はてなキーワード: 予告編とは
優れた映画は一行で内容を説明でき、その一行のことをログラインというらしい
そんなもんかねと、dマガジンで「映画」で検索して、出てきた雑誌を読んだ
5月末から6月の公開映画を紹介した「COMING MOVIE」というコーナーを見つけて、あらすじ部分を読んでみた
最初の2Pに6作品紹介されていたが、どのあらすじもあんまり面白そうではない
基本的に1行16文字×7行程度なので、そもそもそんなに長い文を書けるわけではない
また主役級の俳優については、役名の後にかっこで俳優名を入れる決まりがあるらしく、なかなかに文字数制限はきつそうだ
それでもなんだかどのあらすじもぼんやりしていて、興味をひかない
それというのも6作品中、4作品のあらすじが「が……。」で終わるのだ
「舞台設定の説明文。主人公の行動文。主人公の行動は上手く行きかけるのだが……。」という同じ構成のあらすじが並んでいる
きっとあらすじをひねり出した編集者のPCの単語帳には「が」を「が……。」で登録されていて、一発変換できるようにしているのだろうなと思いをはせた
そもそも映画を紹介する雑誌で、映画のうたい文句であるログラインを探そうとするのは間違っていたし、
映画雑誌のあらすじというものは俳句のように制限を楽しむ文学みたいなもんで文末を「が……」で〆るのも季語入れるみたいなもんなんやろと思って納得することにした
そんでページをめくったら、16作品のあらすじが書いてあって、内「というが」や「が…。」で終わっている文は2作だけだった
ページ中の作品数が多いのであらすじ部分はもっと短くなっているのに、制約きつい方がもっと色んな構成のあらすじかけているじゃねえかと思ってしまった
映画の予告編の「新しい一歩を踏み出せないでいるあなたに贈る素敵な物語」みたいな定型文って、個人的には興ざめするのだけれど、色んなところに定型文はありふれているし、
https://anond.hatelabo.jp/20230529143342
マーベル作品もそうだけど、そもそもディズニーってアメリカ国内だけの興行だけでは回収しきれない規模の映画作ってんすわ。
実写版『リトル・マーメイド』のバジェットは2億5000万ドルで、ワールドワイドの損益分岐目安はざっくり3倍計算で7億5000万ドル。
初週時点で勢いを越えたとされる実写版『アラジン』の最終的な米国内興収が3億5000万ドル(予算1億8000万ドル)だから、仮にアラジンと同程度の額を叩き出すとするなら、残りの4億ドルを他の国で調達しないといけない。
実は中国は実写版ディズニー作品に関しては、そこまで興行収入を期待できる国ではない。『アラジン』は5000万ドル止まりだったし(それでも『リトル・マーメイド』よりは上等だが)、8000万ドル行った実写版『美女と野獣』でもその年の中国の興収ランクでは200位程度にすぎない。
で、そこにきて、『アラジン』と『美女と野獣』の両実写版興収が1億ドルの大台を越えた国がある。
日本だ。
ディズニーのエグゼクティブや営業がどう考えているかは知らんが、個人的には日本ではコケると思う。
『美女と野獣』がヒットしたのは、エマ・ワトソンを起用して日本人好みの昔ながらの「プリンセス・ストーリー」を少なくとも絵面の上ではきちんとやった(実はモロに人種やセクシャリティの多様性を前面に出しているにもかかわらず)ところが大きい。まあそもそもベルって王女さまでもなんでもない陰キャのガリ勉女なんだけど、そのへんはね。
ポリコレがどうこういう前に、エマ・ワトソンがすげーきれいなドレスをきて、みんな大好きな『美女と野獣』やってるじゃん、でみんな来るわけ。
ハリウッドスターの力が失われたと叫ばされて久しい日本の映画市場だけど、それはまあ新規IPをスター主演で送り出す場合の話で、すくなくともすでに固まったIPの場合はスターのほうがみんな「安心」して観られるという点でまだ強い。
そういう点でもそうだけどさ、新しい解釈とか新しいストーリーとか、少なくとも日本の観客は求めてなかったの。
個人的には野獣が野獣のまま生きていくエンドとか観たかったけどね。
そこに来て実写版『リトル・マーメイド』は日本人に訴える要素が少ない。
主演のアリエル役はド新人。肌の色も黒いしドレッドヘアだしで”みんな大好き”だった原作と文字通りイメージが違う。
まあ差別意識といえば差別意識なのかもしれないが、市場のことだけを考えるならばこれは日本の市場への訴求しない。
日本ディズニーの宣伝がなんとなくやる気ないように見えるのも、現場の人たちにはそれがうすうすわかっているからなんだろう。
特にポスターのビジュアルイメージが「原作通り」じゃないのは致命的だろう。映画ってだいたい内容わかっていない状態、なんなら大半の観客は予告編すら見ない状態で観に行くもんだから、ポスターは大事だ。
そこで「これじゃないな」となったら、もうおしまい。
『アラジン』と違って脇に強烈なスターを配置できる作品でもないしなあ。
これらの悪条件を跳ね返して100億円稼いだら、日本の観客を見る目が少し変わるかもしんない。
映画の内容では批評的に評価されているものでもないんで、映画自体への評価は観てから決めますが。
韓国の公開初週の上映館は2館だけ。先行上映的なやつかん?
中国版独自ポスターは青で統一された色調のものが採用されているんだけれど、アリエルの肌まで青々しくしちゃったもんだから、「差別ではないか」ってふきあがっている人がいるわけ。
ちなみにアメリカとかでは「青」は「白」に近い色だからホワイトウォッシュ的な文脈が流れ的にはある。
ネタなのか本気なのか、「中国人は差別的だから青版ポスターしか国内では貼れないんだ!」と叫んでいる人もいるんだけど、中国国内の宣伝ではふつうにアメリカや日本でも使われているポスターがでかでかと使われてたりする。
そんなこんな、いつもの元気なついったらランドって感じなので、アメリカとかのTwitterやメディアだけ眺めて判断するのは危険です。
映画は終わったはずなのに、心の中にまだ音楽が鳴り響いていた。帰り道の高揚感はまるでライブ会場から帰るときのようで、音楽に包まれた世界で息をするような感覚からずっと抜け出せない。映画『BLUE GIANT』は、感情を奏でる演奏で観客の心を掴む、最高の音楽ライブだった。
公式サイト: https://bluegiant-movie.jp/
予告編(YouTube): https://www.youtube.com/watch?v=h1I116oS_Lk
今年の二月から上映している本作は、同名の漫画を原作としたアニメーション映画だ。音楽と人間の物語を楽しみながら、ジャズ界の独自の価値観や挑戦についても理解を深めることのできるものになっている。
主人公の宮本大は「世界一のジャズプレイヤーになる」という大きな目標を抱え、故郷の仙台を飛び出し、単身上京する。東京で出会った凄腕のピアニスト・沢辺雪祈や、高校の同級生で素人のドラマー・玉田俊二とジャズバンド「JASS(ジャス)」を結成し、それぞれが音楽に向き合いながら、壁にぶつかりつつ、夢の実現に向けてひたむきに取り組む一年半が描かれる。
原作の「東京編」を中心にエピソードを厳選し、上映時間の四分の一をライブシーンに充てるという大胆な構成が採用されていたが、まずこれが見事な成果をもたらしていた。上原ひろみ(ピアノ)、石若駿(ドラム)、馬場智章(サックス)の演奏はとにかく圧倒的で、音楽とアニメーションのコラボレーションの最高峰と言える。また、その魅力を余すことなく味わうことができたのは映画館という環境の存在が大きく、Netflixの支配力が高まる現代において、専用施設の役割や可能性を示すことにもなっていた。
今回は、そんな傑作の魅力を紹介すると共に、宮本大の「ジャズを信じる」信念の問題点や、JASSの「So Blueに立つ」という目標が物語の性質に与えた影響について考えていきたい。
映画『BLUE GIANT』のテーマは「演奏者と音楽の関係性」だ。宮本大、沢辺雪祈、玉田俊二は、それぞれ「演奏すること」について異なる意味を見出している。その違いゆえに彼らの人生は巧妙に交わり、そして必然的に別れを迎える。
演奏者である彼らが「音楽に向き合う」ということは「自分自身と向き合う」ことを意味しており、この作品において演奏技術を高めることは、自分自身と真摯に向き合うことと同一に描かれる。自分自身と対話を重ねて演奏力を磨き、ライブを繰り返しながら音楽との関係性を深めていく若者たちの姿が、本作の大きな見どころだ。
ライブシーンはどれも素晴らしかったが、中でも僕が心を奪われたのは「汗」に関する表現だった。演奏者たちの身体から吹き出る大量の汗や、そこからこぼれた大粒の一滴が、アニメーションならではの表現で美しく描かれる。それは、音楽が空気を振動させて生じる運動の結果であることや演奏者の存在を再確認させるばかりでなく、自己探求の試みを象徴しているようにも思えた。落ちてきて弾け飛ぶ汗を見たとき、その背景にある身体的な研鑽や精神的な苦悩に思いを馳せてしまうのは、物語と音楽と映像が見事に組み合わさって感情を揺さぶるからだろう。
ライブシーンでもう一つ印象深かったのは「凄まじい演奏に目が釘付けになる」という描写だ。特に終盤の人々の目が幾重にも重なって演奏に引き込まれていく表現が印象的だったが、これらは音楽の演奏が聴覚だけでなく視覚も惹きつけるものであることを効果的に示している。実際に音楽ライブに行くと、音楽は「耳で聴くもの」というよりも「目で見るもの」「肌で感じるもの」であることを実感するが、この映画ではアニメーションの技術やアイデアによって同じ体験をもたらしていると言える。
また、脚本として素晴らしかったのは、この映画が「沢辺雪祈の物語」として完璧に仕上がっていたことだ。漫画版では交通事故によって最後のライブに参加できなかった雪祈だったが、映画版ではアンコールで大や玉田と共にSo Blueの舞台に立つというシナリオ改変が施されている(最高だ!)。怪我を負った雪祈は片手で演奏することを余儀なくされるが、その姿が大が初めて雪祈のプレイを見たときに片手で演奏をしていたシーンと重なり、呼応することになる。手を抜いて片手で演奏していたプレイと、片手でしか演奏できない状況で全力を尽くすプレイの対比があることによって、映画版はより一層雪祈の精神的成長が強調されるものになっていた。
本作はジャズライブの世界を美しく表現しているだけでなく、コミュニケーションや人間関係のあり方についても、ジャズ・プレイヤーたちの世界や文化を伝えるものになっている。素晴らしい取り組みである一方、その描き方にはついては大きな問題がある。それは、彼らの世界をただ単に肯定的に、あるいは美学さえ伴って、無批判に描いてしまっているという点だ。
ジャズバンドには「独立した個人たちが自分自身の活躍や成長を目指して組まれる」という文化的な特徴がある。作中のセリフにあるように「ジャズはロックバンドみたいに永遠に組むもんじゃない。互いに踏み台にして名を揚げていく」ということだ。そのため、良くも悪くもバラバラな状態が肯定され、自助を基調としたコミュニティ文化が成立している。
例えば、玉田俊二や沢辺雪祈はそれぞれ大きな課題に直面するが、大はその苦境に共感したり、手助けをしたりはしない。それどころか、雪祈が玉田を、玉田が雪祈を心配しても「自分自身の問題だから、おれたちに出来ることは何もない」と、その配慮を無用なものとして切り捨てる態度を取っている。
しかし、自分自身の問題であることと、周囲がその解決をサポートすることは決して矛盾しないはずだ(でなければ、カウンセリングという仕事は成立しなくなってしまう)。むしろ、人間が抱えるあらゆる問題は究極的には自分自身の問題でしかない。それでも人は、他者の悩みや状況を想像し、共に心を痛めることができる(=エンパシー)。そこに人間の素晴らしさがあり、そのような想像力に支えられることで、僕たちは日々の問題に対して継続的に立ち向かうことができているはずだ。
ところが、ジャズ・プレイヤーとしてあまりに完成されすぎている大のメンタリティは、そのような想像力を必要としない。自助を当然とする大の態度に、玉田は大きく動揺し、雪祈でさえ戸惑いを見せ、二人は困難に直面しても「助けてほしい」と言うことができない状態に追い込まれてしまう。大は「ジャズを信じている」と口にするが、これはジャズという音楽の良さが理解されることだけでなく、「ジャズバンド的な人間関係やコミュニケーションの方法が通じる」と信じていることを意味しているのではないか。つまり「ジャズを信じる」大の信念が、JASSの「助けてほしい」とさえ言えない人間関係を強固にしているのだ。
「信じるだけ」の大は、いわば「仲間のために戦わないルフィ」だ。彼の言動からは、人の弱さを認めず、自分が出来ることはみんなも出来ると思い込んでいるマッチョなワンマン社長のようなパワハラ気質が伺える。もしかするとそれは「お互いを追い込みながら、最高のソロを引き出し合う」というジャズの性質を、人間関係のアプローチに転用したものなのかもしれない。だとしたらそれは、今日ではあまり受け容れられないスポ根的なスタイルが、文化系の皮を被ることで見過ごされているだけなのではないだろうか。
この映画では、周囲の人々に助けを求めず、自分自身を追い込んで課題を克服しようとする姿を肯定的に描いている。しかし僕は、それらをもう少し批判的に捉える視点があるべきだったと思う。あれほどまでに深く自己と向き合うことができるのであれば、そこで培った想像力を活かして他者の心に深く寄り添う可能性も求められるはずだ。自助の圧力が高まる世の中だからこそ、自分自身に向き合い、自分自身の問題に取り組みながら、他者に対しても理解し、助けることができる人間関係を築く、そんなジャズプレイヤーたちの関わり方を提案して欲しかった。
この作品にはもう一つ、物語の性質に関わる問題がある。それは彼らの立てた目標、あるいは権威との関わり方の問題だ。
大、雪祈、玉田の三人は「JASSの目標」として、十代のうちに日本一のジャズクラブ・So Blueのステージに立つという目標を掲げる。もちろん大きな目標であり、大胆かつ困難を伴うチャレンジではあるのだが、僕はこの目標によって彼らの物語が「質的に」小さいものへと制限されてしまったと思う。
ジャズマンにとってのSo Blueは、野球の甲子園やラグビーの花園に相当する憧れの舞台だ。ただ、その性質は大きく異なっている。甲子園や花園は「勝ち上がる」ことで立てる舞台であるが、So Blueは「認められて」立つことができる場だ。つまり、そこに辿り着くためには権威を求めなければならない。このことから「権威に認められなければ成功しない」という価値観が生まれるのだが、それが(若者たちの挑戦を描くにしては)物語を物足りない方向へ導いてしまっている。
JASSはSo Blueの支配人・平にライブを観に来てもらうというチャンスを掴むが、雪祈のプレイが否定され、夢への道が閉ざされてしまう。このとき「縁がなかったということで」と断った平だったが、後に彼が自戒したことで雪祈へのオファーが生まれ、それがJASSのSo Blue出演へとつながっていく。雪祈のソロ克服という要因はあったものの、もしこの権力者が凡庸な人格の持ち主であったら、JASSはSo Blueに立つことはできなかっただろう。若者たちの挑戦に重きを置くには、権威的な存在が過剰である。
また、中学生の頃からSo Blueに立つという目標を持っていた雪祈には、権威主義的な性格が定着してしまっている。自分が評価していないギタリストと共演しても、相手が一定のプレゼンスを持っているとお世辞を言ったり、自分のソロについて大から指摘を受けたときは反発しつつ、平から叱責を受けると素直に聞き入れたりする。葛飾ジャズフェスティバルへの出演が決まった際には「フェスとなればジャズ業界の人間もたくさん集まる。駄目バンドの烙印を押されたら、もう一生どこにも呼ばれない」とまで言い切っており、妄想の中で権威が肥大化し、視野が狭くなっている様子が伺える。これらは、挑戦する若者というキャラクターの魅力を損ねる要素だ。
若者たちの挑戦を描くのであれば「権威に認められようとする挑戦」よりも「権威を打倒しようとする挑戦」のように、もっと質的に大きなものを期待したいが、ジャズ・プレイヤーの挑戦である限り、権威に対する依存は避けられないのかもしれない。
映画を通じてジャズという音楽の魅力は十分に伝わってきたが、僕は大がジャズを信じる姿に共感する気持ちにはなれなかった。映画『BLUE GIANT』は、ジャズの美学を称えるはずの作品でありながら、同時にジャズ的なもの(自助を前提とした人間関係やコミュニケーション、権威に認められることで成功するという価値観)が抱える課題も浮き彫りにしてしまっている。
それでもこの映画は、音楽の力とそれを支える視覚的な表現力で観る者を魅了してしまう。そこに問題があったとしても、圧倒的な恍惚によってどうでもよくなってしまう。それこそが、この映画の正体なのだろう。最高のクリエイターたちがもたらす感動が、自助を強要する主人公や助けを求められない人間関係、挑戦の質による物足りなささえもかき消すことで、「音楽の力」を証明することに成功したのだ。物語パートで引っかかることがあったにも関わらず、あまりに強すぎるライブシーンが全てを帳消しにした結果、鑑賞後の僕の心にはただ音楽だけが存在していた。大、雪祈、玉田たちにとって演奏することがそうであったように、まさに、最高の演奏によって数々の問題を乗り切った物語だったと思う。
・えっここで終わり?!
・船沈没まではすごい「画面に飽きさせなよう」とあの手この手で工夫してくれた感じがしたけど島ターンからは「普通に俳優さんを映す」感じになってた
・で、でも
ずっと気になってから見れてよかったし
船沈没までの画面に満ち満ちる悪意皮肉とラストのラスト、主人公が森?を
・船沈没の原因、思ってたんと違った
「これうちのやつやん!」とは思わんやろ
水が船内に雪崩込んで天地が分からなくなるような絵面と轟音で「ハイ!船ターンは終わりです!」って画面の暴力で「わからせて」欲しかった
「泳ごうよ!」の「なんだぁ、テメエ…」笑顔演技
よかった
・性別奢る奢らないとか破茶滅茶船内アナウンスシーンとかいっぱい色々テーマとしてふっかけたいことはあるだろうのは何となく伝わった!しかし無学故に「ちょっとよくわからない…」ってなった
・もうこれ2人別れればよくないか
・無人島漂流もの、大体このオチになりがち(というか又は永住エンドか死亡エンドしかないけど)なのでオチは何となく想像ついてる感はあった
・結局その各々のポジションからしかものは見えないよねっていう…?
追記)
・見終わって次の日労働中に妙に思い出す
・船内アナウンスの「今の自分を御託で慰めて取り繕ってもそれ鏡見ながらそれ言えんの?いえるならキチだぞ」的なやつ、刺さるゥー
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/472/091472_hanrei.pdf
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人らは、被控訴人Y監督、B・プロダクションズ製作、被控訴人合同会社東風配給に係るドキュメンタリー映画「主戦場」を上映し、又は、第三者に売却、引渡し、賃貸、譲渡、頒布、配給その他一切の処分をしてはならない。
3 被控訴人らは、控訴人X₁及び控訴人X₂それぞれに対し、連帯して、各500万円及びこれに対する令和元年8月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
4 被控訴人らは、控訴人X₃、控訴人X₄及び控訴人X₅それぞれに対し、連帯して、各100万円及びこれに対する令和元年8月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
5 被控訴人Yは、アマゾンドットコム・インク(アメリカ合衆国(省略)所在)に対し、「Shusenjo: Comfort Women and Japan’s War on History」という表題の映画の上映、頒布(譲渡及び貸与)、複製、公衆送信及び送信可能化をしてはならない旨の意思表示をせよ。
ア 被控訴人らが本件各映像を利用して本件映画1を製作、上映することは、控訴人らの著作権、肖像権を侵害し、また、控訴人X₁のパブリシティ権を侵害するか(争点①)について
本件各許諾は詐欺により取り消され又は錯誤により無効であるものとは認められず(争点①-3)、
本件各許諾が本件規定に従い撤回されたとも認められないため(争点①-4)、
本件各許諾がされたという被控訴人らの主張(抗弁)が認められる。
したがって、控訴人らが本件各映像の著作権者であるか(争点①-1)、
本件予告動画が控訴人X₁の肖像の顧客吸引力を利用しているものか(争点①-2)にかかわらず、
イ 被控訴人らが本件各映像を利用して本件映画1を製作、上映することは、控訴人らの名誉権(声望)を侵害し、また、著作者人格権(みなし著作者人格権)を侵害するか(争点②)について
本件各映像を利用した本件映画1の製作、上映により、控訴人らの社会的評価が低下したとは認められず(争点②-1)、
著作者である控訴人らの名誉、声望を害する方法により本件各映像を利用するものとも認められない(争点②-4)。
したがって、控訴人らが本件各映像の著作者であるかどうか(争点②-3)にかかわらず、
ウ 被控訴人らが本件各利用映像等を利用して本件映画1を製作、上映することは、控訴人X₂及び控訴人X₄の著作権を侵害するか(争点③)について
本件各利用映像等の利用は引用として適法であると認められる(争点③-2)ため、
被控訴人らが本件各利用映像等を利用して本件映画1を製作、上映することは、控訴人X₂及び控訴人X₄の著作権を侵害するとは認められない。
エ 被控訴人らが本件利用映像等5、6を利用して本件映画1を製作、上映することは、控訴人X₂の著作者人格権(同一性保持権、みなし著作者人格権)を侵害するか(争点④)について
被控訴人らが本件利用映像等5、6を利用して本件映画1を製作、上映することは、控訴人X₂の名誉又は声望を害する方法による利用であるとは認められず、
キ 本件映画2の譲渡、貸与等により控訴人らの肖像権、名誉権(声望)が侵害され、控訴人らはこれにより被控訴人Yにアマゾンに対する意思表示をすることを請求できるか(争点⑨)について
ク エンドロールが削除された本件映画1のお正月韓国SBS放送版及び予告編(韓国版)による本件各利用映像等の利用が本件各利用映像等の著作権を侵害することにつき、被控訴人らは責任を負うか(争点⑩)について
すずめ(午前)
・券売機で小銭をぶちまける。店員さんに助けてもらう。誠にごめんなさい。
・シネコンは予告が長いのは嫌だけどスクリーンが大きくていい。見慣れた東京MERの予告でなんか安心する。コナンは最近スピッツ版になったからまだ新鮮
・序盤は画力で押し切ってるところもあり、大スクリーン高画質でないとキツさが出るのかも。真水の質感がいい。
・港のシーン、走るすずめの腕がループなのに気付く。ここは違和感ないのに、学校の戸締まりだと腕の振りが一定なのがなんか気になる
・なんJ民と突然興奮する患者役KOUSHIROUさんが銀幕で共演しているという事実
・相変わらず面白かった
シン・仮面ライダー(午後)
子供の頃、偶然初代の再放送を見たことがあって、改造シーンとかでホラー映画だと思い込んで怖がってた。これまで昭和ライダー見たのはその一回だけ。戦闘シーンとか切り抜きはあるけど。平成はアクションとかCGが洗練されてて、昭和は爆薬とか無茶なスタントが凄いという認識。
・映画館の方針か知らんが、予告編がアニメからホラーから洋画から何でもあり。ホラー予告はあまり見ないから驚いた。あっPG12だから?
・ネタバレ回避してきたのにコラボCMでクモ怪人が出てきて怒。まぁ最初の敵がクモってのはお決まりだからいいけど。
・序盤は説明抜きで畳みかけてる感じ。CGかと思ったがミニチュア?
・アマゾンズみたいな血飛沫。延髄ぶっこ抜く方のシン?か
・クソ博士、割とすぐ死ぬ。グロ死かと身構えたがそんなことはなかった。
クモの隠し腕かっこいい。
・おーバイクかっけー、変形かっけー、なんじゃこの超カッコいい変身は!!??個人的に今までで一番カッコいい変身だった
・コウモリ、闘技場シーンでパラロスじゃん!と思ったら違った。究極の選択かと思ったら違った。線路いいよね…
・サソリ、ケレン味が強すぎる!人間が頑張るのはいいけど勝てるのか!?……あれ、勝ったの?
・ハチ戦、さっきのサソリなんだったんだ…という気持ちを抱えながら見る。キャンプ道具急いで片付けるとこ、ギャグかわからんが好き。サソリの伏線回収されたけど、まぁそれで泣くパターンだよね…アララァ…
・ルリルリ、ポスターで見た時はコスプレっぽいなって印象だったがすげー可愛い。片桐はいりの擬人化みたいな髪型しやがって…老けたチビノリダーみたいな本郷もカッコいいし、後で出てくる2号も藤井隆の出来損ないみたいな印象だったが終盤はカッコいいし。
・クモ先輩の後輩、ここで来るんか…
・プラーナ移すとかで治せるでしょ?あっ…
・ライダー軍団、偽ライダーかパラロスか、ちょっとギャグになってない?共闘とか名前呼び合うの好き
・お前が変身言うのか…Vスリャー!とか名乗ったらどうしようかと。
・正直、弱体化か洗脳のためのマスク剥がしかと思ったらなるほどそう使うのか…
・プラーナ体で残るのはいいけど、それって何とか計画とあんまり違わないんじゃ…と少し思う
・なるほど主役交代…
・ダディーヤナザン!?
・ラスト好き。ルリルリも入れてワチャワチャしてほしいとこもあり。
・あのロボが敵ボスなんかね?
シンウルトラマンはそうそうウルトラマンってこんなんだったよなー、って楽しさがあったが、こっちは自分が昭和ライダー詳しくないだけかもだが、仮面ライダー本郷猛の物語として予測不能な面白さがあった。
ライダーも怪人つーか、怪人もライダーっぽいというか、ショッカーの方針が世界征服じゃなくて世界幸福だったりするとこによるかもだが、怪人としての悲哀というより社会不適合者の哀しみみたいなとこはあり。ちょっと極道っぽい。
そういやマスター役いなかった?警察の人がその枠なんだろうか(追記:他の人の感想読んでて気付いた。橘じゃなくて立花か!滝つっても君の名はの方が…ってかニワカなんで滝の存在知らなかった。あとウルトラマンなのも気付かなかった)
シンエヴァの第三村パートみたいな、他者との関わりについて。本郷もコミュ障無職だし、緑川家も家族のコミュニケーションがアレだし。それでも信頼しあうことは出来るっつー、ミスチルの掌みたいな。
一番好きな映画は「レクイエム・フォー・ドリーム」なんだけど
※のちにレスラーやブラックスワンなどを撮るダーレン・アロノフスキーの初期作品
その劇伴である「Lux Aeterna」がめちゃくちゃいい。
本当にいい。
良すぎてなぜかロード・オブ・ザ・リングの予告編のためにフル・オーケストラに編曲し直されたバージョンが存在して、なんならそっちのほうがより広く知られている。
『Lux Aeterna Clint Mansell』で調べてもらえばYoutubeにも鬼ほど出てくる。
あぁ、この曲かってなる人も多いと思う。
急激な温度差で風邪をひくかもしれないが、アニメゆゆ式の劇伴もよい。
特にGet Wild的に使用される楽曲で「TekiPaki (Yui's Theme)」は
これもまぁ、アレな動画をどこかで視聴できると思うので聞いてみてほしい。
シネプレとかは予告編長すぎてあんまり好きじゃないから(たまに行くならいいけど)
小さい映画館通ってるけど、鬼滅に取られて上映数激減してて
あんまり良くないスクリーンで席も前列端っこ座っちゃって、最初はちょっと後悔してたんだよね
でもこれが幸いしたぜ!初めてのアングルで見るから新鮮だし、画質は下がった分作画の良さに気付くみたいな
最初の後戸の真水の質感とかすげーよ
これまで、遊園地戦までは正直見飽きててダレるところもあったけど、今回は最初から楽しめた
気付いたことなど
最初の天気予報、よく雨降ってるし何かの伏線かと思ったけど、単にそこが九州って示すためか
すずめの部屋とかスナックの二階とか、何か初めて行く他人の家みたいな感じがする
生活感なんかなぁ
ダイジン負いかけるとこ、多分地震の影響でコンクリがちょっと崩れてんだよな
東京行くだと糸、クレジットだとギザギザハートと三年目の浮気の間だからおしぼりとか氷でわちゃわちゃしてる辺りで流れたんだろうか
朝にはダイジン東京にいてミミズが出てくるの夕方だから時間あるんだよな
東京駅からお茶の水の乗り換えで改札映るの、すずめが改札使ったんじゃなくて駅の風景描写かもしれん
フェリーで寝がえりうつおっさんとかスナックから店員が帰宅するシーンみたいな
芹沢、参考書のとこ見てたけど閉じ師日誌とか散らかってるの普通に見てるよなぁ
作画コストというよりワチャワチャ動かしてそっちに注意がいっちゃうとかえって本筋わからなくなるからかも
そういや安彦良和のインタビューで、若手でコンテ切ってた頃の富野がモブに細かい芝居付けててアニメーターから嫌われてたみたいな話してた気がする
裸の銃を持つ男って映画で、背景に小ネタ仕込みまくってたけど集中して見ないとわからないってことでウケが悪くて、TV版にしたらヒットしたという逸話が…
あったと思い込んでたんだけど、今調べたらTV版に小ネタ仕込みまくってたけどウケなくて、劇場版にしたら大ヒットしたらしい。逆に覚えてたわ
ついでに、昔、裸の銃を持つ男のビデオ見たら、冒頭でイスラム系の悪役をボコボコにするシーンがあって、
911後だし観客向けのサービスだろうけど悪趣味すぎる、ってそこで見るのやめたんだよね
でも今思うと逆にそういう風潮を戯画化して皮肉ってたのかも…で、調べたら裸の銃を持つ男、シリーズ最後が90年代だから911関係ないんだよね…じゃああれは何だったのか?
環さんがすずめと出会う回想、うちの子になろうのシーン出てくるから本当は覚えてたんじゃね?と思ったけど
あれ寝てるすずめが見てる夢か
草太と幼すずめとすずめが手を繋いでるビジュアル
こんなシーンなかっただろ、と思ったけど絵日記で書いてあったわ
後戸まで幼すずめを送る道中かな
最後のおかえりのとこ
すずめが高2なので、最長で翌年の冬という可能性もあるけど
いずれにしても平日早朝に来てるわけだから多分就職はしてないし
そもそも東京から九州に移動して早朝散策するには、夜行バスとかで夜に移動するか一泊するかのどちらかだから色々しんどい…
意外とマメな男
すずめもこの後重役出勤か無断欠席すると考えられる
思いつきでやった第一回は参加者0人というクソミソな結果に終わったのでした…
事前告知するといいみたいなんで、明日23時から↓で同時視聴チャットやります
https://cytube.xyz/r/baikoku_sensei
突然ですが、↓から変更しました。cytubeはニコニコも使えるので…
てか、今気づいたけど部屋消えとるがな!一定時間経つと自動削除なんすかね?
https://sync-tube.de/room/vX3d-kbD
といいつつ、synctubeの仕様よくわかってないんでURL変わるかも
そんで今から30分くらい、適当に予告編とかMVとか流すんで…
(P.S.参加者が2人来てびっくりしたけどうれしかった(小学生並みの感想)参加してくれた人ありがとナス!)
リクエスト曲あればyoutubeのミュージックビデオのURLを↓からどうぞ
ただし、長くても5分以内で
同じ予告編また見せられるのが嫌だったのと、時間が微妙に合わなかったんで都市部のシネコンに行くことに。
30分前に到着するも、予定してた回はすでに満席…都市部はこれがあるんだよな。
そういえば同じ映画館でハサウェイ見ようとした時に初めて満席食らって…調べると丁度1年半ぶりだった。
客が入るのはいいことだし、都会だから時間潰すのには困らないけど、予定が狂ってしまった。
シン仮面ライダーの予告が見れたのは良かったが、全体的にCMが長い!予告編ならいいがシネコン特有の企業CMなのが辛い…予告編でもキツイ奴はキツイが…
あと小中学生や家族連れのグループが多いのはよいことだがちょっと肩身が狭い。そういえば冬休みなのか。
スクリーンが大きいのはいいが、前の席を取ってしまったせいか、序盤はそれが裏目に出てたように思う。
遠景の腕とか顔は強くデフォルメされてるんだけど、広いスクリーンで見ると雑作画に見えてしまった
これまではそれがちょうど良かったんだけども、単にそっちで見慣れすぎてて勝手に違和感持っちゃっただけかもしれん。
そんなわけでなんとなく没入できてないところはあったけど、遊園地戦以降は大スクリーンの方がよかった。
電気がバチンて点いて、アオリ構図ですずめが何!?って言うとこ好き
結局楽しんで観ちゃった
その他、気づいた事など
・すずめの部屋にライ麦畑でつかまえての文庫本があった
・草太が「すずめの大事」ボックスを勝手に椅子の足にしてると何処かで教えてもらったが、実際にやってて駄目だった
・芹沢は2002生まれ、学生証の裏に2023卒って書いてあった気がする…劇中の311は実際のとは1年ずらしてる?
・古文書の要石、途中で印が剣に代わって代替わりしたんじゃとか言われてたが、こいつら初代から白と黒で剣持ってるしやっぱ代替わりしてなくね?
・こいつら会って一週間くらいで育児体験して育ての親に挨拶して実家まで行ってんだよな
・母親=すずめなの、最初はフーンって感じだったけど、髪が解けたり上着をピンで留めてることに気付いてからちょっと面白く感じてきた
・草太が芹沢?ってなった時、すずめがニヒッと笑ってるのに気付く
・吉幾三のシーンが結局分からん。EDのカラオケとかじゃないだろうけど…
・環さんが稔君につれなくしてると思ったけど、窓の外見てるだけだった
女性声優がメイクしたら「ビッチ!!!!非処女!!!!!ヤリマン!!!!!」って大バッシングして、
アニメ・漫画の女キャラに恋人がいるような描写をされたら「ビッチ!!!!非処女!!!!!ヤリマン!!!!!」って大バッシングしまくってた男オタクさんが鈍感になる訓練を積んでるってwwwwwwwwwwwwwww
映画館でBLアニメの予告編が流れたら「キモい!!!!!!」「規制しろ!!!!!!」と大騒ぎして、
ananが年に一回だけSEX特集を組んだら「男性の性的消費やめろ!!!!!!」と大騒ぎして、
一昔前の嫌韓ブームのときには韓国人がテレビに映っただけで「韓国人ゴリ押しやめろ!!!!!!!反日テレビ局!!!!!!!」と大騒ぎして、
昨今のアンチフェミブームでは誰か一人がジェンダーの観点から批判的言論をしただけで「焚書!!!!!!!表現規制!!!!!!!!!放火魔!!!!!!!!」と大騒ぎして、
テレビで事件の容疑者の趣味がアニメだと報道されたら「差別!!!!!!!オタクを犯罪者扱いするな!!!!!!!」と大騒ぎして
ずっと何かに対して大騒ぎとバッシングをし続けている男オタクさんが鈍 感 wwwwwwwwwwwwwwwww
男オタクに限らず男が鈍感って嘘にもほどがあるだろwwwwwwwwwww
学校でもすぐにキレて他人に暴力振るってくる奴は9割以上男だったし、
生徒のちょっとした行為にキレて体罰してくる奴は100%男だったし、
会社でもすぐ機嫌を悪くして高圧的な態度取ってくるやつは100%男じゃねえかwwwwwwwwwwwwwwww
嫌いなコンテンツは人だろうがモノだろうがアンチスレ立てて徹底的に叩きまくってそれこそ色んな表現を潰し続けている男オタクさんが自分らを「鈍感」(爆笑)だと評してるのって、
ヤニカスが狭い風通しも悪い部屋の中でタバコ吸って注意されて「俺は気にしないからwwwwお前らも吸えばいーじゃんwwww」ってヘラヘラ笑ってるのに似てるな
そういうヤニカスに限って、コンビニで店員がタバコの銘柄を一発で聞き取れないと途端に機嫌悪くしたり、禁煙の場所があると「喫煙者が迫害されてる!!!!!」って大げさに痛がる
私はOfficial髭男dismの『115万キロのフィルム』に酔っ払っている人が苦手だ。
とだけ述べると意図を曲解される可能性が大いにあるため、まず前提を箇条書きする。
・Official髭男dismのファン全般への批判でもない
・あくまで「『115万キロのフィルム』に酔い切っている人」が苦手であるという話
これらを踏まえて読んでいただければ幸いだし、前提の時点で不快感を覚えた方は他の記事を楽しんでほしい。
Official髭男dismは私も好きなバンドであり、なんなら仕事柄よく聴く方だ。
今回匿名でこの記事を書いているのも、仕事上の公平性を保つ必要があるためである。
昨今のインターネットはとかく極論に取られがちなので、念入りに書かせていただいた。よろしいだろうか。
ロックバンドOfficial髭男dismの人気曲で、カラオケはもちろん結婚式などで頻繁に使われている。
「僕」の一人称視点で語られ、恋愛や人生を映画に喩えた世界観に仕上がっている。
あまりの人気曲である故か、この曲に苦手意識を感じる人間などこの世に存在しないと信じ切っている者たちである。
こちらが「あまり好きじゃない」とでも言おうものなら説教する勢いでこの曲の魅力を滔々と語り、散々論点をズラした挙句「お前がひねくれてるせい」で締めることが大半。
3.「『115万キロのフィルム』に酔っ払っている人」は歌詞を冒頭から終わりまで語りたがる
酔っ払いがこの曲について語るとき、たいがい当然のように歌詞の「僕」=自分だと思っている。
曲の構成上それは構わないのだが、厄介なのは聞かされる側に「君」への感情移入を半ば強制することだ。
「こうされたら嬉しいだろう?」「こんな喩えをされたらときめくだろう?」、聞かされるたびにこちらは凄まじい同調圧力に「ソウデスネ」と答えるほかない。
このプレッシャーと並行して、なぜか酔っ払いは歌詞の「うまいこと言っている部分」をあたかも自分の手柄のように振りかざしてくるのだが、このコンボ効果がこちらの疲労を促進する。うまいこと言っているのは酔っ払いではなく髭男である。
更に、その場がカラオケであった場合は最悪の状況を想定しなくてはならない。心を込めてこの曲を歌われた日の夜、私は自室で爆音のバカサバイバーをループしながら頭まで布団を被って寝ることになる。
私は世間一般でいうところの「非恋愛体質」にあたるだろう。人付き合い自体はそれなりにするが、恋愛対象として接されると途端に回れ右してしまうタイプだ。
多くの場合、恋愛とは相互干渉の状態を指す。心を尽くした分リターンが欲しいという恋愛人が大半ではないだろうか。もちろんそうでない人もいるだろうが、私は毎回「期待されるだけのリターンを与えられない」ので交際そのものを長らくしていない。
そんな考えの人間が『115万キロのフィルム』を聴くと、置いてけぼりになるのである。
ここからは歌詞を抜粋して追いながら、具体的に[]で心情を綴っていく。
これから歌う曲の内容は僕の頭の中のこと
主演はもちろん君で[脳内で主演にされていたことに慄く] 僕は助演で監督でカメラマン[少なくとも「僕」が3人いる撮影現場を想像して慄く]
くだらないなと笑ったんなら[ついていけていない] 掴みはそれで万事OK![ついていけていない]
呆れていないでちょっと待って きっと気に入ってもらえると思うな[「気に入ってもらえる」から既にリターン圧を感じる]
ここまでのダイジェストを少しだけ見せるよ[もうダイジェスト版があるんだ…]
初めて喧嘩した夜の涙[のっけから喧嘩シーン] 個人的に胸が痛むけれど[心の準備をする予告編がほしかった]
ほら ここで君が笑うシーンが見どころなんだからさ[「ほら」で自分の顔を見せられるのか] ah[ご満悦なところ申し訳ないが]
どれかひとつを切り取ってサムネイルにしよう[やめてほしい] とりあえず今のところは[助演の顔に挿げ替えてほしい]
きっと10年後くらいにはキャストが増えたりもするんだろう[出産前提の圧を感じる]
今でも余裕なんてないのにこんな安月給じゃもうキャパオーバー![だから助演で監督でカメラマンを一手に担っていたのだろうか]
苗字がひとつになった日も[どちらの姓を前提にしているのだろうか]
今 目を細めて恥じらいあって永遠を願った僕たちを すれ違いや憂鬱な展開が引き裂こうとしたその時には[どう解決するのだろう]
僕がうるさいくらいの声量でこの歌何度も歌うよ[??!!!?!!!?!?!!?]
クランクアップがいつなのか僕らには決められない だから[またうるさいくらいの声量でどうにかしたらどうしよう]
風に吹かれていこう[……?] (風に吹かれていこう)[誰?!]
フィルムは用意したよ (フィルムは用意したよ)[3人の「僕」でやっているのか?すごい絵面だ]
一生分の長さを ざっと115万キロ[80年分もフィルムに先行投資するから安月給でキャパオーバーしたんじゃなかろうか]
撮影を続けよう この命ある限り[先80年分のリターンを見積もって胃が痛い]
5.結論
何も否定していないのに、一方的に捕まえてこちらの考え方をなじってくる酔っ払いが多すぎる。
恋愛体質でない人間に当然の感動を強制するのは、あまりに楽曲任せで無責任だ。
『115万キロのフィルム』の「僕」と「君」が成立するのは、二人に明確な信頼関係が確立している場合のみである。
もっと言えば、夜景もディズニープロポーズもバラの花束もフラッシュモブもお姫様扱いも、万人が喜ぶ演出ではない。
大切なのは相手の好き嫌い・性質を把握することであり、ロマンティックな演出も独りで酔っていてはまるで意味がないのだ。
新海誠の新作映画、「すずめの戸締まり」を観てきた。これがどうにも周囲の人間に話がしづらいというか、未視聴の人に「どうだった?」と聞かれたときに応えづらい、しかし観た所感、体験だけは誰かと共有したい気持ちがすごくあるので書く。
この作品について語る上では、この映画が何を主軸に据えているかは避けて通れない。なので多少のネタバレ有りということは承知の上で一読されたい。
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この文章は現在30代、11年前は20代前半だった人物が書いている。
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本作のあらすじを簡潔に書く。
九州に住む主人公の少女すずめが旅の青年草太と出会う。草太は日本中の廃墟にある「後ろ戸」と呼ばれる扉を締めて回る「締め師」だ。すずめはその草太との出会いをきっかけに後ろ戸の脇に埋めてある「要石(かなめいし)」と呼ばれる石を抜いてしまい、その結果後ろ戸が開き、中から現れる巨大なミミズが地震を起こしてしまう。(椅子になる呪いなどについてはここで書きたいことではないので省く。)
抜かれた要石は「ダイジン」という名前の猫になり、登場人物たちはダイジンを追う過程で東北の被災地を訪れることになる。
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これは2011年3月11日、日本列島を襲った未曾有の災害、東日本大震災を主軸に据えた映画だ。
いきなりテーマについて述べるが、「この映画が何を描いているか」は本作エピローグで草太の口からわかりやすい形で語られている。
「人々が失ったものへの無念、悲しみが忘れられ軽くなったところに後ろ戸は開く。」
一度しか観ていないので正確なセリフではないが、このような趣旨の言葉が語られる。
「後ろ戸」とは現し世(現実)と常世(とこよ・霊界のような場所)を繋ぐ扉であり、そこが開くと扉から巨大なミミズが現れ(このミミズは締め師である草太、主人公のすずめにしか視認できない)、空から地上に落ちることで地震を起こす。
後ろ戸は廃墟にあるものだが、廃墟であるが故に、その地での災厄の記憶、失われたものへの想いは風化していく。そこには要石という石が埋めてあり、再び扉が開き災害が起こらないよう守っているのだ。
この映画は我々が体験してきた被災の記憶が風化されないよう、呼び起こすような映画だ。そして未視聴の人に説明をするのが難しいのもそのためだ。
映画館に足を運んだとき、自分は事前情報を全く入れずに行った。そして何となく映画を観始め、巨大ミミズが地震を起こし、物語の舞台が神戸へ移ったところで「おや」と思い、オープンカーが首都高を経由して東北道へ向かい始めたところで確信に変わり、そして気付かされた。「忘れていた」と。
忘れていたわけではない。事実としてはまだ記憶に新しい。ただし映画の中で鳴り響く緊急放送、津波で一掃された土地、そういったものの映画の中での情報の感触は、普段触れる情報とは全く異なったレベルで自分の記憶を呼び起こすものだった。その点に関しては映画スタッフの美術や演出の面々に感服させられた。
だからこそ、「東日本大震災のその後の物語だ」ということすら知らずに観るべきだ。なのにここにこんなことを書いていることについては矛盾にもほどがあるのだが。それでも、あのはっとする体験は代えがたいものだったように思う。
その点からまずこの映画の良かったのは、テイザーや物語冒頭でわかりやす過ぎる形でテーマを明かさない点だ(それでも屋根の上に船が乗っているのだけれど)。これも意図した演出なのだろう。
これが少しでも YouTube の予告編で明かされていようものなら、こんなに「観てよかった」と思うことはなかっただろう。
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この作品について語る上で、村上春樹の短編集「神の子どもたちはみな踊る」、特にその中の一編「かえるくん、東京を救う」を避けては通れない。
こんな話だ。
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東京で働くうだつの上がらない銀行員の中年男性が、ある日かえると出会い(「かえるくん」、とかえるくんは指を立てて訂正した)、かえるくんと共に地下に眠る巨大ミミズと闘い巨大地震を阻止する。その後男性は病室のベッドで目を覚ますが、傍らには闘いでボロボロになったかえるくんがいる。ふと気がつくとかえるくんの身体からボトボトとミミズが現れ、男性の身体がミミズに飲み込まれたところで、男性はその夢から覚める。
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こんなに似通えば嫌でも取り挙げたくなる。
この小説は1995年に日本で起きた阪神淡路大震災を柱に据えた小説である。
1995年、オウム真理教による地下鉄サリン事件と立て続けに起こり、日本の安全神話が崩れた年だ。
作者である村上春樹は、この年を経て、地下鉄サリン事件の関係者・被害者へのインタビューを行い、「アンダーグラウンド」という書籍をまとめ、普段我々が当たり前と感じて暮らしているこの社会、他者との関係性、足元の地面ですら、ありとあらゆるものが決して確かなものではないという危うさを看破し、小説への考え方について「デタッチメントからコミットメントへの転換があった」と語っている。簡潔に述べるが様々な関係性を一旦切り離して書くのではなく、コミット、深く関わっていく姿勢への移行だ。
氏はこのコミットメントについては、「日の光も届かない深い井戸の底へ降りていき、その中で手を取り合うような行為」というような言葉で表現している。光の一切届かない暗闇、自身の身体と周囲の空気、現実と非現実の境界が曖昧になる。死に近い場所だ。
人の日常生活では感知し得ない深い場所・心理、そういった部分で他者と手を取り合うこと。自分は氏の言うコミットメントをそのように捉えている。村上春樹はそのような時を経て2000年にこの小説を描き下ろした。
翻って本題の映画はどうだろう。いつも地の底に潜んでいる「地震を起こすミミズ」というモチーフ、すずめが自身のルーツである過去と向き合い、草太と再開を果たした、井戸の底のように現実と霊界の境界が危うくなる「常世」。何から何までが一対一対応というわけではないものの、通ずる部分があるように思えてならない。
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「神の子どもたちはみな踊る」は善悪の二元論ではなく陰陽論の物語集だ。
太極図、という白と黒の勾玉が互いに合わさって円を作っている図を見たことがあるだろうか。
こんなのだ☯
善悪、明暗などの世の中の事象は二分に切り分けられるわけでなく、互いにグラデーションにように折り重なり、それぞれが互いに内在し合うものである、という考え方であり、太極図はそれを表しているように読み取れる。
太極図について、ちょうど三角関数を学んだときに単位円の中で動径をθに合わせて回したように、円を描くように眺めると良い。
日が暮れるように、徐々に陽に陰が重なっていく。やがて陽がすべて陰に飲み込まれるが、その陰の中心には陽が内在する。
「かえるくん、東京を救う」の最後のシーンはまさにそれだ。主人公がミミズを飲み込み、それを夢として目を覚ますが、ちょうど「夢でしかない」くらいの点となって主人公の中に静かに存在する。
この小説中の作品に関して言えば「かえるくん、東京を救う」に限ったことではない。
宗教二世を描いた表題作「神の子どもたちはみな踊る」にせよ、バンコクのホテルで神戸に住む男の存在を思う研究者の女性にせよ、海辺で焚き火にあたる男女にせよ、自身の中には消して割り切ることのできないものが存在し、それですら目を背けることはできない自分自身なのだ。
その点でいえば、主人公すずめを育て上げながらも苦悩を抱えたまま中年期を迎えた叔母や、キャラクターが極端に振れるダイジンのあの姿に、どうしても自分は勾玉の形を照らし合わせたくなってしまう。
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我々が当たり前のように立っているこの足元、地面というのは確かなものではない。しかし一方でそれをある程度信頼した上で営んでいかなければならない生活がある。するとその表層上の信頼感によってその奥底にはらむ危険性をつい忘れてしまう。
東京都心の上空を巨大ミミズが覆い、今にも落ちて地震を起こそうとする。そこで一瞬ミミズの描写が消える。ミミズはすずめと草太にしか見えていないのだ。ずごごごご、と地震の前兆のような地鳴りが響いてきそうな予感を、スクリーン越しに観ている我々は感じるが、作中の街ゆく人々はそれに気付かず日常生活を送っている。
そこの描写が本当に良かった。地震とはいつもこうやって突然にしかやってこないんだ。そう思わされる。知ってはいるがいつも忘れている。今日この映画館に足を運んだ俺だってそうだった。そう思い知らされる。
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東日本大震災の発災当時、自分は東北地方からは離れた実家の部屋で揺れを感じていた。
2回目の大学4年生だったと思う。その年度も卒業の見通しは立たず、試しにやってみた就職活動も上手くいかず(リーマンショック直後の年だ)、大学にも足が向かず、鬱々とした日を過ごしていた。
インターネットに張り付いて、東北地方や東京の情報をひたすら追っていた。津波が町の何もかもを薙ぎ払っていく様子が全国に衝撃を与え、日が暮れるに差し掛かり日本全体が絶望に飲まれていくような空気を感じたように記憶している。
当時地元から離れた東京で働いている友人が数名いた。幸いにも彼らに大きな怪我はなく、交通機関による帰宅が困難となり、渋谷から半日かけて家まで歩いた、などという話を聞いた。
日本は強かった。余裕がない中でもそれぞれが自助共助に取り組み、生きながらえようとしていた。各大手企業にしても、サントリーは被災地に飲料水を発送し、ソフトバンクは公衆 Wi-Fi を無償開放した。当時流行っていた Ustream では日本の若者が NHK による被災状況の中継をカメラで撮影して流し、その行為の是非について当時の NHK Twitter 担当者が自身の責任と判断でそれを認め、情報共有を助けた。Evernote は有償の容量無制限サービスを日本人に向け一時無償提供を行った。
今ではウクライナと戦争真っ只中のロシアはプーチン大統領の「ありったけの物資を今すぐ日本に送れ」の大号令のもとに支援を行い、アメリカ軍は作戦名 Operation TOMODACHI を実行し日本に対し援助活動を行った。
悔しかった。社会の一員として何かを為せている人たちが立派に見えて仕方なかったし、事実立派であった。大混乱で帰宅、避難がやっとという友人たちでさえ、懸命に行動している姿が眩しく、自分が情けなくなった。俺は何をやっているんだ、と。
あれが人生の転機になった。転んでばかりの青年期、気持ちも前を向かず、ただただわがままばかりでいつも誰かのせいにしてばかりだった生活と、ようやく決別することができた。まずは目の前の事を片付けて四の五の言わずに働けと、アレがしたいコレはしたくないではなくどんなに小さく些細でも社会の中の一コマとして人のために出来ることをせよ、と自分に言い聞かせた。
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働き始め、転居をし、新しい人間関係を築き、仕事ももう若さでは乗り切れない年になりつつもやり甲斐を感じながら生活をしている。
10年間生きていると色々なことがある。見聞きしたもの、体験した記憶は、古いものから後ろに流され色褪せていく。
あの頃自分が感じた、鮮明ではなくなった様々を、しかし、劇場で唐突に思い出させられた。「お前はあの時どうだった、今はどうだ」と。
そこに前述の草太のセリフだ。2011年に東北地方に向けて自分が抱いた思い。それが忘れられ軽くなっていたところに、この映画は重さを再度伝える石となって自分にのし掛かったのだった。
あの時あの日本社会全体の空気感を体験した人が、今観るのに本当に良い映画だった。難解すぎず、わかりやすく、無駄がない。
新海誠の新作となれば中高生も大勢観るのだろう。ただ時間が経つのも早いもので、今の高校生でも発災当時は5,6歳だ。そういった世代が災害の恐怖を知る目的ならば「東京マグニチュード8.0」辺りを見ればよい。良い作品だ。
もしあなたが「君の名は。」や「天気の子」のような純度の高い恋愛ファンタジーを、あるいは「秒速5センチメートル」のようないじらしい恋愛アニメを期待するならば、この映画は応じない。
この映画はあの時を生き、その後を生きてきた人へ向けた作品だ。そしてそういう人たちとこんな風に、観た後の感想を共有したい。
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これで最後だ。
東北地方に差し掛かったところで、ドライバーの「綺麗なところだ」というセリフに対し被災者であるすずめは「綺麗?ここが?」と無感情な様子で返す。
遠くで震災を感じていただけの自分のような人間と、実際に被害に見舞われ大切な人や物、土地を失った人との間には、やはり件に対する感じ方にはどうしようもなく深い断絶があると思う。
やり切れない想いに対しては哀悼の意を持たざるを得ない。その上で、外野から眺めていただけの立場に立ったこの文章を不快に感じる部分があれば、そのような人がいれば、謝罪したい。しかしながら今のところこれが、11年経った今、この映画を観て自分の感じた率直なところだ。
またしばらく経ったら観に行ってみようと思う。
https://anond.hatelabo.jp/20221111111303
この増田を読んで思い出したので懺悔も兼ねてききたい。上映予告中にスマホをいじるのはありかなしか?
私も週に数回映画館に通うくらいには映画好きのつもりだが、映画の予告がどうも苦手だ。
というのも予告編がどれもつまらなさそうにみえるというか、「まあなんかああいう話なんだろうな……」と過去に視聴した他作品と重ねてしまうことによって視聴意欲が削がれてしまうのだ。
上映している映画の一覧は情報サイト等で確認しており(その際もできるかぎりあらすじなどは読まないようにしている)、上映予告によって映画を知るという機会はほとんどない。それに加えてどんなにつまらなさそうな予告でも見てみると全然印象が違ったりするので、私にとっての予告編は余計なバイアスを強制的に植え付けてくるCMという位置づけになっている。
もちろん対策もしている。私はできるかぎり通路側の席をとり、(上映直前の)映画泥棒CMが流れるくらいのタイミングで駆け足入場することにしている。こうすれば予告編を飛ばしていきなり本編を視聴できるので解決だ。
ただ毎回通路側の席をとれるわけではない。そんな場合、本編上映直前になって「すいません、すいません」と言いながら他のお客さんの前を横切るのも迷惑だろう。
なので、中ほどの席を予約せざるを得なかった場合は、ノイズキャンセリングヘッドホンで耳をふさぎ、スマホをいじることでなんとか予告を見ないようにしている。こうやって書くと私ってちょっと異常者だな。見た目がよくなさすぎる。なんだよヘッドホンて。映画見る気あるのか?
で懺悔なんですが、半年ほど前に川崎の某映画館に行った際も私は上映予告中にヘッドホンしながらスマホをいじっていたわけです。そしたら背もたれ越しに衝撃を感じたんですよね。最初は「あ~後ろ通ったお客さんがぶつかったのかな」と思って気にしてなかったんですが、しばらくすると再びかなり強めの衝撃を感じたので振り返ってみると、後ろの席のお客さんに「スマホしまえよ!!!!!」と怒鳴られてしまったんですよ。どうもイラついて私の席を蹴っていたみたいです(席を蹴ったり大声を出すことは良くないと思いますが、今回聞きたいことの本質とは関係ないのでスルーしてください)
え? まだ予告だよね? と思ってスクリーンを確認し、実際まだ予告だったので「上映まだですけど……」と言おうとしたところ、私がそう言おうとしたことを察したのか「見てんだよ! 予告もよ!!!!」と再び怒鳴られてしまったんです。
その時の私は席を蹴られていきなり大声出されたという事実に引っ張られて「狂人に絡まれちゃったな……」くらいのメンタルだったんですが、上映終了後になるとさすがに冷静になってきて「そもそも予告を見たくないと思っているのは一部の人間だけで、当然予告編を楽しんでいる人もいるし、そこでスマホをいじられることが本編上映中にスマホをいじられるのと同じくらい嫌な気持ちになる人も当然いるよな……」とようやく悟ったんですよね。
まあ私の最悪なところは、上記の気づきを得た後でも結局自分のために予告中はヘッドホンしてスマホをいじっているということです。理由としては予告中のスマホくらいは受忍限度内だろうと勝手に判断しているからです。本当にすいません。
みなさん上映予告中にスマホをいじるのはありですか? なしですか?