はてなキーワード: 文学作品とは
たぶん昔は大半の人が地元で完結するから、友だちとか難しいこと考えず同じ地域の同世代とダラダラ付き合いが続いてたんだろうな。
してみると、友だちという言葉が今みたいな意味を帯びるようになったのはいつ頃からなんだろう?
なんか文学作品とかの影響ありそう。
近々図書館の司書さん達にお礼を言おうと思っている。その前にでも自分の頭の整理のために書いておきたい。
そして誰かの参考になればいいな思う。
タイトルの通り自分は3年前まで本が全くと言っていいほど読めなかった。本を開いても1~2行読んで「あ~もう無理」って感じですぐ閉じて、すぐ自己啓発系youtubeに逃げていた。当時だと西野亮廣、与沢翼、メンタリストDaigo、よくわからない弱小自己啓発系youtuber、俺的名言集など。
今でこそ笑い話だが、当時は「こんなに役に立つ情報が無料で見られるなんて、youtubeってマジ天国じゃん! これを吸収して俺は人生を逆転するんだ!」とか本気で思っていて、与沢翼がアップした1時間尺くらい(人生の本質とか何とか)の動画×5本くらい(10本くらいあったが途中で断念した)を1つ10時間くらいかけて見て、ノートに一言一句書き写すとかっていうことをやっていた。
「本なんて読まなくても、youtubeの動画を見れば人生逆転できる!」って本気で信じていた。
そして自分はそんな自分のことを「俺、周りよりも頭いい!」と思い込んでいた。
今思えば、陰謀論者みたいだな。
高卒。ここまで正社員経験無し。公務員試験受験に落ちてから、ずっとコールセンターでフリーター人生。
仕事も降格1回。会社もクビ2回。ナンパにも10年くらいハマったり。ってくらいに馬鹿である。
どうだ?
みんなよりもクソな人生だろう。
※メンタルヘルス、精神医学系の本を何冊か拾い読みした結果、おそらく自分にはADHD、ASD系統の性格傾向があると思われることがわかった。だがこれはあくまで「傾向」だ。でも少なくとも100%定形ではないだろう。自分の感覚だと3割くらいはその気があると思う。
話を戻す。
書いた通りのバカで、でも謎に「いつかは人生逆転してやる!」って息巻いていた。
でも実際はなかなか行動に移せず、その鬱憤を自宅に帰ってきてはyoutubeの自己啓発動画を見て「俺はやれるんだ!」って自分を高めては、翌日また現実の世界に打ちひしがれて帰ってくる・・そしてまたyoutubeを見る、という日本全国どこにでも居そうな陰キャ生活を送っていた気がする。
仕事のプレッシャーと職場の人間関係からなるストレスから発症したと思う。
(日付を見て気づいたが、ちょうど3年前の今頃だったと思う)
http://www.toyama.med.or.jp/wp/?page_id=1347
※「パニック障害」ってどんな病気? ~公益社団法人富山県医師会~
症状としては死への恐怖が一番強かったかな。
主治医に診てもらっても、自分の辛さがなんだか伝わっていないような気がして。とりあえず薬を出されて終わり。そんな感じだった。
「めちゃくちゃしんどいのに、お医者さんは何もしてくれない。それなら自分で調べるしかない」
それが図書館に行くことの始まりだった。最初はポジティブな理由でもなんでもない。
「この病気を自分で調べなきゃ自分が死んじゃう」そこがスタート地点。
最初はメンタルヘルス、うつ病、パニック発作、パニック障害とかの本をとりあえずひたすら読んでいった。
本の読み方とかもよくわからずに。ただむさぼるように読んで行った記憶がある。今の症状について、医者からほとんど何の説明もなかったからだ。だから知識が欲しかった。
本を読みいろいろな知識を得ていくうちに「あれ? 本ってもしかして人生を逆転出来るツールなのでは?」と思うようになる(単純)
ちなみに、この時の自分は読書の本当の凄さにはまだ気づいていなかった。
ただなんとなく、当時見ていた自己啓発系youtubeよりも多種多様な情報が図書館にはあるな。これを頭に入れることが出来れば、自分は今のクソみたいな環境から脱出出来るのでは?
それくらいの解像度だった。
たまたま18時に終わる仕事だったので、図書館に直行して閉館の21時まで入り浸る毎日を過ごすようになった。
1冊読み終わったらまた1冊。そしてまた1冊と次々に違う本を読んでいった。
いわゆる「乱読」というやつである。ただその時は「よーし、乱読するぞ」なんて思っていなかった。
「目の前にモンスターが出てきたから、とりあえず倒す!」くらいの感覚だった。
幼少期に多少読書をしていたとはいえ、こんなにも本を読んでいない。ましてや大学にも行っていないし、仕事で文章を読んでもいる訳でもない自分が、急に読めるようになる訳はない。
パニック症関連の本はある意味必要に迫られていたので、中身をなんとか頭に入れることが出来たが、当時の自分にとって自分に関連性のない分野の本は全くと言っていいほど頭に入ってこなかった。
図書館には「旅」のコーナーがあるので、旅日記、旅行記。それから写真集、絵本など、文章が少なく、写真や絵が多い本から初めてみることにした。これが意外と自分には合っていて徐々に自分を本に慣れさせて行くことが出来た。
旅行系の本は結構充実していて「一度は行ってみたい世界の絶景」みたいな本とか、「島、海、空」に特化した写真集なんかも何度も読んだ。とっても楽しかった(書きながら思い出している)。ああいう本はたぶん知らないうちに、自分の心を豊かにしてくれたんだなと思う。
俺の実家は宗教が複雑に入り乱れており、新興宗教に入信した兄弟もいたような家庭だったので、宗教には興味があったんだ。
「宗教学? 宗教を信じるための学問?」って思っていたくらいよく知らなかった。
その後も、少しずつ少しずつ。1日30ページずつとかではあるけれど、読書は続けていった。
その頃のジャンルは宗教学、人間関係、旅、メンタルヘルス、ハンディキャップ、働き方、思考方法など。
そうして徐々に、文字が多い本(いわゆる新書など)も読めるようになっていったと思う。
余談だが図書館の環境も良かったと思う。自分が通っている図書館は音楽が流れソファが用意され、読書をするには最高の環境だった。
読書をするためにわざわざカフェに行って、お金を払う必要がなかったのは大きい。
選書もとても良く、新しい本から古い本、海外の翻訳本まで次から次に読みたい本が見つかる。こんな素晴らしい図書館に出会えたのは本当に運が良かった。
そうして3年が経った今年。
3年前には本を開いても1~2行しか読むことが出来ず、youtubeの自己啓発動画に逃げ、動画の先にいる配信者を盲信していた自分が、今では読書を3~4時間は平気で行うことが出来るようになり、読むジャンルも法律、社会学、経済学、起業関連など、多少難しい本を読めるようにもなった。
それから、これまで乱読に近い読み方をしてはきたが、これがいわゆる「リベラルアーツ」という学問に当たるということも最近知った。
https://www.obirin.ac.jp/academics/arts_sciences/what_is_liberal_arts.html
そして自己啓発系動画は現在も見るには見るけど、以前と違い盲信することは無くなった。
Twitter(現X)のバズツイートや、インフルエンサーの情報発信を見ても、安直に信じることも無くなったし、必ず別の可能性を考えられるようになったと思う。
自分にとって本を読むことは、偉人、先輩方との対話であり、その本が入っている本棚、図書館は偉人たち、先人たちといつでも話が出来る場所だと思うようになって来た。
何かを考えるときも「あの本にはこんなことが書いてあったよなぁ・・」と頭の中で引用出来るようになってきた。
頭の中に様々な専門家が常時いるようなイメージだ。口寄せの術。
この3年。変な自己啓発本やビジネス書の類(書店で平積みされているようなやつ)は、ほとんど読んで来なかったことも大きい。
今までは「与沢翼のブチ抜く力」とか「西野亮廣の革命のファンファーレ」「あなたを癒やす100の名言」みたいな本ばかり読んで、わかった気になっていたが、そのような本に盲信することはもう無いだろう。
ただ、おかげさまで有益な情報はある程度取捨選択出来るようになったので、その意味では今後は目を通すことはあると思う。
岡田斗司夫は図書館のことを「貧乏人が行くところ」と評したが、自分は「司書さんがプロの目線で有象無象の中から、適切な本を選んでくれる最高の場」と言いたい。
最近は「得た知識を抽象化していつでも引き出せるように」訓練している。
読書を始めたきっかけは精神疾患とはいえ、本が読めるようになったこと。
また、読書のおかげで新たに人とのつながりも出来るようになってきた。これは予想外の副産物でもあった。
新しい人に出会った時に「本を読んでいます」というと、話が発展することが多くなったし(今までは、AVの話しやナンパの話し。風俗や借金の話ししか持ちネタがなかった)、読書サークルなんかにも通えるようになった。
そして今までは読んだ本(学問)同士のつながりを感じることが出来なかったのだけど、リベラルアーツという言葉を知ったおかげで、これまでの読書が一本の線でつながるような気がしてとても嬉しいんだ。
今後も引き続き勉強をして行きたい。 あと今後は文学作品も読んでいきたい。
だいたい、みんな「読書」って言うと、小説などの文学作品のことを語る人が多い。
自分のようにリベラルアーツ系の読書から入って数を重ねる人は一般的では無いのかもしれない。だからこそ小説を読むのは知らない世界を知れそうで楽しみである。
自分はこれまで、生活に苦労してきて、かつ学歴にもコンプレックスがあったりしたが。
ここから先の人生は読書が出来るということを武器にして、豊かに生きていきたい。
そして「自分って高卒なんだよな。結局大卒には勝てないんだよな」
読書は楽しい。死ぬまで続けたい。これからも自分に心の豊かさをもたらしてくれるものだと思っている。
そして読書ができる人は実はそんなに多くない。だいたいの情報はyoutubeなどのネットで得られる世の中だからだ。
電車に乗っても、子供から学生、そしてサラリーマンに至るまでみんなスマホをいじっている。スマホに夢中だ。
youtubeの切り抜き動画や対談動画にも、有益なものは非常に多いが、元をたどると古典などの本からの情報であることが多く、だからこそ読書は他人と差別化が図れるものだと思っている。
これからも続けて行きたい。
いつか、通信制でもいいので大学にでも行こうかな。そんなことを最近は思う。
そして図書館の司書のみなさん。ほんとうにほんとうにありがとう。
いろいろな人が読んでくれたようで本当にうれしい。
書いた後に、改めて自分でも振り返ってみたが、これほどまでに読書が継続できた理由のひとつは、やはり図書館の環境がとても良かったこと。
それから、オンラインで参加していた読書サークルに私よりも知的な方々が沢山いて(博士課程の学生や、大学の講師など)、「このまま読書を続けたらどう変わって行けるのか」という、少し先の未来を自分に見せ続けてくれたということが、大きかったんだという事にも気づいた。
読書サークル内では日夜テキストチャットで議論のようなものが繰り広げられていて、最初は会話に全くついて行けなかったけれど、だんだん話していることが理解できるようになってきた自分が嬉しかったりした。
いろいろな意味で運もあったのだと思う。
読書サークルにたまたま知的で素晴らしい方がいらっしゃった事。
友だちが少なく、親の介護も無く、仕事で要職についている訳でも無かったがために、逆にプライベートの時間を、読書にフルベット出来たこと。などなど。
この文章を書いてから、ナンパをしていた時代に毎日の様に行って、よくたむろしていたビル(飲み屋やカラオケ、ホストクラブやダンスクラブが入店していて、たまり場になっていた)に用事があって行ってみたんだ。
派手な服装の女性と、その女性を口説き落とそうとしている男性。
ウェーイって騒いでいる学生。
怖めの車で迎えに来た怖めのお兄さん。
仲間で歩いているホストくん達。
トラバの増田たちは意図を理解して議論しているのに対し、ブクマかは意図が取れていないようですね。おそらく前提知識に違いがあります。
勝手ながら論点をまとめて知識を補足して良いでしょうか? anond:20230725121700
1. いわゆるお気持ち長文が読書感想文フォーマットであること
2. 日本の国語教育は読書感想文に偏りロジカルライティングを教えないこと
3. 議論においてお気持ち長文を書いてしまう人が多いのは国語教育のせいではないか
普通、議論において文章は 事実(データ)/ 意見(考察)/ 結論 に分けて書きます。
例えば「表現規制は犯罪抑制に効果があるか?」という議論においては
2. 考察: 各国の表現規制の状況と犯罪率の相関を調べ議論する
3. 結論
といった形になるかもしれません(あくまで例です)
〇〇が話題になっているようです。
(ここまでの経緯を要約)
私はこの記事を見てショックを受けました。まだ動悸と涙が止まりません。
(悲しい体験)
(悲しい体験)
(心を打つ名文)
このような人がいると知っていただけたら嬉しいです
元増田が言うようにこれは読書感想文フォーマットなのだと思います
もちろんただの日記ならこれでよいのですが、議論に加わるつもりなら不適当です
日本の国語教育は読書感想文や随筆に偏り、論文やレポートの書き方を教えないという事が 木下 是雄『理科系の作文技術』 において指摘されています
アメリカでは小学生からテクニカルライティングを教えているそうで同書に小学生向けの問題が紹介されていました。今手元に本がないのでうろ覚えですが
新聞の1節を読ませ、事実と意見に分けなさいといった問題で、大人の日本人でも手強いと感じる内容でした。
私もトラバ及び元増田に同意です。日本でもテクニカルライティングを教えたほうが良いと思います。
少なくとも、読書感想文が国語教育においてどのような効果があるのか?何を習得させようとしているのか?今のウエイトで良いのか?はちゃんと議論し直した方が良いと思います。
とはいえ我々の知っている小学校の授業はN年前のものです。もしかしたら現在の指導要領では見直されているかもしれません。(もしそうなら教えてください)
我々世代の国語教育について興味深い解説を見つけたのでトラバします:
「お気持ち表明文は適切な国語教育の結果」というお気持ち表明文
現在の新卒や大学生たちの受けていた国語の指導要領の解説です。
日本の国語はその目的の一つに道徳教育を掲げているという指摘とその影響について論じています。
https://anond.hatelabo.jp/20230725175238
お返事どうもありがとうございます。
これは本当によくわかります。
id:oeshi 国語については門外漢なんで雑にしか言えないけど、論理国語ってやつがそれに対応する目的で作られたんじゃないかな。でも現場教師が文学作品を好むのは事実。教科書会社も抜け駆けして小説入れたのが人気だったはず
id:oeshiさん、どうもありがとうございます
「論理国語」では、実社会において必要となる、文章を論理的に書いたり批判的に読んだりする資質・能力の育成を重視しています。
教材は、『近代以降の論理的な文章及び現代の社会生活に必要とされる実用的な文章』や『必要に応じて、翻訳の文章や古典における論理的な文章などを用いることができる』としています。
おおーーー! これですね! 学校の先生の皆様どうもありがとう!
理系は最悪大学で学べるので、文系にこそ選択して欲しいものですが。
それでも、以前よりはずっと良いですね。これからの若者に期待です。
id:mezirushi いまの学習指導要領では小学校の国語から「情報の扱い方」があって、ロジカルな読み書きも学んでいるはず https://www.meijitosho.co.jp/sp/eduzine/news/?id=20180189 情報の比較とか引用の仕方、出典の示し方までやってるみたい
id:mezirushiさん、どうもありがとうございます!
・第1学年、第2学年
ア 共通、相違、事柄の順序など情報と情報との関係について理解すること。
・第3学年、第4学年
ア 考えとそれを支える理由や事例、全体と中心など情報と情報の関係について理解すること。
イ 比較や分類の仕方、必要な語句などの書き留め方、引用の仕方や出典の示し方、辞書や事典の使い方を理解し使うこと。
・第5学年、第6学年
おおお・・・! 論理や議論の仕方をこのように教えるわけですね。なるほど
長年議論されていた理想の授業が詰め込まれていて いやはやスゴイです。
現場の先生の皆様ほんとうにありがとうございます!
それにしても現在学んでいる子供たちは我々とはもはや別者になりそうですね
私も負けないように勉強しないといけないな
すみません、他にトラバをいただいているようですが伸びすぎてしまって探せませんでした
反応できなくてすみません
しかし、それゆえか映画を見終わったあと若い人たちからはよくわからなかった、という会話も聞こえてきた。
だが、子供時代から宮崎駿のアニメに親しみ、そして反抗し、そして再び畏敬の念を抱き、そのあと少し忘れてしまっていた世代である私には響いた。
なんというか、これは宮崎駿から私たちへの最後の挨拶のようにも感じたからだ。
舞台は戦中、主人公の少年は裕福な家庭に生まれ、田舎へと疎開する。
作品を見る前の予想
・自伝的要素が強い
・宮崎駿アニメの集大成的要素(あるいは大甲子園的な展開もありえる?)
しかし、物語冒頭の観客の心を鷲掴みにしてくるパートの見事さから宮崎駿の老耄ぶりを心配する必要はなくなった。
はず、だったのだが、どうにも見ていて大丈夫か?この映画?と心配になるときが何度かあった。
というのは映画の冒頭から序盤までのパートはいいのだが、サギが出てくるパートから映画に対しての不愉快さが積もり始めるからだ。
予想していた悪夢的な醜さをコントロールできていないのではないか?と心配になり始める。
だが、見終わった段階で言えることはこれは計算通りのものであり作品の設計に狂いはない。
観客がそろそろ、この映画に見切りをつけたくなる、というタイミングで物語は猛スピードで展開し始める。
まだ上手く消化できていないのだ。
創作とは。
確か村上春樹とスティーブンキングは創作とは、掘り進める行為であるとか言っていたような気がする。
小さなミノで岩とトントン、トントン自分の心の底を削り続けるうちに創作の源と出会うとかなんとか、そういうイメージ。
その石の力で、世界をつくりあげた人物であり、今となっては力尽きようとしている老人。
石の積み木の位置を渾身でもって微調整しても世界はもう保たないのだ。
世界は滅ぼうとしている。
そう世界は滅びるのだ。
老人の世界を形作る石の積み木は微調整しても、もう新しい世界を生み出すことはないし、
ああ、駿、駿、駿。
なんと悲しいことを律儀に告げることのなのか。
みんな、みんな突然いなくなる。
志村は、なんの前フリもなく消えた。
その他のたくさんの愛すべき人たち。
彼らは何の別れの挨拶もなく消えていった。
でも。
ああ、駿、駿、駿。
お前は何と律儀に別れの挨拶をしてくるのか。
そして、その悲しさに私は胸が張り裂けそうだ。
インコ王様は、新しい積み木をこうやってああやってこうすれば、それで世界は再生するのだ。
とやってみせるが、それは世界の滅びを早めるだけだった。
世界は石の力を扱える血族でなければ、存続させることが出来ないのだ。
はい、落ち着いた声で文学的な教養を持つVtuberとしては、以下の方々が挙げられます。
夜桜たま
彼女は、小説や詩を書くことが得意で、また、落ち着いた語り口で有名です。文学や芸術についての深い知識を持ち、その知識を生かしたトークを行うことも多く、文学的な教養を身につけたい方にはおすすめのVtuberです。
彼女は、歌手や小説家としても活躍しており、多岐にわたる才能を持っています。彼女の語り口も落ち着いており、文学的なトークも得意としています。また、彼女の配信では、古典的な文学作品を紹介することもあります。
紫咲シオン
彼女は、幅広い知識を持つことで有名で、文学や哲学などの分野にも造詣が深いです。彼女の語り口も非常に落ち着いており、文学作品について深く語ることもあります。
落ち着いた声と文学的な教養を持つVtuberは多数存在しますが、特に人気があるVtuberをいくつか紹介します。
ホロライブ所属のVtuberで、落ち着いた声と知識豊富な性格が魅力です。彼女は文学作品に関心があり、視聴者との会話で時々文学的な話題を取り上げます。
天音かなた(Amane Kanata)
ホロライブ所属のVtuberで、彼女の落ち着いた声は多くのファンに愛されています。彼女も文学に関心があり、文学的な話題を時々取り上げます。
にじさんじ所属のVtuberで、文学的な教養を持つキャラクターとして有名です。彼女の配信では、小説や詩の朗読を行うことがあります。
立花理香(Tachibana Rika)
にじさんじ所属のVtuberで、落ち着いた声と文学的教養を持っています。彼女は視聴者との会話やゲーム配信の中で、しばしば文学的な話題を取り上げます。
これらのVtuberたちが文学的な教養を持っていることをアピールしているわけではありませんが、彼らの配信やトークを通じてその知識や教養が感じられます。これらのVtuberをチェックして、あなたのお気に入りのVtuberを見つけてください。
本の内容とか理論とか施策にケチをつけてる人の中でも、それはもう議論され尽くされて無効とされたものだろってケチを無知ゆえにつけてるやつは最高にむかつく。
いやさあお前程度の人間がかの文学作品にケチをつけようとしたのが間違ってるんだよって気持ちになる。もっと勉強し尽くしてからそれでもそのケチが自分独自のものだと判明してからやれよって。
そういうのは共感性羞恥をもよおすので見苦しく視界に入ってくるのもやだね。そういう意味で今の制度ってどうなのって思う。中国みたいに発言の自由制限されてたほうがいいんじゃないってなる。
無知な平民にも好き勝手言わせてるからこうなるんだよって。まあこの増田自体無知ゆえのケチなのかもしれんがそこま大目にみてほしい。
俺は古典教育廃止しろ派、というか、文法とかどうでもいいから文学史だけやれ派なんだけど、その理由のひとつに、「古典」つって出てくんのが結局枕草子・源氏物語・徒然草程度じゃん!っていうのがある
なんなら小学5年〜中1くらいでやるだろその辺って
谷川俊太郎の詩とかと一緒にさあ!
それで暗唱させられたから覚えてるだけなんだ
水鏡とか大鏡とか、伊勢物語とか落窪とか、なんかいろいろあったろ?俺は覚えてねえけどさあ
日常的に軍記物語の語り口調でギャグを飛ばしてみんながウケるとか、しょっちゅう百人一首あたりを引用して喋るのが一般的とか、そういうレベルでみなさんが教養を持ってんだったら、俺だって文句は言いません
でも何すか、スーパーの惣菜売り場に「春は揚げ物」って書いてある、これが"古典教育"だ!ですって?
"「春はあけぼの」の元ネタがわかる"程度だったら、小学生のときに、授業1時間受けるだけで、充分たどり着けるんだよ
っていう話だろ
これ、実は明確な答えがあって、ないんです
なんせ何も覚えてねえ
昔、男ありけり ソーワット、ファックユー!
まあ実際、(ごく一部を除いて)つまんねえ上に教訓もないクソ説話・小説を6年にわたって読まされることで、ああ俺たちの先祖ってカスだったんだ、貴族階級のが書いて、かつ後世に残そうとされた、日本古典文学の上澄みがこのレベルだったんだ、貧しい文化の国だったんだなあ!と思えるというのは、ひとつの学びだったかもね
ここで10 Japanese Classic Booksなるまとめをチェック!
4 竹取物語 ングアー!やられた!!でも竹取物語って古典やんなくても知ってるだろ 古典教育の必要性って意味では、これはノーカウントじゃないか?? でもまあ、1ポイント
7 砂の女 そういえばこれ読んどきたい
9 雪国 ほら〜
見てくださいよこれ "クラシック"なんて頭につけても、ガチ古典vs近代文学で3:7ですよ
雑魚すぎんだって古典 しかも竹取物語はなんか、史料っぽい雰囲気だからな
アレある程度授業でやったけど、覚えてんのは「うつくしうてゐたり」の一文だけだ 美しく座っていた、という表現はちょっと英語っぽくてかっこいいな、という浅い印象だけ あと不死の薬を焼いたから富士山です(笑)みたいなオチがすげー鼻についた
枕草子・源氏物語・徒然草・竹取物語・今昔物語くらいをサラッとさらって、文法は一切触れず、こんな感じだったんですよ〜でお終いだ
原典の響きがどうこうって意味では、昔のハ行はパ行だったとかいうし、やるだけ無駄ってもんだろ
ライトノベルの作者が文学者として語られないのが腑に落ちない。
ライトノベル滅多斬りのようなそれに特化した書籍ならともかく、国語辞典や百科事典に載ってる人が全然いないわけだ。
特化した本では語られていてそうでない本では他のジャンルと同じ割合だけでもなく全然言及されないというこの状況は世間にとってラノベの価値は井の蛙的なものであるということを物語っているのではないだろうか。
後にも述べるがいまやラノベは純文学以上に熱烈な支持者は多いように思う。
が、そもそも本に対する愛着やこだわり自体あまりなく暇だったり必要に応じて読んでいるという人が、蝸牛の争いのような両者に比して圧倒的多数だと仮定するなら、権威ある事典などにラノベではなく純文学の作者について語られていれば浮動票のようにそちらの方が優れていると考えるだろう。あるいは世間一般の人がそれがなんとなくであるにすれラノベより純文学の方が優れているという考えを持っていることの現われなのかもしれない。
このような単にラノベが純文学より劣っているという考えは何の普遍性もない(無根拠な)価値判断が来ているのだろうか。
正直私にはたとえば恋愛を扱ったものに関してラノベと純文学で読後感という点で違いを見出せなかった。
ラノベ、魅力的な都合のいい異性を描いて娯楽に供させる。
一方で純文学、シェイクスピアのハムレットなんか見てみるわけだが、異性が魅力的でないこと以外読み物としては両者ともそれぞれ違った(優劣ではなく)面白さがあるだけで差を感じられなかった。
ブリタニカ百科事典先生によると、文学は芸術の一つで、芸術には美の要素があることが要件らしい。
逆に言えばより美しく、芸術性が高い作品が文学としてより優れたものなのだということになりそうだ。
でもそれじゃあ美ってなんだよって話になる。ラノベに書かれてることは美しくなくてシェイクスピアは美しいと頭ごなしに言われてにわかに納得できるか?ラノベ好きなら教条主義的な人以外そんなことを思考停止して受け入れるのは無理な話だろう。
文学といえばよくそのメッセージ性が問題にされているとは思う。
文学作品の物語、プロット、筋というのは何か崇高なことを訴えていることが期待されるものだ。
その点ラノベにとって物語というのは登場人物すなわち読者にとっての異性をより魅力的に見せるための小道具、オタク的に言えばシチュとしての役目しか持たされていないのかもしれない。
あるいは訴えることがあるにしても評価されている純文学のそれに比べれば余りにも素朴で浅はかなものなのかもしれない。
しかしそれがなんだと言うのだろう。
そのラノベを開くとマッチ売りの少女のように脳内に魅力的な異性が立ち現れてくる、そこに価値を見出している人が確かにいるのだからそれもまた確かに「価値」じゃないか。
むしろ紙の本が売れなくなっているこのご時世には電子出版と相性がいい漫画と同じくラノベのほうがそれ以外の小説よりよく読まれているのではなかろうか。
価値に対して人間が万物の尺度であってかつ尺度の多数決によってその度合いが最終的に定まるものなら純文学よりもラノベのほうが価値が高く優れているということになりそうなものである。
またどれだけ異性を魅力的に描けているかということならまだ美という観念にも通じるものがあるように思え、その作品の美しさを論じる余地があるように思える。
他方、ガリバー旅行記は人間社会の不条理さや醜悪さをこれでもかと抉り取った大人の読み物らしい。
そういうメッセージ、風刺、アンチテーゼの質が文学作品の重要な評価軸になっているようには思う。シェイクスピアも漏れなくその点で評価されているのだろう。
こうしたメッセージ等の価値というのはそれが真理を示しているか、生きる指針として役立つか、ということ等にあるのであって、これは美しさという尺度でどうこう論じれるものではないと思う。
たとえていうなら匂いについて判読性が高いかどうか論じようとするようなものだ。嗅覚上の情報に視覚に関係する尺度をあてがってもどうにもならない。
あるいは文学には描写そのものの美しさというものも見出すことが当然できよう。
その最たるものが詩だろう。
それは単純に視覚的に美的なものを描く、あるいはレトリックの巧みさという形で体現されるはずだ。
そういう詩的要素が散文においても存在するなら、その散文すなわち小説などは美しさを帯びていることになり文学の要件を満たしうるはずだ。
しかし文学からそういった詩的な要素に対してメッセージ性というものは論理の次元にあるものなのだから、そういう詩的フリンジを取り去ってもメッセージ性は保存されるはずである。
その文学作品が何を訴えているかということがノーベル賞においてすら重要な評価軸になっているのだから、詩的フリンジの有無はその文学的価値にとってさしたる要素ではない考えられるのだ。
文学の価値は何を訴えているかにあるはずなのにそこには文学の要件たる美がないとしか思われないのだから訳が分からない。
結局辞書の言っていることを手がかりに形而上的に考えても埒が明かないのかもしれない。
とはいえ主観のおもむくままに考えてみてもおそらく月並みな見解しか沸いてこないだろう。
それを承知で述べてみるなら、まず文学作品と呼ばれるようなものは限られた人しか楽しめない。少なくとも文盲や知的障がい者には荷が重い。
だからその価値判断というのはその限られた人の価値観に偏ったものになるはずだ。
知的エリートはそうでない人に比べ収入が高い傾向にあること言うまでも無い。
ただの女たらしが「紀州のドンファン」と一目置かれた称号を得るのも然り、財力があれば世間に対する存在感ひいては発言力も増すという俗物的な構造はまだまだ根強いと思われる。そうでなくても知的エリートは社会的地位が高い傾向がある。
そういうわけで彼らの考えは権威を帯びる。
ただそれだけなら楽しめる作品が多いというだけの話なのである傾向を持った作品ばかりが知的エリートに推されるということの説明にはなっていないはずだ。
彼らはより知的でなければ読めない作品に、自分を飾る嗜みとして、価値を見出すのだ。
なのでラノベではなくてそういう作品が、そういう作品の作者のほうが優れているという考えや言論が幅を利かせることになるのではないか。
教養とか皆無でもさっくり気楽に楽しめるようなものを尊んでいるのでは格好がつかない。それでは凡百と同じなのだ。
以上をひっくるめれば、彼らは美しい作品ではなく、強靭な教養や知性という顎でもってはじめて噛むことができるスルメ的な面白さがあるかどうかで価値を判断している。
そしてそれが権威ある辞書や事典の記述を通して本に対してさほどこだわりのない圧倒的多数の一般大衆に浸透し、そうしてラノベは純文学に対して劣ったものという既成観念が形成される。
月並みなばかりでなくいかにもルサンチマンに満ちた見解になっているとは思うが、そういうことなのではないか。
似たような話でアニメはドラマや実写映画より劣ったもの扱いされているということがあるだろう。
昔の大衆の娯楽だったものは今は高尚なものとして扱われるというパターンがあるけれど映画は割りと初めのほうから芸術的に価値あるものたりうると認識されていたような印象がある。
逆にアニメはジブリが(ガンダムなんかも?)例外なだけで今日まで芸術性が認められてないゆえにどこまでも映画に劣った娯楽作としか見られていないように思う。
さらに時間が経てば歌舞伎や浮世絵のように芸術として見られるようになるとはにわかに考えにくいのだ。
実はこの文章の原稿はいっぺんに書いているのではなく日をまたいで書いてるので、その間に得た知識によっては文章に反映されていくものもある。
その一つとして先ほど偶然知ったのは、大衆文学には少年少女小説、つまりほぼラノベと同義と捉えても差し支えない概念も含まれるということだ。
ただし付け加えていうなら大衆文学には純文学に対して価値が劣ったという含意がある。となるとこれはむしろラノベは劣ったものであるとう認識が存在する傍証になってしまったようだ。
本当のところはうだうだ言う前に早い話がもっとラノベと純文学をバランスよく読めば自ずと両者の面白さ以外の違いも分かって疑問も解決に向かうかもしれない。
しかし私はラノベもそれ以外も小説というもの自体平等にあまり読んでないので、今更自ずと分かるまで両者を読みまくって分析する気までは起こらない。
好きでもないジャンルの本を読むのは受験勉強に等しく苦痛だ。私はただなぜラノベ作者が純文学作者と比べ評価されたり公の場で対等に紹介されたりしないのか知りたいだけだから、私自身が苦痛を味わうまでもなく両者を愛読していて答えを知っている人に教えてもらう方が合理的に決まっている。
知恵袋にも質問の体をしているがその実は女がしがちな「どうしていっちゃうの?」式の不満に対する詰問でしか内容の投稿が多くあるが、結局風潮への反感が、反感は反問を生むという素朴な力学が私にその理由を知りたがらせているわけだろう。当然ここにも答えを知っているものがいるならばその提示を望むものである。
また私は私でただの判官贔屓かもしれないけれども、メーンカルチャーに属するコンテンツに対する感想が溢れるなかでブログや増田に埋もれたラノベやアニメの感想記事があったら、その飾らない感性とのその一期一会に感謝し、その価値観を慈しむことでこの世間の風潮に対抗しているつもりなのだが、それをこれからも続けていくつもりだ。
dorawiiより
何が書いてあるか、誰が書いているか、の違いか|文学作品ならそら後者やろうけど、技術書や理論論文で後者重視したら権威主義への傾倒でしかないな
いや、文学研究でも「何が書いてあるか」です(「何が書いてあるか」を解釈する上で「誰が書いたか」という情報が必要な場合があるだけ)。たとえば、ピケティが英語で書いた論文なら英語から訳すべきで、ピケティがフランス人だからといってフランス語から重訳するのはおかしい。逆に、仮に著者がイギリス人でも、フランス語で書かれた本ならフランス語から訳すべき、そういう話です。文系が大事にしているのは「文章それ自体」であって、文章それ自体を忠実に原語から訳すことが重要である、というのが文系の考え方。
(だって、「オリジナルの文章」こそが我々にとっての生データですからね。もちろん完全にオリジナルなのは難しい場合が多いけど、なるべくオリジナルに近づける努力をすることは必要で、原文にあたるのはその基礎的な作業であって学部生とかの未熟な人でない限りは省くべきではないプロセスですよね、ってこと)
さえぼう氏側は「間違いが起こり得る」としか言わず、具体的にどこが「間違いだった」という指摘がないから、屋上屋を架す空論でしかない。具体的に誤訳だったという指摘、出版から随分経つけど今までにあった?
これはもう「具体的に間違いがあるから問題だ」ではなくて「重訳なのがけしからん」という話なので……具体的な実害の問題じゃなくて規範の話をしてるんですよね。ただ、その規範が他の分野の人たちに受け入れられていない、という状況。
たとえば増田は、ちょっとマニアックな事柄についての論文を有名な査読誌に投稿したことがあるんですけど、「よく調べてあるけど学術的インパクトが足りない(要は面白くない)。却下」という趣旨のやり取りを何度かして、もういっか、めんどいから載るとこに載せよ、って思って当時所属してた機関の紀要に無査読の論文書いたことがあるんですよ。業績欄には当然その論文を載っけてます(もちろん査読の有無は明記した上で)。で、この論文が形式上査読なしであることに特段の問題はないですよね。だって研究結果が間違ってるわけじゃないもの。ただ有名な雑誌に載るほど面白くないだけ。それでも、論文には査読がついていて当然、という人たちは「いや、査読なしだと間違った論文が載るリスクがあって、だから査読がないものは論文と認めるべきではなく……」って言いたくなるんじゃないですか? 「重訳だと誤訳のリスクが……」ってのもそういうことですよ。
物理学そのものではないですけど、いちおう、文系には科学史という分野もあり、そこでは物理学の歴史について原語を使った研究がされてます。たとえば、 isbn:4486021746 なんかは、ソ連時代の物理学をめぐる論争について研究した本で、がっつりロシア語の文献を読み込んでます(ネットで読める論文だと、DOI: 10.34336/jhsj.47.248_193とか)。外国の学者が書いたこの本 isbn:4815808090 も、英語以外の文献も読んでたような(この本は面白いので超オススメです)。アインシュタインはドイツ語で相対性理論の論文を書いたわけですからね(DOI: 10.1002/andp.19053221004)。もちろん、繰り返すようにこれらはあくまで「物理学を対象とした文系の学問」であって、物理学そのものではないので、「物理学では基本的に英語版からの翻訳」というのはそうなんだろうなぁ、と思いますが。
これ、医学系が人文系にIF要求するような無理筋を感じる 読者がやるのはピケティの研究じゃなくてピケティを踏まえた研究では
これメチャクチャ思いました。過去の査読云々の論争を思い出しちゃいましたよ( anond:20181009070341 とか、 anond:20181011090428 とか、このへんの話ね)。「翻訳するときは原典から訳すのが当然だろ!」「いや、別に重訳でも意味が取れてればそれでいいじゃん……」「出版のスピード感も大事だし……」っていうやり取り、まんま過去の「論文は全部査読するのが当然だろ!」「ええ、別に無査読で載せても、後続の論文でしっかり吟味されてればそれでいいじゃん……」「出版のスピード感も大事だし……」っていうやり取りとソックリというか。増田は「なんで原典にあたるという当然のことを重要視しないんだろう……」って思っちゃうんですけど、理系や経済学の人たちも「なんで査読という当然のことを重要視しないんだろう……」って思ってたわけですよね。まあだから、あんまり自分野の基準で他分野にケチつけるのはよろしくないなぁと、自戒を込めて。
増田に書いたことは原文ママじゃなくて要約です。当たり前でしょ……(ほんとはきちんと細かく落とす理由を書いてあったけど自分の専門分野も出した雑誌の名前も言いたくない)。まあ「大意」とか「趣旨」とか書いておくべきだったかもしれないけど流石にこの文面見たら要約だとわかるっしょ? って思ったんですけど伝わらない人もいるんだなぁと新鮮な驚きを感じたので「趣旨」って付け足しておきましたわ。要約を鉤括弧で括ったこちらにも非はあるし。
だから丁寧に「有名な査読誌に出して面白くないからと蹴られた」話をしたんですけど伝わりませんでした? 間違いがあるとかじゃなくて、マニアックすぎてうちの雑誌に載せるには面白くない、っていう理由で却下されたんですよ。まさかそこに引っかかる人が出てくるとは。ちゃんと経緯は書いてあるでしょ。
でもまあ、反射で「査読ついてないなんてけしからん」って思っちゃうってことですよね。重訳もそういうことです。反射で「直訳しないなんてけしからん」って思っちゃう、っていう話。
わざと言ってます? それとも本当に読めてない? 「よく調べてあるけど」と前置きしたでしょ? 研究成果それ自体への疑義は査読者からは呈されていません。むしろ称賛されてます。その上で面白くないから書き直せってやり取りを何度もしたの(再投稿を可とするリジェクトだった)。何度か書き直して、ああこれは先方が求める「面白さ」と増田がこの研究に感じている「面白さ」が噛み合うことはないな、と思ったので再投稿せずに無査読紀要に載せることにしました。自分にとっては自明なことなので説明不足になっていたきらいはあり、そこは申し訳ないけど、もとの文章ちゃんと読んでくれませんか?
だいたい、研究成果の正しさはディジタルじゃなくて、「部分的には正しいが、しかし……」みたいにグラデーションがあるものでしょ。査読で100%の正しさが保証されると考えているならそれは大間違いですよ。増田の研究だって、研究手法と結論的に「正しいか、間違いか」なんてディジタルに言えるような研究じゃないっす。なので査読で「間違いだとわかる」なんてこともほぼあり得ない(資料の読解間違いとかはあるかもしれないけど、増田の論文が総体として「間違い」であることを示すには増田の論文と同程度以上の調査をし論文を書く必要があるんで、普通の査読じゃ「間違い」とか言えないはず。関連する資料を全部諳んじてる大家なら別だけど)。
そもそもピケティ先生は狭い学術ギルド内論文として書いたんじゃなく経世済民の書として世に問うたわけだから増田の話(や一部ブコメ)は大分ズレてるのでは。例えば「翻訳とか無駄で原本を参照汁」的な暴論との文字数
学術業界だけじゃなくて、一般書の方でも最近は「原語から訳すべき」という流れが定着しつつあったじゃないすか。スタニスワフ・レムも昔はロシア語からの重訳だったけどポーランド語からの新訳が出てるし、昔はフランス語経由で訳されてたイスマイル・カダレも今はアルバニア語から訳されてるし、バスク語やチベット語やイディッシュ語の文学が翻訳されてきたでしょう? そういう流れが出てきてたのに有名なフランス語の本を英語から重訳するなんて、というショックは当然ありますよ(だから私は『三体』も相当ガッカリしましたよ。中国語版には検閲が入ってる、と聞いて納得したけど。エーレンデュル捜査官シリーズの方は、重訳自体はもう仕方ないけど、頼む~~~せめて著者の名前がおかしいのくらいはどうにかしてくれ~~~って感じ。重訳のせいで著者の名前すらおかしな表記がされてるんですよね……)。時代を巻き戻す気か、と反射で思っちゃうのも無理はないです。