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はてなキーワード: 文学作品とは

2024-11-16

anond:20241116190220

過去作品

今の価値観評価してはいけない

なんてことは

書いたつもりはない。

ただ過去作品の今の価値観評価することは

最近出来事過去価値観評価することと同じだ

とは書いた。

そのことと過去作品を今の価値観評価してはいけないとは意味が違う。

あとややこしい文章を書いてしまったけど

後半の方に書いている文学作品などを

現在価値観で「改変」するのは許されざる行為

というのはまた別のお話だということと

あくまで「改変」はよくないというだけの話で

評価」してはいけないという意味のことは

こちらでも一言も書いていない。

別に全然、今の価値観作品評価していいと思う。

ただ、そのときにはあくまで今の価値観評価しているのだと留意することを推奨します。

なぜならそのことは現在出来事過去価値観評価するようなものからです。

劇場版エヴァミサトさんは確かシンジ君に

筆下ろししてあげよっか?

と持ちかけて

それをシンジ君に突っぱねられたとき

おかしい あの年代セックスに興味がないはずないんだけど」

と訝しむんですよね。

ディスコミュニケーションテーマひとつでもあるんでそういう展開になるんですが。

ただそういうところから考えると

昨今のポリコレ的な観点で見た場合

性加害的な側面はあるという見方

あながちズレてはいないとも言える。

ただ言えるのは、昔の作品

最近価値基準を持ち込んで

評価するというのは

昔の価値基準で持って

今を評価するのと

同じ行為なんだと思うんですよね。

わかりやすくいうと

最近の〇〇は全く持ってけしからん

みたいな

ステロタイプ老害がやってることと

種類としては同じだと言えます

そういうことを頭の片隅に入れておくのも大事だと思います

あと蛇足ですが文学作品とかで、現代では相応しくない語句が使われているが

原文のまま表記する

ということが慣用的に行われているのは

そういうことですよね。

「今」の価値基準で持って

過去作品を歪める行為

実は本当はしてはいけないことなんですよね。

なんでかっていったら

「今」

というのは常に変化するもの

明日にはまた変わってるものなんですね。

そういう移ろいやすい人の心のようなもの

過去作品を改変するのは許されるのか?ってことです。

2024-10-25

ジョーカー2をジョーカーじゃないものとして見てほしい

ジョーカー作品だと思ってみるとキレると思うんだけど

文学作品だと思って見るとちゃん現代ホラーに仕上がってると思うんだよね

こういうのってサブカル界隈ではよくあるかもしれないけど

ここまで金かけて演出や演技のクオリティ上げた状態で、知名度抜群のキャラまでつかってやったのってほぼないから貴重だと思うんだよね

 

ジョーカー1では何者にもなれなかった無敵の人が壊れた挙げ句革命者として祭り上げられる話で

ジョーカー2では祭り上げられて何者かになれるかと思って浮かれた人が結局何者でもなかった話

 

ひたすら何か起こりそうで何も起きず、出来たことは犯罪だけで、その犯罪衝動的なもの

こういうの中年には刺さると思うわ

もし「あなたはこれからヴィランになってください」と言われたら結末はこんな感じだろうな、みたいな話

 

あれだ、チェンソーマンの第二部のデンジ気持ち悪さあるじゃん、アレを煮詰めた感じ

やっぱ現代ってこういうの描きたくなっちゃうんだろうな、絶対批判出るけどね

 

チェンソーマン2部もジョーカー2も、一旦評価上げてからやってるのがたち悪くて面白いよね、俺等たぶん釣られたんだよ

エンタメでつられてホイホイ続きみたら「ほーら現実だよ」って鏡を持ってくる感じだよ

エンタメ見に来てるんだからブチ切れだよね、ああそういうことがしたかったんかいって

題名:おまえ」みたいな捻った作品見せつけてニヤニヤしてる作者を睨むよね

そういう作品

あの読了感のドス黒さは久々に覚えたよ

ルサンチマンを抱いて映画を見に来た人を最も怒らせる方法を取っている

2024-10-20

20241020[アタック25]Next 2024年10月20日 #107 再放送 動物好き大会 2024-10-20結果

今週は午後4時からでした

土曜日再放送枠が見当たりません

 

BSジャパネクストで日曜昼などに放送

日曜日の本放送だけ1時「25」分から

BS10になることが発表されていますが、まだです。

BS1からボタン2回(今だけ?)とか

ケーブルテレビSTBでは見られない場合があるようなのでBSパススルーとか

地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報確認

つながるジャパネットアプリ放送同期・見逃し配信あり

 

今日の答え(放送とは表現が異なる場合があります

・01 [ある生き物の名前]オカピ

・02 高杉晋作 たかすぎしんさく

・03 炎色(反応

・04 [動物問題]オオカミ

・05 [3択]キリン

・06 高崎山(自然動物

・07 プレーリー(ドッグ

・08 [一般問題]三陸(海岸

・09 [近似値]448

10 ハイヒール

11 [3択]100 センチメートル

12 [すべて]栃木 福岡 熊本 愛知

・13 コシノジュンコ

・14 [バンド]クイーン

・15 [3択]カンガルー(島

・16 ルイボス

17 ふっかつ(のじゅもん

・18 [ふるさとクイズ][島根県益田市]犬(のお出迎え

・19 [曲名頭文字]すみれ

20 990(点

・21 公職(選挙

・22 桂浜(水族館

23 [AC]メトロポリタン(美術館

24 萩尾望都 はぎおもと

・25 [3択]80 メートル

・26 タンザニア

・27 [3択]ショーメ

28 さらば青春の光

・29 [3択]文化

・30 21(平方センチメートル

・31e ディーラー

・xx [ある文学作品名前]『変身』

2024-10-13

文学作品ネットのノリで要約する人嫌い

わかる人いる?

Xとかで古典文学とか有名作品を読んでない人向けに要約してpostする人いるじゃん。

普通日本語で書けばいいのにいちいちネットスラングとか寒いノリで書く人多いの何なんだろうね。

別にわかりやすくなってないし「俺面白いっしょ!」感満載で気持ち悪いんだよね。

2024-10-03

anond:20241003180324

文学作品は、力のある読み手が登場すると読み方がまるで変わる。ドフトエフスキーなら江川卓、続いて亀山郁夫

2024-10-02

anond:20241002111546

挙がってるエピソード全部クソつまんなさそうなんだが。全くもって時間無駄。学びないし脳みそに入れる価値のない情報。こんなのと話すくらいならChatGPTとか頭いい男と話してる方が全然楽しいわ。

最近GPTと話したネタ

地球歴史(ドロドロの状態地球から人類誕生するまで。地球が5回も凍ったのになぜ復活できたのか)

動物の生態(ダチョウはなぜアホなのか、ダチョウの凄いところ。豚のいいところ)

歴史のifのシミュレーション(もし歴史上の人物に入れ替わって太平洋戦争を止めるミッションを与えられたら誰になっていつ何をするか)

百人一首の内容と読人の話。なぜ百人一首では恋は詠まれてるのに愛(特に家族子供)を詠んだ句がないのか。大化の改新から承久の乱までの歴史と紐づけて全部読む。

文学作品解釈感想(筆者はここでどう考えたかGPTならこの場面でどう書くか)

身体のこと(うんちはなぜ臭いのか)

時計歴史日時計から原子時計まで)

領土問題があるエリア以外で日本に一番物理的に近い国はどこか

税金を取らずにお金印刷で賄うとどうなるか

主食人口地理関係について(日本ってどれくらい国ガチャ凄いのか)

全部面白かったわ。

誰が何したとか田舎のおばさんの井戸端会議とか全く興味がない。

anond:20241002111546

単純に笑いのツボが違うんだろ

人によっては文学作品引用した話が面白いと思うだろうし、

人によっては雑学を交えた話が面白いと思うだろうし、

人によっては下ネタというだけで面白いと思うだろうしな

2024-09-23

火垂るの墓に対する海外評価違和感

あれを殊更に戦争映画として捉えすぎてる気がする

あの作品の上手いところは、戦争に全ての責任を負わせてないところだと思う

戦時下ちゃんと生きてる人もいるし、死ぬ直前には戦争が終わってるんだ

この兄妹はひょっとしたら戦時下でなくても死んだ可能性があるんだよね

原作者は妹を死なせてしまたことを後悔している訳だけど

その後悔は、全てを戦争のせいにして仕舞えば表現できないんだ

からこそ主人公責任部分もわかりやすく描いた

戦争は原因の一つだが、あくま環境の一つでしかない側面もあり

しろ主人公不器用生き方と不運を追体験することで苦い印象を与える文学作品になってるんだと思う

みたいな複雑で絶妙で嫌らしいバランスしてるので、「戦争の是非」の感想になるのは本当に勿体無い

2024-08-16

Kindle Unlimited契約しようか悩んでるやつ

おすすめだぞ。軽くジャンル別に紹介しとくが詳しいことは自分で調べてみてほしい

2024-08-12

[]【高橋源一郎にきく】今あえて社会内面化しない勇気

本書は、3年毎日に連載されている「これはあれだな」の中から選ばれた文章を集め、過失したエッセイです。

「これはあれだな」とはどのようなコンセプトのコラムでしょうか。

何か気になった事件や本、作品などがあったら、それについて書くのが普通ですよね。それだけじゃ面白くないので、過去に同じようなことがなかったかと探し当て、その二つを比べて何が変わって何が変わっていないかを考えるというのがコンセプトです。

まり、例えば文学作品であれば、文学作品と何かの映画とか、100年前に同じようなことがあったとか、こういう事件があったけど、50年前に全く同じようなことがあったよね、といったことです。だからジャンルが違う場合もあって、例えば映画と最新作のアニメでは、これどこかで見たことあるなと思ったら、80年前のあの映画と同じことをやってない?ということです。

パッと5、6個思いついて「これならできそう」と思って始めたんですが、途中で「大変だ」ということに気づきました。少なくとも二つは見つけなければならない作業であることに10回目くらいで気づいたんです。普通は一つの話題で済むところを、必ず二つ見つける必要がある。多ければ多いほどいいんですよ。例えば今と大正明治で同じようなことがあった、とか。

時代は変わらないね、というのは面白いんだけど、めちゃくちゃ手間がかかる。読み直しを結構確認しなければならないですからね。一応記憶に頼って「こんなことあったな」と思い出しても、記憶曖昧になってきます。でも、本当にこれ面白いんだと。途中からは大体ストックがあって、これは似てる、逆に今のこれがあれだけど、あれから発想する場合もあるんです。昔こんなのあって、こんな面白ものって今にはないかな、と。

そうやって見ていくと、最近若い人の旅に出た記録が1000年前の元神尚の記録に似てるとか、1500年前のものそっくりだ、とか。そういうふうにしていくと、結構いろんな時代に似たものがある。特徴性が被るものがある。だから時代にそういうものを生み出す必然性があるっていうことを考えると、話としては面白いんで、ただ手間がかかる。

今回本にまとめられたのも、別に今回が初めてではないです。これで3冊目です。毎週締め切りがあると憂鬱なっちゃう。まずこれを見つけるでしょ?で、あれがなきゃダメなので、どんなに面白くても「これ面白いんだけど、ペアになるものがいないよね」ってなると、できない。

そもそも、ご自身文学作品を作るっていうのも、アイデアを出さなきゃいけない。アイデアはひねり出すんですけど、あれを見つけるっていうのはなかなか難しい。でもやっぱりコンセプトが光ってますね。やっててうまくいったときは「これ、よく見つけたな、自分でも」って思います

あの、本書の前半では、2022年9月13日フランス映画監督ゴダールの死について書かれています高橋さんにとってゴダールはなぜこれほど特別存在なんでしょうか?

これは世代的なもので、僕の世代芸術音楽映画文学好きな人ゴダールに影響を受けていない人はいないと思います

皆さん結構しますね、やっぱり。

当時はSNSもないし、情報だって今ほどは入ってこなかったから、例えば映画ニュースもなかった。テレビニュースやらないから、どこで知ったかというと、映画雑誌とか、映画芸術とか、そういうところにちょこっと載っていて、新作が出たって今だったら全部SNSでお知らせが来るんでしょうが、そういうのがなかった。だから新作が出たって言っても、日本公開がいつかはわからなかった。

僕は映画だと、アートシアターというのに入っていました。60年代、相当幼い時から、そういう会の会員になって、中学入ってすぐそういう会に入った。だから映画クレイジーキャッツからゴダールまで一緒に見ていました。そもそもそれを分けて考えるのはダサいって感じだった。

しかも極端なことを言うと、芸術ばかり見ていると馬鹿にされるから、逆にクレイジーキャッツとかGS映画を見ないと恥ずかしいって感じだった。そういう背景の中で、ゴダール作品はかっこいいと思ってましたね。彼の即興スタイル特に印象的で、シナリオを書いていかないんですよね。当日、その場でセリフを持っていく。そして基本的編集映画を作るというスタイル

引用が多い。ゴダール作品は、引用が多くて、ただ引用しているだけのものもある。それはオリジナリティに対する嫌悪なんだと思うんです。オリジナリティではなく引用作品を作る。だから過去世代否定する度合が一番強いのが彼で、その影響を受けていると思います

最後作品についても書かれていますが、イメージばかりが連続してくる、写真バンバンバンと順番に来るような映画で、画質は必ずしも良くないのに、なんだか異様に綺麗な映像が印象的でした。

どうでしたか?その最終作に対する感想は?というと、ゴダール作品が好きだなって感じですね。もういい悪いじゃなくて、好きだって感じですね。ゴダールはずっと「映画テーマがどうとかじゃなくて、90分なら90分、じっとその映画館に座って見ていればそれでいい」と言っていて、ただ画面を見ていれば幸せ映画ってそれでいいんだ、という考え方を持っていました。

ゴダールは、自分映画自殺映画だと言っていて、主人公死ぬ映画が多いんです。「気狂いピエロ」もそうだし、「勝手にしやがれ」もそうだし、最後主人公自分で目を閉じて死ぬ。あれはすごいなと思う。しかも、あれがデビュー作なんですよ。最後自分意思表現する映画を撮るという意味で、彼の作品は一貫してそのテーマを持っているんです。

「映画史」という映画も撮っていますが、ゴダールという監督は、常に作品現実境界を取り払うことを考えていたんです。作品現実が別々のものではなく、その境界を取っ払って、映画館で観ている観客に語りかけるという姿勢がありました。

映画の中で、主人公が観客に話しかけるというのは珍しいことではないですが、それを堂々とやったのがゴダールアメリカでも10年くらい前に「ハウス・オブ・カード」とかで流行りましたけど、ゴダールもっとからそれをやっていた。それがかっこよかったんです。

また、魚くんの電気映画「魚の子」や、中村喜子の「女と刀」、植物学牧野富太郎の「牧野富太郎自伝」などについて書かれた箇所を読むと、一つの観念や興味に取り憑かれて、非論理的であろうが、非経済的であろうが、自分の道を進む人が高橋さんの好きなタイプなのではないかと思いました。そういう方にどんな魅力を感じるのですか?

いや、面白いですよ。単純に普通面白くないですか?ちょっと病的な感じさえありますが、頭おかしいんですよね。でも、そういう人は見ていて面白いですね。付き合いたいとは思わないけど。

でも例えば、魚くんだと、そこに書きましたけど、魚くんも面白いけど、お母さんがすごいですよね。僕も読んで「あ、そうなんだ」と思いました。魚くんの主人公はお母さんなんですよね。つまり、こういう人はいるんですよ、きっと。街を歩いても変な人はいます。変な人はいるけど、大体は困るんですよね。それが普通で、生きる人の知恵です。普通に生きてるとそうなるんですよ。

でも、時々そうは思わない人が出てくる。だから、変な人も大事なんだけど、その変な人を受け入れる人の方が自由だと思っています。お母さんがそうですね。お母さんは自分の息子だけど、そのおかしさを全面的に抱きしめる。

普通おかしいって言っても結局排除されるか、直されちゃう。「お前、おかしいか普通にしなさい」と。でも、そのおかしさを育てるというのがすごいなと思います。それは他者とか異業のもの尊重するってことなんですよね。つまりおかしくても存在意義がある。

これは結局、すべての人に存在意義があることにつながるんですけど、普通の人は存在意義があると認められている。でも、おかしな人とか、魚くんならいいけど、例えば身体障害者とか、知的障害者の人たちは見たくないと思うこともある。でも、それでも家族でも受け入れられない人もいる。

僕も色々調べました。障害ある子供が生まれると、受け入れられる家族と受け入れられない家族がいます時間をかけて受け入れられるようになる家族もいます特に父親最初は受け入れないんですよ。でも、母親はすごいなと思います。お母さんは何でも受け入れるんですよね。

魚くんも牧野富太郎も色んな人が出てきますけど、その面白さとは別に、それを誰が受け入れたのかが重要なんです。牧野富太郎変人だけど、奥さんが受け入れたんですよね。牧野富太郎植物愛に没頭する変人ですが、それを受け入れるのは大変なことですよね。

でも、それを受け入れたからこそ、彼の生存保証されたんです。だから、僕が書いた美方ククスとかも超天才だけど、あれ夫だったら困るよ。でも、受け入れた人がいたから、その生存保証された。

でも、どうですかね。例えば、牧野さんとか魚くんとか、みんな著名になって仕事に繋がって成功しているけど、そこまでお母さんが考えていたか奥さんが考えていたかは分からないけど、魚くんになれなかった魚くんや、牧野富太郎失敗版みたいな人も絶対たくさんいたはずです。

結局、成功者の影には1000人の失敗者がいると思います。きっとそういう人たちのところにも、お母さんがいたんですよ。でも成功しなかったけど、いいんじゃない、それで。

これでも、親もすごいけど、1000人の失敗した人を見守ってた親がいて、その人たちが不幸だったかっていうと、そうでもない。そういう人たちは必要なんですよ、ということをよく考えますね。

セコさんの漫画マダムたちのルームシェア」とか、信友直子監督の「ボケますからよろしくお願いします」、早川知恵監督の「プラン75」など、老いと向き合った作品が多数言及されています。今、世界で最も高齢化の進む国と言われる日本で、高橋さんは何を感じていますか?

自分が年取ってきましたからね。今年で73歳です。もうやばいです。あと2年で後期高齢者です。やっぱり、身体的な衰えを感じます。確実に老いていくのがわかります。それに対して色々と体に気をつけています

一つは、老いを新しい経験だと捉える感覚です。確かにそうですよね、経験したことないことですから、新鮮です。僕もそうですよ。ちょっと年を取ってきて体が辛くなってくると「こんなの今までなかった」と思うことがあります

例えば、鶴見俊輔さんという哲学者の方が「限界芸術論」を書かれたんですが、90歳を過ぎて、「今日1日転ばないことを目標に生きよ」と書かれていました。「あ、そういうもんなのか」と思って、わかりました。

転びそうになるんです。僕、スクワットして足腰を鍛えているから平気だと思っていたら、筋肉じゃないんですね。バランスが悪くなっている。神経が悪くなっていて、神経は鍛えようがないから転ぶ。僕は筋力鍛えれば大丈夫だと思っていたけど、そうじゃなかったという新しい発見がありました。

そんな老いを新しい経験だと思って、余裕を持って受け入れることが大事なんです。実際、この国、これは日本だけじゃないと思いますが、68歳、70歳、72歳になると社会の窓が次々と閉まっていく。つまり、色々なことができなくなってくるんです。

例えば、家を借りようと思ってインターネットを引こうとしたら「72歳ですか、ではご家族契約になります」と言われたんです。「70歳とインターネット契約ができないってどういうこと?」と聞いたら、「こういう決まりなので」と言われて、「おかしいでしょ」と思いました。これってちょっと差別的ですよね。

プラン75もそうですが、年寄り不要だという考え方があるんですよね。これが寂しいです。今「シルバーデモクラシー」と言われて、年寄りが恵まれていると言われていますが、それは嘘だと思います。年を取ってみたら、社会の窓が閉じていく。シルバーデモクラシーという言い方で、年寄りが恵まれていると若い人に思わせようとしているんです。

でも実際には、全世代がそれぞれ抑圧を受けている。70代以上はこういう抑圧があるけど、20代30代も年金の支払いなど、みんなそれぞれ抑圧されているんです。だから、全世代連帯しなきゃいけないと思うんです。分断が一番都合がいいから、それをやめるべきです。

僕は政治テーマとして、全世代連帯すべきだと考えています。知らないかもしれませんが、70歳になったらインターネット引けないんですよ。72歳になったらローンもできないんです。なのに恵まれているなんて、ふざけているとしか思えません。

これは、土線(映画)とかでテーマになってもいい話ですよね。でもそれはなかなか声になりにくいんですよね。40代50代の時には知らなかったけど、68歳70歳72歳で新しい抑圧が出てくるんだな、と気づくんです。

社会ってさ、普通のことは知らせないようにしているんですよね。それぞれの世代とかジェンダーで、社会から抑圧されていることをお互いに調べ合って、連帯しなきゃだめです。

ジャニーズ問題玉音放送について、高橋さんテレビ局の幹部たちに「ジャニーズ問題無視するのか」と質問した時のエピソードについて書かれています。昨年末ジャニーズの性加害問題が巨大なテーマになりましたが、この間、どう感じていましたか

あそこにも書きましたけど、僕がちょうどBBC放送した直後に番組審査員を辞めて、最後番組で「これはダメだよ」と言ったんですが、沈黙がありました。その後、某テレビ局が漫画問題で騒ぎになって、それを良かったと思って続けました。

でも、やっぱりテレビ局は商業放送から視聴率が下がることが怖いんですよね。だから視聴率が下がる可能性があることはなるべく避けたい。僕は怯えすぎだと思うんですけどね。もうそんなに怖がらなくても、普通常識でやればいいのに、忖度している。忖度しない方が視聴者の指示を得るんじゃないかと思いますが、なかなかそうはならないんですよね。

今と昔を比較して、昔の方が保守的だったかというと、そんなことはなく、テレビ全体は進化している。ただ、メディア動画サイトSNSに壊れていく時にどうするかを同時に考えなきゃいけなくなっているので、やることも多いんです。

から、僕も言ったんですが、面白動画サイト番組テレビより面白いですよ。テレビバラエティなんてやめたらいいと思います個人で作っているものでも、ものすごくよくできた動画番組があるんです。それを見たら、テレビお金も人もあるんだからもっとできることがあるはずなんですよね。

Netflixドラマなんかも面白いですよ。コンテンツの中身も含めて、やれることがあるのにやっていない。同じようなラブコメばかり作って、誰が見るんだろうって思います

江戸川乱歩の「芋虫」を現代では取り上げることがかなり難しいということについて書かれていますが、以前、マルキ・ド・サド作品を絶賛されていた話もあります。今の時代言論空気感についてどう感じていますか?

メディアテレビラジオだけじゃなくて、小説も含めて、僕がデビューした頃に比べると、だいぶ書きにくくなっています。例えば「ピエロ」って言えないじゃないですか。今では「ピエロレフ」って言われることがありますが、検索しても出てこない。

一番怖いのはこれですよね。こういう名詞ごと削除されること。ポリティカル・コレクトネスで、こういう言葉を使いなさいというのは一つの考え方としてあるかもしれませんが、元々あった言葉が使えないというのは、歴史捏造じゃないですか。

今、「ジプシー」って言葉も使えないんです。「ロマ」とか言いますが、これは歴史捏造であり、存在させないという方向に進んでいるんです。例えば、ゴダールの「気狂いピエロ」も、僕はそれを見ましたからね。でも、「ピエロレフ」って言われてもわからない。

ポリティカル・コレクトネスについては、理解できるところもありますが、理解できないところも多いです。多分、それを推進している人も、やっていて変だと思っているんじゃないかと思います定義や限度が確定していないのが問題で、空気みたいなものから

ポリティカル・コレクトネスの一つの問題点は、日本が元々空気社会から空気で決めるというのはやばいポリティカル・コレクトネス空気で決められるようになっているのが、日本事情なんですよ。

上辺だけの議論が多く、社会的な不正義の問題は見ないで、言葉だけで物事判断する。ポリティカル・コレクトネスは、社会的な問題言葉だけで覆い隠そうとしているだけです。

その辺が、日本という国は忖度する社会から空気を読めということがずっと言われてきて、変わらなかった。変わるかと思ったら、ずっと空気を読んでいる。片方では多様性を唱えているけど、それは言っているだけで、実際には何も変わっていない。

大杉栄についても言及複数見られます思想生き方性格、私には高橋さんと似ている印象を受けましたが、大杉栄をどのように見ていますか?

大杉栄は、日本でも代表するアナキストですが、やっぱり感じがいいですね。友達になりたいなと思う。問題はいっぱいありますが、女癖が悪いとか、迷惑な部分も多いけど、その一方で愛すべき点がある。だから、あの人は人たらしなんです。

例えば、子育てをしていたんです。普通政治的な人は政治活動はするけど、家のことは見ない。でも、大杉栄は、伊東のと結婚して子供が生まれたら、赤ん坊選択をしたり、オムツを変えたりしていた。嫌じゃなくて、それが好きだったんです。

彼の中では、夫婦や男女の形は形式じゃなくて、対等であって、子供から自分 Permalink | 記事への反応(1) | 08:25

2024-08-10

企画力バズる配信者と、不祥事しかバズれない配信

カチカチ山という文学作品歴史的変遷をレビューしたVTuberがバズっている。

題材への取り組み方が学術研究的だとかで、企画力プレゼンテーション評価されたようだ。

その光景を見ていて何だか悲しくなってしまった。

俺が好きでよく見ている配信者が最近バズっていたのだが、部屋の中で花火に火を付けたら火傷した…というもの

一昔前のニコニコ生放送でありそうな、無法地帯な感じがウケたらしく、Yahooニュースで取り上げられていた。

企画力がない人間バズるには過激アンモラルなことをやるしかない。

無茶な行為をせずとも、純粋企画力世間評価される配信者がいる一方で、

法を犯したり過激発言をしないと注目されない配信者たちを見ていて、才能の格差を感じて悲しくなった。

人達からしたら余計なお世話だろうが…。

2024-07-23

anond:20240723162748

春画性質限界

テーマ限定性:春画は主に性的テーマを描いたものであり、当時の社会全体の現象網羅的に描写することが目的ではありません。したがって、春画に描かれた内容は非常に限定的であり、社会全体の一部しか反映していません。

芸術的選択春画制作者が何を描くかは、彼らの芸術的選択によります特定グループ現象(この場合黒人奴隷)が描かれていないのは、単にそれが彼らの興味や関心の範囲外だった可能性があります

証拠選択バイアス

描写の偏り:春画に描かれている内容は、当時の社会の一部を反映しているに過ぎません。描かれていないもの存在しなかったとは必ずしも言えません。例えば、春画農民商人が描かれていなかったとしても、彼らが存在しなかったという結論にはなりません。

存在証拠不足:春画黒人奴隷が描かれていないことだけをもって、その存在否定するのは証拠として不十分です。存在証拠としては、他の歴史的文献や記録が必要です。

歴史的文献の必要

多角的証拠歴史的事実確認するためには、複数証拠検討する必要があります春画だけを根拠にするのではなく、他の文献、記録、物品なども考慮することで、より正確な結論を導くことができます

補完的証拠必要性:例えば、交易記録、外交文書、他の絵画文学作品などが黒人奴隷存在を示しているかどうかを調査することが重要です。春画に描かれていないだけでは、黒人奴隷存在しなかった証拠にはなり得ません。

結論

春画は当時の社会特定の側面を描いたものであり、その描写社会全体を反映しているわけではありません。したがって、春画黒人奴隷が描かれていないことをもって、黒人奴隷制度存在しなかったと結論づけるのは不適切です。歴史的事実確認するためには、複数証拠総合的に検討する必要があります春画だけでは不十分なため、「春画黒人奴隷制度がなかった証拠にはならない」と言えます

anond:20240723162621

以下に、春画黒人奴隷がいない証拠として全く使えないと言える根拠を示します。

1. 春画テーマ目的

春画は主に性的な内容を描いたものであり、当時の社会全体の風俗現象網羅的に描写することが目的ではありません。したがって、春画特定社会現象(この場合黒人奴隷)が描かれていないからといって、それが存在しなかったという結論にはなりません。

2. 描写選択性:

春画制作は、作家意図や興味、そして市場需要によって影響されます作家が描く題材は限られており、特定グループ現象が描かれていないことは単にそれが作家やその時代市場の興味の対象外だった可能性があります

3. 他の歴史的記録の存在

黒人奴隷存在非存在証明するためには、春画以外の歴史的記録や文献も考慮する必要があります交易記録や外交記録、他の文学作品絵画など、多角的証拠必要です。春画だけを根拠結論を出すのは歴史学的に不十分です。

4. 社会的・文化的背景:

江戸時代日本鎖国政策を取っており、外国人存在自体が非常に限られていました。その中で黒人奴隷がどの程度存在していたかは、他の歴史的証拠を基に慎重に検討する必要があります春画に描かれていないことだけでは、その存在非存在判断することはできません。

結論

春画黒人奴隷存在を示す証拠として不十分である理由は、春画テーマ目的描写選択性、他の歴史的記録の必要性、そして当時の社会的・文化的背景にあります春画だけを根拠黒人奴隷制度存在否定することは、歴史的検討として不適切であるため、春画黒人奴隷がいない証拠として全く使えないと言えます

2024-07-11

anond:20240711063355

こういう文学作品って感情を動かせる人もそれなりにいるだろうけどネガティブな内容なので換金が難しそう

2024-06-10

文学における”パクリ”は何故忌避されるのか?についての考察

例えば、”なろう”において著名な作品から文章引用し、

それをそのままの形で己の作品として発表すれば悪評を得るだろう。

それは「パクリであるとして。

ではここでその諸問題、「なぜ文章パクリ忌避」されるのか。

それについて考察しようと思う。

まず仮定として、目の前に富士山があるとしよう。

その富士山光景を巧みに描写した文学作品があるとする。

そこで私がその作品から富士山に対する描写をそのまま引用すればパクリとされる。

それはその「文章」を無断で引用したこと咎められるのであって、「富士山」そのものを流用したこと事態問題は生じない。

ここに一種の奇妙な齟齬存在する。

すなわち「富士山」との表象描写すること自体には、「パクリ」とする概念存在していないのである

ここで述べたいことを平易に、そして換言すればこういうことである


富士山自体描写問題視されないのに対し、

なぜ文学作品文章光景として捉え、その文章描写することは禁止されるのか?


ということである

詭弁的に述べれば、こういうことだ。

「私はその文章をパクったのではない、私はその文章光景として読み取り、私が感じたままにその文章描写しただけである

これが「なるほど一理ある」と成らないのは自明である

その理由こそが、この諸問題としての根源的なものであり、すなわち「パクリ」という行為は、文章を盗む行為ではない。

それは、作者の感性思考を盗むことに他ならず、端的にも形而上学的に述べれば、それは作者の「魂」を盗むことである

まり富士山としての描写自体に「パクリ」としての表象が生じないのは、富士山としてその表象を捕らえた際、そこには個々人において異なる情動思考感性が働くことに由来する。

我々はあるひとつ事象認識し、相手に伝える行為において、

自分認識した事象を正確無比に相手に伝えるのは不可能である

なぜなら知覚した事象言語化する際に、ノイズが生じることは不可欠だからである

仮にこうしたコード化によってもノイズが発生しないのであれば、それは他者自己境界線存在しないことに成り、それは他者存在消失させてしまうことにつながる。

よって、他者としての存在とその存在性の認識こそが自己認識における伝達として生ずるノイズとしての証明であり、故に完璧意思疎通は不可能である

同時に、自身においてもその得た表象としての認識を、

実際に自分認識したものを完全に換言するのもまた不可能である

ここで本題に戻ろう。

まり、なぜ文章パクリが駄目とされるのか。

それはつまり事象描写価値があるからではない。

ノイズの部分にこそ価値があるからだ。

人間はこのノイズのことを評して「独自感性」として賞賛し、

彼らは実際、事象に対する見事な描写評価を与えるのではなく、

ノイズ」に対して評価を与えているのだ。

仮に富士山としての事象光景が、文字として表せるコードとして定義化されたとしよう。

すると橙色をR132・G90・B18として示せるように、富士山も同様に共同認識コードにより共通の形で表記することができるだろう。

その際において、富士山を示すコードを流用しようと、橙色場合と同様、そのコードを”パクリだ!”と批判されることはないだろう。

それは定義化された表象富士山を描いたかである

文章引用パクリとされる行為文章を盗むのではなく、作者としての”ノイズ”を盗むのであり、人は意思の疎通として害となる、その”ノイズ”に価値を置いている。

その事実はつまり文学としての重要性を示しているのであり、

人間は巧みに描写された事象を求めて作品としての文章を読むのではない。

それは正確さに欠ける、個々人として個人的感性と称される”ノイズ”を読む行為に他ならないのだ。

パクリが許されない最大の理由はここに帰結する。

まり、人はノイズを読み得ようとすると同時に、その”ノイズ”の出処を正確に知ろうと欲するためである

それはすなわち、”ノイズ”の正体が判明しておらず、その”ノイズ”としての概念自体アニミズム的にも崇高する謂れを持ち得ているかである

これこそ換言すれば、

「逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ…」

といったこ文章の与える意味としての本質が、

エヴァンゲリオンにおける碇シンジへと自然還元されるように。

2024-05-27

anond:20240527154217

一所懸命だけを使う人に聞いてみたいな。なぜ「一生懸命」ではなく「一所懸命」を使うのか。

語源的に正しいから?

 さて,それでは,現在採るべき表記法はどうであろうか。最近辞典類を見ると,『岩波国語辞典』(岩波書店刊)は,「一所懸命」を本見出しとし,「一生懸命」をから見出し扱いにしているが,『例解新国語辞典』(三省堂刊),『新明解国語辞典』(三省堂刊),『新選国語辞典』(小学館刊)などは,「命がけのこと」を意味する語としては「一生懸命」を本見出しにし,「一所懸命」を併記したり,古語扱いにしたりしている。さらに『例解辞典』(小学館刊),『NHK編 新用字用語辞典』,『朝日新聞用語の手引』(朝日新聞社刊)などの用字用語辞典は,ほとんど「一生懸命」に統一している。

 以上のことから判断すると,現在学校教育においては,表現学習や語彙学習場合には「一生懸命」が望ましいと思われる。なお,教科書文学作品においては原典尊重し,『オツベルと象』では「一生懸命」(原典は「いつしやうけんめい」)を,『蜘蛛の糸』『坊っちゃん』では「一生懸命」(原典は「一生懸命」)を,『ごんぎつね』では「一生懸命」(原典は「一しょうけんめい」)を使用している。

教育出版HPより

2024-05-06

anond:20240506085851

キミそんなのでは友だち居ないでしょう(明治文学作品的なツッコミ

2024-04-28

anond:20240428175749

小説家評論家として、当時もっと商業成功を収めていた文学作品に着目するのは当然のことでは?

2024-04-21

東京は家の中に文化がない + 追記

東京住宅が狭すぎて家の中に文化がない。


まともな本棚を置けない。絵を飾るスペースがない。靴はひとり数足しか保管場所がない。

大きな冷蔵庫を置けないのでヨーロッパ東南アジア珍味を貯めておけない。

ホームベーカリーを置けない。ピアノを置く場所がない。食器一家20枚もない。

子供学校で作った紙粘土の鳩を飾れない。五月人形ひな人形を飾れない。

結婚式で作ったドライフラワークローゼットの奥にしか置き場がない。

ダブルベッドを2つ置ける部屋がない。もう使わないゴルフバッグを念のため置いておける物置部屋がない。


狭すぎて子供を作れない。それでも仕事のために東京にしがみついている。

生殖制限してまで働いているという意味で、本当の社畜だと思う。


それでいて地主バカ高い家賃を払い続ける。

夫婦練馬区に住んでおり上に書いた状況だった。心底気の毒だと思う。


プライベートのかなりの時間は自宅で過ごすのだから、家を文化的にすべきだ。

俺は人口30万人の地方都市に住んでいる。上に書いた程度のことはすべて実現できている。


東京は、家の外は文化的だ。俺も昔東京に住んでいた。

しか美術館博物館は何回も通って飽きた。お気に入り画集を家に置けば十分だ。

飲食店は多いが、どこもすし詰め状態で居心地が悪い。高い金を払って不健康ものを食べたくもない。

図書館の数や取り寄せサービスは素晴らしいが、借り出し・返却の時間が勿体ないのでネットで買えばいい。


文化都市東京にあって粗末な家に住む方々は本当に不思議存在だ。家の中と外とで文化水準が大きく異なることに疑問を抱かないのだろうか。

俺が思う最適解は、東京名古屋大阪あたりに本社を持つ大企業の、地方事業所周辺に住むことだ。

俺が勤務する事業所は3000人以上働いている。近所には大手電機メーカーの1万人近い事業所もある。

こうした町は企業城下町様相を呈しており生活には困らない。しかも家が広くて安い。



共感するコメント共感しないコメントを予想外に多く頂けて嬉しい。

もう少し詳しい説明必要性を感じたため追記する。

共感しない旨のコメントに多いのは、モノを家に集めることは文化ではないという趣旨

しか文化基本的媒体としてモノを必要としていることを認識してほしい。

二、三例示すると、

たとえば節分豆まきには鬼の仮面大豆大豆をまけるスペース、掃除道具が必要だ。これらのモノ無しに「鬼は外、福は内」を口誦するだけの風習ならとうの昔に途絶えていると思う。現に口誦するだけの文化身の回りにどれだけあるだろうか? そうした文化は歌くらいだ。

次に、小説などの文学作品雑誌掲載されても単行本文庫にならない。芥川賞を受賞した作家でさえ、そのほとんどは、半分以上が雑誌掲載のみで終わる。その雑誌電子書籍で出ていなければKindleで読むことは出来ない。ましてや詩歌は99%は雑誌掲載のみ。Kindleで閲覧できる文学作品は実はごくわずかでしかない。

最後に、美術に触れる経験子供に与えるには画集のように家に置けるモノがあると都合がよい。いきなり美術館へ連れて行っても高い確率でほぼ全部素通り、帰りの外食の方をよほど楽しみにしている。画集が家にあれば日頃から絵画というもの存在認識するし、すごく暇なときに開いて読んでいることも稀にある。大人が楽しむにも、プロ解説付きの画集は何度も読み返して理解を深めることができる。


以上のように、個人として文化を深く楽しむにはモノが必要だし、それを子供に伝えるにもモノが必要。モノがいつでも目の前にある、手で触れることができる環境文化への距離を縮めてくれている。だから私は家にモノを置きたい。

東京文化を家の外に"外注"していることと出生率が低いことは関連していると思う。

2024-04-14

20240414[アタック25]Next 2024年4月14日 #107 動物好き大会 2024-04-14結果

BSジャパネクストで日曜昼などに放送

日曜日の本放送だけ1時「25」分から

BS1からボタン2回(今だけ?)とか

ケーブルテレビSTBでは見られない場合があるようなのでBSパススルーとか

地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報確認

つながるジャパネットアプリ放送同期・見逃し配信あり

 

赤:内田健司@大阪47

緑:加登有紗@神奈川26

白:春谷慶太朗@兵庫28

青:益田潤一@神奈川39

 

今日の答え(放送とは表現が異なる場合があります

・01 [ある生き物の名前]オカピ

・02 高杉晋作 たかすぎしんさく

・03 炎色(反応

・04 [動物問題]オオカミ

・05 [3択]キリン

・06 高崎山(自然動物

・07 プレーリー(ドッグ

・08 [一般問題]三陸(海岸

・09 [近似値]448

10 ハイヒール

11 [3択]100 センチメートル

12 [すべて]栃木 福岡 熊本 愛知

・13 コシノジュンコ

・14 [バンド]クイーン

・15 [3択]カンガルー(島

・16 ルイボス

17 ふっかつ(のじゅもん

・18 [ふるさとクイズ][島根県益田市]犬(のお出迎え

・19 [曲名頭文字]すみれ

20 990(点

・21 公職(選挙

・22 桂浜(水族館

23 [AC]メトロポリタン(美術館

24 萩尾望都 はぎおもと

・25 [3択]80 メートル

・26 タンザニア

・27 [3択]ショーメ

28 さらば青春の光

・29 [3択]文化

・30 21(平方センチメートル

・31e ディーラー

赤:清水香澄 緑:高橋将士 白:富田健一 青:坂井

CM 危機一髪

・xx [ある文学作品名前]『変身』

2024-04-04

anond:20240404220144

ジャップって文学作品映画作品にも登場するよ

被差別者として日本人がどう呼ばれるかくらい知っておくのが教養

2024-04-01

まもって守護月天!を読み終えた その1


当方40代であるはてなユーザーでは平均ほどか。

数年前に父が亡くなり、半年前に母も亡くなった。ずっと実家暮らしで、会社仕事の合間に農業をやっていたが、そろそろこの家ともお別れである家族が俺一人になったので、土地建物を売りに出して、会社の近くにある空き家ハウスに引っ越すのである

相続が終わってから遺品整理屋とかリサイクル屋とか解体屋さんと話をすることが多くなった。処分すべき財産はあっという間に片付いたが、最後に残ったのが……西暦で言うと2000年頃に亡くなった実弟漫画だった。部屋を共有していたので、本棚には俺と弟の漫画が並んでいた。

その大半は、ブックオフでも1冊10円すらつかないモノだった。メルカリで売るにも手間がかかりそうだ。遺品整理屋も「今のご時世、紙のマンガは売れないんですよ」と引き取りを断った。ほかの価値のなさそうなモノは、タダ同然でも引き取ってもらえたのだが。

何か月か経って、今年の正月を過ぎた頃だった。

実家本棚にあった俺の漫画を何冊か、手に取って読んでみた。うーん、これは……「懐かしい」という感情が僅かにあった。一番好きだった漫画、『天使禁猟区』『スカイハイ』『クロマティ高校』を読んでみたが、いまいちピンとこない。楽しい思い出が蘇ってこない。お楽しみの記憶脳裏から消えてしまったのだ……。

ふとここで、亡き弟の漫画を手に取った。あいつは将来裁判官になりたいと言ってたっけ。『家栽の人』が本棚の目につくところに置いてあった。一番上の段だった。

そして、一番下の段に視線を移すと……ここで一番、ドーン!! と、当時の記憶が蘇った。それは、『まもって守護月天!』だった。弟が一番好きだった漫画

家族食卓を囲んでいる時も、旅行をしてる時の車内でも、何気ない団らんの瞬間でも、とにかく弟は、この漫画の話をしてることが多かった。

弟の死因は、自動車に轢かれた後の外傷から内臓の疾患にかかったことにある。交通事故の原因の半分は弟にあり、当時は自業自得だと冷たいことを思ってたけど、まさか亡くなるとは……。病院でお見舞いをしてる時にも、弟はこの漫画を繰り返し読んでいて、ずっとその話の内容とか喋ってるんだよ。どんだけ好きなんだよって思った。

確か、アニメも観たいって言ってたかな。病室にテレビはあったけど、ビデオ再生できるものがなかった。弟は泣いて悔しがっていた。

さて、当時の俺は高校生であり、ガンガンコミックス漫画を読むことはなかった。守護月天漫画を読んでみたことはあったが、すぐに読むのをやめた。「稚拙だな」と思ったのもあるし、「絵がちょっとな~」という思いもあった。当時の俺は、CLAMPが描くような、Xとか聖伝とか、ああい精緻な絵柄のエログロが好きだった。

とにかく弟は『まもって守護月天!』が好きだった。それを、この本棚を見ていて思い出した。この日は休日であり、時間がたくさんあった。せっかくなので、この日から一週間ほどかけて、全11巻を読んでみることにした。

読んでみた感想を、以下に綴っていこう。感想を交えつつ、各巻に1~2箇所ずつ、印象的だったところを抜き出して引用する。

ネタバレがあるように見えるけど、本当に大事なところは抜き出してない。隠してる。まあ、俺の人生で『まもって守護月天!』を取り上げるのはこれっきりなんだし、少しくらいは許してくれ……。

その前に、これはどういう漫画やねん、と気になった方はWikipediaでググってほしい。あらすじは、概ねこんな感じである

~ブックライブから引用

一人暮らしで寂しさを抱える少年と、ご主人様をあらゆる不幸から守る役目を持つ守護月天美少女とのファンタジーラブストーリー一人暮らし中学2年生・七梨太助(しちり・たすけ)は、中国を旅する父親から支天輪(してんりん)という八角の輪を送られる。


まり主人公の何気ない行動をきっかけとして、小璘(シャオリン)という女神様のようなものがやってくる。お互いに惹かれつつ、ラブコメディが進行していく。その中で、超えないといけない壁がいくつもあって、主人公である太助シャオにふさわしい男になるために奮闘する物語である

では、さっそく始める。



【第1巻】

読み始めは、正直キツかった。絵柄が古いのもあるし、漫画表現が昔風なのもあるし、ラブコメを読んだ経験がない人間には何がどう面白いのかわからない。

まり楽しめないのは、すでに四十を過ぎているからだろう。子どもの頃であれば、まだマシだったのかもしれない。ただ、まあ……コンセプトはいいと思う。すごく。

なんとなくだが、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』という映画を思い出した。某グルメ漫画でいうと、「うん こういうのでいいんだよ こういうので」を地で行く。

シャオリンが「この平和時代に、どんなものからご主人様を守るか」を決めたシーン

太助様…」

「…え……」

「もし迷惑でなければ あなたの中にある「孤独」や「寂しさ」から あなたを守ってさしあげたいのですが それではいけませんか?」


シャオ歴代の主を守ってきた手段は、主に暴力である。星神を呼び出して使役し、主人を狙う者を撃退する日々を過ごしてきた。だが、平和現代でそんな行為需要があるはずもなく。シャオは、呼び出されてすぐにお役御免になってしまう。

ならば、主人である太助をどのように守ればいいのか――その答えが上記台詞である。命を狙う敵がいないのであれば、孤独や寂しさから主人を守るのだ。太助には家族が3人いるが、全員家を離れて放浪の旅をしている。ネグレクトに限りなく近いものがあるが、ラブコメの都合というものだ。



【第2巻】

このあたりは、まだだるかった。物語登場人物は揃いつつあるのだが、展開が退屈でなかなか話が進まない。この巻から、慶幸日天の汝昴(ルーアン)という主人公の恋路を邪魔する、まさにお邪魔キャラみたいな人が出てくる。

別に、なんということはない恋愛妨害工作なのだが、この時代ラブコメ高橋留美子の影響がまだ色濃いのだろうか、暴力性が強い。この巻以外にも「死ぬやろ……」というシーンがけっこうある。昔は気にならなかっただろうが、やはり時代というものか。

ルーアンの計略によりシャオ太助の元から離れようか迷っているシーン ※太助が駆けつける

「えーっと 今はうまく言えないけど… 俺はシャオにずっとここにいてほしいんだ ――それだけじゃここにいてもらう理由にならないかな……」

「…いいえ… ………あの 私…… 太助様がここに来てくれるの 待ってたかもしれないです」


ルーアンがそれっぽい発言をして、「シャオ現代には不要ではないか」という意見を伝える(あなたなんて いても邪魔なだけなのよ)。シャオは真に受けてしまって、支天輪に帰ろうとするのだが……すんでのところで太助がやってくる。そして、ふたりきりの状態で上のような会話をする。

この場面は気に入っている。シャオ気持ちも、太助気持ちリアルに描いていたからだ。ストレートさがいい。



【第3巻】

このあたりから恋愛路線に入ってくる。太助シャオ愛情意識する場面が出てくる。

ネタバレは避けるが、シャオには恋愛ができない事情がある。本人ですら認識できない事情が。

以下の山野辺というのは、最初の頃は万引きとかするキャラとして描かれていた。物語が進むにつれて応援キャラになっていく。

シャオ山野辺が一緒に温泉に入っているシーン

「なあ シャオ…」

「…………」

シャオ?」

はい?」

「なんか元気ないけど七梨と何かあったのか?」

翔子さん…………私 病気かもしれないです なんだか…ね 胸が苦しい… 太助様がルーアンさんと一緒にいると とっても胸が苦しくなります さっきなんか どうしてだか自分でもわからないけど そっけない態度とっちゃったし太助様が話しかけてくれたのに 太助様にきっと変に思われちゃった きっと悪い病気にかかっちゃったんです ――でも どうしたらいいのか わからなくて…」 

(へえ…精霊ってのも 人を好きになったりするんだあ…)


うん。女性作者が描いてるラブコメってさ。女性側の心理描写リアルだよな。女の子ってさ、好きな男性の目の前だと萎縮することがあるじゃん意中の人を目の前にすると、体がつい後ろに下がってしまうとか、廊下を走って逃げだす子とかいるよな。

なんかこう、恋愛感情に対して不安になった時の女性心理というか。リアルさが伝わってくる。子ども時代に読んでも全く認識はできなかったろう。



【第4巻】

この巻くらいになると、ストーリーの基本線が定まってくる。何らかの事件イベントが起こって、太助シャオが巻き込まれて、レギュラーキャラがそれぞれの立ち位置で動き回って、なんやかんかで解決して、ふたり(又はほかのキャラ同士)の間柄が深まって……という流れである

基本は、太助シャオ関係性がメインだ。この作品うまいところは、ふたりばかりを推すのではなく、ほかのキャラクター間の友情とか愛情ガッツリ描いてる。

この巻だと、2つの場面が印象に残っている。いずれも、ルーアンふたりの仲を妨害するための工作を試みて、やってしまった結果である

④-1太助高速道路自転車走行中にタイヤバースト、そして前方車両(トラック)と自転車を括っていたロープが取れて転倒した後のシーン

「………え 太助様!? 太助太助様!! 太…助様あ… ……う…」

「あ…あの小璘さん…」

「どうしよう…どうしようどうしよう ルーアンさん! ――太助様が 死んじゃったらどうしよう!!」

「あ…いや まさかそんなあ」

「どうして支天輪を車に乗せちゃったりしたんですか 私……太助様に何かあったら ルーアンさんのこと絶対さない!!」

「…………」

太助様に…太助様に何かあったら… 太助様… 太助様早く帰って来てください」

「小璘…………あんた」

④-2保健室で、シャオがベッドに横たわって寝ているシーン

「なあ…ルーアン

はい!?」

「…俺シャオのこと 好きにならない方がいいのかな…」

「………… あんたあのおじょちゃんになんか言われたでしょ ――じゃあひとつ聞くけどなんでそう思うの?」

「――…」

「小璘が人間じゃないから?」

「…………」

「………俺とシャオって絶対結ばれないのかなって…」

「…ねえ たー様 あたしは たー様のこと好きよ 考えれば悩みなんていくらでも出てくるけど 一番大切なのは自分気持ちでしょ だからあたしはあんたみたいに悩まない 悩んでも変わらない想いなら 悩むだけ損だと思わない?」


気持ち、とでもいうのかな。かの有名な『BLEACH』でいうと、ウルキオラ・シファーの名台詞ひとつである



心か



みたいな感じだ。登場人物の心境がさ、わかるんだよな。喜んでるのもわかるし、苦しんでるのもわかる。そんな中でキャラクターが足掻いている姿が印象に残った。

漫画を読む前に下調べはしなかった。今も一切してない。よって推測になるんだけど、この作者である桜野みねねっていう人は、この時(1998頃?)は大学生かそこらの年齢なんだよな。作者あとがきを読むと、若いんだなというのは伝わってくる。

俺が二十代前半の頃は、地面から出てきたばかりのカブトムシの如き勢いでスポーツをするか、水道工事現場であくせく働くか、盛りのついた獣のように女を口説いて、年間に何人とセックスたか記録を付けるとか……同じ会社女の子と無理やりそういうことをした後でも、最後にベッドの上で「愛してるよ」と言ったら許されるから大丈夫とか、そんなことしか考えてなかった。人間性が動物レベルだった。

でも、この桜野みねねという人は、そんなどす黒い人間の対極を行く感性がある。この作者は凄い……と、いい年になったおっさんは感じた。※私個人と作者の年齢差は、干支0.5周り分ほどと思われる。



【第5巻】

20年以上前漫画なので、さすがに創作でも……というシチュエーションが生じることがある。作品内では、たまに登場人物がみんなで旅行とか海とか温泉に行くのだが、メインキャラがほぼ中学生で、20才以上は大変少ない。無理があるし違和感がある。

しかし、旅行とかでないと表現できないラブコメ的なシチュエーションもあると思うので……そこが創作の難しいところである。いや、文学作品創作とかしたこといからわかんないけどさ。

⑤仲間と海に来ていて、ようやく夜の海岸で二人で話ができたシーン

「なんだかね………私 太助様ととってもお話たかったです 別にお話したいことがあるわけじゃないの… でも… 太助様とお話してるととっても落ち着くから…」

「……シャオ

だってお話してるってことは 一緒にいるってことでしょ? だから…」

(だから… きっとこんなに 安心できるのね)


太助シャオは、何度もこういうシチュエーションになっている。が、恋愛が進む気配はない。事情はあるのだが、あまり絶望的な事情なのだ

あと、文章量の都合で載せなかったが、クラス演劇(かぐや姫)の数話分も大変よかった。ルーアンと、ほぼサブキャラの乎一郎が主体の話なのだが、中学校の学芸会かぐや姫をやることを通じて、「離れていても心は繋がってる」という要素を表現している。

この回は、大人ながらにしみじみときた。気になる人は、是非5巻を読んでほしい(ダイレクトマーケティング決行)。

大まかな流れを言うと、ラストのお別れシーンでかぐや姫役のルーアン台本にないセリフを言う → 月の使者役のシャオがお迎えを中止発言 → 乎一郎がそれを制止 → その後の会話のやりとりで、離れていても心は繋がっていることを示唆~といった具合である

ここまで五千字以上は書いている。一旦切ることにする。



文量の都合で2分割。

次に続きます

https://anond.hatelabo.jp/20240401122023

2024-03-12

疲れました。 きっと俺たちは......。.impressive gauge――それは天才的な文学作品、あるいはsf作家に向けた、狂気に満ちたデスヴォイス(悲鳴)だ――それは、声の主である神の言葉の響きが、あたか未来に現される、神の姿そのものに似ているかである詩人アーレントはこう名付けた――偉大なる天才は時に、狂気をも駆使し、時に、狂気をも駆使して、神の言葉の力を確固たるものとする

Anond AI作成

私が書いたのは「疲れました」だけです。諸事情筋肉痛です。

のんだいさんノムリッシュ好きなの?

2024-03-08

anond:20240308050217

青銅器時代マインドセット悟りを開くのがどのようなものか、その本質を探る、見事で勇敢な文学作品。衝撃的で大胆な、カウンターカルチャー

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