はてなキーワード: 文学作品とは
【先週】リアルタイムで番組ch(無料BS)に行けず、土曜昼の再放送ものがしたので
・02 穀雨 こくう
・03 高知(県
・04 ちばてつや
・05 [3択]2(番
・06 18(歳
・08 コキーユ
・09 ブライアン・メイ
・11 [近似値]7,840,773人
・13 [3択]いぬ
・15 FIRE ファイア
・16 [択]駅
・18 ウチワ(サボテン
・21 634(メートル
・25 善光寺
・26 [3択]およそ)4(倍
・27 くらもちふさこ
・29 沖縄(県
・30 フランス語
・yy ルイジアナ(州
赤:飯冨信也@岡山 緑:古今亭今輔@東京 白:五十嵐実@群馬 青:木村武司@大阪
緑13
赤 8 赤18 緑 3 赤 2 青 1 緑23 赤 × 緑 7
青 4 白14 緑15 白 6 青11 青12 スルー 青19
緑20 スルー 白25 赤24 青22 青10
赤21 > 3
赤 3 白 × スルー 赤 × 青 9 白 5 白17 青16
例のオープンレターにはこんな一節がある(以下、引用者による省略は[ ]でくくって示す)。
これって、発端の先生が熱心に「高い倫理」について論じてらした宇崎ちゃんの献血ポスターへのバッシングのことでしょ。もちろん他にもあるのかもしれないけど、メンツ見たら「あ、あの件」ってわかる人にはわかるよね。
これまで赤十字が(女性向けゲームも含む)色々なコンテンツとコラボしてきて『宇崎ちゃんは遊びたい!』とのコラボはその一環だったという経緯、「売血」を問題視しておきながら10回献血すればおしゃれな杯がもらえたりモーターショーで献血すると限定トミカがもらえたりすることには一切言及せずオタク向けコンテンツとのコラボだけをことさらにあげつらう偏り、ポスター擁護派へのバーレスクやらを持ち出した煽り、このあたりにめちゃめちゃ腹が立ったので今でも献血ポスターバッシングに加担した人たちのことは許せてないんだけど、こういうふうにさらっと書かれたらこういった経緯を全然知らない人はスルーしてそのまま署名しちゃうでしょ。
このオープンレターに賛同したらあの献血ポスターバッシングに賛同することになる以上、当たり前だがポスター擁護派の増田は署名なんてできようはずがなかった。
オープンレターの発起人の中には、「金田淳子 やおい・ボーイズラブ研究家」という方がいらっしゃる。普通の賛同署名ではなく発起人の欄に書かれているので、お名前を勝手に使われたのではなく紛れもないご本人だろう。
そうすると、ご自分の過去の言動についてはどう思っていらっしゃるのかなというのは気になるところだ。では、ここで2019年に金田氏が自著の出版に際してなした発言を見てみよう。
なるほど、「ケツの穴が小さい」という慣用句にかけた性的なジョークを披露なさっている。ところで、板垣恵介氏は金田氏の以前からの親しい友人というわけではなく、『刃牙』を元ネタにした書籍の発刊にあたって許諾を取ったという関係の、いわば仕事相手であろう。ということは、金田氏は「仕事相手に対してオンラインメディアで多少性的なジョークを言うのくらいは別に構わない」という立場を採っていらっしゃるわけだ。それ自体はひとつの見識であろうと思う。人には表現の自由というものがある。しかしそのような立場の方が、オンラインでの「遊び」に対してNOを突きつけるオープンレターの発起人に名を連ねていらっしゃるというのは、なかなかに興味深い事態ではないだろうか。
なお、マイノリティということで言うなら、男性同性愛者が苛烈な差別にさらされているマイノリティであることに異論はなかろうと思う。ところで、BLややおいという文化は、彼らを性的に客体化し、消費するものであり、もしも女性を「性的消費」することが女性差別的な文化であるなら、男性同性愛者のセクシュアリティを消費しているBL/やおい文化もまた、男性同性愛者への差別にあたるはずだ。個人的には性的客体化も性的消費も好きにすればいいしそんなのは差別ではないと思うので、女性を性的客体化した表象が問題ないのと同様に、男性同性愛者を性的客体化することを楽しむジャンルであるBLも問題ないと考える。しかし「性差別的な表現」を批判するオープンレターにBLを肯定的に捉える立場のBL研究者が参加しているというのは、「もしかしてBLのことを性的客体化だと認識してないんですか?」という深刻な問題を惹起するだろう。
【追記】金田氏の過去の発言について、『ユリイカ』での荒木飛呂彦氏への発言が取り沙汰されることがある。荒木氏本人に向けて「ディオは[……]何百人もの男たちに慰みものにされてきた」という発言を行った箇所だ。しかしこれはある作品の解釈を論じているという文脈であり、作品解釈を著者に向けて披露することが直ちにハラスメントということにはならないはずである。板垣氏へのアナル発言のように著者本人の身体部位をからかいの種にしたわけではない(なお、アナル云々について「謝罪はされている」という指摘はあるが、「『アナル』の多用」についての謝罪であったので、「仕事相手に向けて性的なジョークを言う」ことそのものへの謝罪ではないように思われる。もちろん氏には「仕事相手に向けて性的なジョークを言ってなにが悪い」と主張する自由がある)。漫画作品にはいくつもの解釈があり得、その中には性的な解釈も当然あるだろう。もしも金田氏が本気でそのような解釈も成り立つと考えているのなら、それを著者の前で論じたとしてもなんの問題もない。男性研究者がある少女漫画――そう、忘れられがちだが『ジョジョの奇妙な冒険』は少年漫画なのである――について「このキャラは男とヤりまくっていると思う」と女性の作者に向けて発言するようなものだろう。仮にそのような解釈が成り立つなら、そういった発言も許されてしかるべきである、と、ゴリゴリの人文系である増田は考える(文学作品の解釈において「作者の気持ち」には何の意味もないことはもはや常識であろう。作者本人にとっていかに不愉快な解釈であってもそれが成り立つことはあり得るはずだ)。
問題発生当初から、周囲の研究者があれはアカハラだと言っていたことに非常に大きな違和感があった。なるほど中傷した人もされた人もどちらも博士号を持っていて、大学に職を得ているアカデミアの住人ではある。しかしそれは「アカハラ」か? 中傷された人は、中傷した人と何らの面識もなく、大学や学会等での関わりもなく、そもそも専門分野がまったく違っていた(日本中世史と英文学って、分野も対象地域も違うから出身大学院や勤務先が同じでもない限り基本的には接点がない)。さらに中傷した人は、大学准教授以外にも作家や弁護士といったアカデミアとは無縁の人に対しても中傷を行っていたことが明らかになっている。
そうすると、これは単に「リベラルやフェミが嫌いなネット民が、リベラル派やフェミニストの言論人に対して中傷を行っていた」という案件ではないだろうか。たまたまネット民と言論人の双方が博士号とアカポスを持っていただけで、本質的にはアカデミアの問題とは思えない。だから問題がないと言っているわけではない。例のオープンレターは増田には「帰宅途中の銀行員が夜道で財布を奪われた事件を『銀行強盗』と呼んで行員の組合が抗議声明を出している」ように見える。いや、確かに銀行員が強盗の被害に遭ってはいるけど、それを銀行強盗とは呼ばんやろ……
そう、発端の先生は学者であると同時に言論人でもある。いくつかのオンラインメディアに社会評論的な記事を書いておられる。そのこと自体にはなんの問題もない。学者が自分の専門知識を活かして言論人として活躍するというのは表現の自由であり、なんら制約を受けるべきではない(呉座勇一氏も似たような立ち位置だったといえる)。
しかし言論人というものは、しばしば見ず知らずの人から口汚く罵られたりあてこすられたりするものだ。たとえば百田尚樹氏は、ご自分の社会評論を発表したことで、非常に大きなバッシングに遭っている。当然それにはなんの問題もない。百田氏の思想や彼の著作を気に食わない人は、たとえ百田氏となんの面識がなくとも、彼のことを痛烈に批判したり、事あるごとに彼の名前を出してあてこすったりするだろうし、それは表現の自由に属する(「百田尚樹はクソッタレの極右だ」「ウィキペディアを参考にして本を書くとか、百田尚樹かよw」「コピペは許されないだって? 百田先生への悪口を言うのはやめてさしあげろ」etc...)。もちろん、性差別や容姿差別はたとえ相手が百田氏だろうと許されるべきではないが、出版された著作に基づくこの種の批判を浴びるのは仕方ない。
これらの罵倒や当てこすりになんの問題もないと思うなら、同じ判断基準を他の言論人にも適用すべきだろうと増田は考える。増田は、百田氏に対するその種の批判は表現の自由の範疇に属するものだと思う。したがって、件のオープンレターには賛同できなかった。
昨今騒がれている署名の偽造については、もちろんオープンレター発起人に悪意があったわけではなく、悪意を持った何者かによる悪戯であろう。そこは同意するし、悪戯の被害に遭って気の毒に思う。
しかし、研究者同士のメーリスで回覧するとかではなくグーグルフォームで広く署名を募った以上は、そういう愉快犯が紛れ込んでくることはどうしたって避けられない。これはネットでの署名活動にまつわる常識であろう。したがって普通は、ネットの署名は「○○筆の署名が集まりました!」とだけ広報し、第三者はそれを1割から2割ほど差っ引いた数字で捉えるものだろう(たとえば、7万筆ほど集まった署名なら、まあ6万人くらいが署名したのかな、と捉える)。
アカデミアに関する抗議声明がしばしば組織(大学や学会)の名の下で行われる理由のひとつは、その声明に信憑性を持たせるためだ。信憑性を持たせるためにはある程度の権威主義が必要になってくる。今回の場合、たとえば大学などの組織が発行したメールアドレスから送信された署名のみ受け付けて、フリーメールアドレスからの署名は弾く、というような手法も考えられた。ところが「マイノリティの声を拾い上げる」というのを信条にしている研究者諸氏は権威主義が嫌いなので、アカポスを得られていない研究者はどうするんだ、とか、在野で活動している人はどうするんだ、といった配慮をしてしまったのだろう。その優しい配慮は学会の運営などでは必要なものだが、今回はそれが裏目に出てしまった。不幸な出来事だったと思うが、しかし信憑性を確保できない以上、ここは個々人の名前を出すべきではなかったのではないか。「○○筆の署名が集まりました」で十分だろう。次からの教訓にしてほしい。
企業ってのは大学で勉強してきたことももちろん考慮するけど、重視するのはその潜在力だ。
宮廷に行って、かつ大学でもいい成績を修められる努力ができたんだろ?
研究を重ねることができたんだろ?
会社に入って、大学でやってきたことをそのままやらせるところなんてかなり稀だ。
学んで吸収することを得意としてきたんだろう?
誇れるのは成績だけだった?
それは十分誇れるところだ。
会社ではその成績を勝ち取った能力を使って更に多くのことを学んで吸収していくつもりだと確言しろ。
お前のその潜在力を欲しがるところはいくらでもある。
それを決めて職を選び、面接を受けろ。
「文学部で学んだことが通じますか?」と訊かれたら「学んだ内容ではなく、方法を活かします」と言え。
実際そうだろ。
そうやって自分を高めてきたんだろ。
そうこうして、面白い文学作品とかの話なんかに持っていって面接官を楽しませることができたらしめたものだ。
お前は内定を貰える。
泣き終わったら自信を持って動け。
いただいたコメントを受けて過去を冷静に振り返るエントリも書いたんで気になる人は見ていってください。
https://anond.hatelabo.jp/20220116181308
23卒の文学部。マジで日本のキャリア教育も私の周りの人間もとことんなじって泣きたい気分だ。
まず受験を経て中学に入学してから、大学受験は恐ろしいものだという周りの言葉にしたがって、青春を勉強にささげた。
高校生の私は、文学や映画といった芸術が好きで、それを勉強してみたいと思った。
その結果、オープン模試では浪人も含めた受験生で一位になるなど、自分でも本当かよと思う成績を常にとっていた。
そして大学受験。過去最高の点数をたたき出し、狙い通りに宮廷大の文学部に晴れて入学。
入ってからは、サークルに所属することもなく(人と関わるのが面倒くさかった)、変わらず勉強に打ち込む日々。
文学理論の本をあさり、文学作品を読み、レポートを必死に書いた。
アルバイトはしたのだが(ノンバイサーはさすがにやばいかもと思ったので)、結局勉強する時間がなくなったし人と関わるのがしんどかったので半年でやめた。
そして今、就活を始めてやっと気づいた。今の私を求める企業なんかない。
ESに書けることがない。ガクチカで、今まで勉強を一人でしてきました!とは書けない。自己PRで、成績めっちゃいいです!とは言えない。
そこまで頭がいいなら研究者になれば?と思うかもしれない。しかし、私が得意なのは勉強であって、真理を追究しようという強い意志も、狭き門を狙って親の穀潰しを10年以上続けるほどの度胸もない。
もし仮に十年以上穀潰しをやって、博士課程を出たとして、そしてどのポストにもつけなかったら死に向かって一直線だ。
親は私が文学部に進むのをまったく止めず、「せっかくその頭があるんだから好きなことを研究しなさい」と言って送り出してくれた。
小学生の時から中学受験のために塾に入れ、バカ高い私立進学校の学費を払い、ここまで育ててくれた。
ごめんね、ありがとう、でもあなたたちはマジで教育を間違えたよ。私のこの先の人生のことはまったく考えずに、勉強だけさせたらいいと思ってたんだね。
勉強だけしてきただけあって、私の大学での成績はGPA3.6。宮廷でこれなら、かなり上位のはず。
そしてそれを見た親は、ここまで来ても「そんなに頭がいいんだから、人生一度なんだし院に行ったらいいんじゃない」「研究者になったりして!」と言う。
親は分かってないのだ、何にも。文学研究者になって食っていくことの困難なんて。もうすでにその一度の人生を棒に振りかけてんだよ。
仮に文学修士で卒業するとしても、そんなやつどこの誰が雇いたいと思うのか。6年間文学の研究してた人間を雇いたいと思うか?誰でもいやだろ。
これなら、「お前の人生はお前で歩け。後はしらん」と放り投げて知らん顔する親の方がまだよかった。
親の言葉を信じて、親も私の成績の良さが誇らしくて、共依存になっているうちにここまで来てしまった。本当にばかだった。
もう今では、自分は学ぶのが好きだったのかどうかすら自信がない。
勉強する才能は間違いなくあるのだろうが、学問が好きなのかというと分からない。というか、正直多分そこまで好きじゃないし向いてない。
高校までは、勉強さえしていれば褒められる。私は三教科で偏差値80越えの生徒だったから、周りの先生や生徒に、そして親にちやほやされていた。
その実、性格的にはややコミュニケーションに難があり(HSPなのかメンヘラなのか知らんが、常に不安でいっぱいな感じ)、高校生活でも最後は保健室登校みたいになっていたが、それでも注意されることはなかった。
甘えてないで人と接しろと、それがお前の将来のためだからと、そんなことを言ってくれる人はいなかった。
分かっている、悪いのは私だ。一人でできる勉強にばかり逃げて、人と関わろう、向き合おうとしてこなかった。
自分の価値決定を他人に任せてきて、褒められたから自分は生きていていいんだと、そんな風に他人任せで真面目に自分の人生を顧みなかった。
でもさ、でもよ、大学入学までの18年間、ずうっと勉強しては褒められる環境にいた結果、「勉強をしてれば報われるんだ」と考えてしまったのは私だけの責任じゃないはずだ。
思ってしまうのだ、そんな私をつくったのは、親であり教師でありこの社会のシステムのせいでもあるんじゃないのかと。
高校では「勉強していい大学に入れ!」と尻を叩かれつづけ、大学に入ったら「好きにしろ(あと数年で就職だけどね)」と放っておかれる。
最初から言ってくれよ、文学なんか勉強しても社会で何も必要とされないって。
国語が特にできるね、読書が好きなんだね、マイナー映画も好きなの?なら君は文学部で好きなことを勉強しなよ。
いい加減にしろ!そうやって私の将来なんか何も考えることなくおもちゃみたいにして!誰も私の人生のことなんか考えてねえじゃねえか!
私が優れてるのは小手先の成績であって、持っているのは記憶力と心配性であって、研究を続けられるずば抜けた力なんかねえよ。それぐらい見たら分かるだろうが。
初めから言えよ、今までと同じように勉強だけしてても、お前はゴミにしかならなくて生きていけないよって!研究者になれる人なんか一握りだから勉強はもうやめろって!
だれか途中でせめて軌道修正してほしかった、叱ってほしかった、もっと真面目に将来のことを考えろって。今のままじゃ、社会は誰も今のお前を必要としないよって。
今までの人生何だったのか。私が大切に持ち続けていた成績という武器は、もうどこにも通用しない。
もっと人と関わればよかったんだ。いくらそういうのが苦手でも、コミュニケーションで疲れてしまっても、無理してでも普通の大学生活を送ればよかった。
もう涙しか出ませんよ本当に。どこにも行くあてはないよ。キャリセン行っても面接講座行っても涙目で、電車で泣いて変な目で見られたさ。
みんな、親や教師のことなんか信じずに自分の力で歩いてたんだよな。大学の勉強だけやるなんて馬鹿なことはせず、、社会勉強をちゃんとしてたんだよな。偉いわ。
それに比べてなんて私は馬鹿だったんだろう。将来のことを本気で考える頭もなかったんだから、これじゃFラン以下の脳みそだ。
誇れるのは成績だけだった!!てへ!!
あーあ、死にてえw
アドバイスくれた人ありがとうな、こんな読みにくくてルサンチマン爆発の日記にコメントしてくれて。まだ絶望感がやばくてずっと涙が止まらんが、資格、バイト、公務員、学校の推薦、就活対策など、頭冷やして今からでも動こうと思う。あーでもやっぱり辛いな、曲りなりに頑張ってきたつもりだったんだけどな。
追追記
引き続きコメントありがとうございます。他責しつづける幼さや浅はかさ、指示待ち人間なのがそもそもの問題なんだなっていうのがよく理解できた。みんなちゃんと生きててマジすごい。
これから人の良さやすごさを見つけて尊敬できる人間になるべきだと考えたので、自発的に人と出会いに行くところからでしょうか。
あと人格が未発達すぎるというコメントがちらほらあるけど、専門家に行ってみた方がいいレベルなの?俺の怠惰さが原因なだけで修正可能なのか、先天的に問題がありそうなのかわからん。劣化版チャーリイ・ゴードンは嫌だ。
訳あって今高速バスで手持ち無沙汰になってる。
具体的には、イヤホンを家に忘れてしまったので、大好きな音楽を聴いたり動画を見ることができなくて困ってる。
作文は死ぬほど苦手だが、思ったことを書くだけの文学作品に倣って、クリエイティブな暇つぶしでもしようかなと思う。
お金は節約したいし、体力的にも長時間の移動に耐えられるし、使わない手はなかった。
何度も利用すると、高速バス移動にも当たり外れがあることがわかってくる。
バスの設備(USB充電とかWi-Fiとか)であったり、横の席に誰が来るかであったり…ガチャを引いてるみたいで結構楽しい。
ちなみに今日のガチャはそこそこいい感じ。手元にコンセントあるし、横の家族連れのお父さんはすごい静かだし。SR席引けてる。いい年末なりそう。
いい席取れた時の高速バスってかなり得した気分になれるから好き。
逆にハズレ席の時は正直この世の終わりかと思ってしまう。
ハズレの原因って主に横の席に座る人なんだけど、こればっかりは受け入れるしかないからものすごく困る。まさに「ハズレ」って感じ。
イヤホンの音漏れすごい人とか、挙動不審な人とか、そういうのはまだかわいげあるな〜で済ませられる。
けど、どうしても耐えられないのが、苦手な匂いがする人。
香水きつい人とか、体臭がキツい人とか、バスの揺れとかと相まってシンプルに体調が悪くなっちゃう。
ほんとに相性だと思うから、相手に対しては何も思わないんだけど、高速バスの席取り担当神は恨む。おるんか知らんけど。
ちなみに今日の横のお父さんはわかめうどんみたいな匂いがして、好きでも嫌いでもない感じがものすごくよい。さすがSR席。
こういう匂い問題とかも、イヤホンして自分の世界に没入していると気にならなくなったりするもんなんだけど、今日に限っては周りのお客さんを観察してしまうくらいには集中できていない。
あんまりいい趣味とは思わないんだけど、人間観察もぼちぼち楽しいなとは思う。
ウマ娘ずっとやってるお兄さんとか、車内で寝たいんだけど頭のポジが定まらなくて安息の体勢を求め続けてるお兄さんとか、静かな車内に気を遣ってかハンドサインで後ろのお母さんにコンビニで買った商品の受け渡しをお願いするわかめうどんスメルお父さんとか…
それぞれの性格とか普段何してるんだろとか想像してしまって楽しくなっちゃう。
たったこれだけの文章書くだけでも1時間以上かかってるから、意外と暇つぶしには適しているのかも。やるじゃん徒然草。全部は読んだことないけど。
今日これを書いて思ったことは2つ。ものを書く仕事や趣味を持ってる人はすごい。考えたことを形に残すのってすごい労力使うなと思った。未来の兼好法師で賞とか貰わないとやってられない。
2004年に刊行された『ライトノベル完全読本』(日経BP社)では、「表紙や挿絵にアニメ調のイラストを多用している若年層向けの小説」
←新潮文庫とかで表紙がそういうイラストになってる若年層むけ文学作品が該当、それこそ太宰とか
榎本秋は自身の著書における定義として「中学生/高校生という主なターゲットにおいて読みやすく書かれた娯楽小説」
←中学生と高校生でけっこう違う気がするけど、「SF 純文学っぽい」「ファンタジー 純文学っぽい」で検索すれば出てくるんじゃないかな。
あるいは「青年期の読者を対象とし、作中人物を漫画やアニメーションを想起させる『キャラクター』として構築したうえで、それに合わせたイラストを添えて刊行される小説群」
森博嗣は、著書『つぼねのカトリーヌ』(2014年)において、「会話が多く読みやすく、絵があってわかりやすい小説」
純文学って、文学のための文学というか、言語表現そのものを楽しむものかなと個人的には思っていて、
上の定義にあるような「読みやすさ」と相性が悪いかもしれない。
平山瑞穂とかはどうかな。
https://anond.hatelabo.jp/20211113201646
横田だけど、ちょっとググったらそれっぽいストーリーが立てられたので共有しておく。
三行でストーリーをまとめると
・「屍山血河」という言葉を考案したのは大日本帝国陸軍の文官で、陸軍教授の地位にいた樋口石城なる人物である。
・「屍山血河」は、旅順戦を記録したロシア軍人М. И. Костенкоの日誌 "Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"を邦訳する際、邦題として発案された。
・この邦訳を読んだ人々が邦題を熟語として認識。そのうち、司馬遼太郎が小説内で多用したことで日本中に広がった。
「屍山血河」の由来はなにか。まず、中国語で言うところの「成語」にそれらしい言葉はない。
かといって「屍山」とか日常言語で使う単語という感じではないし、自然発生した四字熟語でもないだろう。
普通に考えたら、中国語以外の言語にある熟語を、明治以降の文化人とかが邦訳するときに成語っぽく整えた、とかが一番ありそうなパターンだ。
しかし、「屍山血河」という単語は辞書に載っているが、用例として記されているのは司馬遼太郎の小説ばかりだ。後は三島由紀夫だが、司馬遼太郎の用例が古い。
辞書を作ったときにそれより古い用例が見つからなかった可能性が高い。
普通、辞書の用例はその用法で一番古いものを採用する。だれか他の文学者が創作したならそっちが採用されないのは奇妙である。
もちろん、司馬遼太郎が独自に考案したと考えるのは早計だろう。
司馬遼太郎が勝手に創作したとされていた史観や、事実関係が怪しい記述も、近年ちゃんと調べてみると「元ネタ」があるものばかりだったらしい。
もちろん、だからといって、それらが歴史的事実だというわけではなく、「元ネタ」を書いた人が勝手に創作したり、誤認識していたということらしいのだが。
ともかく、司馬遼太郎は無から発想したり、自分で説明なしに訳語を創作するような人間ではないと思う。
用例として採用しづらい対象で、司馬遼太郎が興味を持つ題材の日本語の資料で「屍山血河」を使ったものがあるはず。
この条件に合致しそうなのが "屍山血河" コステンコ 著,樋口石城 譯 [1]である。
ちょっと調べてみると、これは旅順戦を記録したロシア軍人М. И. Костенкоの日誌 "Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"[2]の邦訳だ。
М. И. Костенкоは旅順攻防戦に少将として参加した後、戦後は軍事法廷の議長とかをやった、とwikipediaに書いてあった。
旅順戦の日誌は貴重な資料であり、ロシアで広く読まれた。これが邦訳され、1912年に出版された。
しかしそれにしては邦題がおかしい。おかげでググっても原著がすぐ出てこなくてちょっとイライラした。
"Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"を機械翻訳すると、"旅順要塞の包囲と降伏:私の印象"となる。
実際、この本は1973年に田崎与喜衛に再訳されており、そのときの邦題は"旅順攻防回想録 "となっている[3]。
泥沼の旅順戦で主に大量の兵士、とくに日本兵が死んだ様子を描写して「屍山血河」と言っているのだろうが、戦闘記録の題名にするには文学的にすぎるだろう。
М. И. Костенкоが序文とかサブタイトル的な位置にこの単語を使っているのではなく、樋口石城が勝手につけた邦題である可能性が高い。
ロシア語でも Горы трупов (死の山)とか реки крови(血の川)という表現は戦争を表現する際、よく使うようだ。
熟語とまでは行かないが、並列して使われる例もググればそれなりに出てくる。
原著に直接この組み合わせが出てくるかはちゃんと調べていないので不明だが、本文検索してみたら、Горы труповは単体で積み重なった日本人の死体の表現として使われていた。
もしこの記録が文学作品だったらこの題をつけるのは適当かもしれない。
これ以降は完全に当て推量である。
陸軍教授、樋口石城がどういう人物なのかはググっても出てこないが、樋口季一郎の親戚とかだろう。しらんけど。
まあ、軍教授なのだし名家出身の学者で、ロシア語を含む文系の教養があって、仕事はロシア関連の軍事資料の邦訳を大量にやらされていたのだろう。
だから文学作品とかを書く暇もないので、やらされた邦訳の仕事で、多少のオリジナリティを発揮してみたくなったのではないだろうか。
そこで少し文学風に気取って成語っぽい「屍山血河」という語を創り、戦闘記録の邦題としてつけたのだ。
それを司馬遼太郎が資料として閲覧。そういう成語が既にあると認識、戦争小説で多用。
小説を読んだ人間もそういう語があると理解し、大量の死者が出る戦争を語る際に一般的な単語へと一気に昇格してしまった。
そしていざ辞書に載せようとすると、用例として明記できる古い例が司馬遼太郎以前にないことに気づく。
樋口石城の訳書も発見はされたのだろうが、題なので用例としては不適であり、スルーされた。
結局、遡れるのは司馬遼太郎の小説しかなかったのではないだろうか。
無論、上記は全てネット上で手に入る資料の断片からの推測であり、だいぶお粗末なものだが、もし当たっていればなかなか面白いストーリーではないだろうか。
以上、「屍山血河」の由来について横田が調べてみました。
[1]https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024298307-00
私は誰かに「表現の自由戦士ですか?」と聞かれれば、「そうですよ?」と真顔で、しかも相手のことを若干哀れみながら即答する程度には表現の自由戦士であるつもりだ。なぜ哀れむかというと、表現の自由戦士という言葉が私には「黒人と女性の選挙権戦士」と同じ感触を持って聞こえるからだ。「それ、大分昔に結論が出てて、しかもその結論に従わないと野蛮人みたいな扱いをされるはずじゃなかった?」と。このあたり、「野蛮な西洋思考から脱却してイスラムを根本に据えた政治をやれ」と言って戦っている人と思考形式としては似通っているかもしれない(主張にも方法にも同意しないが)ので、戦士と呼ばれるのもむべなるかな、と思う。
そんな私の政治的立場は、やけくそになって後藤輝樹に投票した一回の過ちを除けば、10年ほど毎回共産党に投票してきたし、だいぶ左寄りであるとは思ってきた。とは言えきょうび共産主義を目指すというのは頭がおかしいとしか思えない。マルクスを多少なりとも学んだ人なら知っていることだが、マルクスは共産主義がどのようなものかとは全く説明していない。資本主義を打倒すれば生まれてくる何か、としか言っていない。まあ、現状の批判だけでもそれが新鮮なうちは一分の理があるのかもしれないが、色々テストされた挙げ句「民主主義は最悪の政治形態と言える。これまでに試みられた民主主義以外のあらゆる政治形態を別にすれば」というジョークが生まれたあたりで、共産主義は役割を終えたのだと思っている(とはいえマルクスの資本主義批判自体は時代のテストを耐えた今でも通用するものだと思う。よりよい資本主義を目指す限りにおいて)。なので、自分の共産党に対する印象は「理想については頭がおかしいが、現状についてはいちばんましなことを言っている人たち」というもので、だから投票してきたわけだ。
何を「現状いちばんまし」と考えるかはその人によって大きく変わるであろうことを私は知っている。私には自民党が腐っているように見えるが、別の人から見ればそうでなかったり、あるいは腐っていても何らかの利用価値があると考える人がいるのはわかる。私が自民党を嫌って共産党に共感している(と思っていた)のは、ひとえにリベラリズムという思想を自分がインストールされていることによる。私がここで言うリベラリズムは、ほぼ井上達夫の言っている「リベラリズム」に等しい。つまりそうとう偏っている。井上達夫は日本の「リベラル」を批判する。例えば自衛隊についてはこうだ。「憲法は何よりも大事だ。その憲法に戦力は保持しないと書いてある。今日本が保持している自衛隊は戦力であり、違憲状態にある。このままだと憲法が無視されてもよいことになってしまうので、憲法を変えるか自衛隊を解散するかの二者択一だ」と井上達夫は言っている。いっぽうで「リベラル」は「大事な憲法を変えるな、自衛隊はないと困る」と言ってて矛盾している、というわけだ。全くその通りだと思う(ちなみに井上は憲法を変える方を選ぶが、憲法そのままで自衛隊を解散しろという意見にも理は認めている)。井上達夫は筋金入りも筋金入りのド左翼であるが、この現状左派内で主流の「リベラル」を超えたリベラリズムに殉じる、という姿勢は左派運動をしている人からも批判が多いらしく、度々愚痴をこぼしている(まあ『リベラルのことは嫌いになってもリベラリズムのことは嫌いにならないでください』(名著!)という本を出すくらいなのだから戦う気マックスなのだろうと思うが)。
その自衛隊について志位和夫氏が例の件の一日前の記事で、「自衛隊と憲法は矛盾するから今すぐでなくともいずれ自衛隊はなくすべきと考えてはいる」と言っているのを見て、「相変わらず頭おかしい理想を抱えてんなあ。まあでも理屈としては正しい」「とはいえ理屈のレベルでの話が通じる政党すら貴重なので今回も共産党だな」と思ったのだが、今思えばこの歯に物が詰まったような言い方に違和感を覚えるべきでなかったか。井上達夫流に言えば、ここは「政権を取ったら自衛隊はすぐに解散する」と言い切るべき場面ではなかったか。
私が理解している井上達夫流リベラリズムは、「人間はその知識の研鑽によってより良くなっていくことができる」という思想と「人間は人それぞれである」という思想に基づく「正義」を掲げる思想である。前者=啓蒙を重視するからこそ「頭はおかしいけど一応話は通じる」共産党に投票してきたし、後者=寛容を重視するからこそ自民党を支持する人を口汚く罵ったりはしない。自分の正義に反するからだ。しかしこの寛容と言う概念は問題含みで(啓蒙は啓蒙で問題があるが今回は触れない)、代表的な物に「不寛容にも寛容になるべきか」という問題がある。私は(多分井上も)「啓蒙を正義として掲げている以上、あるいはそもそも正義を正義として掲げている以上、それを侵す不寛容には寛容になるべきではない」と考える。たとえば在特会は在日の人々の「人それぞれ」あるいは彼らがそもそも人として生きることそれ自体を侵しているのだから、それらをゆるす必要は無い、ということになる。自分では常識的な考えだと思っているが、どうか。
児童ポルノ問題について話を向かわせよう。私は表現の自由戦士であるからして、表現の自由はかなり大事なものだと思っている(本当は順番が逆だが)。なぜ大事なのかと問われればそれは、第一に大事な憲法に書いてあるからだと答えるが、そもそもは「啓蒙」が表現の自由がなければ成り立たず、また「寛容」の精神から多少気に食わない表現であってもゆるすべきであると考えるからである。そしてエロが啓蒙に役立つのか、と言われれば、もしかしたら立つかもしれないと答えるし(過去の文学作品を見よ)、仮に役に立たないとしてもそうした「くだらないもの」を排除する理屈は、やがて「人それぞれであること」あるいは正義についての議論をもくだらないものとみなす理屈に変わるだろうから、と答える。ニーメラーの警句だ。だから、そもそもわいせつ物規制自体あまり気に食わない。ただ、職場にヌードポスターがあったり、子供でも見えるところにエロがあるのが嫌であるとか、そうあるべきではないと考える人がいるがいるのも十分にわかる。したがって彼ら彼女らの「人それぞれ」を守るためにゾーニングを行うのは賛成である。ただ、コンビニのエロ本棚やアキバのエロポスターを除去すべきだったかは、発行側の「人それぞれ」も考慮するために議論の余地がある(というか啓蒙の観点から、撤去するにしても議論を尽くした上でそうすべきだった)。宇崎ちゃんとかラブライブポスターについては、まず第一にそれらはポルノではないのだからこれまで挙げた例とは別の理屈が必要であり、第二にその理屈づけが成立していないので、規制側が間違っているというのが私の意見だ。
他方で現実の被害児童が存在する児童ポルノについては断固として規制すべきであるとも考えている。第一にそれらは例外なく児童の「人であること」を侵しているし、第二に(それらが児童を対象にしている以上「合意の上」ではありえないので)それらが「啓蒙」の議論に結びつくことはありえないからである。第一の点は説明不要だろうが、第二の点は説明が必要かもしれない。私は法学の専門家ではないが、以前表現の自由に関して法学者が書いた本を斜め読みしたところによると次のようなことが書かれていた。第一に表現の自由はやはり重要なのだという。しかし憲法にも書かれているように公共の福祉の観点からそれを制限することはありうる(と法学者だから法律のことしか書いていなかったが、この点は不寛容への寛容を認めないことともつながり理解できる)。たとえば殺人やレイプなど、犯罪を行わなければ撮影することのできない「表現」は、この観点から規制すべきである。とりわけ児童ポルノは被写体が児童=法律的に自由意志を持てない人が対象であるからして、万が一にもそれが「合意の上での表現」であることはありえず、また放置は被害児童の人権の侵害が拡大することを意味するから、したがって問答無用で規制してよい。そのようなことが書かれていたと私は理解しており、完全に同意である。こうした理屈で児童ポルノを「とりわけ規制すべきもの」とするのは、表現の自由戦士たる私にも容易に理解し同意できるものであり、過激派フェミニストから右派左派合わせて多くの人が同意可能なことだと思う。しかし「とりわけ」児童ポルノを問題視するということは、「殺人やレイプを記録したフィルム」を取り締まるべきものではあるが一段低いところに置くことでもある。私はそれに同意するが、同意しない人もいるであろうことは理解できる。私がそれに同意するのは、それが成人同士の合意による「殺人風フィルム」「レイプ風フィルム」である可能性を考えれば、表現の自由(なぜこれをそんなにも大事にするのかは既に書いた)の観点から取り締まりにはすこし慎重になるべきだと考えるからである。これは断じて殺人フィルムレイプフィルムを見逃せと言っているのではない。もちろんそれが「風」でなければ断じて規制すべきである。話を「児童ポルノは啓蒙の議論に結びつかない」というところに戻すと、児童ポルノは「風」である可能性が皆無であることから、児童の「人それぞれ」を侵していることが明白であり、拡大解釈の余地がない最小限の表現に対する必要な規制であるということである。
この理屈は若干弱いところを抱えている。成人同士の合意による「児童ポルノ『風』」の表現は一切存在しえない、という前提をしいているからである。海外において日本の「ロリ系」AV女優の作品が規制されていることがあるのは諸氏も御存知の通りだろう。あれは愚かで間違った行為だと私は考えており、「見りゃ分かるだろ」と思うが、向こうは向こうで「見たまんま」規制しているのが難しい。私は日本においても「出演者が17歳くらいに見える児童ポルノらしき表現」の取り締まりは殺人フィルムレイプフィルムと同様の慎重さが求められると思うが、ここは議論があると思う。これはよくあるようにそう言ってお茶を濁しているのではなく、本当に議論の結果ボコボコにされ誤りとして認める可能性もあると考えた上で言っている。
では2次元はどうかと言えば、これはほぼ完全に無規制であるべきだと考えている。「ほぼ」というのは実在の児童ポルノのトレースでないことが明かな場合である。これに関しては規制すべきだと考えているし、先ほどの「17歳に見える児童ポルノらしき表現」みたいなグレーゾーンはほぼ無いと考えている。また仮にグレーゾーン(「17歳に見える児童ポルノらしき表現のトレースらしき表現」とか)があったとしても議論の主戦場はそこではない(誰も宇崎ちゃんが児童ポルノのトレスだとか言ってないわけで)と考えている。そう考える理由は既に書いたと思う。付け加えるならば、実在の児童が被害に遭っていないわけで、それを規制するならば児童ポルノ規制とは別の理屈が必要(たとえば「助長」とか)だということを理解している人がまず少ないようなのがつらく思える。その上で構築された「助長論」等々も、表現の自由(なぜそれが略)を規制するほどのたいした理屈ではないと考えている。たとえば「助長論」を支持するような科学的研究があってはじめて「さあ話し合いましょうか」となるし、仮定に仮定を重ねることになるが「現実児童への被害を助長する」ということが100%正しいとしても、私は表現の自由の立場から反対するのではないかと思う。「社会をに悪影響がある表現」に対する規制は、容易に「よりよい社会を求める言論」に対する規制に流用できてしまうから。そうした流用が行われないような条文を提案された場合に初めて、私は規制に納得するかもしれない(しないかもしれない)。
そこに来て共産党である。私は彼らを「理想は狂っているが理屈レベルでは誠実な議論をする人たち」と考えてきた。それは私の考える「理想」とは異なっても、私の「正義」とは道を同じくするものと考えていた。しかし今回「非実在児童ポルノは、現実・生身の子どもを誰も害していないとしても、子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つけることにつながります。」という根拠の無い理屈を用い、釈明においても「いやあれ一足飛びな法的規制を目指したものじゃないよ」というだけで、その理屈の撤回自体はされていない。私が今回共産党に失望した理由はここにある。「非実在児童ポルノを以下の理屈で規制します!」といつもの共産党らしい理屈づけをもって主張していれば、「まーた頭おかしい理想抱えてんのか、でも理屈は通ってるな」で共産党に投票した可能性もある。しかし今回のできごとは、私にとって共産党を「頭のおかしい理想を抱えていて理屈も通じない人たち」と感じさせるには十分であった。であるとすれば、自民党や立憲民主党と何も変わらないどころか、それより劣った存在にすらなりうる。なにせ自民党や大手野党は私に10万円をくれたり(資本主義の犬であることを私は否定しない)、あるいは議会で私のために動いたりしてくれる可能性があるが、議席を少ししか持たない共産党はその力がないからである。
私は共産党を「左過ぎて頭変な人たち」と思ってきたが、私はその共産党よりも左寄りなのかもしれない。その兆候はあった。井上達夫を師匠のようにあがめてきたが、その井上達夫も「左派」の人たちからは何かと批判されているのだ。その理由として考えられるのは、井上達夫が右派であるからというものより、「左派」より左にいるからと考える方がよほど妥当だろう。私が共産党より左寄りの位置にいるとして、共産党より左の政党が無いことは百も承知だが、今回は他の政党に投票することになるかもしれない。それは本来あるべき態度ではないと思う。共産党さん、「頭おかしいけど理屈は通ってる人たち」に戻ってくれませんか。
「ノクターナル・アニマルズ」は不思議な映画だ。
増田で人が書いた少し不思議な匿名日記を読むのが好きな人らは好きになるんじゃないかなあ?
ただ内容がかなり暴力的なので、そういうのに耐性がない人は見ないほうがいいけれど。
現在、経済的には非常に恵まれた生活を送っているが何か満たされないものを感じながら生きている。
そこにかつて結婚しようと思っていた作家志望の元貧乏彼氏から「新作の小説」が送られてくる。
その内容はひ弱なメンタルの元彼氏が書いたとは思えないような暴力的な内容で
しかし明らかに才能を感じさせられる引き込まれるような物語であった。
映画は女性を取り巻く現実世界と、その小説の中の物語が交互に展開されることで進んでいく。
先程も書いたように、この小説の中の物語が暴力的であまり気持ちのいい話ではないので
そういうのが苦手な人は見ないほうがいい。
https://anond.hatelabo.jp/20211004080408
注意。自分語りです。
上の26歳の増田が、俺と同じ年齢なのに価値観が違い過ぎて悲しくなったから、引用・対比しながら俺のオタク人生と、思ったことを書く。
結論から言っちゃうと、上の26歳増田はオタクではないと感じている。
俺と元増田、どちらが正しい人間なのかというと、元増田なのだが。
当時つけていた日記なんかも参照しながら、書く。
小学校の時、親が「こういうサイトは見ちゃいかんよ」とか言いながら『2ちゃんねる』を見せてくるという、
子供の性格を歪めたいとしか思えない所業により、無事2ちゃんねらーデビューを果たす。俺の記憶が正しければ9歳か10歳の時である。
小学生の自分は爆笑コピペ関係、あとは確かジョジョのスレ、エロ関係のスレを食い入るように見ていた。
確か11歳か12歳のころ、ジャンプ・サンデー・マガジンを購読するようになる。
2ちゃん的価値観を刷り込まれた俺は「ドラマやバラエティは下らない」という結論に至り、
高校生くらいまでSMAPのメンバーを1人も言うことができないという暗黒の時代を過ごすことになった。
ちなみに26歳の今でも、「ガキの使いやあらへんで」を1度も見た事がないし、ジャニーズの曲を1曲もフルで聞いたことがない。
映画になるまでフレディってクロマティ高校のキャラという認識しかなかった。
ちなみに当時好きだった漫画は日記によると「いちご100%」と「魔法先生ネギま。」。
だが、オカズはドラゴンボールのブルマが乳を晒すシーンと地獄先生ぬ~べ~やこち亀のエロシーンであったことが記録されている。死にたい。
本屋の立ち読み、謎のゲーム雑誌で当時読んでいた「タカヤ」のエロ同人誌、クリムゾン先生の存在を知り、自分の性癖がソフト陵辱であることに気がつく。
だが当時はまだエロ同人を無料で見る手段がなかった。もしくは自分にサーチ能力がなかったため、「中学生になったら18歳と同じだしクリムゾンを買える」(原文ママ)という思い込みが発生。
早く中学生になりたいと悶々としていた日々を過ごしていたようだ。
また、おそらく「痛いニュース」やテキストサイトにどっぷりとハマり、
同時期にハヤテのごとく!のSSにハマって投稿していた形跡がある。「スパイラル推理の絆」丸パクリの展開を書いて、コメントでボコボコにされたらしい。
今となっては恥ずかしいが、アニメはほとんど違法視聴して、動画サイトにないものは近所のビデオ屋(TSUTAYAではなかったと思う)に借りに行っていた。
日記の落書きを見る限り、機動戦艦ナデシコ劇場版のアキトの笑い方と、アウトロースターの武器にやたら憧れていたらしい。
とにかくそんなのだったので、2ちゃんの「俺はバラエティを見ているような奴らとは違う」という価値観を持つ小学生だった。
情報の授業の時間にFLASHを見て喜んでいる層に「やれやれ…もっと面白いものがあるのにな…」という優越感を感じつつ、自分もFLASHにハマっていた。
オタクはなんとなくすごい人達だと思っていたし、今にして思うと、先日話題になった「オタクになりたいオタク」そのものだったと思う。
そしてドラマの舞台であった秋葉原では路上でハルヒダンスを展開するオタクがニュースにもなった
秋葉原+オタク=秋葉系みたいな概念が世間に浸透していった時期だと思う
しかし、中学に上がる前にその秋葉原で秋葉原通り魔事件が起きた
宮崎努ほどではないと思うけど、この時にメディアでは「犯人の加藤はオタクだった」といった報道が展開され、世間でもオタク=危険人物みたいな風潮が強まった
でも、それは大人にとっての世間の話であり当時の小学生達にとってはあまり影響はなかったと思う
むしろ、当時の小学生の間ではおもしろフラッシュ倉庫を起点にフラッシュ動画が流行っていたのでオタク文化のイメージはこれらフラッシュ動画の方に強く影響を受けていたと思う
ハルヒは確かにドはまりして、やはりSS掲示板で長門×キョンのSSを漁りまくっていた。(同時にエヴァとナデシコとGS美神にSS経由でハマった)
だが、多分アフィサイトの「マスゴミが流すニュースは全て嘘」という価値観に基づき、ニュースはほぼ見ていなかったので通り魔事件もあまり記憶にない。
中学に上がる少し前は、上で書いたようにゴミのようなSSを乱造して、
パクりもよくしていたのでぶっ叩かれて、当時幼かった俺は「下らないことで人を叩くとか、オタクってクソだな」といったようなことを逆恨みで感じていたらしい。
ガキの分際で、いっちょ前にオタクに対して同族嫌悪を感じている自分に酔っていたわけだ。
あと『スクールランブル』の八雲と播磨、『Dグレイマン』のリナリーとアレンがくっつくことに異様な熱意を燃やしていた。旗派だったか、おにぎり派だったか。記憶が定かでなくなってしまったが。
というか、日記を見るにリア友の情報がほぼない。友達は確か、いたと思うのだが。今から思うとこんな人間はいじめられていたとしか考えられない。
当時ひぐらしは既に出題編と解答編のテレビアニメは終了していたのだが、ニコ動のMAD動画経由で再びブームに火がついた
そして物語シリーズ、けいおん!、あとやっぱりハルヒも流行った
影の薄い生徒(当時は陰キャは使われてなかった)のみならずクラスの人気者でもこれらのサブカルチャーに親しむ人が増えてきた時期だった
この頃のお昼の放送は
AKB系列、ジャニーズ系列、ボーカロイド、アニソン(主にけいおん!とハルヒ)、いきものがかりその他JPOP……みたいなカオスな曲目だった
「ニコ厨」と呼ばれ嫌われていて、自分も「ニコ厨は死ね」とほざいていたが、確かコメントつきのAIRなどを楽しく見ていた記憶がある。
大体この世代のネタもわかるし、中学のころの自分は何かしら理屈をつけて、両方の立場からニコニコを嫌いつつ楽しんでいた。
AKBやジャニーズはとにかく理由もなく嫌いだったし(なお、1人も名前すら知らなかった)、JPOPは「押忍!たたかえ応援団」以外で聞いたことがないという有様だった。
ボカロは何か合わなかった。
同時に、エロゲと古いアニメ文化にハマる。古いアニメ文化にハマったのは人とは違う自分を演出したかったからで、エロゲはシコるためである。
帽子を深く被り、自分の中で精一杯オッサン的な格好をした自分は「とらのあな」に乗り込み、確かセフィリアか乱菊の同人誌をレジまで持って行ったのだが、
「年齢を証明できるものはありますか?」の一言の前に粉砕され、すごすごと帰宅したのはハッキリと覚えている。
だが、その後、代引きでAmazonを使えばエロゲを人知れず買えることに気がつく。一番初めに購入したのは「真・恋姫無双」だったと記憶している。
俺が人生で初めてセックスというものを理解したのはロリ張飛の濡れ場だった。懐かしい記憶だ。(クリムゾンのエロだと、本番シーンが簡易すぎてセックスを理解していなかったのだなあ)
そこから2ちゃんのエロゲー作品別板で、住人達と殴り合ったり、真剣恋のスレに毎日参加したり、青山ゆかりを讃えたりして時間を過ごしていた。
名作のエロゲと言われるものは大体全部やったと思う。というかエロスケで85点以上のものはおそらく全部やった…ような。多分。おそらく。
また、やる夫系のサイトにドはまりした記憶と形跡があるのだが、日記に「気に入らない作者を潰してやった藁」とか書いてあったのであまり深く触れないでおく。
古典アニメについては「周りとは違う」という思い込みを補強するためのもので、「攻殻機動隊」や「あしたのジョー」を漫画アニメ劇場版全シリーズ無駄に見るなどして、「俺はわかっている人間だ」という考えを補強していた。
「やれやれ、浅いやつらは出崎統の偉大さもわからないのか」と、のたまうタイプのゴミであった。今すぐ過去に戻って当時の俺を殺したい。
また、無駄にガンダムSEEDを叩き、無印のガンダムを持ち上げる文書(種は見たことがない)、
ひぐらしとスクイズあたりのグロシーンを「浅い」と長文で書き連ねた文書が日記に残されており、今、ダメージを受けている。
小~中の時代にこじらせすぎて、Mステも人生で1度も見たことがないくらいだから、やっちまった感が強い。
ちなみに、この頃に書いたというか、赤っ恥を晒したのがコピペ化され、今でもたまにネットで浮上してドキリとすることがある。本当にやめてほしいような、懐かしいような。やっぱりやめてくれ。
一言で言うと、中二病だったのだろう。(今も、多分根底はそのままなのだが)
高校でも相変わらずアニメは盛況でこの時期はマドまぎやSAOを筆頭に後の世まで語られる有名アニメが沢山排出された
またこの頃はスマートフォンが本格的にガラケーからの世代交代を開始した時期とも重なり、俺が高2の頃は既にクラスの過半数がスマートフォンになっていた
みんな暇があったらパズドラやってた
そしてこうしたソシャゲはアニメを見ない人達にアニメキャラへの耐性をつける役割を買ったと思われる
ソシャゲのキャラクターにはいわゆる萌え系のデザインのキャラが少なくなく、アニメを見ない人達もそうしたデザインに自然と親しむ様になった
これはパチンコ好きのヤンキーがエヴァやアクエリオンに抵抗なくなる現象に近いと思う
それを未成年の世界にも引き起こしたのがソーシャルゲームで、現代のアニオタを語る上ではこのソーシャルゲームの影響は無視できないと思ってる
ソシャゲは確かに流行していたが、パズドラはやらなかった。というかその後もやったことがない。
パズドラをやらなかった理由は「みんながやっていたから」である。といいつつ、モバマスはやっていた。身勝手なものである。
(デレマスと呼称されるようになったのはアニメ以後なので、あえてモバマスと書く)
200位圏内に何度か滑りこんだが、あの頃はソシャゲ全体で、今より課金しなくて済んだような気がする。気のせいだろうか?
まどマギやSAOに関しては、高校生の分際で、「ああ、みんなようやく虚淵さんや川原さんのよさに気づいたんだ、ところで鬼哭街はやったのかね?」と高説を垂れていた。
だが、高校にもなってくると廃スぺオタクが発生するもので、しかもそこそこ偏差値のいい高校だったものだから、
「ああ、やったけど?ところでお前Phantomは当然やったんだよな?」と、スポーツ万能のイケメン風の男に言われ、
やってなかったので地団駄を踏んだのをよく覚えている。
そしてこの辺りから自分には文章の才能があると思い込むようになり、(ここまで読んでもらえればわかると思うが、ない)ついにはラノベを書いて新人賞に投稿した。
『文学作品がロボになって戦う』という、中学時代にハマっていたFate丸パクリの会心のネタを応募するも見事に一次選考にすら残らずに撃沈。
「応募作には必ず講評をお送りします」とのことだったのだが、来なかった。データは残ってないが、どう考えても面白くなかったしひどい文章だったので、むしろ良かったのだと思う。
この頃には、同世代でそれこそボカロで成功したり、ラノベ作家にデビューしたやつも出てきたので、「人とは違う」と思いたかった俺も、イケてるクリエイターになりたかったのだろう。
その後、なんだかんだあって、大学を卒業し、今はアニメ業界にいる。
有名な監督や、アニメ業界に関わらず、ゲームや出版関係の人達とも多く出会った。師匠と心から呼べる人間にも出会った。自分の小ささに気づいた。演出というものの奥深さも知った。
ネット上の文字列、雑誌の写真のインクの塊、動画の上で画面越しに見るしかなかったクリエイター達も、多くが人間であり、深い知性と情動の元で仕事をしている、生物なのだと知った。
仕事も覚えてきて、ようやく金になるようなことが出来てきた。簡単に述べると、「仕事が少しわかってきた」。この業界ではまだまだな年齢だが、なんとか食らいついている。
周りでも海外への配信権を売るビジネスが好調で、何やら巨大な金も動かせそうな時代である。昔より技術も高くなり、表現の幅も増えた。業界としての未来は、なんだかんだで明るそうだ。
以上が、大体の俺の人生である。オタクの人生であると言っていいんじゃないだろうか。
引用した増田とは同じ時代を生きてきたが、かなり感じたものは違うと思っている。
君は、多分オタクサイドの人間じゃないよ。俺は、半可通だが、オタクサイドの人間だと思う。
そして、結論を書こう。
この国のオタク達が積み上げてきたものは、その全てが間違いだった。
アニメは間違いだった。
漫画も間違いだった。
ゲームは間違いだった。
ラノベは間違いだった。
この国のクリエイターが作り上げてきたもので、善かったものは一つとしてない。
オタクはクソだ。ただのゴミだ。彼らが話す言葉、彼らが創るもの、彼らの文化。その全ては、消え去った方がいい。
オタクは全員いなくなった方が、この世のためだよ。
好きな歌に”el jardín que nunca vas a conocer” ≒ the garden which you will never know” ってフレーズが出てきて、これがすごくグッとくる
conocerは「知る」なんだけど、なんというか、体験して知るみたいなニュアンスがあるらしいので、多分ここでは「訪れる」みたいな感じでもある
つまり、庭があって、俺は知ってるけど、君は知らないし、今後知ることもないわけですよ
そういうのっていいじゃないですか
まず、俺にとっては実際にこの庭が存在するんだよな
スペイン・サラマンカの街に名ばかりの留学して親の金でプラプラしてた(ゴミ!)ときに、ときどき言ってた謎の庭園があるんすわ
El huerto de Calixto y Melibeaなんて名前があり、なんでもそこそこ有名な文学作品ゆかりの地だそうで、実のところたぶん観光名所なんだけど、名所ってほど人でごった返してはいなくて、入場もタダで、わりとひっそりとした場所だった
そんで、なんか分からんけどすげー薄暗かった
薄暗くて、なんとなく陰気な花壇があって、そんなに人はいない そういう場所
サラマンカ、雑魚日本人がよく留学に来る街ではあるが、それ以外の需要はあまりないので、たぶんあの庭を訪れたことのある/今後訪れる日本人はそんなにいない
つまり、あれはel jardín que nunca vas a conocerなんですよ
君はあの庭を知ることがないわけだ
実態として観光名所だとしても、周りの人間が誰も行ったことないんだったら、俺にとってはやっぱり秘密の場所も同然なので、そうなんですよ
俺にはあるんですよ、庭が
そういう場所っていうのが実はわりと大事なんじゃないかと思っている
なにもわざわざスペインなんかまでいく必要はなくて、地元の町なんかにも俺の庭はある
大学生のとき、帰省のついでに散歩してたら、突然山桜がそこそこ綺麗に咲いてるのに全然花見客のいないひらけたところに行き着いたことがあって、道は覚えてないけど、あれはまさに俺のjardínだった
そういう場所はけっこうある
お、ここ好きだな、でもここを意識してる人はそんなにいなそうだぞ、よし、ゲット、ここは俺の庭園だ
そういう意識で生きているところがある
いやしいんですが、そんなことは関係ない
内面世界に持つ庭園の数が精神の強度に与える影響はかなりデカいとおもう
庭園、ようは俺の気持ちが大事なので、かなり人がいたっていいし、有名な場所の中でもいいし、植物がある必要もないんですよね
イオンモール3階の吹き抜けを見渡せるベンチとか、そういうのでも全然いい
とにかく庭園を増やしたいんだよな
ソース:https://www.animefeminist.com/history-not-with-a-bang-but-a-letter-violet-evergarden-rewrites-traditional-world-war-i-narratives/
暁佳奈のライトノベルを原作とする京都アニメーションの名作、ヴァイオレット・エヴァーガーデンがネットフリックスで公開されたとき、初見の私が想像していたのは、Foreignerのヒット曲さながら、愛というものを知ってみたい少女の無邪気な物語だった。まさか号泣することになるとは。
ものの数分でその予想は裏切られた。
この作品は涙なしには観られない戦争ドラマであり、スチームパンクな歴史改変モノだったのだ。しかし、何よりもトラウマにまつわる物語だとわかった。
PTSDの歴史、1900年代初頭の文学作品における定形表現、そして人気ジャンルである「戦争物語」を、本作は、少女兵士を主人公とした上で見つめ直している。第一次世界大戦の歴史、とりわけ女性の歴史を振り返り、再解釈することで、かつての物語に対してフェミニスト的なテーマを根底に据えた新たな息吹をもたらしているといえる。
戦争物語という切り口からヴァイオレット・エヴァーガーデンを解説している人は珍しくない。例えば「Mother’s Basement」というYoutubeチャンネルでは、人情味を持って共感を表現し、ヴァイオレットの成長を描ききったシナリオの妙について見事な考察動画がアップされている。だが、トラウマや障害を抱えた少女が自信を持って活躍できるようになっていく様子や、いかにPTSDがリアルに描かれているかという点については、あまり取り上げられてこなかったように思う。
この点を踏まえた上で、テルシス大陸における戦争のモデルとなった、第一次世界大戦の基本事項を整理するところから始めようと思う。ざっくりと言えば、この大戦は1914年から1918年の間に起こったもので、何がきっかけとなったかは諸説ある。開戦とともに急速に戦火が拡大したけれど、1914年の冬までには終結するだろうというのが大方の見方だった。
その目算が外れたのは言うまでもない。戦争は4年も長引き、フランス、ドイツ、イギリスを中心とした各軍のインフラは、塹壕戦と呼ばれる、この時期に流行した新しい兵器や戦法に対応するための装備が圧倒的に不足していた。
兵士の多くが若く経験不足だったこともあり、戦いは想像以上に過酷なものになっていった。戦争から帰還した兵士たちの間には、「新しい」病気が蔓延した。俗に「シェルショック」と呼ばれ、後に「PTSD」や「PTSS」 (心的外傷後ストレス障害、外傷後ストレス状態)として診断されることになる、「男性ヒステリー」という病だ。
「ヒステリー」とは、当時、性別役割分担に厳格だったヴィクトリア朝時代に用いられた医学用語で、今で言うところの鬱病、不安神経症、心的外傷後ストレスといった精神疾患全般を表すものだったが、適用対象はシス女性がほとんどだった。そのため、「ヒステリー」扱いされた兵士たちは周囲から男失格のレッテルを貼られ、つまはじきにされる結果となった。
兵士だけではない。第一次世界大戦に参加した国々とその植民地は、集団的なトラウマに苦しんでいた。とりわけ顕著なのはドイツで、戦争への参戦とその後の経済低迷の影響から、ナチスの台頭を許すほどだった。フランス、イギリス、ドイツのメディアでは、この大戦は未だ主要なテーマであるし、世界各国の兵士とその家族が残した手紙は今なお読むことができる。
この大戦が世界に与えた影響は計り知れず、文学や歴史、そして現代の戦争にも様々な影響を及ぼしている。だが、ここで重要になってくるのは、戦争にまつわる有名な物語や歴史で描かれるのは男性ばかりなのに対し、本作の主人公であるヴァイオレット・エヴァーガーデンは女性兵士ということだ。
男性ばかりなのは当然、当時の軍隊で中心的な役割を担うことができたのは男性だけだったからだ。例外としては、第一次世界大戦において戦闘に参加した唯一の女性イギリス兵、フローラ・サンデス(セルビア軍所属)や、マリア・ボチカリョーワという若い女性が隊長を務めた、「ロシア婦人決死隊」と呼ばれるロシア軍の小隊などが挙げられる。
だが、第一次世界大戦で軍隊に従事した女性の多くは、戦場で看護師として働くか、工場で働くなどが一般的だった。例えば、アメリカの「ヨーマネッツ」や「ハローガール」と呼ばれる女性たちは、銃こそ持たなかったが、電信技師やカモフラージュデザイナー、魚雷組立工など、幅広い仕事によって戦争を支えた。
軍に従事した女性たちにも多くの物語があったにもかかわらず、戦争物語のフィクション作品はほとんどが男性中心となっている。女性はもっぱら脇役として登場し、戦死した兵士を嘆き悲しんだり、恋人役だったり、あるいは…良からぬことをされる。言ってしまえば、男性キャラクターを成長させるための舞台装置であり、そのためだけに殺されてしまうことも少なくない。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンの世界においても、戦闘や戦争は男の仕事であり、女性はもっぱら「受動的」な役割に追いやられている。だが、ヴァイオレットは他とは異なり、女性であるだけでなく、兄ディートフリートから弟ギルバートへ「プレゼント」として押し付けられた「道具」という扱いであることから、注目すべき例外と言える。ヴァイオレットはモノ化されているのだ。殺人こそがヴァイオレットの生かされる理由であり、ギルバートの命令に従うことが唯一の生きる意味なのだ。
こうした虐待と、戦争でギルバートを失ったトラウマ、そして戦場で目にした暴力が相まって、ヴァイオレットは明確なPTSDを抱えることになる。作品を通して、ヴァイオレットは次のようなPTSD特有の症状をいくつも示している。
これらの症状は、娘を亡くして嘆き悲しんでいる作家、オスカーのために手紙を書いた後、はっきりと立ち現れてくる。戦いの中で自分がしてきたことを理解し始めたヴァイオレットは、戦場のフラッシュバックに苛まれ始める。
最終的に、ヴァイオレットはギルバートを探すために戦地を訪れる。ギルバートを見つけられなかったことで深い絶望に陥ったヴァイオレットは、自殺を試みる。退役軍人の自殺リスクは現在も高く、自殺者数は戦死者数を上回っている。
第一次世界大戦の歴史を描いた物語の多くがそうであるように、ヴァイオレットが抱えるテーマも、いかにして心的外傷後ストレスに立ち向かうかという点に重点が置かれている。このことは、作品の構成にも反映されている。
ストーリー序盤におけるヴァイオレットは、戦地での負傷から立ち直ろうとする、感情を失った少女だった。しかし、第7話でホッジンズが警告したように、ヴァイオレットの記憶は「(自身を)燃え上がらせる火」であり、いつか「たくさん火傷している事に気付く」ことになるものだった。そして、ヴァイオレットはそれに気づいてしまう。戦場で過ごした日々を思い出すたび、ヴァイオレットだけでなく、視聴者までもがフラッシュバックを体験することになる。
しかし、「女々しさ」とか「弱さ」といったPTSDに対する従来の見方とは異なり、ヴァイオレット・エヴァーガーデンはヴァイオレットのシェルショックを丁寧に扱っている。ヴァイオレットが自動手記人形の仕事を通して他人に共感してきたのと同じように、この作品は視聴者にもヴァイオレットへの共感を求めているのだ。
ギルバートの死を否定するのをやめ、自身のトラウマを受け止めたヴァイオレットには、PTSDから立ち直るための長く険しいプロセスが待ち構えていた。トラウマ研究では、これを「心的外傷後成長」と呼び、ネガティブなもの(停滞、衝動的な行動、否定)と、ポジティブなもの(前進、対処法の獲得など)の2種類に分けられる。
ヴァイオレット自身にとっても視聴者にとっても幸運なことに、ヴァイオレットの心的外傷後成長はおおむねポジティブなものだった。自動手記人形として人と一緒に働くうちに、自分の感情を受け入れ、なぜそのような気持ちになるのかを考えて納得できるようになったことで、ヴァイオレットは回復の道を歩み始める。
さて、本作のいわゆる「今週のお客様」エピソードの中には、「戦争で失った恋人を恋しがる女性たち」というお約束的展開をそっくりそのまま踏襲しているものがあるが(OVAがその好例)、一応付け加えると、この展開自体が本質的に悪であると言いたいわけではない。OVAでは、第一次世界大戦中に多くの女性が体験した出来事がリアルに描かれており、膨大な量の手紙が世界各地に送られたという点も史実に忠実となっている(手紙の多くは歴史的資料として残存している)。
しかし、ヴァイオレット自身は、作品を通して、そのような歴史的・文学的な流れに逆らっている。
ヴァイオレットは家に帰ってきたが、想い人は帰ってこなかった。
兵士は、新たな傷を負って帰ってきたのだ。
そして、ヴァイオレットはその生い立ち故に、想い人を亡くしたクライアントと、亡くなった想い人の両者に共感することができる、いわば、境界的な立ち位置の人物といえる。「民間人」と「軍人」、「女性の世界」と「男性の世界」、「家庭」と「軍隊」、そういった境界の中でこそ、ヴァイオレットは真に花開くことができるのだ。
ヴァイオレットの境界的な立場は、自動手記人形の仕事においてユニークな強みとなっている。作中の時代設定と同時期に当たるヴィクトリア朝時代や第一次世界大戦期は、タイピストやゴーストライターになる女性が急増した時期であり、ヴァイオレットも当時の女性たちと同じく、この波に乗っていると言える。
こうした女性たちは、「媒体としての女性」というお約束的表現として文学に登場するようになった。彼女らは、タイプライターや電信機、さらには速記法を用いて、人々の思いを目に見える形にし、様々なメッセージを伝えるという役割を担っていた。哲学者で文学理論研究者のマーサ・ヌスバウムの言葉を借りれば、「目的のために使われる道具」としてモノ化されることも多かったが、家父長制の世界を生きる多くの女性にとって、この種の仕事は、生まれてはじめて主体性を獲得できる場でもあった。
ヴァイオレットの当初の動機は、初めて手にした主体性を社会で活かそうとしたヴィクトリアン朝の女性たちとは若干異なっている。自動手記人形を志したのは、他者を理解したい、そして何よりも、少佐の最期の言葉を理解したいという目標を叶えるためだった。そして、人々の思考や感情の「媒体」としての立場を通じて、自分の感情をよく理解し、虐待やトラウマを乗り越え、主体性を獲得することができるようになっていく。
第一次世界大戦や、そこに至るまでの過程を題材とした文学作品によく見られる、「媒体としての女性」という定形表現とは異なり、ヴァイオレットが主体性を持つことができたのは、その境界的な立場ゆえである。戦争に巻き込まれる家庭の立場、戦争を戦う軍隊の立場、その両者に対して共感、理解できるという強力な武器を生かすことで、戦争をテーマにしたアリアの歌詞を書くために戦死した兵士の手紙を研究したり、嘆き悲しむ父親のために文字通りの意味で媒体となったり、兄弟の絆を取り戻す手助けをしたりと、ヴァイオレットは単に人の気持ちを左から右に渡す中継役ではなく、自らの手で変化をもたらす主体となっている。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンと史実の違いは、これまでメディア等で描かれてきたタイピストや媒体役の職業人たちが受け身の存在と見なされてきた一方で、ヴァイオレットは周囲の人々の物語に積極的に関わっているという点にある。こうした活動を通じて人々の成長を助けていく中で、ヴァイオレット自身にも成長が見られるようになっていく。
第11話では、その成長がはっきりと見て取れる。過激派の部隊を立ち退け、銃弾に倒れ死に瀕している兵士、エイダンの最期の言葉を記録し、訃報の知らせと最期の言葉を家族の元へ届けに行くという、物悲しいエピソードだ。戦争の両側面への共感を要するこの仕事を全うしたことで、ヴァイオレットはようやく自分や他人に対して素直に悲しむことができるようになる。ギルベルト少佐の死をきちんと悼むことができるようになったのも、ここからである。
単なる道具でしかなかったヴァイオレットが、今や積極的に自らの心的外傷後成長を促進しようとしている。これは、従来の戦争物語や、シェルショックや女性タイピストにまつわる歴史に対する新鮮かつ現代的なアプローチといえるのではないだろうか。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンは第一次世界大戦に大きく影響を受けており、史実によるものから、文学から引用されたものまで多岐にわたる。PTSDに対する思いやりあふれる描写然り、「媒体としての女性」という定形表現に対する批判然り、この作品は、歴史上の極めて重要な時代—最後の退役軍人が亡くなり、徐々に記憶から忘れ去られつつある時代—との対話の上に成り立っている。
だが、家庭内の物語と戦争の物語をブレンドし、両ジャンルに共通する定番の展開を巧みにひっくり返したという点で、ヴァイオレット・エヴァーガーデンのファンタジー世界は、オマージュ元の戦争物語と趣を異にしている。スチームパンクなファンタジー世界という舞台の上で、使い古された展開を別な角度から見つめ直すことで、進歩的な物語を紡ぎ出しているのだ。
退役軍人の描かれ方、精神疾患、女性の物語、こうした事柄を尊敬の念を込めて丁寧に扱うことで、戦争やトラウマにまつわる従来の物語をいかに語り直すか、その基準点をこの作品は確立したと言える。戦争やトラウマにまつわる物語も、より包括的で、健全で、私たちに活力を与えてくれる存在たりえるのだ。それが、従軍した兵士や亡くなられた方々に対する、せめてもの追悼でもある。
「戦争は決して変わらない」とよく言われる。だが、ヴァイオレット・エヴァーガーデンが示してくれたように、その語り方を変えることができるのは確かだ。