はてなキーワード: 挫折とは
回避とHSPの併発って言われると、それもう回避じゃなくてNPDの過敏型が正体じゃないの?
ㅤ
ㅤ
ㅤ
回避傾向を持つ群
騒々しく見栄っ張りで、傲慢で人を利用するという明確な自己愛性パーソナリティ障害の人物像とは対照的に、過度に傷つきやすく、失敗を恐れ、恥をかかされることを心配するために人前に出ることを避ける過敏なタイプの自己愛性パーソナリティの人々がいる[48]。彼らは周囲の人が自分にどういった反応をするかに非常に敏感で、絶えず人に注意を向けている。批判的な反応にはとても過敏で、容易に侮辱されたと感じる。人に非難されたり、欠点を指摘されることを恐れ、社会的に引きこもることで葛藤を避け、自己の万能世界を築きあげようとする一群である。自分は拒絶され軽蔑されるだろうと確信しているために、スポットライトを浴びることを常に避ける。表面的には内気で抑制的に見えるが、その実、精神内界には誇大的な幻想を抱えており、自己愛的活動の大部分を空想の中で行い、それを人に知られないようにしている。彼らの内的世界の核心には、誇大的で顕示的な秘められた願望に根ざした、強い羞恥心がある。
一見すると慎み深く、ときに深く共感的に見えることもあるが、それは他者に純粋な関心があるように見せたいという彼らの願望を取り違えているだけである。彼らは自分の心的防衛の最終段階にある抑制的な行動しか目に入らず、自分のことを恥ずかしがり屋で自己主張ができない人間であり、当然受けるべきものも得られない性格だと考えていることがある。現実には持続的な人間関係を持つことが出来ず、共感性の欠如を示し、内に秘めた誇大的な自己像は慎重な面接を繰り返していくことで徐々に明らかになっていくのが、潜在型のナルシストの特徴である[48]。
アメリカ精神医学会は精神障害の診断と統計マニュアル(DSM)において、自己愛性パーソナリティ障害の人物は批判や挫折に伴う傷つきに非常に敏感なため、社会的ひきこもりの人々にも見られることを報告している[49]。グレン・ギャバードは、潜在型の自己愛性パーソナリティ障害の人々は回避性パーソナリティ障害や社交恐怖と多くの点で関連していることを指摘している[50][51]。また牛島は、現代の操作的診断基準(DSM)においては顕在型の傲慢なタイプは自己愛性パーソナリティ障害と診断されるが、潜在型の過敏なタイプは回避性パーソナリティ障害(あるいはスキゾイドパーソナリティ障害)と診断されてしまうことが少なくないと述べている。これらは精神力動的には同じもので、単なる表裏の問題に過ぎず、背景にある自己愛性の問題を把握することが必要であることを指摘している[52]。また丸田は、典型的な症例は無関心型と過敏型の特徴のどちらかを示すが、臨床的にはほとんどが両者の混合型であり、ひとつの症状軸である「他者の反応に意を介さない vs 他者の反応に対して非常に敏感」を取り上げても、その反応は振り子の両極のように大きく揺れ動くのが特徴(健康な人は揺れが少ない)という点を指摘している[53]。現実の自己愛性パーソナリティ障害は、ギャバードの分類した無関心型の極から過敏型の極へと至る線上のいずれかにプロットされると考えられる。
自己愛性パーソナリティ障害は、対人関係における搾取的行動、共感性の欠如、激しい羨望・攻撃性・自己顕示欲という諸々の特徴を示す[57][58]。彼らの持つもう一つの側面は、その傷つきやすさである。意識的なレベルでは、それは無力感、空虚感、低い自尊心、羞恥心に由来するものである。それは彼らが求めたり、期待する支持が与えられない状況や、自己主張が不可能なために退避するような状況において、親しくなることを回避するという行動で表現されることがある[58]。自己愛の病理は軽症から重症まで連続的な広がりをもち、その自己表現形式も多様である。
単なる憶測にすぎないが、田舎でそれなりに立場のある親の子どもは、ガキのころに天狗になりやすい。
しかし都市部の大学に出たときに自分の実力を思い知る。今まで見えていたものは単なる幻想で、自分など大したことはなかったと。ここで非常な挫折を経験する。
「私がいちばん馬鹿」のようなポジションになってしまうとその中でもより挫折しやすい。これは都市部の私立高校でも発生する。
昨今では、地方と東京の断絶が進み、学歴差も大きくなっている。田舎しか見たことがない子どもは、東京の強大さを全く知らないのに「自分がナンバーワン。少なくともだいぶ優れている」と思っている。自分の田舎を100倍したものが日本のすべてだと感じるのだろう。だから、位置的にもそのようになるのだと感じるのは自然なことだ。「日本」と「アメリカ」の関係もあるが似たようなものだ。
こうした子どもが首都圏に行くと自分が味噌っかすであることを全身全霊・魂レベルで経験することになる。そこらへんのどこにでもいる凡愚とされる。準備などしていなかった衝撃である。年々、この落差がどんどん激しくなっているように思う。
彼らは「地元の名士」の子どもでもなかったりする。地元の名士は何かと東京と繋がっているものだからそういう情報が入ってきやすいが、彼らはそういう情報がなく、表面的な文化の部分でのみ都会を理解しているのである。これはしかし原理上どうしようもないことになっている。
彼らのほとんどは挫折によって苦しみながらも自分の立場をなんとか確保して成長していく。とくに、若いころから苦い経験を飲み込んで努力を積み重ねてきた人間は、問題を抱えつつも人格的にも能力的にも徐々に成長していく。こうした人間は適応し、確固たる居場所を獲得する。そういう人々が家臣団として東京周辺にザッと住んでいるのだ。城下町のように、家来として東京の中心地を囲んでいる。そして主君のお望みの通りに馳せ参じるのである。また、各々の人生を歩む。よく成功しようとしたい者は海外に出る。海外というのは「アメリカ・イギリス・EU」などのことだ。ここ最近は主君をアメリカとみなしているのである。長いものには巻かれろということだ。
しかし、大した努力や積み重ねもなく、今まで1番を獲得し続けてきた子や、親から1番になること、1番でなくともある程度優位な立場を得ることを強いられ続けてきた子、強制的にレール上を歩かされてきた子は、ここで強烈に挫折を味わい、脱落していく。「挫折」と表現されたくすらないかもしれない。ちっぽけなプライドゆえに「挫折」と捉えられない。「挫折した」のではなく、「今も挫折し続けている」のだ。立ち直る術を知らない。
「本気を出してないだけ」「時代が悪かった」「環境が悪かった」と、なんとかして知性化という合理化を図り、自分の心が折れていることを観測できない。もう耐えきれない。心を捻じ曲げようとする。「お前ぐらい勉強ができるものは無限にいるぞ」と受け入れられない。そのような「田舎」など、全国で見ればほとんど無限にあるのだ。足軽にもなれないような実力なのに、身分は家老ぐらいあると感じている。穢多・非人程度の扱いをされるのは、到底受け入れられない。
自分を知らないし、他人のことも知らない。ただただ軽視されることに耐えられないのである。第一、もはや身分が違うからといって人を軽んじていい世の中ではない。ますます生きにくくなる一方だ。ポリティカルコレクトネスとはそういう流れだろう。
生きている意味とは何かわからない。親もまた、その挫折を真剣に受け止められない。立場が違いすぎるがゆえに、わかってあげることができないのだ。わかってくれるような親ならば、初めから違った教育をしている。
彼らは、性格も歪んでいるために、友人関係を結べない。「バカで無能で愚図でおまけに性格も悪く、カッコよくも可愛くもなく、一人で生きる力も無いし、人のために何かすることができず、依存性が高く、他の周りの人たちよりも恵まれた環境なのに文句ばかり言う割に、他人の助言を聞き入れもしない」という、どうしようもない子どものできあがりである。何者かになろうとしていると表現されている。アイデンティティの崩壊がある。すぐそこに救いはあるのに、自らが軽んじている相手に頭を下げて敬意を払うことができない。この私が。屈辱だ。なぜ私がこんな目に。私は軽蔑などされるべき対象ではなく、人を一方的に軽蔑しても良いはずなのに、なぜ人は私を軽蔑してくるのだろうか。なぜ人は精神を蝕んでくるのか。
わかっている人でも、これを鋭く指摘してはくれない。下手に関わって逆恨みされたくはない。全く無関係の嫌な奴の精神の奥深くを抉ってもメリットなどないのだ。すぐに離れていくことだろう。そもそもあまりに距離が遠すぎて、そういう人に出会うことがない。ただ運のみである。そういう運命の人がたまたま自分の近くに来ることは少ない。理解のある彼くん、私の王子様、ぼくの女神さま、オタクに優しいギャルなど。
大抵、こうした子の親は両親とも毒親であり、子どもはアダルトチルドレンである。
そして親にそこそこの金があれば、脱落しても引きこもりをすることができる。
自分がゴミクズであることを受け入れて、セルフネグレクトに邁進する日常を選択できる。幸福だ。絶望という名前はついているが、幸福で穏やかな毎日を送ることができる。
何をやっても無駄なのだという学習性無力感と精神の麻痺。突然湧き上がってくる希死念慮。荒廃した生活。死ぬという選択が取れない優柔不断さ。他責的・他罰的な発言。努力をしようと「学問」に活路を見出すも、それをどう活かせるのかは未知数であり、どうすれば生きることができるのかはわからないのだ。学問は決して救わない。機械的人間を大量生産する教育システムそのものが時代遅れなのである。経済の硬直化と後進性と長老支配。学問の民主化により、昭和初期の三流エリートぐらいの知識があるだけでは、生存には足りないのだ。自分の力での生き方はわからないのに、生存自体はし続けることができるという矛盾。欲が無い。欲を持つことができない。
そして、そうした努力も長くは続かない。学校の勉強ぐらいしか知らないのだ。狭い価値観ゆえにそれしか道がないと勝手に思い込んでいる。やがて意味がないと気付くのであろう。容易にやめてしまう。簡単にたどり着けるところまでやったあとはすぐにやめてしまう。見下していた賤業には就きたくないという都落ちを拒否する愚かなプライド。山月記で何を学んだのだろうか。そしてある日、その「賤業」にすら就けなくなる。精神は子どもなのに、体だけはしっかり老化していく。虎にすらなれないのだ。
親に中途半端に金があるのが厄介である。親は、償おうとする。子もときには努力しようとする。それでもうまくいかないし、近所は理解しない。何か精神的に異常なのであろうという、全く異なる価値観によって蔑まれる。それが村社会というものだ。
親に金がなければ、生きていくために自力で仕事につく他ない。首都圏で揉まれ続ければ、やがては苦しみながらも自分の生きる場所を確保できるだろう。
しかし、ただ親元で小さな世界で何年も何年も閉じた生活を送っていると、そうした道も閉ざされる。貴族的な生活。放蕩、放縦。嫌悪している相手に依存しているという忌避感。
年齢の数値は淡々と増えていく。やがて手遅れそうなことに気付くのであろう。
なんなのだこの人生は。なんなのだこの世の中は。許しがたい。テロリストたちへの深い共感。
人は言う。「自分が招いたことだ」「自己責任だ」と言う。この世には悪しかいないように見える。悪辣な社会の中で自分だけが虐げられている。他人に「自己責任だ」と言う者もまたコンプレックスを抱えている。「お前が悪いのだろう」と言いたいのだ。「お前の自己責任だ」という言葉は、「俺が悪いとでも言いたいのか?」の裏返しだ。
他人は楽しんでいるではないか。どうして私が苦しまなければならないのか。
異世界かもしれない。異世界に行けば、愚かな民たちを嘲笑い、自分が正しく認められる世界に行けるのではないかと、光を見出す。
更に狩られているだけなのだ。その精神は看破しているぞ。ただの餌だ。空想の世界へようこそ。現実を直視できない。現実はどうしてこう苦しいのか。
しかし、現実は「そんなどうしようもないものではない」ということをまだ知らない、という点が彼らにとっての最大の不幸である。価値観そのものがどうしようもなく古いのである。
自分がどうしようもないダメ人間だという真実をすべて受容して、それを打ち払おうと一歩一歩踏み出すことでしか道は開かれない。外に出て、本を読むなど世界を広げれば良い。また、生活パターンを変える。思考を広げる。それが本来の学問というものだ。
人材は不足している。別に自分はそういう人物なのだから仕方がないのだ。でもそれを、自分で変えようと進み続けることで自分の人生が拓かれる。ニートのままでも別にいい。全然変わらなくてもそれはそれで仕方がない。
本来、絶望する必要はないはずなのに、どうしても絶望したいのだ。能動的に幸福になるために受動的に絶望を選択している。
絶望することで、「ハンデを負っているのにここまでできる自分はすごいのだ」と思いたいのだ。セルフ・ハンディキャッピングという。
そうではない。より強い絶望を選ぶべきなのだ。能動的に絶望を選ぶことで、受動的に幸福になれるのだ。自ら絶望しなければならない。今より苦しめば、今より苦しまなくなる。
苦しみからずっと逃れようとして「楽な苦しみ」を選び続けているだけなのだ。世間はそれを看破して「楽でいいね」と言っている。世間側のイラつきもある。
もしくは、やはり目を閉ざして、元の穏やかで苦しいメルヘンワールドに戻るかだ。知らぬが仏という。こんな偏見にまみれた文章などくそったれだ。せいぜい凡人たちは、社畜を頑張れば良いさ。
教育ママも、また、気をつけなければならない。教育ママのコンプレックスは、子どもを愛玩動物のように扱おうとすることで子どもに伝染し、子どもを生涯苦しめることになる。愛と呼ばれるものではない。
頑張ってほしい。
客先常駐は辞めとけ。よく言われることです。
でもITには未経験だと客先常駐くらいしか無いのです。経験者でも客先常駐しかないのに未経験だと尚更。
私はそこそこ有名な大学の院卒で、27の時に他業界からIT業界に入ったけども、普通に書類選考で落とされてました。最終的に微妙な企業2〜3社しか面接まで行けませんでした。
当時は何も考えてなくて、とりあえず経験を積みたい、と採用してくれた企業に入社しました。年収300万で。ちなみに前職だと年収420万だったからめちゃくちゃ下がりました。
そこそこの学歴で、しかもバリバリの理系でも、未経験だとやはり採用してくれる企業は少ないんです。
ちなみに転職した時は30歳でしたけど、未経験の時に比べて書類選考の通過率はとても高かったです。
安いんですよ、月収20万ほど。
スキルが身につかない客先もあるんです。というか結構多いです。
自社のパワハラは上に言えば対応できます。でもお客様からのパワハラは上に言っても防げません。これもガチャです。
客先常駐って永遠の就活生です。1つの客先が終われば次の客先の面接に。次が決まらないと解雇です。歳を取ったのにスキルがないと客先も見つからない。だから解雇です。
客先常駐のメンバーは使い捨て。忙しい時期はこき使うけど、リリースできるくらいに落ち着いてくると切られます。1つの製品を設計からリリースまで関わることはまずないです。だからやり切った感もなく、愛着は失われていきます。
客先常駐は責任のある作業は損なだけです。責任は人になすりつけるもの。失敗は自分の責任にしてはいけません。なぜなら客先常駐はただの使い捨てなので責任なんて取れませんから。
正直、客先常駐は辞めとけ、と言いたいですが、IT業界の大半が客先常駐なので、辞めたくても辞められないんです。
IT業界は運です。いい企業が運良く求人をかけてれば、年収が高くもなりましょう。いい企業はホワイトなので技術力よりも人間性や若さを重視したりします。実力があっても若さがないと、いい企業に入れなかったりします。文系でもいい企業に入れたりします。
でも逆に運がないと実力があってもいい企業に入れなかったりします。だから経験を積むために客先常駐に入らざるを得ないと言う考え方もあります。
以下は客先常駐に向いてない人です。
正直、公務員を辞めてIT入るのはお勧めしません。年収300万ですよ?年収はなかなか上がらないですよ?年収一時的に下がってもいいから、とか思ってたら一生下がったままかもしれませんよ。
個人的にすぐ辞めちゃうエンジニアの大半は、向いてないのにエンジニアを目指しちゃった人です。向いてない人が来ちゃいけない業界なんですよ。
自分で考えない人。目標達成に向けて努力できない人。指示待ち人間。このタイプは一生大成しません。ずっと安月給で働くならいいですが、IT業界の上層にはいけません。
とめどなく客先常駐について書いてきましたが、私は客先常駐に挫折して、一度会社を逃げ出すように辞めてます。
私はITスキルについて一定以上であると自負しています。もともとは研究職を目指していたくらいの実力があります。そんな私でも客先常駐ガチャに失敗し、パワハラ上司にあたると簡単に挫折してしまうのです。
客先常駐の怖いところ、それは客先常駐ガチャです。人によっては客先常駐はそれほど苦痛ではないと言うでしょう。しかし、「今」が苦痛ではないだけです。ひとたび、客先を切られ、別の客先に行けば、パワハラを受けるかもしれません。
客先常駐は給与は低いです。しかしお客様が支払う単価は高いです。安くても60〜70万、高ければ100万や150万の場合もあります。その場合も給与は20〜30万です。
お客様は100万の価値を求め、私たちは給与20〜30万のつもりで仕事をします。そこに大きなギャップがあり、それゆえにパワハラが起こりやすい環境にあります。
長く働ける環境ではないのです。
私は転職活動をしましたが、それも難航しました。IT業界3年でしたが、堂々と人に言えるようなスキルが身に付いていなかったのです。
なぜなら、最初の客先は運用でした。次の客先はGUIツールを用いた開発。つまり、プログラミングにほぼ触れなかったのです。
そこでJavaでWebアプリを作りそれを売りにしました。しかし、Javaは客先常駐では人気のスキルですが、社内開発ではそうではないのです。
Javaは昔からあるプログラミング言語なので、できる人が沢山います。そのため、大型案件などの人を沢山必要とする案件ではJavaは人気の言語です。しかし、社内開発は少人数開発が多く、人を多く集める必要がないため新しいプログラミング言語が好まれる傾向があったのです。
結局私は技術力を評価されたのではなく、人柄と若さを評価され、転職に成功しました。
若さは大事です。技術力は定量的に評価できるものではありませんが、若さは定量的な評価が可能です。技術を身につけてから転職しよう、など思ってはいけません。若さの方がよっぽど貴重です。
SIerと呼ばれるところは、他のメンバの管理、もしくは技術リーダーなどをすることが多く、年収も高めなのでありでしょう。
パワハラが横行していてメンバーの謎の失踪が常駐化しているヤバい客先もあるでしょう。
しかし、一寸先は闇。
思ったより多くの反応を頂いていて驚いています。
語弊があるようなので補足します。
●研究⇒理学部系の研究者を目指してました。IT系への転職は未経験での転職です。
●未経験転職でももっと良い企業に行けたのでは?⇒若さゆえに転職で自分のアピールをするのが苦手で、しかも未経験だからまずは経験を積ませていただけるのならどこでも良い、と考えてしまっていました。
でも多分、転職で未経験なのに大手行けることはそんなに多くはないと思います。新卒だと学歴フィルターがかかりますが、中途採用だとかけにくいですし、そもそも大手は新卒採用で間に合ってるでしょうから、未経験を中途採用する必要がないですし。
●前職⇒理系スキルをほぼ活かせない業界でオタクには向いてないパリピ向きな職種でした。(教職です。)向いてないので辞めました。
最近はリモートワークも増えたので違うかもしれませんが、基本的にIT系は「常駐は必須かは分からない」けども、とりあえず客先常駐してもらう、というものなんです。
理由としては、①社内ネットワークに接続する必要がある、②ノートPCを配布してどこでもアクセス可能にするとネットワークの監視や紛失などで情報漏洩リスクが出る、③入館カードや守衛さんを配置して物理的なセキュリティを担保して盗難などに備えたい、④普通に協力会社さんがサボってないか目視で確認したい、などだと思います。
退職代行サービスを利用する人間に対し「クズ」「社会人としてなってない」「非常識のゲボカス」「退職の申し入れや交渉くらい自分でしろ」「料金の無駄」というネットでの意見をよく見かけるが、常識があってクズでないまともな社会人ならそもそも退職代行なんて利用しないのだ!
当方は新卒一社目でメンタル休職ののちに退職し、その後正規非正規職を転々としてきた。そのうちクビ3件、職場バックレ4件、うち退職代行使用が3件というどこに出しても恥ずかしくない経歴のクズである。こんなクズでものうのうと生きている経緯と現状とお話しし、もし今の職場のことで悩んでいる誰かの参考になったら幸いだ。また、こんな開き直り底辺ゴミにだけはなりたくないという意味で皆さんの癒しになれば嬉しい。
・なんでそんなゴミなの?
1社目でメンタルをやってか以降当日欠勤しまくり、朝起きられない、寝込む日が激増し勤怠不良の積み重なった結果です。心療内科でも相談し改善を試みたが現在も全快はしていない。ASDやADHDの検査もしたけれど健常域と結果が出て、社会性のないウンコ健常者になってしまった。
また、性格的にもストレス耐性が低くキャパ狭なのと、コミュ障以前の人嫌いが災いし、どの職場でも基本的に孤立してしまう。他人に興味がなく無関心のため、みんなでの昼食や飲み会や、職場の噂話や世間話が苦痛に感じる。人間関係の難の大部分は自分の傾向にすべて起因する。勿論申し訳ないが本当に合わない職場、上司同僚もいた。
何社か非正規で食いつないだが、その後正社員に転職した。経済的安定も目的だったが、世間体が主な転職理由だったと今では思う。仕事は生産支援の窓口部隊だったが、その部署は真夜中までの対応が多く、上記の当欠癖も治らず、致命的なミスをして現場の人に怒鳴られ修復不可能なまでに信頼を損ねた。リカバリーとか善後策など考えられず、自分のミスのせいなのにパニックになり保身に走り、「もう二度と出社できないから辞めるしかない、だがもう退職を伝える勇気も気力もない。そもそも会社の人ともう話せないし顔など合わせられない。絶対に無理」という状態になった。
その際、無い知恵を振り絞り「便利屋」という単語を思いつき、退職の電話などを請け負ってくれる便利屋をネットで探した。当時は2010年代中盤で、まだ「退職代行」に特化したサービスや企業はなかった記憶だが、不倫の密告や興信所や探偵まがいの業務をしている便利屋の中に退職の電話代行というものがあり、実家の母親のなりすましで体調不良を理由に退職の意志を伝えてもらった。その間は職場に連絡できず、無断欠勤していた。なお、現在の退職代行ではおそらく親族やパートナーなどのなりすまし設定での電話はNGだと思う。また、今も自分が依頼したような類の電話代行の業者は存在するが、どちらかというと、不倫やクレームの密告代行の意味合いが強い。
・使ってどうだったか
上記の当時利用したサービスでは、今の退職代行のように「利用したら最後まで会社の人間とやりとりが必要なく、代行経由で連絡可能」というシステムはまだなかったが、それでも「引継ぎもせず、最低限のやりとりで会社をやめられた、逃げられた」ということは自分にとって本当に救いで、命と心が助かったことに感謝した。料金も、会社の人に顔を合わせたり、謝罪をしたりという精神苦痛を鑑みれば、タダのようなものだと感じた。時を経て、退職代行会社が雨後のタケノコのように出現し世間で話題になった際も、「やはり自分のようなダメ人間がこういったサービスを利用するのだろうな」という納得感があり、ニーズが形となって顕現したのだと感じた。
なお、その後2社でも業務についていけない、ミスの連発、人間関係、勤怠不良などが原因で退職代行を利用させてもらった。加えて1社もブッチしたが、その際は貯金が少なくお金をケチって自分で辞めると伝えたが、資金に余裕があったら絶対退職代行を利用したかった。
・コロナ禍、そしてテレワーク普及という僥倖により長年のバックレ要因が偶然すべて解決
書いた通りなのだが、その自分で辞めると伝えてバックレた職場の次に決まった契約社員の仕事が始まったとたん、コロナによるテレワーク普及が起こった。すると、長年のバックレの原因だった「朝起きられない」と「職場で孤立してしまう」という問題が解決してしまった。例え朝起きられなくても、始業ギリギリに起きパジャマ姿でPCに勤務開始の報告をしてちゃんと業務をすれば、ひとまず出勤したとされる。そして、コロナ禍では会食なんてもってのほか、職場での飲み会やランチもNGになり、いつも頭を悩ませていた食事の場でのコミュニケーションと、会社での雑談自体消滅した。そのため、いつでもどこでもボロボロだった勤怠が他の社員と何ら変わりない状態になり、偶然だが仕事ぶりを評価され、現在正社員となっている。
何の努力も改善もしていないのに、環境だけで社会的に助かってしまった気分だ。現在は在宅リモート半々で働いている。たまに心身の不調で起きられず寝込んでしまい病欠になる日もあるが、それでも昔に比べると勤怠は飛躍的に改善した。
これはクビになった職場で担当していた業務で実感したことだ。フェイクを入れるが人材会社で就業開始するスタッフの勤怠管理業務に関わっていた。すると、自分より遥かに優秀で立派な経歴の人でも、第一印象がいい人でも、家族や子供がいても、突然会社に来なくなる、無断欠勤をする、試用期間終了前に合わないと泣きながら電話してくる、まるでかつての自分のような人を結構な頻度で見た。Z世代とかゆとり世代はおろか、年代や性別や家庭状況は関係ないようだ。また、勤怠不良や能力不足で試用期間終了前に雇用主から契約終了にされる人も多く見た。
以前は自分のような人間はネットでは観測すれど現実ではなかなか見ないから、異端の社会不適合者なのだと確信していたが、同類はいるところにはいるのだなと肌で感じた。
・退職代行を使うべき人
ここで、退職代行を使ってもいいんじゃないかなと想像する人の特徴を挙げる。
仕事や職場の人間関係だけが自●の原因なのなら、使ったほうがいい。できれば心身が完全にやられる前に、体力気力があるうちの利用を推奨する。一度完全に折れると、その後の社会復帰が困難になるし時間を要するためだ。ただ、増田は自●自体は仕方ないんじゃないか派なので、仕事以外にも持病や家庭の悩みや慢性的な生きづらさを抱えた人が、己に鞭を打ってまでつらい状態のまま生きる必要はないとも考えている。
「あの人は退職代行を使った」と噂されたり、それを知られた関係者にはある種の偏見を抱かれることは間違いないので、それが気にならない人は役職や雇用形態問わず利用していいと思う。逆に自分の挫折や失敗を受け入れ難い、プライドがある人はまず退職代行は利用しないんじゃないかな・・・自分はプライドがないので、バックレた職場の方々に対し本当に申し訳ない気持ちがあれど、二度と生きてお会いしたくないので、自分は練炭自●などで死んだものと思って忘れて生きていってくださいと念じている。
・退職代行を使うべきでない人
上記のように、心身が死の淵に追いやられている人はまず命を守る行動を取ってほしいが、使うとリスクがあると想像する人を列挙する。
増田は現在都市部在住だが地方での暮らしも経験している。その際近所の無職の人が外で散歩するだけで恥だから家の中にいろ!という親御さんに叱られている話を聞いたことがある。退職代行を使ったことが近所や職場に広まり、今後の就職どころか生活に支障をきたす、あるいは詰むレベルの支障が出る場合はそのリスクを考慮したほうがいいのではないかと思う。
増田が退職代行を使ったのはいずれも一人暮らしの時期だ。バレなければいいと思うのだが、同居家族やパートナーに知られて干渉されそうな人は警戒しておいたほうがいい。5ちゃんの職場バックレに関するスレッドで、バックレ常習犯は緊急連絡先の家族の住所は電話番号はでたらめを書いておくというアイデアを参考に、増田も緊急連絡先は最寄りの水道局の住所電話番号に設定している。
①②と同じ種類だが、例えば仲間と企業したけど逃げたくなった・・・という場合も人間関係にしこりを残すと想像する。現代ではなかなかないと思うが、同族の小さい企業や少人数のベンチャーなど、職場の人間関係が密で後々の人間関係がトラブりそうな方も要注意だ。(辞めたあとに電話やSNSなどでDMが来るとか)
退職後に休養するのも再就職するのも自由だけれど、その後の人生の責任は自分以外誰も取ってくれない。中には医療や福祉に繋がるほうがいいケースもあるかもしれないが、勤め人を続けたい場合はその後も工夫や行動し続けることが大切だと感じる。男女問わず、経済的に頼れるパートナーを探すというのも生存戦略としては立派なひとつの方策だ。下記リンクは以前ネットでも話題になったもので、今回の趣旨とは異なるが、早いうちから行動することの大切さについては参考になるかと思う。
http://www.carpefidem.com/column018.html
・環境や適性をもう一度考えてみる
職場との相性は、入ってみたら人が定着しない魔窟のようなポジションだったとか、ホワイト大企業だけどその部署だけ何故かモンスターのようなストレッサーだらけとか、運で決まってしまう要素も大きいと感じる。ただ、ある程度自分の向いてる環境や適性について検討し、判断することも必要だと思う。向いてなくて耐えられなかったら、また退職代行を使えばいい。
人付き合いの苦手な人は、できるだけ接客から離れた上流工程の業務内容の企業に応募する(コミュ障も突き抜けると接客適性無双、他人への関心がないのでクレーマーをしゃべる人糞とみなせるという意見もあるが、限られたエースだけの才能だと思う)とか、マルチタスクではパニックになりがちな人は定型業務メインの仕事を探すとか、お子さんや家族のケアで早退や欠勤が続いてしまうひとはフレックス制や裁量労働などで調整できる職場を探すとか、できるだけ自分の苦手に直面する機会の少ない仕事を選んでほしい。
お前が言うなが過ぎるが、テレワーク可能な職場という環境面での選択肢が無かったら自分は社会的に詰んでいた。また、当座の給料のためにコミュ力に自信がないのに、客先/社内問わず大量のストレスフルな交渉が発生する職場や自分のスキルに見合わない仕事内容に考えずに飛びついた経験が少なからずある。
増田は現在「やりたくない仕事は星の数ほどあれどやりたい仕事はない」というドクズ思考で、自分にできる仕事ならありがたく精一杯やって、ダメなら逃げようというスタンスだ。
「好きなこと/やりたいことを仕事にする」は覚悟がないと危険だと思う。インドア派やオタク気質の人は、アニメーターやゲーム会社やエンタメ企業や出版社関連企業への志向性が強い傾向だと思う(かつて自分も就活病で何社か説明会を受けたことがある)が、大手でない限り土日昼夜問わず働かされ、期限納期の厳しいブラックな環境の職場も多い。エンタメやサービス業は、みんなが楽しんでいる休みや余暇の時期が繁忙期だ。また、ブラック企業はある程度公式に開示されている情報や労働条件で判断できる。
人手不足の状況であっても、求職者としてバイトに採用されるかどうかは、さまざまな要素が影響します。個々の状況によって異なることがありますが、いくつかの可能性を挙げてみます。
1、競争が激しい業種や地域に応募している可能性があります。特に需要の高い業界では、応募者が多くなることがあります。
2、履歴書や面接の際に、他の応募者よりも魅力的な要素や経験をアピールできていない可能性があります。自己PRやコミュニケーション能力など、採用側が重視する要素に焦点を当てて準備をすると良いでしょう。
3、発達障害やひきこもり時期の空白期間の説明ができないことが、採用の際にネガティブに作用している可能性があります。しかし、自己紹介の際に無理に説明する必要はありません。代わりに、自身の強みや独自の視点をアピールすることに焦点を当てましょう。
4、履歴書や応募書類の書き方や面接の対策に不慣れである可能性があります。この場合は、専門の職業支援機関やキャリアカウンセラーに相談すると役立つ情報を得ることができます。
バイトの採用は様々な要素が絡み合って決まるため、一度落ちたからといって自己評価を下げる必要はありません。挫折を経験することもありますが、継続的な努力や改善を行うことで、新たな機会を見つけることができるでしょう。また、自分自身の強みや特技を活かせる仕事や、履歴書や面接にあまり関係のない仕事も探してみると良いかもしれません。
もうすぐ36になるんだけどオタクの魂100までじゃないが、オタクはいつまで経ってもオタクだ。30も後半になれば俺もアニメじゃなくて実写映画、漫画じゃなくてビジネス書籍を読んでいたりするかもしれないと思っていた時期があったがまったくもってそんなことはなかった。
具体的にはしんどい系の話を見るのがこれまでに比べると非常に辛くなった。
いい人が死ぬ話、挫折する話、虐げられる話、苦労する話を見たり読んだりするのがすげー辛い。
陰鬱な気分になる。
推しの子もなんかしんどい話なるらしいって聞いてまだ見れてない。
1000年前にブームが終わっちゃったけどたこピーも結局読んでないし、その人の新作も読んでない。
若い頃の俺にとってエンタメってもっと強烈で刺激的で破滅的でも何の問題もなかったし、むしろそうであってほしい時期もあったが、歳を取って「なんでフィクションの中で迄そんな辛いものを見にゃならんのじゃ」と思うようになってしまった。
なので最近はなんも考えなくても見られる日常系アニメばっかり見てる。あとは精神年齢低めの少年漫画系。
絶望的な状況でも主人公がバーンって覚醒してだいたいなんとかなっちゃうやつ。ワンピとかさ。
おじさん、もう辛い話を長期間見るのに疲れちゃったよ。
人生の目標としていたことが達成できそうにないと思うようになりました。ここからどう考えていいのか分かりません。どう思われますか?
そのような状況に陥ることは誰にでも起こり得ます。しかし、重要なのはその状況からどう立ち直るかです。以下にいくつかのアドバイスをいくつか挙げてみます。
まず、自分自身と向き合ってみましょう。なぜ目標を達成できないと思うようになったのでしょうか?目標が現実的でなかったのか、自分自身がそれを達成するために必要なスキルやリソースを持っていなかったのか、状況が変わったのか、などを考えてみましょう。これにより、目標の再評価や、別の目標を探す方向性が見えてくるかもしれません。
また、自分が目標を達成できないと感じる理由について、他人と話し合ってみることも有効です。友人、家族、カウンセラー、コーチなど、信頼できる人に相談することで、新しいアイデアや視点を得られることがあります。
そして、もう一度自分の人生の方向性を考えてみましょう。目標が達成できなくても、人生には多くの可能性があります。自分が何をしたいのか、何に興味があるのか、何に貢献できるのかを考え、新しい目標を見つけることができるかもしれません。
最後に、自分を責めたり、自分自身に厳しくすることは避けましょう。人生は長い旅路であり、失敗や挫折はつきものです。自分自身を受け入れ、自分自身に優しく接することが、新しい目標を見つけ、前進するための力になります。
以上、いくつかのアドバイスを挙げましたが、何か質問があればお気軽にお聞きください。
そりゃ理想を言えばそうだよ。
筋力を落とさないように体重を減らせるならそれに越したことはないよ。
でも、ちょっと考えてみろよ。
食事制限も運動も全くしてこなかった我慢頑張りゼロ生活を続けてきたやつが
いきなり食うもん減らして運動もするなんかできるわけねーだろ。
最初からそんなクソ高い理想を追い求めるからダイエットは長続きしねーんだよ。
そんなにすぐに切り替えて両方継続できる奴はブクブク太ったりしねーんだよ。
どっちかから始めろ。
まずはどっちかから始めて習慣化させて、
「どっちかはできたけどどっちかはできなかった」と自責を減らすことにも繋がるが
逆に考えれば「どっちかできたからどっちかはやらなくても大丈夫」と自分を甘やかすことにも繋がる。
ジムで汗かいた後にビールぐびぐび飲みながら脂っこいもん食ってる奴みたいにな。
久々に少しだけ休暇があって、ゲームでもしようかなと思ってアプリを漁ったんだけど10個ぐらいダウンロードして全然当たりを引けなかった。
という訳で知恵のある皆々様、私の厳しい条件に一致するゲームをご存知でしたら教えて頂けないでしょうか。
スマホ、ブラウザ、据え置きもswitchからDS、PS5もあるので基本ハードは問いません。
ゲームがドヘタクソなのでアクションやタイミングよくボタンを押す必要があるゲームは面白くなれない マリオの最初のステージがクリアできないので
最近やった中だと星のカービィディスカバリーのはるかぜモードがクリアできない程度に無理 アンダーテールも一周できなかった 困った
頭も悪いので推理力や脱出ゲームみたいのもすぐ挫折する。基本失敗すると萎えるタイプなので逆転裁判も1話の途中でわかんなくて挫折した
パズルもあんま得意ではない。もじぴったんとかは好きなんだけど初級ステージでも全然クリアできなくて頭が痛くなってしまう。ぷよぷよもパネポンもストーリーモードがクリアできん
異様に3D酔いするのでチョコボ(立体)が出てくるとFFが終わる ドットは大丈夫 FPSは吐く 大神もチュートリアルで終わった モンハンも無理だった
スタミナ制だったり人参植えて2時間待つ みたいな待つのが前提の放置ゲーとかはゲームをやりたい!と思う瞬間にはあまり適していないと思う
上と矛盾してるが休暇も2日か3日くらいしかないのでその程度でクリアしたなぁと感じられる程度でありたい ので超大作とかは避けたい エンディングが出たらクリアでいい
ガチャをぶん回すようなソシャゲをメインで一つ持ってるので2つめは厳しい ソシャゲはスタミナとかイベントとかあるから暇なときは暇だし
ゲームがヘタクソなのもあり人と遊ぶような、またはランキングを競ったりするような仕様だと敬遠する
英語読めない
多少はいいんだけど最近落としたゲームが3分に1回強制で広告を流すようなアプリで辟易した
面白いなら広告除去のお金も払うが面白いか否か判断する前に広告をワッと浴びせられるのは厳しい
最初から期待値が高いならお金は全然いくらでも払うが、1面もクリアできない可能性が高いゲームだと躊躇する所はある
んなゲームねーよ!と言われるけどポケモンとかマザーとかクッキークリッカーとか大好きテディとかモンスターファームとかディスガイアとか人生でやったものの中には該当するものも沢山ある
レベル上げとか素材集めとか数字を増やすのが好きなんだ でも世界樹の迷宮は難しくて敵に全然勝てなくなって挫折しちゃったな・・・。ポケダンとかも。本当にヘタクソなのが積んでいる
でもそれでも新しいゲームがやりたくてさ しかし探しても全然見つけられない 該当しやすいRPGとかも最近は3Dが主流で画面酔い属性には随分厳しい所がある steamとかになんかないかなー
子供のころ、大臣が「女性は産む機械」と言ったことで辞任を迫られたことを何故か思い出した。確かに、公職にある人が、体質的に子供を産めない方への配慮が無い発言をするのはまずかったのだろう。
歳を重ねると、どのような異性と居るときが楽しく感じるか、大体自分のパターンが分かるようになってきた。だが、そもそもプライベートの時間に異性と楽しい時間を過ごしたいのか。そもそもプライベートの時間に他人と時間を過ごしたいのか。。。
突き詰めると、結局自分が欲しているのは、自分のDNAを最も高尚に次の世代に残してくれる何かだと思うようになってきた。そして、その何かとは異性との楽しい時間とは全く無関係なのではないか。もちろん価値観やコミニュケーションのコードが近いことは、子供を育てるフェーズでは重要なのだろう。一方、育てるフェーズで関係に亀裂が入るのは大抵は当初は予期していなかったことに由来すると思われる。子供の病気、子供の人間関係、地域トラブル、介護、仕事。。。そうした想定外の出来事が発生したときに、楽しかった時間で確認したはずの諸々は意味があるのか。寧ろ、そうしたときに、挫折せずに前を向ける強い意思の源泉にあるもの、それは自分のDNAが最も良い形で残されることに対する確信なのではないか。
その確信はきっと、その何かの機械性に対するあこがれのようなものであり、もっと本能的な生物学的なところにあるのだろう。楽しい時間を過ごした二人が関係を深めてその象徴として子供が産まれて育てられるというストーリー、が現代社会では想定されているのだと思うが、その前提となるような「楽しい時間」を維持するコストが結局は化粧なりファッションなりSNSなりある種のフェイクを形成するコストに思えて、寧ろあるべき出会いのあり方を阻害している。もっとストレートで野蛮な、そんな出会いで良いのに。
ストリートファイター6、通称スト6で導入されたワンボタンで必殺技が出る操作形式・モダン操作の是非をめぐる論争だ。
個人的には自分が格ゲーやる上で躓いた部分に配慮された素晴らしいシステムだと思ってる。
この操作方法については肯定・否定いろんな意見があるが、挫折しかけつつも浅瀬でぱちゃぱちゃしてる底辺ゲーマーからの意見があまりないなと思ったので書くことにした。
一応実力を書いておくと、スマブラをきっかけに格ゲーを始めて実力は
スト5 ・・・ リュウ→キャミィでシルバーまで あまり肌に合わなくてしばらくトレモしか触ってない
ぐらい。
コマンドや基礎コンボならある程度は安定してるし、完璧に読んだ上で噛み合えば対空昇竜も出せなくはない…程度。
スト6はベータテストには参加せず、体験版が出てからモダン操作で始めた。今はCPU Lv.7にまあまあ勝てるぐらい。
まず、モダン操作で素晴らしいなと思ったことは「モダンのまま上手くなる道筋が用意されていること」と「コマンドを否定していないこと」だ。
一部出せない必殺技こそあるものの、基本的にコマンド入力することで普段よりも強力なダメージの必殺技が出せるし、弱中強の使い分けもできる。
つまり、最終的にはある程度はコマンド入力をすることを想定して設計されている。
コマンドは格ゲーの醍醐味だというのは自分もある程度は正しいと思っているし、実際にコマンドを入力して技を出すのは気持ちいい。
コマンド技が出るようになる → トレモでコマンド技が安定する → 実戦でコマンド技が安定する
という3段階が必要だ。
特に2番目と3番目の間が厄介で、実戦で緊張せずにコマンドが出せるようになるまでは、暴発や不発を受け入れ続けなければならない。
しかも、入力を失敗すると相手に至近距離で巨大な隙をさらして負けるというオマケがついてくる。(GGSTはこの辺はまだ入りやすかった)
そういうしょうもないミスを拾って勝つのを楽しいと思う人もいるかもしれないが、少なくとも自分はそうではない。
この「しょうもない負けをする期間」が減るだけでもモダンの価値はあると思った。
咄嗟の時にでもワンボタン必殺を出せるという保険があるのはものすごくありがたい。
さらに、昔はどうだったか知らないが、今はまずコマンド技が出ることが前提でゲームの基礎が構築されているため、コマンド技が出せたところでそれはスタートラインに立っただけで勝てるわけじゃない。
格ゲー経験者からすれば慣れ親しんだ基礎システムの上に新システムが乗っかっているのかもしれないが、初心者からすればまずその基礎システムが複雑で、読み合いすらわからずにしばかれる。
「勝つために練習するのは当たり前だ」という意見をよく目にするし、実際に自分もそう思う。
だが、それを楽しめるのは「これを克服すれば勝率が上がる」という明確なビジョンがあるからだ。
土俵に立った人間が練習して上手くなるのと、まず練習しないと土俵にすら立てないのでは話が違うと思った。
自分が格ゲーにすんなり入っていけたのは、スマブラで格ゲーキャラを触っていたおかげで最低限コマンドの技術は安定していたからだと思う。
上にも書いたが、自分が格ゲーを触ったきっかけはスマブラのテリーを使ったことだった。
テリーである程度勝てたので「これなら本家の格ゲーもいけんじゃね?」と思い上がってスト5を買った。
ちなみにスマブラのテリーはひたすら密着で回避と弱攻撃を入れ込んでお手軽コンボを擦りまくるキャラで、スマブラ勢には割と嫌われているキャラだ。
だが、このキャラには「コマンドさえ安定すれば(ある程度のランク帯までは)手軽に勝てるようになる」という特性がある。
しかも、コマンドが不発でも弱攻撃は最終段まで出るため、相手は吹っ飛んで状況がリセットされ、クソデカリスクを背負うことも滅多にない。
つまりミスしても致命的に結果が悪くことはなく、でもコマンドさえ安定して出せれば絶対に勝てたという反省ができるキャラなのだ。
練習すれば勝てるという希望が見えたからこそ、自分は喜んでコマンドとコンボを練習したし、それで勝率を安定させられた。
実はスマブラのテリーとカズヤという存在は、格ゲー界にすごく貢献してると思う。スマブラにおける影響はノーコメント。
最初は中攻撃連打や強攻撃連打でコンボが出るため、それで最低限試合になる。
しかもアシストボタンを使えばゲージまでちゃんと吐いてくれる。
これだけでもコマンド暴発やコンボミスで致命傷を負うことがなくなる。
人間、パニくった時は連打をする生き物なので、それだけで最低限の火力と仕切り直しまで行けるのはありがたい。
だが、これで最大リターンまで取れてしまっていたら、間違いなくこのゲームをすぐにやめていたと思う。
モダン操作の素晴らしいのは、「モダン操作のまま強くなれる道筋があること」だ。
簡単なところでは、コンボの締めだけをコマンド技にすることで少しずつリターンを伸ばしていける。
波動拳をコマンド入力で出すことで、弱中強の使い分けができるようになる。
自分も今はCPU相手に中攻撃→アシスト中攻撃→OD足刀→コマンド昇竜みたいなコンボ決めて楽しんでいる。
なんだかんだコマンドで技が出るのは気持ちいい。その楽しみを奪っていないのがモダン操作のよくできたところだと思う。
さらには高等テクニックとして、ドライブラッシュを絡めたコンボまで習得すればモダンでも十分に高火力を狙いに行ける。
(ドライブラッシュについては、入力の難しさに加えて、出せたところでCPUにほぼほぼ技を置かれてつぶされたので、今の自分には不要なものと判断して触ってない)
このように少しずつ練習を積み重ねて上達する余地があるというのが、モチベとして大きい。
もし、これでモダンの経験値を捨ててクラシックに移行する以外の成長の道が残されていなかったとしたら「じゃあ卒業でいいや」って言ってたと思う。
なので、「結局やり込むならクラシック」とか「クラシックでやってるやつだけが本物」という風潮にはなってほしくないと思ってる。
あくまで「初心者救済お手軽モード」ではなく「モダン操作」としてデザインされているのが個人的にはすごくデカかったし、しかもコマンド入力自体も否定されていないのがとてもいいバランスだった。
あと、巷で言われているワンボタン無敵技について。
上級者帯でどうなるかは知らないが、ゲージさえ溜まっていれば何とか仕切り直せる技が出せるというのは個人的にはありがたい。
画面端や起き攻めのタイミングでどう打開していいかわからずにそのまま殺されるというのは初心者あるあるだと思う。
また、少なくともリュウとルークを使っている時点では無敵技は何かしらのゲージを払っているし、ガードされるとガッツリリスクがある。
少なくとも相手のコンボ中にEX昇竜入れ込みまくってお祈りしたり、ひたすらコマンドだけ入れて待って覚醒必殺ぶっぱなしてきた身としては、根本的にやってることは変わらない。
(逆にそんなプレイをしているので、モダンは発生を遅らせれば平等じゃない? という意見については、そんな単純な話じゃないなと思った)
そんなわけで、自分は今のところGGSTでいうバーストのような感覚で使っている。
特に今作はラッシュにインパクトに飛び込みにと非常に相手の攻めの選択肢が非常に多く、非常時にその大半に対応できる「なんとかなるボタン」の存在は非常に助かっている。
(自分はSA発動を右スティック押し込みに設定しているため本当にワンボタン)
バーストと違って無視できないレベルのダメージがついてくるため、単純比較できないのはわかる。そこは調整のし甲斐がある部分だと思う。
モダンとクラシックにあえて絶対に超えられない火力差が設定されてる理由はむしろこっちなんじゃないの?って思った。
ワンボタンSAの存在が上級者のレベルでどんな影響をもたらすかについては、当然自分は上手くないので何とも言えない。
ただ、スマブラでPVだけ見て「ぶっ壊れ!」と上位層が的外れに騒ぐ文化を見まくってきた自分としては、今の時点で決めつけるのは早いんじゃないかと思った。
(大体の場合はわかりやすく派手な技にはしっかり対処法が存在していて、むしろ騒がれた部分以外の強みが徐々に明らかになっていく。経験者の「予言」はあてにならない)
結局、ワンボタン無敵で待つという行為がどの程度強い行動になるのか、それを打開する術があるのかないのかは、発売してしばらくしないとわからない。
少なくとも、発売してないゲームのゲーム性を知ったような口で叩くのは、見ていていい気分はしなかった。
余談だが、「初心者救済用のシステムを設けたら、上級者がそれを悪用してさらに勝つようになる」という話がある。
だが、上級者が初心者用のシステムを悪用して勝つ分には、自分はあまり気にならない。
なぜなら、ゲームシステムをうまく使いこなす人が勝つのは当然だと思っているし、その上手い人たちの活用方法を学べば、自分でも勝てるようになるかもという希望が見えるからだ。
むしろ、「共通知識」である基礎システム関連の経験値の差でメタメタにされたほうが心に来る。
これに関しては、どちらが評価されるのが絶対に正義とも思わないので何とも言えないけど。
色々言ってきたが、言いたいのは「モダンは入門者の学習曲線まで考え抜かれた素晴らしい独立した操作大系」だということだ。
スト6運営にはこれが新しいスタンダードだという姿勢は崩さないでほしいし、モダンは初心者のための補助輪、クラシックに移行するのが正義、という風潮にはならないでほしいと思う。
自分も最初はモダンの操作感に馴染めず戸惑ったが、モダンが強いと思うのならば、せっかくだから「勝つために地道に練習」してみるのも一興ではないか。
映像が良かった。このシーン、このアイテムの映像解釈がこうなるのか!という驚きの連続。BGMや効果音のさりげないアレンジも良い。
楽しい場面も多くて映画館で何度も笑いが漏れてた。間が絶妙なかんじ。
ピーチ姫のアクションがカッコ良い。ギャルっぽい話し方に最初違和感を覚えたけど格好良いから100点満点です。
映画批評家の評価が低いらしい。これはポリコレは全く無関係で、映画のセオリーを無視した脚本だからだと思う。
映画の脚本術は3幕構成とかセーブザキャットとかいろいろあるけど基本的に「主人公が挫折するパート」が必ずあるはず。
この映画を「普通の映画」にするとこんな感じになると思う(太字が改変部分)
1. 何をやってもうまくいかないマリオ兄弟。マリオは起業に弟を巻き込んだと責められている。
2. 弟を連れ去られ救い出す決意をするマリオ
5. 実はピーチ姫は裏切っていた。「ごめんなさい王国を救うにはこれしかなかったの」罠にハマり捕まるマリオ
1. 何をやってもうまくいかないマリオ兄弟。マリオは起業に弟を巻き込んだと責められている。
2. 弟を連れ去られ救い出す決意をするマリオ
5. 実はルイージが裏切っていた「いつまでも兄貴ヅラするな。僕はお前が嫌いだったんだ」ルイージに叩きのめされ失意のマリオ
6. 再び立ち上がりルイージと対決。溶岩に落ちかけたルイージの手を掴む。「お前がどう思おうと、僕にとっては弟だ」
上の5に相当する挫折パートがないんですよね。批評家が違和感を覚えるのはその辺かも。
ただ、これはファン向け映画なのでマリオキャラの仲間割れとか過度なドラマはファンは求めていないと思う。だからこれで良いんだ。
いちおう、ドンキーとマリオ主人公の「バディとの友情」としてみるとだいぶセオリー通りな感じなのですが・・・ドンキーはマリオの登場人物でないからうーん???友情出演と思って見ていたのに中盤であれ?こいつシナリオ的にメインキャラだなって
ぼっち・ざ・ろっく観て楽器始めようとは思わなかった。過去にギター買って弾かなかったから。
でも邦楽を色々聴いた。高校の頃割と好きだった事変とかサカナクションとか、元ネタのアジカンとか。
そっからナンバガミッシェルスーパーカーフジファブリック、有名どころ色々をざーっと聴いた。
鬱病の皆さんに人気のシロップとかアートスクールにも期待したけど、そこはあんまりハマらんかった。私は音楽には鬱ではなく躁を求めているのかもしれない。
バンドサウンドはかっこいい。しっとりしたのも悪くはないけどやっぱり多動でバキバキなのがいい。
閃光少女のアウトロは最高だし、あんまり歌詞に耳を傾けない自分にOMOIDE IN MY HEADのシンプルな言葉が妙に刺さった。
一人でシコシコとピアノ弾いてるんじゃ一生辿り着けない場所だ。ピアノにはピアノの、ギターにはギターの領分がある。
センチメンタルピリオドのギターソロがかっこよすぎて思わずギターを買った時の高揚を思い出してみた。
ネットで譜面探していざ弾こうとしたら、当たり前だが遠すぎる道のりを知って早々に挫折した。
基礎練とかかったるいし、「出来る」ではなく「やりたい」に動かされていたかったから、最初からそれだけをやってたかった。
やっぱり考えを改めて、「出来る」からやっていこうと教本を1ページから進めた。
難所とネタにされているFコードも、なにくそと思って抑えられるようになった。指の皮も少しは硬くなった。
難所は超えたと思っていたら、AだかBだかの方が難しかった。退屈な練習曲をやるのもバカバカしくなってきた。
その辺でギターに触らなくなって、引っ越す時にメルカリで売った。結局「やりたい」を見失ってしまった。
youtube見たら初心者が0からこの曲練習して〇〇日みたいな動画がよくある。
そこそこ弾けてる人もいれば、絶妙にリアルなレベルの下手さで努力の限界を見てしまった気分になる事もある。
私も頑張れば弾けたかもしれない。でも頑張らなかったから後者にすらならなかった。
今思えば別にバッキングをしたいのではなくソロを弾きたかったんだから、もっと別な練習をすれば良かったのかもしれない。
そもそもアコギ向けの教本だった気もする。6弦ベースを買うコテコテのやらかしをした喜多郁代さんを笑えない。
あとあんな退屈な練習を耐え抜いた喜多郁代さんは凄い。彼女の決意の前に退屈なんて言葉は無かったのかもしれない。
それを孤独に耐え抜いた後藤ひとりさんはもっと凄い。というか全てのギタリストは凄い。
まあかといって私の初期衝動が偽物だったとはサラサラ思わないけど。
経験者なら分かると思うが、一度やっていた楽器を再び始めるというのはかなり億劫だ。
いくら強い憧れを抱いていても、練習は退屈だ。特に最初なんてロクな練習ができない。
それでも最初は誰だってメキメキ上達する。その喜びを糧に退屈な練習を耐えながら、ようやく憧れに少し近づいていくんだと思う。吹奏楽部でトランペットやってた時もそうだった。
世の中卓球が好きで好きでたまらない星野裕やボールと友達になれる大空翼ばかりじゃないし。
私のギターにはまだまだ勢いよく上達する余地はあった気もするけど、また一からはな…という気持ちは否めない。ギターへの敷居の高さ(原義)もさることながら。
それでもロックを聴き漁った今、楽器欲は再燃している。というかベースに惹かれている。
忘れられないの(サカナクション)のベースソロが滅茶苦茶かっこよかったから、懲りずに憧れてる。
真っ新に生まれ変わって一から始めて首の皮一枚繋がったどうしようもない人生を生きたいって訳。
いきなり憧れに近づこうとしても息切れするのは覚えた。
バンドに入るでもなくリズムをひたすら刻むのは退屈かもしれない。ベースギターとは本来そういう楽器だ。
でも別に「本来」にこだわらなければいけない訳でもない。最近じゃ割とスラップベチベチの曲も結構あるし。
ギターみたいなコード弾きも実は出来ちゃうらしい。クラシックギターみたいにしっとりしつつ、ベースらしい色気もあってオサレな感じ。
でも私がやりたいのはやっぱりバキバキの音楽なんだよな。それもかっこいいけど。私はブレてばかりだ。
なんて出来もしない事を空想してばかりで、カラテを疎かにしてジツばかり追い求めていては身につくものも身につかない。
とにかく「出来る」と「やりたい」の間で上手く揺れ動きながら、それでもやっぱり初期衝動を大切にしていけば、今度は…なんて甘い事を考えてる。
まあまた諦めてしまっても別に人生終わる訳じゃないし、やっぱりやってみようかな。