「中人」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 中人とは

2022-11-22

小説を書く人に言いたい

急展開を作中人物に言い訳させるな

「オイオイ急展開だな」

「き、急展開…」

「急展開すぎるよ~!」

じゃねえんだわ

何がタチ悪いかって、それで急展開の禊が済んだと思ってる作者の多いこと

なぜ物語が一気に進むことになったのか、裏で何があってこうなったのか、その描写がない

本当に急展開のまま進んで終わる アホか

下手な話運びが原因だって自覚があるならキャラクター言い訳させるな 頼むから

2022-11-20

anond:20221119161631

お話のために創造された作中人物は派手に救われていくのに、リアルオーバーラップさせた(悪く言えば涙を誘うためのギミックとして導入された)「辛いめにあった子供:幼いすずめ」と「その周りにいてその子ケア責任を持たざるをえなかった人:環さん」の救いが中途半端で終わってリアルと言えばリアルなんだけど、もうちょっとなんとかならんかったん?と思った

2022-11-02

anond:20221102224008

トヨタ利益上げるより台数作る=人を雇うこと(クビを切らないこと)を重視してるから

どうにも人が余り気味になりそうだから工場跡地にムダに町作るレベル

正直世の中人手不足なんだから人余って道楽に回すくらいならクビ切ればいいのにって思うけど

anond:20221102131349

あとニュース番組の後半がスポーツコーナーになるのもやめてほしいわ。

全部の時間ニュースやってほしい。

世の中人野球とかサッカーとか好きすぎだろ。

2022-10-08

anond:20221008141304

ほんとそれ。転職して給与上がったんだけど隠してるわ

散財もしてないけどね。増えたお金技術書買ったり、次への投資

職場でもいつもボロめの服着てる。

今の世の中人より金かかった格好しても絶対いいことないわ。

2022-09-09

anond:20220909121232

死ねばいいと思うよ。消費税増税必要

お前らみたいな自己中人間を憤死させていい日本にする為に。

2022-09-01

百合BLヘテロも等しく恋愛モノってのはある種のつまらなさやくだらなさを内包したジャンルでしょ

結局のところは「作者の匙加減でいくらでも調整できるハードルの先に置かれたトロフィーを手に入れるまでの茶番」もしくは「一部読者にとってポルノ的な効果があるシーンをひたすら繰り返すだけのワンパターン」でにしかならないんだよね。

恋愛ものには

恋愛成就系」

破局復活系」

失恋系」

「ヤマ・オチ・イミなし系(やおい)」

の4系統があるんだけど、このうち前半3つが上で上げた「作者匙加減トロフィーゲット系」で、最後ヤオイが「惰性型ポルノ連発系」に該当する。

トロフィーゲット系」の物語は「相手との恋愛関係」「最高の思い出」のどちらかを主人公が手にするまでの物語を描いているのだが、その物語は究極的には1話で終わらせられる話を延々と引き伸ばしてるだけの薄めきったカルピスにほかならない。

恋愛成就系」であれば「付き合ってください」「OK👌」で終わる物語を延々と先送りにしているだけ。

破局復活系」であれば「ヨリを戻そうぜ」「OK👌」を引き伸ばしてるだけ。

失恋系」であれば「でも楽しかったよ」で主人公が笑い泣きしておけばいつだって切り上げられる物語である

まれ打ち切りだったり作者がぶっ壊れた果ての逆張りで凄い終わり方もするが、それは単にカルピスを薄め続けている間に誤ってコップを倒しただけであり、やっていたことがカルピス無限水割りであることに変わりはない。

これらの物語は結局のところ、作者が登場人物の行動をひたすら阻害しているだけであり、登場人物が正しいアクションを取れば物語は本当に一瞬で終わるはずなのだ

言ってしまえば「トイレに行きたいけど無理して我慢してる小学生の様子を延々と描写している」ようなものだ。

ただ主人公が「やっぱトイレ行ったほうがいいぜ!」でトイレに行けば開始1ページで物語は終わる。

しかし作者の都合により話は引き伸ばされ「プルプルしてるのを友人に指摘される」「すかしっぺでガス抜き成功し誤魔化して一時的に復活する」「勢い余って少し漏れたことで急激に自体悪化する」といったイベント飛び込み差も物語は劇的であるかのように振る舞う

しかしそれらは結局は主人公が「やっぱトイレ行かないと何も解決しないぜ!」でトイレに行けばその瞬間に終わる物語であるはずなのだ

そうしているうちに収集がつかなくなったとき、突然主人公が「やっぱトイレ行くぜ!」といきなり宣言するか、破綻した物語に相応しい終わりとして盛大に漏らしてしまうのだ。

やっとトイレに行った主人公や漏らした主人公がやけにスッキリした顔を描いて作者は「やりきったぜ!」となるし、読者によっては「よかったね!よかったね!」と喝采を浴びせるのである

しかしそれでやっているのは「1ページ目でトイレ行っておけよ」でしかないのだ。

これが「トロフィーGET系」が持つ圧倒的くだらなさだ。

恋愛漫画にはもう一つパターンがあり、成就した恋愛をダラダラと描き続けるタイプが有る。

これらの漫画はただひたすらに恋愛成功して幸せに暮らす様子が描かれるが、そこに物語としての起伏はもはや存在しない。

主人公カップルたちのデートシーンを見て「羨ましい~~~」と読者が楽しむだけである

やっていることはグルメ番組シズル感ある映像を見ながら「まいう~~~」とタレント感想を述べるのを見ているのと同じ状態である

コンテンツのあり方としてこれは実にくだらない。

三大欲求の一つである性欲を間接的に刺激するような延々と続く前前前戯のシーンを見てココロチンコマンコを読者がクリクリしてオナニーするためだけにこれらの作品存在する。

読者にとって恋愛対象となるキャラクター達が恋愛をしている様子を見て、ピーピングトムとしての快楽に浸っているのである

恋愛作品ときにはセックスを直接描写するが、それはまさにこのピーピングトム向けのご褒美なのだ

だがその内容がセックスでなくても、性欲依存の覗き趣味を満足させるための作品なのは変わらない。

銭湯盗撮をする行為をしたからといって相手レイプのような傷を残すことがなくても、結局それを見て性的興奮を覚えるのと同じく、程度が違うだけでしかないのだ。

恋愛物を楽しむココロの延長線上には必ず性欲がある。

性欲に依存しているだけの低俗コンテンツ

それが恋愛モノであり、それが最も顕著なジャンルヤオイである

これらの要素は作中人物たちの恋愛観がホモであろうがヘテロであろうが異種族間であろうが変わることはない。

各々の読者が自分なりに納得の行くオカズを求めてそれらの作品を選ぶのだから、結局それらは性欲に基づいた茶番の覗き見でしかないわけだ。

実に気持ち悪くい。

そして程度が低い。

私は恋愛物が面白いなんて思えない。

それがどんなジャンルであったとしてもだ。

あんものを見るぐらいなら堂々とポルノムービーを鑑賞する。

たとえば君達も映画で盛り上がっている時に急にラブシーンが始まると興ざめすることがあるだろう?

あれは結局のところ、性欲が高ぶっているわけでもない時にポルノムービーを見ているの同じ状態からだ。

満腹の時にかぐ焼肉匂い悪臭であるのと同じなのだ

眠くない時に寝ようとすることが苦痛なのと同じなのである

本当に中身があって面白いコンテンツであれば、そういった本能的な満足感さえ超えて圧倒的な力でこちらの感性をこじ開ける。

それこそ今まで知らなかった価値観さえ提供してくれるだろう。

だが恋愛物が提供するのはどこまでも性欲の延長線上にあるものだけだ。

実に低レベルだ。

人類はさっさとこんなものを有難がるのを辞めろ。

anond:20220830221946

2022-07-31

anond:20220731153355

1と2の中間というか、偉業は有名でも本人は作中人物に殆ど知られていない程度の知名度理想

登場した瞬間読者だけがウオー!ってなるのがよい

2022-07-28

説教臭さ」とは何かについて考えている

自分説教と思わなかった文章説教だと受け取った人を見かけて、なぜ違いが生まれるのかに興味がわいた

説教辞書的な意味は「上の立場の人が目下の人向けに教え導くこと」

その一方で説教臭い辞書意味は……Web辞書説教臭い見出し語がなかったので正確なところがわからないが

接尾語で「くさい」がつくと「いかにもそのように感じられる」くらいの意味付与されるので

いかにも説教っぽいと感じられるくらいの意味

これって「受け手説教と感じる」ことを「説教臭い」と呼んでいることが分かっただけだ、なぜそう感じるかこそに興味があるのに

辞書意味からアプローチするのは失敗だった

いや、得るものはあったか

説教辞書意味を換言すると「上から目線で教えを示す」くらいの意味になるはずで、この上から目線が鍵か

まり何かの文章説教解釈する人は「上から目線」「偉そう」などのニュアンスを他の人より敏感に感じ取っているという仮説を思いついた

ただこの仮説は少し的を外している感もあるか

説教臭さを感じない人も「良い啓蒙じゃないか、"えらい"なあ」と偉さを感じているケースもあるだろう

このケースで説教臭さを感じる人は「説教臭いなあ、"えらそう"に」と思うだろうな

このえらいとえらそうの差は着目すべき点か?わからない、今はいったん保留しよう

説教臭いという場合にはそう感じた人は不快感を感じているはずで、その何故不快に思ったかというアプローチの方が筋がよいか

そう考えるのであれば「えらい」なら不愉快ではなく、「えらそう」なら不愉快か?

これもピントがずれている感が少しあるな……

一旦とりとめのない思考メモを書くのは中断してまた後で考えるか

続き

とりとめのない考えをするときは考えが発散しないように注意しなければいけないと自戒

自分で書いた文章だが

自分説教と思わなかった文章説教だと受け取った人を見かけて、なぜ違いが生まれるのかに興味がわいた

最初に書いているが、きっかけとなったその文章はこの思考メモ中には引用していないわけで

その文章を明示しないままにその文章固有の特徴をイメージしながら書いてしまうと的が外れるのも当然だ

トラックバックにこのような意見が書かれていた

全文引用失礼(増田一定期間で投稿を消してしまう人がいるので後から自分が見返せるように)

上から目線不快に感じるということは自分が下に見られるのが不快ということで

尊敬する相手から格下と扱われても納得する気がするから

自分と同等もしくは見下している相手に諭されるのが不快なんじゃないだろうか

説教くさくて嫌、という愚痴ときって「あいつだって~~のくせに」ってなることが多そうだし

まあつまり相手が嫌いなだけでは

なるほど、納得感がある

的をかなり中心で射ているように見える

例外ケースが何点かある予感がある、それのフォローが出来ればよいが

考えてみるか

例えば駅構内の「痴漢犯罪です」に説教臭さを感じる人を見たことがある

この場合どの相手を嫌いなのか、誰から見下されているのかというのがはっきりしていないかもしれない

漠然とした「お上」に対する嫌悪感解釈もできるか?

であればこの解釈適用できるか

他のケースでは小説で作中人物が政治思想を語りだしているのを見て説教臭さを感じるケースはどうか?

この場合はうまく当てはまるか微妙な気もするが……

あえて言うなら作者に対する嫌悪感、「作者よお前は何様なんだ?」という感情

しかしこれではとても悲しい推論が導き出せてしま

なんでもかんでも説教に見えてしまう人はなんでもかんでも嫌いに感じているということになってしま

嫌いだから見下されるように感じるという理由けがされるのか

見下されていると感じたから嫌いなのか

どちらが卵でどちらが鶏かはわからないし、おそらくどちらの場合もありそうな気もするが

この結論結構危ういから避けたいなあ

レッテル貼りになりかねない、わかりやす理解に流されてはいけない

もう少し考え続けよう

続きを考える時用のとっかかりメモ

説教臭さの不快感の根源は「うっせえわ!」という感覚かもしれない

 何故私は「うっせえわ!」と思わず別の人は「うっせえわ!」と思うケースがあるのか、それを考える

・また、「自分と同等もしくは見下している相手に諭されるのが不快」なので「つまり相手が嫌い」は論理の飛躍があるか?

 大筋では近い位置に着地しそうではあるがそうでないケースもありそう、そこを考える

あきまん提唱概念アドバイス罪」も関連するか?要検

 「同じ船に乗っている人のアドバイス有用だが、違う船に乗った人の無責任アドバイス害悪」という思想構造類似性を感じる

・「説教臭い」とされる個別文章の内容にこそ本質がある説

 そもそもどういう文章説教臭いのか?

キーワード唐突感」「他人からの行動の強制」「押しつけがましさ」「うんざり

・以下4パターンについて考える

 説教だが説教臭く聞こえない

 説教説教臭く聞こえる

 説教ではないし説教臭く聞こえない

 説教ではないが説教臭く聞こえる

説教臭いすなわち不快に感じると書いたが、これは自明ではないのでは?そのため上記4パターンさら分岐する

不特定多数に発信されたものと名指しで発信されたものに違いはあるか?

説教臭さを感じる条件に帰属意識関係するか(アドバイス罪の「同じ船」に通じるものがあるか)

・一人の人間がある属性不特定多数人間説教解釈されうるものを発信したとき、そのある属性に属する私がその説教同調し「そうだそうだ、もっと言ってやれ」と共感するケースがあるのではないか

 このときの私は説教を受けていながら不快感を感じていない

 不快感という感情が湧きあがることで初めてこれは説教臭いと気付きやすくなる可能性は無いか

・例えば日本人という属性に対して「日本人は〇〇したほうがよい」と言ったとき、既に〇〇している日本人がどう考えるかどうか

 「良いこと言ってるね」と思った人はそもそも説教されているとは感じない、むしろ説教する側に自分を置いている可能性があるか?

 「私は既に〇〇しているのにうるさいやつだな」と思った人は説教される側に自分を置いている可能性があるか?

仮説:

特定属性集団に対して「Aしたほうがよい」と言ったとき

・その特定属性に属した人が既にAを実施し満たしていた場合不快感を感じない(パターン1)

・その特定属性に属した人がAを実施していなかった場合、「うるさい」に類する不快感を感じる(パターン2)

パターン1の場合不快感を感じていないので説教臭いという感想が出てこない→説教だと思わない

パターン2の場合、押しつけがましさを感じ説教臭いという感想が出てくる→説教だと思う

パターン1の反証、つまり「その特定属性に属した人が既にAを実施し満たしていた場合不快感を感じる」がありえるかどうか

特定属性に属していない人でも押しつけがましさを感じることができるのでは?

イタリア人もっと紅茶を飲んだ方がいい」という文章日本人の私が見ても押しつけがましく見える

この文章を押しつけがましく思わない人がいるとすれば「既に紅茶をたくさん飲む習慣があり意見同調しているイタリア人」なのでは?

話者への共感好感度の影響があるのでは?

好ましく思っている人が言った啓蒙不快感を覚えないので説教という単語連想されない可能

結局はまず「イラッ」とした不快感ありきなのでは?

長くなりすぎた

一度別で整理してまとめよう

2022-06-23

小林泰三キャッシュ

仮想世界の中の話。

その仮想空間では外見、性別、声などを自由に設定できる。

自分だけでなく他人にも設定できる。

まり、私にとっては自分伊達男然としたアバターにしたとしても、相手は私を「アリス」と名付けドレスを着た女性と設定して認識しているかもしれない世界

書いていて気付いたが『鍋に弾丸を受けながら』や『ルーツレポ』と近い構造がある。

『鍋に弾丸を受けながら』は相手の設定を変え、『ルーツレポ』は自分の設定を変え、『キャッシュ』はその両方を変えることができるという違いがあるか。

他人概念(or機能)で把握するので他人名前が覚えられず悩んでいる人がもしも『キャッシュ』の作中人物だったらどうなるだろう。

おそらく、他人機能に即した呼び名を付けることで悩みは解決するだろう。

さて、『キャッシュ』のように相手名前自分用の呼び名に設定できる世界は私が生きている(作中世界ではなく)現実世界で実現しうるだろうか。

少なくとも生身の物理世界では難しい。

では『キャッシュ』と同様に仮想空間現在メタバース空間では可能だろうか?

生身の体が「Aさん」と呼び名を含んだ声を発し、その声が相手に届く前に「Bさん」と自分自分に設定した名前に変換する工程必要になる。技術的に難しそうだ。

生身の人間がゴーグルを被るような仮想空間でも結局はコミュニケーションは音声会話になってしまうので物理世界と同じだ。

現時点でのメタバース仮想空間では解決策としては不適となってしまう。

脳に直接話しかける技術が生まれるのを待たなければいけないだろう。

2022-06-07

[]6月7日

ご飯

朝:なし。昼:天ざる。間食:アイスコーヒーサンドイッチ。夜:うな重

調子

むきゅーはややー。お仕事は、サボっテン。

せっかくのサボっテンなので贅沢を尽くした。

読書もして満足。

明日からまたお仕事頑張ろう。

グランブルーファンタジー

ゼノコキュ琴とゼノウォフ剣を五凸。

EXスキル掘りは気が向いたらやる。(ゼノウォフゴリラ編成では普通に使いそうなんだけどゴリラもないしまあいいかなあ

芦辺拓殺人喜劇の13人

本格ミステリ王道中の王道

なんだけど、作中人物が自戒している通り

「解くべき謎を提示していない」点は、作品構造上仕方ないのかもしれないけど、そこを乗り越えてくれとも思った。

ハウダニットは明らかに前振りに過ぎないと解っちゃったので、こっちとしては早々と見切りを付けてるのに長々と解く件はちょっとうんざり

フーダニットも流石にこんだけキャラが退場している以上、消去法でなんとかなっちゃうのでうーむ。

青春要素も取ってつけたような裏切りと終始ギスギスしてるせいで、イマイチ乗り切れず。

けど、本格好きとしては、作中作! 連続殺人! 見立て! 密室! 暗号! とコードいっぱいで大満足なのも事実

ミステリコードじゃない論? いやこの作品1990年刊行からコードだけで十分なのだが?(史を踏まえて作品評価する相対的読書力を持った素晴らしい読者の鑑感想ブコメなのだが?(相対的読書力とは?

2022-05-11

9時-17時で働いている人ってすごくね?

14時ぐらいに眠くならないのかな。

16時ぐらいなったら集中力下がらないのかな。

 

おっちゃんは、昼飯食ったら昼寝して、午後は2時間ぐらい仕事しつつ、買い物行ったり夕食作ったり、本読んだりしてるから、午後から4時間も働くことないんよ。

午前中仕事して、午後から4時間も働くとかムリムリ。

世の中人って凄いな。

2022-04-28

ゴールデンカムイドストエフスキー

尾形がもろにドストエフスキーの作中人物っぽい!と話題になってたけど、アチャもそうだよね。

あの清廉なリーダー/無情なテロリストの振れ幅が『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャの数十年後の姿っぽい。

ゴールデンカムイ完結に寂しくなったら、ドストエフスキーを読もう)

2022-03-08

二次元キャラ権利侵害、あるいは『Forest』という物語について

物語」そのものを描いた物語というものがある。

例としては『UNDERTALE』『ひぐらし/うみねこのなく頃に』『Forest』など。

例として挙げた物語共通する特徴がある。

それは第四の壁破壊だ。

「作中人物が現実世界の我々を認識し、我々に向けて語りかけてくる」というメタ構造と書いた方がわかりやすいか

これらの物語で作中キャラクターは例えばこのような趣旨のことを語りかけてくる。

ゲームリセットして消さないでくれ。あなたにとってはゲームだが我々はこの世界に生きているのだ。」

奇跡が起きなかったのはあなた奇跡が起きると信じなかったからだ。」

この語りかけは物語世界がどこかに存在するのではないか聞き手錯覚させる。

そして錯覚ではなく実際に物語で語られている世界はどこかに実在する、そうであってほしいと私は祈っているのだ。

Forest』のクライマックスで作中人であるアマモリとアケルの二人は「自身経験している悲劇物語は語り手によって想像/創造されたものだ」と、悲劇的「物語」を語った『Forest』の語り手に向けて悪態をつく。

そして直後のシーンで「外」に世界があるのと同じように「中」にも世界がある、とも言う。

Forest』作中でこの二人は語り手として『森』という物語創作し、その世界干渉していた。

まりアマモリが物語るという行為世界を生み出す行為であり、アマモリがいる世界もまた誰かに物語られた世界である……と私は解釈した。

そして『Forest』のラストでアケルは『Forest』の語り手に協力し、『Forest』という物語を無理やりご都合主義ハッピーエンドに仕立て上げる。

一流の悲劇ではなく三流の喜劇がよい、その物語の中で生きる存在にとっては……。

Forest』という物語聞き手となって以降、自分が語り手となるときは登場キャラクターに対しての加害性を否応なく意識するようになった。

から私は「三次元創作者が(自作であろうと)二次元キャラ侵害していい理由はない」という考えに共感する。

「鍋に弾丸を受けながら」の原作者青木潤太朗の「三次元創作者が(自作であろうと)二次元キャラ侵害していい理由はない」という考えがどのような背景から来たものかわからない。

これは私の信仰告白だ。

他人強制することは決してない。

だが、私は『Forest』という物語のことを一生忘れないだろう。

2022-01-15

漫画みなみけ」を読んでいた。

これは 2004 年から連載されている。

もしも作中人物がリアルタイムと同じように加齢していたら中学二年生だったカナは 30 歳になっている。

きっとカナはなんだかんだで藤岡結婚して子供もいるだろう。

我はカプ厨なのでその途中経過ドラマも見てみたい。

日常系カテゴリに属する漫画から歳をとらないと言ってしまえばそれまでだが、時間経過によるドラマもそれはそれで見てみたいと思うのは自然感情だろう。

しかし私好みの二次創作はなかなか見つからない。

そう、こうなったら自分で書くしかないのか。

2021-12-14

JKローリングは「シンママだったので父親が嫌い」説が多いけど、嘘だと思う

JKローリングに出てくるハリー父親クズということが一部で定説だ。

その理由が作中人キャラのスネイプを虐めていたということなんだけど、実際はスネイプもハリー父親を嫌って呪いをかけたり、マグルまれを虐めていたりどっちもどっちなんだよね。

それはともかく、何故ハリー父親聖人君子では無かったのかと言う理由に、「JKローリングが父と不仲のシンママで、離婚した元夫がクズから」という人が居る。


しかしそれにしては、リーマスやウィーズリー父親マグル父親など、「父親」というものに対して悪いイメージ自体はつけられていない。

なぜわざわざ主人公父親クズにしたのか?

それはJKローリングが「クズ男が好きだったから」のではないかと推測する。


ハリー父親ヤンチャで自己肯定感が高く、アメリカカーストで言えば「ジョック」のような人物だったと言える。そういうヤンチャな男が落ち着いて自分の夫になる、というストーリーを描く女性は一部にはいる。

まりJKローリングは「自分理想父親像」をハリー父親投影していただけで、別にハリー父親を下げようとは思ってなかったのではないか


スネイプに関しては、逆にJKローリングは彼のことを嫌っていたのではないかと思う。作中の「闇の組織」はヒトラーなどが元になっていると考えられ、JKローリングからしてみるとスネイプは

「一途な非モテで、ヒトラー信仰している差別主義者」的な存在だ。JKローリングみたいなダメンズ好きは、スネイプのような「一途な非モテ」を毛嫌いする傾向にある。

作中のスネイプは、結局一途故にリリー人生を捧げ、ボコボコにされて死んでいくという可哀想キャラだ。あそこまで無慈悲に虐められるのは、JKローリングは恐らくスネイプは異性として嫌いだったからだろう。


作中でハリー父親がスネイプを虐めていたシーンにショックを受けた人は多いが、しかJKローリングにとってあのシーンは「そこまでの衝撃」では無かったのではないかと思う。

JKローリングは「いじめはいけない事だと認識していうるし、いじめをする人は好きではないが「いじめができるひと」は好きなのだ

恐らく自分恋人過去いじめ武勇伝のように語ったのにショックをうけた経験でもあるのだろう。しか彼女が好きなのは、そんな「調子に乗って差別主義者を虐めてしまうが、改心するモテ男なのだ


ハリー父親に関して悪いイメージを抱いてしまう人は多いかもしれないが、JKローリング自体はそこまでハリー父親を嫌っている訳では無いと思うのだ。

2021-11-24

anond:20211124165652

wikiの「ライトノベル」の「定義」より

2004年刊行された『ライトノベル完全読本』(日経BP社)では、「表紙や挿絵アニメ調のイラストを多用している若年層向けの小説

新潮文庫とかで表紙がそういうイラストになってる若年層むけ文学作品が該当、それこそ太宰とか

榎本秋自身の著書における定義として「中学生高校生という主なターゲットにおいて読みやすく書かれた娯楽小説

中学生高校生でけっこう違う気がするけど、「SF 純文学っぽい」「ファンタジー 純文学っぽい」で検索すれば出てくるんじゃないかな。

あるいは「青年期の読者を対象とし、作中人物を漫画アニメーションを想起させる『キャラクター』として構築したうえで、それに合わせたイラストを添えて刊行される小説群」

森博嗣は、著書『つぼねのカトリーヌ』(2014年)において、「会話が多く読みやすく、絵があってわかりやす小説

イラストが文中に添えられるのはあまりいかもねぇ

純文学って、文学のための文学というか、言語表現のものを楽しむものかなと個人的には思っていて、

上の定義にあるような「読みやすさ」と相性が悪いかもしれない。

でもリーダビティの高い純文学はもちろんあるので、

まずはSFファンタジー畑を中心に探してみればよいかと。

平山瑞穂とかはどうかな。

あるいは村上春樹翻訳した海外小説とか?

2021-11-20

個人的マッチングアプリにおけるモラハラ気質な奴のごく簡単な見分け方

マッチングアプリをぼちぼち使っている女である

マッチングアプリというと、明らかにおつむのおかしな奴の話や写真詐欺の話などをよく耳にするが、本当に厄介なのは「この人がおかしいのかな?それとも私が気にしすぎなのかな?」と少し考えてしまレベル微妙〜な違和感を覚えさせる相手だったりする。

自己中・モラハラ気質な奴もそんな厄介な連中の一種だ。しかし、奴らを初デートの初めに高確率で弾き落とす方法はあると思っている。今まで遭遇したモラハラ人間たちにはある共通点があったからだ。

待ち合わせの際、お互い待っている場所微妙に食い違ったとき

①間髪入れず当たり前のように自分のところに来るよう指図してくる

or

②自ら進んで相手のところに向かうものの、顔を合わせた瞬間ぶすっとした表情をする

or

③後で「ああい場所に立ってると分かりづらいからさ。僕(私)ならいいけど他の人にやっちゃうと〇〇ちゃん(くん)の評価が下がっちゃうからやめようね」みたいな「あなたのため」発言をにこやかかつ穏やかにかましてくる

ことである

もちろん、自分が待ち合わせ場所からかけ離れた場所ゴミ箱の中のように極端に分かりづらい場所にいるのなら話は別だ。また、東京駅のような迷いやす場所相手に全く土地勘がなく動けないようなときの「今どこどこって場所にいるんですが来てもらえませんか、すみません」も常識的に考えて許容範囲内だ。

しかし、例えばA駅の改札右手すぐの柱と、少し進んだ先にあるオブジェのように、対等なかたちでばらけた場合に①〜③のような態度を取る奴はほぼ100%モラハラと言っていい。

これを読んでいる暇人増田は、「そんなの当たり前だろ時間無駄にしたわツマンネ」と思っているかもしれない。しかし、実際その状況に立つと意外と冷静な判断ができないものなのは私だけではないはずなのだ

想像してみてほしい。待ち合わせでうまく会えないとき相手から電話がかかってくる。「今どこ?あー俺(私)オブジェの前だから来て。オブジェ場所は〜」と手短に言われる。そちらに向かうと10年来の友人くらい気安い感じで軽く挨拶される。しかしその後は笑顔普通に話が盛り上がり、解散する。

人間出来事最初より最後の方が記憶に残りやすい。

まあまあ問題なく楽しく話した印象をより強く抱き、奴に会い続けると、徐々に神経が摩耗することが増えるかドタキャン時間無駄にする率が高くなる。

モラハラ気質な奴や自己中人間は関われば関わるほどペースに呑まれやすいため、グレーは黒という認識で早めにアタリをつけるのが得策だと考えられる。

2021-09-17

容疑者になった話

何年も前の話。ただの一人暮らし社会人だけど偶然の重なりで知らない間に事件重要容疑者になっていたことがある。

ある事件が自宅と同じ市内で起きた。ニュースで流れていたのかはわからないがそんなに大きな事件ではないと思う。目撃情報による容疑者像は性別、年齢層、体型くらいしか絞れてなかったらしくたまたま近所に住む自分警察捜査線上に浮かんだらしい。年齢も体型も極端なものではないのでこの時点では結構な人数が容疑者にあがったのではなかろうか。

警察は周辺の聞き込み調査実施しどうやらうちにも訪ねてきたらしい。「らしい」というのは、自分はこの時期ほとんど家に帰っていなかったからだ。

たまたまその頃は好きなアーティストツアー遠征したり友達の家でドラマを一気見したりと遊び歩いていた時期であり、職場には通っていたものの自宅には週1程度しか帰宅していなかった。なので後述する出来事が起きるまで事件のことも知らなかった。当時は気にしなかったが、そう言われるとポストに入った郵便物が荒らされたとまではいかないが少し不自然に飛び出していることがあったような気がしている。さすがにそんなことするのはドラマの中だけで勘違いなのかもしれないが。

警察は何度も訪問するがその度に不在の自分に対しどんどん容疑を強めていったようで、ついに職場にやってきた。ある日の勤務時間中人事部から神妙な面持ちで呼び出される。SNSアカウントでは特定されないよう十分注意しているし仕事の話もしていない、無遅刻無欠勤で休憩中の喫煙も1日1回に留めているので勤務態度も問題ないはずと色々なことが頭によぎっているときに「君に話を聞くために警察が来ています」と言われ、完全に思考が停止した。人事の人も完全におめーなにやらかしたんだよって顔で見てくる。やってません。後から聞いたけど逃亡を手助けしないようにアポ無しで来たから人事の人もめちゃくちゃビビったそうです。

来客用会議室警察と話をすることになりそこで初めて事件のことを知った。事件前後から今までの足取りを聞かれたが幸いライブチケット交通ICカードクレジットカード履歴など行動を証明できるものはたんまりあったので後日無事に容疑を晴らすことができた。今では職場でも笑い話にされるほどで人間関係評価にも影響なく事は終わった。

少し経って事件犯人逮捕されたことを知った。物的証拠があり動機怨恨自白もあるようでここまで揃えば万が一にも自分に再度疑いがかかることはなさそうだとわかり心底ほっとした。

今振り返ってみても自分で疑われないように対策できたことは何もなかったように思う。帰宅しないのは個人自由だし悪いことは何もしていない。警察曖昧とはいえ犯人像に当てはまる人物の足取りが掴めなかったら徹底的に捜査するのは当然の職務であり責めることはできない。

ただ人生の中でも屈指の肝の冷える経験になった。これを笑い話にしてくれる会社や同僚だからよかったが、お堅い職場で噂が立ったりしたら地獄だったろうなと思う。

2021-09-11

鴻巣友季子の時評は何が問題だったのか

 『文學界2021年9月号に掲載された桜庭一樹少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。

 この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者見解掲載された。

 この記事では総括として、両者の見解検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリー仕様URL掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。

見解検討

 両者の主張は、以下のように整理できるだろう。

桜庭文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。

鴻巣文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。

 桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈自由〟を奪」うことを挙げている。

 一方で鴻巣自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。

 では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである

 鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である文学解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないである解釈批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである

 鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。

 繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ私小説フィクションからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。

 ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。

 この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授日比嘉高モデル小説研究フロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在人物モデルに』と事実立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実事実」の問題を切り分けている。

(強調は引用者。これは桜庭が声をあげた最初ツイートだ)

(強調は引用者)

 桜庭実存にとって「現実事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭あくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家動機ではなく、作家根拠フォーカスするべきであるこの記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。

 とはいえ桜庭見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。 

文芸時評というジャンル

 今回の一件に際して、文芸時評不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭ツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣見解において「批評」という言葉を用いている。

 だが、文芸時評批評しかないのだろうか? 文芸時評英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル特性があるのではないか

新聞というメディア

 文芸時評新聞という巨大メディア掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。

 文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷鳥取で一人暮らす実在老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実現象レベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか

 以上の論点を踏まえて、時評担当者見解検討することもできるだろう。

書いてあればよいのか

 桜庭見解は冒頭、「私の自伝的な小説少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家藤田直哉が端的に指摘しているのでツイート引用しよう。

 つまりあらすじに書いてよいのは、「作中の事実であるべきではないか 今回であれば、あくまで一人の人物視点に立って、「私の自伝的な小説少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列テクストに書いてあるとはいえ中人物の「主観的解釈なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか

 あるいは、そもそも事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分幸せだと信じ込みながらオンラインサロン主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せ生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せ事実ではなく評価からだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか

参考になりそうな文献

 最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん