「客観的」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 客観的とは

2018-07-17

[]

今回は少年ジャンプ+

探偵放課後に笑う

個性ギャグ漫画が何かとは一口はいえないけれども、本作は数週間後には存在のもの記憶からなくなってそう。

これといって特徴のないプロットに、ギャグ漫画的なキャラを押し込めた感じ。

プロットのもの面白みが皆無だからキャラクター紹介以上の意味を持っていない。

台詞回しとか、ツッコミポイントを無理やり作って何とか体裁は保っているけれども。

別にまらなかったというつもりはないけれども、ジャンプ+は掲載作品が多くてギャグコメディも粒ぞろいだから、それで培われた基準から見ると、このレベル作品はどうしても下から数えた方が早い部類になってしまう。

あやかされて家族計画

プロットに関しては、まあそういう作品だと割り切るなら可もなく不可もなくって感じ。

妖怪人間カオス状態ちゃんと描いているシーンが少ないから、どうも舞台装置的な感はする。

気になるのは構図とコマ割の方かな。

ヒロインとかの顔面ドアップのコマが多すぎるのと、コマキャラセリフもろもろ詰め込んでいるから全体的にページが窮屈に感じる。

作家の見せたいものと、構成上見せるべきものの配分がちょっといかなあ。

巨大化したヒロインたちの構図にいまいち重厚感がないのは、巨大なもの効果的に見せるための原則がないからだと思う。

巨大なキャラ主人公との対比のみの絵で済ませてしまっていて、影のつけ方とか独特な構図だとか、分かりやすい背景を置いて対照的に見せるだとか、そういうのがおざなりになってる。

あと、オチに関しては何となく読めた。

主人公のことごとく裏目に出る不幸体質から考えて、その主人公可愛いと思った相手がタダ者ではないことは明白だったし(そこにもうワンクッション置いてミスリードさせようとしているのは評価したい)。

周学旅行

超常現象の壮大さに対して、問題主人公のごく狭い範囲での解決に終始しているあたり、ジュブナイル的というか。

構図や、キメ絵を合間にしっかり挟んでいて、絵的に中だるみしにくいよう配慮している。

本作の問題解決の決め手は卓球なわけだけれども、ちゃん卓球での勝負シーンも派手に描いていて手を抜いたり誤魔化したりしていない。

決着そのものは描かれていないけれども、そこは描く必要がないってことを割り切っているあたり、構成力もあると思う。

ループの原因と、主人公がそれを脱却するために奮闘するのが対照的になっているのも良い。

兄の妻と旅行する話

終始、男視点で語られるけれども、極めて女性的な物語ではある。

いや、別にジェンダー論をあれこれ語るつもりはないし、この作家女性かどうかは知らないけれども。

自己感情の向き合い方とか、傾向の話として、レディース漫画チックっていう印象を持ったってことね。

そういう漫画って、「自分がどう思えたか」っていうことがそのままアンサーに繋がりやすい。

そこに行動は必ずしも直結せず、なんなら自分以外の当事者言動必要以上の意味を持たないこともある。

主人公の兄やその妻は人格を読み解きにくいよう描写されていて、セリフで断片的に語られこそするものの、実際は何を考え、どう行動しているのかってことは最低限。

主人公客観的にみて愚かな言動をしてしまったとしても、二人はそれを強く諌めたりしない。

なぜなら本作で重要なのは主人公劣等感や、それとない交ぜになった恋慕に対して自身がどう向き合うかだから

anond:20180717102111

客観的に「フェミ侮辱と騒いでる」ことが認められただけだぞ

2018-07-15

自分普通客観的な人、と思っている女が

 他の日本人に対する優越性を自慢しているだけ。

不倒城のしんざきがなんかはてなで受けてる理由が分かった

http://mubou.seesaa.net/article/460524744.html

こいつ、両論併記っていうか、両サイドに気を遣ってるっぽく見せかけるのが妙に上手いんだ

実際に言ってることは100%断定区長ブログとかニュースサイトとかと変わらないんだけど、

口調とか構成とかでなんとなく「中立客観的です」みたいな感じにしてある

からはてなの「なんとなく中立視点もの見れてます」っぽい論客(笑)気取りの連中に受ける

はてなの連中と合わせて底が知れる

2018-07-14

[] 弁護士法治国家否定

法治国家日本

法曹関係者には、いろいろな考え方の人がいる。

法治国家否定するラディカルな思想を持つ人がいても、おかしくはない。

しかし、日本が人治国家になったら法律無用法務を専業とする弁護士不要となり、自らの存在意義否定する「矛盾」に陥るのではないか

 

オウム事件とこの集団対応は、この「前例のない事件に対しては前例のない体制で」でやってきた。それだけの大事件であり、特異な集団であり、特異な思想だったからです。

で、今回の支援要請につき、国が応えられないなんてありえない筈、と確信しています

・その必要性があり、決して憲法違反するものではなく、法令違反するものでさえないのだから

日本が、テロと闘うならば、そのテロ行為の背景などにも対応していくことによってこそ、「闘う」といえるのだから

助けてください。

 

滝本弁護士の主張から、鍵となるキーワードを拾ってみよう。

  1. 前例のない」
  2. 憲法違反
  3. テロと闘う」

 

前例のない」

社会は常に変遷して行く。かつてない状況に出会ったら、新たな対処方法確立する必要がある。そこまではOKだ。

しかし、最初は手探りの試行錯誤ゆえ不具合が生じた場合、後でちゃん不具合修正できるのか?

ロールバック可能手段も用意されているのか?

 

滝本弁護士独断で、関係者の利害を調整することなく、物事を強引に進めてしまった場合、その結果重大な人権侵害などが起きても、ちゃん回復できる仕組みも併設されているのか?

新規対応で失敗しないためには、ちゃん保険もかけているのか?そこを注意深く観察する必要がある。

デリケート問題を扱うにしては、十分な議論を尽くすだけの「慎重さ」が欠けていないか

 

万一、間違った前例を作ってしまった場合、後戻りできなくなるのでは困る。

歴史を振り返ると、人類は多くの失敗を繰り返している。(同じ失敗を繰り返すのは、単なるアホでしかない。)

前例がない」場合こそ、十分に時間をかけて話し合い、慎重に対処すべきという「共通認識」が必要だ。

 

憲法違反

人々の利害関係の調整は、政治家法曹職務である

民事および刑事係争は、法律というルールに基づいて解決を図るべきだ。

なぜ、滝本弁護士は、他の利害関係者と対話の機会を持たないのか?独断偏見で話を進めていないか

司法試験勉強をしたなら、少なくとも一度は日本憲法を読んだことがあるはずだ。

1945年昭和20年)に、ポツダム宣言を受諾して連合国に対し降伏した日本政府は、そこに要求された「日本軍の無条件降伏」「日本民主主義的傾向の復活強化」「基本的人権の尊重」「平和政治」「国民自由意思による政治形態の決定」などにより、事実上憲法改正の法的義務を負うことになった。

そこで連合国占領中に連合国軍最高司令官総司令部の監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成し、1946年昭和21年5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、同年1946年昭和21年11月3日日本憲法として公布され、その6か月後の翌年1947年昭和22年5月3日施行された。

第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種信条性別社会身分又は門地により、政治的、経済的又は社会関係において、差別されない。

 

なぜオウムだけは差別して、議論の輪から外しても良いと言えるのか?(言っていないなら問題ない。)

好き嫌い」という感情ではなく、「真偽」という論理、すなわち法律ルール)に基づく説明ができなければ、法曹としては失格だ。

パブリックコメントを発する以上は、他者から質問に答える義務がある。(質問を受け付けないのなら、それは単なる独り言しかない。結果、他者聞く耳を持たず、自身孤立する結果を自ら招くだけだ。)

滝本弁護士には、公開の場で質疑応答を行なうだけの「誠意」を見せて欲しい。

  

テロと闘う」

テロ」といえば昨今の「テロ等準備罪」を巡る議論を思い出す。

日本では犯罪を実行したことを罰するのが原則です。それに対して、共謀罪犯罪計画合意したこと自体を罪ととらえ、犯罪を実行する前に処罰しようというものです。深刻な犯罪を未然に防ぐことが狙いです」

 

「新々過失論」(危惧感説)

「過失」を巡る法理の分類は、歴史的に「旧過失論」「新過失論」「新々過失論」(危惧感説)などが挙げられる。

 

 

テロ等準備罪は、危惧感説に基づく新しいタイプ法律と言える。日本では、藤木英雄先生先駆者として有名だ。

藤木英雄1932年2月20日 - 1977年7月9日)は、日本刑事法学者。元東京大学法学部教授

戦後の数ある刑法学上の論争の中で、実務上最も重要な意義をもったのは過失責任を巡るものである

藤木は、高度成長期において非伝統的な犯罪が多発するという状況に際して、新たに企業側の過失責任拡張することで、被害に苦しむ市民を救わんと尽力し、新過失論を一歩進めて「新・新過失論」・「危惧感説」を提唱した。

危惧感説が登場する以前の新過失論は、逆に伝統犯罪交通事犯に対する過失責任限定意図していただけに、画期的な転換といえる。

危惧感説は、後に板倉宏らの一部の学者検察官の支持を得て、森永ヒ素ミルク中毒事件採用されるに至ったが、北大電気メス事件( 札幌高判昭 51.3.18 高刑集 29.1.78) では明確に排斥されており、学会でも一般的な支持は得られなかった。

 

日本ではまだ、危惧感説に基づく国民合意形成が十分になされている状況とは言えない。(テロ等準備罪も始まったばかり)

従って、滝本弁護士が、「テロと闘う」という大義名分の下、かつてない法的判断要求するつもりならば、日本国民に対する説明義務が伴う。

滝本弁護士が単なる思い付きや感情論で言っているだけなら、後世に悪影響を残す有害前例を作ってしまうかもしれない。

ハッタリではなく、滝本弁護士が藤木英雄先生の業績を踏襲し、発展させる意気込みがあるなら、一概に有害とは言えない。

 

この点については、オウム限定する必要がない。

なぜなら、日本国民全員の利害に関わる問題からである

従って、公開の場で議論を尽くされなければならない。

どのような方法で公開討論を進めていくべきか?日本国民全員で検討する必要がある。

(滝本弁護士には「オウム問題を風化させたくない」という思いがあり、さら法治国家否定しているわけじゃなければ、この結論に至るだろう。)

物事客観的に見る必要があって

また、起こらなかった出来事にも物語存在しているのです。

先の豪雨で、グルがその命と引き換えに関東を守ったことは誰もが知っています

anond:20180711205454

どうも。元増田です。

文章書きなれてないせいで、いろいろ伝わらなかったところがあるようなので、もうちょっとちゃんと書きます

音楽学者の輪島さんや増田さんは、新聞とかで「演歌日本の伝統ではない」ということを、まるで客観的事実であるかのように言ってるわけです。

さらに、ネット上のリベラルっぽい人たちがそれを支持するという構造になってしまっていて、僕はそのことを批判してます

増田トラバーのかたがたがおっしゃってるように、伝統というもの自体共同幻想だというのが、とりあえずのファイナルアンサーなわけですよね。

伝統共同幻想」だとすると、

演歌日本の伝統ではない=演歌日本共同幻想ではない」ということになる。

輪島さんは例の演歌本で、「演歌という戦後日本共同幻想」をさんざん分析してるんだから

演歌日本の伝統共同幻想)ではない」

という結論になるのは論理的にもおかしい、ということです。

しかに、例の演歌本には「演歌日本の伝統ではない」ということは書かれてないです。

でも結果的に、ネット上のリベラルっぽい人たちが、あの演歌本を根拠にして「演歌日本の伝統ではない」みたいなことを客観的事実であるかのように言ってるし、

その流れに乗って、輪島さんや増田さんもそういうことを言ってるんですよ。

それはおかしいでしょ、ということです。

いや、僕は個人的には、演歌日本の伝統ではないと思ってるんですけど、それは個人主観的価値観なんですよ。

僕はナショナリストなので、日本の伝統はかっこいいものであってほしいし、個人的演歌がかっこいい音楽だとは思えないので、演歌日本の伝統ではないとみなしたい、という「個人の感想」です。

から演歌日本の伝統だと思う人がいても、特に問題がない、はずです。単なる好みの違いでしかない。

でも、輪島さんやその支持者のひとたちは、

演歌本来的に日本の伝統ではないのだから演歌日本の伝統」は歴史修正主義ナショナリズムだ」

みたいな感じになっちゃってるわけです。

追記

それと「音楽音楽学の違いについて」なんですけど、

いろいろ書くと、音楽学を知らないくせに偉そうなこと言うな、みたいな感じになると思うので、とりあえずやめとく。

でもさ、音楽学を知らないくせにって言うんだったら、音楽学者って音楽のこと知ってるの?って思っちゃうんですよね。

何の権限があってそんな偉そうなことを言うのか。

過去の偉い学者の言説を学んだのかもしれないけど、その過去の偉大な学者だって音楽現場に直接かかわってたわけではないんですよ。

まり音楽学」という枠の中だけで論考を積み重ねてるだけなわけで、結局のところ。

それは実際の「音楽」どういう関係があるのか、みたいなことは思ってしまます

ようするに、

音楽学者の人が「演歌日本の伝統ではない」って言ってるから演歌日本の伝統じゃないんだよー」

みたいなネット空気違和感

あと、id:ohchidani さんにidコールが飛ぶのかどうか。確か、増田からidコール飛ばすことはできないんじゃなかったけ?

2018-07-13

anond:20180713195452

しかにそうだよな

客観的に思えてる時が一番やばいのかもしれん

2018-07-10

anond:20180710013954

論文の初めの方流し読みしました。芸術作品美的感覚等を論じているようですね。まぁそれは主観が影響する分野だと思います

私が指摘したのは、自然界のフォボナッチ数列とか対数螺旋とか。

https://otoriyosegurume0141.com/2018/02/10/fibonaccisequenceofmystery/

あと生殖が関わってくると、美しいと感じるポイントさらに複雑化します。動物行動学の先のシンメトリーまり生殖に有利かどうか。

さら個人趣味趣向育ち環境等々で、色々です。どれが絶対的な美なんて人間にはないです。幸いな事に。私自身も女性の好みが変わりやすタイプ

ただ、やっぱり客観的共通項として(例えばシンメトリー黄金比)など基本部分はあると思います

で、最初の、日本人の頭の形(デカくて扁平で後頭部が絶壁)とか、顔の彫りとか、ガニ股とか、足が寸胴で胴長短足などが、美しくないと感じるのは、生物学的または造形的にどういう理屈づけになるのか、知りたいですね。

anond:20180710004630

いや、自然界の美しさは、黄金比かの法則づくしだよ。相対的ではない。お歯黒なんかはファッションの移り変わりと考えればよい。客観的な美しさとか魅力を感じる形というのは色々研究結果でてる。

anond:20180710002920

かに、何をもって美しいかというのは主観的ものだ。お歯黒なんて今じゃキモイだけなのと同じ。

ただ、普遍的な美しさというのはやはりあって、客観的ヨーロッパ系の造形的美しさはある。頭の形とか、顔の彫りとか、日本人のようなガニ股じゃないとか、足が寸胴で胴長短足でないとか。

2018-07-09

anond:20180709194048

なんでキモくて金のないおっさんフェミニストは何事にも客観的判断ができる全能の存在だと思ってるの?

2018-07-07

anond:20180707150628

演歌は創られた伝統」というのは要するに、「演歌はニセモノの日本の伝統だ」ということですよね。

「ニセモノ」というのは、「ホンモノ」があるから成り立つわけです。ホンモノが明確ではないのであれば、ニセモノも明確ではないということになる。

だとすると、

演歌はニセモノの日本の伝統だ」という主張をするためには、

「これがホンモノの日本の伝統だ」という主張が必要不可欠なはずです。

これは正しい。

まずそもそも日本」という単位自体ナショナリズムのものといっていい。

ゲルナーは『民族ナショナリズム』において"政治的単位民族単位を一致させようとする政治的原理"をナショナリズムと捉えた。

日本の伝統と言ってしまうと必然的にそうなる。

肯定する場合でも否定する場合でも主語日本にしてしまうとそうなる。

国家及び民族主語にして語る時点でナショナリズム的と言っていい。

演歌はもともと西洋音楽から日本の伝統ではない」

ということを自明であるかのように語る人がいっぱいいるけど、全然自明じゃないです。

もし仮に、日本は古来から文化的排他的海外のものを寄せ付けなかった、とかい歴史的事実存在するのであれば、

演歌はもともと西洋音楽から日本の伝統ではない」というのは正しいと思います

でも実際には、そんな歴史的事実存在しないんですよ。

箏も三味線も、もともとは海外ナウい楽器だったし、雅楽ももともとは海外ナウい音楽ジャンルだったわけす。

仏教インド発祥だということはだれでも知ってることのはずです。

ようするに、もともと海外のもの伝統になる、ということは日本では古来から普通のことだったわけです。

というか世界的に見てもそれが普通なんですよ。


この段落は非常に雑だし、前提がおかしい。

当該社会集団が何を選択的に残し、何を排除たか。何をナウいと考え、何をダサい判断たか

その価値判断は誰によるものか。どういう思想によるものか。

そういった当該社会集団による意図的選択連続としての受容史を単なる伝播、自然淘汰と読み違えている。

インド仏教日本仏教は全く違いますよね。

また、楽器で例えるなら韓国伽耶琴と日本の琴は全く違いますよね。

ダルシマーヤンチンは全く違いますよね。

文化は伝播してもそのまま伝わるわけではなく、ある種の選択判断が生じている。

雅楽だって日本韓国昔ながらのスタイルのままだと主張しているが、実際には微妙な違いがある。

その価値判断伝統の名の下にくだすのがナショナリズム的言説でしょ。

たとえばですよ、

正月によくかかる「春の海」という曲はたいてい「伝統音楽」の棚においてあります。この曲は洋楽邦楽ハイブリッドです。形式的には完全に西洋音楽です。

から

「春の海は形式的には洋楽から日本の伝統じゃないよ」

という意見もあります。でも同時に、

作曲者バリバリ邦楽演奏家なんだから日本の伝統じゃん」

という意見もあるわけです。

で、このふたつのどちらが客観的に正しいかということを実証することは不可能です。人それぞれ価値観が違う、としか言いようがない。

いやそもそも音楽学者で《春の海》をそういった視点分析する奴は今日びいないです。

伝統かどうかというのはもはや何の問題提起にすらならないんですよ。

なぜならその枠組み自体幻想だという前提で読むからね、まともな音楽学者は。

伝統」とはなんなのか、「日本」とはなんなのか、「音楽」とはなんなのか、

とういうような哲学的な問いにきっちり答えないといけないはずなんですよ、もし演歌はニセモノだと言いたいのであれば。

「創られた伝統」という概念と「創られたわけではない伝統」という概念は、どこがどういうふうに違うのか、

ということを哲学問題として、きっちり論理的説明しなきゃいけないはずなんですよ。でも、そんな作業してる音楽学者なんていないですよね。いたら教えてください。


とっくに議論されています伝統の創出についてはホブズボウムがまず前提。

ヘルダー、ダールハウスタラスキン、ヴィオラリーマン、リッサ、アドラーも読んでどうぞ。

特に19世紀ヨーロッパナショナリズム芸術関係が盛んに論じられていたので、

この分野の先行研究として学びがある。ロシアスペインフィンランドハンガリーなどなど。

繰り返すけど伝統って自然に生じるものではなくて、外と相対化されて初めて気づくものだし

伝統自体共同体による幻想なんだよね。

割と最近テレビラジオ地方地方性を駆逐したのではという話もあって面白い

北海道沖縄も、東京の発信する音楽文化に染まってしまったという話で、

それが国家音楽民族音楽だと大衆勝手に読み替えられているという話ね。

音楽って人間社会性そのものだよねってのはブラッキングの『人間音楽性』の指摘だが、

そういう純粋なる民族性の罠にはまってないですか。増田

あれ、演歌の話どこいった。

なぜ「演歌は創られた伝統」もナショナリズムなのか anond:20180706173405

文章書くの苦手なので断片的な感じなってしまます

演歌は創られた伝統」というのは要するに、「演歌はニセモノの日本の伝統だ」ということですよね。

「ニセモノ」というのは、「ホンモノ」があるから成り立つわけです。ホンモノが明確ではないのであれば、ニセモノも明確ではないということになる。

だとすると、

演歌はニセモノの日本の伝統だ」という主張をするためには、

「これがホンモノの日本の伝統だ」という主張が必要不可欠なはずです。

演歌はニセモノの日本の伝統だ」という本を書く前に、

「これがホンモノの日本の伝統だ」という本を書かなきゃいけないはずなんですよ。

でもそんな本書いてる人いないですよね。



演歌はもともと西洋音楽から日本の伝統ではない」

ということを自明であるかのように語る人がいっぱいいるけど、全然自明じゃないです。

もし仮に、日本は古来から文化的排他的海外のものを寄せ付けなかった、とかい歴史的事実存在するのであれば、

演歌はもともと西洋音楽から日本の伝統ではない」というのは正しいと思います

でも実際には、そんな歴史的事実存在しないんですよ。

箏も三味線も、もともとは海外ナウい楽器だったし、雅楽ももともとは海外ナウい音楽ジャンルだったわけす。

仏教インド発祥だということはだれでも知ってることのはずです。

ようするに、もともと海外のもの伝統になる、ということは日本では古来から普通のことだったわけです。

というか世界的に見てもそれが普通なんですよ。



いや、もちろん、

江戸時代以前から正統的に続く伝統こそが日本の伝統である。ゆえに演歌日本の伝統ではない」

という立場をとることは可能だし、そういう立場があってもいいと個人的には思います

でも、

江戸時代以前から正統的に続く伝統こそが日本の伝統である

という立場普遍性はないわけです。

そういう考えが客観的に正しいとすることができる根拠は、皆無です。

何の根拠もないのに、多くの人が、そういう考えを無自覚採用してしまっているという状況は「ナショナリズム」としか言いようがないと思うんですけど、どうでしょうか。

もし仮に、「演歌は千年前から続く伝統である」みたいなことを言ってる人がいたら、それは歴史修正主義です。

でも、そんなことを言ってるひとはいないわけです。




というかそもそも、何が日本の伝統なのかなんて、どうでもいいことなんですよ。



たとえばですよ、

正月によくかかる「春の海」という曲はたいてい「伝統音楽」の棚においてあります。この曲は洋楽邦楽ハイブリッドです。形式的には完全に西洋音楽です。

から

「春の海は形式的には洋楽から日本の伝統じゃないよ」

という意見もあります。でも同時に、

作曲者バリバリ邦楽演奏家なんだから日本の伝統じゃん」

という意見もあるわけです。

で、このふたつのどちらが客観的に正しいかということを実証することは不可能です。人それぞれ価値観が違う、としか言いようがない。


音楽伝統というのは、原理的にそういうものなんですよ。

そういうものというのは、何が正しいということではなくて、

学者のひとが本一冊書いただけで何が正しいのかが決まってしまうようなものではないということです。

何が正しいのかを一概にいうことはできない、というのが「音楽伝統」の概念です。

それが違うというのであれば、なにが正しい「音楽伝統概念なのかをきっちり説明しなきゃいけないはずです。


伝統」とはなんなのか、「日本」とはなんなのか、「音楽」とはなんなのか、

とういうような哲学的な問いにきっちり答えないといけないはずなんですよ、もし演歌はニセモノだと言いたいのであれば。

「創られた伝統」という概念と「創られたわけではない伝統」という概念は、どこがどういうふうに違うのか、

ということを哲学問題として、きっちり論理的説明しなきゃいけないはずなんですよ。でも、そんな作業してる音楽学者なんていないですよね。いたら教えてください。

輪島さんは本の中で、多様性が云々とか言ってるわけですよね。

音楽が多様なものであるならば、日本音楽伝統も多様、ということですよね。

日本音楽伝統も多様であるならば、演歌日本の伝統でいい、ということになるような気がするんですけど、どうなんでしょう。

演歌日本の伝統になってはいけない理由はなんなのでしょう?

「おまえはもともとヨーロッパ人から日本人ではない」

という理屈ガチ正当化しようとする人はあんまりいないと思うんですけど。

それとこれとは話が別だ、というのであれば、どうして話が別だといえるのか、説明必要だと思います

とりあえず、ここまで。

2018-07-06

anond:20180706142226

この問題本質は、みんなが合意できる客観的合理的な唯一のゴールがない、ということです。

連絡だけでよい、という一派と、連絡だけでなく雑談必要だ、という一派と。とちらも一理あるといえばある。

企業なら売上で線を引けるけど、こういう組織は唯一解がない。むずかしいところです。

anond:20180705175038

分析が甘い。口調は性差ファクターでは無い。

断定口調が男。短文。結論をさっさと書き、過程は長々と書かない(説明不足なことも)。自分のことであっても他人事のように超越した目線事実を述べるように書く。または事実を述べる。感情を持たない無機物であっても、話の主軸になりうる。論破したがる。

共感させようとするのが女。長文。過程が長く、結論が出てくるのが遅い、または結論が無い。話の主軸には必ず「人物」があり、客観的事実でなく主観を述べる。必ずなんらかのエモーティブな単語が挿入される。

anond:20180706122217

客観的に見るならば、これは殺生です。

しかし、母体保護法の考え方が背景にあるならば、これは立派な医療です。

anond:20180706120017

客観的に見るならば、これは拷問です。

しかし、ヴァジラヤーナの考え方が背景にあるならば、これは立派なポアです。

2018-07-04

客観的データ」なんて集めたら一瞬で灰燼に帰す業界だよな

anond:20180704173002

子供性的に消費するのは吐き気を催す邪悪だよ

OK、個人の感想内です

あれを善良とかズリネタと思うのはロリコンだけだし

NG、「だけ」であるかは客観的データ必要です

それだけで最悪だよ

OK、個人の感想内です

アーカイブ ヘルプ
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん