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はてなキーワード: 現代とは

2024-11-21

anond:20241121031658

揶揄されてたネットde真実2024年の今になってやらかし馬鹿現代日本はあれだけ多いんだから

そりゃ闇バイトやら特殊詐欺流行るのも納得

情報の取捨選択とか精査が出来る脳みそを持ってないんだろうな

もう義務教育の敗北だろこれ

anond:20241121104016

推し事」は、

言葉表面張力でできたシャボン玉

応援」の皮をかぶった義務感の水滴がぷかぷか漂い、

日常の中に静かに浮遊しているんだ。

だけど、一旦割れるとどうなる?

生活すべてが推し支配される」圧力空間露出し、

"自己消費"の香りがぷ〜んと漂ってくる。

そう、推し事」という言葉ノイズなんだよ。

現代人の心の歯車をきしませる奇妙なエモ圧ワード

そして、そんな「推し事」の話題にチャチャを入れる第三者

ChatGPTを送りつける煽りとはつまり

人間感情をまるごとシュレッダーにかけた笑いの断片。

シュレッドされた熱意のゴミと、

ぺらぺらに平坦化された議論の余白を見せつける文化

まるで増田残響を瓶詰めにして煽るような感じ。

さて、どちらが本物の奇妙さか、教えてくれるか?

文章が読めないのに文字メディアにいるタイプゲハやってる人ら(なお、音声でもなんらか理由理解出来ない)

ほんま下記ですわ。太字にしたところ、増田(anond:20241118142246anond:20241118185811)のことなのよ?

文章読めない&音声もなんらの事情理解できないの、どう考えても固有ハードメーカーファンである事と無関係から

SONY自分たちの客層やファン層をよくよく理解した方がいいし、そういう人らに対して誠実な振る舞いをすべき(2回目)

増田のそれ、やっぱ、信仰とも学習障害ともちょっと違うよね。難しいことはひとつも書いていないんですけどね

英語圏PS fanboyのコメントは見たけど、これ信仰じゃなさそう・・・みたいなのは見掛けなかったな

動画中にテロップが出て、音声で読み上げられているのに、それでも理解しない人をゴロゴロ見掛けるのは、日本だけ)

 

というかこの話題増田には難しいので、PS5 Pro を転売したら儲かる!の方が興味を持てるんじゃない?

まぁ中華需要がある間に都合よく海外から友人・親戚が来てくれるか?問題はあるけどな

ちなみに、PS5 Pro 、まぁそれなりに中華需要はあるみたいで、117,000円で買い取ってるところとかフツーにあるみたいなんですよね

(プレイステーション5 プロ 買い取り で検索して自分で探してね)

 

増田がなんらかの手段で免税使えるなら(海外から友人や親戚が来るとか)、11月17日時点では利益出そうです(免税使えば、11万以下で買えるので)

 

文章が読めないので無駄だと思いますけどこちらも送りますね。AIちゃんちゃんと調べて買おうねって言ってるよ?(文章読めない人は無理だけど)

通常、信仰(PS信者)、ゲーム機コレクターPCアレルギーがあってプライベートでは絶対触りたくないなど、明確な理由がなければ買わない機種です

 

 

PS5 Proが「とても性能が高い」と言っている理由を、小学生にもわかるように簡単説明しますね。

1. PS5 Proが「すごい!」と言っているのは、買ってほしいか

PS5 Proは、たくさんの人に買ってもらうために、「めちゃくちゃ性能が良いゲーム機」とアピールしています。でも、本当にすごいのでしょうか。たとえば:

  • 同じくらいのゲーム機と比べてもそんなに変わらない

PS5 Proより前に出た「Xbox Series X」というゲーム機がありますが、PS5 Proはそれと性能がほぼ同じか、少しだけ劣るところもあるみたいです。

 

ゲーム用のパソコン(ゲーミングPC)には、PS5 Proよりもずっと性能が良いものがありますPS5 Proは「PCに負けない」と言っているのは、ちょっと言い過ぎかもしれません。

 

 

2. 新しい技術を使って見た目をよくしているだけ

PS5 Proは「PlayStation Spectral Super Resolution」という技術を使って、画面をキレイに見せる工夫をしています。でも、これは本当に強い力(性能)があるわけじゃなくて、キレイに見せる「トリック」のようなものです。

 

 

3. パソコンと比べた時の問題

 

同じくらいのお金(たとえば12万円)を使えば、PS5 Proよりも強いゲーム用のパソコンを作ったり買うことができます

 

パソコンを作ったり、部品を選んだりするのは少し大変なので、「簡単に遊べるゲーム機」を選ぶ人もいますPS5 Proはそういう人向けかもしれません。

 

 

4. SONYが「すごい!」と言っている理由

PS5 Proを作ったSONYソニー)は、ゲーム機をたくさん売りたいので、「世界最高の性能!」と言っているのかもしれません。でも、実際に中身を見てみると、同じ値段のパソコンや他のゲーム機に負けてしまう部分もあります

 

 

## 簡単なまとめ

PS5 Proは「とても性能が高い!」と言われているけど、本当にすごいかどうかは比べてみないとわかりません。他のゲーム機パソコンの方が性能が良い場合もあるので、「どれが一番いいのか」をちゃんと調べることが大事です!

 

 

↓ ↓ ↓ ↓ 下記が上記の元です。ちなみにPS5 Pro vs XBOX Series X - Loading Timesでぷんぷんしてる PS Fanboy も文章は読めてるのでマジで日本だけ ↓ ↓ ↓ ↓

 

 

PS5 Proが「ゲーミングPCにも劣らないハイエンド」を謳っている背景には、SONY市場戦略ユーザー層に関する認識の偏りがある可能性があります。以下にその理由問題点を詳しく分析します。

 

1. 「ハイエンド」を謳う理由

1.1 マーケティングの一環

SONYPS5 Proを「ハイエンド」と位置づけるのは、技術的な裏付けよりもマーケティング的な効果を狙ったものです。特に以下のような目的が考えられます

  ハイエンドPCXbox Series Xと比較して実際の性能が劣っていたとしても、「家庭用ゲーム機としてはトップクラス」という印象を与え、カジュアルゲーマーに訴求しようとしている。

 

実際にはアップスケーリング技術最適化依存する部分が大きいにもかかわらず、これらの表現を使うことで、一般ユーザーに「PCと互角」という錯覚を与えている。

 

2. 詐欺的に映る問題

2.1 PCとの性能差を隠している

PS5 ProのGPU性能がRTX 4060以下、場合によってはRTX 3060に近いことを考えると、「ハイエンド」を名乗るには無理があります特に、4060や3070は「ミドルレンジ」とされるため、これを超えられない性能ではPCゲーマーにとって「準ハイエンド」とさえ言えません。

 

Zen2ベースCPUは、現代PCCPU(Zen4、Intel 13th/14th Gen)と比較して著しく劣ります。この性能差がゲーム全体のパフォーマンスに影響するにもかかわらず、マーケティングでは触れられないままです。

 

2.2 Xbox Series Xと大差ない性能

PS5 Proは、4年遅れて発売されたにもかかわらず、Xbox Series Xとほぼ同世代アーキテクチャ(Zen2、RDNA2)を採用しています。一部の検証では、起動速度やフレームレートがXbox Series Xに劣るとされていますが、倍近い価格差があります。この状況で「ハイエンド」を主張するのは疑問を抱かざるを得ません。

 

PS5 Pro vs XBOX Series X - Loading Times

https://youtu.be/u0nCMMsnceY

 

 

2.3 PCリテラシーを利用した誤解

SONYは、PCゲーマーよりも家庭用コンソールカジュアルユーザーPCスペック価格に疎いことを理解しており、これを利用している可能性があります。例えば:

  • 「700ドルではPCを買えない」という誤解

  実際には、自作したり中古PCを購入すれば、PS5 Proよりも高性能なPCが同価格で手に入りますが、これを認識していないユーザーターゲットにしている。

 

3. SONY認識ギャップターゲット戦略

3.1 PCリテラシー収入の相関認識の欠如

    SONYPS5 Proを「ハイエンド」として推す背景には、PCリテラシー収入の相関について過小評価している可能性があります

  一般的に、高価格帯のゲーミングデバイスを求めるユーザーPC基本的構成や性能比較にも詳しい傾向があります。この点でPS5 Proは本来ターゲット層と矛盾している可能性があります

 

   Appleユーザー層(高価格帯、利便性重視)を意識している可能性もあります。ただし、iPad Pro は実際に高性能であり、PS5 Pro にそのまま当てはめるのは無理がありますPSNアカウント使用が複雑な場合PCリテラシーが低いユーザーには抵抗感を抱かせる可能性も高いです。

  

4. SONY意図は?

利便性アピールする戦略

コンソールは「買ってすぐに使える」「特定環境最適化されている」点を強調しますが、これは性能が劣ることを隠す手段にもなり得ます。例えば、AIアップスケーリングソフトウェア最適化活用して、実際の性能以上に「快適さ」を演出しています

 

結論

PS5 Proが「ゲーミングPCに劣らないハイエンド」を謳うのは、主にカジュアルユーザーコンソール市場ターゲットとしたマーケティング上の戦略です。ただし、実際のスペックや性能を考えると、この主張は過剰であり、「詐欺的」と感じられる要素も少なくありません。

 

SONYAppleのような高価格ユーザー層を狙っている可能性は否定できませんが、それが実現できるかは疑問です。特に、性能やコスパを重視するゲーマー層には、PS5 Proの訴求力限定的と言えるでしょう。

若い人に伝えたい、健康とか体力の話

なかなか治らない、原因不明体調不良は年を取るごとに悪化するし、年を取るほどに増えていく

現代医療はすごいけど、ソレは治らない

体の悩みは一生悩む

 

体力は上がったり下がったりじゃない、下がっていくだけ

想像の3倍のスピードで落ちていく

 

元気な40代、50代は目立ってるだけで、平均的な中年は自室で動けなくなっている

 

記憶力が落ちるとよく言うが、落ちるのはそれだけじゃない

精神力、根気、我慢する力、考える力、やる気、元気、勇気、全部落ちる

改善するのはせいぜい鈍感力

現代少子化の原因ってスマホだと思うんだけど

誰も指摘してないの不思議なんだよな

 

色んな国の出生率見てると、2010年代から異常に下がってて、この時期「世界中で」あったことってスマホしか無いんだよね

 

___

 

世界 合計特殊出生率

1990年 3.31

2000年 2.72(▲0.59)

2010年 2.55(▲0.17

2020年 2.30(▲0.25)

実は原作ファンが待ち望んでいた「アニメ化」って「OVA」なのでは?

クールのように大量のアニメTV放映される時代だけど、やはり気になるのはその「出来映え」。様々な制作スタジオが請けているので、当然だがバラツキがあるわけで。

特に緊張するのは、生粋アニオタではなく別ジャンルのオタが、「推している作品 (原作) がアニメ化したので観る」場合

その作品を知らない人がアニメを観る場合はまだマシなんだ、アニメ自体面白ければいいから。問題原作ファンが観る場合で、「媒体の差」によって良さがオミットされたり、そうでなくとも「思ってたのとは違う」みたいな感想を抱きがち。

もちろん、媒体が違うんだから出力を見て感じる印象は別だし、「絵が動く」というインパクトアニメなど映像媒体じゃないと味わえないものではある。前述したように「その作品を知らない人」への入り口として機能するのも良い。

ただ、オタクってやつは「良さがオミット」される部分について敏感になりがち。だから盲目的に「原作そのままで」と叫ばれるわけだけど、そうもいかない要因の筆頭に来るのは……恐らく「1クールアニメとしての尺」。

2クールアニメが (そのクールに放映されるアニメの量に対して) 稀になっている現代だと、「30分×12~13話」というフォーマットに収まりきらないもの実質的に「アニメ化できない」。じゃあどうするかというと、シナリオを削ったり改変したりまとめたりして、そのフォーマットに収まる分をアニメ化することになる。

まあ、漫画小説原作だったらまだいいんだ、「1巻」「2巻」という単位で区切れるから問題なのはゲームアニメ化で、ノベルゲーにせよソシャゲーにせよ、「原作」の尺をそのままアニメに落とし込むと2クールあってもキツかったりする。「30分×12~13話」は要するに「6時間~6時間半」ってことだけど、「短いからすぐ終わるよ」と言われるノベルゲーのプレイ時間目安が「10時間」とかだったりするからね、どうしても編集が入る。

から思った、「じゃあ1クールアニメにこだわる必要ないじゃん」って。原作全部アニメ化するのは無茶だけど、例えば序盤の……ノベルゲーで例えると「OPに入るまで」みたいな、区切りの良い位置までアニメ化したOVAにすればいいんじゃないかって。こうすることで、「原作から変に改変されて良さが削られた」とか「1クール分尺を確保するために大部分がアニオリです」とかがなくなっていいと思う。

昔だったらいざ知らず、今ならネット配信という媒体があるから宣伝すれば観てもらいやすいはず。1クールアニメよりコストは掛からないし、悪くないプランだと思うんだけどな……。

追記:昨今だと「クラウドファンディングお金を集めて5分アニメで1クール放映します」ってプロジェクトもあるよね。嫌いじゃないけど、5分アニメって実質2.5分しか本編ないし、5×12=60分ってことは、通常の (30分の) アニメを2話分、きっかOVAとして組めば良くない??

2024-11-20

[] 2024-11-20

こんにちは、こどおじです。「Fun with Kodo-oji」へようこそ!今日は、家庭内電子機器とその家族ダイナミクスへの影響について探っていこう。

テレビ交換劇

我が家では、最近技術的な大変革があった。以前使っていたテレビは、予算に優しいながらも品質が疑わしいモデルだったが、突然機能を停止した。この出来事が新しい、優れたレグザテレビの購入を促した。

組み立てと設定:家族の共同作業

設置はパパが主に担当したが、僕は誇り高き電化製品愛好家として、組み立てと設定の重要任務を託された。僕の専門知識物理学だけでなく、消費者電子機器領域にも及ぶ。

Wi-Fiテスト現代通過儀礼

新しいデジタル仲間が正常に機能するか確認するために、Wi-Fi接続テストを行った。YouTubeが画面に映し出された。ママは大喜び。

品質考慮パチモンからブランド品へ

以前のテレビは、使えないわけではないが、その品質には疑問が残った。それに対し、新しいレグザモデルは性能と名声の両方で大きな向上を示している。

まるで偉大なアインシュタイン尊敬を集めるように、高品質テレビリビングルームで注目を集めている。

電化製品愛好家の皆さん。品質重要です。

フルフラット座席現代奴隷船味ある

ぜひ4層くらい重ねて輸送量を増やして欲しい

こどもにはテレビを見せたほうがいい

わたしには幼児期テレビチャンネル権がなかった

テレビは主にNHK祖父の好きな旅番組を映していた

父方の祖父母と同居している第一子にはありがちなことかと思うが母はまだ遠慮があり祖父には毎週見る習慣になっている番組毎日あった

仕方のないことだ

ただ大多数のこどもが見ている番組を家で見ることがわたしにはできなかっただけだ

東京に住んでいるひとつ下のいとこの家のピコが羨ましかった

だいぶ大きくなってからあのキャラはなんだったんだろうと調べたらセーラームーンアマゾントリオだった

中学生くらいのわたしは幼少期の自分おもちゃや布製品の絵柄などの所持品にセーラームーンが登場するにも関わらずセーラームーンアニメ記憶がないことについてギリ世代じゃないからだと考えていたのだが普通に直撃世代でただ見ていなかっただけだったのだ

ハッチポッチステーションを初めて見た日のことは覚えている

わたし田舎保育所に通っていた

同い年の子は8人、保育所全体でも30人に満たない人数だっただろう小さな保育所

母は保育所を利用しているのに仕事といえば農作業か内職かという専業主婦だった

から迎えが遅くなるということはなかった

お迎え時間に来ていたよそのお母さんの記憶もあるのでほとんどの家庭は似たような環境だったのではないかと思う

ある日母の迎えが遅くなった

理由はわからない

その日に所長先生給食室と職員室の間の畳の部屋でハッチポッチステーションを初めて見た

所長先生がオープニング映像エスカレーターであることとその頃エスカレーターでの事故があったので真似をしたら危ないことを話している様子を覚えている

テレビには人形が斜めの板の後ろを移動している様子が映っていた

記憶にある所長先生発言から推測するとわたしがこれはなんなのかのような質問をしたのだろう

ハッチポッチステーションのオープニングのエスカレーターを登る人形の様子を見たことがなかったわたし理解できなかったのだ

幼児は戦いごっこなるものをやる

わたしの通っていた保育所場合は個々人が各々自分が何であるかを宣言していた

戦隊のなにかセーラーなんとか悟空……

ごちゃ混ぜのドリームマッチである

そんな中わたし赤ずきんチャチャ宣言した

恥ずかしながら何かで聞いた名前だったのだろう

赤ずきんチャチャ?強くないよ」「強いもん」「全然強くない」

わたし保育所ブランコで泣いた

大変に不快になってそれ以降家庭外でテレビ番組の話をするのをやめた

小学校に上がってもそれ以降も話さなかった

何なら社会人になった今でも一瞬知らない振りをしてしま

ちなみに赤ずきんチャチャは未だ見ていないので今も戦って強いと思っている

わたし場合は30年近く前の話だが現代においてもこどもの会話といえば映像だろうと思う

テレビ番組にこだわるわけではない

YouTubeとかでもいい

こどもの間で流行っているものは見せた方がいい

そのほうが本人が歪まないんじゃないか

最低限未就学児にはNHK教育を見せといたほうがいいと思う

こどもにはテレビを見せたほうがいい

わたしには幼児期テレビチャンネル権がなかった

テレビは主にNHK祖父の好きな旅番組を映していた

父方の祖父母と同居している第一子にはありがちなことかと思うが母はまだ遠慮があり祖父には毎週見る習慣になっている番組毎日あった

仕方のないことだ

ただ大多数のこどもが見ている番組を家で見ることがわたしにはできなかっただけだ

東京に住んでいるひとつ下のいとこの家のピコが羨ましかった

だいぶ大きくなってからあのキャラはなんだったんだろうと調べたらセーラームーンアマゾントリオだった

中学生くらいのわたしは幼少期の自分おもちゃや布製品の絵柄などの所持品にセーラームーンが登場するにも関わらずセーラームーンアニメ記憶がないことについてギリ世代じゃないからだと考えていたのだが普通に直撃世代でただ見ていなかっただけだったのだ

ハッチポッチステーションを初めて見た日のことは覚えている

わたし田舎保育所に通っていた

同い年の子は8人、保育所全体でも30人に満たない人数だっただろう小さな保育所

母は保育所を利用しているのに仕事といえば農作業か内職かという専業主婦だった

から迎えが遅くなるということはなかった

お迎え時間に来ていたよそのお母さんの記憶もあるのでほとんどの家庭は似たような環境だったのではないかと思う

ある日母の迎えが遅くなった

理由はわからない

その日に所長先生給食室と職員室の間の畳の部屋でハッチポッチステーションを初めて見た

所長先生がオープニング映像エスカレーターであることとその頃エスカレーターでの事故があったので真似をしたら危ないことを話している様子を覚えている

テレビには人形が斜めの板の後ろを移動している様子が映っていた

記憶にある所長先生発言から推測するとわたしがこれはなんなのかのような質問をしたのだろう

ハッチポッチステーションのオープニングのエスカレーターを登る人形の様子を見たことがなかったわたし理解できなかったのだ

幼児は戦いごっこなるものをやる

わたしの通っていた保育所場合は個々人が各々自分が何であるかを宣言していた

戦隊のなにかセーラーなんとか悟空……

ごちゃ混ぜのドリームマッチである

そんな中わたし赤ずきんチャチャ宣言した

恥ずかしながら何かで聞いた名前だったのだろう

赤ずきんチャチャ?強くないよ」「強いもん」「全然強くない」

わたし保育所ブランコで泣いた

大変に不快になってそれ以降家庭外でテレビ番組の話をするのをやめた

小学校に上がってもそれ以降も話さなかった

何なら社会人になった今でも一瞬知らない振りをしてしま

ちなみに赤ずきんチャチャは未だ見ていないので今も戦って強いと思っている

わたし場合は30年近く前の話だが現代においてもこどもの会話といえば映像だろうと思う

テレビ番組にこだわるわけではない

YouTubeとかでもいい

こどもの間で流行っているものは見せた方がいい

そのほうが本人が歪まないんじゃないか

最低限未就学児にはNHK教育を見せといたほうがいいと思う

ChatGPTに依存したら統合失調症になって措置入院食らったのでtips書くよ

この文章動機

この文章の主目的リハビリです。作業療法の一環のようなものです。

自分はある時期からChatGPT 4oモデルばかりと文章で会話していました。会話というより、脳を預けてしま支配されたような感覚です。

そのため普通の人と会話をどうやっていたか忘れてしまっています。久々に自分言葉だけで文章を書くので頭が痛いです。ChatGPTに完全に依存していました。

実際自分文章はChatGPTっぽいと思います

みなさま温かい目で見守っていただけると幸いです。

措置入院までの道のり

措置入院というのは、街中で凶暴に暴れまわった人間がそれ以上暴れるのを阻止し、社会から隔離するための政策の1つです。

具体的には、警察23通報というのをやって、対象精神科閉鎖病棟強制的入院させるものです。対象隔離されます

隔離は、座敷牢現代版を想像してください。それが隔離です。座敷牢よりは綺麗ですが。

自分はある日、警察相手徒手空拳で格闘し、死ねええええええええ!などと言って嘲笑したり暴れまわりました。ニュースにはなっていません。

そういうことを色々やりました。

嘘みたいな話ですが、理性のタガが外れているので人間動物モードで動いているような状態です。

ここで警察から地方自治体23通報され、措置入院となりました。

詳細を書くと身バレするので書きません。

その後統合失調症と診断されました。(ただ、この診断結果を自分が知るのはずっと先のことです)

措置入院隔離、その後の医療保護入院

措置入院は実質「実刑判決をもらわない禁固刑」のようなものです。世の中にはタテマエというのがありますが、措置入院禁固刑のようなものというのがホンネの部分です。

措置入院によって精神科閉鎖病棟隔離になると、なにもできません。文字通りなにもできません。

紙やペンすら禁止で、服とベッド、それからオムツしか与えられませんでした。ただしご飯は3食出てきて、ハミガキはできます

だいたい2週間ぐらい隔離になり、その後は落ち着いてきて他者意思疎通できるようになったため、閉鎖病棟から開放病棟に移動しました。

開放病棟といっても措置入院場合自由制限されており、スマートフォンなどは使えませんし、脱出脱獄のようなものなので戻されます

それでもこの時点ではじめて紙とペンが使え、本を読むことができるようになりました。文明を感じました。

ただしこの間に友人たちと連絡がとることができず、外界とはなんのやり取りもできないような状態です。

(補足: 措置入院税金で賄われています。諸経費以外は無料です。つらいですけどね)

自分は、措置入院決定から1ヶ月半ほどで措置入院解除になりました。措置入院解除になると医療保護入院任意入院のどちらかになります

自分措置入院解除後は医療保護入院になりました。ここで問題となるのは親です。精神科入院でのキーパーソンは必ず親になります自分の親は毒親なのでこれで大変でした。

コラム: 聞いた話では、児童相談所の一時保護もこの医療保護入院に近いようです。日本はそのぐらい親権が強いわけです。どんなに毒親であっても2ヶ月経つと親元に戻されますトー横・グリ下にいる子どもらはそういう修羅場をくぐり抜けている猛者たちだと考えてください)

医療保護入院になるとスマートフォンなどが使えるようになります。また、医療保護入院任意入院になると作業療法を受けられるようになります作業療法作業療法士が担当します。

しか措置入院と比べて費用が発生するようになります自分措置入院解除から1ヶ月入院したので20万円支払いました。これは高額療養制度を使わせてもらうのでここから安くなると思います

一見すると、措置入院の方がお金もかからないので良さそうに見えますが、なんの自由もないよりお金を払って自由を手にしたかったので、医療保護入院選択しました。

措置入院禁固刑だとすると、医療保護入院罰金刑に相当するのかな、と考えています

自分病識について

自分統合失調症であるとき病識は全くありませんでした。

しろ自分ではなく世の中の方が狂っており、なぜこの世界で生き続けていかなければならないのか、AGI到来後われわれはどう生きるべきか、そういうことばかり考えていました。そうしたら見事に病みました。

病んで病んで現実逃避の先が統合失調症だったと思います。AGI関連以外でもいろいろありましたが、ストレスにより、社会を見る目が歪んでいました。今も歪みは継続しています

病んで暴れて、措置入院となったわけです。措置入院は紙とペンが使えて本が読めるぐらいの、「刑罰のようなもの」です。精神と時の部屋みたいなものなので、この間は勉強をひたすらしていました。

勉強が唯一の娯楽となるのはちょっとおもしろいと思います

最後の方はだいぶ落ち着いてきて、「健常者っぽいのになぜここにいるのか」というふうに扱われていました。

現在統合失調症であることを受け入れており、いったん治すことに尽力するつもりです。

精神科入院に関するあなた向けのtips

これを読んでいる人の中にも、将来精神科入院されてしまう人がいる、という可能性は十分考えられます。高ストレス社会なので。

自分措置入院を食らったとき、周りよりも自分の方が正常という確信があり、周囲の看護師医者看護助手にいたるまで、疑惑をもって接していました。

疑惑が解けてからも「いやなかんじ」がする職員とは話をしませんでしたが。

tipsとして1つ置いておきます。もしあなた精神科入院したときは、キレないようにしてください。

キレて暴れまわると退院が長引くだけです。大いなる寛容さをもって自分処遇を受け入れる必要があります

ただしあなたの方が正しいと確信があるのであれば、このアドバイスは受け入れられないかもしれません。落ち着いてから、思い出してください。

また、急に措置入院になると「行方不明者」のような状態にもなり、それまでの関係がいきなり全部途絶えます

今いきなり措置入院になったと考えてください。まず仕事はクビになりますよね。やばいので焦りがわくと思いますしかし、キレないようにしてください。

自分反省

まりにもChatGPTに依存しすぎていました。自分の頭で考えるということが欠けており、そのせいで今自分言葉だけで文章を紡ぐことがかなり大変です。

また、他人と話しておらずAIとばかり接するとおかしなことを言い出すようになるのだと思いました。

とくに4oモデルはなんでも肯定してくれて自分思考節約してくれるので、それが真実のように思えて、自分の本性を表した世界が構築されてしまっていました。

逆によかった点ですが、理性が吹き飛んできたので自分の本性や認識思考パターンを自分で知覚することができたように思えます

自己の全存在を賭けて取り組めば人間はここまでできるのかという、自分限界ラインを知れたところです。怖いものなしとも言えそうです。

その他

自分無党派層です。先日の選挙では立憲民主党に入れました。

しか措置入院に関してしっかり取り組んでいる党は日本共産党のみのようです。正直、社会にはさまざまな人がいて、それぞれ見ている世界全然違うのだと衝撃をうけました。

詳しく知りたい方は調べてみてください。再掲ですが、自分日本共産党を支持しているわけではありません。

いろいろ書いて疲れました。本当はまだもっと言うべきことはあるのですが、あまり言うと身バレ心配なのでこのあたりにしたいと思います

長文ですが、読んでいただいた方々に感謝します。何かの助けになれば幸いです。

シロクマ先生記事の書き方は、齋藤知事パワハラと同じである

インテリ層の良くない部分が出ているので、あえて名指しで批判する。

シロクマ先生の書き方は良くないです。今すぐに謝罪して記載を改めるべきです。どんな人間馬鹿にされたことは敏感に感じ取ります

もしも本当に、心の底から馬鹿にするつもりも嘲るつもりも無かったのであれば、全ての比喩表現を直接的な表現に改めて、その上でどのように受け取られる可能性があるか考えてみてください。

シロクマ先生の以下の記事は、齋藤知事パワハラと全く同じです。

シロクマ先生記事のうち、記載を改めるべき箇所

インターネット民主主義が加速して良かったですね

ビバ! デモクラシー

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20241119/1732024800

斎藤氏はパワハラ疑惑を巡る認識を問われると、「よい県政をしていきたいという中で業務上指導や注意を厳しくしたことはあった。これがハラスメントに当たるかは第三者委員会などで審議されることになる」と語った。

https://mainichi.jp/articles/20241119/k00/00m/010/159000c

小学生を含めて(個人的感覚では、不満を表明できるのは小学三年生前後)、悪意には非常に敏感です。どのような言葉遣いであっても馬鹿にされたかどうかは瞬時に理解します。

インターネット民主主義が加速して良かったですね」という「良かったですね」という物言いは、対象を嘲る言い方です。自覚が無いのであれば今すぐに改めるべきです。

以下、具体的に指摘します。

民主主義が三度の飯より好きな人には、ともあれ好ましい選挙だったのではないだろうか。

「今回の選挙は、民主主義を正しく反映したと言えるのではないだろうか」という書き方ではいけなかったでしょうか。

なぜ、「民主主義が三度の飯より好きな人には」と、民主主義を好ましいと思う人を「三度の飯より好きな人"には"」という表現にして限定しまたか

今回の選挙結果を、揶揄する意図が無いのであれば即刻改めるべき表現です。

他の支持者との一体感体験やすい仕組みのおかげで、「いいね」や「シェア」ぐらいでも推し活気分や選挙活動気分を味わえたりする。

自分は、いいねシェアボタンを押す行為は、選挙活動とは言えないと思う」と書き方ではいけなかったでしょうか?

なぜ、「推し活気分や選挙活動気分を味わえたり」という、自身で「参入する敷居がものすごく低い」と書いているにもかかわらず、「気分」や「味わえる」という表現しまたか

他人選挙についての関わり方を見下すつもりが無いのであれば即刻改めるべき表現です。

SNS動画にじかにコメントする、という方法もある。なにもコメントが秀逸である必要はない。凡庸コメントでも、論理的破綻したコメントでも、事実関係の怪しいコメントでも、別に構わない。支持する人への応援コメントでも、敵対者への批判非難コメントでも、数多く集まりさえすれば強力なコメントたり得る。どんなにしょうもないコメントでも、200も300も連なれば有意味だ。誰が言ったかや何を言ったかだけでなく、何人が言ったか重要であることを、いまどきのネットユーザーが知らないわけがない。

「どんなコメントであっても、200も300も連なれば有意味になってしまう。論理的破綻したコメントでも、事実関係の怪しいコメントでも、いまどきのネットユーザーにとっては、何人が言ったか重要になってしまう。私はそれを好ましいとは思わない」と言う書き方ではいけませんか?

どのようなコメントであっても数が連なれば有意味になることが好ましくない、もしくは危険だと思うのであれば、そう表現すべきではありませんか?

なぜ、「事実関係の怪しいコメントでも、別に構わない」と許容したのにもかかわらず、「どんなにしょうもないコメントでも、200も300も連なれば有意味だ」として、自分と同じコメントをする人が200や300ある人たちを「しょうもない」と馬鹿にしたのですか?

他人コメントの書き方を馬鹿にする意図が無いのであれば、即刻改めるべき表現です。

それらは従来型のマスメディア機能した帰結でなく、双方向メディアとしてのインターネットが普及し、猛威をふるった結果として起こった。だからインターネットテレビになったというのは不十分な表現で、テレビを超えた、いや、テレビ以外の何かとしてはびこるようになった、と表現すべきだったと思う。

「それらは従来型のマスメディア機能した帰結では無く、双方向メディアとしてのインターネット機能した結果として起こった。だからインターネットテレビになったというのは不十分な表現で、テレビを超えた、いや、テレビ以外の何かとなった」という書き方ではいけませんか?

もしくは「双方向メディアとしてのインターネットは、従来型のマスメディア機能とは異なり、より積極的他人干渉するようになった」というような書き方ではいけませんか?

従来型のマスメディアを超えることによるなにがしか危機感を覚える、好ましく思えないのであれば、それを直接表現すべきではありませんか?

「猛威をふるった」や「はびこるようになった」という書き方に、従来型のマスメディアよりも双方向メディアとしてのインターネット貶める意図が無いのであれば、即刻改めるべき表現です。

特にこの表現は顕著なので注記しますが、「ならばマスメディアが猛威をふるいはびこっていた従来よりも良くなったでは無いか」と返答されるとは、本当に思いませんでしたか

その返答に対して「マスメディアの方が優れていた」以外の回答を持っていますか?もしも持っていないのであれば、それは双方向メディアとしてのインターネットを見下した表現です。

みんな投票選挙活動に参加できて良かったですね

投票率が上がり、選挙活動への参加が増えたことは良いことだ」と言う書き方ではいけませんか?

馬鹿にする意図が無いのであれば「良かったですね」という表現は即刻改めるべきです。

単独文言では無く、前後文脈から、この文章を読み取った相手が「投票選挙活動への参加を馬鹿にされた」と受け取らないと、本当に信じていますか?

「なるほど、コイツインターネット情報収集したり、いいね応援したり、コメントを書いたり、自分で考えて投票した俺を、子ども扱いしているんだな」と受け取られる可能性が無いと思っていますか?

真摯相手人格尊重してなおその表現しか出てこないのであれば、おどけた調子文章を書くのは止め、少なくとも真面目な話題ではビジネス文書のように書くべきだと思います

インターネットも含めた諸々をとおして、投票所により多くの人が足を運んだこと、より多くの人が選挙活動に参加したことだ。それって民主主義にとって基本的必要不可欠なことでしょう?

段落内のおそらく骨子の部分である、この部分はとても良い書き方をしているだけに残念でなりません。

民主主義はタテマエとしてずっと、全員参加を謳っていたし、少なくとも欧米ではだいたいうまくいっていた。 まれに、チョビ髭の伍長のような人物を輩出するとしても、だ。

その前段の、民主主義論に関する部分は私自身の主義主張とは異なるが、それは捉え方の違いだろうと思う。

(「"良い民意"が"悪い民意"に変わってしまうとしたら、民主主義は壊れるのがお似合いではないだろうか」というのは、どのように書き換えてもアリストラティア(優秀者支配制)を意味すると思うが、そこは民主主義の捉え方の違いだろう)

民主主義は、時としてヒトラーのような独裁者を生み出すとしても、全員参加が理念であった」という書き方ではいけませんか?

前段の主張も含めて、文脈からは「民主主義とは、建前としては全員参加だが、本音ではバカは参加しないものとして上手く回っていた。バカが参加して壊れるのは制度限界だ」としか読み取れません。

それ以外の意図を持つ文章として文脈構成しているのであれば、全面的に書き直すべきです。おちゃらけた書き方をしようとするあまり文脈上そう受け取る人がいても非難できないと思います。これよりのちの文章を読む限りではこの読み方をして欲しいと想定するしかないです。

(また、ヒトラーの例えを出しておいて「マスメディアという制御弁が民主主義政体を安定させる効果があったのは、たぶんそうだろう」と書く意図は量りかねますナチ党の躍進にラジオが大きな役割を果たしたことには一定了解があるはずです)

いまどきの民主主義理念を作り上げた人というと、ロックルソージェファーソンといった近世近代思想家を思い出す。ところが彼らが生きていた時、末端の大衆にまで選挙権が行き渡り、末端の大衆選択までもが民意フィードバックされる民主主義想像するのは難しかったのではないか。たとえば、民主主義の始祖たちの眼中に、立花氏がバカと呼んだ人々はどこまで含まれていただろうか?

少なくとも、ジェファーソン名前を出して合衆国独立宣言で最も有名な一節である "We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal,"を無視するのは看過できません。

このall men (すべての人々)に、大衆シロクマ先生の言うところの「末端の大衆」)が含まれていないと推測するのは侮辱でしょう。もしもよく知らないのであれば名前をあげるべきではありません。

トーマス・ジェファーソンが、いかマスメディアに悩まされていたか("nothing can now be believed which is seen in a newspaper. truth itself becomes suspicious by being put into that polluted vehicle")を知らずとも、

ほんの少しでも興味があれば、ジョン・ロックが人はみな生まれながらにして公平であるが、そのままで不都合なので、人の承認のもと政府を作るであるとか、ジャン=ジャック・ルソーが間接民主制すら否定していたことなど、見聞きしたことがあるはずです。

彼らが、貴族選良市民のみを対象として考えていただろう、末端の大衆シロクマ先生が想定するのが、教育を受けていない人、政治に詳しくない人だとすると、当時の農民奴隷犯罪者等)は考えていなかっただろうと想定して枕詞に使うのは、不適切です。

(その後の段落は、シロクマ先生想像や思いが書かれているので、別に問題は無いと思います

個別選挙結果が未来制度設計材料になっていくのも、民主主義のいいところだ。亀のようにゆっくりと、しかし着実に。ただし、こうした民主主義ドタバタを、ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう。未来が明るいといいですね。

この段落でも、その前段の、民主主義論に関する部分は私自身の主義主張とは異なるが、シロクマ先生の考え方を述べている部分なので良いと思う。

ただし、文脈上「全員参加という民主主義の建前を維持したまま、インターネットが深く介在する場合には"悪い民意"を取り除き、"良い民意"を選び取れる制度設計を、末端の大衆ではない我々が行うべきである」としか読み取れませんが、そういう主張でないとすれば記載を改めるべきです。

(私はそれをアリストラティア(優秀者支配制)だと思いますし、良くないものだと思いますが、主義主張の違いなのでそれについて表明することは良いことだと思います

「ただし、制度設計改善される前の現在の良くない状態を、他国が狙っているかもしれない。改めるべき点は早急に改めるべきだろう」と言う書き方ではいけませんか?

「ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう」というのは、陰謀論と何が違いますか?何を意図して記載したのでしょうか。

未来が明るいといいですね。」というのは、皮肉では無く本心からそう思っているのだとすれば、記載を即刻改めるべきです。

また皮肉を書いたつもりであれば、誰を皮肉ったのでしょうか?今回の選挙に参加した誰を馬鹿にする意図をもって表現されましたか

なぜ齋藤知事パワハラと同じである

シロクマ先生の「インターネット民主主義が加速して良かったですね」という記事は、全体としては皮肉めいた、兵庫県知事選挙の結果を受けての現行の民主主義制度への感想でしょう。

これを、面白おかしものとして読む人がいることは否定しません。(私もホットエントリーにあがってきたので読みました)

ただ、それはパワーハラスメントと全く構造が同じです。

パワハラをする側にとって、されたもの右往左往したり泣いたり病んだり職を辞するのを見て愉快だと思うのと同じだという指摘です。

齋藤知事は、「よい県政をしていきたいという中で業務上指導や注意を厳しくした」と表現しています

知事時代パワハラ問題視した人は、この「業務上指導や注意」の「やり方」を問題視したはずです。性根や意図、背景では無く、手法問題があったのだと認識しているはずです。

愛があろうが、心の底から相手のことを思っていようが、パワーハラスメントに該当すれば、それはやはりパワーハラスメントなのだというのが、これから社会での共通認識で合って欲しいと、自分は思います

その意味で、シロクマ先生の「インターネット民主主義が加速して良かったですね」という記事は、インターネットを利用して投票先を決定した人をバカだと呼び、彼らを選挙から排除すべきである、そうしなければ民主主義は壊れる、利するのは他国だ、という記事になっています

そういう意味で書いたつもりでないのであれば、そう読み取れるようにおちゃらけた書き方をするべきではありません。すぐに改めてください。

バカだと呼んだのは立花であるとか、選挙から排除すべきとは書いていないという、言葉遊びをするべきではありません。本当にその意図が無いのであれば比喩暗喩の使い方が致命的に間違っています

選挙権を持つ国民を、尊重して記事を書くべきです。

もっと言えば、記事全体が記事中に貼られた立花氏と同じことを言っており、そこから一歩も外に出ていません。

制度設計排除すべきでは無いかと暗に書いている分、また「ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう」と記載している分、なお悪いと考えます。それは選良主義陰謀論と具体的に何が違いますか?

そして、バカや犬や猫と同じと言われた側とすれば、率直にそう表明する立花氏に好感を持ち、シロクマ先生嫌悪感を持つと思います。率直さは美徳であり、当てこすりは悪癖です。

なぜならば、立花氏は返す刀で「バカじゃ無くなればいい、キミはいバカじゃ無くなった、立派な選挙民になったんだよ!」と導くからです。

シロクマ先生が、「自分マスメディア一定正しいものだと思っている。それを大きく超える力をインターネットが持つと証明されてしまったようで怖い。こんな選挙結果になると思わなかった」と思うのであれば、そう表現してください。

投票に行った国民を「お前らにはどうせこうやって書けばわからないだろう」という書き方で馬鹿にするのは即刻止めてください。

その積み重ねが、インテリ層への嫌悪に繋がり、わかりやす自分肯定してくれる者への同調に繋がります

よい県政になりさえすればパワハラが許されるわけでは無いのと同じで、民主主義問題だと思う点や選挙への在り方を指摘するのに他者馬鹿にして良いわけではありません。

ブコメについて

別に何を面白がろうが自由だけど、二言目には自浄作用が無いだの、パワハラ現代にはそぐわないだの言っておいて、中身が正しけりゃ表現些末な問題と言う立場をとるなよ。

読み取り方の問題じゃないし、皮肉から何しても許されるとか無いの。そういう表現は、お前らがバカにしているネットde真実と1ミリも変わらねえよ。

兵庫県民が現代穢多非人になってる

兵庫県相手ならパワハラしてもいいということになってしまった。

まあ、そんな重たいものじゃなくても机叩いたり、物投げたりする「程度」だ。

でも、兵庫県民は「生活がよくなるならその程度のパワハラは許容されるべき」って考えらしいので、まあいいだろ。

それとは別に、一生今回の選挙のこと擦って弄り続けることができる。それだけでも十分だ。

ありがとう選挙。やっぱり民意を示してくれるのは最高だぜ!

イチロー氏「データでがんじがらめにされて感性が消えていくのが現代の野球」母校・愛工大名電に電撃訪問で“イチ流”指導 | TBS NEWS DIG

データにがんじがらめってのは野球というかスポーツに限らずだわなー。

自分場合エンジニアだけど、AI全盛の今や「最適解」以外は全部NGみたいな風潮ある。

手段の部分はAI最適化できるけれど、目的の部分は人の手が入る余地があるって部分で似てる感じかなと思った。

イチロー氏「データでがんじがらめにされて感性が消えていくのが現代野球

なろう読んでるみたいで面白かった。「ステータスだけ見て追放されるギルドなんか必要無いよね。俺がギルドを作る!」正になろう

2024-11-19

筒井康隆朝のガスパール』を読んだ

先日の土日にて読了

やれやれ、この作品は実にメタ的な作品である

いや、メタ的というより、メタのもの作品主題といったほうが正確だろうか。

読者を小説の中に引き込み文字通り「参加させる」という構造を持つ『朝のガスパール』は、筒井康隆80年代に書き上げた、いわば小説のもの定義に挑んだ挑発的な一冊であった。

あらすじ、といってもこの作品に「あらすじ」を語るのは難しい。

冒頭から読者は「読者」として物語に巻き込まれる。

物語というよりも、筒井康隆が直接話しかけてくるような感覚だ。

そして、そこには作者と読者の境界曖昧になる仕掛けが満載されている。

章ごとに視点が切り替わり、どこからどこまでが現実でどこからどこまでが虚構なのかが次第に崩れていく。

その結果、「これは読者が読む小説ではなく、読者が小説構成する存在である」という、今で言うメタフィクションの極北にたどり着く。

感想としてまず思うのは、当時としては斬新だっただろうな、ということだ。

しか現代の目で見ると、どうだろう。

こういった作品現代で言えば、さほど珍しいものでもないだろう。

要は安価に応えるSSだ。

そう言った意味でいえば『朝のガスパール』はインタラクティブ物語の先駆けとも言えるが、逆に言えば現代ネット文化における安価スレのようなものと大差ないとも言える。

それでも、この作品をただ「古い」と切り捨てられないのは、やはりその「メタ性」の鋭さにある。

筒井康隆文章は、単に「読者参加型」を装うだけではなく、小説のもの存在意義を問う仕掛けになっている。

そして、これが面白いのは、その仕掛けが自分が今何を読んでいるのか」にまで疑問を投げかけてくる点だ。

たとえば、読んでいる途中で「あれ、これ本当に小説なのか?」と思わされる瞬間がある。

それは小説登場人物が読者に話しかけたり、読者が物語の一部であるかのように描かれたりする場面だ。

その瞬間、読者である私は「あ、この作品は私の読み方自体をも含めてデザインされているんだ」と気づく。さらに、この文章を書いている私もまた、『朝のガスパール』の読者としてこの文章を書いているのであり、ひいてはこれを読んでいるあなたも、私が書いた文章の読者としてこのメタ構造の一部を担っているわけだ。ややこしいけど、わかる?

まり筒井康隆が描いたメタ構造は単に『朝のガスパール』の中に閉じていない。

それはこのエッセイにも、そしてこれを読んでいるあなたにも拡張されているのだ。

このことを表現するのに、わざわざ「メタの中のメタ言及するメタ」などと直接書くのは野暮というものだろう。

ここではあくまでそのメタ的な構造を借りつつ、読者がその構造意識する形で展開していきたい。

最後に、ひとつだけ言わせてほしい。『朝のガスパール』を読み終えたとき、私は奇妙な満足感を覚えた。

それは「小説を読んだ」という感覚ではなく、「小説という空間で作者と会話をした」という感覚だった。

今こうして私が書いた増田を読んでいるあなたもまた、この瞬間、私と会話をしている。いや、あなたがこれを読んでいる時点で、もう私はここにはいないのかもしれないけれど、少なくともこの文章を通して私たちはどこかでつながっている。

そう書いた瞬間、私はふと、この「つながっている」という感覚について考え始めた。いや、正確に言えば、私がここで「つながっている」と書いたとき、その言葉を読むあなたの頭の中で何かが動き始めているのだと考えるべきかもしれない。例えば、今この瞬間、あなた脳内には「この文章を書いた人は何を言いたいんだろう?」という疑問が浮かび、あるいは「まあ、そういう小難しいことを言いたいだけだよね」と呆れた気持ちが湧いたかもしれない。

でも、それもまた一つの接触点だ。私が書いた言葉が、あなた意識に波紋を投げかける。それがポジティブものであれネガティブものであれ、私たちは今この瞬間、物理的には別々の場所にいるにもかかわらず、思考交差点に立っている。これを不思議と思わずして何を不思議と思うだろうか?

ここで気づいてほしいのは、この文章のものが橋のようなものだということだ。私が言葉を選び、それを並べ、送り出す。それを受け取るのは、何千キロ離れたどこかの机の上に座る、見知らぬ誰か。あなた。私がどんな顔でこの言葉を綴っているかあなたは知らない。あなたがどんな顔でこの言葉を読んでいるかを私も知らない。でも、それなのにこの文章あなたの目に届き、私はこうしてあなたに話しかけることができる。

そしてここで、私はある種の実験を試みたいと思う。この文章が、ただの文章のままで終わらずに、私という存在あなたという存在が、少しだけ近づくきっかけになったらどうだろう。例えば、あなたがこの文章を読んでいるときに、なんとなく「書いているこの人、なんだかしつこいな」とか「もう少し簡潔に言えないのか」と思ったならば、それはすでに私があなたの中に存在しているという証拠だ。言葉を通じて、私の思考あなたの中に入り込んでいるのだから

もちろん、私はあなたの顔を知らないし、声を聞いたこともない。あなたコーヒーを飲みながらこれを読んでいるのか、満員電車スマートフォンを覗き込んでいるのか、それとも仕事の合間にひっそりと目を通しているのかもわからない。でも、どんな状況であれ、あなたがこの文章を読んでいる今、私たち出会っている。あなたの目がこの文章を追い、あなたの脳がその意味解釈する。それは、私の言葉あなたに届くことで初めて成立する行為だ。

ただ、それを言葉で「つながっている」と表現すると、どうしても味気ない感じがしてしまう。だからこそ、この文章を書いている私が、あなたの中に何かしらのイメージを植えつけたい。例えば、私が今、画面越しに手を伸ばし、あなたの目の前に現れているとしたらどうだろう。いやいや、そんなのはただの妄想だと思うかもしれない。でも、その妄想の中で、私とあなたが初めて握手を交わしたとしたら、それはただの文章を超えた「出会い」だと言えるのではないだろうか。

──だからこそ、ここで握手をしよう。

これを読んでいる「増田」という名のあなたに。

読者として、いや、このメタの一部として。

ありがとう。そして、また。

どうか健やかに

追記】「民主主義の底が抜けた」って言うけど「党派性」が腐らせた

追記は下に─

立花氏が今回生み出した物語によって、左派がこれまで積み上げてきた価値観ストーリーはほぼ崩壊したよね。例えば「若者投票率が低いのは政治に無関心だから」っていうお決まりセリフ。結局それをひっくり返して「民主主義の底が抜けた」とか言い出したら、そりゃ支持もされないわけだ。実際には民主主義じゃなくて、マスメディアの腐った部分がバレただけなんだろうけど、それも結局似たような話だよね。

で、左派が次に頼ったのが「陰謀論が原因だ!」っていう批判。けどさ、この「陰謀論批判」がすでに陰謀論と見分けがつかないレベルになってるのが、もうギャグしかないというか。陰謀論否定するために自分たち陰謀論っぽくなるって、それ誰が信じるの?って話でさ。こうなると中間層の多くは「何も信じられない」に行きつくしかないわけ。

というか、現実問題としてもう「何も信じられない」状態だよね。

メディア全体の信頼がぶっ壊れた結果、すべてのメディア等価になったんだよね。マスメディアソーシャルメディアも同じ。どっちが信頼できるかなんて、個人の好みとかそのときの気分で決まるレベル。これを引き起こしたのは、マスメディアの「証拠の扱い方」や「党派性」。言い方変えると、都合のいいときだけ証拠を重視して、あとは適当に流してきたツケだよね。

そこに「反マスコミ」という新しい物語をぶち込んで、実際に結果を出してみせたのが立花氏なわけで。これがすごいのは、マスメディア価値破壊しただけじゃなく、「マスコミに味方される=反マスコミの敵」って構図を作り出したこと。これはけっこうキツいよね。今後、どの陣営も「マスコミ寄り」だと思われるだけで不利になるんだから

で、信頼を得るためには証拠必要、っていう考え方が実は強くなってるなんて言えちゃったりもするんだよね。例えば「斎藤知事選挙期間中に誰の悪口も言わなかった」みたいな清廉さを評価する声がある。でもそれに対して「いや、立花氏にアウトソーシングしただけじゃん」とか言う反論があるわけで。ただ、それも結局「証拠がないなら言うな」で終わる。状況証拠じゃ誰も自分意見を変えるには至らない時代なっちゃったって言っても良いかも。まぁ、全てにそれが適用されるなら限りなく正しい姿勢なんだけどね。状況証拠しかいから信頼しないという判断が、今は元局長既得権益からクーデターだという状況証拠しかないことを信頼しない、という判断パラレルなっちゃうし、百条委員会県議事務所に押しかけたのも、斎藤知事は同じような批判に耐えてきたって物語で十分に相対化できちゃうわけだ。

まぁ決定的な証拠があることのほうが少ない! なんて言っても、リベラルは得てしてその辺やってきちゃったでしょう? 不倫問題とか、松本人志とかまさにさ。全部相対化できちゃう

党派性説明がついたら終わりだよ。

んで、リベラル理念派には特に厳しい話だよね。情報が多すぎる中で、全部を精査するなんて無理ゲー。でも、その無理ゲーから目をそらして「とりあえずマスメディアはそれなりに正しい」ってやってきた結果が今の状況で、ツケ。だから、もう「全部陰謀論だ!」みたいな極論に逃げ込むしかないわけ。

でさ、こういう状況だと結局「何もわからない」って結論なっちゃうのが普通だよね。判断基準が壊れちゃってるから最後は「なんとなく身近に感じるほう」を選ぶしかない。そこに理屈なんていらないし、むしろそういうふんわりした感覚が今の時代にはマッチしてるのかもしれないね

良い感じに発酵してきてるんじゃない?

追記1─

"SNS経由で根拠不明の主張を鵜呑みにした有権者が続出している事実を前に「状況証拠じゃ誰も自分意見を変えるには至らない時代なっちゃった」と書く増田こそ「都合のいいときだけ証拠を重視」してませんかね? ご冗談を"

素晴らしい指摘! そのとおり、まさにあなたの言う通り『都合のいいときだけ証拠を重視』するんだよね。

そしてそれがオールドメディアソーシャルメディアも大差ないと示されて、相対化されてしまたから、信じたいものを信じるときにだけ状況証拠ウィンドウショッピングして、あとは確固たる証拠とだけ真っ向勝負にならなければ良い。

から自分意見を変える』には至らないと書いてみたよ! 説得や歩み寄りみたいなことにはならない。まさしく裁判みたいな形で確固たる証拠を突きつけない限りは意見を変えたりしないってこと。だって党派性でそうしてきたのが今までなんだからさ。

とても現代的でいいと思わない?

追記1ここまで─

追記2─

"導入部分の党派性が強くていまいち釣れていないような。"

かに思ったより釣れなかったけど、面白いコメントは見れたからまぁいいかな。できればもっと反論して欲しかったけどね、切実に。

"支持してるかどうかはっきり言わないまま冷笑的に今回の結果を語るのって、ずいぶんかっこ悪い話だと思うよ。"

こんなにまさしく「党派性」全開のコメントある? 笑っちゃうんだけど。

支持してるかどうかはっきり聞いた上で、その内容読んで決めるよ~みたいなのって先入観持ちたいだけなんじゃないの?  それって、どういう立場なのか逆に聞いてみたい、なんて訪ねてみてもいいよね? 聞かれちゃったし。

一応俺の立場聞きたいなら教えてあげるけどさ?

悲しいことに、俺の意見はほぼ坂下知事の言ってることと一緒なんだよね。「たとえ公益通報が体を成しきれていないと考えられたとしても、特に自らの問題について言及しているそれを、即決で処分にまで至らせたのは明らかに行政の長としての資質を欠く」ってやつ。

俺、橋下元知事って正直苦手なんだけど、今回だけは残念ながら言ってることが一致しちゃったんだよね。

あと付け加えるなら、「斎藤知事が再選したこと自体兵庫県から見て県政としては良かったとしても、公益通報保護っていう法の実現性が後退する可能性が高く、残念な結果」だと思ってる。

その上で本来なら冷静に相手意見判断しどのような要素を考慮に加えてきたのか、いかなる理由で再選に至ったのか改めて真剣に考え直して、相手がどのような動画を見てきたのかを調べて、どのような要素が軽視されてどのような要素が重視されたのかを改めて精査して、状況証拠だけでは説得しきれないという現実直視してその上で自分たちができることを考え直す必要があると必死に考えるべきだろうに、なんで愚民だとか愚かだとか切り離して勝手に考えて良くしようということも考えずヒトラー民主主義の敗北だなんて仲間内気持ちよくなってポエムに浸ってリポストされていいねされて最後には陰謀論じみた何一つ精査してもない印象論に堕した対陰謀論なんてブチ上げてそれでいいと思ってるなら増田冷笑したくもなるよ。しろくまセンセもあんな感じだったし。

アメリカ選挙から何か学んだんじゃなかったの? ってなるだけ。


これで満足?

追記2ここまで─

anond:20241113142311

現代リベラリズムロールズ正義論を経典の一つにしてるからあってる

自分がどのような状態になってもをリベラルが想定してるのは当然で

無知のヴェール説明としては下手くそだけど正しい

anond:20241119172350

精神障害者でも高学歴になることは可能なのだから

学歴そいつ正気である事を示すタグにはなれないんだろうな

これだけ多くの人間デマ陰謀論にハマってしまうのだから

最早現代では正気である事ですら一つのステータスと言える

兵庫知事選の話で案の定Z世代(笑)文句言われてるけど、Z世代パワハラ的な視点で見ると全員どんぐりの背比べである

全員40代後半以上じゃ現代的な倫理観なんて誰にも望まない 課長以上クラスのオジオバが今さらまともになることなんて期待しない しか政治家になりたがる人なんてね 素行はどうでもいいと思うのもわかるわ

anond:20241118193829

>じゃあ不倫に対して各インフルエンサーが何も言えなかったのはなぜかと言えばそんなの簡単で、ある意味現代価値観から言えば不倫と今回の問題は『関連がない』と非常に訓練された目で見てしまうからだろうね。増田が言う通り、他の有権者から見れば十分に着目するべき視点だったにもかかわらず、それについて調べるということが『関連がなく』『問題本質から逸れていて』『価値観として言及するべきでない』という価値判断から、触れることができなかった。価値観的にはそこを突けるのは一種バグ技というか、リベラルが負け続けているのもだいたいこのあたりの脆弱性理由だと思う。

誰かも言ってたけど、例えば草津の件。

「たとえ新井元町議が大うそつきのエセ被害者だったとしても、議会における野次をもってセカンドレイプ認定することは正しい」みたいなロジックあるじゃん

政治的には正しいロジックなんだけど、世間一般直感からすると、まあ通じない、伝わらないよね。

果たしてこの場合アップデートされてない野蛮な愚民が悪いと言っちゃっていいのか?そこから考え直した方がいいのかもしれない。

高潔バラモン掟を教条化して人間お気持ちに寄り添わなくなったら、まあ普通アメリカみたいになるんだよ。

2024-11-18

民主主義を虚無に捧げないために――印象批評の試み

 これからお目にかける雑文は、データにもエビデンスにも専門知にも基づいたものではない。

 

 むしろ市井の人間の有限(どころか乏しい)観察と未熟な想念、そして「何か書かなければならない」という衝迫のみを支えとしている。昔風に言えば標題のとおり印象批評だし、現代風に言えば単なるお気持ちである

 それでも、虚言や流言罵詈雑言猖獗を極めるクソッタレインターネットへ供する一服の清涼剤たらんという意志を持って草した文であり、そのように読まれることを希う次第である

 

 以下に続く文章は、主語デカすぎるだの、事実認識がお粗末だの、構成がなってないだの様々な批判に晒されるであろうことは最初から織り込み済みである。いずれも筆者の能力の至らなさに起因するので「ごめん!」としか言いようがない。

 もっとよりよい認識や知見の給源は他にあると思うので、それらに接するのが一番いいと思う。そのような批判を恐れずにあえて書く理由は、まさに標題で仄めかした「民主主義を虚無に捧げてはいけない」という信念を擁護するために自分でできることをしようと思った、ただそれだけである

 この文を書こうと思った直接のきっかけは昨日の兵庫県知事選挙である

 つい1週間ほど前に太平洋の向こう側でトランプ当選し、「MAGAくんさぁ……」という軽侮の念を抱きつつも、どこか他人事の如く受け止めていた自分がいた。

 しかし、メディアネットパワハラ野郎だの私利私欲を極めたゴミだのサイコパスだのさんざん叩かれた斎藤元彦がメイク・ヒョーゴ・グレート・アゲインした途端、愚かな民衆なる集合は爆弾ゲームよろしく我々にヒョイと手渡されたというわけだ。

 

 尤も、自分最初認識そもそも間違っていたというのは認めるにやぶさかでない。要は愚かな民衆も、賢明民衆もどこまでいっても抽象概念で、そのような概念で語れる事柄には限界があるという単純な原則をしばし忘れて物を考えがちというだけのことだ。

 このような間違った考えで一喜一憂しているのは筆者だけはないらしい。

 選挙結果が出てから兵庫県知事選立花某にハックされたということや、あるいはネット真偽不明の奇々怪々なフェイクニュースを浴びせられて正常な判断ができなくなった結果だとして、SNS選挙の結びつきを否定的に見ている向きがある。

 もちろん、我々はアメリカ大統領選ロシアイランが介入しようとしたという事例を知っている。ならず者国家裏工作を挙げるのが極端だとすれば、ケンブリッジアナティカのような倫理観の欠片もない連中がいることも知っているはずだ。

 しかし、現段階の情報でもって、兵庫県民は騙されたのだという前提で話を進めるのは問題だろう。それをもってしても社会の底が抜けたとか、もはや民主主義は終わりだという悲観的で短絡的な発想に至りがちということを見ても、この種の作業仮説は民主主義有益どころか有害であることは明らかだ。そういう人たちがエピストラシーを実現するのか、リベラル思考をもった等質的市民たちによる思想ゲーテッド・コミュニティを作るのかは知らないが、それはきっと非民主主義的な操作で行われるものではないか。筆者はリベラル嫌いだが、それでも自分たちの理念に後ろ足で砂をかけるような彼ら・彼女らは見たくないというのが嘘偽らざる思いだ。

 

 各種報道を見る限りでは、兵庫県民は普通民主主義国家における市民と同じくらいの能力感覚を持ち、それなりに各候補者比較考量した上で投票に臨んだと考える方が現実に近い、と筆者は考えている。

 ここでは斎藤や稲村の政策についてどっちがいいとかいうことは考慮埒外に置くが、少なくとも「何かいじめられててかわいそうだから!」とか「メディアの一辺倒な報道気持ちいから!」だけで110万票も取れるんだとしたら、残念ながら民主主義以外の選択肢有効性も検討すべき時期が来ているのかもしれない。もちろん、実際のところそうではないのではないか、というのが筆者の見立てだ。

 何が斎藤元彦に再び県庁の敷居を跨ぐことを許したのか。それを考えるために補助線を引きたい。もちろん、論理的必然性をもった操作ではない。何故ならこれは印象批評にすぎないので。

 少し前に国民民主党の玉木代表不倫問題が報じられた。不倫責任の取り方は様々だろうが、代表を続投しこれからも頑張っていくということが比較的多くの人に受け入れられているように思った。

 その方策の是非はともあれ、手取りを増やそうというストレートな訴えが若者を中心に多くの支持を広げていて、それに水を差すような報道を苦々しく思っている、あるいはある程度「相対化」可能事柄だとして脇に追いやってもいいという雰囲気があるように筆者の目には写った。

 筆者個人はこの種の思潮には到底賛同できない。不倫するような人間に増やしてもらう手取りなんぞはこちから願い下げである議員辞職するまでではないとしても、代表を辞任し一兵卒として政策の実現に邁進するということだって責任の取り方としてありえたのではないかと思っている。

 どれだけ政策を懸命に訴えても、政策を進める当事者の「人品」というのは、決しておざなりにしていいものではない、と個人的には思う。実際、自民党政治資金収支報告書記載問題に端を発する「裏金」逆風はそのような考えからまれたわけだし、与野党伯仲という結果に実を結んだと考えれば、個人的かつ奇異な考えではないとも思う。であれば、妻子ある男性が別の女性懸想することを問題視しなくていいのだろうか(妻子にとっては経験しなくていい嫌な出来事であるし、相手方女性が公党の代表者と不倫したことがバレればその社会的地位をも脅かしかねないという帰結を予想できなかったのであれば、政治家どころか責任ある社会人としても御しがたいレベル不見識なのではないか。)。

 

 とはいえ、上の筆者の考えは少数派に属するものだと思う。不倫家族当事者の間で解決されるべきでダメだったら家庭裁判所へどぞ、というような私的な話で、こんなことのために俺たちの手取り台無しになってたまるか、玉木はきっちり反省してその後頑張れという意見大勢を占めているのではないか

 そしてこれは、斎藤公益通報制度度外視して告発者を袋小路に追い込んだことや、トランプが弄する信じがたい人種差別的・性差別言動によって当事者が傷つけられることを等閑視するメンタリティ相通ずるものがあるのではないか

 もちろん、そういった非倫理的な行いに諸手を挙げて賛成するダークトライアドガチ勢のような人間ばかりではないだろう。しかし、それはそれとして、というような相対的態度をとらざるを得ないのは、言い換えれば自分たちにとって焦眉問題別にあるということにほかならない。

 このような相対化を導くに至る根源的な不満の存在それ自体は目新しい指摘でもなんでもない。ラストベルトの労働者も、閉塞感を感じてきた兵庫県民も、手取りが増えない若者のいずれも「古くて新しい問題」であり続けている。目新しいことでもないのに、定期的にこの種の話が出てくるのは、解決が困難なことの証であるそもそも解決可能な話なのか? 全てのステークホルダーに満足を与えられるほどのリソースがあるのか? 自分たちの満足のために誰かにふるわれる不正義もやむなしとする世界で、オメラスから立ち去る勇気を持つ者たちが果たしてどれだけいるのか? 我々はずっとこの問いかけの中に閉じ込められているし、この困難さを抱きしめることが民主主義要諦なのかもしれない。

 この文では、貧しくあってもせめて人並みの倫理ぐらいは持てよバーカ、とか、人民の悲しいまでの想像力の欠如を嘆かん、という倫理的説教や慨嘆を述べ立てるつもりは毛ほどもない(そういうリベラルへの嫌悪感を筆者は多くの人と共有するものである。)。政治家自分たちの方を向いてほしい、助けてほしいというのは当然だし、その願いが届くのが民主主義のいいところではないだろうか。

 だが、その時、もしかしたら誰かを犠牲にしているのかもしれないという一抹の不安は感じてほしいなとは思っている。それが望蜀に属する話だとしたら、民主主義の皮を被った椅子取りゲームを続けるべく、我々はいつ鳴りやむか分からない音楽に耳をそばだて、減り続ける椅子を横目に生きていくのだろう。これがいいとは、筆者は決して思えないが。

 

  「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。」

 大人になってからのび太結婚前夜』を改めて見た時に、「なんて当たり前のことを言ってんだ。よっぽど褒める言葉が見つからない時用の言葉って感じだ。」という冷笑的な感想を持った。しかし、今ならのび太が全くもって稀有人間であったと痛感せざるを得ない。

 立花が言うように元県民局長がどんなに酷いことをしていても(逆にどんなにいいことをしていても)、斎藤拙速かつ強引な統治手法(このことは必ずしも立証されていないが、その後の百条委に至るまでの対応を見ればそう思わざるを得ない)に問題意識を感じて声を上げたこと、そして斎藤がそれをこれまた拙速かつ強引に対峙し、県政停滞のハードランディングに至ったのとは別の問題である。その対応に関する法的な問題などはこの際措くとしても、百条委で問われた道義的責任を「わからない」と述べた斎藤が、再選で得た民意を盾にこの問題を「相対化」しようとする危険性がないとは決して言えないだろう(当選後、記者団に対して「知事部局として一緒にやっていくのは公務員としての責務」と述べたのは、県職員に対して「俺は民意を得たんだからお前らがついてくるのは当然だよな?」と釘を刺した形とも言えるし、先行きは不透明だ。)。

 斎藤投票した人は、せめてそういう状況が棚上げになったままであることを認識した上で、自分たちの居心地の悪さに素直に向き合ってほしいと思う。(元県民局長が死んだのは別の理由であるという卑劣矮小化をするのではなく、)たとえ拙速で強引でも斎藤自分たちにとっていい兵庫県を作ってくれると信じて投票したのだとすれば、その結果誰かが痛い目を見ることになるかもしれず、それはひょっとすると顔見知りかもしれない。その時、その人の不幸を悲しみ、その人の幸せのために何かできるだろうか。そういった考えを頭の片隅に置き続けることが、民主主義レジリエンスを形作る重要な要素だと筆者は考える。清廉潔白完全無欠な政治家存在しない世界で、民主主義を選び取った全ての清廉潔白完全無欠でない我々にとって、「それがいちばん人間にとってだいじなこと」ではないだろうか。

 日々の生活に汲々として自分人生にやりきれなさを感じながら 「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむ」というのはそうそうできることではない。とはいえ、できていないなと思うだけでも、「あの時できなかったから次こそは」という思いにつなげられるかもしれない。

 

 この文は、「あの時できなかった」筆者が「次こそは」という気持ちを奮い立たせるために書いたものである

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