はてなキーワード: 物理とは
以前、博多のソープを予約できなかった日記(https://anond.hatelabo.jp/20211005054439)を書いた40男です。
・美人と裸で2人きりになっても興奮しなかった
・挿入したけど挿入した感覚がなかった
という大きな疑問が残った。
そして同時期にブコメの指摘にあったように、性欲が減退してきているのに気付いた。
ムラムラしたり、オカズの動画を探すなんてこともなくなってきた。
たった一度、しかも中途半端な体験で終わるのが怖くて、3度目のワクチンのあと、ソープに何度も足を運んでしまった。
まず考えたのは、「好みのタイプじゃないから興奮しないのでは?」ということだった。
そこでネットで評判のいい大衆店で、プロフィール写真を見て好みの女性を探し次々と入ってみた。
いまはパネマジは少ないようで(それでも店によっては騙された)、写真通りの若くてかわいい子が出てくる。
最初にイチャイチャしているときは気分が盛り上がるが、いざ素っ裸でベッドに上がると、なぜか興奮は失せてしまう。
そうなると若い子は技術がなく、「受け」であることが多いため、そもそも挿入すらできないことばかりだった。
ではテクニックのある人にお願いしようと、アラサー女性中心の店に行ってみたところ、テクニックが抜群でフィニッシュにいたることはできた。
でも興奮はなく、挿入した感覚もなく、快感というよりただ「強制的に排出させられてる」という感覚が強い。
女性からは、抵抗がなければゴムなしの店に行ってみては、とアドバイスを受ける。
病気が怖くて踏み出せなかったが仕方ない。
少しでもリスクを避けるために高級店に絞った。
プロフィール写真だけでは騙されるので、日記やツイートまでもチェック。
高級店は料金もそうだが、2時間が基本なので外れると精神的にキツイだろう。
当日、最寄りの駅から初めて送迎車に乗る。
ボーイさんも年配の方が多い。
待合室で無料で出されたウーロン茶を飲みながら過ごすうち、姫の準備ができてご対面。
綺麗な人でした。
部屋に移動すると、さすが高級店、広い。
籐椅子に座るよう促されて、座ると服を脱がしてくれる。
脱がし終わるといきなりお口で咥えてくれて、こんな美人が洗いもしない自分のを舐めていることに当惑。
さらに「元気だね、ここでしちゃおっか」といきなり椅子の上でまたがられて、何も着けないまま挿入されてしまう。
「温かい」とか「締め付けられる」ような感覚は何もなかったのだ。
ベッドに誘われるが、萎えたまま。
心配されたので、いつもこうだと応えると、得意のヌルヌルをやってくれるということになり、風呂に移動。
さすが得意だけあって凄かった。
(あんな美人に足の指一本一本しゃぶられるとか、ありえない。)
未知の刺激と姫の腰使いで無事フィニッシュ。
それでも、私は途方に暮れていた。
=興奮している(出したい)ときに、他人によって射出させられるから激しい快感が起きる
大枚をはたいて得たのがこの解答だった。
もちろん、すべての男性に当てはまるわけでないだろう。
そんな考えに至りつつも、姫とは大幅に時間を余し、1時間近く雑談した。
「こういうところでは、お互いときめきなんかを飛ばして会っているけど、それでも繰り返し会う信頼関係は大事」
「いままで会った女の子で、もう一度あった子はいる?(いない) それもあるんじゃない? いろんな人がいて、生でしたいから来る人もいるし、わたしに会いたいって来てくれるお客さんもいるよ」
「(あなたは)女性で言ったら開発され始めた段階なんだから、気持ちよくなくても当たり前なんじゃないの?
帰りの送迎車に揺られながら、もう一度会いたいと思える姫に会うまでにどれくらいの金額が要るのか想像したら頭が痛かった(今日の女性だって客観的には普通じゃ相手にもされないレベルだ)。
続けるのか、ここが潮時なのか、迷っている。
凄い。
トランプを引くだけのギャンブルは本当にただトランプを引くだけで誰もセカンドディールみたいなことはせずただ全員が淡々と引いてくるから驚く。
おかしい……普通こういう展開になったらこっそり数枚引いてるやつや持ち方で数字をごまかすやつがいるはずだ。
コイン入れも最初の調整が適当すぎて完全な運ゲーになっている。
ありえない……脱脂綿も傾けもないし表面張力を見破って途中で一気に加速させるやつもおらずビンゴゲームでただ数字を待っているようなものだ。
神経衰弱にてようやく運以外の要素が絡んでくるが……ただ記憶力が絡むだけだ。
シャッフルを戦略的に使うこともなくただ誰かが当てそうになったら妨害するだけで終わるので本当に凄い。
最後のロシアンルーレットは流石に物理的な重さとか回転回数とかで何かをやると思っていた……思っていた……信じられない……。
この映画は本当に凄い。
ギャンブルが運任せというよりも、やっている連中が運任せなのだ。
生死のかかった極限状況の中で、生き残るために尽くす最善がただ祈ることと神経衰弱のカードを覚えることぐらいだ。
ギャンブルを扱う作品とは究極を言えばイカサマと駆け引きを扱う作品だ。
そこで誰もイカサマをしなかったら何が起こるだろう?
もう何も起こらないのである。
すごい映画だ。
だがこの映画に描かれる「死にものぐるいで最善を尽くす気はないが、俺は運よくうまく凌げるはずだ」という多重債務者特有の思い込みはカイジ以上に描けているのではないか?
カイジシリーズに出てくる債務者は逆転を目指して努力をしすぎている。
そのガッツがあるならもっと早く頑張ればよかっただろと言いたくなる。
それよりも「人生逆転ゲーム」の語る多重債務者は最後までまともに努力なんてしないで全部運任せだよだってそういう奴らだものという態度はより強い説得力がある。
凄い映画だ。
単に借金まみれのクズにトドメをさすためだけなのに大規模な施設なんて不要と言わんばかりの態度だ。
世の中には世界を牛耳る巨大な黒幕がいるというギャンブル漫画的世界観からほんの少しダウンサイジングするだけでグっと世界に生臭さが増す。
これは凄い。
本当にこういうことが起きているのではという説得感では本家を上回っている。
圧倒的低予算で作られているのだから本家に一つでも優ればもう十分だろう。
すごい映画だ。
結婚相談所に登録してる400万以上年収のある男性、ほぼ全員が比較的まともな親から生まれたこどおじで、キチガイ親に囲まれた機能不全(物理)家庭出身の非正規こどおばの自分と全然話が合わなくて、相手男性の育ちのまともさからくる眩しさに目が潰れて普通に泣きそうになったからやめた。
家族で外食なんて幼少期に一度か二度あったぐらいだわ、ゴミ屋敷だから他人をおもてなしすることも無いし。
数学者の岡潔の情緒論をたまたま動画で見たのですが、ところどころ自分と共通する結論に達しているところがあり、なるほどやっぱりなあと頭を何度か頷かせました。
は、やはり情報補完という技術の域をあまり出ない技術だと思いました。岡潔の言う情緒から発生する智よりもそれら技術は抽象度が低いのです。
とは言っても、欧米人が大好きな緻密な論理も、その発展物であるコンピュータも、情緒ないし直感も、相反するようで、内実それら二つの智は地続きで人の頭の中で常に相補相乗して何かしらの筋肉運動へと変換されていますから、これらの捉え方は政治における右翼や左翼といった不毛な論争をするための物差しのようであり、事を知るきっかけみたいなものでもあり、機会と思考の拡張以上でも以下でもない一種の流行的なら認識手法であると割り切って観察すれば何か穏やかな感じがします。
自分は高度な数学どころか高校生くらいの数学も、概念をチラホラと知るくらいで、まともな計算訓練をしたことがないですが、論理をカンストしたと自分で思ったタイミングがあります。論理をカンストするとは、「人間が人間である以上は習熟し得ない、もしくはまったく到達し得ない知の領域までの論理的な到達手法を発見した」というような意味で使っています。もちろん、現実的時間内での到達手法です。もしそうでないなら、無限の時間やエネルギーを想定しさえすれば誰でも簡単に論理をカンストできてしまいます。
その観点から観れば、今この社会の中を生きる多くの大人たちは、車輪の再発明を、時代と共にアップデートされた道具を使って、ちょっと違う色や形や量や時間の使い方でもって何度も再現しているだけのように観えます。これは継承という親から子へ引き継がれていく営みに対する喜びや自己満足の歩みであり、多くの場合その歩みの中に真なる野心などないということがうかがえます。本質的には、一人一人が自分の体と感覚とその時代にある新しい道具を使って先人の追体験をしているだけという場合がほとんどということです。そうした営みに対して尋常ではない対価が与えられるのが欧米人主導で生み出された現代社会です。
しかしこうした継承ないし営みは、ネタは出尽くしているから当然といえば当然であり、例えば元素の数が大きく変わったりしたわけでもなく、物理法則が変わったわけでもなく、人間のもつ感覚器の細胞の数や種類が誤差を超越して変化したわけでもありません。仮にそれらが変化したとしたら多くのこと、もしくは全てゼロからやり直しかもしれません。しかし、今のように先に進まないのであればいっそゼロにすれば良いのではないかとさえ思う時もあります。
中世という名の暗黒の時代を乗り越えた人類は現在、白黒の時代を生きています。この白黒の時代はいつまで続くのでしょうか。
制御を失った先には必ず痛みがあります。我々には身体中のあちこちに痛覚がありますが、この痛覚の上限を超えて与えられた刺激は周辺組織の量的な死と連続して繋がっています。我々は痛覚を頼りにこの死から免れて生き延びてきました。反面、代謝という緩やかな死は快楽でした。
現代社会はますます死の恐怖が増大してきているように思います。欲を与えられ、欲を満たす手段も与えられ、それに付随するように死への恐怖も増大したのです。過剰な欲は、死を過剰に恐ろしく禍々しいものへと変えます。情緒を失った人間とは実に愚かです。
どこか暖かい南の国のビーチでセクシーな水着を着た美女たちに囲まれてパフパフコンテストを開催したいです。一体どの美女が一番パフパフがうまいのでしょうか。
この世界観、設定、気軽さ、これはまさにメタバースです。メタバースなんて言ってますが、元々が人間一人一人の頭の中は小宇宙ですから、メタバース的な世界観の中を我々は生きています。最近だとイスラエルの歴史学者であるハラリさんのサピエンス全史で国家というフィクションへの言及があったようですが、共同幻想論は30年以上も前に日本人が提唱していました。そのルーツは海外かもしれませんが、そんなことは鶏卵問題の彼方でしょう。
いずれにしてもユビキタスをIoTと言ったり、真ん中分け(エロ分けとも言われた)がセンターパートとか言われたり、言葉の額面が時代や状況に合わせて最適化されていきます。不思議なことに呼び方が変わると人が肯定感をもって動き出すという事もあるようで、パフパフ コンテストにも早急に新しい名前が必要です。
どの学年でも最低5人は留年する。一番厳しい進級タイミングだと20人くらい留年することもある。
真面目にやってても運のせいで留年の憂き目に遭う奴が数人必ずいる。
同じ学年では2度留年できずそのまま放校になる。
例えば物理の単位のみ落として他の科目フル単で留年した場合でも全単位取り直し。
進級に足る学生のみを進級させるという方針ではなく、なるべく多くの学生を留年させて金を稼ぐという鬼畜方針の医学部では大学側が学生の敵として君臨している。
学年120人くらいの村社会であることに加えて、留年回避のために足の引っ張り合いに走る奴が多発するので人間関係がヤベえタイプのド田舎みたいなことになる。
なお、無事に医学部生活を乗り越え医師国家試験に合格し初期研修と相成っても、年間4000時間勤務&超絶パワハラ当たり前のブラック労働が2年間待っている(研修医の3割が精神疾患を発症する。自殺者やドロップアウト者もよく出る)。
「ならないので意味がない想定」というのが普通の答えだが、こういう人間にはこれは通じないんだよな。
なぜ通じないか?
「ならない」という言葉を「物理的な理由によって原理的になり得ない」という意味に受け取ることができないのだ。もっと言えば増田のような人間は「物理的な理由によって原理的になり得ない」というような概念・言葉自体を持っていない。こういう人間にとって「なる」とか「ならない」というのは自分の気持ちの表明でしかなく、気持ちとは無関係に外部的(物理的)な理由によって真偽が決まるという考え方自体が無いのだろう。
それは端的には教育が足りてないということだし、論理的思考ができないとか、アホだとか、人によって色々な表現が出てくるだろうが、なんにせよ世の中はこういう人間が多数派であって論理もへったくれもなく気持ちと「俺はこれが正しい/正しくないと信じる」という根拠のない思い込みだけで駆動しているのだ。
集約して割り振るのはね、データみたいに仮想空間とか計算上で仕分けができるならいいんだけどね
病院みたいな現実だとね、物理で窓口とか待合スペースを圧迫するの。
受付だけにしても、さばけるのは一瞬じゃなくて、一人に何分ってかかるの。
で小さい病院でいいですっていっていいのは、国家資格がないとできないの。ナースや受付の人にはできないから。
その地域の人が、最初に一通り、大病院の先生に見てもらうまで治療に進めないって、それこそ詰みだろ。待ち時間の間に死ぬわ。
そう考えるとね、一定の国家資格に合格した人しかつくれない場所にまずはそれぞれ行ってもらうのが一番効率的なの。
膨大な金と人生の貴重な時間である15歳(志す)~25歳(留年・浪人・研修修了)をそれに費やした人ってことだよ。医者の時点でもうそれが出来た人だよ。
そこまでしてやっと得られる知識と技術に頼ろうとしてることを自覚して謙虚になったほうがいいし、いいアイディアは現実に落とし込むと、もっとよくなるよ。
なんでそんなに統計に拘るの? そしてなんでそんなに喧嘩腰なの?
俺は悪質な性犯罪者にチップ埋め込みも賛成だし無期懲役でも物理去勢でもいいとさえ思ってるけど
それと少子化を絡めて主張するのは無理あるだろ?
この文章は、セクハラ行為を批判し、根絶するために記しています。
昨今の日本の実写映画業界では、監督・プロデューサー・男優たちによる性的加害行為・物理的暴力行為・ハラスメント等が露見・報道されることが続いていますが、そんな中で新たな動きがありました。映画評論家である町山智浩が、自身の行なった『とされる』セクハラ行為について、Twitter上で『反省』または『謝罪』らしきものを表明したのです。
態々『とされる』・『反省』・『謝罪』と二重カギ括弧で囲んで書いたのには、もちろん理由が有ります。町山智浩は、件のセクハラ行為について「話を盛っていた。現実で行為に及んだわけではない」と釈明しているからです。
仮に百歩ゆずって「現実に行なった行為ではない」という釈明内容が本当であったとしても、町山智浩が後輩男性の元・配偶者(現在は既に離婚成立済み)のバストサイズという肉体的な特徴を公然とあげつらったこと、しかも、自分(町山智浩)は彼女の肉体を弄んだことがあるという内容を、笑いながら面白おかしく語ったことは事実です。そして、その町山智浩の語った行為そのものが、紛れもなくセクハラ行為です。
一般企業・地方自治体・教育機関などの職場においてセクハラ防止・根絶の研修を受けた経験が有る人ならば、私の言うことを容易に理解できるでしょう。あなたの会社で上司が「経理の○○君の奥さん、胸が大きくてさ。○○君が『揉んでいいですよ』て言うから、オレは揉ませてもらったよw」などと笑いながら話している場面を想像してみて下さい。如何に気持ち悪いか実感できるでしょう。こんな言動は、言っている内容が想像上のことであったとしても、セクハラ行為以外の何ものでもありません。後輩の配偶者に対して性的欲望を向けていることを、堂々と公言する気持ち悪さは、筆舌に尽くしがたいものがあります。
ちなみに言っておきますが、問題の町山智浩のセクハラ自慢話のインタビューが行われたのは、2011年のことです。昭和の話、20世紀の話ではありません。町山智浩のインタビューと同じ頃には既に「セクハラ行為は良くないことだ。止めるべき」という研修を受けていたという人も少なくなかったでしょう(私個人の体験で言えば、そのような研修を受けていました)。
セクハラ自慢話についての町山智浩の言い訳を読んだ時、私は「小山田圭吾が『雑誌QuickJapan上でイジメについて面白おかしく語ったのは、盛っていた。あれは事実ではない』と言い訳したのと瓜二つだな」と強く思いました。小山田圭吾と彼のファンや関係者も、東京五輪という機会によって国際社会にイジメ自慢話が知れ渡り、サブカル系業界人という威光が通用しない場で批判に曝されて初めて、謝罪を述べたのです。
町山智浩も同じです。木下ほうか、榊英雄、園子温etc.のニュースの影響で、マニアックな映画ファン・信者ではない人々も、日本の実写映画業界のスキャンダル関連情報に注目するようになり、このため町山智浩のセクハラ自慢話のインタビューも多くの一般人が知るところとなりました。そういった一般人にはサブカル系業界人としての威光も通用しないので、町山智浩は仕方なく形式的に『反省』や『謝罪』を述べたのに過ぎません。『映画秘宝』の読者やサブカルウォッチャー等にしか情報を知られていなかった状態が続いていたとしたら、これまでと同様に批判の声など無視していたであろうことは想像に難くありません。
支持者集団の内部にいる時には、自分が他人にした悪い行いを鼻高々に自慢していたのが、集団外部の一般社会にまで知れ渡ると、急に自慢を止めて「語ったことは事実ではない。誤解を招いた」と釈明して取り繕おうとする行動様式は、自民党や維新の会などの政治家たちの専売特許かと思っていましたが、町山智浩らサブカル系業界人たちも見倣っているようですね。
それにしても、町山智浩のTwitter上で述べた『反省と謝罪』を読んで、ほとほと呆れたのは「『後輩男性』たちには謝罪しました」と書いていたことです。謝罪ならば、町山智浩が「性的欲望を向けた相手」である「セクハラの被害者となった女性」が先に来るべきでしょう。この期に及んでも町山智浩は、ホモソーシャル的で男尊女卑的なサブカル系ムラ社会の序列を優先して、セクハラ行為の被害者を軽視するつもりなのでしょうか。救いようのない愚かさです。
なお、園子温のスキャンダルが表面化した途端に町山智浩は「自分(町山智浩)は、2006年以降、園子温とは会っていない」と、2006年以降も交流が有ったのにも関わらず、いけしゃあしゃあと嘘をつきました。そんな嘘つきの町山智浩が「セクハラ行為は実行していません」と言い訳したとしても、どれほどの人が信用するでしょうか。
たぶん、次に町山智浩は「自分が批判されるのは当然だが、話を持ち出されると被害者が傷つくので、これ以上、同じ話を持ち出すのは止めろ」と、加害者であるにも関わらず「自分(町山智浩)は被害者の心情に寄り添っている」とアピールする作戦をとるのではないでしょうか。
今回は以上です。
感じ方が変わる。優先度が変わる。
回路が物理的に切り替わるんだよね。
そして、なればこそ、俺は子供が欲しくない。
何を見て何を感じるか、何を優先するのか、
自我が更新されるということは、今の俺が死ぬということに他ならない。
俺は死にたくないのだ。
俺は今の俺が好きなので、余計に死にたくない。
未来がどうだとか、社会がどうだとか、世間体がどうとか、金銭の問題じゃない。
それだけの理由だよ。
もともとネットって「音楽のデジタル配信バンザイ!物理メディア買ってる奴は時代遅れ!」とか
「手書きの温もりってなんだよw電子メールでいいだろw」みたいな感性の人たちが多かったと思うんだけど、
紙の本VS電子書籍については「紙の本のほうが読み応えが…手触りが…」という人がけっこう多いのは、