はてなキーワード: 国立とは
どんな罵声、罵倒を言われようと、我々は諦めません。最後までしがみつきたいと思います(`・ω・´)ゞ
1【H】G大阪(△2ー2)
2【A】湘南(△2ー2)
3【A】京都(●0ー2)
4【H】鳥栖(○2ー1)
5【A】広島(●0ー1)
6【H】大分(△0ー0)
7【A】柏(○3ー0)
8【H】C大阪(○3ー2)
9【A】鹿島(○5ー1)
13【H】横浜FC(○3ー0)
14【A】福岡(△0ー0)
15【A】神戸(△1ー1)
16【A】名古屋
18【H】新潟
19【A】浦和
21【A】鳥栖
22【H】柏
26【H】札幌
27【H】鹿島
29【A】横浜FM
30【A】新潟
32【A】大分
34【H】川崎
35【H】福岡
36【A】横浜FC
37【H】名古屋
38【A】G大阪
1【H】浦和(△0ー0)
2【A】湘南(△0ー0)
3【H】清水(○3ー0)
4【試合なし】
5【H】川崎(●0ー1)
6【A】清水
7【試合なし】
8【H】湘南
9【A】川崎
30代の一人息子。真面目でおとなしいのだが、不器用で要領が悪かった。
小学生時代、放課後の公園で何度練習しても逆上がりができず、家でどれだけ練習しても二重跳びはできなかった。中学受験では塾の仲良しグループで唯一全落ちしてしまった。
それでも進んだ区立中では楽しく過ごしていたし、高校受験では所謂名門都立高校に進んだ。しかし、大学受験では再び挫折。浪人したものの国立に落ち早慶に進んだ。国家公務員志望から法曹志望に切り替え、予備校に通い一生懸命やっていたようだが予備試験には受からず、法科大学院修了後も司法試験に受からなかった。
3回目の司法試験の際に初めて短答試験に合格し、私や夫が心配するくらい勉強して論文に挑んだが、残念ながら不合格だった。リビングの椅子の上で不合格を知った息子は一点を見つめて呆然としていたが、突然エビのようにビタン!と勢いよく跳ね、そのまま床にうずくまって歯軋りを始めた。私が声をかけても反応せず、そのまま奇声を上げて気絶してしまった。
それから息子は二日ほど部屋に篭っていた。三日目の朝にリビングに降りてくると「司法試験は諦めて就職する」と言ってきた。
息子は企業の法務部で働き始めた。職場環境は良かったようで本人も楽しそうにしており、私や夫は安心していた。社会人になって以来、息子は帰宅が遅くなり、休日の土日も殆ど家を空けるようになっていたが、忙しいのかと思い気に留めていなかった。
社会人になってから3年ほど経ったある日、息子から自身が主催しているセミナーを手伝うように頼まれた。夫も休日だったため、よくわからないまま二人で会場に赴いた。すると、先に集まっていた人々から「先生のご両親ですか?」と聞かれた。そうだと答えると突然周りが慌ただしくなり、恭しく部屋に控え室に通され、ソファの上でお茶やお菓子を出された。そして、みんなから口々に息子の凄さを聞かされた。「先生のおかげで人生が変わった」、「先生のおかげで世の中の構造が見えるようになった」、「先生のおかげで人生に意味を見出せた」というように。
息子が遅れて控え室に入ると、私たちの周りに集まっていた人々は一斉に息子を囲み、また口々に挨拶と賛辞を繰り返した。息子はそれをあしらい、準備をする様に言うとみんな解散していった。息子から「今日のセミナーの終わりに会場の外で本を売るから、レジをやって購入した人に僕の両親だと言って挨拶や握手をして欲しい」と言われた。
時間になり会場に人が集まってきた。私と夫は後ろから立ち見していたが、来場数は100人ほどで若いカップル、小さな子供を連れた若い女性、私たちと同じ中年の男性、80過ぎの女性など年齢層はバラバラだった。息子が登壇すると、ある人は勢いよく拍手し、ある人は「先生!」と勢いよく叫び、ある人は立ち上がってお辞儀した。息子が話し始めると場が静まり返った。話してる内容は陰謀論だった。息子曰く、世界を支配しているのはビルダーバーグ会議で、日本はビルダーバーグ会議の意向を受けた日米合同委員会が支配している。みんなから事前に集めた悩みを発表し、その悩みの根本原因にはビルダーバーグ会議と日米合同委員会があり、自分は愛と真実によってこれらから世界を解放するのだという。
正直聞いていて呆れてしまった。息子はオカルト話と陰謀論を混ぜこぜにしたような話を披露し、来場者はそれを真面目な顔して聞く。
息子が一通り話し終えると控え室にいた女性が登壇し、「これまでの先生の指導集がいよいよ完成しました。ご希望の方は会場の外の物販コーナーにてお求めください」と言いお開きとなった。来場者はすぐに外には出ず、息子の元へ行列を作って何かを質問したり相談していた。
私と夫は控え室にいた別の男性に案内され物販コーナーに立った。先程女性が紹介した息子の指導集が並んでいたが、なんと文庫本サイズで発言と日時がまとめられただけのものが一冊25000円である。会場から出てきた人々は今度は物販コーナーに列を作り、老若男女迷うことなく購入していった。そして私と夫に握手を求め、息子を讃美した。ある年配の女性からは涙を流してお礼をされた。全てを売り尽くし、私と夫はよくわからないまま帰宅した。
息子が知らない間に教祖になっていた。
基本的に医師として一つの診療科で一人前になるには、経験年数10年は要します。
概ね、卒後6から7年後に受験する専門医試験に合格してようやく半人前といった感覚ですし、非専門医ではただ医師免許を持ち少し研修しただけのレベルに近いです。
しかし、美容分野に進む医師の中に、他科で専門医を取得すら出来ず所謂ドロップアウトした方が多く含まれているのが現実です。
もちろん、誰しもが初めから名医ではないですし、専門医や学位がその医師の能力の全てを表す尺度ではありません。
しかしながら、美容医院を受診する際には他の診療科以上に担当医師の年次や経歴を十分に確認することが重要です。
美容分野の医師にやばいのがいるのは同意です。一昔前までは別の科で何年か医者やってからのドロップアウト組、一般形成外科で研修を積んでから異動組のどちらかが多かったですが、最近は研修終わりにストレートで美容に就職して、はなから院長みたいな子達が結構います。合併症やアレルギー対応等は医師としての経験が重要なのにこんな若くして美容では何も対応できないでしょう。病院選びはほんと大事だと思います。ただ、今回の脱毛クリニックは雇われ院長で運営が酷いだけだと思います。
周りが国立医学部行って1人だけ多額の寄付して聖なんたら大学行って落ちこぼれて5回留年、国試も3回目でようやく受かった。特に目標がないから専門医も取らずにのらりくらり。気付いたら美容外科に転科してたけど怪しくてしゃーない。
3ヶ月前のある日、職場のエレベーターに乗っている最中ひどい貧血と立ちくらみ、吐き気に襲われた。昼休みだったためしばらくオフィスの椅子で休んでいると20分ほどして回復した。
その日の帰りに、2ヶ月前にも一度仕事帰りに貧血と立ちくらみ、吐き気に襲われたことに気がついた。
色々ネットで調べていたところ、大腸がんの症状が自分に当てはまった。
自分の症状
・二週間に一度のペースで下痢気味になることがある。特に週末。
・体重減少。社会人になって、一人暮らしを始めて食事がお粗末になったことがきっかけだと勝手に思い込んでいた。
・お腹のはり。
・頻繁なゲップや屁。
そして先述の貧血と立ちくらみである。血便はないが全ての患者に現れるわけではないそうだ。
年齢、血の繋がった家族や親戚にガン罹患者がいないことなどから最初は信じられなかったが、大腸ガンについて色々調べていると日本を含む世界中で二十代や三十代の大腸ガンが脅威的なほど急増していることを知った。
しかし、もし進行していたらと考えたらいけなくなってしまった。病院のベッドに縛り付けられ、腹を切り開かれ、その後効くのかどうかもわからない抗がん剤(抗がん剤を毒物と呼んで使用禁止を呼びかける医師がいることも知った)を投与されボロボロになって死ぬ。担当医は高級キャバクラで俺が死んだことを電話で聞かされ「あーそう。死んだか。はいはい。忙しいから後でね」と電話を切って再び女の子を口説き始めるんだろう。
仮に進行していなかったとしても、退院後一生再発の恐怖に怯えながら生きることになる。
また病院のベッドで弱っている俺を女手一つで育ててくれた母に見せたくない。
そう考えた結果、「もうあと一瞬で死ぬ」という所まで放置することに決めた。これから段々症状の悪化や痛みに苦しむのかもしれないが、俺が耐えれば良いだけだ。
「倒れたと思ったら、すぐに死んだ」
その方が母の心の傷も悲しみも少ないかもしれない。
大腸ガンが発覚するまでは「これから先も毎日仕事して、彼女ができて、結婚して、子供が産まれて、あっという間に年取るんだろうなあ」なんて考えていた。しかし現実は違った。俺は年を取る間もなく死ぬ。
高校生の時に都立青山高校っていう東京都ど真ん中の高校に通ってた実情を書いてみる。
都会にいるっていうのが、どういう文化レベルなのかの一例となれば幸い。
青高は東京メトロ銀座線の外苑前駅の近くにあって、ヤクルトの本拠地の神宮球場の目の前の高校。
高校生クイズ選手権時の予選会が神宮球場にあったりしたんだけど、そこで一番近い学校だっていう事で注目されてた時もあった。すぐに敗退してたけど(笑)
国立競技場も近くて、僕は高校生の時はサッカー部だったんだけど、「いま一番国立近い学校だから(物理)」みたいな冗談はことは友達には言ってた。
まぁ、もっと近くに國學院高校っていう学校があって嘘なんだけど。
僕は大江戸線の国立競技場前って駅から青高まで歩いてたんだけど、国立競技場の敷地内を歩きながら学校に通ってたのは、なんか誇らしかった気持ちがあったかな。
あと高校生の時はお金がまじでなかったから(お小遣いが月3000円〜5000円だったから)滅多に行かなかったのだけど、ホープ軒で食べるラーメン美味しかった思い出がある。(今思うと全然美味しくないが)
立地はこんな感じ。
次にイベントについて書いていく。
確か5、6月ぐらいに体育祭があってその一環とし、応援団を作って、応援合戦みたいなのをやるのがあった。
応援団をやる人は2、3週間くらい応援団の練習をするんだけど、練習場所が代々木公園だった。
定期がある人は電車乗っていくんだけど、みんながみんな定期あるわけじゃなくて、代々木公園までは歩いていくってのが恒例になってた。
外苑前から原宿超えて代々木公園まで行く道ってのは結構面白くて、
インテリアショップとか眼鏡屋とかブラジル大使館とかあったり、
表参道を歩いたりとか、原宿の竹下通を歩いたりとかしながら、代々木公園まで行ってた。
今はなき原宿のコンドマニアで「お前買ってこいよ」「やだよ、お前いけよ」「なんでだよ!じゃあ一緒に行こうぜ」みたいやりとりをやってたりした。結局買わないんだけど、当たり前だけど。しょうもないけどそういうの楽しかったような気がする。今思うと全然面白くないが。
11月には外苑祭っていう文化祭があるんだけど、外苑祭では1年生から3年生の全部のクラスが劇だったりミュージカルをやるってのが伝統になってて、夏休みから外苑祭の前までは、「神宮外苑の絵画館」前のちょっとした広場的な場所で練習をしてた。
正直僕は外苑祭に乗り気じゃなかったから、全然練習参加しなくて数回だけしか行ってないくても、なんか思い出にはなってるね。
文化レベルって観点では、絵画館の建物自体がすごい美しい建物だったし、絵画館と銀杏並木の風景っていうのはすごく美しかったのは、高校生でも感じる部分があった。
イベント的にはそんなもんがメインで、その他の時期は普通に駅と学校を行ったり来たりするだけの生活してた。
個人的には、学校に自転車を置いたのもあって、学校サボって自転車乗って、原宿行ったり、246を赤坂方面まで走らせて、皇居らへんまでいったりとかは楽しかったな。
あと僕は部活やってたからバイトはしてなかったけど、周りの人とかは学校周辺でバイトやってる奴もいた。そういう奴は結構大人な世界を垣間見えたんじゃないかな。お金も増えるしね。
僕は遊ぶ金なんて全くなかった。だから高校生の場合、都心のど真ん中にあったとしても、そこまでは楽しめてなかったんじゃないかな。
まぁでも表参道とかの建築を見て、建築学科に進むっていう決断をしたので影響は大きかったのかもしれない。
あと仲良かった奴が、「スイスでヘルツォークアンドドムーロンの建築観てきて良かった!青山にもあるから観に行くと良い」って言ってくれたりして、周りの人間の文化レベルたけぇなって思った。
お金が無いなりに楽しんだって思えるのは、原宿の古着屋でHanjiroっていうお店が全盛期だったんだけど、そこで100円になってる服を買ってた。てかそれしか買えなかったんだけど、あれは楽しかったな。
あとはまぁ、今はもうない明治公園でフリマがやってて、そこで 安く売られてる服とかを買ってたりしたな。
もちろん高校時代を都会で過ごした影響はかなり大きかったんだけど、僕の中で影響が大きかったのは、やっぱり大学ですね。100倍くらい大きいんじゃないかな?
高校の時は受動的にやること っていうのが多くて、能動的には動けなかった記憶があるけど、
大学生になったらぼぼ全部自分で考えて、行動するから大学生の時の方が、濃密な時間を過ごせたと思ってる。
まぁ今なら、文化ってインターネット発なのが多いし、都会にいなくても、最先端な文化に触れられるのじゃないかな?
僕が好きなVtuberのぽこぴーとか滋賀県出身で電車ない土地に住んでそうだけど、最先端いってる。
僕が高校生の時は、まだスマホとかなかったし(シャって開くタイプの携帯とか、インフォバーとかが流行ってた時期だったし)、高校生の時は家族パソコンしかなかったし、ニコニコ動画も知らないし2ちゃんねるも知らない。パソコンの授業の時に友達が「スーパーマリオのTAS動画」見せてくれた時も「おもしれー!TASさんって人まじで超マリオ上手いやんけ!!!」って思ってたレベルだったから、住んでる場所の影響大きかったと思うが、今はどんどん差が縮まってきてる。
どことは言わないが、東京のお受験のお教室行って受験して入る国立幼稚園。
子供がわりと賢いなと感じたのでお教室行かずになんとなく受験したらたまたま受かった。
去年の反省として、年2回の園庭清掃という草取りに男性保護者をもっと呼ぶべきだったという話が出た。
取った草はまとめて、120cmくらいの柵があるゴミ箱にいれるんだけどそれが重くて大変だったと。
それくらいお母さんで分担してやれや。
その程度の力仕事で男に頼るな。
自分に力がないと思ったら鍛えろ。
運動会の親子競技は例年、「事情がない限り」大体お父さんが出るもんらしい。
純粋なふりしてなんでですかって?聞いたら、もう何年も走ってないし汗かくからだって。
なんなの??
事情がない限りって言い方も何?
それでいて、幼稚園のスリッパが男女で色が違うのは時代に合わないから全部黄色にしようとか、
お父さんの会って呼び方は時代に合わないから他の呼び方はできないかとか真面目に話し合ってた。
人口20000人未満のど田舎町で生まれた。幼少期に両親は離婚して母と兄との3人暮らし。
兄は小さい頃から家の事を手伝うことなどなく、母子家庭なのに浪人して予備校にまで通って国立滑って早慶に進み、母から家賃と公共料金代まで貰いながら都内で一人暮らし。その後就職留年しても大手に就職できずに卒業して地元に帰って来て、公務員試験受けて地元の町役場に入った。
私は母と家の事を分担しながら地元国立医学部(私立禁止かつ上京禁止だったため)に現役で入りストレートで卒業して、研修終わると同時に東京に逃げて来た。
兄は役場に就職して間もなく、近所に住む兄や私と同じ県立の進学校を卒業して大学進学せずに地元の信用金庫で働いていた女性と結婚した。義姉は美人なので、田舎じゃなかったら兄と義姉がくっつく事は絶対なかっただろう。
私は恋愛も婚活も経験したものの、満足行く相手と出会うことなく婚活市場から撤退。
田舎の暇な役場でダラダラ働きながら、家では実母と妻の女二人にケアされている兄が既婚の子持ちってだけでまともな人間面して、家事も貯金も仕事も全部一人でこなしてる私が独身ってだけでライフステージ変わらない無産人間に認定される世の中マジでクソだな。