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はてなキーワード: 近代とは

2017-11-16

anond:20171116192055

一夫多妻制と完全イコールでもないけど

近代前に貴族社会親族が多くなりすぎて崩壊したようなとこがあるからじゃないか

遺産領地配分

平家源氏みたいな親戚争いと

大量の後家さんとその子どもたちの処遇

部屋住み問題とか

一夫多妻中東現代大成功してるかといえばそうでもないし


子供自由に作れる社会」というのは別の話なので触れない

anond:20171116074712

AI進歩やBIの話が出てきて

指導者AIになる(もしくは政治家の補助をする)ようになれば

しかしたら近代にあったエセ共産主義ではなく

資本主義の先に有るっていうマジモンの共産主義が来るのかも

とは考えたこと有る

2017-11-11

anond:20171111051105

新井白石は入れたいですね。明らかに非常に優れた思想家だと思う。(ただし思想家として残した仕事の量や後世への影響という点では最上位というわけではないけれど)

吉本隆明は無理。

西田幾多郎個人的にはなんだかなあ〜と思うけど、影響の大きさは無視できない。

丸山眞男は同時代的(近代ないし戦後)には重要だけど、もっと長くスパンで考えるとどうなんだろう。

2017-11-08

anond:20171108101659

LGBTっていうのは聖書が同性はいけませんっていってるから西洋で昔から酷い差別をうけてきたの。

それが近代になってキリスト教価値観が見直されて人道的に良くないよねってなってさかんに言われてるの。

でも日本キリスト国家じゃないし同性愛者の偏見もたいしてないからこんなとこまで欧米追従せんでええの。

2017-11-05

[][][]

宇野:後期宮台さんへの評価は若手の中ではかなり高いほうだと思いますよ。変な言いかたですけど、ある種のダブルスタンダード的な

モチーフには共感します。例えば東さんは棲み分けでいいと言ってしまう。逆に大塚英志はまだ近代は終わっていないのだから、無理や

りにでも物語を作る必要があるという。宮台さんはその中間で、セカイ系になるのはしょうがないが、それをうまくまわすために工夫し

ていこうと思っている。そういう発想が好きですね。

「ゼロ年代の批評」のこれから──宇野常寛さんロングインタビュー - 荻上式BLOG

2017-11-04

9条は置いといて憲法はver.upすべきだろ

改正しないことに維持になりすぎだろ

憲法ってその時代時代に合わせて変化させるべきものだろ

何故それをここまで頑なにきょひするのか?

こんなんで本当に近代民主主義国を名乗っていいのか?

anond:20171104121336

全然違う。

近代憲法においては「権力者を縛るための物」

専断的な権力を制約して権利保障することこそ最も重要憲法目的と考えられるようになり、政治権力制限する規範体系・規範秩序を内容とする憲法を「立憲的意味憲法」あるいは「近代意味憲法」という」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%B3%95#.E8.BF.91.E4.BB.A3.E6.86.B2.E6.B3.95.E3.81.AE.E7.89.B9.E8.89.B2

元をたどれば、 芦部信喜憲法学

その基本が日本会議安倍達にはぶっ飛んでるんだよね。で、改憲派でもあった憲法学者含め、憲法学者ほぼ全員に見放されてる。一方で、日本会議ばかりが元気。

まともな改憲案が出てくる可能性はないよ。

2017-11-02

アメリカの銃規制が進まないのには3つの原因があると思うという話

表題の件について、自分が納得できるだけの解説をしている記事があまりない、というか、前々から日本一般の人々にはあまりこの問題認知されていないような気がしていたので、需要があるかは分からないが個人的見解をまとめる私的メモという意味も含め、ここに記載しておく。

1つはアメリカ建国理念から来ていて、もし政府民衆に圧制を強いるとき民衆には武装して蜂起する権利憲法で認められているためである

もともとアメリカという国自体が、イギリスをはじめとする欧州圧政から独立してできたものなので、国家民衆が作るという意識が強い。そのためアメリカ合衆国は、政府暴走した場合対処法を、憲法公式に認めている。これが有名な「合衆国憲法修正第2条」である政府民衆国家権力で押さえつけ、搾取するような事態になれば、国民武装して現政府を打倒し、新たな政府を打ち立てることができる。(もちろん、他国から侵略に対する抵抗の意味もある)

そして最も重要な点は、そうするために国民武装することを、政府制限してはならないということだ。銃の所持を規制することは、すなわち武装することの規制に繋がる。これは国民のための権利であるから政府主導で銃規制をすることに対して、「そうやって武装できないようにして、俺たちに圧政を敷くんだろう?」という反発が生まれる。から規制は是か非かについて、明確に政治的正しさを持つ答えがなかなか出ないのである。極端な話、トラ○プが本当に危険独裁体制を築いたとき、現憲法下であれば銃規制を叫ぶリベラリストたちでも平等武装蜂起する権利を有している。

2つ目はより現実的市民生活に関する問題で、アメリカの広大な土地に起因する。

アメリカ田舎は、日本人には想像も付かない規模で広い。隣家まで車で何十分というケースはざらだ。たとえばワイオミング州鳥取県両国において最も人口が少なく、約56万人とほぼ同じだが、人口密度はおおよそ70倍以上にもなる。そんな地域でもし何か起こったとき警察保安官が到着するのを30分とか1時間、悠長に待っていられるだろうか?

こういった背景からアメリカでは田舎に行くほど、セルフディフェンスとかホームディフェンスと呼ばれる概念が浸透している。異常に治安が良いと言われる日本でも、ご近所同士のいさかいが原因で刃傷沙汰に発展するというのはよくある話だし、痴話喧嘩もあれば家庭内暴力もある。野生の危険動物だっているだろう。そういった事態に陥ったとき自分の身を守れるのは自分だけだ。だからみんな銃を買う。西部開拓時代、多くの人が傍らに銃を置いて眠っていた頃と、根本的には変わっていない。

なお、アメリカでこういった田舎に暮らす人たちは、人口の1割である3000万人ほどもいるという。3000万人と言えば近年急速な発展を遂げたメガティ中国重慶市と同じくらいだ。メガティ1つ分の国民安全自衛に委ねられているという、ある種異常な状態なのだ

3つ目はもっと単純で、ここまで広がってしまった銃を今さら回収するのが非常に困難な点にある。

アメリカでは1億丁以上の銃がすでに流通販売されており、およそ国民の2人に1人は銃を持っていると言われている。これほどまでに庶民の手に広まった銃を没収していくのは、そもそも物理的に難しいし、誰が何の権限でどのように回収するのか、抵抗に遭わず安全に回収できるのか、回収した大量の銃はどう保管あるいは処分するのか、これらのコストは、回収に応じない場合罰則は、などといった行政上問題も山のようにある。

ちなみに例として、戦後日本で行われた武装解除の際に提出された刀剣類の保有数は、平均して大体3軒に1軒くらいだったらしい。しかしもちろんそれがすべてではなく、未だに先祖の持っていたものが蔵から出てきたというニュースもあれば、土中に埋めるなどして隠匿したなどの話も聞こえてくる。またこの中に近代火器は含んでいない(登録された刀剣類の数を参考)。しかもこれが実行できたのは、敗戦という歴史的大事と、それに伴う武装解除のための占領政策GHQによる外圧という側面が大きい。平時にこれ以上の規模の銃規制を実現するのがいかに難しいか分かっていただけるだろう。

ここまで記したように、アメリカ国民にとっての「銃」とは何よりもまず自分自身安全保障するための道具なのである政府侵略者犯罪者、敵意を持った隣人たち、危険な野生生物などから自分生命財産家族、そして自由権利を守るための唯一にして最強の道具だ。

これが決して建前ではなく、国家の根幹と現実に即した実態であるというのが、今回私の言いたかった見解だ。これを読んだ方の、この問題に対する理解一助にでもなればと思う。

なお、一部の人たちが馬鹿ひとつ覚えのように諸悪の根源として扱ってしまうので、ここでは敢えてNRA=全米ライフル協会に関する記述は控えさせていただいた。ただ、誰もが銃を規制したいのに一部の頭おかしい人によって阻止されているという構図が正しくないということは、これを読んだ方になら分かっていただけると思う。

2017-10-30

フェミニスト辞書の改変をしなければならない理由と、それに相応しくない理由

http://www.huffingtonpost.jp/2017/10/24/iwanami_a_23253606/

フェミニスト市民団体辞書フェミニズムフェミニストの項の解説について異議を唱え、それに呼応して検討が行われるとかなんとか。

言うまでもなく、もともとフェミニズム女性解放主義である。feminine-ismを直訳すれば女性主義なんだから解放主義でも柔らかくしたくらいだ。じゃあ一体何から解放するのかというと、これは近代以前の社会運営がほぼ全世界的に男性によるものだったという状況から解放だ。我々日本人にとっては、戦前参政権男性しか与えられなかったことなどが代表的だろう。少し話がずれるが、戦前参政権は当初性別と年齢に加え、当初は納税額も条件とされていた。納税額、つまり収入額(と直結するものでもないが、一応目安として)、イコール教養(と直結するものでも以下同文)である。つまり政治の話がある程度わかる人間にだけ参政権を与えたかったのだ(と私は推測している)。その理屈正当性を見出すかどうかはさておくとして(そっちに脱線すると戻ってこれなくなる)即ち、それまでの社会運営男性によってのみなされていたのだから女性にそんな能力が認められるはずがない。よって権利が与えられるわけはない。おそらく、どこの国でも似たような理由で、似たような状況があったものだと考えられる。

では翻って、現代においてはどうか。少なくとも先進国においては自明だと言っていいだろう。男女同権は少なくとも建前としては完全に定着した。つまりフェミニズム歴史的に見て、既に勝利を収めている。それも決定的な勝利をだ。実際その勝利によって男性にも少なから利益があったのだろうと思っている(そうでなければ勝利できなかっただろう)が、まあ細かいことはさておこう。

さて、ここでお気づきの方はお気づきだろうが、この方向性を維持し続けると(実現性はさておき)最終的には女権社会になる。なので、「性差別を排し平等を目指す」という方向に、少なくとも一部(おそらく主流派)はシフトしたがっているのだろう。おそらくはだいぶ前から

だがその場合、つまり性差男性偏重からゼロにすることにのみ注力した場合、「これまでの歴史において女性が被ってきた被害、損害」が補填されることはなく、完全に据え置かれることになる。これは何を意味するかというと、現実かつ現在女性を救うことはできない、ということだ。未来に生まれ女性をより良い環境に置くことはできる。過去女性名誉回復可能かもしれない。だが、今現在なうで苦しんでいる女性を救う(ために男性からリソースを奪い彼女たちに与える)ことは、思想的に不可能なのである。そしてフェミニズムを奉じることが出来るのは、現在生きている人間だけだ。

この二律背反が、いわゆるフェミニズム界隈の不可解かつ理不尽な動きの根底にある。基本的にこの手の一括りにされた集団の動きが矛盾しているようにみえるのは「根本的に同一人物ではないから」というのがお決まりパターンだが、これを一括りにしておかないと迷走する。かと言ってフェミニズムのものを破棄すると、また前近代社会体制に逆戻りするおそれがある(なにしろ自然条件ではだいたい男性社会運営するようになるものなのだ)。

これらを合わせて考えるに、個人的には、フェミニズムはいっそ完全に分裂するべきなのだろうと思う。そしてその場合、feminine-ismという字面継承するにふさわしいのは、今苦しんでいる女性を助ける、実にハタ迷惑な方の「フェミニスト」たちなのだろう、とも考えている。

2017-10-29

anond:20171029180533

こんな与太話信じるなんてお前宗教由来の書物全然読んでないだろ。

宗教ってのは単に「昔これが正しいといった人がいた」内容をまとめただけのもの

その正しさの根拠に「神」の存在を前提とすることがあるが、実は仏教儒教は神の存在を前提としてない。

ただし、近代に近くなり科学検証確立してきたため、科学分野では実は宗教が言ってたことは正しくなったことにより、宗教的権威も落ちては来ている。

といっても、科学は仮説、検証有意性が必要。だが、もともと攪乱要因がめちゃくちゃ多い社会医療関係結構苦手とする。

それでも心理学で少しずつ人間心理については研究してるが、前提条件で結構狂ったりする世界心理学科学ではないと言ったりする人がいたりする世界でもある。

からこちらも結局「誰か正しい人が言った」の権威にならざるを得ない状態

といっても、書物もだいぶ出版やすくなったから、本はいっぱい出ている、宗教団体に属する必要性はなくなってきた。

偏見持たずにいろいろ読んでみ、そのうえで信じないものは信じなかったらいい。

2017-10-27

輪番停電の思い出

福島震災原発が停止し、電気供給量不足が見込まれたため、首都圏(だけだったかな?)で、

街全体が順番に計画的停電になる、という出来事がありました。

あの出来事も、ふと思い返してみると、結構昔の話となりつつあり、

影響範囲は広かったとはいものの、日本人皆が体験しているわけでもないので、

今となっては話題に上ることもあまりなく、徐々に知らない世代が出てくるのだろうなと感じます

輪番停電の影響を受けたあの日、私は横浜とある街に住んでいました。

仕事を終えて最寄駅に到着すると、駅の改札の向こう側(駅の外側)が真っ暗なんですね、真っ暗。

言葉に表すと、あまり伝わりづらいと思うのですが、見たことのない光景でした。

また、駅から自宅までの道でも全ての街灯が消え、家の灯りも消え、あるのは道行く車のヘッドライトのみ。

その日は曇っていたので、すれ違う車のヘッドライトを頼りに歩いた記憶があります

建物や家が立ち並ぶ大きな都市で、山奥の田舎のように、灯りが通り過ぎる車のライトだけ。

あの灯りのない感じも、なんだか近代都市には無い落ち着きやある種の暖かさがあったような気がして、私は好きでした。

(ただ、ずっと続くと犯罪が増えるだろうなとは感じました)

真っ暗な都会のあの感じを味わえることは、もうないんだろうなぁ。

2017-10-26

anond:20171026165726

ある意味上品な店と言うのはイコール昭和遺物

外国資本の店のようにバイト底辺従業員を雇う店が近代的な店

クレジットカードを渡すのが怖いと言うのも、そういう店が増えた近代を生きる若者思考なんだろう

2017-10-25

anond:20171024205956

近代以降の学校というのは国民国家国民を育成するところ

各自勝手学習していたら「国民」が作れない

それを奴隷製造工場と言い換えることも可能だけれど

基本的国民国家否定されてない以上

どこの国でも右でも左でも学校肯定されている

思考実験としてはアリ

結局、学校って「デパート最上階の食堂」で、勉強ってそこで出る「定食」あるいは「お子様ランチ」なんだよな。

近代のはじめにはきらびやかに見えたシステムだけど、ニーズ多様化した現代には合わない。平成の初めごろから、一部の高校選択制を大きく取り入れた制度なんかもはじまっているが、カフェテリア式に変えたところでめちゃくちゃ満足度高まるわけでもないし、どうせ専門店にはかなわない。

ただ、「それでも潰れてない食堂」ってのもあるわけで、学校的な場所ニーズゼロになることもまた考えづらい。教育バウチャーをつかった諸外国制度もそれほどうまく機能しているとは言い難いようだし、何より日本に合うか?というのも未知数。とりあえず受験産業は色めき立つだろうけど、塾が現在学校機能100%負おうとすると、現在でも学生ブラック使い捨ててる受験産業現場がどうなるか、想像するだに恐ろしい。多発する問題に、国は対応できるだろうか?


とりあえず、現在の「学校」が、国家にとっていちばん「安くて無難教育制度」としてそれなりにできあがっているのは間違いないので、「学校に代わるシステム」の構築はできても「学校がなくなる」状況に至るには、まだ100年以上かかるだろう。もっとも、教師仕事のかなりの部分がAIに置き換わるのはそれより早いだろうが。

https://anond.hatelabo.jp/20171024205956

2017-10-22

https://anond.hatelabo.jp/20171022072708

バークも言ってるけど経験主義リベラリズム専売特許じゃなくてむしろ保守主義バックボーンだろ

しろ人権とか自由かめちゃくちゃ形而上学的な概念じゃん

近代科学の始まりだってロックから、っていうほど単純じゃない

デカルトやらガリレイかいんだろ

この話の科学的とか経験的みたいななんかよさげ属性をとにかくリベラリズムに帰する様はよさげ商品を手当たり次第に買い物かごに放りこむのに似てる

リベラリズムって、単に経験主義や「科学主義」のことなんじゃないの

昨今、議論するほど取っ散らかって、結局ちっともまとまらないリベラルとは何か、ということについて

皆さん自由はもちろん、権利や、公正や、分配のことだと言うんですよ。でもね、それって本当にそうですか?そもそもなんでそんな考えが出てきたんですか?

遡るとリベラリズムジョン・ロックという人に行き着きます。ここまでは普通です。彼はイギリス経験論の人でした。そう、この時代までに経験哲学が生まれ、同時にそこから近代科学誕生したのです。

ロック氏は経験論を根拠に、国王統治権王権は“神”に与えられたものではなく、各人の持つ自然権を守るために委任されたものだ、という思想発明します。これがリベラリズム誕生です。本当です。

これってさ、科学じゃん。観測に基づいた帰納と仮説じゃん。リベラリズム自由の生みの親は、経験主義科学思考方法論なのです。

ブコメなどから社会契約説元ネタ聖書である、だから信仰一種である科学ではない)とのご指摘がありました。

私はこの時代科学宗教を、そんなに区別していませんでした。ガリレイキリスト教の“異説”を唱えたキリスト教徒であり科学者です。経験主義の祖のベーコンキリスト教徒です。

なので、ロックプロテスタント(だから王権神授説の異説を唱えた)であり社会科学者のプロトタイプなのではないでしょうか。

(続き)ロックから始まるリベラリズムは、この仮説をもとにして以後、市場経済功利主義ロールズ正義や公正などを発明していきます。また、自由科学知識をもった者は産業革命を担い、社会そして個人生活科学技術的に豊な方へと変えいきました。

でも私は思うんです。いつの間にが、現代リベラリズムからは「科学主義」が失われているんじゃないか自由のための公正や分配もいいけど、まずそれらを科学的に考えることがリベラルなんじゃないか

リベラリズムの遠戚である共産主義には、最初科学がありました。そしてその頃までは栄えていました(笑) これはリベラリズムにも言えて、現在低調と言われたりするのは、科学手法科学技術を援用し政治することが足りてないからなのではないのか!?

翻って日本リベラルを見てみると、どう思いますか。あれ、自民党の方が「現代経済学に根差し金融政策」してませんか?なんで理系ギーク系が自民党支持なんてすか?自民党リベラルと言うのは、なしです(笑)

日本、または世界リベラルが低調なのは、きっと保守科学手法を上手く使われているかなのだと、私は思いますリベラル革新的な利点そのものが無くなりますからね。必ずしもナショナリズム感情時代から、ではないのです。マイナンバー制度の根幹はIT技術です。IT技術であるツイッター世界でも保守言論がよく使っています

からリベラルは、ごちゃごちゃとリベラルとは何だなどと議論する前に、現代科学議論に基づいた政策と、科学技術振興策を取ってください。

そして物理科学社会科学者と科学技術者の信頼を取り戻し、本来科学進歩的リベラルに戻っていただきたい。 枝野さん、お願いしますよ。

2017-10-17

もし日本のお隣が○○国だったら…

日本人を劣等民族扱いして何度も虐殺植民騎士団派遣される。

次第に戦争が激化、大阪の戦いに辛勝したが国内1000万人単位戦死者が出る。

戦後経済大国になってデカい面。

今も仲が悪い。

鎌倉モンゴル幕府の成立時に、後白河法皇をはじめ皇統が全員殺され断絶。

日本人による室町幕府が一時モンゴル人を放逐したが、江戸モンゴル幕府によって再び潰される。

今も仲が悪い。

博多五島列島勝手城塞を築かれ、数え切れないほどの侵略を受ける。

近代に入るとシーレーンを封鎖され、有形無形の嫌がらせをされる。

今も仲が悪い。

猛烈な伸長を受け、皇統の遺児が関東亡命政権を立てる。

近代に入り領土を取り返したが、大阪以西はトルコ化が進んでしまった。

今も仲が悪い。

古代以降、冊封体制によってギチギチに縛られる。

たまに楯突くと大軍に潰され三跪九叩頭の礼をさせられる。

今も仲が悪い。

隣の国とは仲が悪くなる。

私は教育という投資について考えたい。

私は教育という投資について考えたい。

投資は余剰資本によって行われるべきである。この一般論異論を挟む余地はないように思われる。しかし持たざる個人にとってこのような正論は役に立たない。はたして、余剰資本を持たない貧乏人は投資に参加すべきではないのか?ここで、この国において貧富の差を問わず参加の権利を認められている投資活動について考えたい。教育である

教育とは投資である教育投資における余剰資本を考えよう。たとえば金銭的、血統的、文化的資本が考えられるだろう。実家の太さはこれらを包含する象徴的な資本の例である。持てる個人にとっては、これらを余剰資本として子の教育投資に用いることができる。これは論を待たない。では持たざる個人にとっての教育投資不可能なのだろうか?

ここで教育投資が持つ独特の構造に注目したい。種々の投資の中で教育投資を特徴づけるものは何か?受益者負担者が異なるという点であるしかしながら、これらが一致するような教育投資不可能ではない、と私は信じたい。受益者たる本人が同時に負担者となる場合を考えるのだ。負担できる資本を持たない個人は如何にしてこの投資ゲームへ参加すればよいのか?残念ながら諦めることもその1つである。いわゆる「地方」においては極めて一般的選択の一つである

持たざる個人ー自らに教育投資を行おうとする者ーの戦略は、どこかでこの持てる者の手続きに割り込むことにある。たとえば宝くじを当てて金銭資本を獲得することができる。たとえば独学ー負担者によらず受益者自らが負担を負う覚悟責任をもった自己教育ーを実践することができる。たとえばはじめから優秀に生まれつくこと(これは定義により天才であるとする)ができる。どれも極めて厳しい道である近代日本では、身分可能性として開放されたが、階層は依然としてゆるやかに固定されているのだ。

ここで資本としての「優秀さ」を考えてみたい。優秀さは高い給料、良い職場人間関係、豊かな教養などの形で資本へと交換することができる。通常、これらの資本は子への教育投資となる。しかし、優秀さは自分自身への教育投資資本とすることもできるのだ。就業前の学生においては、通常の優秀さではなく、「際立った」優秀さはこのような異なる価値を持つことを主張したい。際立った優秀さは給付金サイドビジネスと言った形で金銭資本時間的資本へと換金が可能である。これを元手に自己への教育投資を行うことができる。

ひとたび優秀さを手に入れることで、持てる者と同じ正のスパイラルへと入ることができる。むしろその後天的経験は強みですらある可能性がある。しかしながらこのような、負担者と受益者が一になるような自己教育を、戦略的に発生させることは可能だろうか。どのような制度設計が、このような自己駆動的な自己教育を誘発することができるだろうか。

2017-10-15

近代ナショナリズムってさ

とにかく五体満足に生まれさえすれば男は兵隊・女は産む機械価値があった時代の話だよな

この21世紀に同じこと言ったってしょうがねえだろ

2017-10-13

https://anond.hatelabo.jp/20171013210019

日本欧米のようにいったん近代民主主義確立した国と比べるダメなんで、中国みたいな感じとみればわかりやす

https://anond.hatelabo.jp/20171013111617

ざっくりいえば右は封建主義専制主義の傾向、左は自由主義社会主義の傾向が強い

といっても多くの国ではそれも近代民主主義範囲の中での傾向で、そこをはみ出すと極右極左ってことになる

たとえば自民党改憲案は近代民主主義人権概念から逸脱して後退しているので、右じゃなくて極右

極右が右くらいにみえるのなら、その人は右傾化しているし、極右がまん中にみえるなら、極右化してるわけだ

2017-10-12

2017 台湾旅行第一部分

台湾に行って来た。

一人での海外旅行は初めてだ。

台湾であった事、感じた事つらつらと書く事にする。

長いし、起こった順に書いていて、特に脈絡もないので、ドラマは期待しないで欲しい。

取り留めない旅行記だ。

もし文書の中で一文でも、行ってない人の興味を唆れたり、行った事のある人に「あ〜、あるある」って思ってもらえたら嬉しい。




出発前


そもそもなぜ台湾に行こうと思ったかというと、少し前にちょっと凹むを事があり、いつまでも気に病んでも仕方ないし、何か面白い自分の興味を引かれる事がないかなぁなんて考えてたところ、「そういえば、台湾料理で気になってるものがあるんだけど、実物を食べた事がないんだよなぁ」と思い出し、休暇の予定も決まってなかった事もあって、「じゃあせっかくだから行ってみよう」となった訳である

初めてなので、ツアーを予約して、飛行機ホテルの世話だけをして貰うつもりだった。


いざ行くと決まれば、何より問題なのは言葉で、元々日本でもコミュ障気味なのに、別の言葉が話されている国で過ごすのは甚だ不安だった。


でも出発当日が来て、フライトをまつ夜の羽田空港国際線ターミナルで、簡単中国語を暗記していてた時にふと気付いた。

そうだ、俺、イラスト描けるじゃん。

普段から言葉より絵の方が伝わる事があるのは分かってる。

言葉の通じない国に行くんだ、使えるスキルは何でも使わないと。



格安ツアーの出発は変な時間だ。

午前4:50、タイガーエアに乗り込んだ。

台湾のLCCとはいえ、機内はほとんど台湾人

ツアーなので、自分の他にも出発する日本人いるかと思ったが、日本人は少数派のようだった。

ちょっと不思議に思ったのは、機内の台湾人男性はほぼメガネ

なんでどいつもこいつも目が悪いんだ。

から更に不思議だったのは、台北の地に着くと男子メガネ率がむしろ低いのだ。

台湾人飛行機に乗る時だけメガネをかける決まりでもあるのか?






1


1日目 午前


LCCの狭いシートで変な姿勢に耐えながら3時間フライトを終え、朝の桃園空港に降り立った。

空港でキョロキョロしてると、いきなり兄ちゃんに現地の言葉で話しかけられた。

バス?とか言ってたので、行き先に迷ったと思われたらしい。

一瞬どう答えていいか迷ったけど、オレンジベストを着てゲートのすぐそばに立っている女性を指差し、「大丈夫」と言うふうに手を振ったら、彼は「なんだ」という顔をした。

あ、言わなきゃ。

「謝謝」


ベスト彼女自分の到着を待って立つツアーガイドだった。


実はツアーガイドはすぐに見つけていたのだけど、他のツアー参加者が集まってから声をかけようと思っていた。

しかし、誰も集まる気配がない。

どうやらこのツアーの申し込み者は自分一人らしい。

機内に日本人が少ない筈だよ。

「すいません」と日本語で言うと、ちょっと訛った日本語で「どこにいたの?すぐに声かけてよ〜」と笑顔で言われた。


ツアーガイドは黄さんと名乗ったが、「エリと呼んでね」。

台湾の人は英語の二つ名を持っている人が多いという。

より覚えやすくする為に、勝手に「エリーさん」と呼ぶ事にした。ちょっと伸ばしただけだから大きく違わないだろう。



ホテルに向かうミニバンエリーさんに「何かみたいものある?」と聞かれたので、「九份に行きたい」というと、「どう行くか調べてますか?」

「ざっくり」と答えると、「ざっくりじゃダメよ!」とひどく呆れられた。

エリーさん曰く、九份は凄く人気、今は祝日台湾人も行くから人でごった返している、行くなら早くいけ、と。

さらにはついでに十分も行くべきで、こんなこんなこんなツアーがあって・・・説明が止まらない。


「実は蚵仔煎と肉圓を食べに来た。あとお茶も買う予定」と言いうと、彼女は「それだけ?」とまたもや呆れ顔で言った。

「それだけじゃ量が少ないよ!」

さらっと書いているが、この会話の中で、エリーさんは料理名前を何度も聞き返している。

曰く、「発音メチャクチャから何言ってるのかわかんないよ!」

日本人とは随分テイストの違う接客なので思わず笑ってしまった。


夜市にも詳しいエリーさんによると、蚵仔煎の様な夜市料理行列の店で食べるべきで、それは味の問題というより、回転の早い店の方が素材が新鮮なので、当たる事が少ないかであるとの事だった。

台湾人がよく行列するのは、そういう理由もあったのか。なるほど。


エリーさんの勢いに呑まれかかってたけど、会話が少し止まって、ふと窓の外から街を見れば、台北市建物が密集しているのに気付く。

その中にセブンイレブン

漢字コンビニも人の背格好も一緒なのに、行き交う人は全然別の言葉を話している。

それは不思議な感じだ、と言おうかと思ったけど、それを言うとエリーさんが凄いエネルギーで何かの説明をしそうなので言わないでおいた。


ホテルに着いたらチェックインの15:00まで、荷物を預けて自由観光

エリーさんは、台湾での見所と注意をまくしたてたあと「わからないことがあったらLineで連絡して!」と事細かに連絡方法を教えてくれた。

「あと折りたたみ傘を持って行って!今の台湾は天気が変わりやすい!」

どうやら手が届く限りは面倒を見ないと気が済まないらしい。

台湾人親日とよく聞くが、接した感じでは、どうもナショナリズム問題ではなく、何か人間が親切というか、お節介焼きであるように感じた。



エリーさんと別れてしばらく歩くと、南国の陽射しの下、台湾国旗がはためいている。

明日がちょうど建国記念日国慶節からだろうか。

そういやエリーさんに「暑いな、さすが南国」と言うと「ここは南国に入らないよ!台南の方が亜熱帯!」って言ってたっけ。

急に冷え込んだ東京から来たら、十分暑いエリーさん。


すぐに暑さに耐えかねて、冷房の効いてそうな店に飛び込んだ。台湾で食べたかったものの一つ、豆花を食べていると、店内ラジオからはB'zが流れて来た。

日本アーティストなのに、なぜかより台湾を感じさせる。

かい注文が出来ないので、かき氷ピーナッツの甘煮だけをトッピングしてもらった豆花はとてもアッサリしていた。



台湾はとにかくスクーター乗りが多い。

大通り信号が青に変わるたび、びっくりするくらいのライダーが駆け抜けて行く。

この台湾光景を収めようと交差点歩道カメラを構えたら、後ろから「前方!」という様な声をかけられた。

振り向くと、自転車にのったおじさん。

「前危ないよ」とでも言われたのだろうか?ひょっとしたらもっと荒っぽい表現なのかもしれない。

台湾人は親切だけど直接的でもある。




1日目 午後


ホテルチェックインの15:00にはまだ間があったが、台北は午後になって更に気温が上がって来た。

エリーさんが言ってた事には、日中は36℃になると言う。

当て所なく歩き回るにはキツい時間だ、せめて目的が欲しい。

本来は2日目の午前にこなす予定だった、台湾茶の買い出しを前倒す事にした。


エリーさん曰く、祝日台湾人は勤勉では無いらしく昼頃にようやく起き出すとの事だったので、一抹の不安を抱えてはいたが、しばらく歩くと、お茶のいい香りが漂って来た。

通りに面した倉庫の様な店。

林華泰茶行。

上質なお茶が卸値で買えるとの事で、予め来ると決めていた店だった。

実際に来て見ると、その倉庫の様な空間に微かに漂う不思議で素敵な香りに心が踊る。


ただ、少し計算が狂ったのは、店が思った以上に小ぢんまりとしているし、本来問屋なので、店員もぶっきら棒。

タンクトップから腹を放り出したオッさんが茶葉のチェックなどしていて、ゆっくり見るのは場違いだった。

そこでは吟味しながら4種類買う予定だったけど、実は到着直後の免税店で、エリーさんの勢いに押されてすでに高山茶を1つ買っていたので、3種類にした。


金萱

東方美人

蜜香紅茶


20代とおぼしきにいちゃんに、それぞれ「1/4斤」とメモして伝えると、「150?1300元」とぶっきら棒に返して来る。


台湾店員さんは人がよく、自分言葉が変でも何とか必死コミニュケーションを取ろうとしてくれていて、それが返って不甲斐なく、少し凹んでもいたのだけど、さすが問屋のにいちゃんにそんな忖度は無い。


今が出す時だ、と思い、空港で描いたメモを見せた。

一杯の茶のイラスト

「喜歓的香味(とても好きな薫りです)」

「謝謝。」にいちゃんは微笑んで言った。

初めてエリーさん以外の台湾人とちゃんとコミニュケーションが取れたと思った。



昨日から大して寝ずに動き回ってるので、良い加減疲れて来たけど、ホテルチェックインにはそれでもまだ時間がある。

台北101に向かう事にした。


地下鉄にのっていたら、博愛席(日本でいうところの優先席)に座ってたばあさまが、乳幼児を抱いている母親に気付いて、手招きして席を譲っていた。

台湾人はほんとうに人が良い。

うっかり降りる駅を間違えて、次の電車を待っていたら、地下鉄ホームロードバイクを押す人がいた。

台湾輪行ダイナミックだ。


ブルータス台湾特集の表紙が台湾人には不評だったらしい。

曰く、あんな古くさい台湾ではなく、もっと近代的な今の台湾を見てくれ。

でも、実際歩いてみると、やはり台北の街は自分イメージするアジアエネルギーノスタルジーに溢れている。


そうかと思えば、台北101東京で言うところの押上ソラマチの様に、周囲から浮いて急に出現した近代モールだった。

台北という街は混沌の中での変化の真っ最中なのかもしれない。



さて台北101の地下はデパ地下であり、フードコートだ。

このデパ地下も、旅の目的の一つだった。

その地にはその地の食い物が有る。

よくわからない果物料理ディスプレイされてるのは最高だ。

乾麺のコーナーで、刀削麺と同じ棚に讃岐うどんが並んでるのには何だか笑った。

うどん台湾では烏龍麺と書く。


大して腹も減ってなかったけど、疲れを癒す意味で、ここのフードコートガソリン補給をする事にした。

加油、俺。

頼んだのは排骨魯肉飯のセットで排骨には八角の強い風味が有る。

これが中華な味だ。

魯肉飯をかっ込んでふと顔を上げると、半袖シャツを着た対面のにいちゃんの袖から綺麗な花柄が覗いていた。

そういえば林華泰茶行に行きすがら、通りかかった裏路地でも、書き描けの紋紋を背負ったおっちゃんが上半身裸で何かを食っていた。

台北では割とカジュアルに紋紋にでくわす。


デパ地下と紋紋に満足したので、人でごった返した展望台には登らなかった。

良い加減、ホテルチェックインしてシャワーを浴びたい。




1日目 夕方〜夜


やっとホテルチェックインできて、シャワーも浴びてさっぱりできた。

一休みしたら晩飯だ。

どこで何を食うかは決まっている。

寧夏夜市で蚵仔煎を食べるのだ。


実はエリーさんに、この暑くて食品が傷みやすい時期に牡蠣を食べるのは勧めないと止められていた。

私たち台湾人間は胃が大概のものに慣れている。でもあなたたちは違うでしょ」と。

一理あるんだろう。

でもこの旅行重要目的の一つが本物の蚵仔煎を食べて、どういうものか知る事だったのだ。これはマストなのだ

から、せめてエリーさんの忠告を一つ守ることにする。

屋台料理行列の店で食え」

日が落ちて、明かりが灯った台北の街。

地下鉄を乗り継ぎ、寧夏夜市の行列の店を目指した。



道中驚いたのは、街中に野良犬がいた事。

少し遠巻きにしてる人もいたが、同時に野良犬を気にするふうでも無く、すぐ脇で座ってなんか食ってるおっちゃんもいて、日本ではもうない風景日常なんだなぁと驚いたりもした。



やがて、台北B級グルメ天国寧夏夜市が見えて来た。

日本で伝え聞く喧噪はちょっと盛ってるんじゃないかなんて疑っていたが、実際に行くと日本縁日以上の人、人、人。

屋台が軒を連ねる通りは真っ直ぐ歩くのも難しいくらい。

食習慣が全然違うのを肌で感じる。


夜市を一回りすると、一番行列のできてる店がわかった。

ここに決めた。

朝にエリーさんに酷評された付け焼き刃の台湾語は捨てて、筆談だ。

蚵仔煎を描いたメモを見せて注文する。

やがて店内に通されて、目当ての品が運ばれて来た。

おお、これが蚵仔煎か。

まず写真を一枚。

そして口に運ぶ。

プルプルしている!台湾風にいうとQQだ。

牡蠣オムレツと言いながら、片栗粉ような生地の方が主で、それに卵が絡み、その中に青菜と小粒の牡蠣が旨味を添えていた。

かかっているタレは甘酢か。テーブルに置いてある辛味噌を添えると更に風味が増す。

エリーさんの忠告は忘れてないが、ひょっとしたらヤバいものを食べているのかも知れないというスリルもまたスパイスのようなものだった。

「很好吃!」メモを見せると、店員のお姉さんはサムズアップした。



>>2日目



2017-10-08

東工大のアーチの何が面白いのか解説する

https://togetter.com/li/1158748

これについて。

面白いから良いんだよ!」「必要ないことをするのが芸術だ」というのは確かに正しいです。

ただ、そこから先、「なぜ面白いのか?」「建築において必要って何?」ということを考える上で知っておくとより楽しめる基礎知識について、建築の見るだけファンが少し書いてみます

そもそもアーチってなんのために存在するの?

ついこないだ、鉄筋コンクリート発明されるまでの西洋建築は、石(とサブで脆弱な木)だけでいかにかっこいい建物を建てるかの歴史でした。

今でもそうですが、かっこよさに重要なのはそのデカさです。石を適当に積んで泥で固めるだけでも、そこそこの家は作れますが、でかい建物になると梁や柱にかかる負担が大きくなって限界がありました。

そこで古代ローマ発明されたのが、東工大建物にも採用されているのと同じあの扇形のアーチです。

科学館とかの遊具で試したことがある人も多いと思いますが、アーチという構造は、他の方法で組むよりも何倍(何十倍Wikipediaに答えが書いてありそうな気がしますが見ずに進めます)も強度を高めます

主要な部分の強度が何倍かになれば、建物デカさ(≒かっこよさ)は何十倍にもできるわけで、このアーチという構造ローマ以降近代までの建築で猛威を振るいます

たとえばコロッセオはアーチ状の窓がたくさんついてますよね。あれはアーチが頑丈なお陰であんなに大きいのに今まで残ってるわけです。

それからは1500年くらいアーチをいか効率よくかっこよく使うかという問題建築にとってかなり(もっとも?)大きなテーマになっていました。

たとえば「大聖堂」で画像検索してみればわかりますが、(ルネサンス以降、ローマから1000年以上経っていても)アーチを数学的に多数組み合わせることであれだけ巨大でかっこいい建物を作っているわけです。

余談ですが、近代になってトランプのような暇な大金持ちが出てくるまでは基本的にかっこいい建物といえば教会でした。

人間はかっこいい建物をみるとすげーって思って宗教的ものを感じるので、かっこいい教会を建てるのは営業的にかなりプラスでした。

他にはすげー建物を建てるインセンティブがあってそれだけの余裕がある人はあまりいなかったので、近代までのすげー建物基本的宗教がらみです。最近新興宗教でもすげー建物を建てる傾向は健在ですね。余談終わり。

鉄骨とコンクリートの登場

さて、これまでは石を積んで建物を作る=かっこいい建物を作ろうと思えばアーチを使わざるを得ない、という状況だったわけですが、20世紀に入ってから鉄骨やコンクリートという技術建築に使えるようになりました。(たぶんWikipediaに詳しい説明があります

たとえばエッフェル塔は鉄骨を使うことで、それまでの石積みアーチでは間違いなく崩れるほどの高い=かっこいい建物を作り上げたわけです。

鉄骨とコンクリートを使えばアーチなんて使わなくてもでかい=かっこいい建物を作れるぜ!ってことでアーチを廃したやたらカクカクしてでかい建物が作られる(作れる)ようになりました。

今のビルマンションにつながるムーブメントですね。「モダニズム建築」で画像検索すれば雰囲気はわかると思います

ここまでが20世紀前半のことですが、20世紀後半になると「カクカクしてるのダサい」「いやいいでしょ」「むしろアーチが逆にいい」など色々な意見が出てきます。これが「ポストモダン建築」です(いまではほぼ思想用語ですが元は建築用語でした。当然ながらこの説明めっちゃ雑なのでWikipediaも見てください)。

ポストモダン建築としての東工大のあれ

はい。ようやく例の東工大建築まできました。

私の解釈ではあれは、「もともとアーチは必要不可欠だったが、建築技術進歩不要になった。しかし今でも伝統として無意味なアーチを採用している建物が多い。そもそもなんでアーチが存在するのかみんな忘れてない?」という意図を持って造られたのではないかと思います

その意味で、「なんかアーチが無意味面白い」という感想はまったく製作者の意図通りだったのではないかと。そして建築を専攻する学生であれば当然上記のような知識は知っているので、更に思考を進める役に立つのではないでしょうか。

冒頭で書いたとおりわたし建築素人なので、「もっとこんな意味が」とか「もっとここ書けば面白いのに」などは、詳しい人が記事書いてくれたらいいなーと思います。単純に間違ってる場所トラバブコメで指摘くれれば反映します。もっとネット建築関連の非専門家向けの記事増えろ!

2017-10-04

月がきれいですね」「死んでもいいわ」は大嫌い

こんなに月がきれいな晩にいうのも何だが、

いわゆる「月がきれいですね」のくだりオマージュが大嫌いだ。

何か物語があり、何かのカップリングがあると、すぐどいつもこいつも、

男「月がきれいですね」 女「死んでもいいわ」 ラブラブEND みたいな掌編マンガドラマを書き始めるが、

あれはなんだ。



嫌いな理由

月がきれいですね」は漱石(が言ったことになってる)の気の利いたジョークであり、

その意味を汲めないやつが消費的に使っていること。

I Love Youをまんま和訳すると、当時の日本人には直接過ぎる。

から月がきれいですね」という当たり障りのない事を「そうですね」とやり取りすることで、

2人の気持ちは通じ合っていることを確認するから愛の告白なのだ

だぁから、間違っても返す言葉は「死んでもいいわ」じゃない。

「そうですね」とか「私もそう思います」だ。それで2人は見つめ合うーーーなら良い。いいじゃないか

それ以上言葉はいらない、心はもう通じ合ってるじゃない!

なのにさあ…なんなん…


嫌いな理由

月がきれいですね」と「死んでもいいわ」はまったくニュアンスが違うし、情の質も異なる。

なのにそれを無視して、無視して、ただ近代文豪が言ったという権威に乗っかってキメラにして、

それでいてなお、ちょっと自分作品文学・詩的にしようとしてる姑息さが嫌いだ!

「死んでもいいわ」は二葉亭四迷ツルゲーネフの「片恋」を訳す際に用いた言葉だが、

はい、もうこの時点で何人かは、「エッこれ漱石言葉じゃないの!?」とか言ってるからな、ここで!)

ヒロインのアーシャが主人公に抱きしめられて返した言葉だ。唇が主人公の胸元に触れるか触れまいか

ところで、アーシャがぽろりと漏らした言葉がこれだ。

アーシャは主人公に、片思いしてるわけ。そんな主人公に熱い抱擁をされて、

彼女はきっと、熱に浮かされたように頭に血が上り、緊張し、そして幸福絶頂を味わったんだよ。

だ・か・ら・こ・そ、「死んでもいいわ…」なんて言うわけ。もう今の幸福を例えるなら、

死んでも惜しくないほど幸福だと。

分かる? 「死んでもいいわ」はなんなら、I Love Youあなたを愛しています なんて生易しい沸点言葉じゃないの。

暴走ギリギリ感情表現しているわけ。

これで「月がきれいですね」と「死んでもいいわ」の言葉の取り合わせがいいわけないよね?でしょ?

ほら。

ね、みんな嫌いになったでしょ?

なんか安っぺえええ、浅い知識いかにもこざっぱりした和風純情を出そうとしてるせこい演出だと思わない?



はあ、言いたいこと書いた。気持ちよかった。ではまたこんど。

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