はてなキーワード: 思想とは
全く同感です。
歴史学というのは結局、学者たちが都合のいいように歴史を改ざんしているに過ぎないのではないでしょうか。
常識的に考えて、学問というものは一貫性があるべきもので、「定説」がそんなに頻繁に変わるのはおかしいですよね。
弥助騒動で歴史学者が普通の日本人の立場に立たなかったのも、その証拠だと思います。
彼らは反日的な思想を持っていて、日本人の心を持っていないからこそ、あのような行動を取ったのでしょう。
歴史を捏造し、それを庶民に押し付けるのは許されることではありません。
こういった状況を許してしまうと、いつか本当の歴史が忘れ去られてしまうのではないかと心配です。
やはり、我々が守るべきは日本人としての誇りある歴史であり、それをしっかりと次の世代に伝えていくことが大切なのだと思います。
ポリコレ思想は、言ってみれば八紘一宇のアップデート版なんだ。彼らの言う多様性とは、一定のマイノリティを多めにいれることで、これを怠れば道徳的に非難されても仕方ない、否定するものはみんな人種差別主義者だと、欧米の左翼は信じている。
非難をした女性黒人ジャーナリストに対して、人種差別主義者であるという批判も寄せられている。
参考になったコメントの中に、彼女に限らず、アメリカのジャーナリストは、自分たちの「正義」に基づいた物語を押しつけ、それを批判するものに人種差別主義者のレッテルを貼る傾向があると説明があった。このコメントの投稿者は、こうした非難の背景にあるDEIの思想そのものが、現代の植民地主義、帝国主義に他ならないと論評していた。
フジロックの配信スケジュールを見てると、クラフトワークの配信が無いとの事だったのでXでその事をぼんやり検索していると、
https://twitter.com/tsuda/status/1816127190721061137?t=vMksfaHyQiugSPFJuQb7ww&s=19
このツイートが目に入って、何かモヤモヤするので書こうと思った。
普通に考えてトリエンナーレっていう税金の補助があるイベントにそもそもクラフトワーク呼ぼうとする発想がおかしいと思わないの?
クラフトワークは坂本龍一が呼びかけた反原発イベントNonukesにも出演した経緯があるから、思想に共感してあいちトリエンナーレにもいけると思ったのか?
ただ、あいちトリエンナーレの件で同様の目が向けられた余波でトリエンナーレが中止になったり打ち切られた所に住んでいる地方民だ。
津田が思う以上に地方で芸術文化に触れる機会って貴重で楽しみにしていたし、担当者だって一生懸命やっていたと思う。
一番最初に多かったのは、アーリーアダプターの類。テック進歩主義者。
そいつらと、そいつらに感化されるのは、文系思想面でも進歩主義者。言い換えればリベラルかぶれが多かった。人権が大事ですとか、ネトウヨがクソですとか、湾岸戦争には反対ですとか、海外を見習えとか言いたくなってたタイプのやつらね。
で、そいつらリベラル進歩主義者の中から、時流に敏感なやつは、はてなが古びると抜けていく。
更にのこったやつらから、マトモな知能のあるやつは、場が進歩的ではなかったと見て抜ける。
残ったのは、若い頃リベラルにかぶれてたものの、実は最新情勢とかには興味がなかったし、知能のアップデートとかとも無縁だったヤツよ。つまり共産支持者だね。
こんな予想でどう?
作っただけでほったらかしたくせに子供の人生を自分の思想で縛ろうとするトランスヘイターのゴミ毒親イーロン・マスクの虚言を信じてしまったアホが一杯います(笑)
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.sankei.com/article/20240723-TVHT65SVYRF5TIMWLTLZN6J7KQ/
15世紀のヨーロッパ某国を舞台に、飛び級で大学進学を果たした神童ラファウが、天文学への情熱を抑えきれず、謎めいた学者フベルトとの出会いを通じて「地動説」の可能性に触れていく、地動説を証明することに自らの信念と命を懸けた者たちの物語。
https://news.yahoo.co.jp/articles/44f605be01f18104cfbba61afef9ac603ba79c8d
めちゃくちゃさも史実ですって顔してて草
現代日本は暴力は絶対にダメ、言葉の暴力は暴力じゃないからOKみたいなバカな思想が蔓延してるから、不届き物は成敗されるみたいな一種の緊張感が無いんだよな。
軽く小突いただけでも逮捕だけど、いくら罵声を浴びせてもまあまあその辺でみたいな感じで済まされる。だからクソ野郎が調子に乗る。
理屈の世界に入り浸り現実が見えてないお花畑の法曹関係者、武力行使を自分たちの特権にしたい警察関係者、こいつらが基本的に悪い。
第三者が客観的に見てやむを得ない、情状酌量の余地がある場合はある程度の暴力は口頭注意程度で済ますべき。そうすりゃ他人に無礼な態度をとる奴は減るよ。っぱ武力よ。
これに関して。
恋愛で誰を好きになるかは個人の自由である。それは当たり前だ。
恋愛対象が自由なら、恋愛で美人ばかりがもてはやされるのも勝手ではないか。
ルッキズム批判とは、「容姿が関係ないはずの、仕事などの評価にも、容姿による差別があるのではないか?」という問題意識である。
そしてそれは正しい。女性の容姿は明確に仕事の評価に影響しているという、悲しい研究結果が無数にある。
ただ、同じ問題は男性にもあるのだ。高身長などの「モテる要素」を多く持つ男ほど、それは仕事と関係ないはずなのに、年収は明確に高いという統計がある。
恋愛対象として魅力的と思われる人は、仕事でも実態と比べて高評価を得てしまうのが人間の悲しさであり、その本能を理性で抑えるためにルッキズム批判がある。
「美女の方がそうでない女性より仕事で高い評価を受ける」ことに対しては、批判する理路が確立された。
「仕事ができるのに、ゲイだという理由で評価されない」ことに対しても同様だ。
これらに対して、少なくとも建前、思想のレベルでは誰にも異論は挟めないだろう。
「仕事はちゃんとやっているのに、『男らしさに欠ける』男性」は、女性やゲイと同様に建前と思想に守られているだろうか。
「男らしくない=なんか仕事でも頼れないイメージ」として、結局恋愛市場での差別がそうでない領域にも侵食していないだろうか。
本当にこんな差別があるのか、それがどの程度ひどい差別なのか、結論が出た問題ではない。結論が出るほど、この問題は議論されていない。皆に無視されている。ならば今は、議論の対象とするためのアピールが必要だ。
はっきり言っておきたいのだが、子ども自身に罪はない。全くもって。
問題はその親である。一部の特殊な親が、子どもを使って免罪符のようにして社会に迷惑をかけるのだ。
子どもは親から下された指令に逆らえない。Twitterなどでいうファンネルのような存在として扱われている。
何か言われても「子どもがしたことなのに!」だとか「少子化問題に貢献しているのに!」だとか「子どもを攻撃する大人ってやばー」だとか「子どもは迷惑をかけるもの!」だとかで反撃できるからだ。
赤の他人などどうなろうが知ったこっちゃない、自分のために我慢しろと考えている。
だから本来は親に怒らなければならない。親を殴らなければならない。
親に「おたくはどんな教育をしてんだ?自分の子どもを愛していないのか?」と圧をかけられるような大人の大人のような存在がいなくなった。模範となるような大人が少ない。
もうガキがガキを育てているようなものだ。
子どもの声は騒音ではないとかなんとかというのは、次元が異なる問題である。子どもの声がうるさいのは親がうるさいのと同じである。親は「うちのがうるさくてすみません」と我が事として責任をもって謝り、受け手は「いやいやいいんですよ。子どもは騒ぐのが仕事ですから」といって我慢することで、うるさいけれどまああそこの感じのいい親の子どもだから仕方ないなと、双方が丸く収まるのが本来あるべき姿だ。それが逆になっていれば、いくら法律で保護されていようがバチバチと恨みはできる。
ましてや嫌いな家のクソガキの金切り声など、家を燃やしたくなるのも頷けるだろう。人生で最も嫌いな人物でシミュレーションすればそれは容易に想像つくはずだ。
今の世の中の風潮は「子育てしている者はエラい」という、なんだかおかしなことになっている。子どもがいるというだけで権力を得ているかのようだ。
「おうおう、そこを通せぃ! この子どもが目に入らぬか! 将来のお主等を支える偉大なる存在であるぞ! 図が高い! 控えおろう!」とこの調子である。
ハッキリ言って、こういう輩はウザいのである。そして、そういう輩がバカそうであればあるほどウザいのである。世の中、バカやクズが偉そうにしているのが一番ムカつくのだ。
だいたいバカの子どもはいくら少子化とはいえ治安が悪くなるだけなのでいらんのではないか。我々がほしいのは親の余裕資産によって完成された次世代型戦闘サイボーグであって、ろくに税金も払えないような無教養足引っ張り治安悪化貢献人材ではない。
バカがパコパコした結果、なんか権力っぽいものを手にしてしまって、その刀を振り回している姿は現代の喜劇だ。
こういう親を「子ども使い」などのようにちゃんと蔑視しておかなければならない。
だというのに、なぜかその子ども自体の存在について議論されていることが多い。子どもに罪はない。その子どものイカレ親こそが問題なのである。
これは子育てしている家庭ほどしっかり考えなければならない。「チーム子育て」と考えて彼らと同一化して考えてはならない。彼らはモンペである。
「しっかり子育てしているあなた」とは全く別の人間なのである!
彼らは子どもに愛など持っていない。
彼らにとっては、子どもなどただの自分のストレスを発散するための道具でしかない。全然愛でもなんでもないものを愛と名付けて子どもから尊厳を収奪し、子どもの自立精神を妨げるモンペである。
そういう毒親は「わたしたちもチーム子育てですよ〜!」と入り込むのが非常に上手だ。そして弱者ぶる、被害者ぶる、ノイジーマイノリティなのだ。
注意して見分けなければならない。