はてなキーワード: 1958年とは
https://moriishi.com/entry/nobel-prize-in-literature-early20c
面白かった。ウィンストンチャーチルも受賞してたの知らなかった。
日本人は
受賞講演 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%A7%81%E2%80%95%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BA%8F%E8%AA%AC
詩趣に富む表現力を持ち、現実と虚構が一体となった世界を創作して、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている
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1903年 ビョルンスティエルネ・ビョルンソン(ノルウェー)
その感化の鮮度と精神の希少な純度の両方において名高い、高貴で壮大、且つ多彩な詩に敬意を表して
プロヴァンスの言語学者としての重要な業績の他、自然景観と人々の土着の精神を忠実に反映した、彼の詩作の新鮮な独創性と真の触発に対して
1904年 ホセ・エチェガライ・イ・アイサギレ(同時受賞)(スペイン)
1906年 ジョズエ・カルドゥッチ(伊)
念入りな学究とその成果を評価するとともに、創造的なエネルギー、スタイルの新鮮さ、詩的な傑作を特徴づける叙情的な力に敬意を表して
1907年 ラドヤード・キプリング(英)
真実のための本格的検索、思考の一貫した力、視野の広さ、表現の暖かさと強さによって、数多くの作品の中で人生の理想主義的哲学を実証したこと
叙情詩人、作家そして世界的に知られた短編小説家としての長年の創作活動を通して世に送り出してきた、無上の芸術性、理想主義の浸透を賞賛して
多岐にわたる文学活動、特に戯曲の数々を評価して。豊かな想像力と詩的な空想は、時に御伽話の形を装いながらも、それぞれの作品が神秘的な方法で読者ひとりひとりの感性に訴え想像力を刺激する間、深い創造的発想を明らかにする
1916年 ヴェルネル・フォン・ヘイデンスタム(スウェーデン)
崇高な理想に触発された、彼の多様で豊かな詩に対して
1917年 ヘンリク・ポントピダン(同時受賞)(デンマーク)
1921年 アナトール・フランス(仏)
1926年 グラツィア・デレッダ(伊)
彼の豊かで活発な発想と、それが表現された鮮やかな技巧に対して
ブッデンブローク家の人びと
1931年 エリク・アクセル・カールフェルト(スウェーデン)
林檎の樹
呪われた日々、チェーホフのこと
1934年 ルイジ・ピランデルロ(伊)
月を見つけた
楡の木陰の欲望
1944年 ヨハネス・ヴィルヘルム・イェンセン(デンマーク)
車輪の下で
1950年 バートランド・ラッセル(英)
哲学入門
バラバ
テレーズ・デスケルウ
我々の時代の状況を先見的に反映した、彼の詩の高らかな飛翔と喚情的な形象に対して
1962年 ジョン・スタインベック(米)
1964年 ジャン=ポール・サルトル(受賞辞退)(仏)
静かなドン
1974年 エイヴィンド・ユーンソン(同時受賞)(スウェーデン)
1974年 ハリー・マーティンソン(同時受賞)(スウェーデン)
アニアーラ
偉
真実を伝えたい。約70年前に結婚の約束を交わした日本人女性を探しています。
当時のペギー・ヤマグチさんの写真
アメリカのアイオワ州に住む91歳のデュエイン・マンさんは、海軍時代に駐屯していた日本で出会った女性、ペギー・ヤマグチさんを、約70年間探し続けている。
2人は愛し合い結婚まで約束していたが、ある出来事がきっかけで結ばれることはなかった。
マンさんはヤマグチさん、もしくはその家族を見つけ、真実を伝えたいという。
彼はその願いを込めて、Facebookに自身のストーリーを投稿した。
海軍に所属していたマンさんは、1953年から1954年にかけて日本に駐屯。1952年に日本政府に一部返還され「東京国際空港」(羽田空港)となった「ハネダ・エアベース」で海軍連絡係として働いていた(全面返還は1958年)。彼は空軍の下士官クラブの利用を認められており、ヤマグチさんはそのクラブでクローク係として勤務していた。
自由時間にはそこでスロットマシンの修理係としても働いていた22歳のマンさんは、ヤマグチさんとダンスを通じて仲を深め、恋に落ちていった。
約14カ月の交際を経て、式の準備が出来しだい結婚しようと計画していた2人だったが、当時、アメリカの軍人と日本人が結婚するのは容易なことではなかった。
そんな時、予定より数カ月早くマンさんに帰任命令が出た。結婚する間もなく、マンさんはアメリカに帰る飛行機に乗ることになった。
残されることとなったヤマグチさんはその時、妊娠していたーー。涙する彼女にマンさんは「心配しないで。貯金があるから、すぐに君をアメリカに呼び寄せるよ」と話した。
しかし、帰宅すると思いもよらぬ事態が起こっていた。すべての貯金が父親に使われていたのだ。彼はヤマグチさんに手紙でその旨を説明し、仕事を見つけて必ず早く呼び寄せると伝えた。
マンさんは高速道路の建設会社で仕事を見つけ、週6日必死に働いた。その間ヤマグチさんと手紙のやりとりをしていたが、約1カ月後には返信が来なくなった。
約3カ月後、妹が渡してくれたヤマグチさんからの手紙には、赤ちゃんを流産してしまったこと、そして日本で出会ったアメリカ軍人の男性と結婚したことが書かれていた。
実は、その間実家に送られてきていたヤマグチさんからの手紙は、日本人との結婚に反対だった母親によって燃やされていたのだ...。
会って真実を伝えたい
母親に手紙を焼かれて彼女の連絡先を失い、連絡の方法がなくなってしまったマンさん。それから約70年たった今も、未だにヤマグチさんを探している。
「彼女にもし会えたなら、見捨てたんじゃない、ということを1番伝えたい」とマンさんはハフポスト日本版の取材に答え、ぜひこのストーリーをシェアして欲しいと語った。
5月2日に投稿されたマンさんのFacebookポストはすでに700回以上シェアされており、400件以上のコメントが寄せられている。その中には、「見つけられますように」などの応援メッセージだけでなく、情報提供や捜索手段のアドバイスも多くある。しかし、未だに確実な情報は得られていないとマンさんは語った。
彼はすでに2度結婚を経験しており、6人の子どもと18人の孫、そして6人のひ孫がいる。彼らも今回の調査を手助けしている。
【ヤマグチさんの手がかり】
現在ペギー・ヤマグチさんの手がかりとしてわかっていることは、
・1953年~1954年に「ハネダ・エアベース」(東京国際空港)の空軍の下士官クラブ(Air Force Non Commisioned Officers Club)でクローク係(Hat check girl)として勤務していた。
・当時の写真(↑)
・当時、「ハネダ・エアベース」(東京国際空港)すぐ近くの寮に住んでいた。
残念ながら、マンさんは 彼女を「ペギー」と呼んでおり、正確な日本語名を覚えていない。Facebookで彼は「Iyackoだったと思ったが...」と述べており、コメント欄ではAyakoやIchikoではないかとの憶測がなされている。結婚後の姓もわかっていない。
現在、アメリカでもこの投稿は広くシェアされ、ニュースでも取り上げられ調査の輪が広がっている。
【ヤマグチさんは米軍の男性と結婚したとのこと。その後、渡米しアメリカにいる可能性も高いですが、もし何かご存知の情報があれば、件名に「ヤマグチさん情報」と記入し、news@huffpost.jpにぜひご提供ください。編集部からマンさんに連絡いたします】
https://news.yahoo.co.jp/articles/27578dd76d48b1fc7dfe50e37769b7f496f77c7c
テニスのアンスコといえばフリフリ白パンツか、紺ブルマーのイメージだ。純白のスカートから躍動する脚、チラチラのぞきブルマー。実物は見たことないのに、なぜかドキドキしてしまう。この偽装された記憶はどこから来たのだろう。
ウィキペディアによれば、第1回大会はセンターコートに置いてあった芝生の手入れ用のローラーを新しくする資金集めを目的に、1877年7月9日から始まったそうだ。種目は男子シングルスのみのアマチュアの大会だった。
1884年に女子シングルスと、それまでオックスフォードで開催されていた全英男子ダブルスがウィンブルドンで開催されるようになった。1913年には女子ダブルスとミックスダブルスが加えられ、1968年にはプロ選手の参加が認められた。
世界中から強豪選手が参加するようになったため、地元イギリスの出身者は長らく優勝できなかった。男子シングルスでは1936年のFrederick John Perryから2013年のSir Andrew Barron "Andy" Murrayまでの77年間、優勝がなかった。また、女子シングルスでは1977年のVirginia Wadeの優勝を最後に40年以上イギリス人の優勝者は出ていない。
ちなみに、このように海外勢いに門戸を開いた結果、地元勢が淘汰され消沈することを「ウィンブルドン効果」という。
開催時期は原則として6月最終月曜日から2週間で、ちょうど英国の社交の季節だ。競馬のロイヤル・アスコット(「マイ・フェア・レディ」に出てくるあれ)、競艇のロイヤル・ヘンリー・レガッタもこの時期だ。
ドレスコードが厳しいのでも有名で、原則身に着けるのは白一色である汗じみが見苦しくないようにともいわれる。ブリタニカのページなので確かだろう。
https://www.britannica.com/story/why-do-tennis-players-wear-white-at-wimbledon
元々、ウィンブルドンでは女性はロングスカートや分厚いシャツ、それから帽子をかぶることが要請されていた。こちらではコルセット付きだったとも(ただし白い衣装について異説を紹介していることに注意)。20世紀初頭のテニスプレイヤーは道行く女性の姿と大して変わらなかったのである。だから本気で優勝を目指すことはおろか、ちょっと大きな球を返すのさえ大変だった。当時の男性がずっと軽装だったのと対照的である。
流れを変えたのはDorothea Douglass Lambert Chambersという選手で、1900年により簡素なシャツにネクタイ姿で登場した。7度シングルで優勝し、1908年には夏のオリンピックで金メダルを取っている。彼女は1910年にドレスコードやエチケットについての本を著している。
その後フランスのSuzanne Lenglenがテニス界のフラッパー(新しい女)として知られるようになった。飲み物をブランデーと入れ替えたり、強めのメイクをしたりといたずらも好きだった。負けると感情的になったことでも知られる。彼女は白のみのファッションを許容していたウィンブルドンに立ったが、エキセントリックなファッションセンスでも知られていた。ミンクやオコジョのコートをまとい、当時としては短いスカートでプレイしたのである。彼女が次の世代の女性たちに道を切り開いた。
そして戦後の1949年、Gertrude Moran(Gorgeous Gussie)がスキャンダルを引き起こした。というのも、ウィンブルドンの意匠は白一色だと規定されていたのだが、そのあまりにも「明らさまな」白い衣装に観客はショックを受けた。どういうことか。試合の前にMoranは公式開催主のTed Tinlingに衣装をデザインしてくれと依頼していた。一見すると規定に従った衣装に見えるのだが、実際にプレイするとフリル付きの下着が丸見えになったのだ。
これに関し、All England Club’sの委員会は「ウィンブルドンに野卑と罪を持ち込んだ」と猛烈に批判し、国会でさえ適切な衣装についての議論が起こった。Tinlingは33年のキャリアにもかかわらずウィンブルドンのホストを追放された。にもかかわらず、Moranは魅力的な姿から彼女は人気だった。彼女は後に「自分はただの女の子だったが、メディアが大げさに書き立てたのだ」という趣旨の発言を残している。彼女は60年代まで活躍した。
https://www.thecut.com/2018/08/womens-tennis-outfits-convtroversy-history.html
衣装に関する議論は定期的に起きている。全ての内容を翻訳していてはページが長くなるので、見せパンに関係するいくつかのみをピックアップする。
1958年にアメリカのKarol Fagerousは金のラメ入りの見せパンを全仏オープンで披露したが、すぐさまウィンブルドン大会への参加を禁止された。「対戦相手を不快にさせる」のがその理由だ。しかし、金のラメを白いレースで覆うことで参加を許可されている。
あるいは2016年のナイキがデザインしたベビードール風のテニスウエアがある。しかし、選手が身体を隠すのに苦労したし、ひらひらして浮いてくる。実際写真で検索するとしょっちゅう短パンというか見せパンが丸見えになる。なので、ナイキはすぐにその衣装を改善したそうだ。
https://www.slideshare.net/guimera/wimbledon-2014-fashion-through-history
見せパンについてはこちらも参照。たとえば6番目の写真のChris Evert、1976年のピンクの見せパンや、41番のTracy Austin、1981年の黄色の見せパンを確認できる。50番はTatiana Golovinは赤の見せパン(短パン)で、このときウィンブルドンは衣装がすべて白という規定に抵触するかどうかでもめたらしい。一応、下着の色は自由だということでおとがめなしだったそうだ。56によるとMaria SharapovaやSerena Williamsの赤の短パンが、そして色付きのネイルが問題になったらしい。
https://www.dailystar.co.uk/news/latest-news/bbc-bosses-blasted-focus-female-17086364
なお、大衆紙によると2016年にBBCの偉い人がテニス選手の見せパンやお尻ばかり撮影したと批判されたようだ。以前にビーチバレーの記事でも書いたが、カメラが性的にならないようにする工夫というのは必要である。
https://www.news-postseven.com/archives/20190904_1444086.html?DETAIL
エラリー・クイーンを読んでいた時に、確か「Zの悲劇」だったと思うが(いや、「レーン最後の事件」だったかな?)、ペインシェンスという娘が恋人とスキャンティ(パンティー、ショーツの別名)を買いに行く場面があった。同時代の小説での証言として興味深いのでメモしておく。
https://www.elle.com/jp/fashion/fashion-column/a35747586/history-of-pantslooks2021/
また、パンツでヒットしたのでここに記す。死文化していたが、フランスでは女性がスカートでないパンツスタイルをはくことが法で禁じられていたとのこと。女性の権利に関して非常に進歩的である地域に見えても、案外不平等なシステムの残滓が残っていたりするのもので、ときおり愕然とさせられる。たとえばスイスで女性参政権が得られたのは驚くなかれ1991年である。女性への制限、男性への制限、どっちでもない人への制限、みんなで少しずつなくしていきたい。
よくドレスコードなんかでもめる話で、ハイヒールを必ずはくよう要請される場所というのがある。なんかの映画祭でも話題になっていたことを記憶している。伝統に敬意を払うのは大事だが、はいていないと入場できないのはやりすぎのように思う。ドレスコードってのはみんなが居心地悪くならないようにするためのもので、人を縛るものとはちょっと違う。
例えば、足を怪我していたらどうするのか。もっと極端な話、脚が生まれつきない人はどうするのだ。茶化しているのではない。様々な疾患や障害があろうが困らないようにするほうが、誰にとっても生きやすい社会になるはずだ。
「Tennis Girl」というスカートからお尻丸出しの歴史的に有名な写真がなんと英語版ウィキペディアには掲載されている。ウィキメディアコモンズにはときおりとんでもない画像があるから驚かされる。
自分の投稿をブルマ増田としてまとめてくださる方がいる。あるいは、いつも応援のコメントをつけてくださる方がいる。ありがたいことだ。けれども、どうやって拾い上げているのだろう。一日に何千件も投稿されるはてな匿名ダイアリーの中から見つけるというのは大変な作業だ。すべてが注目エントリに入るわけではない。いったいどうやっているのかちょっとうかがってみたい。ブルマーというキーワードで定期的に検索をかけているのだろうか? それともそういうスクリプトが組めるのだろうか?
例えば女性のショーツ(そして見せパン)の形の変遷、チアの見せパンの歴史。また、古代エジプトでクレオパトラはカエサルと会ったときにどういう服装をしていたのか(絵画のようにトップレスになることがあったのか)、それからトップレスが許容されていていた地域の時代的変遷だ。これは身分にもよるだろうし、少し複雑になるだろう。あるいは、どうしてギリシア・ローマの流れを引き継いだ西洋絵画では、長らく女性器と陰毛があまり表現されていなかったのか。多くの古代文明では時に具象的に、時に抽象的に表現されているのに。謎は多い。
『樅ノ木は残った』(もみノきはのこった)は、山本周五郎の歴史小説。江戸時代前期に仙台藩伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」を題材にしている。
従来は悪人とされてきた原田甲斐(原田宗輔)を主人公とし、江戸幕府による取り潰しから藩を守るために尽力した忠臣として描くなど、新しい解釈を加えている。4部からなり、本編の合間に藩の乗っ取りを企む伊達兵部(伊達宗勝)とその腹心・新妻隼人の密談を対話形式で描く断章が幾たびも挿入されている。
1954年7月20日から1955年4月21日まで、中断の後に1956年3月10日から1956年9月30日まで『日本経済新聞』に連載され、書き下ろしを加え、1958年に講談社(全2巻)で刊行された。1959年に毎日出版文化賞を受賞した。現在は新潮文庫版が刊行されている(改版全3巻)。新潮文庫版の累計部数は100万部を超える[1]。
ルーツはアメリカ式であり、明治時代に文献が残ってる。1958年にガイドライン化された。
日本では1980年に厚生省がガイドラインをつくって、母子手帳に記載されるようになった。
現在の、食材選びや硬さを変えていく目安としてのモグモグ期カミカミ期とかは2017年に設定された。
逆を言えばこのアメリカ式になるまえは、必死に10倍粥を作っていたわけではなく、大人の食事を取り分けたりしていたという。
まだ全然定着してないけどこれからはWHOが提唱している補完食に変わっていく(と信じている)。
「何ヶ月までこの食材は駄目!」とか細かいリストに苦しんでるのはおそらく日本くらいなのでは。
興味のある人向けの書籍をいくつか紹介する。
これを読めば「半年過ぎたら母乳に栄養はなくなるから断乳しなさい」と言ってくる保育士はアップデートされてないことがよくわかる。
「BLWを始めよう」
「手づかみ離乳食」
調べる途中だったがほったらかしにしたものをまとめておく。
https://en.wikipedia.org/wiki/School_uniform#/media/File:Karenko_girls_high.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=PO-Z-kBOWEU&ab_channel=trinitrojo
https://www.youtube.com/watch?v=2sQknAnyzK8&ab_channel=historycomestolife
この記事では御年百歳のオリンピックメダリスト、コーチが扱われている。
http://russian.china.org.cn/exclusive/txt/2013-04/12/content_28524100_13.htm
「北朝鮮は非政府スポーツを重視する国です。政府はすべてのユニット、すべての家族、すべての人にスポーツ活動への積極的な参加を義務付けています。工場、企業、学校の4,000を超えるスポーツチームがあらゆるレベルに存在します。運動とグループランニングも制度化されています。北朝鮮の民俗スポーツ活動は、豊かでカラフルで、長い歴史と伝統がありますが、その中で最も影響力のあるものは、長距離走、テコンドー、重量挙げ、スケートです。」
https://www.epinay-sur-seine.fr/wp-content/uploads/2019/01/l_histoire_du_sport_a_epinay.pdf
これどうすんの?
https://webronza.asahi.com/science/articles/2021052700002.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E8%97%A4%E9%9D%96
須藤 靖 (すとう やすし、1958年 - )は、日本の物理学者。専門は理論宇宙物理学。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻教授。理学博士。
>2021年5月29日、菅総理大臣が新型コロナウイルスのワクチン接種について「1日100万人の接種を行う」と述べたことに対して、朝日新聞のWebメディア論座にてフェルミ推定を用いて「実現しない」と断じた[3]。実際には10日で実現した。
https://anond.hatelabo.jp/20210708183653が字数制限に達したので書ききれなかった分はここに付け足します
ISILに関する記述もありますが、テロを賛美する意図は一切ありません。あくまで事実として記載しただけです。無論、ISILが惨敗した戦闘もあります。決してISILを格好いいと思わないでください。
・ペルシス門の戦い
B.C330 アレクサンドロス大王の東方遠征 ペルシア軍700vs★マケドニア軍1万7000
マケドニア軍の大軍に対し、ペルシス門を少数の守備隊が1か月守り抜いた。マケドニア軍は現地の住民から得た情報を元に挟撃することでようやく勝利を収めた。
・マリツァの戦い
1371年 オスマン・セルビア戦争 ★オスマン軍800vsセルビア軍2万~7万
セルビア軍は大軍を率いて、オスマン帝国の首都エディルネへの奇襲を試みた。しかし、オスマン軍の夜襲に遭い敗退した。
・ペンコの戦い
1550年 アラウコ戦争 ★スペイン・ピウンチェ連合軍500vsマプーチェ族1万5000~2万
スペイン軍はペンコに砦を築いた。マプーチェ族は大軍で包囲するが、攻城兵器もなく砦を突破できなかったため、兵を引いたところをスペイン軍に追撃される。マプーチェ族は4000人が戦死し、捕らえられた200人は鼻と耳をそがれた。
・チャカンの戦い
ムガル軍がマラータ軍を包囲。1ヶ月の攻防戦の末にマラータ軍は包囲した。マラター軍の死傷は300人、ムガル軍の死傷者は3000~5000であった。
・スラトの戦い
1664年 ムガル帝国1000vs★マラータ王国8000~1万
スラト市をマラータ軍が襲撃、3日間の攻撃の末、同市は6日間略奪の対象となった。ムガル軍の死傷者は28人、マラータ軍の死傷者820人であった。
・サラタの戦い
1699~1700年 マラター王国300vs★ムガル帝国1万
サラタ市をムガル軍が包囲、数ヶ月にも及ぶ包囲戦の末に陥落させ、守備隊も玉砕したが、ムガル軍は3500人が死傷した。
・トルナの戦い
1704年 マラータ王国700~800vs★ムガル帝国1万5000
ムガル軍がマラータ軍を包囲、トルナ市を陥落させた。マラータ軍の死傷者は170~180、ムガルの死傷者は300であった。
・コーレーガオンの戦い
1818年 第三次マラータ戦争 ★東インド会社750vsマラータ王国2万8000
マラータ軍とイギリス軍が交戦、丸一日の激戦の末にマラータ軍が撤退した。イギリス軍の死傷者175人に対し、マラータ軍の死傷者は500~600人であった。
1838年 グレート・トレック ★フォールトレッカーズ664(200人が非戦闘員)vsズールー軍1万5000~3万
フォールトレッカーズ(英領ケープ植民地から南ア北部へのブーア人移民)がズールー族の大軍と交戦し撃退した。ズールー族3000人以上の戦死に対し、ブーア人はわずか3人が負傷したのみであった。
・ヴェコプの戦い
1836年 グレート・トレック ★フォールトレッカーズ35vsマタベレ軍5000
マタベレ軍がフォールトレッカーズを襲撃するも、撃退された。マタベレ184名の戦死に対し、ブーア人は2名が戦死した。マタベレは戦闘には5万500頭の家畜を強奪することに成功した。
・チンハットの戦い
1857年 インド大反乱 東インド会社700vs★反乱軍7000
イギリス軍が反乱軍と鉢合わせし、敗退するが、全滅は免れた。イギリス軍の死傷者は200人ほどで、反乱軍の死傷者は589名であった。
・トゥエンクアン包囲戦
1884~1885年 清仏戦争 ★フランス軍630vs清・阮朝1万2000
フランス軍が清軍に包囲されるが、4ヶ月持ちこたえた末に撃退した。フランス軍の死傷者274名に対し、清軍の死傷者は3000名以上であった。
・ドガリの戦い
1887年 エリトリア戦争 イタリア軍550vs★エチオピア軍1万5000
エチオピア軍の大軍がイタリア軍の大隊を襲撃。イタリア軍はほぼ全滅したが、エチオピア軍も1071名が戦死した。
・サポティラルの戦い
1927年 サンディーノ戦争(アメリカのニカラグア占領)・バナナ戦争 アメリカ軍・ニカラグア政府軍20vs★サンディニスタ400人以上
アメリカ軍・ニカラグア政府軍は撃墜された米軍パイロット2名の救出に20名派遣する。救出隊は途中でゲリラの待ち伏せに遭い、奮戦するも撤退し、作戦は失敗した。救出隊は4人が死亡したが、ゲリラは40~60名が死亡し、1人捕虜となった。
・フォルネブの戦い
1940年 ノルウェーの戦い 第二次世界大戦 ノルウェー軍7vs★ドイツ軍70~80
ノルウェー航空部隊がドイツ空軍と交戦。ノルウェー軍は戦闘機1機、ドイツ軍は4機撃墜されたが、ノルウェー軍の燃料が尽きたため、戦闘はドイツ軍の勝利に終わった。
1942年 北アフリカ戦線 第二次世界大戦 自由フランス軍3703vs★ドイツ・イタリア軍4万5000
ロンメル将軍指揮下の枢軸軍が自由フランス軍の籠城する砦を包囲、16日間の激戦を経て、砦を占領した。フランス軍の死傷者369名に対し、枢軸軍の死傷者は3300名に及んだ。この戦いはイギリス第8軍の撤退と再建のための時間を稼ぎ、エル・アライメンの戦いでの連合軍の勝利につながった。チャーチル、ド・ゴールは勿論のこと、ヒトラーですらフランス兵の勇気を称えた。
・ヴェロニク作戦
1955年 アルジェリア戦争 FLN359vsフランス軍5000+航空支援
フランス軍はFLNの活動を鎮圧するため爆撃を伴った大規模な掃討作戦を実施する。FLNはゲリラ戦で1か月以上抵抗した後に撤退した。ゲリラ側の死者は9名で、鎮圧の失敗はFLNの影響力を大いに高め、アルジェリア独立につながった。
・ヴェラノ作戦
1958年 キューバ革命 ★7月26日運動300vsキューバ軍1万2000
バティスタ政権は反乱軍鎮圧のために軍を差し向ける。しかし、カストロ、チェ・ゲバラ指揮下の反乱軍に返り討ちに遭った。この戦いで反乱軍の指揮は大いに上がり、バティスタ打倒に繋がった。
・サンタクララの戦い
1958~1959年 キューバ革命 ★7月26日運動340vsキューバ軍3900
反乱軍はヒジャ・クララ州の首都サンタクララを攻撃、4日で占領した。その直後バティスタはドミニカへ亡命し、キューバ革命が成功した。
・ドゥヴロブニク包囲戦
1991年から1992年 クロアチア紛争 ★クロアチア軍480~1000vsユーゴスラヴィア軍7000
ユーゴスラヴィア軍はクロアチア軍を7ヶ月に渡って包囲するが、陥落できず撤退した。この戦いで1万5000人以上の難民が出た。
・サパティスタの反乱
1994年 サパティスタ民族解放軍3000vsメキシコ軍3万~4万
メキシコ最貧州チアパスで先住民たちが北米自由貿易協定NAFTAによる貿易関税の撤廃に反対、一斉蜂起した。政府はゲリラを包囲し、徹底的な鎮圧を試みるが、反乱が世間の注目を浴びると、一転、停戦を呼び掛けた。両者の間で先住民の権利と文化を尊重するサンアドレアス協定が結ばれた。
・ファルージャ陥落
ファルージャ市をISILが襲撃。1週間足らずでイラク軍を撃退し、同市を占領した。
・モスル陥落
2014年 ★ISIL800~1500vsイラク軍1万2000
ISILがモスル市を襲撃。1週間足らずで陥落させた。イラク軍は6万人で防衛に当たったと主張しているが、実際にはその2割ほどの兵力しか無かったと推定される。
・バイジ奪還
2014~2015年 ISIL1500以上vs★多国籍軍1万5000+米英加の航空支援
イラク軍は1年弱にも及ぶ激戦の末にバイジ市をISILから奪還した。ISILは2000人以上が戦死したが、イラク軍も2500人以上が死傷した。
・ラマディ陥落
https://togetter.com/li/1744776#c9350058
女性が性産業で働く自由って、要は内臓を売るとか覚醒剤漬けになる自由を認めるようなものでしょ?そりゃ反対するよ。明らかに身体に害を与える事に対して、自分の意思でやってさえいれば何でも肯定するなんておかしい。
https://togetter.com/li/1744776#c9350081
そもそも「セックスワーカー」なんて言い方がおかしいんだよ。そんなものが「仕事」になっていい訳があるか。「肝臓バイヤー」とか「膵臓バイヤー」と同様におかしい。人権侵害を「仕事」として認めるべきではない。
最初はアニメーターの低賃金労働を心配するようなものと同じでセックスワーカーを心配してるのかなと思ったけど「仕事として認めるべきではない」って断言しちゃってるし、職業自体への差別発言と受け止めて良いでしょう。
・その他「ワーク」全体への無知
の2つに分けられる。
この場合のセックスワークは一般的に想像されるAV女(男)優・風俗嬢とする。
まず日本における彼ら彼女らは「覚醒剤漬け」になんてなってないし、
経済状況が非常に悪い途上国のセックスワーカーを指しているとしたらそれは
「そもそもセックスワーカー関係なくあらゆる人々・日常に覚醒剤がはびこってる」状態の国でしょう。
「内臓を売る」ってのは性器を使うという意味では上記の例ほど荒唐無稽じゃないけど、それは本当に「使ってるだけ」であって臓器の売買と違って永久に戻ってこないものではないし。
そんな言い方するならオフィスワーカーだって眼球を使って仕事してますけど、「眼球を売る」のとは根本から違うよね。
あるいは「犯罪に巻き込まれるリスク」つまり「暴力によって怪我や命を落とす」がすぐに想像できる。
後者で殺人まで至るようなケースであればほぼ100%報道されるので、皆さんも何年かに一回くらいペースでTVで見かけるでしょう。
そうそう実際に発生してるよね、痛ましいよね。
だけどね、それだけで「仕事として認めるべきではない」ってほどではないのよ。
それは何故か?
だって他の仕事でもガンガン怪我するし、病気になるし、死んでるから。「ワーク」ってそういうもんだから。
あなたが知ってるような著名な建築物なら必ず関わった1人2人は命を落としてる。
例えば東京タワーって奇跡の建築だったって言われてて、あれ建てたときに1人しか死ななかったんだよ。
「1人しか死ななくて良かった〜!!」って美談として語られてるんだよ?人が死んでるのにだよ!
https://wawawork.work/workerstrend/skills/635/
800度もの高温リベットを20メートル上にいる職人に放り投げることもザラにあり、このやりとりは「死のキャッチボール」として有名になりました。想像するだけで冷や汗が出そうですね。
〜
1件の死亡事故を出したものの、1958年当時の建設業における年間死亡者数は1846人であったことと照らし合わせると、東京タワーの工事の難易度や当時の安全設備の不備などを考慮しても、驚異的な数字といえるでしょう。
1958年と比べれば近年では相当マシになってるけど、それでも年間で1万3813人が死傷者だそうです(2019年)。
知ってました?
https://www.decn.co.jp/?p=112101
他にも建築に近いところで土木・林業とか、医療従事者は感染症の危険が高いとか、
パイロットは0.1%くらい死ぬとか、職業軍人なんて怪我せずに帰れる方が珍しいとか、
工場では指や腕が切断されたりひしゃげるなんてしょっちゅうで、
他にも動物の飼育員とか、騎手とか、警察官とか、消防士とか、漁師とか、トラックの運転手とか、とにかく危ない仕事なんてこの世の中にいっぱいいっぱいいっぱいいっぱーーーーーーーーーいあるの!!
そしてそういう危険な仕事に従事してるのは大半が男性ばかりなのも知っての通りですね。
nanaminoさんは女性だから、この社会で男性ばかりがこういうリスクを負った仕事を担ってることには一切興味ないですかね。
そんなのはどうでも良くて、結果としての平均賃金の差の方が気になりますか?ごめん、これは本当に話が逸れた。
ただね、こういうのって無知もそうだけど「想像力」だと思うのよ。
自分以外の他人への興味というか、「もしかして危ない仕事ってたくさんあるんじゃないか?」って想像することができればさ、
手元のデバイスでちょっとポチポチやればすぐに数字が出てくる良い時代じゃないですか。
でね、「俺は頭は良くないけど身体を動かすのは得意だし手先も器用だ」って思って建築現場で働いてる人だっているじゃないですか。
(もちろん腕っぷしに自信なくても他はそれ以上にもっとできなくて消極的に選んでる人もいるよ)
外野から「明らかに身体に害を与える事に対して、自分の意思でやってさえいれば何でも肯定するなんておかしい」って言われなきゃいけないですか?
風俗嬢だって、少なくとも時間単価では明らかに「高給取り」ですよね。
他に得意なことはなくても対人サービスが得意とか、生まれつき人に好かれやすいとか、そういう自覚を持ってリスクがあっても高給な仕事を選ぶことだってありますよね。
次にお前は
「ならそういう仕事ももっと安全性を高める努力をしたらいいんじゃないですか?男性も女性ももっと自分を大切にしよう!」
「国が悪い、政治が悪い、社会が悪い、とにかく私は知らんから誰か偉い人がなんとかしろ!」
うるせーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
それができりゃ最初からやってるわ!!!!!!!!!ボケ!!!!!!!!!!
ハァハァ……。
とにかく世界にもっと興味を持って、たくさんのことを知ってください。よろしくおねがいします。現場からは以上です。
「女性が性産業で働く自由って、要は内臓を売るとか覚醒剤漬けになる自由を認めるようなものでしょ?」は愚行権の例えであって性産業で働くことで内蔵を売る羽目になったり元締めに薬漬けにされることを指しているわけではなく、あくまで例えであるというツッコミを受けました。
すいません、これは純粋に気が付きませんでした。
だって内蔵を売るのは金を得るためだから共通点あるけど(それでも金なくてメルカリで身の回りのものを売るようなもので「職業」と比較するか?と思いますが)覚醒剤にハマるのはそもそも仕事でもなんでもねーじゃん。まさか性産業で働く人は自分の快楽のためにやってる人ばかりだと思ってんのかな。
オフィスワーカーだったとしても趣味で毎日出社して机に向かってる人はそんなにいないんじゃないですか?無給だったらやらんでしょ。
「ちょっと面倒だったり嫌なことでも相応の対価がもらえるから続けてる」って仕事はこの世の中にたくさんあると思いますよ。その自由を否定してくるのは無理筋。
つーか自由意志に基づくヤク中と同列に並べるって、差別意識が強烈すぎんか。分かりたくもないわそんなの。
(性嫌悪に基づく)「職業として認めるな!」って声とか「薄汚い仕事」って偏見があるから社会・政治のコンセンサスとしていつまでも認められない実情があるわけで、
他の3K仕事と同じくちょっとリスクがあろうが(他のサービスに比べて大金が払われるくらいには)需要があるのに何故か苦しい状況に置かれてる。
合法化したほうが業界団体ができたり、まともな資本が入ってきたりして安全面含めたセックスワーカーの労働環境がどんどん良くなっていくと思う派です。
60年代に10年後の状況を知って驚く、という設定だからまちがってはいないな・・・w
つまらないツッコミしかできない人間という反面教師になってくれてありがとう・・・・ww
戦争で日本の電話環境は壊滅状態になった。戦後1940年代後半から1950年代前半にかけて、電話加入の要望は急速に高まったが、設備や要員が間に合わず、加入申込をしても2年以上待たされる状態で、積滞数の増加が慢性化していた。
1952年に、電話局側が電話を店舗などに設置させてもらい、管理を依託する「委託公衆電話」を始めた。翌年からは、目立つ赤色にかえられ、これが「赤電話」や「ピンク電話」のはじまりとなった。
呼び出し電話
発信では公衆電話を用いるが、受信では近所の電話を持っている家庭に電話をかけさせ、そこから呼びに来てもらうような仕組みがとられた。それで、呼び出してくれる家の電話番号の後ろに「呼」と書くことが行われた。それを「呼び出し電話」という。
呼び出しが広く行われていた頃は、電話は玄関に置かれるのが通常だった。1960年代になり、一般の家庭に置かれるようになると、家族全員がアクセスしやすい居間に置かれるようになった。1990年代になると、親子電話やコードレス電話になり個室に置かれるようになった。その後は携帯電話が普及し、電話は常に身に着けているようになった。
市内電話は、ほとんどがダイヤル式になっていたが、大都市以外では市外電話はほとんど交換手呼び出しによる方式であった。その接続には料金により普通、至急、特急の区別があったが、特急ですら申し込んでから1~2時間待ちが普通という状態であった。
1953年、電電公社は「全国自動即時化」と「積滞解消」を目指す第1次5か年計画を策定、クロスバ自動交換機の導入、加入サービスの向上を急いだ。
1958年 最初のクロスバ市内自動交換機:東京府中局、埼玉蕨局
1963年 電話加入数500万台を超える。 1967年 全県庁所在地都市相互間の自動即時通話達成
クロスバ交換機とは、縦と横の複数のバーがクロスした構成になっており、ダイヤルされた電話番号のから各バーについている電磁石の磁力により縦と横のバーが接触し、相手に電話をつなぐという仕組みであ る。自動交換機を経由する回線の自動接続が可能になり、市外通話の自動化に適した方式である。
算数のテストで2.8+4.2の筆算の答として7.0を書くと不正解になることがあるらしい.7でないと×だとか.
当然「なぜ?」という疑問が生じるわけだが,SNSでついた色んなリプライを読んでいると色々な考えがあって面白かったので,まとめておく.
2.8+4.2の筆算の答として7.0と書いた場合の対応である.
この議論によれば,「2.8」は2.75以上2.85未満の数で,「4.2」は4.15以上4.25未満の数だから,「2.8」+「4.2」は6.9以上7.1未満の数を指す.
つまり有効数字を考慮した「7.0」より少しだけ広い範囲になるっぽい.たとえば「2.8」の真の値が2.84で「4.2」の真の値が4.24だとすると,その和は2.84+4.24=7.08で,「7.0」の指す範囲から外れてしまう.
「でも理科ではそうなっているから!」と言われると「これは算数(数学)だから」としか反論できない.
長岡亮介さんの『東大の入試問題を楽しむ』によれば,1958年の東大入試の一般数学でこの辺りを考慮しないと正答が出ない問題が出題されているらしい.これも面白い問題だ.
見かけの美しさを追求するとこの考えに行きつく.確かに問題に小数点があれば答に小数点をつけたくなる気持ちも分かる.プログラミングで,変数の型を変更しているように見えるのかもしれない.
4.2+3は4.2+3.0であるべきであり,問題が美しくないから答えないという選択もできるわけだ.これはとても面白い考え方だけど,間違いなく×にされると思う.
ある人が作った数学のルールに発展性があれば万人がそれを認める.例えば,交換法則ab=baや結合法則a(b+c)=ab+acをルールとするのは納得できる.
1+1=2はよくあるルール(本当は定理らしい)だが,1+1=0をルールの一つとしてもそれはそれで面白い世界が広がる.
しかし「小数点以下の末尾の0を消す」というのは発展性のなさそうなルールだから,数学が好きな人は嫌いそうだ.
全く同じものだから○という議論は単純だが面白い.たとえば2.8+4.2の答を2.8+4.2と書いたら,全く同じものだからと言って○にしてくれるだろうか?
6.999…も7と同じだが,○になるだろうか?
答はできるだけ簡単にするものだというなら,7.0も簡単にして7にすべきのような気もする.その境界はどこに設定するのがよいだろうか.
1/10の位までの小数の計算は小学3年生で,それより下の位までの計算は4年生で学ぶ.
文部科学省の指導要領に0を消すことについての文言は見当たらなかった(探し方が悪いだけか?)が,教科書会社の学習指導案には「0を消す」と書いてあった.「0.1が10個で1.0とは言わないから」らしい.
そうかもしれないけど,積は他にも意味づけることができるので,それだけを根拠にするのは弱い気がする.あと,「俺は1.0って言う」って人がいたらどうなんだろう.
それよりも問題なのは,これが罷り通ると生徒が先生と議論する機会が失われてしまうことだ.言われたことに粛々と従うだけの人格が形成されるのは,良くないことだと思う.
これは○にせざるを得ない!俺は権威に媚び諂う卑しい人間なんだ.定額給付金くれよ.げへへ.
…というのは冗談で,これも議論の機会が失われるので良くないことだと思う.
その世界的数学者が間違っていると主張しているわけではないのでお間違えなきよう.
受験は良くも悪くも世間に大きな影響を与えているのだと分かる.小学生みなが受験をするわけではないと思うので,小学校の先生がこのように考えることはないと思うが.
しかしこれも権威に諂う考え方だなあと思う.疑問から逃げているようにも思える.
なるほどこの考えは盲点だった.計算技術の話をしているので,言われた通りにしないと×にする.同じかどうかとは無関係だ.
微積分の計算や開平計算など,技術の習得が理解に先立つこともある.まずは計算に習熟してからあとでその計算の意味を理解するという考えがあってもおかしくない.
末尾の0を消すのは意味を考えているということだろうから,技術の習得が優先とする考え方だと消さない方が良いような気がしてくる.
他にもあるかもしれないけど,こんなところだろうか.
私は,ちゃんと計算の仕方が分かっていることが読み取れれば○にすべきだと思っていた.だから7.0でも7でも6.999…でも○にすべきだし,2.8+4.2は×にすべきだと思う.3+4とだけ書いてあったら,迷った末に,揶揄っているだけで計算の仕方は分かっていると思って,○にするだろうな.筆算の技術の習得の観点から見たら×になるのかな.小学校の先生は大変だ.
増田の蛮勇には敬意を表したいが、さすがに突っ込みどころが多すぎる。
同種の百選としては2005年の新建築・臨時増刊『日本の建築空間』(asin:B00GUJ1HIE)がある。
https://japan-architect.co.jp/shop/special-issues/book-110511/
2005年なので現存しないものや非公開の私邸が含まれるけれども、優れた選出だと思うので紹介したい。
■古代 592-1180
法隆寺西院伽藍 | 飛鳥時代 | 奈良 |
新薬師寺本堂 | 奈良時代末期 | 奈良 |
榮山寺八角堂 | 763年 | 奈良 |
平等院鳳凰堂 | 1053年 | 京都 |
浄瑠璃寺本堂 | 1107年 | 京都 |
三仏寺投入堂(三仏寺奥院) | 平安時代後期 | 鳥取 |
高蔵寺阿弥陀堂 | 1177年 | 宮城 |
■中世 1180-1543
浄土寺浄土堂 | 1194年 | 兵庫 |
東大寺南大門 | 1199年 | 奈良 |
長寿寺本堂 | 鎌倉時代初期 | 滋賀 |
西明寺本堂 | 鎌倉時代初期 | 滋賀 |
熊野神社長床 | 鎌倉時代初期 | 福島 |
法界寺阿弥陀堂 | 鎌倉時代初期 | 京都 |
厳島神社社殿 | 1241年 | 広島 |
永保寺開山堂 | 1352年 | 岐阜 |
東福寺龍吟庵方丈 | 1387年 | 京都 |
正福寺地蔵堂 | 1407年 | 東京 |
吉備津神社本殿・拝殿 | 1425年 | 岡山 |
慈照寺東求堂 | 1485年 | 京都 |
■近世 1543-1853
妙喜庵待庵 | 1581年 | 京都 |
園城寺勧学院客殿 | 1600年 | 滋賀 |
園城寺光浄院客殿 | 1601年 | 滋賀 |
妙法院庫裏 | 1604年 | 京都 |
大崎八幡宮本殿・石の間・拝殿 | 1607年 | 宮城 |
三渓園聴秋閣 | 1623年 | 神奈川 |
二条城二の丸御殿 | 1626年 | 京都 |
西本願寺飛雲閣 | 1628年 | 京都 |
西本願寺書院 | 1633年 | 京都 |
延暦寺根本中堂 | 1640年(再建) | 滋賀 |
三渓園臨春閣 | 1649年 | 神奈川 |
曼殊院書院 | 1656年 | 京都 |
桂離宮 | 1663年 | 京都 |
慈光院書院 | 1672年 | 奈良 |
江川家住宅 | 江戸時代前期 | 静岡 |
閑谷学校講堂 | 1701年 | 岡山 |
東大寺大仏殿(東大寺金堂) | 1705年(再建) | 奈良 |
大峰山寺本堂 | 1706年 | 奈良 |
大国家住宅 | 1760年 | 岡山 |
岡山後楽園流店 | 江戸時代後期 | 岡山 |
栗林公園掬月亭 | 江戸時代後期 | 香川 |
角屋 | 1787年 | 京都 |
さざえ堂(旧正宗寺円通三匝堂) | 1796年 | 福島 |
大徳寺孤篷庵忘筌 | 1799年 | 京都 |
渡邉家住宅 | 1817年 | 新潟 |
羽黒山三神合祭殿 | 1818年 | 山形 |
旧高野家住宅 | 江戸時代後期 | 山梨 |
旧金比羅大芝居(金丸座) | 1835年 | 香川 |
岩根沢三山神社本殿・庫裏 | 1841年 | 山形 |
柏倉家住宅座敷蔵 | 1866年 | 山形 | |
旧大明寺聖パウロ教会堂 | 1879年 | 愛知 | ブレル、大渡伊勢吉(棟梁) |
宝山寺獅子閣 | 1882年 | 奈良 | 吉村松太郎(棟梁) |
旧風間家住宅 | 1896年 | 山形 | |
旧武徳殿 | 1899年 | 京都 | 松室重光 |
旧花田家番屋 | 1905年 | 北海道 | |
吉島家住宅 | 1907年 | 岐阜 | 西田伊三郎ほか(棟梁) |
古谿荘 | 1909年 | 静岡 | |
高松城披雲閣 | 1917年 | 香川 | 清水組 |
住友ビルディング | 1926年 | 大阪 | 住友合資会社工作部(長谷部鋭吉・竹腰健造) |
聴竹居 | 1927年 | 京都 | 藤井厚二 |
旧大倉精神文化研究所本館 | 1932年 | 神奈川 | 長野宇平治 |
軽井沢 夏の家 | 1933年 | 長野 | アントニン・レーモンド |
※両関第二工場酒蔵 | 1933年 | 秋田 | |
旧日向別邸 | 1936年 | 静岡 | ブルーノ・タウト |
近江神宮 | 1940年 | 滋賀 | 角南隆、谷重雄 |
旧前川國男邸 | 1941年 | 東京 | 前川國男 |
旧吉田五十八邸 | 1944年 | 神奈川 | 吉田五十八 |
神奈川県立近代美術館 | 1951年 | 神奈川 | 坂倉準三 |
斎藤助教授の家 | 1952年 | 東京 | 清家清 |
コアのあるH氏のすまい | 1953年 | 東京 | 増沢洵 |
南台の家(吉村順三邸) | 1957年 | 東京 | 吉村順三 |
八幡浜市立日土小学校 | 1956年 | 愛媛 | 松村正恒 |
香川県庁舎 | 1958年 | 香川 | 丹下健三 |
スカイハウス(菊竹清訓邸) | 1958年 | 東京 | 菊竹清訓 |
※ホテルオークラのメインロビー | 1962年 | 東京 | 谷口吉郎 |
日本生命日比谷ビル(日生劇場) | 1963年 | 東京 | 村野藤吾 |
国立屋内総合競技場 | 1964年 | 東京 | 丹下健三 |
大学セミナー・ハウス | 1965年 | 東京 | 吉阪隆正 |
旧千代田生命本社ビル | 1966年 | 東京 | 村野藤吾 |
白の家 | 1966年 | 東京 | 篠原一男 |
塔の家(東孝光邸) | 1966年 | 東京 | 東孝光 |
※虚白庵(白井晟一邸) | 1970年 | 東京 | 白井晟一 |
KIH7004 | 1970年 | 東京 | 鈴木恂 |
中銀カプセルタワービル | 1972年 | 東京 | 黒川紀章 |
※大分県医師会新館 | 1972年 | 大分 | 磯崎新 |
※プロジェクトマグネット | 1973年 | 店舗模型 | 倉俣史朗 |
阿部勤邸 | 1974年 | 埼玉 | 阿部勤 |
北九州市立中央図書館 | 1974年 | 福岡 | 磯崎新 |
幻庵 | 1975年 | 愛知 | 石山修武 |
上原通りの住宅 | 1976年 | 東京 | 篠原一男 |
※中野本町の家 | 1976年 | 東京 | 伊東豊雄 |
小篠邸 | 1981年 | 兵庫 | 安藤忠雄 |
弘前市斎場 | 1984年 | 青森 | 前川國男 |
SPIRAL | 1985年 | 東京 | 槇文彦 |
※バーオブローモフ | 1989年 | 福岡 | 倉俣史朗 |
海の博物館 | 1992年 | 三重 | 内藤廣 |
豊田市美術館 | 1995年 | 愛知 | 谷口吉生 |
ウィークエンドハウス | 1998年 | 群馬 | 西沢立衛 |
せんだいメディアテーク | 2000年 | 宮城 | 伊東豊雄 |
横浜港大さん橋国際旅客ターミナル | 2002年 | 神奈川 | アレハンドロ・ザエラ・ポロ、ファーッシド・ムサヴィ |
金沢21世紀美術館 | 2004年 | 石川 | 妹島和世、西沢立衛 |
高校1年生の1953年に、冷蔵庫、洗濯機、トースターなどがようやく登場する。
32歳の1969年に、第32回衆議院議員総選挙に立候補する。
選挙直前の一族会議中に、近隣の家から出火した。この時、森は決死の覚悟で家にとびこみ、仏壇を抱えて出て来たという。当時の北陸地方は仏教への信仰が篤い土地柄であったこともあり、この行動は風向きを変えることになった。
51歳の1988年に、日本が初めてIPインターネット接続をする。同年、リクルート事件発生。森は約1億円の売却益を得ていたとされ、一時謹慎する。
63歳の2000年に、当時の小渕首相が脳梗塞で倒れる。その3日後に第一次森内閣発足。日本国の長となる。
前任者の急病による就任であり、総裁になるための正式な準備無しでの登板だったため、内心「正直いってえらいことになったな」と思ったという
64歳の2001年に、えひめ丸事故発生。森はプライベートでゴルフ場におり、第一報が入ったとき関係者からその場を離れないよう指示されていたらしいが、第三報が入るまでプレーを続けた。ゴルフを続ける映像が繰り返しテレビ放送されかなりの悪印象となる。
同2001年、森は総理大臣を辞任する。約1年の任期期間だったが支持率は低く、前述のえひめ丸事故の印象やたびたびの「失言」が支持率低下の原因だったとされている。
73歳の2010年に、育ての母が亡くなる。
76歳の2013年に、アルゼンチンのブエノスアイレスで行われた第125次IOC総会に現地入りし、東京オリンピック (2020年)開催決定の瞬間に立ち会った。
77歳の2014年に、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長に就任する。
84歳の2021年に、失言により、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長を辞任する。
森が物心がついたのはいつ頃だろうか。仮に小学1年生の頃として、この頃は1944年である。母が亡くなった年である。
森が小学2年生のときに第二次世界大戦が終結している。どんな時代であっただろうか。戦後教育なので、今よりはるかに奔放な教育がなされていただろう。有り体に言えば体罰や、現代の倫理観では時代錯誤とされることが、当然の教育としてなされていただろう。
そのような教育を通して、森は育ったのだ。
日本にインターネットが誕生し、私達がWindows98でテレホタイムをしていたころには、既に森は61歳で定年を過ぎている。
森は内閣時代もとにかく失言が多いイメージであった。生来の性格とみるか?育った時代、教育、環境も影響しているはずだろう。
私達の感覚では、「時代に合わせて感覚をアップデートできないものは置いていかれる」「アップデートできないものが悪い」というのが通常だが、森にこれが可能だったとは到底思えない。
特別に森がというより、一般論としての森の世代がである。Twitterが誕生したころには70手前の世代である。
自分の母親や父親、職場の上司に「感覚をアップデートしろ」というレベルではない。それよりもっと上の世代の人間である。学生時代に戦後を経験した世代にである。
PCが使えなくて当たり前だろう。スマホが使えたら上々だろう。その世代の人間は、感覚をアップデートするのが嫌なのでなく、どう感覚をアップデートすればいいのかわからないのではないのか。
この世代の人達は恐れているのではないか。自分の古くさった感覚をアップデートできてないことは自覚しつつ、言葉ひとつで多くのバッシングが飛んでくるこの時代を恐れているのではないか。
哀れと思うこそすれ、責められないと思うのだ。私達も、いずれきっと行く道である。
90年代のゲーム雑誌を「懐かしいな~」とめくっていてね、花形クリエイターのインタビューとか読んでてね、「あれ、こいつら、この時代めっちゃ若くないか?」ってことでゲームクリエイターの年齢を調べてた。
はあああああ~~~若い。業界自体がほとんど80年代に興ったような若い業界だから作り手も若いのは当たり前なんだけど、それにしたって若い。
神童みたいな存在だった中村光一や中裕司が若いうちから代表作を残しているのは当たり前としても、あんな清濁併せ呑むような作風の『タクティクスオウガ』作ったときの松野泰己が20代なんだよ。「ガキが...舐めてると潰すぞ」ってならんか?ならんか?
あと何気にショッキングだったのは、堀井雄二と広井王子ね。元々ゲーム業界外の出身であるこのへんは年齢も高く、ゲーム雑誌を熱心に読んでいた90年代中盤の自分にとっては「おじさん」っていうか殆ど「初老」って感じだったんだけど、年齢みたら40歳前半くらいなんだよな。全然若いなオイ、ソシャゲのディレクターとかのが全然年齢上だぞ、ってなる。
だから年齢の問題はともかく、橋野さんや外山さんに比べて一回り遅れている気持ちが、どうしても僕の中にはあります。若い頃に芽が出なくて、やっと32歳のときに『ドラッグオンドラグーン』でディレクターでしたから。
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ニーア、ペルソナ等の人気ゲーム開発者が激論! 国内ゲーム産業を支える40代クリエイターの苦悩とは【SIE外山圭一郎×アトラス橋野桂×スクエニ藤澤仁×ヨコオタロウ】
ヨコオタロウの「やっと32歳でディレクター」というのは、現在の感覚からすると随分順調なように思えるが、2003年(『ドラッグオンドラグーン』のリリース年)であっても、なおそれくらいの若々しさが残っていた業界だったということだ。この座談会のなかで、外山はコナミで3年目、橋野はアトラスで5年目で初ディレクターを任されたと語っている。
一般に「リーゼント」とは、ポマードなどを使って前髪を盛り上げ、側面の髪を後ろに流して固めた髪型のことを指す。
英語圏では、前髪を盛り上げる髪型をポンパドール、側面の髪を後ろに流す髪型をダックテイルと言う。
特に近年では「3」が正当で「1」や「2」は誤用だとされることが多い。
事実は奈辺にあるのだろうか。
以下のブログで引用されている1964年の新聞記事には、理容師の増田英吉によるリーゼントの誕生秘話が書かれている。
http://mudamuda.hatenablog.com/entry/regent
むかし、リーゼント・スタイルというのがあった。戦後も一世を風びした、流線型のあれ。これを二十代で考案したのが増田さん。
(中略)
ヨーロッパ人にくらべ、日本人は髪がかたいこと。もう一つは「ひたいから頭のうしろまでの距離が短いこと。まあ顔面角のせいなんでしょうかねえ」。あとの方のハンデを克服しようと考案したのが、リーゼント・スタイル。前面をいったんふくらまして、うしろになでれば、髪が落ち着く距離が長くなる――これがそのヒントだった。
リーゼントについて詳しく調査された以下の英語記事でもほぼ同じ説が採用されている。
https://neojaponisme.com/2014/10/09/history-of-the-regent/
1920年代後半、東京のモダンな街・銀座には、スタイリッシュな若者たちが集まっていた。モボ(モダンボーイ)はワイドパンツにかっちりとしたスーツを着こなし、モガ(モダンガール)は洋装と和装をミックスしたスタイルだった。彼らの髪型として、モボはポマードで髪を後ろに流しており、その見た目から「オールバック」と呼ばれていた。
1933年、東京のモダンな理髪店は、現代の紳士のための次のスタイルを求めていた。銀座のとある気鋭の美容師が、サイドを後頭部に流し、高島田の花嫁のように前髪を押し上げるスタイルを考案した。エキサイティングな外国語の名前を探していた理髪師は、それを「リーゼント」と名付けた。
これらの説明によれば、この時点ですでに「リーゼント」は単なる「ダックテイル」ではなく、「膨らませた前髪」と一体になった髪型を指している。
ただし、ここでの「膨らませた前髪」はポンパドールと言えるほど大きなものではなかっただろう。
ちなみに「オールバック」も和製英語で、英語ではスリックバックなどと言う。
一方、Google Booksで検索すると「ポール・グラウス」という人物が浮かび上がってくる。
1934 (昭和7 )年ごろ、日本にリーゼントが紹介された。正しくはその前年1933年6月のこと。当時発行されていた専門誌『美髪』の口絵写真に掲載された。これをもってリーゼントの流行は'33年に遡る、とするむきもあるが、それは正しくない。リーゼント型、という名前とその写真がのっただけで、はやったわけではない。いや、はやらそうにも誰もその仕上げ方を知らなかったのだ。再びリーゼントが紹介されるのは1936年3月。同じく『美髪』誌上で、イギリスの理髪師ポール・グラウスなる人物が技術解説を試みた。
グラウスは1932年ごろにイギリスの理容雑誌で「リーゼント・スタイル」を発表しているらしい。
つまり、このグラウスが「リーゼント」の生みの親であるという。
命名者がイギリス人なら「撫で付けた横髪がリーゼント・ストリートのようにカーブしているから」という日本人離れした命名センスにつじつまが合う気もする。
このグラウスのリーゼントは「前髪を横分けにして、横髪は長く伸ばして後頭部へ撫で付ける」というものだったようだ。
「ダックテイル」に近いが、やはり「前髪」の形とワンセットで説明されている。
いずれの人物が考案したにせよ、二十世紀初頭に世界的に流行したオールバックのバリエーションとして、日本では1930年代に「リーゼント」が登場したということになる。
さらに言えば「ダックテイル」が発明されたのは1940年のアメリカだというので、むしろ誕生はリーゼントのほうが先である。
まあ、元となったオールバック自体がシンプルな髪型だから、当時似たようなアレンジは多かったのだろう。
当時の日本で、リーゼントで有名だった人物としては榎本健一や灰田勝彦、岡晴夫あたりが挙げられるが、いま見れば「前髪を横分けにしたオールバック」といった感じである。
ただ、前髪をぺったりと撫で付けたオールバックと比べると、この「リーゼント」の前髪はボリュームがあると言えるのかもしれない。
https://www.amazon.co.jp/dp/B001BBXG4Y
https://www.amazon.co.jp/dp/B01M5DHEU9
さて、リーゼントはポマードを大量に使うので戦時中の日本では禁止されて退潮したが、戦後すぐにアメリカ兵のファッションを真似るかたちで復活した。
https://danshi-senka.com/archives/191
リーゼントヘアで頭を固め、サングラスにアロハシャツ姿で第2次大戦後の街中を闊歩するアンチャンたち。無軌道な行動をとるこのような若者たちを、当時のマスコミはフランス語のアプレゲール(戦後という意味)からこのように呼んだ。(中略)彼らのファッションのお手本となったのは、日本に進駐してきたアメリカの兵隊たちのカジュアルな服装で、つまりは戦後まもなくのアメリカンスタイルの真似をしたに過ぎない。
リーゼントとアロハシャツは岡晴夫の影響だともいうが、要するにアメリカかぶれの不良少年といったところである。
どちらかと言えば紳士向けの髪型だった「リーゼント」が、この時期から不良文化と結びつけられるようになったのだと思われる。
ちなみに欧米でも「戦争でポマードが統制され短髪が奨励される」→「髪を伸ばしてポマードを大量に使う俺ってワルだろ?」という流れで、ポンパドールやダックテイルが不良の象徴となったという面はあるらしい。
イギリスではテディ・ボーイ、アメリカではエルヴィス・プレスリーやジェームズ・ディーンと言ったように、欧米で流行していた「ポンパドール+ダックテイル」というスタイルが日本に輸入されてきたのである。
特にエルヴィスの影響力は凄まじく、日本でも1958年にデビューした「ロカビリー三人男」などがエルヴィスを真似たスタイルで人気を得た。
このときに「ポマードで固めた前髪と後ろに撫で付けた横髪」という共通点で括られて、エルヴィス的な「ポンパドール+ダックテイル」のことを、日本では「リーゼント」と呼ぶようになったのだろう。
まとめてみよう。