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はてなキーワード: ヨブ記とは

2019-05-29

川崎の、被害者家族にとっては理不尽以外の何ものでもない事件

気になったのはカリタ小学校

校長の御涙頂戴の演技がかった会見も引っかかったが、それよりも、

この理不尽カトリックはどう説くのだろうか、というのがすげー気になった。

ヨブ記を引いて、神は試されているのですと、

1年生の子らとその親にいうのだろうか。

2019-04-09

ドラゴンが火を吐きはじめたのっていつごろなの?

ギリシャ神話のテューポー

今日ギリシア神話として知られる神々と英雄たちの物語の始まりは、およそ紀元前15世紀頃に遡ると考えられている。物語は、その草創期においては、口承形式でうたわれ伝えられてきた。紀元前9世紀または8世紀頃に属すると考えられるホメーロスの二大叙事詩イーリアス』と『オデュッセイア』は、この口承形式神話の頂点に位置する傑作とされる。

巨体は星々と頭が摩するほどで、その腕は伸ばせば世界東西の涯にも達した。腿から上は人間と同じだが、腿から下は巨大な毒蛇がとぐろを巻いた形をしているという。底知れぬ力を持ち、その脚は決して疲れることがない。肩からは百の蛇の頭が生え、火のように輝く目を持ち、炎を吐いた。

半人半蛇だけど「炎を吐く邪悪な蛇」のイメージにはなっているかも。

ギリシャ神話怪物はだいたいテューポーの子孫だし。

ギリシャ神話ラードーン

ラードーン(古希: Λάδων, Lādōn)は、ギリシア神話に登場する、林檎園の黄金林檎を守っていた、100の頭を持つ茶色ドラゴン

(中略)

から炎を吐き、一説では顎の関節が尾にある為、体全体が口のようになっており、百の首を持つといわれている。

と、Wikipediaには書かれているが、ラードーンが火を吐くかどうかは定かでない。

何が出典なんだろ?

旧約聖書レヴィアタン

ヨブ記』(ヨブき、ヘブライ語:סֵפֶר אִיּוֹב)は、『旧約聖書』に収められている書物で、ユダヤ教では「諸書」の範疇の三番目に数えられている。ユダヤ教伝統では同書を執筆したのはモーセであったとされているが、実際の作者は不詳。高等批評に立つ者は、紀元前5世紀から紀元前3世紀ごろにパレスチナで成立した文献と見る。

ヨブ記』によれば、レヴィアタンはその巨大さゆえ海を泳ぐときには波が逆巻くほどで、口から炎を、鼻から煙を吹く。

(中略)

その姿は、伝統的には巨大な魚やクジラやワニなどの水陸両生の爬虫類で描かれるが、後世には海蛇や(それに近い形での)竜などといった形でも描かれている。

サラマンダー

プリニウス著作で唯一現存しているのが、自然芸術についての百科全書的な37巻の大著博物誌である自然界の歴史網羅する史上初の刊行物であった。

(中略)

最初10巻は77年に発表され、残りは彼の死後おそらく小プリニウスによって公刊された。

プリニウスの『博物誌10巻には、サラマンドラは斑点を持つ小さなトカゲで、雨が降ると現れるが晴れると姿を消し、体が冷たく火に遭うと溶けると記録されているが、これはサンショウウオに関する記述と考えられている。

また、『博物誌11巻にはピュラリスというキプロスの炉の炎の中でしか生きられない動物が登場しており、精霊サラマンダーこちらに近い。上記の通り、炎を操る特徴からファイアードレイクと同一視され、ドラゴンとして扱われることもある。

「ベーオウルフ」のドラゴン

『ベーオウルフ』が成立した時期は、作品内部にも外部の言及としても成立の時期を特定する記述存在しないため、必ずしも明らかではないが、8世紀から9世紀にかけての間に成ったと考えられている[3]。

第一部でベーオウルフは巨人ドラゴンとも言われている)グレンデルとその母親と戦い、第二部では炎を吐く竜と死闘をかわす。 なお、インパクトが強くかつ謎の多いグレンデルとその親に関しては言及されることが多いが、炎を吐く竜に関してのものは少ない傾向にある。だが、同時にいわゆる「ドラゴン約束事」(財宝を蓄え守っている、翼を持って空を飛ぶ、火を吐くなど)をほぼそろえている珍しいドラゴンでもある。

スラヴ神話のズメイ

スラヴ民族文字を持たなかったため、伝えられた神話民族独自に記録した資料存在しない。スラヴ神話存在した事を記す資料として、9世紀から12世紀の間に行われたキリスト教改宗弾圧の際の「キリスト教」の立場から記された断片的な異教信仰を示す内容の記述が残るのみであるスラヴ神話地方により様々なバリエーションがあったことが近年の研究により明らかになっている。

ズメイ・ゴルイニチ(「山の息子の竜」の意)の場合、3つ首以上、多ければ12体幹を持つと表現され、火や毒を噴くなど、歴然とした一般の「竜」のイメージで描かれる。

アングロサクソン年代記ファイアードレイク

アングロサクソン年代記』はアングロサクソン史を古英語で綴った年代記集大成である編纂9世紀後半のアルフレッド大王の治世に、恐らくはウェセックスにおいて行われた。

火の竜」を意味する名前の通り、炎をまとい、口からも炎を吐く。空を飛び、それが現れる時は辺り一面、昼のように照らされる。曇天の空に不思議な光が走る時はファイアードレイクが飛んでいるのだとされた。

隕石という説があるらしい。

獅子騎士イヴァン」のドラゴン

イヴァンまたは獅子騎士』(イヴァンまたはししのきし、Yvain, le Chevalier au Lion)は、1170年から1181年頃にかけてクレティアン・ド・トロワにより著作された散文騎士物語であり、アーサー王伝説主題にした5作品ひとつである

イヴァンは旅の途中で火を吐く大蛇獅子が戦っているところに出くわす。イヴァンは問答のすえ獅子に加勢し、大蛇を倒した。これに恩義を感じた獅子は、イヴァンと行動を共にするようになり、イヴァン獅子を連れた騎士とだけしか名乗らなくなる。

黄金伝説」のドラゴン

黄金伝説』(おうごんでんせつ、羅: Legenda aurea または Legenda sanctorum、レゲンダ・アウレア)は、ヤコブス・デ・ウォラギネ1230頃 – 98)によるキリスト教聖人伝集。1267年頃に完成した。

その時代エチオピアの町では一人の魔術師権力を持っていた。彼は常に恐ろしい二匹のドラゴンを連れていて、自分にはむかう者にけしかけていた。あまり大きなドラゴンではなかったが、口や鼻から火や燃える硫黄を噴出し、人や家を焼きつくしたので誰も魔術師に反抗できなかった。その噂を聞いたマタイ魔術師の元を訪れた。魔術師マタイドラゴンをけしかけたが、マタイが十字を切るとドラゴンは地面に倒れて眠り込んでしまう。

同じく「黄金伝説」に書かれている、有名な聖ゲオルギウスが退治したドラゴンは、毒を吐くが火は吐かない。

マルタが退治したタラスクは、「燃える糞を撒き散らす」と言われているけど、これ英語版では確認できなくない?

タラスクは、レヴィアタンボナコンの子なのだが、ボナコンの特徴である燃える糞」が、日本語訳されるとき混同されたのでは。

といったところから考えると、5世紀くらいまでは「火を吐くドラゴン概念は薄かったが、

8〜9世紀から伝承として語られはじめて、1012世紀頃にはすっかり定着していたという感じだろうか。

なぜ火を吐くようになったのか?

候補1:サラマンダーとの混同

サラマンダーは、火をより大きく燃え上がらせる能力があり、火山溶岩の中に住んでいるという伝承もある。

ズメイや、ヤコブドラゴンは、吐く息から硫黄臭いがするといい、火山連想させる。

候補2:雷や隕石などの自然現象に由来

ドラゴンには「地を這うドラゴン」と「空を飛ぶドラゴン」の二種類のイメージがあるが、

蛇や蜥蜴からは空を飛ぶイメージしづらいことを考えると、隕石から連想には説得力がある。

候補3:「身体が灼けるような猛毒から「火」に転じた

古典的ドラゴンはやはり「蛇」「毒」のイメージであり、

そこから火を吐くように変わっていったことを考えると、これも自然解釈に思われる。

うーん、わかんね。

anond:20190408143752

追記

というか最初、つまりギルガメシュ叙事詩(フンババ)の時点で『その口は火で、その息は死』と形容されてる。強力な怪物が火や死を吐くのは有史以前からの常識で、「最初から吐いてたが記録に残ってなかっただけ」では - cider_kondoのコメント / はてなブックマーク

フンババの咆哮は洪水であり、彼の口は火を意味し、吐息はまさに死である」というのは単なる比喩なのでは。

まあ比喩として記述されたものが、後に「そのもの」として受け取られるのは、この手の伝説ではよくあることだけれども。

仮にフンババが火を吐くとしてもそれだけで「もともと怪物は火を吐くのが常識」というのは飛躍ではないかと思う。

2017-08-31

https://anond.hatelabo.jp/20170831195309

劇中のセリフなのかよ・・・。大丈夫なのかなその映画ヨブ記すら読んでないとか?まぁ観てみるか。

2017-02-26

[]

さびさに中島敦山月記』を読んだら、だいぶ読み方が変わって驚いた。

以前は、強烈な自尊心ゆえに友人や先生に教えを請えないエリートが没落した様を描くことで、「つまらないプライドは捨てて生きていかないとロクなことにならないよ」という教訓を言う話だと思っていた。

が、この読みはどうも浅薄というか、人生の敗北者にとっては厳しすぎるのである。というか結論だけ抜き出せばそこらの自己啓発本と変わらないような気がしてきて、作品価値矮小化しているような気さえしてくる。

そこで、もう少し人生の慰めになるような読み方はないか。と考えていたら、これは「理不尽な世の中に自分を合わせられない不器用な男が、苛烈自己責任論で自分を裁いてしまい、自分を受け入れてくれる神も持たなかった結果、精神的な苦境に陥る話」じゃないか、と思い始めた。

中学生の頃に読んだときは、李徴は周囲に教えを請いたりできないプライドの高い男だな、と思ったが、(浅い)人生経験を積んだ今、改めて読むとそうでもない。

李徴が詩人を志したのは、(功名心もあっただろうが)第一には心を揺さぶる先人の詩があったからだろう。そうなると、そうした詩を書く者が周囲にいれば、これに師事したり教えを請いたりしたはずである

それにもかかわらずそうしなかったのは、自分の追い求める詩人像に値する者が周囲に居なかったからだろう。

自分の追い求める理想像と、②世で「名を成す」者とがズレることは、現実社会でもしばしばあることである

李徴は、このズレに気付かないまま自分理想像を追い求めていったことで、世で「名を成す」ことができなかったばかりか、周囲の人間と折り合いがつかなくなり、「努めて人との交を避けた」結果、「一匹の猛虎」となった。

他方、周囲にいた「己よりも遥かに乏しい才能であ」る者は、世で「名を成す」道を「専一に磨いたがために」、「堂々たる詩家」となった。

李徴は理不尽な世の中に自分を合わせられず、ひたすらに理想を追い求めた結果、社会的に失敗してしまったのである

これはカフカ『変身』で、社会の求める市民像──(ⅰ)家庭の善良な息子、(ⅱ)有能なセールスマン──を演じていたグレーゴルが、自己本来性の自覚を持ってしまった瞬間、褐色の虫に変身してしまったのと似ている。

現代社会ルールでは、人間自己自身本来性を保持することを許さないのである

そして、李徴が不幸であったのは、上述した社会ルールに、他ならぬ李徴自身支配されていた点にある。

李徴としては、徹底的に社会を突き放し、自分理想像を追求するという途もあった。

しかし、「元来詩人として名を成す積りでいた」李徴は、世で「名を成す」努力をできなかった自分を徹底的に断罪するのである

事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ

李徴の詩を聴いた袁の評価によれば、李徴の詩は「長短凡およそ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりであるとある

第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがある」とは言え、この自己評価は言い過ぎである

それに、はっきり言って実社会でこんな話は”よくある”ことなである

ここで想起されるのは聖書の『ヨブ記である

神の手により不幸のどん底に落とされる義人ヨブを、自己責任論に基づいて徹底的にこき下ろす友人エリファズの話だが、どうも李徴の中にはヨブとエリファズが同居しているように思える。

さらに、上記のヨブ記ラストにおいて、ヨブは「仲保者」(=キリスト?)の存在確信することで救われるが、李徴にこのような仲保者は現れない。

ただ、「向うの山の頂の巖に上り、空谷に向って吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処で月に向って咆えた。誰かにこの苦しみが分って貰えないかと。」というだけである

また、カミュ異邦人』も想起される。

これも社会ルールに合わせられないムルソーという男の不幸を描いた作品である

ムルソー物語ラストで、このような自分排除せず「優しい無関心」を示す自然存在に気が付き、幸福を得る。

他方、李徴は「獣どもは己の声を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮っているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易い内心を誰も理解してくれなかったように。」というだけである

ここに来て、山月記という作品は「理不尽な世の中に自分を合わせられない不器用な男が、苛烈自己責任論で自分を裁いてしまい、自分を受け入れてくれる神も持たなかった結果、精神的な苦境に陥る話」じゃないかと思うのである

2016-12-06

[] 遠藤周作沈黙』 ※追記

なんかマーティン・スコセッシ監督人生五指に入るほど好きな映画監督)が遠藤周作の『沈黙』を映画化したらしいので、積ん読していたのを読んだ。以下はそのメモ(間違ってるかも)。

どうもテーマは以下の3つらしい。

信徒がどんなに辛い目にあっても神が彼らを助けもせずに沈黙しているのは何故か(神はいないのではないか

クリスチャンと言えど、拷問に対する恐怖から踏み絵を踏んでしまう心の弱い者もいる。これら弱き者は救われないのか。

日本キリスト教が伝来しても、それは日本特有の何かに変容してしまって、本来キリスト教日本根付かないのではないか

テーマ① 神の沈黙理由

結論:神は沈黙しているのではなく、信徒に寄り添い、その苦痛・苦悩を分かち合って下さっている。

◇考えたこと:神がいるならなぜ苦悩に満ちた人生で何か声をかけてくれないのか、とは誰しもが考えたことだろう。それに対する卓抜な回答だと思う。辛い人生の慰めになる。

本作の元ネタの1つはヨブ記だろうけど、この解釈ヨブ記に逆照射すると面白いかもしれない。信徒に苦悩を与えるヤハウェと、それを分かち合ってくださる「仲保者」(=キリスト)ということになるか。

テーマ② 弱き者は救われないか

結論:弱き者も救われる。弱き者には弱き者なりの苦悩があり、踏み絵を踏むことを拒否して拷問を受ける信徒と変わりはない。

◇考えたこと:これも大変慰めになる。誰しもが踏み絵拒否できる強い信徒ではないし、むしろ弱き者の方が大多数だろう。そんな中でのこの結論は心強い。

テーマ③ 日本キリスト教受容

結論:書いてない?

◇考えたこと:神の存在聖書というテキストで表されている以上、そこには解釈が入らざるを得ないし、解釈に際してはその人の人生観世界観がそこに入り込まざるを得ない。

その意味で、西洋キリスト教日本キリスト教は違うと言われても、そらそうだろうという感じだった。

おわり。一読目だし、『切支丹屋敷役人日記』がいまいち理解できてないしで、間違ってるかも。

日本小説だけあって、論文ネット上にpdfでいくつか転がっているので、読んでみたい。

[追記]

本作にまつわる良いQ&Aがあったので貼っておく。

http://q.hatena.ne.jp/1344564565

2016-10-30

[]

「働かざるもの食うべからず」って言葉はよく誤解されるんだが、(1) 元は聖書(テサロニケの信徒への手紙 二:3-10)の言葉で、正確に言えば「働きたくない者は、食べてはならない」って意味だ。(2) その後、この言葉レーニンによって再解釈され、「働きたくない者」ってのは不労所得で食っていける金持ちのことだ、と言われたりした。

重要なのは、どちらの意味でも「働きたくても働けない者」(あんたのことだな)を含まないってことだ。

からあんま気になさるな。親父さんは知らんが、神さまは分かってくださる。

それと聖書には「あんま人に期待しすぎるな」っていう教え(ヨブ記全体)もある。

親父さんに期待しすぎると裏切られてこの先ずっとつらい(しお父さんのことが大嫌いになっちゃう)からやめとけ。人間なんてそんなもんだ。

オナニーはしない)

http://anond.hatelabo.jp/20161030102229

2016-10-06

http://anond.hatelabo.jp/20161006103656

「うちさぁ…ヨブ記あるんだけど…読んでかない?」

ヨブ記で人を呼ぶ気?なーんて…ふふっ

2016-09-10

[]

さびさにロマ書を読む。

最近知人と『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の話になって、「プロテスタンティズム資本主義に適合していた」って言うけどおかしくね?と思い、その根底にあるという「予定説」を調べようとした次第。

定説理解自体さまざまなバリエーションがあるのだが、以下は注釈者(内村鑑三)の理解

まず予定説というのは、人が、神を信じるか信じないか、救われるか滅びるか、は(その人の意志ではなく)神の意志で決まるという考え方だ。

この理解によれば、キリスト教徒にとって人生のあらゆる出来事は、その人が神を信じ、救われるための設備にすぎない。神は、その人を救済するという目的に向かって事件経験人生に配置していくことになる。

ただこの説によると、なぜ日本人は非キリスト教徒が多いのだ、という疑問が生じる。

ここはやや不明なのだが、キリスト教を信じず、拝金主義・消費主義堕落してしまった日本人は、神からいったん放置され、神は先に中国朝鮮福音を及ぼしたとのこと。

ただ日本人は見捨てられたわけではなく、中国朝鮮福音の光が満ちれば、日本にも福音の光が及ぶであろう、とのこと。

この予定説理解ヨブ記理解(苦難を通して信仰に至る)にも通ずるなぁ、と思った。神に選ばれて信者になったのだ、という強い自負心も持つことができる。

中国朝鮮云々は、注釈者が明治大正期の人なので、今でも妥当する考えかは不明。まぁ面白い見方ではある。

2016-09-02

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出エジプト記終わった。

ヨブ記イザヤ書ロマ書(半分)⇒出エジプト記と来てる。

とりあえず今回は十戒解釈面白かった。


偽証してはならない」のところの説明が、注釈者(内村鑑三)が不敬事件世間からボコボコにされた経験からか、めちゃくちゃ熱くなってて笑った。俺も小保方さんのことを悪く言わないようにしよう。

次は創世記を読みたいんだけど、四福音書のどれも読んでないのもアレな気がしてきたのでルカ伝でも読もうかな。

2016-08-30

[]

カラマーゾフの兄弟』をうまく説明している(と思しき)論文発見し、大変面白いのでこれに合わせてカラ兄を再読している(何だか全体的に作りが稚拙だと思ったら、なんと学部生が書いた論文らしい)。

その論文解釈が正しいとすれば、ドストエフスキーの「罪」の解釈ってのはかなり珍しいというか、もはや異端レベルなんじゃないかと思い、大変モヤモヤしている。

あとカラ兄のせいで、大体理解できたと思っていたヨブ記理解がまたも混乱させられている。

2016-08-17

[]自殺ダメなのに、「自然死を望むこと」はなぜOKなのか

http://anond.hatelabo.jp/20160817222557

1. 話の前提

・私はクリスチャン歴1週間の超ひよっクリスチャンなので、以下の話は話半分に聞いてください。私の話と矛盾することを言っている人がいたら、たぶんそっちが正しいです。

聖書(の中でも特にヨブ記)は多様な解釈を許す書なので、そもそも「自殺を望むのはNGだけど自然死を望むのはOK」というのも一つの解釈(私の読んでる注解書の解釈)です。反対説もあります

2. 議論の整理

その上で、まず議論を整理します。聖書は何を禁止しているかをまとめます

(a) 「自殺をすること」:絶対禁止

(b) 「自殺を望むこと」:おそらく禁止

(c) 「自然死を望むこと」:OK

*なお、ここでは「自然死」を病死災害死、事故死、他殺を指す言葉として使います。そのため「自然死を”する”」ということは言葉定義上あり得ません。

3. 上の結論理由

ではなぜ上の結論になるのでしょうか。

(1) まず、(a)「自殺をすること」、(b)「自殺を望むこと」が禁止理由クリスチャンの間でも議論が分かれるところなので調べてください。私には、このような深遠な議論をまとめる能力がありません。

(2) その上で、(c)「自然死を望むこと」はなぜOKなのでしょうか。

ア. まず、自然死はい死ぬ点では自殺と一緒ではないかという疑問が生じます

しかし、両者はやはり異なります第一に、自然死を望んだところでそれが実現される可能性は低いです。自然死を望んだ直後に、偶然殺人鬼がやってきて自分を殺したり、交通事故に遭ったりすればいいですが、そのようなことが起きる可能性が低いことは統計的感覚的に分かることだと思います。第二に、自殺は「自分による自分に対する殺人」という意味合いがありますが、自然死にはこれがありません。

イ. 他方、自然死を望むのは、精神的に健康とは言えず、これも禁止すべきではないかという疑問が生じます

しかし、私としては、ここが聖書のやさしさなのだと思います人生つらいことがあったときに、そのつらい状態から脱する手段として死を望むことは人間自然感情です。この感情を持つことまで禁止してしまっては、あまりに人を追い詰めすぎるのではないでしょうか。

4. まとめ

以上をまとめると、「自然死を望むこと」はなぜOKなのかというと、①望んだところで実現可能性が低いから、②殺人意味合いがないから、③聖書はやさしいから、ということになります

[]

ヨブ記の続き

1. 神が全知全能なら、どうしてこの世界に苦しみなんてあるんだよ。

だってお前ら苦しまないと聖書読まないし、救世主のことも信じないじゃん。成長を促してやってるんだよ。

2. そうはいっても今どき神とか救世主とか信じられないよ・・・。

そんなとき自然を見よう!創造主の偉大さが分かるし、自分が神の下僕しかないことにも気づくはず。そうすれば神が与えた苦しみにも何か理由があるということに思い至るはずさ。

3. とはいえヨブ虐め過ぎじゃない?

一見理不尽に見えるが、神は罪の有無にかかわらず苦しみを与えることがあるとしておけば、自分の今のつらさは(罪の無い者に課せられる)試練であると解する余地が出て来るぞ!

おわり

2016-08-16

[]

ヨブ記がすげーのは、人生でめちゃくちゃつらい時があったとき自殺を考える/するのはダメだけど、自然死を望むのはOKってところ(「死のう」はダメだけど、「俺を殺してくれ」はOK)。些細なようでまるで違う。

それと、つらいときはついつい人や社会を呪ってしまうけど、そうではなく自分誕生日呪いましょうというのも面白い。何で誕生日なんだwという疑問は湧くけれど、結果として誰も傷つかない。これはすごいことだと思うよ。

2016-08-06

http://anond.hatelabo.jp/20160806215512

こういうのが増田投稿されるたびに思うけど、日本人ってあんまり聖書とか読まないから、こういうときにどうすりゃいいんだってのを知るための本とか作品が無いよね。

増田自殺せずだらだら生きていくんだろうが、暇なら岩波から出てる内村鑑三ヨブ記講演』って本を読んでくれ。有名な本だからその辺のでかい本屋にあるはずだ。安いし。

もし本読むのがきついなら、デヴィッド・フィンチャーファイト・クラブ』って映画を観てくれ。

幸運を祈る。

2014-04-11

そして私は、ヨブ記を再び読むことにした。

2012-12-15

絶望する作品」ありませんか

求ム、良質な絶望

出来れば小説がいいけど(グロい映像に弱いから)この際媒体は問わない。

古い奴だと『ヨブ記』読んだ。

絶望っていうか単なるホラーだろうけど『大鴉』とか『赤死病の仮面』とか『アッシャー家の崩壊』読んだ。

ケッチャムは『隣の家の少女』読んだ。

宮部みゆきは『火車』とか『クロスファイア』とか『ICO』とか読んだけど何故かコレジャナイ感がする。

ミステリ界隈なら『青の炎』とかも読んだ。あまり絶望しなかった。主人公信じて見ぬふりした刑事がかわいそう過ぎるだろ死ねとか思った。

グロテスク』とか『シンセミア』あたりも読んだ。引いたけど絶望たかというと微妙

童話物語』とかも読んだよ。

最近のだと『こちらあみ子』とかも読んだ。

SFはえーと、ヴォネガットJr.はだいたい網羅(たぶん…)、愛を叫んだり冴えたやり方したり接続されたブスのアレとかも読んだ。『ノーストリリア』と『エンダーのゲーム』も読んだ。海外SFは良いね

ラノベは『紫色のクオリア』と『絶望系 閉じられた世界』とあとキノを8巻くらいまで。ラノベはあんまり良くない。薄い。淡い。物足りない。細部が全部デフォルメられてて神が宿ることがなくて中身がない。そのくせ語りがドヤ顔イライラする。

あと小説じゃないし絶望とはちょっと違うかもだが『WATCHMEN』も既読。トレンチコート野郎が本当にどうしようもなくてもう大好き。『ツァラトゥストラ』読むわこれから

それと書籍ですらないが『ダークナイト』、あとBBCシャーロックも全部観た。搦め手の絶望ってすごいと思う。ステキだと思う。

2012-02-23

ワタミヨブ記

http://d.hatena.ne.jp/Lacan2205126/20120222/1329895239

この記事はとてもレベルが高いと感じましたが、どうも、とある登場人物に対する考察が欠けているように見えて気になったので補足的な意味で。

ヨブ記のすべての登場人物と読者のほとんどが信じたいと思っている、3つの命題を書きだしてみましょう。

A 神は全能であり、すべての出来事は神の意思による。神の意思に反しては何事も起こりえない。

B 神は正義であり公平であって、人間それぞれに相応しいものを与える。したがって、善き人は栄え、悪しきものは処罰される(勝者=正義

C ヨブは正しい人である

ヨブが健康経済的にも豊かであるかぎり、これら3つの命題は同時に無理なく信じることができますしかし、ヨブに不幸が訪れ、財産家族を失い、健康まで外してしまうとなると、ことは厄介になります

この3つを、同時に正しいと考えるわけにはいかなくなるのです。どれか一つを否定して、はじめて残り2つを正しいと主張できる、という状態になるのです。

ヨブ記の議論は、この3つの命題のうち、2つを信じ続けるためにどれを切り捨てるかを巡る議論、と見ることができるのです

「神」や「ヨブ」が何を指すのかは読者の方々のご自由にお任せします。




ワタミはなぜひんしゅく覚悟強気姿勢に出ているのか

個人的には、ワタミの前会長ABC全てが成り立つことを主張しているのだろうと思います。前会長からすると、この建前が維持できない限り会社組織を維持するコストが膨大になってしまますから

顧客」「読者」というのは、本当はわかっているくせに、3つの命題が同時になりたつことものしか正統性を認めない。正統性を維持するためには「例外」はあっても、原則として3つの命題は成り立つんだと言い張らなければいけない。なぜかそう考えてしまうようです。3つを同時に満たすのは理想であるから、その理想に向かって今回の件を反省し、改善していくという考えもあると思うのですが、今回はそれが選択されなかった。それは、今回の事件によってもAやBがほとんど揺らがないという自信があるからでしょう。

以前からワタミネットではブラック企業として有名でした。しかし面と向かって、それこそマスコミワタミブラックだ。正統性を認めることができないという流れにはなっていない。それどころか立派な企業として扱い、前会長はまれに見る清廉潔白で誠実な人間ということになっていますワタミという会社は立派な人がトップを務める立派な会社だ、ということになっている。そしてそれは今回の件でも揺らがない、そう思っているのでしょうね。

誰がワタミを表立って批判できるのか? 私達にはワタミに石を投げられる資格があるだろうか

なぜかというと、ワタミを批判し、否定するためには、「なぜここまで低賃金過酷労働をシなければならなかったのか」「企業経営としてここまでやらなければならない理由は何か」「外食産業全体にのしかかる問題とはなにか」「神様市場ルールはどうなっているのか」「神様に問題はないのか」と考えていかなければいけないからです。

そして、この問題を考えるのがみんなにとって嫌なことです。 それで、「ブラックであっても必要悪だ」「このくらい耐えられないなんで、自殺した奴がひ弱なだけ」という理屈を述べだす人が出てくるんでしょう。


自殺した人は、それぞれの立場からの主張の道具として引き裂かれ、あるいは例外処理されて切り捨てられ、踏みにじられる。コレでいいんでしょうか?本村洋さんにかんしてはやれ遺族や被害者へのケアだなんだと言ってる割に、問題が変わるとワタミへの、もっといえば前会長への攻撃というお祭りに浮かれているだけの人たちを見ていると、ぶっちゃけかなり胸糞悪いです。



現在ワタミには「誤りを認めて軌道修正する」余裕が無い状態なのではなかろうか?

追記。

http://www.watami.co.jp/pdf/120221.pdf

本日一部報道におきまして当社グループが運営する店舗に勤務していた元社員につき労災と認定

されたとの報道がありましたが、報道されている勤務状況について当社の認識と異なっております

で、今回の決定は遺憾であります

とのこと。

顰蹙を買うのは重々承知の上で(いや前会長は本気かもしれないが)こういうリリースを書くあたり、

労災の認定がされることはともかく、それについて

「私に問題がありました」と認めることができない状況にあることが何となく想像される。

電気料金の値上げや、年金制度改悪などによる収支構造の悪化などの影響だろう、

従業員に割けるリソースゼロあるいはマイナスに近い状態ではないか想像される。

 
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