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はてなキーワード: 19世紀とは

2020-05-30

これさあ

Ayam

@MakitaAya

大学生の娘の勉強見てたら次の課題コレって…どうしよう…本当にどうしよう…ガチで怖いんですけど😱

手に変な汗かいた💦

https://twitter.com/makitaaya/status/1266256372426878978

一番の問題は、これが歴史学課題なのかどうか、という点。

Fラン大学現代文時間にやるなら仕方ないけど、もし歴史学だったらいくら何でもやばすぎる。

歴史学日本語の要約させるってのは学問の体を成してない史観問題じゃないよ。

また、課題文が全く事実に即していないのも問題だ。

課題文がこきおろす、日本の歴史教育の現状はこんな感じだ

高校世界史教科書で圧倒的シェアを誇る、山川出版社の「詳説世界史B」では、大日本帝国東南アジア政策について、

「…東南アジア占領地では、当初、日本欧米諸国植民地支配から解放者として迎えたところもあった。しかし、日本占領目的資源収奪とそれに必要治安確保であり、軍政のもとで、日本語教育神社参拝の強制など、現地の歴史文化無視した政策がおこなわれた。さらに、シンガポールマレー半島フィリピンでは住民への残虐行為捕虜を含む強制労働が多発したため、住民の激しい反感を呼び、日本軍は各地で抵抗運動に直面した。

と、課題文が要求する通りの記述になっている

また、世界史資料集でも、これも受験向きとされシェアが大きい帝国書院の「タペストリー」では、

「④泰麺鉄道建設 日本軍が占領した東南アジアなどの南方地域でも、日本文化が押しつけられた。また、日本軍は、多くの現地の人々や連合軍捕虜を、鉄道建設などの過酷労働に動員した。」と、写真付きで紹介している。

これらのことから課題文の日本の歴史教育disは、完全に根拠のないものだということが分かる。

さら課題文の、「『3年半の日本占領期は350年のオランダ植民地時代よりも残酷だった』という文句は広く人口膾炙している。」は本当かよ

19世紀前半、イギリスを筆頭に奴隷制廃止の機運に逆らって、ベルギーを失ったオランダはその経済的損失を埋めるべく、ジャワ事実上の奴隷制である強制栽培制度実施し、19世紀後半にはオランダ領東インドから得られる利益オランダの歳入の1/3から1/2を占めるまでに至ったと言われている。それほど搾取過酷だった。

その後も搾取を強めたオランダに対し1873年から始まったアチェ戦争では、アチェ側の死者は10万人を超えている。

また日本敗戦後、デヴィ夫人旦那スカルノが中心となって、オランダ相手に戦われたインドネシア独立戦争では、およそ10万人のインドネシア人が命を落としている。(ちなみにこの独立戦争には約900名の旧日本兵が参加してもいる。)

オランダ国際世論抵抗に逢い、アメリカマーシャルプランの停止をちらつかされて、しぶしぶインドネシアを手放したんだよ。(佐藤弘幸「オランダ歴史」河出書房

オランダ日本占領政策比較し、後者がより過酷だという言説の根拠は何だろうか?

…総じてこんないい加減な文章を、まさか歴史学時間に要約なんかさせてないよね?だとしたらそれは大問題だよ?

2020-05-19

錬金術Twitterを手放すハガレン読者への違和感

Twitterをやめて初めて鋼の錬金術師の結末が腑に落ちた同人字書きの話

しかに、ツイッターは便利で麻薬のように楽しい10ちょっと前に生まれたポッと出のサービスに過ぎない。

ハガレン作中におけるアメストリス錬金術ツイッターよりもはるかに古い歴史があるが、「お父様」の目的のために歪められた邪悪技術としての側面がある。

これらをバッサリ切り捨てても、人間が生きていくことができるかどうかで言えば、まあそれなりに生きられるだろう。錬金術存在しない世界はもちろん、ツイッター存在しない生活だって、今の我々にも想像するのはさほど難しくはない。その意味ではどちらも、単なる不用品嗜好品と言ってもいい。

しかし、じゃあ元増田はどこまでが、人間本来の分相応な力だと思っているんだろう?

ハガレン世界には、錬金術と並ぶ特殊設定、機械鎧オートメイル)も存在する。元増田は、これには特に思うことはないんだろうか。あくまで欠けた人体を補う義手義足の延長だから人間の在り方を極端に変えてしまうことはない?本当にそうか?

現実の話に戻ると、元増田はこんな希望を語っている。

Twitterを退会し、同人交流をやめてできた時間の中でやりたいことは意外と早く見つかった。小説映画など色々なものに触れてみたい。

映画誕生19世紀末。人類史全体から言えば、これだってかなり新しい技術だ。

小説にしたって、その作品形式自体は古くから存在するだろうが(どこまでを「小説」と呼ぶべきかはともかく)、現在書籍が読者の手元に届くまでには、やはり無数の新技術が関わっている。

映画を見に行くには電車か車にも乗るだろう。何よりあの文章を全世界に向けて公開するにはインターネット、そしてここ、「増田」という最先端IT企業はてなの超技術結晶たる場が必要だった。

それらは全て、現在はごく当たり前の存在だが、生まれた時には人間にとって「良くも悪くも影響力が大きくて、世界もの見方を変えてしまう」不自然ものだったはずだ。

もう一度言うが、元増田現在文明の成果のどこまでを手放せば、自分が「振り回され」ずに生きていけると信じているのだろう。

これは極論めいた揚げ足取りだろうか。俺はそうは思わない。

なんにせよ、ハガレン読者のある意味での素直さと、そして鋼の錬金術師という作品自体に対する違和感再確認させてもらった。どうもありがとう

2020-05-09

anond:20200509161111

米国郵便投票交通事情が悪かった19世紀以前の制度が名残として残ってるから使えるだけだぞ。

日本選挙最初から投票投票からインターネット投票制度を作らなければならないんだが、与野党の利害がぶつかるからそう簡単はいかない。

小沢一郎小選挙区を通したときネット社会になってればネット投票も成立してたかもしれないが、タイミングが少し早かった。

2020-04-27

anond:20200427123816

ロゼトーマス

鋼の錬金術師』に登場するキャラクター

ロゼ・R・クロフォートとは、『約束の地リヴィエラ』に登場するキャラクターの一人。

ロゼリリエンタール

Triangle18禁PCゲーム「魔動装兵クラインハーゼ」のメインヒロイン

ロゼ

RPGテイルズ オブ ゼスティリア』のヒロイン

ロゼ

六神合体ゴッドマーズ』に登場するマーグの副官。

妄音ロゼとは、UTAU向けに作成された音声ライブラリおよび、そのイメージキャラクターである

天々座理世(てでざ りぜ)とは、Koiによる日本四コマ漫画、「ご注文はうさぎですか?」に登場するキャラクターである

神代利世(かみしろりぜ)

東京喰種」に登場するキャラクター

リゼ・ヘルエスタとは、いちから株式会社運営する「にじさんじ所属ブラコンバーチャルライバーである

エリゼ・シュバルツァーとは、英雄伝説 閃の軌跡に登場する登場人物であると同時にシスコン兄を愛するブラコンであるCV後藤沙緒里

カタリナとは、スマートフォンゲームグランブルーファンタジー」の登場人物であるフルネームはカタリナ・アリゼ

ジョルジュ・ビゼー(1838~1875)とは、19世紀に生きたオペラを中心とした作曲家である

ジェラール・グリゼー(1946~1998)とは、クラシック音楽のうち現代音楽に属する作曲家であり、1970年代から始まるスペクトル楽派の始祖の一人である

A・オリゼーとは、一般的に麹または麹菌と呼ばれる菌の一種である

2020-04-21

anond:20200419192213

クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy フランス語: [klod aʃil dəbysi], 1862年8月22日 - 1918年3月25日)は、フランス作曲家長音階短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれることのない自由和声法などを用いて独自作曲を実行し、その伝統から外れた音階和声の用い方から19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響力を持った作曲家である[1]。

2020-04-01

在している点が挙げられる。 インドイギリス植民地となって久しい19世紀に、ベンガル州を中心に知的エリート層によってキリスト教ヒンドゥー教知的交流が盛んになり、西欧的な合理主義に基づいて、インド近代化ヒンドゥー教復興改革

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後代の立法者達は、男性のみに高等教育を受ける権利を認めようとし[37]、ほとんどの女性教育を受ける権利はなかった[38]。 19世紀に、イギリス支配から脱しようと様々な社会運動が行われるようになると、西洋平等個人主義理念の影響を受け、女性地位

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2020-03-05

富野由悠季作品って面白いか?

∀までは世界観の作りこみやネーミングセンスに才気溢れるものを感じるけど、それ以降ははっきり言ってつまらなくないか

Gレコなんて宇宙進出してロボットまで活躍しているのに建築物キャラの造形が19世紀意味わからんじゃんか。

なぁ?

2020-02-11

[][]政治的OKらしいが北欧選民意識ヤベェな映画

小島秀夫も絶賛していたらしい、スウェーデン映画ボーダー (Gräns)』

取り替え子 (Changeling)・・・トロールなどの子どもと人間の子どもが交換されるヨーロッパ伝承モチーフにした話で

森で暮らすヒロインすごーーく醜いって設定

たぶん増田はてなミニシアター映画は観ないと思うので以下完全にネタバレ

ストーリー(ネタバレ)

ヒロインティーナは不美人だが、人間感情を嗅ぎ取り読み取ることが出来る特殊能力を持つ

彼女税関職員としてその力を遺憾なく発揮し、日々密輸やその他の悪事完璧摘発する


しか彼女はどこか不安げで覇気がない


醜い容姿から、幼少期は虐められ、大人になり職を得た現在も不躾な視線は一向に無くならず、

疲れ果て、森の自宅へ戻っても、いるのは働かない上に浮気を隠す気がない同居人と襲いかかってくる犬

愛してくれた父親は森の自宅を出て今は老人ホーム

父親を見舞いに行けば「あの家はお前のものなんだぞ」とは言われるものの、

「彼は優しい。わたしは一緒にいてくれる人が欲しいだけ」と彼女は答えるしかない


そんなある日、税関自分と似たような外見と不可解な匂いのする大男を見つける

不可解な匂いの原因を徹底的に調べるも犯罪要素は見つからない

それどころか、どうみても大男なのに女性器を持ち更には手術痕すらないという

なんやかんやあったのち彼女自分と似たような男(?)ヴォーレを森の自宅の離れに住まわす

働かない上に浮気を隠す気がない同居人は『シリアルキラーあいつは?なぜ僕に無断で決めたんだ』とおこだったがティーナはシカトした

そしてなんやかんやあったのち、自分人間ではなくトロールであったことを知る

醜かったわけではなく単純に種族が違っただけだったのだ。彼女は生まれながらに完璧で出来損ないなんかではなかったのだ

人間世界では疎外感を感じるのでヴォーレと一緒にトロール同族を探し、同族と共に暮らすと申し出るも、

「キミは人間世界適応出来ている。辞めとけ」と言われてしま


ティーナは色々とモヤモヤしつつも、

浮気を隠す気がない働かない同居人を追い出したり、

同族出会えた解放感でヒャッハーしたり、

ちんこ生やして女性器を持つヴォーレとセックスしたり、

なんやかんや充実している生活を送る中、

税関児童ポルノビデオ摘発した能力を買われ、児童ポルノビデオ制作している住所を探し出して欲しいと依頼される

遺憾くそ能力を発揮し、見事犯人どもを一網打尽にする

完全にティーナに追い風が吹いてきてるのだが、ここで落とし穴


なんとこの児童ポルノ制作にヴォーレが関わっていたのだ


ヴォーレは人間赤ちゃんを攫っては自分の生み落とした赤ちゃん(無精で出産出来る)と交換し、

人間赤ちゃん児童ポルノなど闇組織に売り払い、人間たちへの復讐フィンランドにいるらしいトロール同族探しの資金としていたのだ

しかも、ティーナのご近所の赤ちゃんまで攫っていた


ティーナはトロール人間にどんな目にあわされたかはヴォーレから聞いている

トロール人体実験をされ刻まれ精神病院へ閉じ込められ、その殆どは生き残ることは出来なかった

運良く生き延びられたティーナも尻尾を切られ、人間から酷い虐めを受け、今もなお不躾な視線を向けられ続けているし、

森の家を残してくれた父親にしたって、本当の両親(トロール)のことについて尋ねれば、人間の犯した罪と向き合わず、怒鳴り散らすだけだ

先日摘発した児童ポルノ制作犯人たちにしたって普通人間夫婦一見はまともなご家庭風だった


それでもティーナは知っている。そんな人間ばかりでは無いと

誰かを傷つけ残酷振る舞うことで得られる物は何も無いと


ティーナはトロール同族探しの旅への同行は断り、ヴォーレに警察差し向ける

ヴォーレは武装した警察官に囲まれるとフェリーから飛び降り夜の海へ消えた


浮気を隠すつもりも働くつもりも襲う犬を躾ける気も無いがとりあえずティーナと一緒にはいてくれた同居人は追い出したし、

トロール同族だったヴォーレは外道だった上に海に消えたしで、

森の自宅でひとりで過ごすティーナの元に老人ホームから父親がやってくる


ティーナの本当の両親(トロール)について話す気になったのだ


トロール人体実験を行なっていた精神病院警備員として勤めていた父親子宝に恵まれず子を欲していた

そしてトロール夫婦に話を持ちかけティーナを譲り受けたのだ

もちろん、トロール夫婦は多くのトロールと同様に人体実験の末、病院の裏に人知れず埋められたが、

それについて父親から発せられる言葉は何も無い

ティーナはトロールの両親に名付けられた本当の名前を知る

しか父親ティーナの本当の名を伝えてもなおトロールの名で彼女を呼ばず、人間がしてきたこ自分傍観してきたことに向き合わない

ティーナは父親を拒絶した


完全にひとりになったティーナの元に小包みが届く。その中にはトロール赤ちゃんフィンランド絵葉書

優しくトロール赤ちゃんを抱き上げエンド

ティーナのご近所の攫われた赤ちゃん結局どうなった?以外は問題なくない?

あるぞ

ヒロイントロール故に人間美的価値観からしたら醜いって設定なんだけど

どう見てもモンゴロイドです、ありがとうございました

白人でもああいうおばちゃんいる
特に寒冷地域に住んでるモンゴロイドの血が入る地域だとね
サーミでもモンゴロイドの血が強くでりゃああなるけど政治的OKなのかスウェーデンよ?

あと、人間との違い(不気味さ)を出す演出に『虫』を食べるがあったが、

虫を食べる民族普通におるのだが?それは?


北欧って怖いところだなって思いました、まる



追記ボーダー見る気がある人は見終わるまでは下記は読まないでね


陸続きなんで血が混ざり合うのは当たり前っちゃ当たり前の話なんですが

ブクマカ見てるとそう思い至らない人たちもいらっしゃるようなので追記するよ


(なお、差別は国や特定人種では無く、個人パーソナリティだと予め書いておきます

奴隷解放宣言前の19世紀教会宗派まで変えてジョン万次郎を受け入れてくれたホイットフィールド船長然り、

同じく、奴隷解放前に、白人でないばかりか結合双生児のチャン&エン・ブンカー兄弟(シャム双子)を受け入れた人たち然り、

厳しい時代においても差別しない人は差別しません。その逆にダイバーシティを謳う時代でも差別する人は残念ながらいます)


人間も寒くて暗いところは、アルビノ化して大型化して目もパッチリするのですが、

北欧北米は一重まぶた(内眼角贅皮)で目が小さい小柄な人もそこそこいます

これは単純に中頻度でモンゴロイド系の遺伝子が見られるからです


そうして起こることは、A:見るからコーカソイド、B:薄顔のコーカソイド、C:見るからモンゴロイド、この3パターンの出現です


Aは問題無いでしょう、

Bは微妙ラインですがビョークサーミの血のヒロインあたりの感じですかね、

Cはあからさまに異端、でも当たり前ですが生まれます

どうみても冷寒対応したモンゴロイドの他に、コーカソイドの血が入っているので眉骨が出た感じの人も生まれます

おでこ(正確には眉骨)が突き出て(目が窪んで)るが、目鼻は小さく丸顔でどう見てもコーカソイドではない、のっぺ〜っとした『なにか』となります

この『なにか』が残念なことに、ブクマカ言葉を借りればいわゆる亜人顔だったりするし、Mongolian idiocy(蒙古症)=ダウン顔だったりする


たくさんの血が混じり合う地域でその血の出方によって差別が発生するのはインドカースト然り珍しいことではありませんが、

ダイバーシティ現代において、北欧発で今さらあんものを見せられるとは思いもしなかったというのが正直な感想です

あと虫を食べるのは奇異な行動ではありません。不気味さ(人間ではない)演出に使わないでください

東南アジアでは近代化されてもなお伝統食や風変わりなスナックとして虫を食べますし、なんだったら食料危機を救う食材として研究もされてます(もちろん現代的でクリーン環境培養養殖されたもの)


トリーチャーコリンズ症候群が原因で顔の形が変形した少年主人公児童文学ワンダー 君は太陽 (原題:Wonder)』の方が

100億倍正しいと思いました。感動ポルノとか言われてるけどね

黒人セレブの肌のホワイトニングブリーチとかもこういう背景から来るのかな・・・

2020-01-02

100分de名著シリーズバックナンバー約100冊を読破したら人生変わった、の補足

はじめに

https://anond.hatelabo.jp/20200101232410

はてな村で好まれそうな話題だなとは思って投稿したものの、想定以上に反応があって驚いてます

酔った勢いで書いたものであるので、文体が一致してなかったり論理破綻してたり誤字脱字がひどいですね。

結果、説明不足だったり変な文章だったりが原因でいくつかこれは補足しておきたいなと思ったコメントがあるので補足させてください。

コメントへの返信

解説本を読んでから原典をあたることの弊害、系のコメント

解説本を読むことで原典にあたった際の新鮮な驚きが減るのは確かと思いますネタバレ効果というか。小説系では顕著と思います

また、解説者の解釈固定化されるという懸念も確かにあるかと思います

しかし、私の記憶では「これは私の解釈だが」「多数の説の中で、私が支持するのは」など、

俺の解釈絶対だという態度で解説してた解説はいなかったし、異説も提示していることが大半でした。

ここまでやってくれたらあとは受け取る側のリテラシーかなぁ、と思います

また、100分で名著の解説実施していることは「あらすじ」+「執筆背景解説(作者の人生の中で著作の占める位置など)」+「解説者の解釈解説」と思っています

この内「執筆背景解説」が一番の目玉であり、知識のつながりを作ってくれるところで、この部分は原典だけ読んでも絶対に得られない補助線です。

私は持久スポーツ趣味にしていますが、例えばフルマラソンなら当たって砕けろでもまぁ、レース中の数時間もがき苦しみ、暫く足がまともに動かなくなる覚悟があればゴールは出来るでしょうが

ウルトラマラソンとか、アイアンマンになると当たって砕けろではまぁ無理で相応の準備がなければ、失敗したという経験経験値に変えることも出来ずに敗退すると思っています

特に古い思想書知的作業としてウルトラマラソン級だと思いますし、かつ何かを求めて読むわけでしょう。

ウルトラマラソンで周りの景色も何も見えないぐらいつらい状態になって、制限時間オーバーで失格になっても兎に角意地になって歩き続ける人がたまにいて、マラソンならそれでもいいかなと思いますけど、

古典を読む場合最後のページにたどり着ければよい、というものではないですよね。

途中の景色を楽しむためには相応の準備というもの必要なのではないかな、よほど読書体力に自身があるのでなければ、背景を知識として持っておくのは良い方にしか働かないのではないか、と私は思います

中央公論社などが出している類似の「名著解説系」の書籍についてのコメント

100分で名著の一番の強みは「TV番組であること」であり一番の弱みもまた「TV番組であること」であると思っています

強みとしては、インタラクティブ解説(動く図形とか、アニメとか、俳優朗読とか)が可能になること

弱みとしては「解説者の準備期間、解説時間制限がかかること」「番組上では注釈実質的に挿入できないこと」「月に1冊のペースでしかラインナップを増やせないこと」ですね。

特に月イチのペースでしか増やせないのは大きな制約で、解説本の中で出てきた関連本に解説が欲しくても、100分で名著で解説される可能性は極めて低いと言わざるを得ません。

そういう意味で、名著巡りの入り口しかならないといえばならないのだと思います

100分で名著をメインに追いつつ、他にも手を出してみようとは思っています

番組だけ見てた、撮りためていたものを見よう~系のコメント

私は実は番組はあまり見ていません(3割くらいかな)。毎週火曜日この時間TVに向かっていることが難しいからです。

理想は両方こなすことだと思いますし、伊集院光さんのリアクションは時々ハッとさせられることもありますが、私はどちらかを取れと言われたら解説本だけ読みます

番組が「あらすじ」+「執筆背景解説」+「解説者の解釈解説」で割合が2:2:6~1:5:4まで変動するとしたら

解説本は執筆背景解説に一律+3、解説者の解釈解説が一律-2って感じです。

(逆に、あらすじだけ知りたい場合100分で名著は重厚長大で、もっと手軽な選択肢があると思います。)

そりゃ、番組の中で解説にちらっと出てきた著者の友人の来歴とか、著書とか、いちいち全部触れられないですよね。

まり、私が元投稿で言った「本の解説で繰り返し取り上げられる要素(人名思想歴史上の出来事など)があることがわかった」現象

番組を見るより解説本を読んだときのほうが顕著に起こると思われます

なので、もし元投稿を見て「知識がつながるって面白そう」という点に興味を持っていただけたなら、解説本の方をメインにされることを私はお勧めします。

読みたくない本を頑張って読む、系のコメント

頑張って読んだ、という感覚はありませんでした。

おそらく、原典には「頑張らないと読めない」ものもたくさんあると思いますが、解説書の段階では頑張らずに済みました。

正直、興味をそそられたかどうかにレベル差があるので、結局読まない原典もあると思います

古典名作だと聞いて読んでつまらなかったら被害甚大ですが、水際で食い止めてくれたことになると思います

そういう意味でも解説から読むのはおすすめです。

読みたくない本、という感覚もなくて、どちらかといえば「知らない本は読めない」ですね。

恥ずかしながら「エチカ」だとか「夜と霧」だとか「全体主義の起源」なんて知らずに生きてきたので

まず読みたくないかどうかも解説書読んで判断しようと思ってました。

食わず嫌いよりは、試食コーナーの匂いで避けた、の方がまだマシかなと言う感覚です。

風呂の中で本

私は蓋を半分開けて、上にタオルを敷いて読んでます

シャワーを使う際には、本はタオルにくるんで蓋に挟んで防水します。

あるいは、もう風呂場の外に出してしまます

このスタイル読書して2年位になりますが、多少湿ることはあっても、問題になるほどビシャビシャになったことはないですね。


大学教育について

以前スウェーデンに出向していた友人から聞いた話ですが彼の国では大学とは必ずしも高卒すぐ入るものではなく、

暫く働いてから勉強したいことを見つけて入る人も相当にいるらしいですね。

その彼が聞いた日本との違いを顕著に表しているセリフが「高卒のガキに大学教育もったいない」「日本人は高校生の時職業決めるんでしょ?すごいね」です。

後者は嫌味なのかな?と言う気がしないでもないですが、前者は今本当に身にしみています

大学教育をきちんと受け止められる18歳って、そんなに多くないですよね、、、

おまけ

解説本の中で特におすすめするもの

以下私の勝手解釈です。見当違いのことを言ってるかもしれないですが、、、

私と趣味が合いそうだなと思ったら、まずは以下をお勧めします。

集中講義 大乗仏教

スペシャル版なのでちょい分厚いですが、これが私の一押しです。

日本大乗仏教諸派の成り立ちと違いについて、今まで何度か教わったし読んだはずなのですが全く頭に入ってこなかったのがすらすら入ってきました。

読了後は、まるで自動車教習所に通ったあと今まで目にも入らなかった交通標識が急に意味を持ち出したような感じで、街中のお寺から情報を取れるようになりました。

ホントおすすめです。

茶の本

私自身が茶道やってる事が大きいかもしれませんが、日本人が外国人に、英語日本文化を説明する起点として最高と思いました。

実際、ボストンで友人とあったとき(作者の天心はボストン美術館の東洋部長です)なんと役に立ったことか、、、

全編、声に出したい日本語だと思いました。言葉がやや古いのですが、原典も薄くて読みやすいです。

維摩経

維摩さんというレジェンド級のアマチュア在家信者)がプロ菩薩軍団)をやり込めまくる話です。

煩悩は湧くに任せよ、とらわれないことが大事だ」というフレーズがとても頭に残っています

一番実践やす仏教な気がしました。アメリカの方で流行っているzenとかsatoriってこれを目指してるのかな?と思っています

↓と思った記事

https://aishinbun.com/clm/20181218/1888/

パンセ

人間自己愛ゆえに苦しまねばならぬ、というのがメインの本と理解しました。それだけでも納得感あるのですが、

本人的にはキリスト教最高!で異教徒折伏するために書いた本らしいのに仏教が目指してるところと同じっぽいのが面白くて読んでました。

原典が思いっきり重そうなのですが、いつか読みたい本の一つです。

ラッセル 幸福論(幸福論というタイトルの本が二冊あるので著者名も)

いろんなことを言ってるわけですが、

私は趣味を持て、幸せになれるぞ?という本だと理解しました。ラッセルさんの趣味定義とは「~を収集すること」らしいです。つまりスタンプラリーですね。

かに対して情熱を持ってスタンプラリーしてるうちは人生に飽きない、ということかと思いました。

個人的には、すごく共感する価値観でした。

解説読破もそのノリでやってやらぁと思ったのを覚えています


資本論

正確には100分で名著シリーズではないのですが、この「一週間で資本論」が成功したので100分で名著が始まったらしいです。

資本家の行動原理が今とぜんぜん変わらず、ギグ・エコノミーとかも19世紀理論説明できることに驚きました。

経済理解するためというよりは自分の身の振り方を考える上で有用だなと思った本です。


買った原典(と、解説本で出てきた関連書籍リスト

リストがほしいというコメントをいただいたのでリスト載せます

趣味が合いそうだなと思ったら、参考にしてください。

(抜け漏れあったので追加。まだ何冊か忘れてる気がする、、)

ぶっちゃけページ数その他が軽そうだから選んだもの

点と線

かもめ

君たちはどう生きるか

赤毛のアン

アルプスの少女ハイジ

【読み直しをメインの目的で選んだもの

星の王子さま

人間失格

斜陽

三四郎

こころ

銀河鉄道の夜

空気研究

永遠平和のために

解説本を読んでいて特に興味を惹かれたもの

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茶の本

代表的日本

奥の細道

神話日本人の心

・昔話と日本人の心

死者の書

高慢と偏見

銀の匙

世論

薔薇の名前

ペスト

・獄中から手紙

ゴルディアスの結び目

・失敗の本質(「野火」関連書籍

1984

苦海浄土

夜と霧

野火

・音に色が見える世界(「宮沢賢治詩集」関連書籍

日本霊性(「茶の本」など関連書籍

ソラリス

フランケンシュタイン

【好きになれるか不明だが、まず手を出してみたかった異分野】

オイディプス王

ハムレット

マクベス

中原中也詩集

茨木のり子詩集

宮沢賢治詩集


おわりに

年末年始休み読書もはかどり、新たに買った原典も既に8冊終わりました。

今のところ、全て期待通りの内容でとても充実した休みになっており今年ずっとこの調子で読み勧めていけたら、、、(無理だろうけど)と思ってます

どういうふうに仕事の本を差し込んだら、自分の中の読書熱にうまく歩合出来るかを考えるのが今年の課題かな。

動物本とか、読んでて飽きることがあるんですよね。

なお、私が100分de名著を知ったきっかけは単身赴任中の父がずっと見ており、解説本を纏めて実家に持って帰ってきたのがきっかけでした。

なので、私の読んだ解説本の半分くらいは父から借りました。

私も読み出して以来、お互いの話題共通点も増え、お互いの読書の幅も広がって、

初めて父と同等の視点知識交換をできるようになったような気がしており、その点でもこの番組には深く感謝しています

(私の専門のITのことでは以前から教える立場でしたが、これとはなんとなく異なる現象のような気がしてます。)

良い1年を!

2019-11-28

anond:20191128121641

知らんけど、戦争が起こったわけではないアイルランドでは19世紀飢饉が起こったときに大半が隣のブリテン王国国外脱出していったそうだよ。

同じ感じになることは別に不思議じゃない。

(その後アイルランド人がどういう扱いになったのかについては歴史教科書に聞いてくれ)

anond:20191128121641

知らんけど、戦争が起こったわけではないアイルランドでは19世紀飢饉が起こったときに大半が隣のブリテン王国国外脱出していったそうだよ。

同じ感じになることは別に不思議じゃない。

(その後アイルランド人がどういう扱いになったのかについては歴史教科書に聞いてくれ)

2019-11-22

anond:20191122101224

黒人19世紀くらいに突然変異で発生したとでも思っているのか?

2019-11-17

哲学黄昏

http://www.phys.cs.is.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/time/note.html

サーバメンテナンスみえないっぽいけどめちゃくちゃ面白いね。いまさらだけど。

谷村先生は本当にまじめな先生だな、と思う。

メタな話をすれば、哲学者側は最先端物理学者との対談で自分の論に箔をつけて業績にできるめったとないチャンスで、対する物理学者側は正直こんな本が出ても業績としてたいして価値があるわけでもなく、無難お茶を濁しても誰も何も言わないだろう状況へこのガチファイターの投入である。(ほめてる)

流血覚悟、魂をこめた渾身の右ストレート

そしてこの叫びである

https://twitter.com/tani6s/status/1193542355975950336

https://twitter.com/tani6s/status/1193542463169810432

谷村先生人間味が感じられるツイートお気に入りである

心の哲学が何を問題にしているのか、とか全然興味なかったけど、おかげさまで浅いなりに理解できたし興味も出てきた。谷村先生が頑張らなければひっそりと専門書の棚に気付かれることなく置かれてるだけだったかもしれない本だったかもしれず、関係者谷村先生感謝しすぎてもしすぎることはないんじゃなかろうか。

ところで谷村先生が指摘した部分というのは、理系研究者人間であれば多かれ少なかれ感じていたが言語化するのがためらわれた結果、これまで表面に上ってくることのなかった問題のように感じる。

学生の頃、人文系研究室卒論科学研究室卒論とを同じ発表会で見る機会があったけど、科学系の教授の人文系の発表への容赦ないツッコミを思い出した。

用語定義しろ立論にしろ結論を導く論理しろ君たちあまりに緩すぎないか?というのが共通する雰囲気だと思う。

科学が発達していなかった昔、哲学科学がまだ扱えない領域を先んじて論理の力で掘り起こす役目を担っていたと個人的には思う。(谷村先生の期待もこういうものではなかっただろうか。)

だが色彩論でのゲーテニュートン批判とか、時間論でのベルクソンアインシュタイン批判とか、科学哲学に先行して真理を掘り起こした結果、取り残された哲学が宙ぶらりんのままになる状態19世紀以降は顕著になってきたんじゃねえかと思う。まあ哲学のことはよくわからんのでアレだが。

ベルクソンアインシュタイン対話翻訳ネットで拾って読んでみたが、ベルクソンが長く理解しにくい文章で考えを述べる一方、アインシュタインは明晰で短い文章でバッサリと切っていて既視感がすごい(語彙力)

今、AIとか脳科学研究が進んで、心に関する諸問題哲学ではなく、科学俎上で実際に解決される可能性が高くなってきたと思われる。

意識ハードプロブレムとかも、哲学からの「まだまだ科学に扱えないものがあるんだよ!!」という断末魔叫びのようにも感じられる。

だが科学は進む。

意識問題も脳というハードウェア上に構築されたニューラルネットワーク状態空間として科学領域に取り込まれ哲学領域はまた一歩小さくなっていくのだ。

地動説人間の住む地球宇宙の中心ではなくなったように、進化論人間が神に作られた特別存在ではないことがわかったように、有機物生命作用なしに合成できることがわかったように、意識もまた特別な何かではなく、我々自身哲学的ゾンビなのだということを認めざるを得ない瞬間が必ずくるだろう。

キリスト教根底にある思想最後まで魂の特別性に拘泥するかもしれないが仏教だと五蘊皆空と思えばどうということもない気もする。

まとまらず終わる。

2019-11-09

例のアキバポスターを変えてみる

  • 2次元女の子を0と1の羅列にする→眼を細めて見れば...なんとか...ん〜?

以上、見える形によって、受ける印象は変わってきますね。

え〜しー

2019-11-03

アンチフェミのための本当の社会構築主義入門

 以下では、フェミがオタク叩きをする根幹思想”社会構築主義”とは?における主として次に挙げる2ツイート問題点の指摘と、関連して宇崎ちゃん献血ポスターについての議論を行う。

そもそも

社会構造ってなに?

どこにあるの?

どうやって見つけるの?

それは反証可能性あるの?」

って、どの研究書を読んでもまともに書いてない。ただ、「ある」ってことを前提にして話をしてる。

そもそも社会構築主義」に限らず、社会学において、社会構造人間行為関係は、最も根本的なところでまったく解明されていない。

人間社会構造を作り、その社会構造人間規定するというのがどういうことなのか(ミクロマクロリンク問題)、社会学出来てから100年以上全くわかってない。

 この文章を書いた理由としては、上記Togetterがあまりに「社会学」についてのひどい誤りを書き散らしているにもかかわらず「参考になった」的なコメントが多くついておりヤベえと思ったためです(「ジェンダー論」についても誤りがありそうだけど詳しくないのであまり触れませんでした)。また、それはそれとして献血ポスター批判側にも「社会学」(同じくたぶん「ジェンダー論」も)を誤解していたり、受け手を誤解させかねない振る舞いが多く見られるのでその点についても指摘しています

 以下では最初に「反証可能性」についての話をした後に、次に「社会構造」の話をし、最後に宇崎ちゃんポスターの話をします。

 まず、反証可能性という用語を真顔で使っていいのは高校生までです。科学哲学(「なにが科学か」「そもそも科学とは何をしているのか」についての哲学)に詳しくない人のために反証可能性について一応説明しておくと、「それが間違いであると認められる可能性が無いもの科学ではない」という理論です。たとえばオカルトに対しては結構これが有効で、やつらはこれを買うと病気が治るとか言って壺を売りつけてくるわけですが、当然買っても病気は治らない。それで苦情を言いに行くと「あなた信心が足りないからです」とかなんとか言って「仮説:買うと治る 実験:買った 結果:治らなかった→仮説は棄却される」という「反証」を受け入れてもらえない。こういう状況を反証可能性が無い、といい、その状況と「まっとうな科学はすべて反証可能性を持っている」という前提からオカルト科学ではないと結論されます

 しかし、であるオカルト科学ではないのはいいのですが、すべての科学反証可能性を持っているかというと怪しい。化学物理学最先端研究だと、現状そこの施設しか営利企業だったりする)でしか検証できない実験結果がネイチャーかに載ってたりする。あれはいいのか、という話になる。「いずれ反証できる『可能性』があるからいいのだ」という人がいるかもしれないが、いまこの瞬間はまだ反証可能性が無いのにネイチャーかに載っちゃうのはどうなのそれは本当に科学なのということはまだ言える。というかそれでやばいことになった事例もあるわけで(ヘンドリック・シェーンSTAP細胞など)。まあ「可能性がある(実際先の2つは実際反証されたやろ[STAP細胞が無いと証明した人が居ないのに反証されたと言っていいのかとか問題もあるのだが省略!])」というところでそこは押し切るとしても、更に根本的な問題がある。

 反証可能性理論から出てくる規範として「科学者ならば反証された仮説にこだわっていてはならない」というものがある。例えば「STAP細胞はありまぁす」とかほざいた奴に対する科学コミュニティからまなざしを思い出してみるとまあわかる話でしょう。しかしそんないさぎよい態度が歴史上とられたことがあっただろうか。例えばニュートン万有引力を「ありまぁす」と言ったわけだが、当時の科学者(とか錬金術師とか哲学者とか、ようするに当時のインテリほぼすべて)から袋叩きにあった。ほぼ1人vs全世界の構図なわけで、それだけの物量の「反証」が寄せられると中には正しいものもあったりする(たとえばニュートンは「エーテル」を存在するものとしていたが、そんなものはない。あるいは単純な計算ミスもあっただろう)。さて、正しい反証を示されたニュートン万有引力という仮説を撤回しただろうか。皆さんご存知の通りしなかったのである。なんと卑怯にも奴は後出し理論マイナーチェンジを続けて「ありまぁす」と主張し続けたのである。壺を売ったあとに「壺は仕事をしたが信心が足りなかった」と言う宗教家と何が違うのだろうか。というのは流石に極論であるにしても、反証可能性という概念が当初思ったほど切れ味の鋭い概念では無いことは理解してもらえたと思います

 そういうのをコミコミで、普通反証可能性」という用語を教わるときは「という便利そうな概念があるけどそこまで便利でもないよ、だから次のパラダイム論が出てきて、それも思ったほど便利じゃなかったので…」というところを必ずセットで教わると思う(ので真顔で使っていいのは高校生まで)のですが、件の人は一体どのような教わり方をしたのでしょうか。

 この時点でこの問いがどうかしていることは明らかなのですが、「社会学が専門」と言った上で「社会構造ってなに?」という問いはまして頭が痛いです。

 社会学史のおさらいをしましょう。なぜ社会学なんて胡乱な学問が成立したのかと言うと、それが必要だと当時の人たちが考えたからです。どういうことか。一般的社会学の成立は、19世紀前半~中盤に活躍したコントスペンサーという人たちから19世紀後半~20世紀初頭に活躍したデュルケームウェーバーという人たちあたりが成立させたと言われています。以下ではコントデュルケームという2人の流れを説明します。スペンサーウェーバーも偉いのですが、「実証的」とか「科学的」とか言われる社会学を作ったのはやはりコントデュルケームだと思うからです。あとぶっちゃけスペンサーウェーバーには筆者が詳しくないという理由もあります

 さて、時代19世紀初頭、フランスコントという人がいました。大抵の社会学史的な文章にはこの人の名前が出てきます。逆に言えばたいてい名前しか出てこないのですが、その理由はおそらくデュルケームと比べるとぶっちゃけまりに見劣りするからです。それでも名前が出てくるのは、彼が今の意味での「社会学」という言葉を初めて使ったからです(正確に言えば彼が提唱したのは社会物理〉学でしたが、ここでの物理学physicsは明確に形而上学meta-physicsと対比される形で使われており、社会形而下学とか、社会についての実証的な学問とか、まあ要するに社会学のことでした)。19世紀初頭のフランスといえば、フランス革命の余波も大きく、社会しっちゃかめっちゃか状態でした。偉かった教会とか王様とかの権威が失墜して、ナポレオン独裁して、また昔の王朝に戻ったりしてました。多分一年ごとに自民党共産党政権を交代してもここまでの混乱はしないんじゃないかってくらいの混乱だったんだと思います。そういう中で生きてると不安になるわけです。幸せになれないわけです。じゃあどうすればええねん、と考えた人がコントでした。彼は「社会学」という言葉を初めて用いた『社会組織必要科学作業プラン』の中で次のように述べています。昔は王様とか宗教とかが社会をまとめあげてたよね。で、今もそれを復帰させようとしてる人がいる。気持ちはわかるよ、でも一度変わってしまったものは元に戻らないわけで、そういうのは無意味。新しい社会には新しいまとめあげの方法必要だよね。そのための方法社会についての実証科学を創設してみんなにそれを教育するということです!なぜならそれによって、社会のみんなで同じものを見て確認するということが可能になり、それでまたみんなの団結が可能になるからです!と。今の意味での「社会学」を全員に教育するべきかはともかくとして、社会についての科学的知見を皆が持つべきだ、というのはなんとなくわかる気がしますよね。というか200年経ってもまだ未達成なプランじゃないかと言う気がしてきますよね。「身の丈」とか言ってる人にはコントの遺灰を煎じて飲ませたいくらいじゃないでしょうか。正直天才の発想だと思います。ここで大事なのはコント王様教会権威(当時は王様神様みたいなものでしたからようするにまとめて「神学」でしょう)の代替物として、「社会学」を構想したということです。にもかかわらず「社会学は神学も同然だ!」と鬼の首を取ったように繰り返してるあたりで、ああこの人は歴史を知らないんだなと思ってしまますが、まあ確かにいまどきハンショーカノーセーのない神学のままではよろしくない。

 それをどうにかしたのがデュルケームでした。彼は19世紀末に『自殺論』という本を著しました。一般教養講義などで社会学を取ったことがある人なら聞いたことはあるはずです。この本の意義は簡単で、社会しっちゃかめっちゃかになると自殺が増えるということを統計的に明らかにしたという点に尽きます。まあわからんでもないけど何がそこまですごいの?って思いますよね。デュルケームがすごいのは統計学が未発達(というかほぼ存在しない)なかで、しかも「社会個人に影響する」という概念自体存在しないなかで、自殺という究極的に個人的だと思われた事柄と、季節や宗教といった普遍的社会事柄統計を用いて結びつけた点にあります。それまでも人の死についての統計は無いわけではありませんでしたが、それは保険のための年齢別の死亡率表のようなもので(それも当時としては画期的だったのですが)、社会と死(それも病死戦死ではなく自殺)が結びつくという発想はまったく存在しませんでした。どれくらい革新的だったかというと、「『社会がこうなると自殺が増える』って書いてるけど、自殺してないやつのほうが多いよね?」「てか社会がそうじゃなくても自殺してるやついるよね?」みたいなクソリプ殺到するほどでした。それほどに統計というものが未知のものだったのです(今でもたまにこんな人いますよね)。かくしてデュルケームは、自殺というものすごーく個人的な(と思われている)ことと、社会構造との結びつきを発見しました。現在に至るまでその後のすべての社会学は、このデュルケームの発想の上に成り立っていると言っても過言ではありません。別に学問的なものでなくても、たとえば「社会をよくして自殺率を下げるべきだ」とわれわれが当たり前に考えているのも、デュルケーム社会自殺関係を明らかにしなければありえなかったことでしょう。あるいはより学問的なことを言えば「身の丈」発言があれだけ叩かれたのも、「貧困家庭の子供の大学進学率は低くなりがちである」「大学に進学しなかった場合は、進学した場合よりも収入が低くなりがちである」といった、日本社会学がこの30年ほどで明らかにしてきたことが人口膾炙したためであると思われます(ちなみに教育社会学を専門にしている先生[竹内洋苅谷剛彦だったと思う]が公民館で講演したところ「先生のおっしゃってることって、魚屋の息子が魚屋になるってことですよね?そんなのみんな知ってますよ」と言われたというエピソード個人的に好き。みんな知ってることを統計的確認するのが大事なんです)。

 このデュルケーム研究ひとつとってみても、あるいは「身の丈」発言に怒れるようになった日本人をとってみても、「社会構造存在する」というのは科学的に正しいし、世間的にも常識となっているとみてよいのではないでしょうか。それを否定するのは、Twitterなんかではなくそれこそ論文を世に問うことによってぐらいでしか可能にはならないでしょう。そのためには社会学の100年以上の歴史通暁していなければならないでしょうが、「反証可能性」を錦の御旗のように用いている人がそうであるとはとても思えません(社会学はその歴史最初からかなり頻繁に科学性を疑われる学問ですから何度も科学哲学の成果を吸収したりそれに反発したりしてきました)。

 まあ、件の人のおっしゃりたいことも部分的にはわかりますよ。社会構築主義うさんくさいって。まあそもそも社会構築主義というものがほぼ定義不能こんにゃく理論なのでそれに反発してもなあって感じもしますが。知らない人のために大雑把に説明しておくと、広義の意味での社会構築主義とは、何か(大抵は個人的で意外なもの)が社会的に構築されていると主張することの総称です。その意味ではデュルケーム自殺社会的に構築されているという社会構築主義者ですし、おそらくフェミニストであろうがなかろうがすべての社会学者がそうです。狭義の意味では現象学的な理論が語用論的展開の中でエスノメソロジックになんちゃらみたいなのがあるようで、一部フェミニズム的な社会学者はこの立場を取っているようですが、この書きぶりからもわかるように筆者は詳しく知りません。こんな曖昧概念を「ラディフェミ(≒社会構築主義)」と書いてしまえる胆力には脱帽しますが、その後社会学全体が神学だみたいな話もしているのでそもそもよくわかっていないのでしょう。

 それとは逆に「よくわかっている」人が社会構築主義批判した例として、イアン・ハッキング『何が社会的に構築されるのか』『何が社会的に構成されるのか』(誤字指摘感謝Twitterで「社会構築主義」と「社会構成主義」の違いを尋ねていた人がいましたが、場合によって一緒だったり違ったりします。ここではルーズにごっちゃにしていましたが流石に書名はだめですね)を挙げておくことは有用でしょう。この本は社会学を好きな人も嫌いな人も読むべき本だと思いますハッキング学者たちによって「Xの社会学的構成」とか「Xを構成する」とか言われているものリストをわざわざ並べ立てます。いわく「著者という存在、義兄弟子供テレビ視聴者感情事実ジェンダー同性愛文化、病、知識、読み書き能力、『要治療』とされた移民自然口述歴史ポストモダニズムクォーク現実連続殺人工学システム、都会における学校教育人口統計女性難民若者ホームレス現象ズールー族ナショナリズム」などが社会的に構築されるのだそうです。まあ、「若者ホームレス現象」とかは確かに社会的に構築されてそうだな、と思うけど、「クォーク社会的構築」とか「ポストモダニズム社会的構築」とかはさっぱり意味不明である。また、その種の中には「実験器具メーターを社会存在(つまり人間である)が社会の中で観測しているのだから科学社会的に構築されている!」みたいなものもあるようで、そこまで行くと「万物は流転する」みたいな悟りレベルに達してそうですげえなと思わされます

 ハッキングは中でも「ジェンダー社会的構築」について着目します。いわく、「ジェンダー」って概念そもそも生物的性」に対するカウンター概念としての「社会的性」だったのだから、「社会的性の社会的構築」と言っていることになり意味なくね、と。まあフェミニズムの側にも言い分はあってハッキングはそれも紹介しているのですが、詳しくは本を読んでください。最初20ページくらいまででまとまっているので。

長すぎたので続きます

https://anond.hatelabo.jp/20191103164229

2019-10-29

芸術家なんてごく一部の有名人以外は昔から胡散臭く見られてきただろ

やたら保護したり振興した19世紀が異常だっただけやがな

もともと9割はカスなんだよ

2019-10-24

田中亜以子さんの論考が滅茶苦茶

「感じさせられる女」「感じさせる男」という役割は、いつ生まれたか(田中 亜以子) | 現代ビジネス | 講談社

これな。中を読めばなるほどと思わされる近現代面白いトピックがたくさん書いてあるんだけど、それはいいんだが、総論があまりにおおげさじゃね? 「男性女性を『感じさせる』セックスデフォルトとする価値観誕生は、20世紀初頭の西欧に見出すことができる」とある。マジかよ、と驚いた。

とはいえ女性受動的、男性能動的とする当時の性別観は強固に維持された。(中略)『感じさせられる女/感じさせる男』の誕生である」ともある。そこに至る論旨がよくわからないんだが、なんか「女性受動的、男性能動的とする性別観」イコール「感じさせられる女/感じさせる男、という性別観」であり、そんな価値観19世紀以前の地球人類には存在しなかった、と言ってるように読める。そりゃいくらなんでもおおげさじゃねーの。

そんなに最近まれ特殊価値観だとしたら、「昔のセックスは男女対称だった」という例が,いくらでも挙げられるハズだ。しかしどこまで読んでも、それは、ない。ないのはどう考えてもオカシイんだが、そう指摘するブコメもない。春画では男女が対称的に絡み合ってる、という仄めかしが冒頭にあり、全体の締めに「性的快楽平等は、女性リプロダクティブ・ライツ保障はもとより、社会的女性男性と対等な存在となることなしに、ありえない。そして、そのときこそ単純な『感じさせられる/感じさせる』という性役割消滅しているのではないだろうか」とあるが、その割に、江戸時代町人男女は社会的に対等で性的に対称だった、のかどうか、踏み込んだ検証もない。なんでないの。ないならなんで仄めかすの。

オスがアプローチし、
諾否の決定権はメスが持つ。
オスが攻めでメスが受け。

その構図が、西暦1900年以降の西欧発明されたものだっちゅーの? アホか。地球上の大抵の虫も鳥も、カメレオンクジャクラッコカメも、そういうふうになってるじゃないか。それでも普遍的とは言えない、というなら別にそれでいいけど、数億年単位歴史があるものを「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー

◉◉

精子は貧弱だが活発で無尽蔵、卵子は富栄養だが不活発で希少である。種の生存戦略としてそれが普遍的な正解だとは言わない。原初地球原初の海の所与の条件下で、たまたま結果としてそういうタイプ勢力を拡大した、ということなのかどうか、まあとにかく事実としてそうなった。そういうタイプ生物於いては、オスが遺伝子を残す確率は、ほぼ、孕ませたメスの数に比例する。要するに、片っ端からヤリたがるのが正しい。

一方、メスはいくらヤッたって、一繁殖期当たり、通常一体のオスの子しか孕めない。当然、遺伝子を残す確率を高めるには、相手を厳選しなくてはならない。クソみたいなカスみたいなオスに孕まされたら一巻の終わりだ。なにせ卵子は希少なのだからヤリチン英雄だがヤリマンは愚か。例外は「タマシギ」くらいしか知られていない。

ヒトの場合で言うと、オスは1年で300人を孕ませることだって(3000人だって原理的には可能だが、メスはその間、一度しか妊娠できない。クソみたいなオスのアプローチを、時にかわし時に撥ね付け、同時に一方では懐妊のタイムリミットも気にしつつ、落としどころで妥協して決断して受諾するしかない。人気ブコメに「女が『やらせてあげる』(男が『やらせてもらう』)っていう表現意識絶滅してほしい」というのがあるけれど、そういう意識の根源はここにあり、絶滅はなかなかむずかしいと思う。「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー

◉◉

昔のブンガクの話をする。好色一代女は、「堂上家の姫君に生まれた一代女が、その道を踏み外して、快楽と苦悩とのないまぜになった売春生活の末に、次第次第に転落し、太夫から天神私娼へと堕ちてゆく」話で、1686年刊、とWikipediaにある。

あるいは八百屋お七。これはどこまでが史実でどこが創作文学なのかわからないんだが、大火で焼け出されたうぶな少女が、避難所遊び人にヤラれちゃって忘我の境地を知りメロメロになり、そのオトコに逃げられて想いを募らせ罪を犯すという話が、当時も、現代においても、深い同情と共感を呼ぶ。

あるいは竹取物語。男たちが求婚し、諾否の決定権は女が持つという、まさにそういう構図の話だ。

あるいは「逢ひ見ての のちの心にくらぶれば 昔はものを 思はざりけり」とか「つれなのふりや すげなのかおや あのようなひとが はたとおちる」とか、どうですか。エロいでしょう。西洋寓話には「眠れる美少女イケメンキスで目覚める」というのが多く、男女逆のは聞いたことがない。あれも、そういうことじゃないんですか。

あるいはオウィディウスの「恋愛指南」(複数和訳があるらしい。以下はネットで拾いましたすみません)。「私は[女が]自分の喜悦をついもらす声を聞くと嬉しくなる。私に待ってくれとか、こらえてくれとか、いってくれるのは嬉しい。女の愛の狂的な、もう参ったという目つきを見たいものだ。彼女をぐったりさせたい。もうさわってくれるなと拒ましめたい」「目当ての女性の膝に塵が落ちかかるようなことがあったら、指で払い取ってやらねばならぬ。たとえもし塵など全然落ちかかってこなくとも、やはりありもせぬ塵を払い取ってやりたまえ。なんでもいいから、君が彼女に尽くしてやるのに都合のいい口実を探すのだ」「接吻を奪ってからは、満願成就までなにほどのことがあろうか。ああ、なんたることぞ。そんなのは恥じらいではない、野暮というものだ。力ずくものにしてもいい。女にはその力ずくというのがありがたいのである。女というものは、与えたがっているものを、しばしば意に添わぬ形で与えたがるものだ」紀元前の書らしいよこれ。

これらに接して素直に浮かぶ感懐は、オレの場合、ああ、エロ事情って二千年前から変わらねえんだな、というものです。お前ら様はどうですか。ちなみに怪人小谷野敦は、怪著『もてない男』の中で「近代以降と中世以前との違いばかり強調するのがいまどきの流行だが、共通点だって普通にある(大意)」と述べている。「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー

◉◉

まあブンガクは置いとくとして、「ほとんどの生き物が、オスが性的アプローチし、諾否の決定権はメスが持つ」というのは、珍説でもなんでもなく、大抵の人が知っているはずの事実だ。「ほとんどの生き物で、まあ控えめに言ってもほとんどの哺乳類で、メスは交尾の間、ただじっとしている」というのも「ヤリチン武勇伝として語られがちだが、ヤリマンは呆れられる」というのも、大抵の人が知っている。「男の性欲は視覚からでも、あるいは内なるリビドーからでも一瞬で火が点くが、女の身体時間をかけ手順を踏んで優しい接触から始めてもらわないとなかなかスイッチ入らない」とか、「多くの男は射精快感自然に知るが、多くの女は上手な男に上手に開発されないとなかなか目覚めない」とかいうのも、まあ俗説かもしれないが、フェミ勢を含む多くの人が直感的に、かつ体感的に、認めているのではないか

若い女可愛い」というのも、無視できない。もちろん筆者なら「それこそまさに社会押し付けジェンダーロール」と言うだろうが、本当にそうか。「ヒトは、小さくてすべすべでふわふわで声の高い生き物を可愛いと感じ、愛でたくなるようにチューニングされている。子育てに有利だから結果としてそういう特性が優位になった」という仮説は、そんなにおかしくないと思うんだが。写真を見るとこの筆者自身、明らかにオレより可愛い

「オスが攻めでメスが受けなのは性器の形状から考えても当たり前」というような一見バカっぽい主張だって、「いつ生まれたか」を本気で考えるなら、当然アタマをよぎるはずのファクターだ。

なぜ、それらをすべて無視して、20世紀初頭の西欧なのか。

それは、「いつ、なぜ生まれたか」を、本気で考える気がないからだ。

この人は「それは社会的刷り込みに過ぎない。それもごく最近の、特殊な」という結論ありきでものを言ってる。だから、その結論に都合の悪い話は無意識スルーする

◉◉

ホニャララという価値観はなんら普遍的ものではない」式の主張は、確かに快刀乱麻感があって気持ちいいが、そもそも価値観というものはすべて何らかの偏りであり、したがって「普遍的ではない」のは当たり前だ。それだけでは「価値観価値観だ」と言ってるのと変わりない。

それが意味を持つのは、ホニャララフリー世界も意外に広い、という事実とセットの場合だけだ。例えば「チョンマゲはカッコイイという価値観」に対して、「チョンマゲを奇異に思う世界の方が圧倒的に広い」と提示することには意味がある。また例えば「食事というもの主食とおかずから成る」と思い込んでる人に、そうでもない文化圏存在を示せば、有益な目ウロコ落としになるだろう。だが「感じさせられる女」の論考には、男女が互いに感じさせ合う文化圏も意外に広い、というような例は、ぜんぜん出てこない。

そんなら、最初からこう言えばいいんだよ。「普遍的かどうかとか、いつ生まれたのかとか無関係に、私はその価値観が嫌いだ」と。「想像してごらん、男女が対称的なセックスを。私を夢想家だと笑うかい?  But I'm not the only one. I hope someday you'll join us」と。

オレは「セックス快感の授与と受容において、男女はもっと対称的であるべきだ」という、なんとなくジョンレノンっぽい主張を、批判する気はない。特に賛成でもないが反対でもない。そう思う人はそう主張すればいいと思う。少なくとも、悪い意見じゃない。

また、男女の性行動の非対称性自然根拠があるからと言って、「自然根拠があるから肯定・維持すべきだ」とも思っていない。例えば「痴漢は男が多い」ことには、生物としてもっともな理由があると思うけれど、だからといって痴漢擁護する気はない。いくら本能的にもっともであっても、否定されるべきことというのはある。

からね、その主張自体は、べつにいいんだよ。ただ、その主張を強化するために、客観を装ってもっともらしい嘘を述べ、あるいは誰かのもっともらしい嘘を本気にし、それをあたかも確定した事実であるかのように無批判引用し、自分の主張の根拠とし、都合の悪い要素はスルー、という、その姿勢がイヤだ。恥ずべきだ。

◉◉

オレの方こそ些細な点をおおげさに問題にしてるのだろうか。

例えば「そういう価値観は太古からある。ちょっと20世紀初頭の西欧から概観してみよう」とでも書いてあれば何も文句はないんだし、脳内さらっとそう読み換えて流すのが大人のたしなみなのかも知れない。だけどさー、「いつ生まれたか」というタイトルで、「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、はっきり書いてあるんだもんよー。長くてごめんねー。

2019-10-20

anond:20191019235534

19世紀為政者も勃興する民族主義にそう思ってたんじゃないの?

でも現代では民族自治なんて当たり前に認めてるわけだし

そのうち慣れるだろう

 

2019-10-19

anond:20191019165123

元増田です。皆さんトラバで参加いただきありがとうございます

さて、正解は「2」だそうです。なぜでしょうか?

元ネタ記事から孫引き(『芸術新潮2003年6月号「ヴィクトリア朝の闘うヌード/筒口直弘」)ですが、詳細は以下の通りだそうです。

この2人のヴィーナスが、それぞれどういう場にいるかを、よく見比べてください。レイトンの絵の背景に顔を出す青い海は、おそらく地中海。ドーリス式の柱も立っているし、画面の左下にはヴィーナスアトリビュート引用者注・このモチーフはこのキャラクターを表す、という約束ごと)である薔薇の花と鳩が描かれています

一方のムーアの絵は、そこがどこかも判然としない室内風景ですよね。画面の下に描かれている染付の壷なんて、明らかに1869年当時(引用者注・この絵が描かれた年代)の日本趣味を反映している。

まり、こういうことなんです。レイトンヌードは、その場面設定からして、古代ギリシャ世界ヴィーナス像以外のなにものでもない。一方、ムーアヌードはといえば、画家アトリエのような室内でヌードモデルを描いたとしか見えない作品でした。レイトンヴィーナス像の伝統というものをきちんと踏まえているとすれば、ムーアヴィーナスは、A

Venusという題名のとおり「ヴィーナスのようなもの」、つまりヴィーナスのものではなくて、単なる現実モデルヴィーナス風に描いたヌードにすぎなかった。

先ほど紹介したムーア作品への2つの評が変に回りくどい言い方で貶していたのは、この事実を口に出すのがはばかられて、ぐっと呑みこんだ結果だったんですね。だからムーアの絵を見た評者も、本当は「道徳的にやましいところ」を感じていたわけですよ。

引用者注ムーアの絵は「あまりにも醜くおぞましいために、その趣味に反対する以外、他に反対しようという気にもならない」「このようなヌード作品には反対しようがない。というのも、まったくもって不愉快きわなりないからだ」といった具合に、具体的に「どこがどう」という指摘ではなく、ヘンに奥歯に物が挟まったような表現批判されている)

というわけで、この例では19世紀中ごろのヨーロッパ画壇における文脈にめちゃくちゃ依存しているわけです。

21世紀日本という全く背景が異なる我々が理解できなくても、たぶん「まあ、当時はそうだったんだろう」と考えるほかないのかなあ、と個人的には思いました。

上の引用にあるムーアの絵への批判の筆致も、最近日本でも何か似たようなのをよく見るような気がしますが、人間歴史というのはこうやって繰り返すものなのかも。

上記リンク先のブログ記事2010年まきおこった「非実在青少年表現規制問題」に関連した内容ですが、昨今かまびすしい「表現の自由はどこまで認められるか?」という問題についての観点からも興味深いので、ぜひ皆さんに見ていただきたいです。(というためにこのクイズ投稿したのが半分くらいなので、読んでみてね!)

2019-10-18

[]マクンバ

ブラジルを中心にラテンアメリカ信仰される民間宗教で、

人を呪い殺すような儀式を行うところから呪術あるいは黒魔術と見なされることも多い。

19世紀に入ってからカトリックと土着の信仰とが複雑に絡みあって生まれものである

統一された宗教というよりも、そうして生まれた様々な新興宗教総称であるらしい。

ブードゥー教とならんで二大黒宗教とも呼ばれることがある。

2019-10-16

anond:20191016151629

胸が性的かどうかを思春期以降に知って欲しいっていう性教育をしたいと思う自由も欲しいよー。

自由ってなんだ??

割と本質的な問いだと思うので真面目に答えると、アイザイア・バーリンという哲学者が「消極的自由」と「積極的自由」という概念提唱している。

詳しくはWikipediaでも読んでほしいけど、要するに

の違いねcf. anond:20191017201230)。

現代自由主義では、色々と議論はあるけれど、おおむね消極的自由の方がより重要自由とされている。

これは増田もそうだろう。「俺が六本木ヒルズに住む自由を実現するために家賃を補助しろ」と言われたら、おかしい、と思うよね。でも、「金持ちの俺が六本木ヒルズに住んで何が悪いんだ? 俺の自由だろ」って言われたら、当然、って思うんじゃないかな。

この2つの自由対立という点で考えると、私の言う

というのは消極的自由に属する話だ。一方で増田の言う

  • 子供を刺激の少ない環境で養育したい、そのために最適な環境を整えてほしい

というのは積極的自由に属する。

その環境増田個人努力あるいは財力に頼って実現する(例:ひきこもる、ゲーテッドコミュニティを作る)のはもちろん自由だ。でも、それをもって他者消極的自由を制約しようというのなら別の話になる。

積極的自由消極的自由ならば、基本的後者の方が重い。よほどの理由がない限り、前者を理由後者を制約すべきではない。そして、増田子供にどんな教育をしたいかという話は、「よほどの理由」ではない。

(「よほどの理由」が認められるかどうか争いになっている事例として、たとえば、「感染症にかから健康に生きていきたい」という積極的自由と、「どんなワクチンを打つか政府強制されたくない」という消極的自由対立する局面を考えてみよう)

ところで、

胸が性的かどうかを思春期以降に知って欲しいっていう性教育をしたいと思う自由も欲しいよー。

思うだけなら自由ですよ? それは人を殺したいと思おうが誰々くんとセックスしたいと思おうが日本天皇中心の神の国だと思おうが自由なのと一緒。そこの自由を制約している人はどこにもいないよね。どうぞご自由に思っていてください。

その思いを他者への要求として口に出す(増田に書く)から他人自由に口を出すなと言われるわけで。

なので、

思春期の子供に見せたく無い自由は?献血ルームにあるのは別に良いんだけど、公共の場にあるのを見たくない人の多様性はどう思う?

「見せたくない自由」というのも、ご家庭の中でお色気漫画は読ませないラッキースケベアニメは見せないとかそういう話ならどうぞご自由に、お子さんの教育に関しては親御さんに自由裁量があります、という話だけど、他人自分敷地に(あるいは借りたスペースに)設置したポスターを取り外させようとするなら、それは他者消極的自由侵害してよい理由にはならない、という話になる。

何度も書いているように、積極的自由より消極的自由の方が重いので。

多様性を見たくない人も多様性勘定すべきか」というのは難しい議論だけど(「戦う民主主義」を調べてみよう。民主主義破壊しようと主張する政党民主的選挙に参加させるべきか?)、そういう多様性も認められるべきだとは思う。他者消極的自由を損なわないという前提のもとで。

なので、そういう多様性の持ち主がゲーテッドコミュニティ作って暮らす分には、そこにわざわざポスター貼りに行こうとは思いません。ご自由にどうぞ。そういうコミュニティ存在するのも多様性の一貫だとは思うので。アーミッシュコミュニティとかと同じで。

ところで、私たちが暮らすこの日本ゲーテッドコミュニティではありません。

自由ってある程度整えないと無法地帯じゃないかなぁって思ってて…多様性

人を殺す自由はない。人を殺せば刑務所行きになる。他人誹謗中傷する自由もない。誹謗中傷すれば民事裁判で敗訴し賠償金を科せられる。

既に自由は整えられているのでは……? 現状の日本無法地帯じゃないのは、ある程度自由が制約されて整えられているからだよね?

自由への制約は最低限であるべきだろう。

私は宇崎ちゃんの胸は揉みたい感じの魅力的なおっぱいに見えるのでやっぱり子供に見せないように気をつけて歩きます!!!自由!!!

はい、それもあなた自由ですね。宇崎ちゃんポスターなり看板なりを見かけたら子供の目をふさぐとか、子供に声をかけて注意をそらすとか、見て見て~と逆方向を指差してそちらを見せないようにするとか、そういう自由をどうぞ行使なさってください。誰もそれを邪魔したりなんてしないから。

追記

anond:20191016163340

その思いを他者への要求として口に出す(増田に書く)から他人自由に口を出すなと言われるわけで。

これはいいんじゃねえの。聞いた側は受け入れる義務ないんだから

これはそのとおりで、要望する自由はあるし件のポスター批判する自由もある。要望無視したり批判反論したりする自由もあるというだけの話なので、気にくわないなら文句をつけてりゃいい。今回の増田は「自由」について混乱しているようだったから雑な説明なっちゃって、そこは申し訳ない。ご指摘ありがとう

消極的自由をより重視するのはどちらかというと英米系で、大陸系だと「政治参加自由」とか「健康文化的生活を追求する自由」とかの積極的自由も重点おいてるんでわ。

いや、積極的自由を重視する人たちも、積極的自由より消極的自由の方が重要という点では一致しているでしょう。意見が分かれるのは、積極的自由はどこまで保障されるべきか、とか、ある行為消極的自由積極的自由か、とか、そういう点では。積極的自由保護自体には私も異論ないですよ。特に社会権国家がケツを持って下支えしないと自由が掘り崩される。そういう意味夜警国家リバタリアニズムは支持できない。

ポスター非難派の言い分はとどのつまり他者消極的自由よりも私の積極的自由のほうが優先されるべき(少なくとも対等)」なので、なぜ前者が後者優越するか、そこにどういった議論があるのか説明しないと無意味

消極的自由積極的自由よりも優先されるべきだなんて、そんなクソ甘えた理屈民主主義の世の中で通用するとでも?

上で色々例を挙げたけど、わかりにくいかな。

じゃあ「山間部の過疎地政府が十分なインフラを整備していない」と「政府過疎地住民強制移住させる」だったらどうよ。

前者ももちろん問題だけど、どっちがより重い問題? って聞かれたら後者の方がより重大な問題だと答えるのが普通だよね。

言わずもがなのことだけど、前者が積極的自由侵害後者消極的自由侵害です。消極的自由積極的自由よりも重要自由であるのは当然ですね?

(前者は軽んじてよい、と言っているわけではないことに注意。19世紀的な自由主義が消極的自由ばかり重視し積極的自由を軽んじていたことに疑問を呈して積極的自由「も」重視すべきだと主張しているのが現代自由主義です。前者は気にしなくていいよって言ってるのがリバタリアニズム。でもどちらの立場にせよ、消極的自由の方が重いことは否定してないと思うよ)

わかりやすくて納得した。と同時にシートベルトを着用せずに自動車運転して事故即死亡する消極的自由が認められていないのはおかしい、、、のだろうか?とも思った。

レーガン大統領カリフォルニア州知事時代にそういう理由バイクヘルメット義務法案拒否権行使してますね。

個人的には、子供には自己生命安全危険さらす方向での自己決定権を十全に認めるべきではないと思うので、チャイルドシート義務化には賛成。でも大人シートベルトヘルメットをつけるもつけないも個人自由で(だって、究極的にはそれで損をするのは自分じゃん?)、法律で取り締まるのはおかしいと思う。自動車メーカシートベルトしてないと警報が鳴る車を設計して売りに出すのは商売自由

概ね同意だけど、最後シートベルト義務化の話、日本では車対車の事故死亡事故だと相手運転手は過失が多少でもあれば重い罪に問われるので、シートベルトをしない自由制限する合理的理由があると俺は思うね

相手シートベルトをつけておらず、それによって生死が左右された場合情状酌量減刑すればよいのでは……。

シートベルト義務化については社会的損失を低減する観点から合理性があると思うけどね。『それで損をするのは自分』だけじゃないわけで、治療費障害家族貧困化など・・・結局は社会的負担になるからね。

ここでは合理性の話ではなくて、自由自己決定権の話をしているので……。

anond:20191017005044

倫理自由って対立しがちなのかね。

倫理って基本的規制っていうイメージがあるな。することなかれって感じ。

そのへんを表す自由主義の言葉に、「善に対する正義優越」というのがある。

何が「良いこと」かは人によって違う。倫理観や道徳観(=善)には多様性があって、政府が「お前たちはこの道徳に従え!」なんていうのは押し付けだ。

大切なのは、色々な道徳の持ち主が公平に処遇されること(=正義)だ。他人自由侵害しないかぎり、自分道徳を追求する自由権利がある。異なる道徳同士のコンフリクトは、公平な制度によって調整される。

から私は一貫して、最初増田がどんな性教育子供に施すのか、については干渉していない。ある人がどんな倫理観を持っていて、それをどんなふうに子供に教えるのかは、虐待とかの形で子供権利侵害しない限りにおいて自由なので。

でも、それを口実にして他者自由を制約しようとするなら反対する。それが自由主義者としての私の一貫した立論。

そういう意味で、自由主義って社会全体にモラルの共有を求める考え方とは水と油なんだよね。大政翼賛会にもスターリニズムにも反対だし、天皇写真を焼いた! けしからん! も、巨乳を強調したイラストだ! けしからん! も、どっちの表現規制にもNOと言う(正確には、「けしからん!」と思ってもいいし「けしからん!」と批判してもいいけど、それを理由作品撤去させたりしてはいけない。右翼フェミニスト雑誌ブログに「この表現いかに許しがたいか」みたいな文章掲載する分にはどうぞご自由に)。

オタクって自由主義者が多いと自分基準勝手に思ってたんだけど、意外とそうでもないのかな? というのが最近わかってきて、ちょっと驚いてる。周囲のオタク仲間が社会問題でそのへんのおっさんみたいな保守的認識を示したり、自分に興味がないイシュー博打とか刺青とかね)だと平気で規制だとか口に出したり(ちなみに、わいせつ頒布罪と同様に単純賭博罪廃止すべきだと思ってる。賭博開帳図利罪も「無許可or無届けで賭博の胴元をした罪」とかに変更して民営賭博合法化するべき)、BL好きの人たちが美少女イラストお気持ちで殴ったりしてるのを見てると、オタク界隈でも自由主義の理念は強固なものじゃないんだね……って感じになるので、リベラル派として自由主義はいいぞというのを地道に伝えていきたいですね。

しかし例えばリアル死体や糞尿の画像レストラン街の入り口に貼ったら、消極的自由だでは通らないだろう。これはゾーニング問題で、線引きは色々。そう簡単ではないのでは?

私はヴィーガンじゃないけど、ヴィーガンの人たちが肉フェスの前で動物屠殺写真を展示するのは表現自由だと思うよ。

肉フェスときにこれは不法だ取り締まれって言ってた人たち大勢いたけど、私はそれに与しない。その写真の前で肉料理食べながら自撮りしてヴィーガンを煽るのは対抗言論なので表現自由。なんでみんな、気に食わない表現に対して表現で対抗するんじゃなくて取り下げさせようとしたがるんだろう。

anond:20191017100948

刺青を入れた人が公共の場温泉プールなど)で行動する自由」というのも消極的自由になるのかな?

一方で「刺青を入れた人といたくない自由」というのは

その環境を整えろ!と唱える場合積極的自由となるよね?

元増田によるとこれは他者消極的自由を妨げることになるから優先されるべきではないと考えられないか

当たり前でしょう。刺青を入れるのは自由だし刺青を入れて公共空間を歩き回るのも自由。なぜならそこは公共空間なので。刺青を入れた人には公共空間自由に歩き回る権利があるので。刺青を入れた人が公衆浴場に入れないのはおかしい。自由主義の理念に反している。

刺青を見たくない人は自宅風呂に入る自由とかお庭でビニールプールで遊ぶ自由とかを行使してください。

なんで「他人自由な行動を見たくない自由」が「他人の行動の自由」を抑圧してまで叶えられるべきだと思っているんだろう。本当に謎。

自由を「権利」に置き換えてもいいよ。「刺青を見ることな公衆浴場に入る権利」よりも「刺青理由に入浴を妨げられない権利」の方が重要でしょ。少なくとも前者の人は、公衆浴場に入る権利は奪われてないよね。公衆浴場光景自分が望んでいるものではないってだけの話で。でも公共空間自分が望まないものがあるのなんて当然なんだから、望んでいる光景を見る権利よりも誰かにまれてないって理由で入浴を拒否されない権利の方が遥かに重要

刺青少女像巨乳ポスターも、「(ある種の人にとっては)見ていて不愉快」程度の害しかない(ナイフで刺すみたいな具体的な加害ではない。ちなみに、私はどれもまったく不愉快とは思わない)。見たくないなら目を背けるなりすればいい。どうしてそんなに自由制限しようとしたがるんですか?

ツイッター感想並べてネタバレをする自由、やっぱりあった………

ネタバレをする自由は当然あるので好きな作品ネタバレ踏まないように注意する派です。基本的にはネタバレ踏むのは自己責任だよね。ネタバレ踏んでチクショウって思ったこと何度もあるけどそれは踏む私が未熟なだけでネタバレ感想書く人のせいじゃない。

もちろんあなたフォロワーにはネタバレ理由あなたリムる自由がある。

100字じゃ説明できないよね。ありがとう増田原理原則から考えないと、金属バットや愛トレ、今回の胸などで手首がねじ切れちゃう

ほんとにね。あいちトリエンナーレ問題で一緒に表現自由のために戦ったはずの人たちからさんざん弾が飛んでくるの、裏切られた感がすごくて絶望的になるよ(公的施設抑制的であらねばならない、とか、お前それ愛知芸術文化センターでも同じこと言えんの? っていうね。TPOとかくっそ笑う。じゃあビジネスシーンではカカトの高い靴を履くのがマナーとか言われても文句言うなよと。まあ私はスーツ強制ヒール強制も間違ってるそんなTPOはクソくらえって主張するけど)。左右の表現規制からあいトリの天皇アート日赤の宇崎ちゃんポスターも守り抜いていこうと改めて決意。とりあえず来週にでも久々に献血してくるわ。

2019-10-12

アートに関するよくある勘違い

表現不自由騒動きっかけなのか、最近アート」に関する勘違いを頻繁に耳にする。

とりあえずポリティカルなことや特定展覧会人物の動向は抜きに、アートに対して人々が抱いている勘違い淡々と正してみる。

文章が読めない人向けに繰り返すが、別に表現不自由展」など特定展覧会作品の是非について語っているわけではなく、人々が抱く「アート芸術」に対する先入観について語っている。


自費でやれ?

基本的に、人間芸術で食っていけないという前提がある。

前史時代から現代に至るまで、金銭作品発表場所など、なんらかの「補助」なしで歴史に刻まれ芸術作品芸術はいない。

「補助」は大まかに分ければパトロン系、政府系に大別されると思う。

パトロン

バッハミケランジェロボッティチェリレオナルド・ダ・ヴィンチ…今も知られる芸術家のほとんどは貴族王族庇護のもとにあった。特に有名なのはメディチ家。かなりの数の美術作品メディチ家庇護のもと、もしくは依頼で作られている。

モーツァルトのようにフリー音楽家に転身した例もあるにはあるが、彼ですら転身後、晩年は困窮していた。それどころか、主な収入源はやはり貴族などに委嘱されて作った楽曲によるものだそうだ。

現代だと、欧米では自らの作品を売り込んでファンドを得る、ほとんどビジネスマンみたいなアーティストが多い。ビシッとしたスーツに身を包み、自らの作品に新たな価値付けをして売り込む姿は、ベンチャー起業家のそれと変わらない。

政府

こちらは王政封建制より後の政治体制下の芸術に対する補助。大まかに分けると、プロパガンダ芸術と、政治思想のない(あるいは薄い)経済的補助がある。

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政治思想とは一定距離を置いた経済的補助で、一番大規模かつ有名なのはアメリカが1930〜40年代に行った「連邦美術計画」だ。ニューディール政策の一環として、政府が数千人から1万人単位アーティストを雇い、パブリックアート制作などをさせるというぶっ飛んだ規模の政策である

因みに「連邦美術計画」の効果は凄まじいもので、その後巨匠と呼ばれることになるようなアーティストを多数輩出し(ポロックベン・シャーンなど)、抽象表現主義などのアメリカ発の芸術運動バンバン興った。

それまでヨーロッパ中心だったアートシーンは、この時代前後を境にアメリカに移ることになった。さらに因むと、未だにアートシーンの中心はアメリカである。その市場規模は、世界アート市場の5割弱を占め、日本円にするとおよそ3~4兆円。しかも年々拡大し続けている(参考までに、日本美術市場は2,000億円強 / 中国は1.5兆円弱)。

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一方、プロパガンダ芸術で有名なのはソ連ナチスなど。政府意向政治思想に沿った作品を、政府が補助して制作させるというもの。作られた作品政府思想を広める宣伝ツールとして使われることが多い。

上述した政治思想とは一定距離を置いた経済的補助とは違い、題材やテーマなどは厳密に決められており、メディチ家などのパトロンの元での芸術活動に少し近いかもしれない。

ただ、これらの政府体制下で作られたプロパガンダ芸術は、今のところ芸術としてはあまり評価はされていない。

あくま個人的見解だが、プロパガンダ芸術はその性質大衆向けにならざるを得なく、どうしても前時代的なものになってしまうのが要因かと思われる。 ※ グラフィックデザインなど、一部評価されている分野もある。

なお、これらの国では、現代アート前衛芸術は「退廃芸術」として弾圧対象となっていたことも言及しておく。弾圧されたアーティストアメリカ渡り祖国に残ったアーティストを横目に名声を得たという例はかなり多い。


政治色をもつ作品芸術ではない ?

上述のようにプロパガンダ芸術にあまり価値が見出されていない現状を考えると、一見正しい意見に思える。

だが「20世紀代表する作品の一つ」とまで言われる、ピカソの「ゲルニカ」をはじめ、政治的なアティテュードを有する芸術作品は意外と多い。

現代であれば例えばバンクシーは思いっき政治的な作品で知られるが、今やアートシーンにはなくてはならない存在だ。

文学音楽映画だって政治的な意味合いが強い作品はたくさんある。

政治色をもつ作品アートじゃない」という言説は、「ジョン・レノンの"イマジン"は政治的なメッセージがあるから音楽じゃない」と言ってるのに等しいのだ。


大衆に受け入れられないもの芸術ではない?

しろ現在享受されている芸術作品で、大衆向けに作られたものはあまり多くはない。

バッハミケランジェロボッティチェリレオナルド・ダ・ヴィンチなどに代表されるような近代以前の巨匠たちは、先述の通り貴族王族むけに作品を作っていた。そもそも一般大衆向けの芸術ではない。

時代大衆向け芸術だと、例えば音楽では吟遊詩人酒場で歌うリュート曲とかがあるが、現代でも聞かれているかといえばNOである。もちろん、歌舞伎ケルト音楽など、現代まで残っている大衆芸術もあるにはあるが、近代以前の大衆芸術ほとんどは淘汰されている。

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現在大衆に受け入れられるアーティストでいえば、おばちゃんが大好きなモネは発表当時ヘタクソだの何だの批判されまくったし、今や知らない者はいないゴッホはご存知の通り作品が1枚も売れないまま精神を病んで死んだ。ストラヴィンスキージョン・ケージなどは、初演で暴動間際になったこだってある。

これらの例から、むしろ後世に残る作品は、同時代に生きた大衆感覚からはかけ離れていたことが分かる。でも、モネは今や企画展花形だし、ストラヴィンスキーバレエ曲の定番だし、ゴッホの絵を見ては「俺の方がうまい」とか宣うおっさん美術館の風物詩だ。どの分野に関してもそうだが、専門性が高くなればなるほど、大衆感覚はあてにならなくなる。自分感覚と相容れない現代美術作品を「こんなの芸術じゃない」と一蹴することは自由だが、それらの作品は100年後にはもしかしたら現代におけるモネのように広く受け入れられているかもしれないのだ。

かつて相対性理論が発表当時「完全に理解できるのは世界で数人しかいない」と言われていたのに、(専攻科にもよるが)現在では大学で習うのと似ている。これまでの価値観をひっくり返すような価値のあるものは、常人には理解できず、時間をかけて少しずつ受け入れられていくものなのだ

グリーンバーグ論文

この問題については、未だ現代美術に大きな影響を与えているグリーンバーグという美術評論家のおっさんが書いた「アヴァンギャルドキッチュ」っていう論文が分かりやすい。

この論文は、日本語訳もされているし、原文はインターネットでも読めるが、大衆感覚芸術作品価値乖離について論じている。要するに、「大衆迎合し消費される美術」と「前衛的な美術」ならば、後者の方が価値があるっていう内容だ。

80年前の論文なのだが、芸術分野では未だに影響力が大きい教科書の一つ。とても短く、すぐ読み終わるので、興味があればぜひ読んでみてほしい。


不快作品公序良俗に反する作品芸術ではない?

作品の題材として「裸の女性」というのは時代を問わずポピュラーだが、19世紀までは神話聖書出来事以外で裸体を描くことは不道徳とされた。端的にいえば、不快であり、公序良俗に反するとされた。

実際、マネによって描かれた「草上の昼食」や、裸体の売春婦を描いたとされる「オランピア」は発表当時大問題になった。「現実女性の裸を描くなんて、淫猥である不道徳まりない!下品メスゴリラを描きやがって!こんなのはアートではない!」というわけだ。

しかし、どちらの作品も今やマネ代表作。オルセー美術館に収蔵されていて、後の時代芸術からオマージュ対象とされるような絵画として扱われている。

一例を取り上げただけだが、時代を問わず同じような現象枚挙に遑がない。


写真みたいに写実的に描けている作品は素晴らしい?

簡単にいえば、写真実用化された時に「じゃあ写真でいいじゃん」ってなった。「写真絵画は違う」という考えに立脚し、ある時点でそれぞれ全く別の路線を歩むことにしたのだ。

で、モネみたいに空気感を描く作家や、セザンヌピカソみたいに多視点的にものを捉えて一枚の絵に表現する作家が登場した。これらの手法写真では(簡単には)表現できない。要は「写真じゃなくて、絵画からこそできる表現」というものが重視されていくようになった。

そして「じゃあ絵画価値ってどこにあるの?本質って何?」って突き詰めていった結果、「絵の具じゃね?」という話になり登場したのがポロックなどの抽象表現主義。「コンセプトじゃね?」という話になり登場したのがコンセプチュアル・アート特に後者現代美術への影響は色濃い。

もちろん、写真のようにリアル作品価値がないわけじゃなく、スーパーリアリズムのような動きもあった。ただ、20世紀以降のほとんどの芸術家は、「写真みたいにリアルであるかどうかとは別の土俵表現をしていることは知っておいてほしい。アーティストにとって「写真みたいリアルですごい」というのは必ずしも褒め言葉ではないのだ。


終わり

分かりやすさを第一に書いたので、表現が正確ではないところもあるし、時代的に前後したり乖離していたりもするが、だいたいこんな感じ。

文章中でも少し触れたが、アメリカ中国欧州比較すると日本美術市場はかなりちっぽけだ。国内アートがよりよく理解され、シーンが活性化することは、大きなマネーが動く「市場」を生み出すことにも繋がる。先述の「連邦美術計画」などは、政府美術に注ぎ込んだ「補助」に対して、「年間3兆円強のマネーが動く市場」という計り知れないくらい大きい対価をもたらした。アートにはそんな力があるし、前衛を受け入れる懐を自ら作り出したからこそ、現在アメリカ立ち位置がある。兆規模の市場から得られる税収は、控えめに言ってもバカにできないはずだ。

アートの受容と活性化は、普段アートに触れない人にも価値がある。少しでもみんなのアートに対する誤解が解けることを願ってやまない。

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