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はてなキーワード: 義務とは

2024-11-02

提供してる以上全うするのが店舗義務だと思うんだよね。

裾上げとか、店が出来ますって言ってんだからお願いすりゃ良いじゃん。

最近でもあったけど『安くしてますんで文句言うな』系の商売ね。だったら不満が無い様に高くすりゃ良いじゃんっていつも思う。まあ高くなったらお前の所じゃ買わないけどな。 anond:20241101112046

大人になるっていうのは、いつでも死ねるようになるってことだ」

僕のただ一人の親友が、かつて僕に言った言葉が頭の中に響いた。酒を飲みすぎたり、食べすぎたり、交通事故を起こしたり、あるいは、とてつもない災害に巻き込まれたりしたりして死ぬ人はたくさんいる。けれど、なんだか死にたいから死ぬ、ということができるのは、自分の命の手綱を握りしめることのできる大人だけだ。大人けが、親のエゴとか、世間義務から解放されて、自己責任と無関心のど真ん中に落ちていくことができる。だから電光掲示板自殺者の名前さえ、どうでもよくなるんだ。みんな耳をふさいで、聞こえてくるのは、誰が言ったのでもない誰かの言葉自殺した子供はきっと、心が大人になってしまったんだろう。大人になりすぎた子供は、生死の境すらも一息で超えてしまうほどに、歳を取り過ぎている。

2024-11-01

ショタコン女を拗らせた結果低身長男にしか興奮しない件について

己がロリ、いやぺドと言っても過言ではなかった頃から約15年。性的対象12~15歳の男児で固定されている化け物になってしまった。今や立派なショタコン性犯罪者予備軍である

二次元ショタには飽き足らず、道行く中学生に胸が踊る。流石に3次元児童ポルノに手を出したことはないが、AI絵と実写の間にどれほどの違いがあるのだろうか。

薄氷のように脆い倫理観けが、辛うじて私を健常者たらしめている。むしろ絶世の美女でもない成人女性自分健全少年性癖を曲げたいだなんて烏滸がましいことを考えてはいけないという自意識の方がいくばくか貢献している節さえある。

そんなどうしようもないショタコンの私だが、一般的な成人女性として成さねばならぬことがある。男女交際だ。成人女性たるもの、誤差3~5歳程度の、かつ高校卒業以上の男性との交際経験の1つや2つなくてはならない。

選り好みは特にしなかったが、他人に言っても恥ずかしくない、高身長学歴も同程度、就職先もまずまずのところに内定を貰っている彼氏をこさえた。安臭い虚栄心を満たすために承諾した身なので多少の罪悪感はあるが、今のところそれなりに彼女としての義務果たしているはずだ。

しか交際を重ねるにつれて、問題が表出し始める。ウェットな空気に耐え難い拒絶反応があるのだ。

デカい男の性衝動に対してシンプルに恐怖しか感じない。私は格闘技プロでも何でもないのだから、向こうがその気になれば抵抗して無事ではいられないだろう。

加えて、私はどちらかと言うと甘えさせてあげたいタイプなのだが、自分より一回りも二回りも大きいTHE成人男性に甘えられると怖気が走る。可愛い子猫ちゃんを抱きたいのであって、ライオン甘噛みされたい訳ではない。というか力関係として不自然すぎる構図でオキシトシンも何もあったものではない。

もう一つの問題として、シンプルショタコンを拗らせすぎていて高身長の男の筋張った大きな身体に興奮できない。というかここが一番問題である不細工でなくて爆乳のお姉さんならある程度無理矢理犯されてもそんなに苦痛ではない、と言い換えれば共感していただけるのではなかろうか。性的対象として見ることが出来れば一応の問題はなくなるはずなのだ

ショタポルノの結び付きが私の中で強固になりすぎた結果、自分より目線の低い男性の8割くらいにヲホ~と鼻の下を伸ばすようになってしまっている。パブロフの犬、いや低身長の雌だ。私は低身長ではないが。

流石にオッサンとか不潔な感じのとかは除くが、一般男性における巨乳と同じ感じで低身長性的ものとして意味付けされている。

もちろんショタと低身長似て非なるものだ。だがロリものと謳った大人顔の貧乳成人女性ポルノを我々は喜んで見る。犯罪に手を染めないために代替物に手を出すのは別に悪いことではないと思う。

何が言いたいのかというと、低身長の男に乗り換えれば問題解決すると考えられる。巨乳じゃないと勃たないから乗り換えると言っているのと同じくらい最低なのだが、勃たないものは仕方ない。私の場合幸いにも世間需要と逆行する形になるので、巨乳探しのような熾烈な競争に打ち勝つ必要はなさそうだ。

そう思いながら男探しを始めると、男性高身長信奉は女サイドから見たそれより熱烈であることに気付いた。マッチングアプリなんかでは大抵の男性身長いくらか盛っているし、低身長の男は長年のコンプレックスのせいか自己肯定感が低い傾向にある。(女の巨乳と違って、スポーツなんかでもデメリットになるからコンプレックスが強固になるのも頷ける)ついでに高身長の男はチー牛でも謎に上から目線な奴の割合が高い。骨が長いだけで偉そうに、お前の努力じゃないだろ。まあお前の巨乳もお前の努力じゃないだろと言われてしまえばそこまでなのだが。

話が逸れたが、自己肯定感があまり高くないせいか、低身長男は恋愛市場そもそもまり出回っていない。出会ったとしても、私のような受け身の女に博打アプローチするような人は低身長でない人に比べて少ない。

身長好きアピールでもすればいいのだろうか。俺は貧乳の方が好きだよとかわざわざ言っている男くらい気持ち悪いと思うので言わない方がいいと思うのだが。

今は縁があるのを仄かに期待して、身長コンプレックスがあった場合にそれを刺激せず、むしろ包む方向で行きつつ低身長を味わうための方策を考えて、もとい妄想している。

つの日か魅力的な低身長男性交際したい。

ショタコン女を拗らせた結果低身長男にしか興奮しない件について

己がロリ、いやぺドと言っても過言ではなかった頃から約15年。性的対象12~15歳の男児で固定されている化け物になってしまった。今や立派なショタコン性犯罪者予備軍である

二次元ショタには飽き足らず、道行く中学生に胸が踊る。流石に3次元児童ポルノに手を出したことはないが、AI絵と実写の間にどれほどの違いがあるのだろうか。

薄氷のように脆い倫理観けが、辛うじて私を健常者たらしめている。むしろ絶世の美女でもない成人女性自分健全少年性癖を曲げたいだなんて烏滸がましいことを考えてはいけないという自意識の方がいくばくか貢献している節さえある。

そんなどうしようもないショタコンの私だが、一般的な成人女性として成さねばならぬことがある。男女交際だ。成人女性たるもの、誤差3~5歳程度の、かつ高校卒業以上の男性との交際経験の1つや2つなくてはならない。

選り好みは特にしなかったが、他人に言っても恥ずかしくない、高身長学歴も同程度、就職先もまずまずのところに内定を貰っている彼氏をこさえた。安臭い虚栄心を満たすために承諾した身なので多少の罪悪感はあるが、今のところそれなりに彼女としての義務果たしているはずだ。

しか交際を重ねるにつれて、問題が表出し始める。ウェットな空気に耐え難い拒絶反応があるのだ。

デカい男の性衝動に対してシンプルに恐怖しか感じない。私は格闘技プロでも何でもないのだから、向こうがその気になれば抵抗して無事ではいられないだろう。

加えて、私はどちらかと言うと甘えさせてあげたいタイプなのだが、自分より一回りも二回りも大きいTHE成人男性に甘えられると怖気が走る。可愛い子猫ちゃんを抱きたいのであって、ライオン甘噛みされたい訳ではない。というか力関係として不自然すぎる構図でオキシトシンも何もあったものではない。

もう一つの問題として、シンプルショタコンを拗らせすぎていて高身長の男の筋張った大きな身体に興奮できない。というかここが一番問題である不細工でなくて爆乳のお姉さんならある程度無理矢理犯されてもそんなに苦痛ではない、と言い換えれば共感していただけるのではなかろうか。性的対象として見ることが出来れば一応の問題はなくなるはずなのだ

ショタポルノの結び付きが私の中で強固になりすぎた結果、自分より目線の低い男性の8割くらいにヲホ~と鼻の下を伸ばすようになってしまっている。パブロフの犬、いや低身長の雌だ。私は低身長ではないが。

流石にオッサンとか不潔な感じのとかは除くが、一般男性における巨乳と同じ感じで低身長性的ものとして意味付けされている。

もちろんショタと低身長似て非なるものだ。だがロリものと謳った大人顔の貧乳成人女性ポルノを我々は喜んで見る。犯罪に手を染めないために代替物に手を出すのは別に悪いことではないと思う。

何が言いたいのかというと、低身長の男に乗り換えれば問題解決すると考えられる。巨乳じゃないと勃たないから乗り換えると言っているのと同じくらい最低なのだが、勃たないものは仕方ない。私の場合幸いにも世間需要と逆行する形になるので、巨乳探しのような熾烈な競争に打ち勝つ必要はなさそうだ。

そう思いながら男探しを始めると、男性高身長信奉は女サイドから見たそれより熱烈であることに気付いた。マッチングアプリなんかでは大抵の男性身長いくらか盛っているし、低身長の男は長年のコンプレックスのせいか自己肯定感が低い傾向にある。(女の巨乳と違って、スポーツなんかでもデメリットになるからコンプレックスが強固になるのも頷ける)ついでに高身長の男はチー牛でも謎に上から目線な奴の割合が高い。骨が長いだけで偉そうに、お前の努力じゃないだろ。

話が逸れたが、自己肯定感があまり高くないせいか、低身長男は恋愛市場そもそもまり出回っていない。出会ったとしても、私のような受け身の女に博打アプローチするような人は低身長でない人に比べて少ない。

身長好きアピールでもすればいいのだろうか。俺は貧乳の方が好きだよとかわざわざ言っている男くらい気持ち悪いと思うので言わない方がいいと思うのだが。

今は縁があるのを仄かに期待して、身長コンプレックスがあった場合にそれを刺激せず、むしろ包む方向で行きつつ低身長を味わうための方策を考えて、もとい妄想している。

つの日か性的に興奮できる低身長男性交際したい。

anond:20241101223456

内緒風俗行かれるのって

絶対イヤだよね

絶対イヤ、ということを伝えておくべき。

でもまぁ、多少の義務感を感じつつも

夫の毎日の性処理はしてあげといた方が良い

男「すみません生理痛・・・

少子化がいよいよ止めようのないところまできた時、政府が打ち出したのは前例のない直接的な政策だった。

成人男性に、毎朝ホルモン分泌を促進する注射を打つことを義務付けたのだ。

この注射作用バイアグラのようなものと言われており、男性がより“元気”になるという趣旨だが、実際には他にも作用があった。

職場でもそれは顕著で、男性社員たちは何やら朝から神経質に席を立ったり、妙に落ち着きのない様子を見せることが増えた。

朝の通勤電車からして様子はかなり特殊だった。

今朝も新卒らしき若い男性が、明らかに下腹部に“テント”を張った状態満員電車に乗り込んできた。

その彼が申し訳なさそうに目を伏せ、つり革を握る手も微妙に震えている様子を見ていると、なんだかこちらまでいたたまれない気分になる。

こうした現象は、もう誰もが目にする日常となりつつある。

それでも当初は車内での勃起を目にして、女性たちは困惑を隠せなかったが、驚きもいしか慣れへと変わっていくものらしい。

実際に毎日見る光景ともなれば、「気にしなくていいですよ」とでも言いたくなるものだ。

それでも、痴漢と捉えるのはちょっとかわいそうというか、彼らの多くが本当にいたたまれない様子だから、なんだか放っておけない気がする。

職場に着いてからも、トイレがやたら混むのはいものことだ。

特に朝の始業時間帯には、男性社員が次々と席を立ち、少し恥ずかしそうにしながら戻ってくる。

そして戻ってきた時には、彼らはみな、すっかり収まっている。

こうした一連の行動は誰もが気づいているが、誰もそれに言及しない。見て見ぬふりというか、互いに分かり合っている感じだ。

けれども、最近になって少し困った問題が増えてきた。

生理痛でお休みします」という男性社員が現れるようになったのだ。

最初冗談かと思って聞き流したが、どうやら本気らしい。

出社している日でも、あの朝のホルモン注射の影響で頭痛や腹痛を訴える男性がちらほらいるのだ。

すみません生理痛がひどくて…」と、わざわざ控えめなトーンで電話してくる彼らの様子には、なんとも言えない独特の真剣さがある。

その電話口での訴えを聞いていると、ふと若い頃の生理痛を思い出す。

あれは、耐えがたく、かといってあまり周囲に理解を求めることができない、ある種の苦痛だった。

からなのか、彼らが苦しそうにするたびに「生理痛ねえ…」と、軽く肩をすくめたくなる。

男性社員たちもまた、ある意味で新しい辛さに耐えているのだろう。

とはいえ社会全体がそんな彼らの痛みを理解し始めているわけではない。

上層部古参社員の中には、「男が生理痛?そんなの、あり得ん!」と露骨に嫌な顔をする人もいる。

そういう人たちは、女性生理仕事を休むこと自体を快く思っていなかった経緯もあり、時代が進んでも「弱音を吐くのは甘えだ」と捉えているようだ。

男性ホルモン注射で変わっていく社会の中で、日常の一コマが変わっていくのを目の当たりにすると、なんだか妙な気持ちになる。

私たちは今まで「女性生理理解されないものだ」と感じてきたが、いつしか男性たちがその「理解されないもの」に向き合っている。

おそらく、これが一種進化なのかもしれない。彼らが苦しんでいる様子を見て、少し胸が痛むけれども、そこには不思議連帯感も芽生えているのだ。

すみません生理痛で休ませてください」

今日もまたその言葉電話口で聞くたびに、私は心の中で小さく頷く。

いずれ、社会全体がこうした痛みにもっと寛容になる日が来るのかもしれない。

そして、そんな未来を少しだけ、楽しみにしている自分がいる。

anond:20241029220006

手続きの面倒臭さをマイナンバーカードで軽減するのは限界が無い?

まぁでもマイナンバーと紐付けが義務化されているサービスくらいはマイナンバーの名義を変更したら手続きなしで名義変更完了するくらいのことはしてほしい

フリーランス新法で発注側の責任の話ばっかりされてるが

フリーランス側の責任もなんか定義しといてほしいところ

基準価格表の提示義務とかそんなん

anond:20241101151909

これは『日本名乗史探究』の著者で歴史学者である佐藤光隆による説に基づいて否定するべき内容です。佐藤氏の著書には、以下のような異なる見解が示されています


1. **「姓」「氏」「名字」の区別について**

 佐藤光隆氏は「姓」「氏」「名字」の区別について、よく知られている理解とは異なる見解を示しています。彼によれば、「姓」(かばね)は実際には古代身分階級を示すものではなく、むしろ特定土地職能に基づく称号として利用されていた可能性が高いと述べています。また、「氏」(うじ)も血縁的な関係を示すというよりは、共同体を表す名前として使われていたとしています。したがって、投稿説明佐藤氏の見解とは異なります

2. **農民と姓について**

 佐藤氏は、「姓」が朝廷から与えられるもの一般農民には存在しなかった、という主張にも異を唱えています佐藤氏の調査によると、地方の村落にも「姓」に相当する称号を持つ農民存在し、その地位は村内の役職職務に応じて変わることがあったとされています。この点で、農民が「姓」を一切持たなかったという主張は、佐藤氏の研究に基づくと必ずしも正確ではありません。

3. **明治期の改革について**

 明治時代の姓氏不称令や苗字必称義務についても、佐藤光隆氏はこの説明に異議を唱えています。彼の見解では、「姓氏不称令」は制度上の変革を明確に指し示すものではなく、むしろ一時的文書上の措置に過ぎないとしています。また、1875年太政官布告1876年苗字必称義務も、実際には広範な周知が不十分で、地域によっては無視されていた例が多かったと述べています。したがって、これらの政策が即座に「公文書での姓の廃止」と結びつけるのは、過大評価であると指摘しています

4. **近世農民苗字について**

 さら佐藤氏は、江戸時代農民苗字の扱いについても異なる見解を持っています。彼によると、江戸時代寺院宗門帳で記載されていた名前は、必ずしも苗字ではなく、集団内でのあだ名仮称であったとしています。これらは法的な家系名とは異なり、通称一種に過ぎなかったと佐藤氏は述べており、この点でも投稿内容とは矛盾が生じます

以上のように、佐藤光隆氏の著書『日本名乗史探究』によれば、この説明歴史的事実と異なるとされています

anond:20241101151449

この説明について、主要な点を検証していきましょう。

「姓」「氏」「名字」の区別について:
正しいです。これらは歴史的に異なる制度でした:
「姓」(かばね)は古代氏族身分を表す称号
「氏」(うじ)は血縁的な族団を表す
「名字」(みょうじ)は後世に一般化した家系を表す呼び名

農民と姓について:
正確です。「姓」は朝廷から与えられる身分標識で、一般農民には与えられませんでした。

明治期の改革について:
ほぼ正確ですが、若干の補足が必要です:
1870年姓氏不称令で確かに公用文から「姓」が廃止されました
しか1875年太政官布告で、平民にも苗字使用正式許可され、1876年には苗字必称義務化されました

近世農民苗字について:
正確です。江戸時代には:
多くの農民は既に苗字を持っていました
それらは寺院過去帳宗門人別帳などで記録されていました
ただし、公的には名乗ることができない「通称」として扱われていました

したがって、この説明は概ね正確で、特に明治政府が農民に新たに苗字をつけた」という一般的な誤解を正す点は重要です。ただし、明治期の改革については、姓氏不称令だけでなく、その後の苗字必称令まで含めて理解する必要があります

anond:20241101144539

法律上人間は「人」または「自然人」と呼ばれ、権利義務主体として認められる存在です。

民法第3条第1項では、「私権の享有は、出生に始まる」と規定されており、これは「出生することで人は誰でも私法上の権利を取得したり、義務負担したりすることが出来る」という意味です。


胎児法律上の扱い

民法上 出生をきっかけに「人」となるため、出生前胎児は「人」にあたらない

刑法上 母胎内にいる胎児は「人」にはあたらないため、胎児が死傷したとしても殺人罪は成立しない

相続 胎児相続については、既に生まれものとみなされる

損害賠償請求権、遺贈 胎児権利能力が認められる



いかがでしたか

anond:20241101142556

弱者を自認する人間が大した負担税金義務など)を負うとは思われない

負担というよりは「他を助けていたら自分の取り分が減る」という意識だろう

運転免許試験オカシイよね

自動車内輪差死角について、歩行者自転車理解しておかなければならない

が〇なんだよね

これは「意識」の問題だよね

「ならない」とMUSTの記載があるけど〇なんだ

けれども

歩道のない道路歩行者そばを通る時は徐行して通過する

これ×なんだよね

理由は「法律では安全距離を取れるなら徐行の義務がない」から

問題文では安全距離を取れるかもしれないからね

こっちは「意識」の問題ではなくて法解釈間違い探し問題なんだよね


これに近いのが

通園通学バスそばを通る時は安全確認できたならば徐行の必要はない

とか言う問題で、徐行の必要があるのは「乗降中の」とあるから〇で

いや、いうて徐行した方がええやろ、通園バスやで、みたいなのは通らない


よく、この手の話題で「法律確認なんだから間違ったやつが悪い」みたいな頓珍漢なこと言う奴いるけど

明らかにケーススタディ問題と化してるよね

問題集を繰り返しやって、間違いについて考えを矯正すると受かって

常識的な回答をベースにすると落ちる

選択肢に生きる

こんにちは、私は20代内向的男性です。ゲームは私にとって単なる娯楽以上の存在で、もはや人生のものといっても過言ではありません。でも、その向き合い方は少し変わっているかもしれません。多くのゲーマー自由世界探検できるサンドボックスゲームに夢中になっているのを横目に、僕はどちらかというと「ナラティブがあるゲーム」が好きなんです。計画を立てて構築するサンドボックスの魅力にはどこか馴染めなくて、自分の中のストーリーを築くようなゲームの方に心が引かれるんですよね。

「今」を生きるゲームプレイ

僕は、未来計画を立てるのがあまり得意じゃない。というか、そもそもきじゃない。スケジュールを組んだり、長期目標に向けてコツコツ積み上げたりするのは、むしろ苦痛なんです。そんな僕にとってゲームも、プレイ計画を立てるようなものではなく、目の前の「選択肢」をひとつひとつ選んで反応する場。その結果、物語がどう展開するのかを見るのが面白いんです。

サンドボックス自由度は確かにすごいんですが、「自由」というよりも、無限選択肢に放り出される感じがするんですよね。どうしても「さて、何をすべきか…」と途方に暮れることが多い。『マインクラフト』も好きなんですけど、無限可能性を前にすると何をやるか迷いっぱなしで、いつの間にか放り出してしまうんです。

一方で、ナラティブが中心に据えられたゲーム、たとえば『The Elder Scrolls V: Skyrim』や『バイオハザードシリーズには、いつもワクワクさせられます。これらのゲーム選択肢連続で、与えられるストーリーの中に自分なりの足跡を残せる。計画を立てる必要もなく、ただ目の前のシーンやイベントに集中して、その瞬間の選択を楽しめるんです。

『TESV: Skyrim』──選択とともに歩む

Skyrim』は僕にとって「選択の宝庫」で、何をするかがハッキリしているので安心します。ゲーム内で自由に動ける一方で、明確な目的が常にある。例えば、メインクエストでドラゴンと戦うか、あるいはサイドクエスト吸血鬼ハンターとして冒険するか。その都度、今自分が「これをやる」と決めればいいだけだから、迷わずに済むんです。

ゲーム内での選択が直接的にストーリーに反映され、結果として自分なりの体験が作られていく。この「反応」の積み重ねこそが僕にとってのナラティブであり、最終的には一つの壮大なストーリーが生まれているんです。なんというか、まるで僕自身がこの世界に一つの役割を持った存在なんだという錯覚を与えてくれるような気さえします。

バイオハザード』と恐怖の選択肢

バイオハザードシリーズもまた、目の前の出来事に反応し続けるゲームです。ゾンビが迫り来る中、わずかな弾薬でどれを倒し、どれを無視して進むか、サバイバルのもの選択連続。この極限状態では、計画的に準備する余裕もなく、その瞬間その瞬間の判断が求められます。目の前の敵にどう立ち向かうか、選択を誤れば命取りになる。そのリアルな緊張感がたまらないんです。

また、『バイオハザード』では自分受動的な存在であることも忘れがたい要素です。閉ざされた場所や限られたアイテムでどう生き延びるか、計画的に「攻略」するよりも、即時の判断と限られたリソースで切り抜けていく。この制約こそが、僕にとっての楽しさの根源にあります

サンドボックスへの苦手意識と7DTDの体験

とはいえ、まったくサンドボックスが嫌いというわけではありません。『7 Days to Die』というゲームも好きで時々プレイするんですが、これもまた計画を立てて生き延びるという点で、僕にとっては少し苦手な部分もあります特にこのゲームは、サンドボックスでありながらサバイバル要素も強い。そのため、ある程度は目の前のことに反応する形でプレイできるんですが、進めていくうちにどうしても「拠点の強化計画を立てなきゃ…」という義務感にかられてしまうんです。

この矛盾が、僕にとってのゲーム体験の興味深いポイントでもありますサンドボックスの中でも「サバイバル」という強い目的があれば楽しめるけれど、その自由さに飲み込まれると一気に迷子になる。目の前のタスクをこなしていくスタイル自分には合っているんだと、7DTDを通じて改めて感じました。

自分プレイスタイルから得た考察

こうして振り返ってみると、僕のプレイスタイルは「選択肢を選び続ける」ことに楽しみを見出していることがわかります人生もまた、選択肢連続です。その瞬間瞬間で選んだものが積み重なって、一つの物語形成されていく。ゲームでの体験はその縮図であり、まるで自分が選ぶことでその世界に何らかの「意味」を与えられるような気がしてくるんです。

逆に、計画を立てて一つの目標に向かって進むスタイルは、どうも性に合いません。それよりも、眼の前の選択に集中し、リアルタイムで物語を作り上げていく。このスタイルが、自分にとっての「生きる」ということなのかもしれません。

ゲームの中で過ごす時間が、僕の人生観を映し出している──そんな風に思える今日この頃です。

anond:20241101124339

加入が義務でなくなると未加入なんですがそれは

anond:20241101123920

壁になってるのは基礎控除ではなく、社会保険料扶養が外れることなんですね

うおぉぉぉぉお、社会保険料加入義務年収200万以上の人にすれば解決だあぁぁぁっぁあ

そうしよう

anond:20241101093644

そもそも今の時点で別に夫婦の姓を夫の姓にすることは義務じゃないんだよな

あくまで今は「選択夫婦同性」なんだよ

anond:20241101105611

住むところがないほうやほしそうな人にあげるという考え方もある

そうすると意外ともめない

その場合負担付きの相続みたいなことを生きているうちにしてもらって、「何かあったら住まわせること」や「何かあったら養うこと」みたいなことを遺言書に書いてもらうという手もある

(もし、ここら辺の義務を履行しなかったら、家庭裁判所申し立てれば取り消すことができる)

anond:20241028215342

そっち?

総務省SIMロック解除義務化によって自分SIMカード入れ替えて機種変出来る様になったから、機種変じゃなくて端末購入だろってツッコミかと思った。

首吊りってロープ吊るすところが意外となさそう

人口1000人当たり1つの首吊り機の設置を義務付けよう

anond:20241029220006

夫婦別姓話題になると、必ず「選択なのだからどっちを選ぶも自由なんだよ、ただ選択肢が増えるだけ」てブコメがついてスター集めてるけど、本当に?

本当に夫婦別姓選択制が導入されたら、同性を選択した人も当事者自由行使として認めるの?

そうは思えないんだよなぁ…

女性側の姓に男性が改姓するならともかく、男性側の姓に女性が改姓したら非難轟轟になるのはほぼ確実では。

 

別姓選択制が導入されたあとで

有名人結婚しました、夫婦同姓を選び、妻が改姓して夫の姓になりました」てニュースが流れたとき

今「どっちを選ぶも自由」と言ってるブクマカはじめ別姓選択制を主張してる方々が、「結婚おめでとう!」とだけ言って笑顔で祝える?無理でしょ。

今でも当事者の完全な自由である、成人同士の結婚に対して、年の差があったら「気持ち悪い」とゲロを吐きかける呪いブコメが一番スター集めてトップブコメになってるんだぜ…ブコメ書いた屑はもちろん、スターつけた連中も酷すぎるだろこれ。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/bunshun.jp/articles/-/66993

トップブコメね。96もスター集めててびっくり。他に

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20231115124241

では「まともな大人なら19歳から求婚されても断るべき」が上位ブコメになってる。「べき」だぜ。義務かよ。男は、年下の女から求婚されたら、年の差にならないよう断るのが義務なんだって。こんなブコメスター集めて上位ブコメになるって…

女性の側も成人した対等な立場大人なのはずだが、なぜか女性の側に「年の差がある男には求婚すべきではない」とはならないのが面白い女性は成人であっても判断能力が無い愚かな存在なので、判断能力がしっかりした男性女性を教え導くべきって考えなのかな)

 

成人同士の結婚での年齢にすらこの反応なのだから、別姓選択制が導入されたあとで有名人結婚して同姓を選び、妻が夫の姓に改姓してたら、ぜったい上ブコメ群と同じように

気持ち悪い」「グロテスク」「夫が妻に変えさせたのだろう、最低」「夫の姓に改姓する〇〇(妻)さんに失望した」「著名人なのだからファンや周囲への影響力を考えて選択してほしい」「古臭い考えの人だったんだね。ファンやめるわ」「意識アップデートしろ!」

自由を認めずに批判する声が集まるのが目に見えてる。

え?「選ぶも自由批判自由だって詭弁をいうなよ。相手に見えるように批判してる時点で、それは相手自由を認めてない、相手自分の望む通りの行動をさせたいって欲望だよ。

 

ほんと、「選択なのだからどっちを選ぶも自由」がまったく信用できなんだよね、いまの言動を見てると。信頼性が全く無い。

2024-10-31

anond:20241029220006

一問一答する人少ないよねきっと。

・同姓にしたい人に迷惑かけないって本当?→私は誰も攻撃したくない。他の人は知らない。

子供の姓どうするの?→自分の子供については、自分と同じでなきゃヤダとか無い。現状、夫の姓だし。選択夫婦別姓になって自分旧姓に戻したとしても、子供の姓はどうでもいい。子供が好きにすればいい。子供を産む前だったと仮定したら、じゃんけんでもくじ引きでも相手希望通りでもいい。世間では現状追認で男親と同一にする家庭が多そうと予想。家制度尻尾みたいで感情的にはヤダけど、人んちのことなので知らない。家制度尻尾直ちに消えるとも、直ちに消えるべきとも思わない。歴史の中でなるようにしかならないと思う。揉める人たちは揉めるしかない。

選択夫婦別姓がないと、男尊女卑が温存されるの?→選択夫婦別姓男尊女卑解消の道具とは思ってないし、道具になるほどの力はないと思う。女が男の姓になるのが大半、という現状維持になるのではと予想。

パートナー制度とか作って保証できるようにした方がよくない?→はい。様々な形態世帯を包括する制度が好み。生計を一にし、相互扶助をし、相続等の権利を有し、一定優遇のある制度兄弟姉妹での助け合い同居とか、友人世帯もあり。子供扶養には優遇あり。貞操義務オプションとか。制度が複雑になるデメリットはあるだろう。

手続きめんどくさいとかはマイナカードに言えば?→言ってる人は言ってると思うけど、私個人手続きめんどくさいもマイナカードしっかりしろも言ったことはない。今、変更する事由が発生してないので。SNSで言ってる投稿いいねしたりはする。どっちも進めりゃいいんじゃない

・むしろ姓にこだわってアインデンティティをそこに求めてる人たちなの?→いいえ。伝統は知らない。幼少期から自分呼称に慣れてて好きだから山田花子でワンセットな感じ。山田花子山田雪子にするのは嫌だし、それの多少薄い版で山田花子田中花子にしたくない感じ。その意味では新姓創設も私個人にはフィットしない。でも、個人特定には番号にして呼称は昔の武将みたいに気軽にどんどん変えてもいい案を見て、それもありかもな、と少し思う。改姓して長い年月がたち、不本意ながら幼少期からの姓ではなくても慣れてしまったのもあるだろうし、素人創作活動ペンネームハンドルネーム愛着を持てるのを知ったので、自分好みの名前ならいい気もしてきている。

ブコメには書ききれないので増田にいっぱい書きました。

論争について

https://note.com/p_and_w_books/n/neee921ea91a9

https://note.com/p_and_w_books/n/nf373db52eab9

作品のもの感想

・そうですか、といったところ。


■鯨井氏のジャッジ

 ・まえがきでは個人的狂気重要視するというようなことを言っている。要するに、ユニークでぶっ飛んだものを読みたいということ。そういう欲求をカッコつきとはいえ狂気」という言葉に託したのはよくなかったとおもう。「おまえら創作者はみんな創作情熱を燃やしてそれに狂ってるはずだろ!なあ!」というのはいかにも一昔前のフィクションに出てくる「天才」像で、古臭くて偏狭ではないか

 ・それでいて、最後他者への回路としての「コミュニケーション希求力」を評価基準に置くのがよくわからない。いや、わかりはする。閉じているように見えつつもその暗闇のなかで他者を求めもがくのが人間普遍的なあり方であり、そうした情熱を持っているように見える作品に惹かれてしまう。その気持ちはわかるが、この文章内にかぎればあんまり文脈的につながってないのでは、と感じる。

  ・「コミュニケーション」を謳うのなら作者の側から歩み寄りばかりでなく、評者からの歩み寄りもすべきだった。というか、それが評論行為であるように思う。最終的に「これは自分感情です」というような文言で閉じたのはよくなかったというか、開かれた場のコンテストでは落とされてもしょうがない。

 ・固有名詞問題固有名詞の持つ読者との「共犯性」を指摘し、作品内で用いられている下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」といったワードの「共犯性」が東京中心主義につながっているのではないか、といったようなことを言っている。

 ・固有名詞の「共犯性」についてはそのとおりだが、基本的にはその固有名詞を使うことでどういった層と共犯関係になれるかという戦略問題しかないとおもう。それが気に食わなさにつながるんならそうですね、あなた不快なんですね、としか言いようがない。

 ・「「下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」を使って真にその意図が伝わるのは、それを知る都会の人びと、「カルチャー」の民のみである。」→これはそうは思わない。下北沢はぼざろなどを例に出すまでもなく東京以外のひとびとにもある一定イメージ形成しているし、フィッシュマンズクリムトに至っては別に東京固有でもなんでもない。

 たしかに並べられると東京中心的な貴族性⋯⋯というかヴィレヴァン的なサブカルクソ野郎っぽさが鼻につくところはある。

 しかし、それが「カルチャー」を愛する人びと特有の一段上から世を眺める視点優越性」に直結するかは微妙なところで、それこそ共犯者に選ばれなかった疎外感といえばそれまで。そして、そこから地方差別へとつなげるのはちょっと無理筋だと思う。

 ・関西弁を含めたトータルのパッケージ差別性を覚えたという感じだとおもう。作者の意図しないチャンネル固有名詞)でヘイトが溜まっていったところで関西弁の歌が出てきて「怒り」が爆発したというところか。

 

 ・全体的には論点の設定の仕方があまり開かれていない。差別性を感じるというのであればもう少し広くわかりすい議論を行うか、あるいは関西人であるという当事者性を突き詰めるべきだったと思う。現状の文章としては後者よりなのだが、あまりに「関西人である自分」が自明のものとして最初から展開されているので、読者には「で、関西人であるあなたがなぜそこまで怒ってるんですか?」がわかりにくい。

 ・いろんなところで中途半端な評だと思う。


ジャッジへの反論

ジャッジの二十倍意味不明かつ閉鎖的ですごい。

・「『見下し』ではなく関西弁の語りのある種の味わい(「特権性」という雑な表現をしてなぜか自分を「関西」に対して下位に置こうとしていたが)に対する憧憬なので『見下し』じゃないんだよ」という言い分はそうなのだろうが、それをただしくオリエンタリズムと呼ぶのだよな。

・中盤の「ここまで説明をしたうえで、「本気で思っていたらこんな書き方はできないだろう」と思われるでしょうか。」に至るまでの説得のロジックがよくわかんない。

冒頭で「なるべく感情的にならないように書く」と宣言しているのに「ここまで説明〜」までは、基本的に「自分はこうおもってこう書きました(あんたや読者の気持ちなど知らん)」と自分感情行為しか書いてない。

関西弁の語りの「特権性」に憧れた→まあわかる。

 本当は全部関西弁にしたかったけど、自分技術じゃ無理→すげえわかる。

 だから、一首だけ関西弁にしたお!→え???

(なんか「一首だけにしといてやった」が非関西人としての譲歩だった、とも読める。マジでこれは意味がわからない。) 

・「関西の人の反応を探るために歌会に出した」パート。実際に当事者から方言に関して否定的な反応が返ってきた、と自分で言ってる。

それを「連作という文脈で解消できるのではないか」と考えたらしい。なんで読者がああい作品連続性を確認しにくい場で連作であることを前提に読まなきゃいけないのか意味がわからない(鯨井さんはジャッジからそこらへんい対してはある程度の義務はあるとは思う)というのはまあ置いといこう。

で、「連作という文脈」がなんなのかというと、「作品主体視点人物)が東北人の上京者」であること。

ここらへんの説明がまじで意味わかんなくて、

主体東京出身人間ではないということを明示することで「標準語方言」の権力構造をとっぱらえないかと画策しました」

というのがほんとうにわからない。視点人物東北出身だと関西弁に対するオリエンタリズムが解消されるの? 標準語方言権力関係無効化されるの?? なんで???

しろ、この作品場合主体標準語権力性に乗っかって(実際、歌の大半が標準語で書かれている)、方言搾取してますって構造に見えませんか???

さら問題なのは「今回の文化盗用かどうか、わたしには判別できませんでした。」とか言っているところで、いやわかってないって自覚あるなら「連作で解消できてるとおもう!」とか言うなよ。

関西弁マイノリティといってしまっていいのか〜」のあたりはなにがいいたいのか不明瞭だけど、つまり東北弁は関西弁に比べてよりマイノリティ性が高いから、俺には関西弁をいじる権利がある」って言いたいの? なにそれ?

・そのあとの文章はぐだぐだしてるけれど要約すれば「憧れだから差別じゃないんです」というようなこと。サイードを読め。平凡社ライブラリにある。

・「下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」問題

 ・「そこに「無意識的な共犯性」「優越性」があると断罪できる根拠がどこにあるのかよくわからない」はクリティカル反駁だとおもう。そこらへんは前述のとおり。このへんの反論内容もいちいち書き出さないがリーズナブルだと思う。

 ・「最後感情に走られてしまった部分についてはどこか不信感があります」→作者でなくてもそうなりはする。

anond:20241031101352

死んでも返却義務はないからな

ワイもデパス大量にもらったで

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