はてなキーワード: 1Q84とは
うちも母親が熱心な会員だったけど、ここに書いてる事ちょっとライト過ぎない?
熱心に通ってたのは30年も前になるから今は変わったのか知らんけど、今回の容疑者が体験したのも当時だと思うので追記させてもらう。
あと数ヶ月に一回の大きい大会と、元朝に九段下に集まる元朝式があった。
「捨て育て」の主戦場。午前中のこれのために、子供がいても置いていく。子供が泣いて追いすがっても置いていく。でもうちの親はなんだかんだ甘い気質だったからたまに連れて行ってくれた。でも迷惑な個別訪問ピンポンしまくって「うちは宗教ではなくて社団法人の認可を頂いていて〜」って語りまくって、文字通り門前払いをくらう母親を見てるのは辛かった。でも置いてかれるよりマシだった。(村上春樹の1Q84を読んでて、あの頃の嫌な気持ちが蘇った。NHKの集金のあたりだったかな。)
朝起き会は5時からだからって5時起きみたいな感覚のブコメも多いけど、なめてもらっちゃ困る。5時に会は始まるんだから、それよりもっとずっと前から掃除と会場の準備があるから、熱心な会員の起きる時間は3時30分です。
たまにわたしも連れて行かれていたけど、退屈で外をウロウロしてたら不気味な男が10円玉を無言で差し出してきた。走って逃げたけど、まだ暗い早朝に子供が一人でウロウロしてたらまあ危ないよね。
天皇陛下です⭐︎創始者の上廣えいじって人がいた時はその人がかなり崇められてたけど、基本宗教っていうより、保守的な政治活動団体なので、壇上には日の丸と共に
「朝起きは お国を興す 第一歩」みたいな標語がババーーンと掲げられてる。本当国防婦人会みたいな。三つ指ついて夫を迎えるとかそういう教え。
保守系の政治家(市議会議員から国会議員まで)はよく来てた。大事な集票活動のひとつだったと思う。
こんな感じだったので、熱心にやる人だと会誌を毎月買いまくったり親戚縁者みんなこっそり会員にして会費自腹で負担するとか、他のトラバでもあったけど学校の先生にも勧誘するとか、結構家族はキツかったんじゃないかな。早起きが素晴らしい事ってのに対してのアレルギーは私もある。
https://note.com/historicalmoc/n/n284957b96801
村上春樹の作品はほぼ読んだので大体同意だけれど、肝心の文章について全く語られていないのは片手落ちとしか言いようがない。こういう何かを語っているようでその内実がわかりにくい言葉を並べるからハルキストだのなんだの揶揄られるんだ。ファンなら真面目にやれ。村上春樹以外の人間が村上春樹の真似したら中身がない駄文にしかならないって小学校で教わらなかったのか。
つーか村上春樹の文章は別にうまくねえから。特徴的で読解大好き人間ほいほいってだけ。
というこの3点が村上春樹の文章でもっとも印象に残る要素である。本気で語るなら時期によっての文体の変化とか、もっといえば情景描写についてもまとめたいのだけれど、とりあえず書き散らす。なお、3に関しては他作品に関する読解を含み、ひとによってはネタバレと解釈しうるものも混じるので注意。
実例を挙げてみる。
四月のある晴れた朝、原宿の裏通りで僕は100パーセントの女の子とすれ違う。
正直言ってそれほど綺麗な女の子ではない。目立つところがあるわけでもない。素敵な服を着ているわけでもない。髪の後ろの方にはしつこい寝癖がついたままだし、歳だってもう若くはない。もう三十に近いはずだ。厳密にいえば女の子とも呼べないだろう。しかしそれにもかかわらず、3メートルも先から僕にはちゃんとわかっていた。彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。彼女の姿を目にした瞬間から僕の胸は地鳴りのように震え、口の中は砂漠みたいにカラカラに乾いてしまう。
1文1文が短い。技巧的な表現を使うわけでもない。文章から浮かんでくるイメージが閃烈鮮烈なわけでもない。日常語彙から離れた単語を使うこともない(「閃烈鮮烈」とか「語彙」といった単語が読めない人間は思いの他外多いからな。ここでの「他外(ほか)」とか/悪いATOKに頼りすぎて誤用なの気づいてなかった。指摘ありがとう)。ただただ「シンプル」だ。わかりやすい。
また、冒頭の1文の次にくるのは「~ない」で終わる文章の連続だ。テンポがいい。あと、どのくらい意図的なおかわからないが、↑の文章を音読していみると適度に七五調がまじっているのがわかる。そして、大事なところで「彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。」という断言を入れる。リズムで読者を惹きつけた上ですっと断定されると、その一文がすっと印象的に刺さってくるのである。
つまり、別に「うまい」わけじゃないんですよ。ただ「読みやすい」。それにつきる。読みやすい以外の褒め言葉はあんまり信用しちゃいけない。「うまさ」って意味なら村上春樹をこえる作家なんてゴマンといるし、村上春樹の「文章」がすごいなんてことは絶対にない。うまいとか下手とかを語るならナボコフあたり読んだ方がいい。
とはいえ、個人的な所感だと、この「読みやすさ」は村上春樹が発見あるいは発明した最大のポイントだ。「リズムがよくわかりやすい文章で圧倒的リーダビリティを獲得する」という、一見してみんなやってそうでやっていない方策を村上春樹が徹底しているせいで、誰でも座れそうなその席に座ろうとすると村上春樹と闘わなければならない。
で、そのあとにくるのが「彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。彼女の姿を目にした瞬間から僕の胸は地鳴りのように震え、口の中は砂漠みたいにカラカラに乾いてしまう。」という文章である。村上春樹の比喩表現は独特で、たとえば『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を適当にパラパラめくって見つけた表現として、「不気味な皮膚病の予兆のよう」「インカの井戸くらい深いため息」「エレベーターは訓練された犬のように扉を開けて」といったものもあった。この、比喩表現の多様さは彼の最大の持ち味であり、真似しようにもなかなか真似できない。
そして何より、「100パーセントの女の子」である。何が100パーセントなのか、どういうことなのか、この6ページの短編ではその詳細が説明されることはない。ただ、語り手による「彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。」という断定だけが確かなもので、読者はそれを受け入れざるをえない。それはこの短編に限らない。「かえるくん、東京を救う」におけるかえるくんとは。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』における〈世界の終わり〉とは。「パン屋再襲撃」はなんでパン屋を襲うのか。「象の消失」で象はなぜ消失するのか。「レーダーホーセン」でどうして妻は離婚するのか。羊男ってなに。
こういった例には枚挙に暇が無い。文章単体のレベルでは「読むことはできる」のに対して、村上春樹の小説は比喩・モチーフ・物語様々なレベルで「言っていることはわかるが何を言っているかがわからない」ことが、ものすごく多いのだ。
じゃあ、「村上春樹の作品はふわふわしたものを描いているだけなのか?」と言えば、そんなことはない。村上春樹の作品には「答えがある」ものが、地味に多い。
たとえば、「納屋を焼く」という作品がある。ある男が恋人の紹介で「納屋を焼く」のが趣味だという男性と出会い、ふわふわした会話をして、ふわふわとした話が進み、語り手は時々恋人とセックスをするが、そのうち女性がいなくなる。読んでいるうちは「そうか、この男は納屋を焼いているのか」という、村上春樹っぽいよくわからないことをするよくわからない男だな……という風に、読んでいるうちは受け入れることができる。
だけれど、この作品の問題は、「納屋を焼く」とは「女の子を殺す」というメタファーの可能性がある……ということを、うっかりしていると完全に読み飛ばしてしまうことだ(あらすじをまとめるとそんな印象は受けないかも知れないが、本当に読み落とす)。それが答えとは明示されていないけど、そう考えるとふわふわとした会話だと思っていたものが一気に恐怖に裏返り、同時に腑に落ちるのである。
その他、上記の「レーダーホーセン」においてレーダーホーセンが「男性にぐちゃぐちゃにされる女性」というメタファーでありそれを見た妻が夫に愛想をつかした、という読みが可能だし、「UFOが釧路に降りる」でふわふわとゆきずりの女と釧路に行ってセックスする話は「新興宗教に勧誘されそうになっている男」の話と読み解くことができる(『神の子どもたちはみな踊る』という短編集は阪神大震災と地下鉄サリン事件が起きた1995年1-3月頃をモチーフにしている)。
勿論、これらはあくまで「そういう解釈が可能」というだけの話で、絶対的な答えではない。ただ、そもそもデビュー作『風の歌を聴け』自体が断章の寄せ集めという手法をとったことで作中に「小指のない女の子」の恋人が出てきていることが巧妙に隠されていたりするし(文学論文レベルでガンガン指摘されてる)、「鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。」と書かせた村上春樹がその小説の中で実は死とセックスに関する話題を織り込みまくっている。近作では『色彩をもたない田崎つくると、彼の巡礼の年』で○○を××した犯人は誰なのかということを推測することは可能らしい。
たとえば、『ノルウェイの森』で主人公が自分のことを「普通」と表現する箇所があったが、村上春樹作品の主人公が「普通」なわけない。基本的に信頼できない語り手なのだ。信用できないからしっかり読み解かないといけないようにも思える。
(なお、なんなら村上春樹が自分の作品について語ることも本当の部分でどこまで信用していいのかわからない。「○○は読んでない」とか「××には意味がない」とか、読解が確定してしまうような発言はめちゃくちゃ避けてる節がある)
ただ、勿論全部が全部そうというわけじゃなく、羊男とかいるかホテルって何よとかって話には特に答えがなさそうだけれど、『海辺のカフカ』『ねじまき鳥クロニクル』『1Q84』あたりは何がなんだか全くわからないようにも見えるし、しかし何かを含意しているのでは、あるいは村上春樹本人が意図していないことであっても、読み解くことのできる何かがあるのではないか、そういう風な気持ちにさせるものが、彼の作品のなかにはある。
このように、村上春樹のメタファーやモチーフには、「答えがあるかもしれない」という点において、読者を惹きつける強い魅力があるのである。
増田も昔は村上春樹を「雰囲気のある作家」くらいの認識で読んでたんだけど、『風の歌を聴け』の読解で「自分が作品をちゃんと読んでないだけだった」ということに気づかされて頭をハンマーで殴られる経験してから「村上春樹には真面目に向き合わないと良くないな」と思い直して今も読み続けてる。
……なお、それはそれとして、セックスしすぎで気持ち悪いとか(やれやれ。僕は射精した)、そもそも文章がぐねぐねしてるとか(何が100パーセントだよ『天気の子』でも観とけ)(なお「4月のある晴れた朝に~」が『天気の子』の元ネタのひとつなのは有名な話)、そういう微妙な要素に関して、ここまで書いた特徴は別にそれらを帳消ししてくれたりする訳じゃないんだよね。
たとえば『ノルウェイの森』は大多数の人間が経験することの多い「好きな人と結ばれないこと」と「知人の死を経験し、受け入れること」を描いたから多くの人間に刺さったと自分は思っているが、だけどそれが刺さらない人だって世の中にはたくさんいるのは想像に難くない。
だから、嫌いな人は嫌いなままでいいと思う。小説は良くも悪くも娯楽なんだから。
マジで村上春樹論やるなら初期~中期村上春樹作品における「直子」のモチーフの変遷、「井戸」や「エレベーター」をはじめとした垂直の経路を伝って辿り着く異界、あたりが有名な要素ではあるんだけれど、まあその辺は割愛します。あと解る人にはわかると思いますがこの増田の元ネタは加藤典洋と石原千秋なので興味ある人はその辺読んでね。
「うまくない」って連呼しながら「『うまい』のは何かって話をしてないのおかしくない?」 というツッコミはたしかにと思ったので、「この増田が考える『うまい』って何?」というのを試しに例示してみようと思う。村上春樹に対する「別に文章うまくない」とはここで挙げるような視点からの話なので、別の視点からのうまさは当然あってよい。
小説家の文章が読みやすいのは当たり前だが、「文章が読みやすい」なら「文章が読みやすい」と書けばいいのであって、わざわざ「文章がうまい」なんて書くなら、そこでの文章」は「小説じゃなきゃ書けない文章」であるはずだ。
じゃあ、増田が考える「(小説の)文章がうまい」は何か。読んでる間にこちらのイメージをガッと喚起させてくるものが、短い文章のなかで多ければ多いほど、それは「文章がうまい」と認識する。小説のなかで読者に喚起させるイメージの情報量が多いってことだから。
具体例を挙げてみる。
長い歳月がすぎて銃殺隊の前に立つはめになったとき、おそらくアウレリャーノ・ブエンディーア大佐は、父親に連れられて初めて氷を見にいった、遠い昔のあの午後を思い出したにちがいない。
そのころのマコンドは、先史時代の怪獣の卵のようにすべすべした、白く大きな石がごろごろしている瀬を澄んだ水がいきおいよく落ちていく川のほとりに、竹と泥づくりの家が二十軒ほど建っているだけの小さな村だった。
ガルシア=マルケス『百年の孤独』の冒頭。大佐が子どもの頃を回想して大昔のマコンドに話が飛ぶ際、「先史時代の」という単語を選んでいることで文章上での時間的跳躍が(実際はせいぜいが数十年程度のはずなのに)先史時代にまで遡るように一瞬錯覚する。
津原泰水『バレエ・メカニック』1章ラスト。昏睡状態のままで何年も眠り続ける娘の夢が現実に溢れだして混乱に陥った東京で、父親が世界を元に戻すために夢の中の浜辺で娘と最期の会話をするシーン。
「お父さんは?」
「ここにいる」君はおどける。
「さあ……仕事で遠くまで出掛けているか、それとも天国かな。お母さんがいない子供は いないのと同じく、お父さんのいない子供もいない。世界のどこか、それとも天国、どちらかに必ずいるよ」
彼女は君の答に満ち足りて、子供らしい笑みを泛べる。立ち上がろうとする彼女を、君は咄嗟に抱きとめる。すると君の腕のなかで、まぼろしの浜の流木の上で、奇蹟が織り成したネットワークのなかで、彼女はたちまち健やかに育って十六の美しい娘になる。「ああ面白かった」
理沙は消え、浜も海も消える。君は景色を確かめ、自分が腰掛けていたのが青山通りと 表参道が形成する交差の、一角に積まれた煉瓦であったことを知る。街は閑寂としている。 鴉が一羽、下り坂の歩道を跳ねている。間もなくそれも飛び去ってしまう。君は夢の終焉を悟る。電話が鳴りはじめる。
作中の主観時間にしてわずか数秒であろう情景、ありえたかもしれない姿とその幸せな笑顔から夢のなかで消えて一瞬で現実に引き戻すこの落差、そこから生まれる余韻の美しさですよ。
あるいは(佐藤亜紀『小説のストラテジー』からの受け売りで)ナボコフ「フィアルタの春」という小説のラスト。
フィアルタの上の白い空はいつの間にか日の光に満たされてゆき、いまや空一面にくまなく陽光が行き渡っていたのだ。そしてこの白い輝きはますます、ますます広がっていき、すべてはその中に溶け、すべては消えていき、気がつくとぼくはもうミラノの駅に立って手には新聞を持ち、その新聞を読んで、プラタナスの木陰に見かけたあの黄色い自動車がフィアルタ郊外で巡回サーカス団のトラックに全速力で突っ込んだことを知ったのだが、そんな交通事故に遭ってもフェルディナンドとその友だちのセギュール、あの不死身の古狸ども、運命の火トカゲども、幸福の龍どもは鱗が局部的に一時損傷しただけで済み、他方、ニーナはだいぶ前から彼らの真似を献身的にしてきたというのに、結局は普通の死すべき人間でしかなかった。
ふわーっと情景描写がホワイトアウトしていって、最後にふっと現実に引き戻される。この情景イメージの跳躍というか、記述の中でいつの間にか時間や空間がふっと別の場所に移動してしまうことができるというのがナボコフの特徴のひとつである。
散文として時間や空間が一気に跳躍して物語世界を一気に拡張してしまう、この広がりを「わずかな文章」だけで実現していたとき増田は「文章がうまい」と認識する。自分が村上春樹の文章を「うまくない」って書く時、そのような意味での「小説としての文章」を判断軸にしてた。
村上春樹は下手ではない。村上春樹に下手って言える人いるならよっぽどの書き手だし、その意味で村上春樹に関しちゃ言うことはないでしょう。しかしごく個人的な私見を言えば、「文章」って観点だと、文章から喚起されるイメージに「こちらの想像を超えてくる」ものがめちゃくちゃあるわけではないと思う。
日本語の文法に則りシンプルで誤解の生まれにくい文章を書くことは高校国語レベルの知識で可能で、その点村上春樹は文章のプロとしてできて当たり前のことをやっているに過ぎない。平易な文章を徹底しつつその内実との間に謎や寓話やモチーフを織り込んで物語を構築するところがすごいのであり、そこで特段褒められるべきは構成力や比喩表現の多様さだろう。その際に使うべきは「構成力がうまい」でも「比喩表現がうまい」であって、「文章」などという曖昧模糊とした単語で「うまい」と表現することはない。小説=散文芸術において「文章がうまい」と表現しうるとき、もっと文章としてできることは多いはずなので。そして、このことは、村上春樹がしばしば(「小説」ではなく)「エッセイは面白い」と言及されることと無関係ではない。
ちなみに、増田は津原泰水やナボコフの文章技巧には翻訳を村上春樹じゃおよぶべくもないと思ってるけど、面白いと思うのは圧倒的に村上春樹ですよ。技巧と好き嫌いは別の話なので。
ここで書こうとした「うまさ」は佐藤亜紀がいうところの「記述の運動」を増田なりに表現したもので、元ネタは佐藤亜紀『小説のストラテジー』です。
留学先で女性を妊娠させて見捨ててしまう話なので、近頃は評判が非常によろしくない。そのくせ、この文体のせいで美しいと感じてしまう自分がいて、実はこれ、レトリックや文体によって騙されることに注意しろっていう警告なんじゃないかって気もする。「自分のおすすめ編」にも書くつもりなんだけど、ナボコフ「ロリータ」もそういう自己正当化がとにかくうまい。
余談だが、鴎外自身は東洋人だったこともあり、留学先では写真を撮らせてくれと頼まれたことがあったという。それに対して、構わないけどもあなたの写真も逆に撮らせてくれ、と言って、相手も満足させつつ日本人としての尊厳も守ったことがあって、これは割と好きなエピソードの一つ。まあ、漱石よりは世渡りがうまいよな。
古風な文体で挫折しかかるも何とか読破。これよりは幼馴染系の「たけくらべ」のほうが好きだったなあ。増田では古文がいるかどうかで議論になったことがあったらしいが、古文がすらすら読めるほうがこういう趣味というか楽しみが増える気もするし、純粋に実用面だけでいえば法律用語や古い公文書を読む必要がまだあるんじゃないのかな。
「舞姫」の話の続きだけど、古典文学にもやっぱりクズエピソードは結構あり、じゃあどれを教えてどれを教えないかは割と難しい。
僧侶が山間で美しい妖怪と出会う話。文庫のちくま日本文学全集で読んだ。全集と銘打っているけど、このシリーズは日本の近現代文学作家のベスト盤みたいな感じで、チョイスはいいのだけれどときどき抄、つまりダイジェスト版みたいなのが紛れていて、コンプリートしようとは思わなかった。
話としては幻想的ですごく好き。幻想譚が好きな自分がどうして泉鏡花にどっぷりはまるまでいかなかったのかが不思議なほどだ。当時は、著名な作品をどんどん消化しようと思って乱読していたからかもしれない。そういう意味でも、課題図書を読破することが自己目的化した読書には幾分害がある。
とても好き。小説が読めなくなったときには、文豪の書いたこうした随筆というか、風景描写の豊かな文章を読むことで、自分のリズムを整えたくなる。外出の難しい昨今、こうして空想の世界でだけでも豊かな自然のなかで過ごしたいものだ。五感が刺激される文章というのはなかなかない。
我輩を吾輩に修正。
ここ最近は漱石の評判はあまりよろしくないと聞く。所詮は当時の欧米の文学の輸入に過ぎないとか、結局は男社会の文学だとか。言われてみれば確かにその通りなのだけれども、日本の近代文学の開拓者にそこまで求めちゃうのも酷でしょうと思わないでもないし、この作品からたったの十年で「明暗」にまでたどり着いたのだから、やっぱりすごい人ではないかと思う。五十になる前に亡くなったのが惜しまれる。
で、肝心の内容だが。基本的におっさんがおっさんの家をたまり場にしてわいわいやる日常ものなので、当時の人にしか面白くないギャグを除けば、普通に笑える。最終回は突然後ろ向きになるが、もしかしたら漱石の本分はユーモアにあるのかもしれない。
余談だが漱石の留学時代の日記に付き合いのお茶会について「行カネバナラヌ。厭ダナー」とのコメントを残している。
素直に面白かった。若干のプロパガンダっぽさがなくはないが、読んだ当時は差別する側のねちっこさや意地の悪さが良く書けているように思われた。とはいえ、昨今は善意から来る差別についても考える時代であり、問題はより複雑になった。
被差別部落問題については気になっているのだがなかなか追えていない。日本史について読んでさまざまな地域の実例について断片的にかじった程度だ。それでも、地域によって温度差やあったり、差別対象が全く異なっていたりすることがわかり、どこかで日本全体の実情について知りたく思っている。
女中の布団の残り香を嗅いで悶々とする話だってことは覚えているんだけれども、読んだときにはあまり印象に残らなかった。なぜだろう。自分が読んできた近代文学は、基本的にダメな奴がダメなままうだうだする話ばかりだったからかもしれない。その多くの一つとして処理してしまったか。
で、自分が好きなのは飢え死にするほど悲惨じゃないくらいのダメさであり、親戚のちょっと困ったおじさんくらいのダメさなんだろうと思う。
読んだことがない。ただ、ドナルド・キーンの「百代の過客〈続〉 日記に見る日本人」によればこんなことを書き残しているそうだ。「僕ハ是レカラ日記ハ僕ノ身ニ大事件ガ起ツタ時ノミ記ケルコトニ仕様ト思ツタガ、矢張夫レハ駄目な様デアル。日記ヲ記ケ慣レタ身ニハ日記ヲ一日惰ルコトハ一日ヲ全生涯カラ控除シタ様子ナ気ガスル。夫レ故是レカラ再ビ毎日ノ日記ヲ始メ様ト思フ」(意訳。日記書かないとその日が無かったみたいで落ち着かない)。ここでツイッターに常駐している自分としては大いに共感したのである。そのうち読もう。
読んだはずだが記憶にない。「暗夜行路」で娼婦の胸をもみながら「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶよくわからないシーンがあったが、そこばかり記憶に残っている。これを読んだ当時は、この小説のように自分がどれほど理想を抱いていたとしても、モテないからいつかソープランドに行くのだろうな、とぼんやり思ったことを覚えている。
ちなみに、自分が初めて関係を持った女性は貧乳だった。だがそれがいい。
お父さんとうまくいっていない人は子供の才能をつぶす話である「清兵衛と瓢箪」が刺さるんじゃないかな。あとは少女誘拐犯視点の「児を盗む話」もよかった。
大学時代知り合った文学少女から薦められて読んだはずなのだが、覚えているのは「阿房列車」の何編かだけだ。それと、いつも金に困っていて給料を前借りしていて、そのことのまつわるドタバタを描いた作品や日記もあって、そうした印象ばかり残っている。
関係ないけど就職活動中に、この文学少女から二次関数を教えてくれと言われ、片想いしていた自分はそのためだけに都内にまで足を延ばしたことがある。いいように使われていたなあ、自分。あいつには二度と会いたくないが、元気にしているかどうかだけは気になる。
めんどくさいファンがいることで有名な作家。全集には第三稿や第四原稿が収録されており、比較するのも楽しい。俺は〇〇は好きだが〇〇が好きだと言ってるやつは嫌いだ、の○○に入れたくなる作家の一人。○○には「ライ麦畑で捕まえて」「村上春樹」「新世紀エヴァンゲリオン」「東京事変」などが入る(註:この四つのものとその愛好家に対する歪んだ愛情から来る発言です。僕も全部好きです。すみません)。サブカル系にはこれがモチーフになっているものが数多くあり、その点では「不思議の国のアリス」と並ぶ。
思想に偏りはあるが、独特の言語感覚や観察眼は今でもすごく好きだ。余談だが新書の「童貞としての宮沢賢治」は面白い。
知り合いにいつもぬいぐるみのキーホルダーを持ち歩いてかわいがっていた男がいたが、それで本人が落ち着くのならいいと思う。不安の多い世の中で、人が何か具体的に触れるものにすがるってどういうことなんだろう、って、ってことをこの作品を思い出すといつも考える。どこで読んだか思い出せなかったが、これもちくま文庫の全集でだった。
狭いコミュニティの中でこじれていく人間関係の話ではあるけれども、新潮文庫の場合は表題作よりも他の話のほうが気に入った。印象に残っているのは十二人の旅芸人が夜逃げする「時間」と、ナポレオンがヨーロッパの征服に乗り出したのはタムシのせいだったという「ナポレオンと田虫」。
実はこの作品は読めていない。谷崎作品は割と好きで、「痴人の愛」「刺青・秘密」「猫と庄造と二人のおんな」「細雪」は読んだ。「痴人の愛」という美少女を育てようと思ったら逆に飼育される話は自分の人生観に多大な影響を与えたし(例の文学少女に気持ちをもてあそばれても怒らなくなってしまったのもこれが遠因だろう)、「細雪」はただ文章のリズムにぷかぷかと浮くだけで心底気持ちがいい。ついでに、戦時中の生活が爆弾が実際に降ってくるまでは震災やコロナでただよう自粛の雰囲気とそっくりだったこととよくわかる。
ところで、最近久しぶりに谷崎作品を読もうと思ったら、ヒロインの名前が母と同じだったのですっかり萎えてしまった。というか、ここ最近趣味が「健全」になり始めていて、谷崎作品に魅力を感じられなくなっている。感覚がどんどん保守的になっていく。これはいかん。
高校生の頃に読んだのは確かに記憶に残っているのだけれど、高校生に川端康成のエロティシズムが理解できたかどうかはよくわからない。たぶんわかっていない。せいぜい伊豆の踊子の裸の少女を読んで、ロリコンを発症させたことくらいだろう。
太宰はいいぞ。自分は愛される値打ちがあるんだろうか、というテーマを本人の育った境遇やパーソナリティの偏りや性的虐待の疑惑に求める説は多いが、そういう心理は普遍的なものでもあり、だから多感な時期に読むとわかったつもりになる。芸術に何歳までに読むべきという賞味期限は原則としてないが、これもできるだけ若いうちに読んでおくといい。太宰の理解者ぶるつもりはないが。
もっとも、本ばかり読んで他の活動をないがしろにしていいものだとは全く思わない。あまりにもドマイナーな本を読んでマウンティングするくらいならバンジージャンプでもやったほうが話の種にもなるし人間的な厚みも出るというものだ。たぶん。
天才的。男性のあらゆる種類のコンプレックスとその拗らせ方を書かせたら彼の右に出るものは少なかろう。ただ、大学を卒業してから突然読めなくなってしまった作家でもある。息苦しくなるまで端正に磨きこまれた文章のせいかもしれない。
極限状況下でのカニバリズムをテーマにした小説なんだけれども、途中から戯曲になって、「食べちまう葬式ってえのは、あっかなあ」などとやけにのんびりした台詞が出てくるなんともユニークな小説。ただし、これは単なるブラックジョークではない。物語は序章、戯曲の第一部、第二部と別れているのだけれども、その構成にきちんとした意味がある。
人類全体の原罪を問うようなラストは必見。あなたは、本当に人を食べたことがないと言えますか?
祖父母の家から貰ってきた作品で、愛蔵版らしくカバーに入っていた。カフカにはまっていた時期だから楽しんだ。カフカの父親の影から逃れられない主人公とは別の種類の渦巻にとらわれてしまった主人公がだらだら、ぐだぐだしてしまうのだが、カフカが男性によって抑圧されているとしたら、こちらは女性に飲み込まれている文章だ。
未読。不条理な陸軍の中で、最強の記憶力を頼りにサバイブする話だと聞いて面白そうだと思い購入したのだが、ずっと積んだままだ。これに限らず、自分は戦争ものの小説・漫画をあまり読んでない。戦争に関しては文学よりも歴史書からアプローチすることが多い。
これは自分の悪癖だが、戦争ものになると庶民よりも知識人にばかり感情移入してしまう。
大江健三郎は初期の作品をいくつかと、「燃え上がる緑の木」三部作を読んだきりで、どういう態度を取ればいいのかよくわかっていない作家の一人だ。狭い人間関係の中のいじめだとかそうした描写に病的に関心のあった時期に読んだせいで適切な評価ができていない。
「燃え上がる緑の木」は新興宗教や原子力発電といった(結果的には)非常に予言的であった作品であったが、癖が強くカトリックの宗教教育を受けた自分であっても世界観に入り込むのに時間がかかった。「1Q84」よりもきつい。面白いが。
大学時代の友人に薦められて読んだ。「この家の主人は病気です」と、飢えて自分を食ってしまったタコの詩ばかりを覚えている。覚えているのはこれだけだが、この二つが読めたからいいか、と考えている。大体、詩集ってのはピンとくる表現がひとつでもあれば当たりなのだ。そして、それはあらゆる書物にも当てはまることである。
祖父が学生時代に送ってくれたのだけれども、ぱらぱらとしか読んでいない。
子供向けのものだった気もするし、近々原文にチャレンジするべきか。自助論(西国立志編)なんかと合わせて、自己啓発書の歴史を知る意味でも興味深いかもしれない。
読もうと思って読めていないけれども、これまたドナルド・キーンの本で面白い記述を見つけた。「墨汁一滴」の中に、つまらない俳句を乱造しているやつの作品にはどうせ碌なもんなんてありゃしないんだから、そういう連中は糸瓜でも作ってるほうがマシだ、という趣旨のくだりがあるそうだ。創作する上でのこういう厳しさは、いい。
「ローマ字日記」しか読んだことがない。たぶん日本で最初にフィストファックが描写された文学かもしれない。春画はどうか知らないけど。
堕落と言いつつもある種の誠実さについて語った本だった気がするが、それよりも新潮文庫で同時に収録されていた、天智天皇と天武天皇の家系にまつわる謎についてのほうが印象に残っている。
今日の帰り道、長い塀とその中にある高い木々に囲まれた屋敷を見かけました。随分昔からあるような雰囲気でした。大きな門のところにはぴかぴかの監視カメラがあって、そこだけちぐはぐな感じがしました。
私は散歩が好きで、気がつくと三時間くらい歩いていたりします。この街はくまなく歩き回ったと思っていたのですが、まだ知らない場所があったみたいです。こういうことがあると、物語の中に入ったようで少し楽しい気分になります。ここはそんなに大きな街ではないので、もう何ヶ月かしたらきっと、本当に行ったことがない場所などなくなってしまうでしょう。そう思うと少し残念でした。その時が訪れたら、人に迷惑にならない程度に少しばかり酒に酔って散歩するのも良いなと思いました。そうして、意識がはっきりしていない状態で歩き回ると、「猫町」に出てくるような遊びができるかもしれないと考えました。
小説といえば、昔に村上春樹の小説を夢中になって読んでいたことがありました。近頃はあまり読まなくなってしまったのだけど、日常から非日常へとシームレスに暗転していく感じが好きで、今でも地下鉄に乗っている時や、古いホテルの長い廊下を歩いている時などに小説の情景を思い出します。
どうして村上春樹のことが頭に浮かんだかというと、今横を歩いているこの立派な屋敷は「1Q84」に出てくる篤志家の老婦人が住む家の描写に似ていたからだと思います。塀の中にはほうれん草が好きなドーベルマンや、隙なく鍛え上げられた肉体を持つガードマン・タマル氏がいそうでした。思わず空を見上げましたが、月は一つしかありませんでした。
小説の内容は断片的にしか思い出せませんでした。ただ、タマル氏が語った木彫りのネズミを作る少年の話ははっきりと記憶しています。その少年はタマル氏が育った児童養護施設にいて、ネズミを彫ることの他に何もしませんでした。少年がネズミを彫る情景は、何故かわからないが心に残っていて、それは自分にとって大切なもののように思える、というようなことをタマル氏は言っていました。それが彼の心象風景なのだと。
1Q84を初めて読んだときのことはよく覚えています。お金がなかったので本は買えず、図書館はずっと予約待ちでいつ読めるかわからず、でもどうしても読みたかったので、きっと責められるのでしょうが、隣町の図書館に行った帰りに本屋で立ち読みをして少しずつ読み進めたものでした。
その当時の私は、失意のどん底にいました。大学受験に2回も失敗したのです。高校を卒業して就職し、少し経って色々なことが見えてきて、大学に行きたくなって、仕事をしながら受験勉強をしました。そして失敗しました。頑張って溜めたお金もどんどんなくなって、やっぱり自分は馬鹿なんだ、甘かった、叶わない夢を見ていたのだと思い知らされて、本当に惨めでした。それでも諦められなくて、図書館の自習室に通って勉強を続けていました。
そんな折にウッカリ病気になり、入院して手術を受けなくてはならなくなりました。高額医療なんとかという制度でかなりの額が戻ってきたのですが、それでもやはりお金は減るし、大部屋だったので周りの病人になんやかんや干渉されるし、古い病院なので暑くて臭いし、とにかく最悪でした。
その日も最悪な気分でした。手術で受けた傷が痛みました。術後から数日間しか経っておらず、しばらくは風呂に入れないでいたので、自分が臭いのがわかって辛かったものです。
気分転換でもと思って院内を散歩しているうちに、見知らぬ病棟に入り込んでしまったようでした。エレベーターで一番上まで上がると、屋上に続くドアを見つけました。
屋上には誰もいませんでした。洗濯されたシーツがはためく耳障りな音と、やかましい蝉の声だけが聴こえました。季節は夏で、真っ青な空と真っ白な雲のコントラストが憎たらしいと思いました。しかしながら病院の屋上というのはなかなか絵になるもので、まるで自分が小説の中に入り込んだような心持ちがして少し気が晴れました。ですが、そんな雰囲気で柵に凭れたら、熱された金属が肌を焼いて飛び上がり、格好が付きませんでした。ため息をついてふと見下ろすと、ある病棟の窓から内部が見えて、目をこらすと病室から廊下に棺が運び出されているのが目に飛び込んできました。
私はますます憂鬱になりました。それで、とぼとぼと病室に戻ると、点滴を引きずりながら歩いたせいで血が逆流してしまったらしく、看護師さんに怒られました。
落ち込みながら、歩き回って汗をかいたので着替えて、脱いだTシャツを流しで洗濯していると、明らかに大掛かりな手術をしたと思われる包帯ぐるぐる巻きの人がやって来ました。その人は壺のようなものを重たそうに持ってよろよろと歩いていて、とても怪しい人物のように見えました。それを流し台に置いて居なくなったかと思うと、しばらくして綺麗な花束を持って戻ってきました。壺ではなく花瓶だったのかと私は思いました。
その人にとって、かがみこんで花を花瓶に入れることも、蛇口をひねることも、そしてその後に運ぶことも難しい状態に思えました。普段は、困っている人に親切な行為をするのに随分勇気が要るのですが、その時は反射的に声をかけることができました。
病室のテーブルに花瓶を置くと、その人は小さな板(何回でも書いて消すことができる子供用のお絵かきボードがありますが、それに似ているものです)のようなものを取り出し「ありがとう、とても助かりました」と書きました。そして、手術をしてもう喋ることができないのだと続けました。私はその時初めて、その人が今まで一言も発していなかったことに気が付きました。
私は何故かその瞬間、自分を恥じました。しかし、そう思ったこと自体もその人に失礼で、恥ずかしく思いました。
視線を落とすと美しい紫色の花が目に飛び込んできて、見たことがない花でした。とても綺麗な花ですねと私は言いました。
その人は花の名前を教えてくれました。名前は聞いたことがありましたが、こういう見た目の花ということは知りませんでした。
そう言うと、好きな花なんです。母が持ってきてくれた。と答えました。
それからもう10年が経ちました。あの夏を過ごした翌年に、私は何とか滑り止めの大学に合格しました。その後、機会にめぐまれて、大学院にまで進学することもできました。いわゆるロンダリングです。恥を忍んで正直に言うと、大学に入るまで大学院を存在することを知らなかったので、それを初めて知った時はなんだか謎めいた機関のように思えました。周りに院を出ている人などいなかったし、そもそも大学を出ている人も多くはありませんでした。今では、本の奥付に書かれた著者のプロフィールにX大学大学院X課程修了などと書いているのが目に入るようになりました。昔から色々な本をたくさん読んでいたはずなのに、きっと見えていなかったのでしょう。
20代前半で初めて東京に出てきて、育った環境の違いに打ちのめされたものでした。中高一貫の学校出身の人々に囲まれて、私が初めからこういう場所で育ったならどうなっていたかなと考えましたし、今でも考えます。奨学金の残りの返済額に憂鬱になることもしょっちゅうで、そういう心配がない人はいいなと思います。進学してから変な経歴を笑われたこともありましたし、ロンダだと陰口を言われたこともあって、そうした時は悲しくなりました。
でも、いつからか、自分で自分の人生をある程度コントロールできているのだという充足感があって、これは昔にはなかったものでした。ただ、これは、大学受験を乗り越えて「分断」を渡った(かもしれない)ことだけが原因ではないように思えます。
何かがあって落ち込んだり、何かなくてもふと悲しくなったとき、あるいはただ呆けているだけのときに、あの夏の病院で出会った包帯の人との出来事が、鮮やかな紫色の美しい花のイメージとともに浮かび上がることがあります。普段は忘れていて、そのとき見たものや匂いや状況などがトリガーになって出てくるのでしょう。この情景はとても印象的ではあるのですが、別に感動的ではないし、大きく感情を動かされることもなく、さして貴重な体験だったという訳でもないように思えます。
ただ、思い出したときに何となく心が凪いで、これは私だけが持っているものだと言う気持ちになります。多分ですが、自分にとって大事なものであるような気がするのです。そう思うと、タマル氏が言っていたことが理解できるような気がしました。
「俺が言いたいことのひとつは、今でもよくそいつのことを思い出すってことだよ」とタマルは言った。「もう一度会いたいとかそういうんじゃない。べつに会いたくなんかないさ。今さら会っても話すことなんてないしな。ただね、そいつが脇目わきめもふらずネズミを木の塊の中から『取り出している』光景は、俺の頭の中にまだとても鮮やかに残っていて、それは俺にとっての大事な風景のひとつになっている。それは俺に何かを教えてくれる。あるいは何かを教えようとしてくれる。人が生きていくためにはそういうものが必要なんだ。言葉ではうまく説明はつかないが意味を持つ風景。俺たちはその何かにうまく説明をつけるために生きているという節がある。俺はそう考える」
創作者は多大な労力を払って創作しているし尊敬していますので、ここに書かれてることは真に受けないでください。
なろうの中でも相当長いこと連載している話。確か書籍にもなってるはず。
話が面白くなりそうで絶妙に面白くならない吸引力の高い危険なクソ小説。
主人公がサイコパスで虫を殺すような感覚で人を殺すクズ野郎。どうやら作者はこのドぐされサイコパスをカッコよくイカした好青年だと思ってるらしくて、物語の登場人物や話の流れはその体で進むので、まぁ読んでいてずっと気分が悪い。
いつしか主人公がしょんべんちびらせながら命乞いするシーンが出てくることを心から強く願っている自分に気が付きます。
最悪なことにこの小説にそんなシーンはありませんし、ずっとカッコいいていで、胸糞サイコパス君が周りの人々に褒めそやされてるのを見せつけられつづけるので、発狂しそうになります。
性格も最悪で気に入らないやつを適当に殺す。だけどなんかマスコット的な生き物から慕われている。そのマスコットも息をするように人を殺す。
殺すところにとくにカタルシスとかはないく良心の呵責とか、悪人を殺した爽快感とかも描写せず「シナリオ上」必要だから殺しているっていう感じで、キャラの情緒とかとちぐはぐにストーリは進んでいき、読んでて嫌悪感が凄いです。
そんな小説を、いつか面白くなるのかもしれないと毎日コツコツ何ヶ月も読んだのが本当に最悪だった。
つまんねーと思った小説はだいたい面白くなることなんてないんだよ!という人生の大事なことを教えてもらえた一冊です。
レジェンドで長編クソ小説のヤバさを知っていたので割と早い段階で切ることが出来たのが唯一の救い。それでも1-2ヶ月くらいは読み込んでしまったのでダメージはある。
ちょっとクソ小説って言ってしまうのは酷かもしれないけど、まぁ面白くなりそうで全然おもしろくはならなかったので、俺の中ではクソ小説分類です。
主人公の性格はそこまで悪くないし理解できないようなサイコパスではないが、ストーリーの主軸とかがなく、だらだら世界設定を描写しつつ物語の起伏も発生せず、だらだら主人公が、物語世界のVRゲームを淡々とやり続けるだけっていう内容です。
最初の頃はいろいろ主人公とかほかのキャラとのやり取りとかもあって読んでられるんだけど、最終的には主人公が淡々とダンジョン探索している描写を描写するだけとかになってて苦痛。
物語はとにかく内容がなくスカスカで作中ゲームの内容がそのまま描写されているだけ、主人公がモンスターを狩ってレベルアップして召喚獣読んで、新しいダンジョンを開拓していくとかいう内容。ようするにゲームしてるのを見ているだけ。
そのゲームの内容もなにかパンチがあったりエッジがあったりして魅せてくれるところがあればまだマシだったんだろうけど、なんの特徴もないThe MMORPG を思い浮かべてもらったら、それを2ランク下げて凡作にしてください。それがこのゲームです。
とちゅうとちゅうに2chを模した掲示板の書き込み的な表現で、キャラ同士の匿名の交流とかが出てくるけど、誰が誰とかわからんし、ぶっちゃけリアルでも2chのやり取りとか見るのかったるいのに、小説で表現されてももっともっとかったるい。
主人公キャラは割と好印象あるし、格闘経験者がVRで実績を出すところとかワクワク出来たし、途中までは面白くなりそうな気配はあったんだけどなぁ〜。
レジェンド読むまでは俺の中でダントツ過去最高のクソ小説。これが国民的小説らしいのですが、国民は頭おかしいのか!?って感想です。
とにかく幻想的で綺麗な文章を使って、村上さんの脳内に想起された文字列を垂れ流し、小説っぽく印刷された物質。
どこから面白くなるのかなーと我慢して読んでも、ハゲ散らかした伏線は全然回収されないまま適当に終わる。
この小説も主人公がよくわからん。なんの目的もないのになんか女とセックスとかやってる描写とか適当にいれてるだけで、面白くない。
面白くないのにこまっしゃくれた、気取ってるいけ好かないブランドの名称とかをてきとーに、かき並べて、おしゃれっぽくしてるから癪に障ってイライラしてくる。
内容が薄いのにやたら長いのもレジェンドを彷彿とさせます。主人公が無味無臭なのでレジェンドよりは読んでて苦痛は少ないです。文章きれいだし。
あとから知ったことだが村上春樹さんは純文学の人らしく、この本は小説ではなく純文学だったらしい。
小説の体をして売るのはやめてくれ。
海外で超絶の人気を誇るドラマ。外人はろくなコンテンツないのかよ。っていう感じ。
似たような顔の外人が大量のファンタジーの専門用語(国名、家の名前)を撒き散らしながら、いきあたりばったりに適当に話が展開するドラマ。
1シーズン最後まで見たけど、最後まで面白くなることはなかった。適当にドラゴンが出てきて終了。画面の前で「は?」っとなったのは言うまでもない。
このドラゴンを付加させた女はとある部族に嫁いだやつなんだけど、シーズンまるまる使ってなんかずっと移動しながら嫁いでセックスして子供流産してドラゴン生まれてまで、ずっとサイドストーリーとして流されてるんだけど。
話の展開とかは視聴者置いてけぼりで、見ててもだから何?っていう感じです。このサイドストーリーが主人公格の家の話に交わることなく進んでいくんです。
シーズンまるごと使って一切交わらないってなにそれ。なめてんの?
あとから面白くなるとかいってるあほたれいるけどよ、1シーズンつったら他のドラマはそれで話が始まりキャラの熱い思いとかやり取りとかをへて、カタルシスをうまく視聴者から引き出して完結するわけですよ。
なんだこのクソドラマは!視聴者舐めるのもたいがいにしろよな。
適当にセックスシーン入れたりグロ描写入れたりは良いよ。それが面白ければな。面白くないんだよ。尺埋めるために適当に出してるだけだろう!
専門用語大量に並べられても覚えてられないし、並行して複数の話が進むんだけど、似たような顔の外人が似たような怒り方してトラブル起こして、やってることもだいたい家どうしのプライドだの家柄だの、地位がどうのこういって全然興味もわかないし共感もできない。
悪人の心情もわからなければ、主人公格の家の奴らの心持ちとかもピンとこないしで、終始何見せつけられてるんだろうっていう感情が凄いよ。
いきなり王子様っぽいやつがファビョって周りのやつ殺したりとかしててて、全体的にキャラの情緒が不安定で、理不尽な展開がおおすぎる。
あとからあれはこういう背景があったからとか、私が話の筋をうまく読めてません、とかあるかもしれんけど、それをわからせるのが製作者の仕事だろ。日本のクソドラマだって一話見のがしたくらいでも話の大まかな流れは終えるんだよ。なんで最初からずっと見てるのに意味わかんねーんだよ。アホか。
以上です。
なろう作品はもっとクソ作品はあったけど、まぁ大体は読み始めたらすぐ「クソ小説」ってわかるので回避しやすかったりするんでね、多くはかきません。
レジェンドとサモナーさんは長い作品なので傷が深くなる前に、撤退できる人が現れるかもしれないとの願いを込めてここに記します。
デス・ストランディングを文句言いながらやってるゲーム実況見てたら思い出してしまった。
幸いクソゲーを掴んだことはあんまりないので、それは良いかなって感じがする。
アニメ評論がくだらないのはそもそも作品が幼稚だから。浅い哲学談義として表面的にごにょごにょすることはできても、社会において価値を認められるような生産的な行為にはならないんだよな。そもそも世間は哲学不要論なわけでね。安いエンタメってのは社会性・政治性を帯びるものだけど、アニメはそのレベルにすら到達していない。少年少女の心理の描写がメインになってしまってる。詩としての深みもなく、安易なテンプレートを組み合わせているだけのまがい物の心理。そんなものを大卒の大人たちが大真面目に語ろうとする。文芸誌読んだら君の名はのくだらない考察してる東大教授がいて呆れてしまった。こういうの書けば受けるだろとか思ってるんだろうな。ラカンを出しとけばみんな黙ると思ってる。その感覚もう古いんじゃないの。よく実名でこんなもん書けるな。
そういえば村上春樹の1Q84が流行った時もくだらない精神分析的考察書いてるセンセイがいたなあ。いまどきこんなもん書いてて恥ずかしいと思わないその感覚が理解できない。
村上春樹の小説が楽しめないんだよね。みんなどうやって本を読んでいるんだろう。
有名な1Q84いや、情景描写というか、一つ一つはいいけど、20ページぐらいでなんか、ふーん、って感じで止めた。
タクシーで高速に乗っておりて道路公団の話とか出てきたのは、憶えているけれど。
短期記憶が、弱いらしくて、どうも個別のことを、整理して記憶するのが苦手で、主筋が見えないとなかなか、分からない。
辛うじて、最近読んだ長編小説だと、宮城谷さんの晏子ぐらいかなー。それも
人物相関図・家系図みたいなのを、チラシの裏に書いて、なんとなく、読んだ。
司馬遼太郎のも、割と話というか、説教臭い話があるからかなー。
(登場人物が、個性的だったり名前や筋を、どこかで聞いていて予備知識があるからよみやすいのかな。だいたい人間関係・処世術をテーマにしているし。)
ビジネス書とかは、読めるんだけど。
漫画の単行本とかでも、もくじの前に、あらすじや登場人物の顔が描かれていて、ざっくりと、おさらいが出来るけど。
そんなに漫画では苦労しないけど。
小説は、苦手になってる。。
ーー
ウィキで、あらすじを読んで、うわ。全然、イメージしていた話と違うなーと。ちょっと、びっくりした。。
匿名ダイアリー界隈だと、誰も村上春樹の新作、読んでないですか。私は発売日に買って、翌日未明には駆け足で読み終わりました。
書評も、少しずつ出ているけど(当方、朝日新聞の読者)、なんだか奥歯にはさまったような、村上ビギナーにはオススメ! みたいなことになっている。
1Q84を読んだときには、これはすごい、今までのテーマがきれいにまとまっている、集大成だ、ノーベル賞狙いにきた、と思ったのだけれど、
今回の作品は、何が新しいところがあったのだろうか。つまらない言い方だけれど、進歩がない。定番のモチーフが出て、そのまま終わった印象なのだけれど、
私の読み方が足りないのだろうか。
東日本大震災があったから、当然、作品になんらかの反映があると思ったわけです。ところが、主人公は東北にいったことがあったよ、みたいな、
非常に限定的な言及に終わっている。オウムや、阪神大震災が村上さんの作品に与えたような何かが、『騎士団長殺し』にはないわけです。
阪神大震災も東日本大震災も、本質的には変わらないということなのだろうか。関東の人間の傲慢であったか、、、。
「そもそも」という話になるけれども、出自のよくわからない子供を受け入れて、それが希望の象徴といういつもの終わり方が、
実はそこが本当の地獄の始まりではないのか、という思いが、私個人は捨てきれない。人前ではとてもいえないが、
子供を持たなかった作家の限界ではないのか、という反応が、自分でも卑しいなぁと思うけれど、どうしても出てしまう。
今日の新聞には、作家の小野正嗣さんと、キャンベル先生の評が出ていた。キャンベル先生は、これは主人公が再生するという物語なのだと。
ハルキストだ。
目覚めたのは高校生の頃。
たまたま手にしただけなんだ。嘘じゃない。
ちょうど年頃だったので恋愛やらセックスやらの話が読みたかったんだ。
1q84は楽しかったし、多崎つくるは80点くらいで正直あの話題になったアマゾンレビューの方がクリエイティブだったかな。
彼女には俺がハルキ好きなこと伝えている。好きになった経緯も、好きなところも。
でもだめだ。
もうハルキをディスるのが体に染みついているみたいで、ご飯食べて仲良しムードになった帰り
「どこが楽しんだろうね」
とディスってきて、俺は「そうだね」と返した。
それ以外返せなかった。
「ハルキストの男たちはみなセックス下手って友達と言ってるw」
「ハルキストは厨二」
そういう言葉に俺は心えぐられてきた。
もう、たくさんだ。
どうやら俺はここまでだったようだ。
あとは任せた。
本当に好きだったんだよ、嘘じゃない。今でも目をつむればあのころのことを思い出せる。
でも思い出すのに時間がかかるようになっただけなんだ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/274073311/comment/aukusoe
しまじって同人作家のびっちんぽっていうビッチの男の娘の台詞らしい。
ホモかよ。
向日葵「そうですわね」(諦め)
http://b.hatena.ne.jp/entry/274067707/comment/aukusoe
で、このブコメはどうやら、元URLのツイッターの発言者が「さくら子」という名前で、
その「さくら子」(ゆるゆりでは櫻子)の彼女?的なキャラが「向日葵」という。
レズかよ。
榎本温子「そんな過去があるから、私でもプリキュアになれました」
http://b.hatena.ne.jp/entry/274065435/comment/aukusoe
元ネタが夢の中へという井上陽水の曲なんだけど、それをカバーした彼氏彼女の事情というアニメで
そして、その榎本温子はプリキュアスプラッシュスターでプリキュアを演じるまでにいろいろあった、ということが言いたいブコメのようだ。
プリキュアとか見てるのかよ。
女児かよ。
実はアルファ世界線がベータ世界線の17年後の未来で、オカリンを騙すためにみんな演技してる。
http://b.hatena.ne.jp/entry/274053222/comment/aukusoe
元URLがシュタインズゲートというアニメのネタバレの話題で、
さもそれにのっかってシュタインズゲートのネタバレをしている、と思わせて
全然関係ないEver17というギャルゲのネタバレをしている。
ギャルゲとかしてるのかよ。
オタクかよ。
僕がもし親になったら、子供に左右を逆転させて教育しますね。(有名ミステリのネタバレ)
http://b.hatena.ne.jp/entry/274053089/comment/aukusoe
親に異常な教育を受けているという元ネタから真っ先に思いつくのが、全く有名でもないドマイナーなミステリな辺りがキモい。
ミステリーとか読んでるのかよ。
あざなわかよ。
西住「ハッピーエンドを、返してもらいに来た!」芝村「え? 誰?」
http://b.hatena.ne.jp/entry/274003358/comment/aukusoe
元URLがガンパレードマーチとガールズアンドパンツァーを混合してることから、
なのだが、このガンパレの台詞はドラマCDかゲームの没シナリオでしか流れない台詞。
ドラマCDまでわざわざ聞いてるのかよ。
声優オタクかよ。
三条「僕は、人間で、脚本家で、漫画家だ!」稲田「それを言うなら、俺達は、だろ?」(仮面ライダーWの映画運命のガイアメモリの改変)
http://b.hatena.ne.jp/entry/273978879/comment/aukusoe
原作の三条が稲田が休養中に脚本を書いていた仮面ライダーWの台詞をパロるというネタで、
仮面ライダーWが二人で一人の仮面ライダーだから、二人で一人の漫画家の彼らにはしっくりくるというネタのようだ。
女児アニメに飽き足らず仮面ライダー、しかも映画まで見てるのかよ。
男児かよ。
シックスナインが好きなんです! シックスナインが好きなんです! クンニにフェラの例えもある、シックスナインだけが人生なんです!
http://b.hatena.ne.jp/entry/273988076/comment/aukusoe
書いてあることは何も理解できないが、どうやら
井伏鱒二の花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だとい漢詩の訳をパロっているらしい。
文学とか読んでるのかよ。
あざなわかよ。
望月智充版:みやむーに脚本を書かせるも、リツコがゼーレに全裸で何をされたかを克明に書かれて発禁処分を受ける。
http://b.hatena.ne.jp/entry/273879993/comment/aukusoe
いろいろ調べた結果、どうやら望月智充というアニメ監督は、声優さんに脚本を書かせたことが何度かあるらしい、
そして宮村優子はAV疑惑があるから、そういうシーンを克明に書くだろう、というネタのようだ。
アニメオタクかよ。
にわちゃんと七瀬さんのフタナリ同人誌を読みたいので、青山剛昌先生は早く同人誌マークをコナンにつけてください。(捻りすぎ)
http://b.hatena.ne.jp/entry/273772889/comment/aukusoe
どうやら、ブコメページが「トリコ」という言葉で大喜利状態になっている、
そこから派生して、トリコロという漫画がある(ブコメのにわちゃんと七瀬さんというのは、この漫画の登場人物)
完顔阿骨打は青山剛昌のコナンの灰原アイの同人誌を書いている。
ということから、青山剛昌が同人誌マーク(二次創作許可書みたいなもんらしい)をつけてくれれば、
こ、これが二分間憎悪か。
http://b.hatena.ne.jp/entry/273772819/comment/aukusoe
http://yuma-z.com/blog/2013/05/student_books/ という人のエントリを見て、自分も(学生じゃないけど、)読んで楽しかった本をまとめてみたくなった。
この長い本の紹介を読んで、読んでくれる人や、ほかにおもしろい本を紹介してくれる人が続いてくれたら自分はうれしい。まだ微修正中で、加筆・修正するかもです。
これから紹介する本の順序について、あまり意識していないけれど、なんとなく読んでいる人が多そうな順。下に行くにつれて、読んでいる人が少なくなっていくと(書いている自分は)予測してます。
このエントリで紹介するのは以下の本です。つづきは http://anond.hatelabo.jp/20130530045256 で。
宮部みゆきさんの小説。一人の女性が婚約後にいなくなってしまう。主人公はその女性の捜索を頼まれて、懸命に消息を追う。そして、調べていくうちに、現代資本主義社会の底しれぬ闇が見える――。
とても有名な作品で少し前にテレビドラマにもなったようだ。物語の始まりが冬の寒い時期のせいだろうか、自分は冬の時期に読みたくなる。三日間くらいで読了できるとおもしろさが持続すると思う。
読まれる方は、Wikipediaのあらすじにネタバレの要素があるので注意されたい。Amazonの書評にも、ややバレる要素があるかな。この小説についてはあまり詳細について語ると魅力が半減してしまう気がする。読まれる方はできる限り事前の情報収集を避けて読んでください。
1995年にそれまで350年にわたり証明されなかったフェルマー予想が証明された。そのフェルマー予想をテーマにしたノンフィクション。著者はサイモン・シンさん。翻訳は青木薫さん。
著者のサイモン・シンさんはこの後紹介する「ビッグバン宇宙論」においてもそうだが、説明がとても丁寧だ。わからないことを教えてもらおうとして、わかっている人に聞いたときに下手な比喩でたとえられて、全くわからないという経験をした人は自分以外にも大勢いるだろう。サイモン・シンさんの比喩はわからないという気にならない。なぜなのだろうか。
数学をテーマにした本なので、数学が嫌いな人は手に取ることもないかもしれない。しかし、そういう人もぜひ読んでみてほしい。というのも、この本は数学の「問題そのものを解く」ということが主題ではないから。むしろ数学の問題はどのように生まれるのか、それを解こうとして350年にわたり数学者たちがどのような試行錯誤を続けていったのか、そのもがき苦しんだ歴史の本だからだ。
海外の本はしばしば翻訳調とでもいうべきか、文が堅く読みにくい感じがすることもあるけれど、この本はとても翻訳が丁寧で読みやすい。青木薫さんのすばらしい仕事だ。
自分は単行本(ハードカバー)で読んだ。文庫版だと新しい翻訳者のあとがきなどがついているかもしれない。
ジョージ・オーウェルが書いた小説。ユートピア(物質的・精神的に豊かになる、健康で長生きできるといったような人間の社会が幸せで良い方向に向かう社会)小説の反対、ディストピアを描いた小説。
ここまで暗く描かれるとむしろ読む方の気分は明るくなるような、そんな気にすらさせてくれる小説。ただし、それは読後の感想であって、読んでいる最中は暗いままだけれど。
村上春樹さんの1Q84はもしかしたらこの小説に関連があるのかもしれない。今ググったら、どうやらそうらしい。自分は村上さんの方は読んでいないので何も言えません。(すみません)
この小説が書かれた時期も意味があるし、この小説の中で登場するニュースピークという言語体系の設定は、そもそも言葉とは何なのかを考えるきっかけにもなるだろう。
火車と同じくWikipediaはあまり見ないで読み始めた方がよいだろう。
大崎善生さんの小説。純粋な小説というよりも何割かはノンフィクションかな。
自分は将棋のことは駒の動き方くらいしか知らないのだが、羽生善治さんやほかにも何人かくらいは将棋指し(棋士)の名前を知っている。この棋士の方々は、奨励会という将棋のプロを養成する機関の中で勝ち上がってきた人たちだ。勝ち上がってきた人は晴れて棋士になるわけだが、では、「敗れ去った人たち」はどうしているのだろうか。その人たちをテーマに据えた小説だ。
この小説はけっこうずしりとくる。最初に挙げた宮部みゆきさんの「火車」は小説の範疇ということもあるせいか、なんとなく怖さを感じることはあるが、現実的な切実さ、哀しさまでは感じないかもしれない。この「将棋の子」は、何かを一生懸命やってうまくいかなかった人の哀しさがよくわかるし、そういう体験をしてきた人(あるいは今そういう一生懸命何かに取り組んでいる最中の人)にはこたえるものがある。
ファインマンというアメリカの物理学者の自伝的エッセイ集。著者はリチャード P. ファインマンさん。翻訳は大貫昌子さん。この本もすばらしい翻訳だ。
エッセイ集ということもあって、好きなタイトルから読み始めることができる。エッセイ集なんてつまらんだろう、などと思っている人は読んでみてほしい。物理学者とは思えない言動の数々と、物理学者だからこその言動が少々。そして、その間に驚かされるような洞察が垣間見えるのだ。場合によっては論語みたいな読み方もできるかもしれない。
全般に明るく楽しく描かれているけれど、これは意図的なものだろう。第二次世界大戦のロスアラモス時代には、自分の心にとどめるだけの悲しい出来事も数多くあったのではないか、と自分は想像している。
最後の「カーゴ・カルト・サイエンス」の節はできれば最後に読んでほしい。この節だけは特別だ。物理学がわかれば、もっとファインマンさんのことをよく知ることができるのだろう。それができないのは残念だ。
「プー横丁にたった家」は「くまのプーさん」の続編だ。「くまのプーさん」というと、単なるハチミツが大好きな黄色っぽいクマだと自分は思っていた。そうではなかった。
この本は子供向けの童話だと思われるかもしれないが、読んだことのない大人の方も読んでみてほしい。自分も大人になってから読んだ。著者はA.A. Milne。翻訳は(童話のジャンルでは高名な)石井桃子さん。
プーさんはもともと、著者が自分の息子に聞かせるためのお話だったようだ。こんな話を子供時代に聞かせられたらすごいことだ。
ところどころでプーさんが代弁する著者の考え方は、Amazonのレビューにもかかれているけれど中国の思想家のような、どこか超然としたところがある。このクマがほかの動物たち(と一人の子ども)に向かって話しかける姿が良い。それとプーさんと行動をともにするコブタ(ピグレット)が健気だ。自分は大人になってから読んだせいか、出てくる動物たちの役割に目が向いた。すなわち、物語の筋よりもおのおののキャラクターが人間のどういう面を強調したものなのかを考えてしまいがちだった。子供の頃に読んだならば、もっと無邪気な読み方ができただろうと思う。
サイモン・シン氏の2作目の紹介になる。翻訳も前に紹介した「フェルマーの最終定理」と同じ青木薫さん。(本自体は「フェルマーの最終定理」→「暗号解読」→「代替医療のトリック」(共著)→「ビッグバン宇宙論」、で四冊目だ)
大人になるにつれて、子供の頃に「なぜだろう」「どうしてだろう」と単純に不思議に思えたことへの興味がだんだん薄れていくと思う。すくなくとも自分はそうだった。どうして鳥は飛べるのに人間は飛べないのだろう、なんでお風呂に入ると指がフニャフニュになってしまうのだろう、どうしてテレビは音が聞こえたり絵が見えるのだろう、泥だんごはうまく丸くなってかちかちに固くなることもあるけど、そうでないこともあるのはなぜだろう、カブトムシはかっこいいけど、クモはすこし気味が悪いのはなんでだろう…、などなど。
そういう疑問の中で、人間がずっと追いかけて考えてきた疑問の一つが「この人間が生きている空間はどういうものなのか」だろう。その考え方の歴史をまとめたものがこの本だ。この本をひもとくと、この百年の間に予想もし得ないことが次々に見つかったことがわかる。ビッグバンという言葉はほとんどの人が知っていて、宇宙は一つの点から始まったと言うことは知っているだろう。意外に思えるけれど、今から百年もさかのぼれば、ビッグバンという言葉すらなく、そう考えている人も科学の世界において異端扱いされていた。
宇宙論という非常に大きなテーマを扱っているため、「フェルマーの最終定理」よりも分量があって読むのが大変かもしれない。ただ、自分が読んだ単行本(ハードカバー)には各章にまとめがついていて、おおまかな筋はそこを読めば追えるように配慮されていた(これはうれしい配慮だ。)文庫版のタイトルは「宇宙創成」のようだ。
読み終わったら、ぜひ上巻のカバーと下巻のカバーのそれぞれの色に着目してほしい。
今まで見てきた本を読むとわかるかもしれないが、あまり自分は昔の小説を読むことがなかった。一つには風俗や文化が違いすぎて、いまいちぴんとこないからだろうか。そう思って昔の小説を読むことがほとんど無かったけれど、このモンテクリスト伯はおもしろかった。著者は三銃士でおなじみのアレクサンドル・デュマ。翻訳は竹村猛さん。自分は上に挙げた岩波少年文庫版を読んだ。
復讐劇の代表的な作品だそうだ。「それってネタバレでは?」と思う方もいるかもしれない。そうと知っていてもやっぱり楽しい。引き込まれるようなおもしろさがある。
少し前に「レ・ミゼラブル」が映画になって、そちらの原作も良かった。境遇は何となく似ているのだけれど、「レ・ミゼラブル」が愛の物語なのに対して、モンテ・クリスト伯は純粋に復讐劇だ。その痛快さ。モンテ・クリスト伯の超人的な活躍が楽しい。
自分はまだ一回しか読んでいないせいか、下巻の最後の方のあらすじはうろおぼえになってしまった。もう一度読む楽しみが増えた。今度は岩波文庫版で読もうかな。
森博嗣さんの小説。もともと「まどろみ消去」という短篇集の中に「キシマ先生の静かな生活」という短編があって、それを長編ににしたものだ。
(科学系の)研究者の世界とはどういうものなのかを丹念に追った小説であり、若干の事実が含まれているのかな?と思っている。森博嗣さんは某大学の研究者であった(今では退職されたようだ)人で、その知見がなければ書けない小説だろう。
今Amazonのレビューを見たら、「自分には残酷な小説だった」というレビュー内容もあった。自分は、心情、お察しします、という気持ちだ。ただ、主人公は喜嶋先生と出会えたことは僥倖だったに違いない。この小説の中で登場する喜嶋先生の名言は、本家よりもむしろ心に残る。
北村薫さんが選ぶミステリーを中心とした選集。あるテーマを設定して、そのテーマの中で北村さんが編集者と対談形式でさまざまな物語を紹介していく形式だ。テーマは「リドルストーリー」であったり、「中国の故事」であったり、「賭け事」であったりと様々だ。
編集者との対談は実際の編集者ではなくて、北村さんが頭の中で生み出した架空の「編集者」であるけれど、この対談がとても読んでいて楽しい気持ちにさせてくれる。いろいろな本が紹介されて読みたくなる。そういう罪深い(?)本だ。これを元に幾冊か叢書が組まれた。
その叢書の中で、自分が気に入ったのは「私のノアの箱舟」と「なにもない猫」だ。このシリーズはまだ全部読んでない。だから、気に入ったものは変わるかもしれないし、増えていくだろう。
自分は中国の故事や旧仮名遣いの本は読みづらく感じてしまうので、「真田風雲録」は読めないかもしれないなあ。
海外の人を中心にした伝記シリーズ。主に子供を対象としているためだろうか、シリーズ全体として、文は平易で図や写真を多用している。そう書くとありきたりな伝記に思われるかもしれないが、装丁、ページの中の文と写真の配置の良さが際立つ伝記集だと思う。
全体として、割とマイナーな人も取り上げていたりするし、平和に貢献した人たちを取り上げている点も特徴だろう。気になった人がいたら、その人を読んでみてほしい。
星新一は、多くの人がショートショートと呼ばれる一連の作品群で読んだことのある作家だろう。その人の評伝だ。著者は最相葉月さん。
星新一さんはその作品を読むとところどころに冷徹さが垣間見える。その冷徹さがどこから生まれたのかがわかるだろう。もともと幸せな境遇に生まれ育ったが、途中からどうしようもない災厄に見舞われるからだ。それだけが冷徹さの理由ではないだろう、ほかにもこの本を読めば思い当たる点がいくつかある。それらも書くと紹介としてはやや度が過ぎるのでやめておく。
最後の方で著者は有名な芸能人にもインタビューする機会を得て、実際に星新一さんについて尋ねる。そこも印象に残る。その芸能人はちょうど星新一さんの逆の人生をたどるような状況になっている。
自分はこの評伝を読んで、がぜんショートショートに興味を持つようになった。
SF小説はあまり読んだことがないのだけれど、この小説は良かった。著者はケン・グリムウッドさん。翻訳は杉山高之さん。
SFのよくある設定として、「もし過去に帰ることができるとすれば、その人の人生はどう変化するのだろうか」というものがある。その王道設定を利用して、すばらしい小説になっている。
この小説が書かれた時代は1988年なので、やや風俗や文化の描写が21世紀の現代と比べて現実離れしている点があるけれど、それを差し引いてもすばらしい小説だ。
あまりあらすじをかかない方がよいだろう。http://anond.hatelabo.jp/20130530045256 で紹介する「心地よく秘密めいたところ」と全然違う話なのだけれど、自分には似たものを感じる。
この本は近年読んだ中で最も良かった。
自由への長い道は南アフリカ共和国でアパルトヘイト(人種隔離政策)が撤廃されるまで闘った人々のノンフィクションだ。著者はネルソン・マンデラさん。翻訳は東江一紀さん。
アパルトヘイトという言葉とその意味は何となく知っているけれど、それが具体的にどんなものかを説明できる人は日本の中で多くないのではないかと思う。ネルソン・マンデラさんとその仲間たちは、それをなくそうと政治活動を繰り返す。そしてその度に時の政府の激しい妨害に遭い、その結果そういったグループを作ること自体が違法になり、グループの首謀者たちは収監されてしまう。そこからが圧巻だ。
いかにしてそういう逆境の中で自分の政治信条を保ち続けるか。自分たちの仲間を増やして支持を広げていくか。そして時の権力機構に対して、アパルトヘイトの「非道さ」をアピールし、撤廃にこぎつけるか――。
仲間の反乱分子やスパイへの対処、国際社会へのアピールなど、常人には思いもよらない方法でアパルトヘイト撤廃に向け前進してゆく。ところが、前進したと思ったら後退したりすることが何度も繰り返されるのだ。
この本はネルソン・マンデラさんがアパルトヘイト撤廃後の大統領に選出された直後に出版された本なので、結末に近づくにつれてかなり筆が鈍って、慎重な言い回しが増えていく。現在進行形のことを縷々書くと信用問題になるからだろう。それでもこの本は読んでいて楽しい。
この本を読んだ人は「ネルソン・マンデラ 私自身との対話」もぜひ読んでほしい。自分もまだ途中までしか読んでいないが、より素直なネルソン・マンデラさんの言葉と考え方がわかると思う。(「自由への長い道」についての言及もある。)
ほかにも映画「インビクタス」や、「マンデラとデクラーク」など、映像作品もある。後者の「マンデラとデクラーク」は「自由への長い道」と同じテーマだ。ついでに、youtubeにあった国連の広報映像(日本語訳付き)もリンクしておく。
amazonのレビューで、多崎つくるのレビューを、ほとんど疑いもなく星5つで記載し、圧倒的な「参考にならない」の評価をくらっているしがないレビュアーです。
ちなみに、今日2013/5/8現在、335人中101人が星5つの評価を加え、星4つの高い評価をつけた人を加えると、335人中182人の半数以上の人が星4つ以上をつけているにも関わらず、現在「最も参考になったカスタマレビュー」は、ドリーなる人物の書いた「孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説」という星1つのレビューで、9825人中、9502人が「参考になった」というボタンを押しています。
ちなみに星1つの評価のレビューは、323人中、51人しかないにもかかわらず、この評価は圧倒的です。
感覚的にいえば、全体における星の数の比率に、各評価の中で「最も参考になった」というというレビューが、最終的に漸近していきそうなものですが、このドリーなる人物のレビューは、ある種ゴシップ的な面白さが加わり、NAVERとかはてブあたりから迂回してやってきた方々の支援もあったのだろうと邪推しつつ、圧倒的な支持を得、10000近くの人たちに「参考になった」とフォローされているわけですが、その内容は、読めば読むほど気持ちの悪いレビューで、村上春樹をとりまくマーケティングの悲惨さを痛感するとともに、あらためて日本人の文盲具合と、教養のなさと、その教養のなさをひけらかす露悪主義をみせつけられるようでした。
とはいえ。
これも、ドリーなる人物の文章が悪いのかというとそういうのではありません。こういう気持ちの悪い文章は、本来放っておかれれば、そのまま情報の闇に葬りさられるだけであり、問題なのは、こういう情報を引っ張ってきて、「うーん、これはすごい」「面白い」と言っている人々の側に、前述した無教養さの礼賛であるとか、露悪主義のようなものがあるように思うのです。
それで、私は、この駄文が、そもそも情報の闇に葬りされること請け合いなのにもかかわらず、下記の数点の視点に絞って、村上評価およびその周辺のマーケティングの問題について論じたいと考えています。
1.村上春樹の今回の新作の、アマゾンレビューにおける、公平な評価の基準軸(いったい星いくつが適切なのか?)
2.「村上春樹が嫌い」というヤツは、実は「村上春樹」よりも「村上春樹ファンのことが嫌い」という事実
3.村上春樹を100万部売ろうとするマーケティングの問題(そもそもこれエンターテイメント小説じゃないんですけど)
この3点についてです。
■1.村上春樹の今回の新作の、アマゾンレビューにおける、公平な評価の基準軸(いったい星いくつが適切なのか?)
まず、結論から断じて言いますが「多崎つくる」のamazonのレビューを、現在の日本文学における主要作品(村上龍、山田詠美、阿部和重、平野啓一郎、川上・・・などなど)と比較して星をつけるとするならば、星は5つ以外は考えられません。これらの作家の代表作と比較しても、時代的な価値、作品の主題、文体などにおいて「劣っている」という評価をしようがないからです。
もちろん、小説や物語には個人的な共感を読み手の原動力にするという性質上、どうしても「共感できない」という人がいるのは確かなことです。しかしながら、そういう個人的な側面を度外視し、「文学」というジャンルにおいて、日本という国の文化を歴史的に補足、説明する資料として、たとえば、文学作品をピックアップするのだとすれば、本作は1Q84までとはいかないにしても、近年の日本代表クラスとしかいいようがないからです。
2013年、日本という国で出版された歴史的に淘汰を免れる文学作品をあげなさいといわれて、今年、これ以上に素晴らしい「文学作品」が登場するかどうか、私は甚だ疑問です。平野啓一郎の新刊がでればその可能性があるでしょうが、少なくとも、それ以外の作家には期待できません。
abさんご?無理です。
そういう意味において、本作は星5つ以外の評価はありえないと私は思うのです。
しいて別の視点で評価するならば、村上春樹作品全体を相対的に評価するということもできるかもしれません。これについて言えば、私の評価は、星5つに限りなくちかいものの、もしかしたら星4つをつけるかも、くらいのところです。人によっては3つという人もいるかもしれません。それはあくまでも村上春樹作品における相対評価です。
本作は、次につながる長編小説のための助走のような小説です。伏線の回収(村上春樹本人ならば、伏線の回収ではなく、全体を微細に描き切っていないと言いそうですが)、それが十分でないことがその理由です。
しかしながら、これが作品の評価を不当に低くするかというと別問題です。短編小説というのは、その行間に物語の前後や背景を滲ませ、読者に共感の余地を残すものです。これは本作が、短編小説的な位置づけにあるということを示唆しているのであって、村上春樹が手を抜いているわけではないのです。星を1つ減らす理由があるとすれば、「もう少しだけ短くてもよかった」という点でしょうか。短編小説というには、少し長すぎました。
本作は、あくまでも「短編」であり(この人の場合は、もはや「短編小説」がこの長さになってしまうだけ)、あえていくつかのプロットを読者に委ねたのです。これは、文学を読む側のリテラシーの問題です。趣味(つまり好み)の問題ではなく、読む側の技術(読解力)の問題です。
というわけで、個人的な村上春樹の読者として星をつけるならば4つもあり得るかもしれませんが、文学に全方位的に公正な評価をつけるのならば、星5つ以外にはないということをご理解いただけるでしょうか。
もし、理解できないのならば、村上春樹を読む前に、夏目漱石と森鴎外と谷崎と太宰と三島と大江健三郎と諸々読み直すべきでしょう。
それが嫌なら、伊坂幸太郎でも読んでればいいと思います。稚拙な、読解力を十分に満足させるだけの文章にはなっています。
■2.「村上春樹が嫌い」というヤツは、実は「村上春樹」よりも「村上春樹ファンのことが嫌い」という事実
私は、長年村上春樹の作品を読み続けてきて、周囲にもそのことを公言しているわけですが、最近困ったことに「ハルキストの○○さんは、新作もちろん読まれたんですよね?」とか「ハルキストとして今作はどうでしたか?」などと聴かれることが多くなりました。
この「ハルキスト」なる呼称、最近よく聴くんですが、これって、わりと最近たぶんノーベル文学賞に毎年エントリーされるくらいになってテレビのリポーターとかがテキトーつけたんじゃないかという気がしています。一体いつくらいなんでしょうか?
私思うんですが、村上春樹の読者を「ハルキスト」と呼称してしまう人は、はっきりと断言しますが、村上春樹を読んでいないか、全く読解できていないかのどちらかです。
村上春樹の小説はどの作品でも読めばすぐにわかりますが、組織や共同体に所属することにとにかくうんざりしています。辟易しているし、場合によっては嫌悪感に近いものを感じていることもある。とにかくそういう人たちとうまくやっていくことができないし、やっていく自信もない。主人公の「僕」やら「ハジメくん」やら、「ワタナベくん」は、もう、所在なし、所属なし。
村上春樹の作品が世界的に受け入れられているひとつの理由は、その「孤独」性です。その周囲にうんざりしたり、なじめなかったりするその主人公のおかれた状況に、読者が少なくない共感を感じてしまうことが、世界的に受け入れられたひとつの理由なのです。
つまり、「ハルキスト」などという「ひとくくり」の呼称を付与されることに、気持ち悪さしか感じない・・・というような人たちが、どちらかといえば村上春樹の本質的な読者なのです。私も同様「ハルキスト」と呼ばれるたびに、冷笑を覚えたりするので、みんなそんなもんだろうなと思っていると、ときどき本当に「ハルキスト」を自称する読者にあったりします。こういう場合は、辟易するというかなんというか、ときどき困惑と嫌悪感が入り混じった感情を抱いたりするこもあります。
なんなんだこの違和感。
と。この感覚は、村上春樹に星1つをつけて、「いやぁ、村上春樹とか読んでるやつ信じられねーな」とかいう人の感覚に案外似たところがあるかもしれません。(まぁ、とはいえどうでもいいことなので、あえてバッシングしたいとも思わないのですが。)この際、そのほんとに読んで言ってんのかよ!という方々を「ハルキスト」と呼称しましょうか、そのハルキストなる方々と、村上春樹の作品とはまた別の問題だと考えるべきです。
こう言うと、村上春樹の小説はそういう勘違いした読者、その「ハルキスト」なる存在を生み出しており、村上春樹にはその責任があると捉えることもできます。
アンチ村上春樹の人間は、この影響力に村上春樹への脆弱性をみつけて、論考をぶつのですが、はてさて、この点はもういちど考え直してみたいところです。読み手の読解力の欠如がもたらした読者の勘違いを、書き手である村上春樹にその責任を求めることができるのか?ということです。
小説作品は、たとえば自動車のエアバッグとか、緊急時備え付けの消化器とか、避難用のはしごだとか、なんでもいいけど、使い方を誤まったら命に別状があるというようなものではありません。
芸術作品です。
作り手の意思とは別に、受け手が勘違いしてしまうことに、作り手はどれだけの責任が持つ必要があるというのでしょうか。
■3.村上春樹を100万部売ろうとするマーケティングの問題(そもそもこれエンターテイメント小説じゃないんですけど!)
村上春樹を批判する多くのレビューを読む限りにおいて、圧倒的な支持をえる論調は、
「こんなヤツはいない」
「恵比寿でナッツを食べるたべにバーに入ったりしない」
「孤独をそんなに深刻ぶったりしてこいつは、何様なんだ」
確かに、多数派ではないかもしれませんが、いないわけではありません。ホテルのバーでお酒を飲んだりすることは、普通にあることです。言葉でどう表現するかの問題はありますが、物事を深く考えすぎて、些細な問題で心を痛めてしまうということも、現代人ならよくあるはずです。セックスなんて論じる必要もなく、敷居が下がっています。
主人公の行動や言動を自分と比較して、「こんなヤツいないよ」とかいうのは、主人公を類型化して自分との共通点を見つけ出す作業なのでしょうが、確かに、村上春樹の作品の主人公を無理やり類型化して、多数派か少数派かで割り振ったとしたら、間違いなく少数派でしょう。(安易にこういう構図に分類するのは正しい方法ではないのですが)
鉄道会社勤務。年収は、700万程度。都内にマンションを所有し、ローンもない。30代後半で独身。女性関係は特に困ったことはない。
なんというか、条件面だけ描きだせば、裕福で恵まれていて、どこかしらいけすかないととることもできそうです。そして、実際、この点を、アンチレビュワーの方々は、突いているのですが。
前述したとおり、村上春樹の小説が世界的に受け入れられたひとつの要素はその「孤独性」だと言いました。
みんなの中でわきあいあいとできない。上司にうまく媚を売ったりはできないし、意味のない日常会話を成立させたりもできない。会社終わりにみんなで飲みにいったりするくらいなら、ひとりで孤独に音楽を聴きながら読書をしていたい。
などという人間を描いて、そこに世界中の多くの人間が共感しているのです。きわめて個人的に。
そして小説というのは、個人的な共感によってはじめて読み進めることができる形式の芸術です。
たとえば、ソフィア・コッポラの映画は、同じように「孤独」を描いています。マリーアントワネットなどはその最たる例で、多崎つくるくんなどとは比較しようもないくらい恵まれている。にも関わらず、彼女は圧倒的な孤独に苛まれている。そして映画を観る者は、そのマリーの孤独に共感して、胸を痛める。いや、映画が小説と違うのは、マリーの孤独に共感しようとしまいと、映画自体は2時間後に終わるということ。
しかしながら、小説というのは「なんだよこいつ、むかつく奴だな」というのがあったら、読み進められない。別の言い方をすれば読み進めなくてもいい。村上春樹は、この社会において孤独を感じながら生きざるを得ない、もしかしたら比率的には少ない側の面々の生き方肯定しながら、その顛末を見守るというようなプロットなのだから、読んで「むかつく」人が多いのが、当たり前といえば当たり前なのです。
もともと多くの多数の人間に共感されることを、書いてる本人も視野にいれてはいない。(それを望んでいないわけではないにしても)
にもかかわらず、売る側は必死です。
それはそうです。売る側は、本の内容は関係ないからです。出版不況の時代です。本が売れません。黙っていても売れる時代なら、売る商品を選ぶこともできます。「こんな根暗な作家が書いた本は、ひっそりと奥に並べておこう」とか。でも今は、売れる商品が限られています。小さな本屋から、大きな本屋まで、こんなにまとまって本を売ることができる機会は、年にそう何度もあるわけではないのです。
だもんで、売る側は、まったなし。「村上春樹の新刊!?長編?平積みだよ、平積み!」
と、なって当然です。で、買い手は買い手で、村上春樹なんて共感できない人が数多いて、そのことを半ば自覚しているにも関わらず、「またぞろ、村上さん新刊ですか?」などとうがった態度で、1700円も払って買って帰ったりする。
本来、孤独に静かな時間を過ごしたい人(それから社会と自分との繋がりを確認したい人)のために書かれた本であるにも関わらず。
帯にこんな風に書いておけばいいかもしれません。
「この作品は、日常に違和感を感じることもなく、日々を謳歌している人間には読む必要のない小説です。それと孤独を描いてはいますが、自分自身の孤独が解消されれば、他人のことも社会のことも、どうでもいいという人にも不向きです。自身の孤独が社会との関係において改善されることを仄かに信じている人のための作品です」
もちろん、そんなことは絶対書かれることはないのでしょうけれど。
本来静かに出版されて、求める人がそこに救済を得るという仕組みであるべき作家と読者の関係が、資本主義の論理によって蹂躙されている。それだけのことにも関わらず、本来、村上春樹に対して苛立つ必要もなかった人たちまでが、駆り出されて、勝手に苛立っているのです。
嫌なら読まないということが可能なのにも関わらず。
この「作り手」と「市場」との悲劇的な関係というのが、アンチ村上春樹を作り出し続ける最大の要因という気がしてなりません。
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随分長くなってしまいましたが、最後に結論というかなんというか。
こういうことも言えるかもしれません。
昔、三島由紀夫は、太宰治が大嫌いで、直接会いにいって「私はあなたの作品が嫌いです」と言ったそうです。
すると太宰治は返す刀でこう答えました。
「でもこうやってわざわざ来たんだから本当は好きなんでしょう?」
三島由紀夫は、なにも言い返せなかったそうです。
つまり、みんな本当は、村上春樹が好き(もちろん、断固として認めたくない)なんだけど、作品の主人公同様、素直になれず、好きさゆえに星1つつけちゃって、あんなヤツ嫌だよ、いないよ。むかつくよ。とか言ってるだけっていう可能性もあります。
ん?あっ、それって、実は一番村上春樹の主人公的?な気がしなくもないですね。
この長文を書いている間に、少なくとも「私は、ハルキストです」とか言ってる人より、星1つつけて、村上春樹なんか嫌いだよとか言いながら、毎回出版されるたびに買っちゃってる人たちの方が、なんだかよっぽど共感できる気がしてきました。
この人「ファン」じゃないですよ。
大衆に見られる場に文章を置く場合は、もっと作品と向き合って下さい。
作家は命削って書いてるのです。それに対する答えを大衆に向かって発する場合、せめてももっと作家と作品に真摯に向き合うべきだと思います。
以下この方の意見に対する個人的な疑問と意見です。長文ですので気が向いたら読んでみて下さい。
村上春樹、段々、一般的な感覚の人々には理解されないようなことを延々と書いてる作家になってるよねーというのは、私も思うなあ。だから、まあ評価が低くなるのもわかるなー。
結構、「純粋」な方向に、ふってきちゃってるよね。そういう(純粋すぎる)のは、狂気というにはわかりにくいんだけど、なんかなあ、真実というところからはずれてきている気がする。うーん。難しいのだけど、一般にピュアであればあるほど、正常といえる水準を超えちゃう確率は高いから。うーん。多分、あまりにも、抽象的なものってちゃんとすればすごい威力あるけど、間違えちゃう可能性は高いよね、という例と似てると思う。
>文章を読んですぐに理解できるのが良作、分からないから駄作なのでしょうか?
しかも、小説ってもともと、正しさ(これも微妙な表現だが)がわかりにくいからさ。その上で、村上春樹は、小説の中でも、あえて正しいかどうか(さらに難しい)がよくわからない方向で、突き詰めようとしているんだと思う。そしてそれが、微妙に少しずつ、本当のところからずれてきてしまっている気がする。なんとなく。
>小説に正しさはあるのでしょうか。あるとしたら、作家が伝えたいことが読者に伝わっていることくらいではないでしょうか。
Aを書いたから正解、Bを書いたから間違い、という問題ではないと思います。
新作について触れると、このタイトル、「色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年」というタイトルを見た時、私は、これが、作者自身の慰めのために書かれたことがわかったよ。いや、だって、村上春樹、巡礼、絶対すきだもん。その他もろもろ、このタイトル、考えられないくらいわかりやすいよね。疲れた作者本人の心情と合致していそうだなという意味で。なんかびっくりしました。
曲のタイトルの一部としてですか?それとも純粋に単語としてですか?
でもさー。。。。こっからは、愚痴だけど。この人は、今まで、すっごい孤独なタイプの小説家にもかかわらず、いつも、大衆に向けて、つまりノーベル賞を狙って、書いてきた人なのにね。それで、うまく大衆受けするものがかけないなーってずっと悩んできた人(推定)なのにねえ。。。。
もう少し、わかりやすく説明するために、まず、村上春樹の小説家としての才能について書く。幸いなことに、小説を書くというのは、技能を向上させるための課題の発見が、その他の技能と比べても最も難しい技能だと思う。要するに、どうやって練習すれば、小説が上達するのかわからないという、あの課題ね。でも、実は、この人の才能の出発点はここにある。つまり、ある意味で、ものすごくわかりやすいところに、いつも課題があったこの人は、小説家としての技術を「磨く」才能には、ものすごく恵まれていたともいえるのだ。つまり、一般的にヒットしそうな小説が全く書けないという課題。本当に村上春樹ってなんで、こうなんだろうねえ。
>「賞について関心を持たない」
大衆受けするものがかけない、とどこで悩んでいたのでしょうか。
そのような悩みを打ち明けたインタビューに興味があるので、出典を教えていただけませんか。
しかもさー。その上で、この人、ひたすら(下手でも)、小説を書くことに対して、わけわかんないくらいの努力家なんだよね。(これは本人の日記やエッセイによる。なんでも毎日マラソン練習のようにストイックに小説を書きまくっているそうだ。)
>ランニングは日課として行われているそうですが、
小説を書かない時期があることは「遠い太鼓」などではっきり明記されています。
むしろ小説を書かない時期を蓄積させ、小説を書くことに飢えた状態に持って行くことを大切にしているようです。
はっきりいって、その他の、突如現れる霊的なものに対する本筋から見て不必要で余計な感受性だとか、また作者の孤独に対する鈍感さからくる主人公の孤独の無意味さとかは、小説家の適性からみると、もうどうしようもなくだめだと思うのだけど。とにかく、その課題(大衆受けしない)は誰の目にも明らかなのに、本人は全然それが達成できなくて、その上でなぜかこの人は、小説を書くことに対して非常に努力ができた。または、してきた。これが、村上春樹の成功のポイントじゃないかなあ。他の人には色々な意見もあると思うけど、私は、この主張は非常に的を得ていると思うね。
スピリチュアルブーム、パワースポットブームがありましたし、どの雑誌にも占いのページがありますよね?
また需要の無いものに対して努力をしたことが、どうして成功につながるのでしょうか。
さて、その上で、今回の小説に話を戻すと。この作品が珍しく作者自身の慰めのために書かれたことと、村上春樹の小説家としての持ち味をちょっと考えてみると、即座にこの作品が駄作であることがわかる。だって、この人は今まで努力してきたことを捨てたわけだから。なんとか、人に受け入れられるようなものを書きたいという課題を捨ててしまった訳だから。
>どの点で「努力をしてきたことを捨てた」のかが分かりません。
多分、去年ノーベル賞とれなくて悲しかったのと、もっというと、ノーベル賞を目前にして色々な欲がでて、自分の持ち味とバランスを崩しているのだろうね。なんでも本屋の誇大広告によると、この小説は、ほとんど筆をとめずに書かれたそうだ。そんな、当人が趣味でだらだら書いた作品が、これだけバカ売れするんだから、商業小説家としては大成功だね。
>こだい‐こうこく【誇大広告】 商品やサービスの内容・価格などが、実際のものより優良または有利であると消費者に誤認させるように表示した広告。
ですが、どうしてタイトルと作家名と発売日のみ明記した出版社からの広告が、誇大広告に当たるのでしょうか。それとも書店員の手描きポップを指しているですか?
また、「筆をとめずに書かれた」=「趣味ででだらだら書いた」とはならないのではないでしょうか。
画家のスケッチも、ミュージシャンの即興演奏も、俳優のエチュードも、即興的な表現はすべて否定されるのですか?その瞬間にしかない力や勢いに、魅力はないのですか?
まあー。村上春樹にとって、例え自分がとんでもなく寂しいことに気づいたからって、それで純粋な方向に振り切っちゃうのは、はっきりいってよくない戦略じゃないかなあ。というか、それ、青豆と天吾のストーリー、ひきづってるだけだよねー。いや、1Q84は恋愛がテーマじゃないから、奇跡的に、ああいうのが物語になったけど。もし恋愛をテーマにするんだったら、青豆と天吾のような主人公では小説がかけないでしょー。。。。というかですね。
はっきりいって、もういい加減、孤独をつきつめた作品ではなくて、大恋愛について書くべきなんですよ、村上春樹は。だって、この人が孤独でも、全く悲しくないんだよね。もともとが孤独に鈍感な人なんで。なんとか、もうちょっと、大衆とコミュニュケーションとるために努力して下さい。それができないなら、今後は、本当に人に認められたいなんて思うのはやめて、出家してくださいなー。
(終)
>村上春樹の作品は「アンダーグラウンド」以降どんどん社会性を帯びていると思います。
インタビュー集や読者との交流を何冊もの書籍にまとめていることからそれは明らかです。
私見を述べるならば、今回の「色彩を持たない〜」は、「孤独をつきつめた作品」ではないと思います。
今回の作品の主人公は具体的な地名と風景の描写を付け加えられた最後のシーンの描写からも、内面はどうであれ、外面としてはしっかりと社会性を持った人物ではないかと考えられます。
その意味で「ノルウェイの森」の主人公が最後に感じた、「僕はどこにいるんだ」という感覚と、対比される作品と考えられます。
そのため、「色彩を持たない〜」は、「孤独をつきつめた作品」には少なくとも作家の作品群から位置づけする分に該当しないと考えられます。
とありますが、
「村上さんに聞いてみよう」シリーズで読者からの何百もの雑多な質問に答えたり、
「少年カフカ」で特定の作品に向けられた読者からのフィードバックや質問に真摯に向き合ったり、
「アンダーグラウンド」「約束された場所で」の中で地下鉄サリン事件の被害者加害者の内面をインタビューした作品を出したり、
その他に京都での講演を企画したり、海外では朗読会を行ったり、
十分に大衆とコミュニケーションを図ろうとする姿勢があると思うのです。
ここまで大衆とコミュニケーションを図ろうとしている長編小説家が私には挙げられません。
その成果も、以前は若い独身男性の視点で一人称で描かれていた作品が、三人称になったり、また1Q84の牛河のように、全く違う立場の人物の内面を描いたりと、
どんどん小説の中で反映されていると思うのです。
すっごいだらだらしてた時に、なんとなーく村上春樹の新作についてAmazonのレビューをみながら愚痴ったメモが、翌日みたら意味不明だったので晒す。まとまりない上にばかっぽいです笑。
↓
村上春樹、段々、一般的な感覚の人々には理解されないようなことを延々と書いてる作家になってるよねーというのは、私も思うなあ。だから、まあ評価が低くなるのもわかるなー。
結構、「純粋」な方向に、ふってきちゃってるよね。そういう(純粋すぎる)のは、狂気というにはわかりにくいんだけど、なんかなあ、真実というところからはずれてきている気がする。うーん。難しいのだけど、一般にピュアであればあるほど、正常といえる水準を超えちゃう確率は高いから。うーん。多分、あまりにも、抽象的なものってちゃんとすればすごい威力あるけど、間違えちゃう可能性は高いよね、という例と似てると思う。
しかも、小説ってもともと、正しさ(これも微妙な表現だが)がわかりにくいからさ。その上で、村上春樹は、小説の中でも、あえて正しいかどうか(さらに難しい)がよくわからない方向で、突き詰めようとしているんだと思う。そしてそれが、微妙に少しずつ、本当のところからずれてきてしまっている気がする。なんとなく。
新作について触れると、このタイトル、「色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年」というタイトルを見た時、私は、これが、作者自身の慰めのために書かれたことがわかったよ。いや、だって、村上春樹、巡礼、絶対すきだもん。その他もろもろ、このタイトル、考えられないくらいわかりやすいよね。疲れた作者本人の心情と合致していそうだなという意味で。なんかびっくりしました。
でもさー。。。。こっからは、愚痴だけど。この人は、今まで、すっごい孤独なタイプの小説家にもかかわらず、いつも、大衆に向けて、つまりノーベル賞を狙って、書いてきた人なのにね。それで、うまく大衆受けするものがかけないなーってずっと悩んできた人(推定)なのにねえ。。。。
もう少し、わかりやすく説明するために、まず、村上春樹の小説家としての才能について書く。幸いなことに、小説を書くというのは、技能を向上させるための課題の発見が、その他の技能と比べても最も難しい技能だと思う。要するに、どうやって練習すれば、小説が上達するのかわからないという、あの課題ね。でも、実は、この人の才能の出発点はここにある。つまり、ある意味で、ものすごくわかりやすいところに、いつも課題があったこの人は、小説家としての技術を「磨く」才能には、ものすごく恵まれていたともいえるのだ。つまり、一般的にヒットしそうな小説が全く書けないという課題。本当に村上春樹ってなんで、こうなんだろうねえ。
しかもさー。その上で、この人、ひたすら(下手でも)、小説を書くことに対して、わけわかんないくらいの努力家なんだよね。(これは本人の日記やエッセイによる。なんでも毎日マラソン練習のようにストイックに小説を書きまくっているそうだ。)
はっきりいって、その他の、突如現れる霊的なものに対する本筋から見て不必要で余計な感受性だとか、また作者の孤独に対する鈍感さからくる主人公の孤独の無意味さとかは、小説家の適性からみると、もうどうしようもなくだめだと思うのだけど。とにかく、その課題(大衆受けしない)は誰の目にも明らかなのに、本人は全然それが達成できなくて、その上でなぜかこの人は、小説を書くことに対して非常に努力ができた。または、してきた。これが、村上春樹の成功のポイントじゃないかなあ。他の人には色々な意見もあると思うけど、私は、この主張は非常に的を得ていると思うね。
さて、その上で、今回の小説に話を戻すと。この作品が珍しく作者自身の慰めのために書かれたことと、村上春樹の小説家としての持ち味をちょっと考えてみると、即座にこの作品が駄作であることがわかる。だって、この人は今まで努力してきたことを捨てたわけだから。なんとか、人に受け入れられるようなものを書きたいという課題を捨ててしまった訳だから。
多分、去年ノーベル賞とれなくて悲しかったのと、もっというと、ノーベル賞を目前にして色々な欲がでて、自分の持ち味とバランスを崩しているのだろうね。なんでも本屋の誇大広告によると、この小説は、ほとんど筆をとめずに書かれたそうだ。そんな、当人が趣味でだらだら書いた作品が、これだけバカ売れするんだから、商業小説家としては大成功だね。
まあー。村上春樹にとって、例え自分がとんでもなく寂しいことに気づいたからって、それで純粋な方向に振り切っちゃうのは、はっきりいってよくない戦略じゃないかなあ。というか、それ、青豆と天吾のストーリー、ひきづってるだけだよねー。いや、1Q84は恋愛がテーマじゃないから、奇跡的に、ああいうのが物語になったけど。もし恋愛をテーマにするんだったら、青豆と天吾のような主人公では小説がかけないでしょー。。。。というかですね。
はっきりいって、もういい加減、孤独をつきつめた作品ではなくて、大恋愛について書くべきなんですよ、村上春樹は。だって、この人が孤独でも、全く悲しくないんだよね。もともとが孤独に鈍感な人なんで。なんとか、もうちょっと、大衆とコミュニュケーションとるために努力して下さい。それができないなら、今後は、本当に人に認められたいなんて思うのはやめて、出家してくださいなー。
(終)
http://yokichi.com/2010/12/post-291.html
ここに書いてあることは本当だと思うけどさ〜。別の戦い方があったって、昔読んだ本には書いてあったな〜。極端な話をすれば、オ●ムとかも搾取されないための別の戦略として魅力的に映ったんじゃないかな。しらんけど。1Q84 に書いてあった話もそういうことでしょ?いじめられっこだったけど、自分で強くなって、巨悪まで倒しちゃった、おれって実はすごい、みたいな。
僕だって暴力革命は須く否定したいから、選択肢を増やせ、という本論には賛成できるんだけど、その戦う軸に関する選択肢の無さ、には心底がっかりするよね。なんでこんな時代になっちまったんだろう、って。