毒とともに遊女を悩ませたのが妊娠だった。妊娠は遊女の恥とされ、さまざまな避妊法を用いたが、当時の知識では妊娠は避けられない出来事だ
った。
当然見世側とすれば中絶させたが、この手術も原始的なもので危険極まりないものだった。中条流というのが堕胎専門医師の看板で、中絶に失敗し
て命を落とす遊女も多かったという。
堕胎できずに子供を産んでしまった場合もあった。この場合は、見世の子供として育てられ、女の子なら遊女の道へ、男の子なら見世の若い衆として
幼少の頃、俺には親友がいた。
俺が通っていた幼稚園にそいつは転入して来た。俺たちはすぐに仲良くなった。
未熟児で早生まれだった俺は人一倍体が小さく、何をするにも周りに遅れを取っていた。いじめられることも多かった。
そいつはそんな俺にいつも付き合ってくれた。何をするにも二人一緒だった。
一緒に行った入学式。校門で一緒に写真を取り、二人でドキドキして列に並び、名簿を見た。
俺たちは同じクラスだった。
放課後は補助輪の取れたばかりの自転車を漕いで、お互いの家を行き来した。
家に遊びに行く前には必ず電話をした。
当時は携帯電話も無かった時代だ。きっと電話の前で待っていたのだろう。
「今から行っていい?」「いいよ、早く来てね!」
社宅の庭で、よくボール投げをした。縄跳びをした。鬼ごっこをした。かくれんぼをした。
夏休み、一緒ドラゴンボールの映画に行った。二人で特典のジャンボカードダスを片手に、20円のカードダスを回した。
ある時、そいつの家で、そいつの兄が持っていたドラクエ2をやった。
まだ小学校2年生になったかならないかの頃だ。あの難しいゲームを進められるわけがない。
どうすればいいかわからなくて困っていた時、なんとなく俺が言った一言。
「その緑のやつ話しかけたら仲間になるんじゃない?」
知っていたわけじゃない。ただの偶然だ。
でもその緑のやつ、クッキーという名のサマルトリアの王子は本当に仲間になった。
「すげー!」「なんでわかったの?!」
俺は仲間になったこと、役に立てたことが嬉しくて泣いてしまった。
2年生の夏を過ぎた頃、残念そうな顔をした親から告げられた。
そいつが転校するということを。行き先は海外だということを。帰ってくるのは6年後だということを。
俺は泣いた。嫌だと喚いた。7歳の子供にとって、6年は永遠に近い時間に感じられた。
俺とそいつは手をつないで館内を回った。楽しかった。もうすぐ会えなくなるなんて信じられなかった。
船の舵の前で、2人で一緒に写真を取った。それは宝物になった。
3月になり、ついに別れの日が訪れた。
初めて乗る始発の電車。ガラガラの席に2人並んで、いつもと変わらない話をした。
どうか着かないで欲しいと願いながら、やっぱり行かないと言って欲しいと願いながら。
「バイバイ」「手紙書いてね」「6年後絶対会おうね」「約束だよ」
5年生の頃だ。
俺には障害のある伯母がいる。障害は軽度ではあるが、少し言葉が不自由だ。
クラスメイトが、その伯母の口真似をしだした。
俺は子供ながらに、これは絶対に許してはいけないことだ。人として怒らなければいけないことだ、そう思った。
そして口真似をされたら、瞬間湯沸かし器のように怒り、殴りかかった。
当時の俺は学年で一番体が小さく、力も弱かった。
殴りかかられても怖くもなんともなかったのだろう。皆面白がって伯母の口真似をするようになった。
その度に俺は泣き、顔を真っ赤にしてそれを言ってきたやつらを追いかけた。
親には言えなかった。泣いて帰って来ても、「チビと言われた」と嘘をついた。
その時自分を庇い、寄り添ってくれる友人は一人もいなかった。
俺は思った。そいつが、親友がいればこんな辛い思いはしなかったはずだ。
泣いている俺に寄り添ってくれたはずだ。皆に止めろと言ってくれたはずだ。
シールにはにっこり笑ったイラストと、「ゆっくり育っていくんだよ」と文字がプリントされていた。
俺はそのシールを、自分にとって一番大切なものだったスーファミの本体に貼った。
なんて返事をしたかは覚えていない。
時は過ぎ、中学2年生になった。
あの別れから6年後。ついにそいつが帰ってきた。同じ学区内。同じ中学校だ。
その頃はもう周りも悪いことだと気づいていたのだろう、伯母の口真似をされることはなくなっていたが、
未だからかいの対象になることも珍しくなく、鬱屈とした気持ちはずっと抱えていた。
俺は早く親友と会いたかった。親友と再会すれば、きっと俺の味方になってくれる。
あの頃のように人生はまた楽しくなる、そう思っていた。
始業式の日、ドキドキしながら学校に向かい、クラス分けの名簿を見た。そいつと同じクラスだった。
教師からの紹介が終わり、下校の時刻になった。俺はそいつのところに行った。
俺たちは手を取りあって6年ぶりの再会を喜んだ。
どんな音楽を聴いていたのかを知らない、どの野球チームが好きだったのかを知らない。
そいつが誰と仲が良かったのかも知らない。いや、どうしても思い出せないんだ。
そいつは昔とは変わっていた。カッコつけたがりで、多少勉強ができることを鼻にかけ、
スクールカースト上位グループに絡みたがる痛々しいやつになっていた。
いや、それは俺の負け惜しみなのかもしれない。実際にそいつはリア充だったのかもしれない。
そいつは部活も同じテニス部に入った。俺がいるから入ったと、初めにそう聞いたような気がする。
俺は部活に熱心では無かったが、それでも何回も一緒に練習しているはずだ。
一緒に他校に試合に行っているはずだ。一緒に合宿に行っているはずだ。
でも俺にそいつと話した記憶は、笑いあった記憶は、共に時間を過ごした記憶は、一つも残っていない。
何故そうなってしまったのか。拒絶したのはどちらだったのか。恐らく、お互いに失望していたのだろう。
俺は当時、歩み寄らなかったのはそいつだと思っていた。自分の気持ちは変わっていないと思っていた。
でも本当は拒絶したのは俺だったのかもしれない。変わってしまったのは俺だったのかもしれない。
いけ好かないやつになってしまった、そう思うことで自分のプライドを守っていたのかもしれない。
ドラクエVをやって、隠し部屋のヘンリーを見つけて、「あいつ仲間になるんじゃない?」って言い合って、
そして人生で一番辛かったときに、そばにいてほしかった。俺を救って欲しかった。
そうして育んだ絆の上に、「それ以降」が続いてほしかったんだ。
俺の部屋の、そいつから貰ったシールが貼られたスーファミは、その頃にはもうプレステに代わっていた。
先日の話だ。登録しただけで何も書いていないFacebookに気まぐれにログインした。
今でもドラクエで誰かが仲間になった時の音楽を聴くと、少し涙が出そうになる。
「あの緑のやつ、話しかけたら仲間になるんじゃない?」「すげー!」「なんでわかったの?!」
俺には幼少の頃、親友がいたんだ。
福岡で司祭をやっていたが宗教弾圧で長崎に逃れ、1年後に病死。享年43
弾圧から逃げながら各地を流浪し20年間布教活動したが捕縛され、「穴吊るしの刑」で逆さに吊るされ4日目に死亡。享年65
弾圧から逃れマカオへ移住し以降は平和に暮らし15年後に死去。享年60
・千々石ミゲル ←墓の奴
皆と共に神学を学ぶも奴隷制に疑問を持ち棄教、キリストアンチと信者両方に命を狙われる。享年64
時の大名、宗教洗脳が儲かるけど仏教はもう既得権益があって新規参入が難しいのでキリスト教に目をつける
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大名に自分も棄教したいと相談され、キリスト教はゴミカス人身売買組織だからそうしろと発言 一緒に宗教弾圧
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長年の布教で藩はキリスト教に感化された者が大量におり反発が多く、大名は信仰を続けることにしてミゲル追放
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伝承ではミゲルの墓は「憎い大名を睨みつけられるように大名の土地を向いて建てられた」
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Valorant(ヴァロラント)についてはググれ
→VCT(Valorant Champions tour)の Stage 1: Masters Reykjavík
ヴァロラントの世界大会の一つで、Mastersと呼ばれる世界大会2回(とその地域予選の結果)でポイントが与えられ、年末に行われるChampions(その年の世界王者を決める世界大会)への参加資格が得られる。
2回のMastersでChamiponsへの出場権を獲得できなかった場合、地域内での上位チーム同士がLCQ(Last Chance Qualifier)という地域予選で残りの出場枠を争うことになる。この際、Mastersの予選では別の地域扱いだった日本と韓国が同じ地域として戦うことになるため、Mastersで好成績を残してChampionsへの出場権を獲得する方が有利ということになる。
(今回の大会はMastersの第1回。ZETA DIVISIONは既に多くのポイントを稼いでいて、他の日本チームがMasters Stage2で優勝しない限りChampions出場権を獲得できる見込み。)
→本日深夜2時に行われるのがルーザーズファイナル(VCTはダブルエリミネーション方式なので、1敗すると負け側のトーナメントに移動する。そこで負けると敗退・帰国決定。)で、3位決定戦。
ZETA DIVISION(ZETA)→日本地域1位のチーム。今大会では新メンバー3人と古参メンバー2人という新体制で出場していて、特に新メンバーのSugarz3ro選手、TENNN選手のフィジカルの強さが目立つ。
本大会初戦で惨敗した韓国チームDRX相手にリベンジを遂げるなど、マクロ面でも確かな実力を示している。
OpTic Gaming(OPTC)→北米地域予選2位のチーム。だがPlayoff(決勝トーナメント)にてシード出場した北米予選1位のチーム The GUARDを2-1で破っており、実質北米1位のチーム。
"El Diablo"との異名を持つ世界的エースプレイヤーyayが所属するチームで攻撃力が非常に高い。
ルーザーズファイナルとグランドファイナルはBO5(5戦中先に3勝したら勝ち)のルールで、ヴァロラントには現状7マップしかないので、2つがBAN(戦いたくないマップを除外すること)されてあとのマップは全て使うことになる。
どのマップがBANされるのが濃厚か予想すると、
OPTC側:Breeze(OPTC側が地域予選で全敗、大会本番ではBANしつづけている。ZETAもBAN選択第二優先に入れているマップ。)
ZETA側:Ascent(基本的にZETAがBANし続けてきたマップ。ZETA側がそこまで作戦を練れていなさそうな印象。OPTC側が大会で良い成績を残していないマップでもあるのでもしかしたら放置になるかも)
Icebox:ZETAが良く研究しているマップの一つだと思うが、OPTCvsDRX戦を見る限り、yay選手一人に完全に破壊されそうな予感がする。ZETAvsPRX戦ではPRXにmid意識が薄い所を完全に突かれており、ZETA側がここの対策ができているかも心配になる。
Fracture:ZETA、OPTC共に大会勝率が100%のマップ。OPTCのvictor選手が操るネオン(大会で使ったのがvictor選手だけという変わったキャラクター)への対策が肝になりそう。ZETAのcrow選手の完璧なA側コントロールに期待。
Split:ZETAが良く研究できているマップ。このマップはZETAが確実に取りたいマップ。OPTCは第二BAN候補に入れている感じなので苦手な可能性もある。
Bind:ZETAはG2相手に善戦していたが、地域予選での結果を見るにOPTC側の得意マップっぽく、厳しい戦いになるだろう。ZETAのTENNN選手の爆発力が出るか、Dep選手が安定するかにかかってくる。
Haven:ZETAの勝率が低いマップ。PRX戦で勝ったとはいえ、あまり得意マップとはいえないのではないか。OPTC側も戦績が決していいわけではないが、フィジカルの差がどう出るか。
OPTCが勝つと思うけど、決勝がOPTCvsLOUDの再放送になるのはつまらないので、ZETAにも頑張ってほしいなって思ってます。
LOUDはブラジルのチームで、去年の途中までブラジルも日本と同様に「最弱地域の一つ」と言われ蔑まれてきた境遇なので、できれば日本対ブラジル戦が見てみたいという気持ちはある。
商用車ベースの車は30万km程の走行距離は当たり前で有り、実際にタクシーや業務用のマイクロバスも50万kmオーバーの車も平然と存在し、会社の社用車も大体、40万km程は普通に乗っていると言われています。
私のサクシードに関しましては、所有して現在で約10年程になりますが、今までに大きな故障やトラブルは特になく、エンジンオイル、オイルエレメント、タイヤ、ワイパーゴム、バッテリー等の、どなた様でもお車に乗られている方でしたら定期的に交換する部品以外のパーツですと、今までにブレーキパッドを3回交換、ブレーキローター(ディスク)の交換を1回、ウォーターポンプの交換を1回、エアーエレメントの交換を3回、ATFの交換を1回、、、、以上の各部品を交換したくらいで普通に乗れています。
勿論、正規ディーラーに定期的に有料のメンテナンスに出していますので30万kmオーバーの走行でも無問題なのですが「ガソリンの補充以外は面倒でお金が掛かるから放ったらかし」という扱いを長期間実行しますと、いくら頑丈な商用車ベースの車も余り長持ちはしないと思います。
商用車ベースの車は普通乗用車に比べますと走行時の振動が強く、社内装備も非常に質素の上、自動車保険が多走行用途の車種という扱いやカテゴリーに属する為、保険料が割高というデメリットは有りますが、とにかく、長距離運転走行を頻繁に行っても車本体の劣化が余り無いというのが最大の利点なのです。
これは、私の知人で仕事にてアメリカに実際に1年程、出張で行っていた人に帰国後に聞いたお話なのですが、アメリカ国内では日本とは車の用途や所有、実際の使用や乗用に関する価値観が異なり、商用車でないプライベート用の自家用車でも20万km程の走行距離は遠方ドライブを余りしない人でも、普通にある事なのだそうです。
アメリカは国内が非常に広くて、地域によっては決してアメリカ国内の郊外の住宅地の地域が、極端な僻地の田舎という事では無くても普通の買い物にも片道50kmオーバーの距離のショッピングセンター等に出掛けて行くのが日常の様でして、日本国内在住の日本人の人で「用事は全て至近距離で済ませる、、、長距離運転が嫌いで面倒、、、。」という人では到底、理解し難い事柄や行為がアメリカでは大半の人が普通に行っているそうなのです。
実際に私の知人もアメリカに滞在中に、会社が用意した社員寮から最寄りの繁華街までの距離が100km程の距離があったらしく、休日に超距離運転を行うのが当たり前になり、帰国してから「長距離運転に随分と慣れてしまった」と感想を述べていました。
ですので、アメリカ在住の人からしてみれば、日本人の車の所有や購入に関する考え方や価値観が「贅沢過ぎる、、、。」と思っているアメリカ人の人が多いと帰国した知人から実際に聞きました。
と言いますのは、私の周りでも、そこそこに多くの方が実際に、その様にしている人が多く見受けられるのですが、日本人は「車の所有年数が8年~10年程or走行距離が10万km前後になると、車の機能上に何の不備がなくても買い替える」という感じ方や価値観の方が私の周りでも実際に多くおられます。
上記の日本国内での日本人の車の買い替えの平均的なサイクルや買い替え動機のお話を、私の知人がアメリカ人の同僚に話しました所「はぁ!?、、、10万km近い走行距離の到達で新車への買い替えを感じたり実行するのか!?、、、、日本人は相当に金持ちで贅沢なんだなぁ、、、アメリカでは20万km程の走行距離への到達なんて何でもない事なんだぞ、、、。」と、少し怒り心頭で反応を示すアメリカ人の方が大半であったそうなのです。
日本国内にて大多数の日本人の車の買い替えの平均的な基準は10年前後の所有or10万km程の走行距離への到達が買い替えに対する指標や基準なのかなと私個人は独自に感じています。
要は、日本人の大半の人の車の買い替えの動機が車本体の機能的な著しい劣化ではなく、気分的な「飽き」が理由であると言われているのです、、、勿論、全部が全部の人ではなく、一部の人は一台の車を末永く乗る方も実際におられますので。
但し、日本の国産車のメーカーは、私や一部の人の様な「一台の車に長く乗る」という価値観の人よりも、飽きが理由でまだまだ乗れる車を買い替える人が多ければ多い程、自動車製造会社は車が売れて潤いますので自動車メーカーからしてみれば、私の様な人間は余り好まれないのだろうなぁと思っています。
私自身も私がお付き合いがありますトヨタの正規ディーラーに行く度に「そろそろ新車はどうですか?、、、、長距離走行が多いのでしたら燃料代が安く済むハイブリッド車への買い替えは如何ですか?」と毎回の様にセールスマンから言われますが、ハイブリッド車は私個人の考えで言いますと「燃料代が安く済む」という事以外の事柄全てがデメリットやリスクが有ると考えているのです。
ハイブリッド車はまだ実用開始から歴史が浅く、燃料代が安い&運転時の騒音が静かであるという事以外は利点が無いと感じていまして、ハイブリッド車は「多走行による耐久性」には現時点では優れていないと考えているのです、、、実際にハイブリッド車の電池類が故障した場合、相当に高い自己負担額=自腹金の負担が有ると聞いた事があります。
因みに日本の自動車保険は今現在ですと全社共、いわゆる「自然故障」時は一切、修理代としての保険金は全く支払われず、相手がいない単独での車の修理代としての保険金の支払い対象の事案は「ぶつけた、こすった、ぶつけられた(当て逃げ)、雹(ひょう)等の自然の氷の空からの落下での車の破損、車上荒らしの被害時等」でしか保険金は支払われず、ある日突然、車に乗ったら異常が発生し、ディーラーにて診断後に多額の修理代金が必要な故障と判明した場合の自然故障では一切、保険金は支払われず自腹になる為、ハイブリッド車は今の現時点では、私は乗ろうとは思えないのです。
仮に先々、今現在のプリウスやアクア等の車種で、走行距離が40万kmほどに達しても平然と問題なく乗れるという時代や技術の進歩が到達したら是非、考えたいとは思っています、、確かにプリウスやアクア等の燃料代の安さは魅力的ではありますので、、、。
理系Fラン大卒、男、40歳、部下無し管理職、3人家族、TOEIC4年前に850点ぐらい、今受けても変わってないかも。
上場製造業で買収企業のインテグレーションと事業企画と管理、製品はハイテク世界最先端だと思う。事業規模はまだまだ小さい。
収入の部
月給:6万/月、手取り:3万/月
年金の標準月額は65万で、最高額設定
月給:手取り:$9,000/月
手当
支出の部
家賃 $2800、お宝物件、同じレベルの物件に引っ越しすると $4000越え、子供のいる家庭は学区が命
食費 $1200、日本食は割高
水道光熱費 $300
車のリース $190
交際費など $500
$250,000
900万円
駐妻。子なし。ビザの関係で就労できなかったのでボランティアしたりゲームしたりYouTubeしたり趣味の創作物で確定申告しなくてすむ程度の小金を稼いだりしてた。
最初の1,2年は仕事してないことへの罪悪感とか夫のお金だけを使うことへの罪悪感がすごくて鬱っぽくなったけど、鬱っぽくなったところで誰にもケアしてもらえないのでもうええわいな! って感じで生活以外のことに夫の金を使うことに躊躇がなくなり、趣味に打ち込んだりサボったり家事をまめにやったりサボったりして今に至る。家事が適当になってもならなくても金遣いが荒くなったりなくなったりしてもそんなに頓着のない夫でそこは助かった。
ほんとは夫の退職までいまの国に済む予定だったんだけど、いろんな事情があって3年以内日本に帰らないといけなくなった。本帰国がいつになるのかはまだわからない。1%くらいの確率で本帰国がなくなる可能性もある。が、一応来年帰国するつもりで行動しようと夫と話し合った。
でも帰りたくないよおおおおおおおおお!!!!
子なし専業主婦なんて人によると思うけど私にとっては慣れたら快適でさ、好きなだけ寝られるし、コロナ禍までは夫の出張多かったから友達呼んだりとか、ゲームとか漫画とかアニメとかでひねもすよもすがら過ごしてもよかったし、働いてなくても「ビザ降りないんだから仕方ないよね」って許されたし、駐在妻仲間もいい人ばっかりで趣味の話できる人もいて、趣味繋がりで現地の友達もできて、本は電子書籍になっちゃうけど夫の稼ぎのおかげであんまり躊躇せずに買えた。生活には一切困らなくて本当に快適だった。趣味や家事を極めるもよし消費に身をやつしてもよし(家計を圧迫しない程度に)、飼い猫と一日中遊ぶもよし、たまの一時帰国にはちょっといいホテル泊まって茶会や観劇もよし、のんびり過ごすもよし……。
今の時期なら某エアラインのビジネスクラス用ラウンジ開いてないからファーストクラスラウンジに案内してもらえてシャワーも待たずに使えるし(ビジネスクラスラウンジのシャワーは時間帯にもよるがだいたい混んでた)、寿司職人の握った寿司が食べ放題だったりして超快適なんだよ。ビジネスクラスラウンジと違ってセルフサービスじゃなくてちゃんと係員の人が持ってきてくれるの。某ミシュランのラーメンも食べられたんだけど、上品で滋養に満ちた味がしてあんまりにも美味しかったから感激しちゃって「とっても美味しかったです!」って係員の人に言っちゃった。化粧品とかアクセサリーとか、ちょっとしたプレゼントなんかを年に一度の帰省の折に空港の免税店や機内販売で買うの楽しみだったんだけど、日本帰ったらコロナ禍落ち着くまでは国際線には乗らないだろうな。
親兄弟だって仲は普通くらいなので年に一度会うくらいでちょうどよかったし向こうも「◯◯国に姉/娘が住んでる」みたいなのけっこう話のネタにしてたみたいだからめっちゃガッカリするだろうな。仕事が忙しくて、引退したらこっちの国に旅行したいと行っていたけどコロナ禍でダメになっちゃったし。まあ日本に帰ったら、万が一親が危篤になったらすぐ帰れる、というのは救いだけど。
日本帰ったら東京に住むことになりそうで、夫の海外赴任手当がなくなる分給料がかなり目減りするしそのくせ家賃高いし家は狭いし人は多いし通勤時間長そうだし生活音に気を使いそうだし相互監視社会みたいで嫌だし私ができる仕事だってきっとなさそう。40歳目前の10年ダラついた専業主婦やってた奴なんか誰が雇うんだよっていうかパートやバイトもできる気がしないし今さら働くための資格勉強とかできる気がしないよ! フォークリフトの免許はちょっとほしいけど。夫にも「働くとこなんてないでしょ」みたいに言われるんですけど! 支出減らせばなんとか専業主婦でいけるかな? YouTubeのよめ子(夫の手取り15万円でも専業主婦したいというコンセプトで食事作りから始まって今では家をリノベまでしてるスーパーサイヤ人系主婦)女史みたいなガッツとセンスがあればいいんだけどそんなのない! 趣味で稼ごうにも、YouTubeチャンネルはあるんだけどセンスなくて5年やってるくせに登録者500人くらいしかいない。歌ってみた系統なので収益化なんて夢のまた夢(※動画を上げると権利持ってる会社からコピーライトクレームがつき、たとえ登録者1000人超えていても動画に広告を入れられない)。
いま住んでる国、国自体は豊かだけどかなり田舎のほうだから娯楽は少なかったけど、めちゃくちゃでかいピックアップトラックで大平原みたいなところをひたすら走ってだーーれも来ないだだっ広いビーチパークで水平線をボケーと眺めながらドライブスルーで買ったスタバのピスタチオフラペチーノベンティーをすするとか、もう二度とできないんだろうな。
あと飼い猫が外飼いなんだけど、東京に連れて行くつもりだからそうなると室内飼いになるので、ちょっとかわいそうかな……と思う。そういえばウクライナからペット連れて来た人がニュースになってたね。海外から日本に犬猫連れて帰るのは書類やら手続きやらが面倒だしチップ埋めたりワクチン二回打たないといけなかったりするから準備日数もかなり必要なんだよね。一緒に帰れるようがんばらないと。
「日本」に2年ぶりに帰国したら驚いた「空港」「学校」「スーパー」のヤバい現実
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/93353?page=4
まさに「エリートクズ」というべき人間だなあ。「老人支配」のせいなわけないだろ。
なんでペーパーレスと電子化が進まないのかって、民間企業については「人力より電子決済システムを導入するコストの方が高い」、行政については「電子化を導入し、それを担う高度IT人材を雇うための予算がない」という単純な問題につきる。
前者は賃上げ抑制と雇用の非正規化を進めてきた経済界の責任だし、後者は官僚・行政と公務員をバッシングをして予算と歳出の厳しい削減を求めてきたメディアと世論の責任だろう。この岡村みたいな「意識高いグローバル人材」はその中心にいたはずで、なんで他人事みたいに批判しているんだろうか。
普段は寮なんだけど、俺のカレッジ(ユニバーシティのなかにカレッジがいくつもある感じ)の寮は古くて寒くて暗かったし、家族とか彼女が遊びに来ることもあったからメイフェアにフラットを借りて休日とか長期休みにはそこで過ごしてた。帰国するほどの時間はない休日にカレッジと寮の友人を誘ってそこで茶会を開いた。茶会って言っても紅茶ときゅうりサンドイッチ、スコーン、あと意外にファンが多かった日本のポッキーとか用意するだけの簡単なやつ。
それでたまたま同じ日にメイフェアのホテルと百貨店に女王陛下が来ると知って、冗談で招待状を書いた。冗談って言っても「Dear Her Majesty the Queen」の書き出しからちゃんと書いた。手紙には「皇太子殿下(今の陛下ね)が留学中に殿下に良くしてくださって日本人として感謝申し上げます」、という内容を添えた。イギリスでは国民が王室に手紙を出したりプレゼントを送ったりすることが普通にあるのでそういうのを担当している王室の事務所(日本の宮内庁と違って政府から独立してる)に出した。
もちろん女王陛下が直接来るとは思ってなかったし、返事すら来ないと思ってたけど、返事が来て感動したなぁ。返事には女王陛下と王配殿下はあなたの招待にとても感謝しているが、残念ながら行くことはできないということと、皇太子殿下と交流したことはとても良い思い出であり、今も日英関係のために尽くしてくれていることを感謝しているという内容だった。
どうやら、日本人も含めた敵国はロシアに入国を制限されるらしい
Twitterを見てると、在露日本人達がクレカ使えなくなって生活出来ないと嘆いてる
日本のクレカも停止され、クレカでATMからルーブルを引き落としてたみたいで、残りの手持ちのルーブルが尽きれば終わりらしい
クリミア半島でドンパチあったころからロシアなんて危なかっただろうし、ロシアが侵攻する前は散々アメリカも警告してた
実際に戦争が起こった後は、ロシアは渡航中止勧告が出てるし、大使館からも何らかの情報が提供されてるだろう
経済制裁した日本政府が悪いと騒いでるが、たかが現地の日本人と、アメリカのご意向のどっちが大事なのかって話
これでも不満ばっかりなんて、同じ日本人なのに恥ずかしいな