はてなキーワード: リズムとは
しばらく前、妻が鬱症状で休職した。
幸い、養うべき子供はいないし、私の収入でも生活維持はどうにかなるので、そこは不幸中の幸い。
ただ、私一人では、妻の症状をどうにかすることはできない。
いつもニコニコ笑って「いいよいいよ」と言い、家事をするので精一杯だ。
維持しかできない。
専門医にかかってはいるが、助言もあまり刺さっていないようで、
鬱症状を緩和したいなら、あれこれと「やったほうがいいこと」はたくさんある。
でも、そもそも本人が『緩和したい』気にならない。
これは他人ではどうにもならない。
そんな時、ティアキンが発売された。
前作のブレワイも楽しく二人で遊んだので、もちろん予約で買った。
でも、今度の崩れ方は「楽しいから睡眠時間を削る」という類のやつだった。
連日、2、3週間ほど寝食を除いて、ずっと遊んでいた。
(アクションが苦手な)妻ができるのは収集と探索だけで、難しいバトルは私が担当した。
素晴らしかった。
周り道をたくさんして(200時間ぐらい)、ついにラスボスを倒す日がきた。
二人で「これでゼルダも終わってしまったか」と感慨にふけりながら、
攻略サイトを解禁して見てみると、我々のゲーム達成率は6割ぐらいだった。
まだまだやることがある。
ラスボスを倒して数日後、妻が「社会復帰したい。手伝って」と言って規則正しい生活を始めた。
どういう心境の変化があったのか分からない。
聞いてないし、聞く気もない。
話せる日がくればいい。
でも、きっとゼルダが彼女に良い効果をもたらしたのだと思ってる。
本当に良かった。
駄々をこねるコログを律儀にウルトラハンドで運ぶ妻を見ながら、二人分のご飯を作れることを幸せに感じている。
作ってくれた方、売ってくれた方、みんなに感謝したい。
多分そもそも、音楽業界を、今時サラリーマンの世界でも消えつつある年功序列制と勘違いしてると思う
峯田やスネオヘアーが大御所になってないのは極めて妥当であり普通のことだ
なぜなら奇天烈なキャラクターで売ってただけで、音楽的素養で目立っていたわけではないから
泉谷しげるみたいな枠もあるにはあるが、あれも半分以上は俳優やタレントとしての知名度であり、現に彼は皿の枚数は全然出てない
一方で宇多田ヒカルのような日本人離れした倍音声質やリズム感の持ち主、
かつてユーミンが歩んできた道のようにな(ちなみにユーミンは歌は下手だがコードの感覚とそれによるソングライティング能力が並外れていた)
ちゃんとなるべくしてなっている
収まるところに収まっている
『上が詰まってる』みたいな理由で峯田あたりがビッグネームになれてない理由ではないという話だ
下から這い上がってくる連中に、単純に這い上がれるだけの実力がないからだよ
(ちなみに俺は銀杏は割と好きだ。サザンや矢沢永吉は大嫌いだ。が、どちらに音楽的な実力が真にあるかくらいは、さすがに冷静にわかるつもりだ。
さっくりまとめんたんで他の人もどうぞ
不規則なリズムで、しかし短い間隔でリビングに響くその音を聞いていると、30分も経たないうちにまるで面白半分に自分の頭を蹴られているような気分になり
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「子供や家族連れで賑わう公園が突然の閉鎖。そのきっかけは、子供の声がうるさいという近隣住民からのクレームだった」
そんなニュースを聞いてあなたはどう思う?
――そいつは何て心の狭いやつなんだ!せっかくの遊び場を、どうせ使いもしない奴が文句言いやがって!
――死にゆく老人がこれからを担う子供の遊び場を奪うな!
そう感じるだろう?俺も同感だ
子供はしっかり外で走り回り、きゃっきゃと声を上げ、草や土を掴み、全力で遊ぶのが何よりだ。本当に心からそう思う。
だが、そんな俺も公園を管理する市に対してクレームを入れたことのある1人なんだ。勿論、騒音について。
つまり傍から見れば、俺は「公園で大きな声を上げて遊ぶ子供を愛しながら許容しない」不思議な存在だということになる。
日本各地にあるこの問題、まず確実に言えることがある。
「公園クレーマーと非公園クレーマーが見ている公園の姿は違う」。
そして、「現状、公園クレーマーたちはクレームを上手に世間に伝えられていない」。
次に、これを読んでいるあなたが「公園クレーマーってちょっとオカシイよね」と思っていることを前提に、以下の事実を列挙したい。
・公園クレーマーは必ずしも子供の声が無条件に嫌いな偏屈ジジイではない。
・非公園クレーマーが公園クレーマー化するのは、一部の非常識な利用者のせいである。
・非常識な利用者だけを除外する仕組みを、行政は持ち合わせていない。よって、公園クレーマーは全ての利用者を敵視するしかなくなる。
・公園クレーマーは、クレームをつける行為に負い目がある。
さて、じゃあ早速冒頭の文章をニュース原稿だとして、続きを想像してみよう。
――子供や家族連れで賑わう公園が突然の閉鎖。そのきっかけは、子供の声がうるさいという近隣住民からのクレームだった。
とすれば、次に来るのは男性ナレーションの低音ボイスであえて野暮ったく読み上げられる次の語句だ。
――「子供の声が、うるさい」
その次は行政の記者会見のシーン。
――「近隣の方との話し合いを続けてまいりましたが、双方の納得には至らず、やむを得ず閉鎖の判断を致しました」
で、そこからが問題だ。恐らくここで、普段の公園の様子か、或いはイメージ映像などで、元気よく遊ぶ小さな子供たちが映し出されることになる。
――「家族連れで賑わう平和な公園で、何が?」
これが大問題なんだ。
少なくとも俺は、こうした元気よく遊ぶ小学生、保育園児、幼稚園児は、好きなんだ!癒される!
きゃっきゃきゃっきゃと楽しそうにおいかけっこをして、たまにミ゛ャー!と寄声を発して、あーあーと泣き出して、しばらくすれば何でもなかったかのようにまたギャーギャーと走り回って…
心から平和を感じるんだ。
精一杯走りたまえ。あーあー、転んじゃって。大丈夫?
俺はこれを、うるさいとは思ってはいないんだ。
じゃあ、「子供の声がうるさい」と言ったクレーマーの気持ちはなんなんだ?
俺はそのクレーマーの気持ちを理解しようと努めることができる。恐らくその人も、最初からそれがダメだったわけではないんだ。「ダメになった」んだ。
(一応補足しておくが、この日記では「俺」と「公園クレーマー」という主語をほぼ同一として扱う。いわゆる「主語がでかい」状態だが、便宜上許して欲しい)
俺が公園クレーマーになった原初のきっかけは、とある夜のことだった。
当然すぎて端折っていたが、俺の家の目の前には公園がある。住所はとりあえず北関東ということでボカさせてほしい。
大きくはないが、追いかけっこは勿論、キャッチボールやフットサルくらいなら十分できる広さがある。
2階の窓からすぐ見下ろせるところにベンチがある。そこに、夜な夜な中学生か高校生くらいの男子連中がたむろし、談笑しながらボール遊びをするようになった。
変声期を終えた男子の声は、かなり通る。そして、ボール遊びの中でもとりわけサッカーボールを蹴る音というのも、実はかなーり、通る。
少なくとも俺の家の窓は全く防音性という面で貢献しなかった。
ボン、ボン。ギャハハ。ボン。ボス。ギャハハ。ボン。
不規則なリズムで、しかし短い間隔でリビングに響くその音を聞いていると、30分も経たないうちにまるで面白半分に自分の頭を蹴られているような気分になり、怒りが湧いてくる。
ここで、自明の事実を書く。
こうしたたむろ連中は、必ずしも「迷惑をかけるつもりで」やってはいない。
彼らは、「自分達の発している音が、目の前の家の中にまで達していることを想像できない」のである。
壁を隔てた向こうに、自分たちの存在が察知されていることを知らないのである。
これは誰しもが陥りがちなことであるが、どうも人間と言うのは「見えていないならば聞こえていない」と認識しがちである。
自分から見て、近くの家の中など当然透視はできない。ならば聴覚も届かぬ場所であると錯覚するのだ。
要は、「想像できないことは認知できない」のである。
結局その日は警察を呼び、お帰り願った。(夜9時台だったので世間一般的にも迷惑案件だと判断した)
翌朝、その場所にはペットボトルやカップ麺などの大量のゴミが散乱していた。
夜の騒音はその日で終わらなかった。
ここでのポイントは、「同じ連中が毎晩たむろしに来るわけではない」ことである。
とにかく色んな人が来る。
金もなく公園に行くしかないカップル。
夜しか時間が取れないのであろう、子供を引き連れてバッティング指南をするおっさん。
花火をしに来た家族連れ。
先程の件と別の男子学生グループは幾つもいた。
中には缶チューハイで酒盛りする中学生男女グループというのもいた。世の中的に見れば全く珍しくもない、可愛い非行の一種だが、目の前で見せつけられるのはさすがに弱った。
そしていずれの人達も、当人らが思っている以上にその声や動作音は聞こえてきた。
中にはTikTokの流行りの動画を大音量で流す奴もいた。
ただ、それですら、彼らはこちらのことを認識していないのである。
単に「流行りの音楽を好きな音量で鳴らす俺」という環境を欲しているのであり、それが他者に聞こえているとは思っていないか、考えたこともない。
彼らにとって俺の家は書き割りの背景と同じなのである。
そのうち、夜に公園に来るすべての人間がバカに思えてくるようになった。
先ほど書いた通り、「自分の出した音がどのくらい遠くまで聞こえているか」「それが思いもよらぬ誰かの耳に届いているか」というのは「想像力」の話である。
なので、彼らは「想像力の無いバカ達」だということになる。
一方こちらは常に公園の音が耳に入ってくる。
自分の感知エリアの中に公共の場があるのだ。自分の感知エリアの中にバカが入り込んでくる可能性が常時あるのだ!
これは結構大変なことで、つまり自分自身が「公園の24時間警備システム化」してしまったのである。
これは良くないと思い、市に電話を入れた。
クレームではない。「夜間の大声やボール遊びを禁じる看板を立てられないか」という要望としてだ。
「あくまで自分は要望のつもりだったんですがねえ」と言い訳したいのではなく、あらゆる体裁において実際要望として伝えた。
いわゆる公園クレーマーとしての立場になりたいわけではないし、日中の利用のマナーは良く感じているというようなこともできるだけ言った。
結果、1週間内には夜間早朝のボール遊びや集会、騒音を立てる行為はご遠慮ください、といった旨の即席看板が立った。
この看板にはある程度の効果があった。
ありがたいことに地域の全体的な民度は低くなく、夜の利用者がこの看板を見て「もう1個の広い公園行こうか」などと発言する様子も見られた。
だが、それでも無視する者も少なくなかった。
そして、俺ももう手遅れだった。
警備システム化した神経は、最早日中の音ですら気になるようになってしまったのだ。
常時テレワークであるため、在宅せざるを得ない中、ボールを蹴る音や子供の騒ぎ立てる音が聞こえる。
いや、それでもやはり冒頭書いたような、「小さな、天使のように朗らかな子供たちの駆ける音」は何の問題もなかった。
中高生男子の声とサッカーボールの音が、いかにもたむろ連中を想起してしまい、聞くだけで頭痛がするようになった。
大半の少年たちは育ちが良く、騒ぎ立てはするものの、辺りが暗くなればささっと帰ってくれる。
だが恐ろしいことに、「そもそもいること」が許せなくなった。夕陽が沈みかけ、薄暗くなったあたりで「早く帰れ早く帰れ」と念じるようになった。
そして――どうにかベンチを撤去出来ないか?一部の区画だけでも閉鎖できないか?
いつしか「クレーム」を入れるようになったのだ。
ここで、非公園クレーマーであろうあなた方に問いたい。
あなたが想像する公園クレーマーが「子供の声がうるさい」と言った時、あなたが想像する声の主はどんな姿だろうか?
小学生や、幼児たちを想像していないだろうか?
そのうえで「まさかこんな子供たちを排除するなんて!」と憤っていないだろうか?
また、「勝手に昼間で想像している」のではないだろうか?
違うのだ。
もう少し上の年齢の、「自我が目覚め、夜遊びもしたい、生意気盛りの子供たち」なのだ。
そして、俺には今自宅の目の前にいる利用者が「良い利用者」なのか「悪い利用者」なのか判別がつかない。
全ての音を拾うしかないのだ。
そうなれば俺が言うことはただひとつ、「子供の声がうるさいんだ」である。
しかしその言葉から逆引きされる「子供」とこちらのいう「子供」には隔たりがあるし、経緯はいっさい伝わらない。
さて、そろそろあなたには幾つかの疑問、というより「ツッコミ」が生じていることだろう。
――引っ越せばいいのでは?
――家の防音性能を上げればいいのでは?
――イヤホンとか耳栓でなんとかならない?
――他の住民が気にしてないなら気にし過ぎなのでは?
引っ越しはそう簡単にできるものではない。膨大なローンが残っているし、自分ひとりの問題ではなく家族を巻き込んだ話になる。
窓を増設するという手がある。しかしこれも公園に面した各窓に処置するだけで100万円はカタい。マインクラフトみたいに素材があればポンと設置できるものではない。
イヤホンや耳栓というのは応急処置として有効である。しかし「自分の家で行動を制限される」ストレスの方が強い。なぜ自分の家で、家族との会話もシャットアウトし外界の音に我慢させられているのか、ということになる。
それに、これはまた派生的な「症状」なのだが、俺のようになると音だけでなく「窓を開けたら人がいる」という状況ですら悩みの対象になるのだ。目の前のバカがいつバカをやり出すかわからない恐怖が発生してしまうのだ。
大体、「夜間の集会はご遠慮ください」という看板がある状況で集まっている時点でそいつはルールを自己都合で無視できる人間なのは確定しているのである。
そんな奴が自宅から10m強先にいること自体がストレスになってくるのだ。
そして最後。
ここがまた、公園クレーマーと非公園クレーマーの隔たりの原因である。
公園クレーマーとは、恥ずかしいものなのだ。
だって、公園は良いものである、という世間の認識があるのだから。
そして既に、公園にクレームを入れるのは「わからずやの偏屈ジジイ」だとする一般通念があるのだから。
俺だって、もし街を歩いていてテレビの取材にあたり、「公園にクレームを入れるのってどう思いますか?」と聞かれたら、
「ウフ、うん、まあその、公園って子供たちがねえ、元気よく遊び回る場所だからねえ、その、それをねえ…」
などと口ごもるだろう。
「アッ、こいつ公園クレーマーの仲間だぞ!」と思われたくないので。
恐らくだが、インタビューで公園の騒音を肯定的に捉えている人の中にも、「実は参ってるんだけどね…」という人がいる可能性はゼロではないと思う。
こうして、公園クレーマーの印象は「誰にも理解できないキチ○イ」へとどんどん先鋭化されていく。
とはいえ、この日記では解決策を示して欲しいわけではない。
あくまで公園クレーマーとは何なのかを公園クレーマーの立場から書いているだけである。
ということで長くなったが、それでも、俺のような公園クレーマーに対して「偏屈」「気にし過ぎ」と感じる人は多いだろう。
それはそれで問題ない。何せ事実、神経過敏になっている。
最早俺は、バカが来て騒音を出すのがダメなのではなく「常にバカが来て騒音を出す可能性がある」ことがダメになっている。
もしかすると、今はまだ俺が愛おしく思っている小さな子供たちすら、今後は煩わしくなっていくのかもしれない。
そうなれば、次にニュースに登場し、世間から罵られるのは俺ということになるだろう。
だが、非クレーマーたる皆さんには、少しだけ想像をしてもらえないだろうか。
あなたがイメージする「公園」「公園の騒音」は、クレーマーの思うそれとは時間帯も対象人物も在り方も違っていないだろうか。
また、あなたは公園の目の前には住んでいないのではないだろうか。
ならば、「自分が自宅に居ながら公共の場の音を感知する警備システム化する」という感覚を知らないはずである。
何も公園クレーマーを理解しろとは言わない。
ご推察の通り、精神疾患的な症状は少なからずあるので、そこを含めて理解しろというのは傲慢であろう。
ただ、公園の騒音という社会問題について何か語ろうと言う時、少しだけ、想像をしてほしいのである。
最後に余談として。
あなた方が考えるツッコミにはもう一例あると思う。
――自分が若い時もやんちゃしたのに、今の若い子のそれは許せないの?
これはこれでデカいテーマなので書くなら別の日記として書くべきだろうことだが、正直に言えば「許せない」が「心の慰めにはなっている」という程度だろうか。
俺も学生のころ、男子連中で友人の家に寝泊まりし、近くの公園でバカ騒ぎした記憶がある。
下校時に彼女を連れ立って、公園の木の陰でいい思いをしたこともある。
迷惑をかけたし、その近隣の住民に我慢を強いたうえで「仕方なく許された」のが今の俺であることは解る。
実際それらは個人的には「いい思い出」として処理されているし、懐かしく思うこともある。
だが、「ならば自分も許そう」はそもそも道理でない。単に個人の思想の一種でしかない。
あえて極端な例を言えば、過去にゲーム感覚で万引きをした経験のあるヤンチャ坊主が成長して小売店の店長になったとして、自分の店の万引き犯に対して「でも自分もやったことだしなあ」と許せるかという話である。
学生の頃イジメを働いた人間が社会人になって会社でイジメられて「でも俺もイジメっ子だったしなあ」となるかという話である。
そういう因果律で人生を捉える人がいてもいいが、それがイコール正しい考え方ではない。
そんなことは百も承知だが
何をどこまでやったら偉いのか、どこまでやったら褒めてくれるのか
そのラインを気づけば探してしまっている、そんなことはないだろうか?
大して褒めては貰えなかったが、その点で怒られなかったので及第点だったんだろう
代わりに生活リズムや部屋が散らかってるとかそういうのでよく怒られた
それは今でも変わってない
でも多分親が見たら怒るレベルだと思う
でもちっとも偉い感じがない、褒められてるイメージがわかない
なんなら働きすぎだと、きっと怒られる
子供が居ないことも怒られてるし、友人が少ないことも怒られる
頑張っても頑張っても偉い感じが一向に湧かない
そうだ、多分ビジョンが違うんだ
公務員になって出世して家族を養ったら多分偉いと言ってくれると思う
でもそれが出来ないからはみ出してはみ出してはみ出した末に会社を立てるくらいしか出来なかった
だから大きくすることだって出来ないし、従業員を増やすこともできないから
だから多分怒られるんだと思う
日本教育において全ては減点方式で、褒めるとしたら常に「全てが及第点以上」なんだ
一個だけすごくても「すごい」とは言われるけど、褒めてる感じではないし偉い感じもない
多分一生立派な大人にはなれない
居酒屋でボカロっぽい曲が流れてるな〜と思っていたら「これがあれだよ、YOASOBIのアイドル」と教えられた。
ほぇ〜と思いながらちょっと注意して聴いた感じ、Aメロに韓国ポップ由来のメロディの揺らぎとリズム感を取り入れつつも、やっぱりこれボカロ曲だな、と思った。曲のテンポ感や音の密度の高さ、テンション。
これが広く受け入れられるのか?という隔世の感と疑問。
10年前に活動停止したミュージシャンの音楽を、今もたまに聴く。プレイリストの端っこに入っているその音楽は、同ジャンルの音楽の中でも特に繊細かつダイナミックで、聞き流している中でも耳が音に引き寄せられる。
デジタルとアナログの間を行き来しながら推進力を保つリズムが音空間を作り出し、どこか懐かしく寂しいメロディは徐々にハーモニーの中に溶けて消え失せる。音の遠近は入れ替わりながら、夕暮れや薄暮のような喪失と誕生の印象だけを常に残していく。
その音楽は聴く度に新しい発見があるが、聴き込むことはしていない。同じミュージシャンから新しい供給が今後あるとは思えず、既存の音に飽きてしまうことが恐ろしいからだ。
販売が終了したお菓子の残りを、少しずつ、名残惜しみながら食べていくように、プレイリストの中で偶然出会った時に、耳を澄ます。
僕からするとですよ。紙を出すと漫才じゃないんじゃないか問題で言うと、昔読み物、ますだおかださんも「M-1」でなんか物を出して読んだりしたネタをやったような気がするんですけど。
あと、テツandトモさんが、決勝でリズムネタをやったんですよ。その時もいろいろ言われたんですよね。漫才じゃないとか。これは漫才だ、漫才じゃない。こういう漫才がおもしろいおもしろくないっていうのを、必要ないんじゃないかなっていう。僕は思ってる。
何でかと言うと、お笑いって結局芸術じゃないんですよね。審査員が必要なものって何かというとこれがいいかどうかわからないっていうものに対して、専門家がこれはすごい技術を使ってるんですよって言って、審査をしていって評価するっていうのがあると思うんですけど。
お笑いって徹底的に大衆演芸で、どっちが勝ったか結構わかるじゃないですか。というのもウケたほうが勝ちなんですよ。より多くの笑いを大きな笑いを取ったほうが勝ちなんですけど、すごく不思議なのがお笑いを審査員が審査するっていうこと自体が非常に矛盾を孕んでいて。だっておかしくないですか。ウケたら勝ちでいいじゃないですか。
だけどウケたけど、このウケ方はどうだろうっていう審査の基準が入るんですよ。審査員の好みとか思想が優先されている状態って、お笑いでウケるウケない関係ない。テツandトモさんがめっちゃウケても、あれは漫才じゃないという理由で落ちたりするわけですよね。
これを何で僕が言ってるかっていうと僕が全くその松本さんの流派ではないからですよね。だからすごく言えてるところがあるんですけど。逆に言うと、だからこそ言えるっていうのもありますよ。
もし僕が今で優勝して今がある芸人だったら「お前松本さんに褒められて売れたくせに、なに松本さんディスってんの」ってなるじゃないですか。だからこそ、いや関係なくここまで来て、こういう自分の発信するところで言ってるんでよくないですかと。
正直松本さんのご恩で売れた瞬間一度もないんですよ。むしろディスられてるんで。僕がね。僕がディスられてるから。このね、ディスるに関してなんですけど。松本さんが「あれおもしろいな」っていうのはまだいいと思うんですよ。だけど「あれおもしろくないな」は業界全体にとって悲劇なんですよ。
まず受けてない人って、世に出れないから。ほっとけばいいじゃないですか。松本さんが「あれおもしろくないな」って殊更に言う時って、売れてるものに対して言うわけですよ。それの最初の最初が「遺書」っていう著書でもうすごい売れた本なんですけど。
その本の中でナインティナインさんをこき下ろしてるんですね。めちゃくちゃ勢いのあるナインティナインさんをめちゃくちゃこき下ろしているんですよ。それって、めっちゃ必要ないことじゃないですか。どっちかとやって欲しくないことというか。でもやるんですよね。そういうことを何度かやるんですよ。「あれおもしろくない」もやるんですよ。
これがね、業界全体にとってものすごい俺は損失なんじゃないかなって。冷静に考えると松本さんの主催した大会で、松本さんを超える人材というのを作ることが20年間今のところできていない上で、その大会に出ない人とかの価値もおとしめるっていう人たちを作り上げてる。
「M-1」に出ないんじゃなくて出れないっていう価値観を作るし、そうじゃない演芸が向いてる人を向いてる人に関してはもう認めないっていう。売れていようが売れてなかろうが漫才ができないんだったらだめです。これができないんだったらだめですっていうふうにしちゃうのがちょっとなって思うにもかかわらず、その「M-1」っていうものの延長のような大会が開かれて。そこに松本さんが来るっていうのは……どうですか?っていう(笑)。どうなんですかっていう。
でもせめて微笑んで見ててほしいなと思いきや、紙を読むのは漫才としてどうなんだって介入はしないでくださいと。いや俺ね、松本さんをおもしろくないって言ってるわけじゃないですよ。でもとてつもない功績を残します。僕もそれを見て育ってるわけですよ。小学生ぐらいの時に「ごっつ」だからね。すげーなと思って。
中学校でも高校でも見ましたし、「HEY!HEY!HEY!」とかも全部「一人ごっつ」だなんだ、[?ぶいてぃーあーるもびじゅあるばむも]もう全部見てるわけ。全部見てるんですけど、正直ちょっと審査員をやりすぎなのではないかっていうのが、私の素直な意見ですね。
審査員をやりすぎてしまっている。少なくとも「M-1」だけに絞られるのがよろしいのではないかと。誰が言うてんねんっていう、その、僕が言うてます。ごめんなさい。僕のただの意見です。はい。中田敦彦というリズムネタで売れ、音楽ネタで紅白へ行き、教育YouTuberとして芸人最多登録者を持つ、この中田敦彦が言ってます。松本さんが一切評価していただけないことで、なんとか生き延びてきて。
さらに吉本興業という事務所も今独立して、1匹狼よろしくやってるこの中田敦彦が申し上げているのですけれども。ちょっと審査員をやりすぎてしまっている。少なくとも松本人志さん以外の価値観を持つ人たちに、そのハンドルを渡すことで、お笑い界に新しい価値観や新しいスターができる土壌を作ることが、お笑い界全体への貢献になるのではないかというのは、私の提言ですね。はい。
少なくとも「THE SECOND」は違うフォーメーションでいってほしかったですよね。それができる人っていうのはいらっしゃるんじゃないですかね。わかりませんけども。
……っていう「審査員やりすぎちゃってる説」。これ、ちょっと「水曜日のダウンタウン」でやっていただけないですか? その「審査員やりすぎちゃってる説」ね。うーん。だいたいお笑いの賞レース、東京でやってるのを見たら、あれ、審査員やってる? 審査員やってる? やりすぎてますねっていう、検証をぜひしていただきたいんですよね。
他の出口はないのかと。1個でもいいから大会を、爆笑問題さんに1個でもお譲りいただけないですか。1個お譲りいただけたら僕爆笑問題さんにははまる自信があるので。そこでは勝てるんじゃないかと褒められるんじゃないかと思うんですけど。
なかなか褒められる気がしないんですよね。僕が褒められたいだけなんじゃないかっていうのもありますけどもね。ということですよね。この松本さんに対して、何も物が言えない空気ってのはあるんですよ。不思議だよね。あんだけさぁ。ジャニー北川さんの件でもさ、ジャニーさんが生きてる間に、言いなよとかっていう意見あったりするんだけど、生きてる間に言えなかったんだろって。それがもう一番の問題だったんじゃないのって。
生きてる間に言えないんだよ。そういうことがあったんだよ。だって松本さんの映画をさ、面白いか面白くないかって、誰も言わないんだよ。芸人が。あんだけラジオやってんだよ? みんな。絶対見てんだよ。松本さんの映画。なのに、それがおもしろかったかおもしろくなかったを、全員が押し黙ったように口をつぐんでんだよ。
そういうことがあるのよ。世界には。全員が、松本さんちょっと審査員やりすぎじゃないですかって、どっかで思ってても言えないのよ。なんでかって言うと、今活躍してる人の多くがどっかで賞をもらってるからだよね。
「IPPONグランプリ」でもらってる。「滑らない話」でもらってる。「M-1」でもらってる。「キングオブコント」でもらってる人たちが出てるでしょ。審査員やりすぎじゃないですかってどの口でお前言うんよ。その審査委員長に認められて売れたんやろうって言われちゃうじゃないですか。
だからこれ、言える人って、このどれでも賞を持ってないんだけど、今影響力を持ってる人間なんですよ。このどれでも賞を持ってない人間って、基本的にネットニュースにもならないんですよ。売れないから。
普通漫才かコントか大喜利か漫談かどれかでいくじゃないですか。どれかが良かったらどれかに出るんですよ。で、売れるんですよ。まったく関係ない。ダウンタウンさんのおかげでまったく影響を持たずにきた人間しか実はこれ言えないんだと思うんで。ちょっとみんなの代わりに言っちゃおうかなって。
審査員、ちょっと何個かやめてくれないですかって。ちょっと松本色が濃すぎてお腹いっぱいになっちゃってんじゃねえかなって思うんですよ。あと、そろそろちょっと松本さんの映画が面白かったか面白くなかったかについて、そろそろ論評してもいいっすか。後輩たちが。ちょっと。
映画確かに撮ってないですよ。撮ってないけど、あーだこーだ言うのが良くないって言うんだったら、「シネマ坊主」やってましたよね?映画撮る前に映画評論の連載、やってたじゃないですか。別に撮ってなくても評論はしていいですよね? いいっすよね……。はい。
ちょっとそろそろタブー解禁してもらってもいいですかねっていうこと?・・・ハハ。どう思います?これ見てる粗品君、どう思う?
最近ね、俺のトークチャンネルすごい見てくれてるらしいんだよ。粗品くんが。すごい嬉しくて。粗品くんなんて、全部取ってるでしょ? 「M-1」も取ってさぁ。「R-1」も取ってます?でね、もう大喜利だって強いんだし。でも言えないよね。吉本から数千万借りてるから言えないでしょ? 粗品君は言えないじゃん。言ったらお金とかいろいろあるから。
言ったら「松本、動きます」とかになって岡本社長が動いてくるから。動きますだけやめてほしいんだよね。動きますっていうか、「動かします」になっちゃってるじゃない。岡本さんをさ。岡本さんを動かしますになっちゃってるから。「あれ?」ってなっちゃうんだよね。あれ?社長より上?みたいなね。会長・松本さん・社長みたいになってるっていう。
そんな中でさ、そこの会社にお金借りてる若手は絶対何も言えないよね。だからね、俺、粗品くん、代わりに言うわ。松本さんやりすぎですよって。関係ない。思ってないよね。俺の意見だわ。ごめん、粗品くん、これ関係ないわ。とばっちり。関係ないけどね。
他にもいるけど有名ないろんな人言いそうな人いるけど、賞を取っちゃってるか。1本グランプリ取っちゃったりしてるよね。してるもんね。みんなね。
俺が奇跡的に何の賞ももらってないんでね。「IPPONグランプリ」出たこともないし。「滑らない話」若手の時1回だけしか出たことないし。「M-1」も決勝行ってないし「キングオブコント」も決勝行ってないから。「ドキュメンタル」も出てないし。
なんせ松本さんが大好きな、後輩との飲み会に一度も行ってないんだよねぇ。飯も奢ってもらったことないから。俺言っちゃうんですよねぇ。ごめんなさいね。ちょっといつか言わなきゃいけないなと思って。
俺昔ブログでもさ、そういうこと書いたのよ。なんか大御所が価値決めてるみたいな。あん時にさ、「ブログで書くのは卑怯だ」とかっていう言われ方したりもしたの。あ、そうなんだみたいな。じゃあ、どこで言えばいいんだろうっていう。松本さんの前でそれを言えるか?といって、呼ばれないんですけどっていう。呼ばれないです。松本さんの前に行ってそれ言う現場、ないじゃない。ないんだよねぇ。だからYouTubeでああだこうだ言うってことになるよね。これは卑怯なことなのかなぁ?YouTubeで言うの。
「松本さんの番組に出て言え」っていう意見の人もいるんだけど……うん。これを受けて松本さんの番組オファーされたら、サシだったら喋りたいよね。それはもちろんサシで喋らないかと。という番組いったら、あれだけど。まぁ~、ないんじゃない?それ。ないよね。
だからこれからも、ここから言ってくことになるのかねって思うんですけどね。それが俺の「THE SECOND」の感想なんだよね。正直みんなおもしろかったんだよ。みんなおもしろいんだけど、なんかそれ以外のことで気になっちゃったんだよね。
「ワイドナショー」コンビでやるんやみたいな。松本さんがまたアンバサダーやるんやとかマシンガンズさんになんか言っちゃうんだみたいな。それが気になっちゃって。どうなんでしょうっていうねことを思っちゃってるっていう。すみません。
収益化、止めますかこれ。あのねぇ……なんかつったらもう金稼ぐために利用するんじゃねえとかがあるから。ジャニーズの時もさ、収益化停止したんだけど。松本さんの時も収益化を停止しないと、お前は金稼ぎに利用したと言われる可能性があるから。これもちょっと収益化停止するよ。
なんでって思うかもしれないよね。なんでって思うかもしれないんだけど。いやそれぐらいのことなのよ。松本さんのこと喋るって。なんでこんな空気になっちゃったんだろうね。他のどの先輩とも全然違うんだよね。
さんまさんについてとかさ、みんな普通に気さくに喋ってるでしょ。鶴瓶師匠ってさ、こういう人なんですよとかって言うじゃん。みんな言うのよ。たけしさんのエピソードとか、鶴瓶のエピソードとか、さんま師匠のエピソードっていうの。松本さんがいないところで松本さんのエピソード語ってるの、聞いたことある?特にちょっといじる感じでとかないよね……。すいません。
あとですね。「中田で笑ったことねえからお前が何を言おうが響かねえ」とかそういう人もいるんですよ。それがね。だから中田で笑ったことあるかないかの問題で言うと、中田は芸人じゃないみたいな言い方をしちゃうあたりとかね。「誰々は芸人じゃない」とかいう定義が狭く狭くなってるから、なんか元気ないんじゃないですかっていう。
だってスター発掘になってんのかどうなのかっていうのがすごい重要だなぁと思うからね。あるからそうなのかなぁと思って。いやーなんとか生き延びて、文句言えるようになりましたわ。自分のメディアで。はい。この後、私がどんな目にあうのか。ぜひお楽しみに!
2022、2023とどんどん難しくなっていってる
おいおい無理だぞそろそろ
覚えられないし歌えないぞ
____
・1番2番という概念が薄れてきている
・男性曲なのに高い、年々じわじわ上がってる気がする、高音厨の俺でも無理
・テクニックを多用している
練習すれば歌える、聞き流すのでは無理
追記:なぜ今難しくなってるのか?
これは予想がつく
今が嵐・AKBの次の時代で、大衆からの脱却をした結果、音楽は音楽オタクのためのものになったし、カラオケはカラオケオタクのものになったからだ
口ずさむ歌ではなく、確かな歌唱力でしっかり味わえる歌が台頭してきた
歌は聴き専になるかと思いきや、カラオケ勢はそれについていくレベルの高さを見せている
DAMの採点、平均点高すぎてやべーよ
追記:じゃあなぜ歌うのか?
この記事の主旨は「ウクライナのゼレンスキー大統領のパーカーは略式軍服である」ということではない。
あくまで「略式軍服という日本語はなかった」「一年ほど前から急に現れた言葉だ」という誤認を訂正したいだけである。
「略式軍服」という言葉の使用例は、国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索では33件 - 法華狼の日記
どう見ても定着した言葉や概念ではない。ほとんどが翻訳で採用された言葉だったり、あくまで「略式の軍服」という意味の表現にすぎない。同一作品の重複も多い。
法華狼氏のエントリでは近年の用例はないとされているが、実際にはそうした用例は存在する。
枯野瑛『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』
あえて翻訳は除外したが、日本人作家の商業作品に限定してもこうしていくつかの使用例がある。
池波正太郎以外は、2000年ごろから2020年までに刊行された新しい書籍である。
もちろん10件足らずでは「定着していた」とまでは言えない。
しかし「用例がまったく無いわけではない」ということはわかるはずだ。
「用例」の存在を確認したところで、次は「用法」の確認をしたい。
国立国会図書館デジタルコレクションで「略式軍服」を検索すると、1940年発行の岡倉由三郎編『新英和大辞典』がヒットし、以下のような項目を見つけることができる。
tu'-nic [tjúːnɪk] n. 1) 〘古代ギリシャ・ローマ〙襦袢, 肌着, シャチ; 2) 一種の陣羽織; 3)(現代婦人の用ひる)腰部緊着上衣; 4) 〘俗〙密着短上衣, 略式軍服(又は, 警官服); 5)〘解・動〙被膜, 膜(=integument); 7)〘植〙膜質外皮, 種皮(=husuk). [OF tunique, < L tunica]
つまり辞書レベルで「略式軍服」は「(軍服の)チュニック」の訳語だったのである。
これは法華狼氏が「ほとんどが翻訳で採用された言葉だった」と書いているのにもつながる。
実際に、国立国会図書館デジタルコレクションで読めるいくつかの翻訳書籍の原文を確認してみると、
エリック・アンブラー著・宇野利泰訳『真昼の翳』(1963年)
He stood up, as if to end the discussion, and smoothed down the front of his tunic.
when he came back he looked lovely in his uniform, with all those pretty ribbons on his tunic,
コーネリアス・ライアン著・木村忠雄訳『ヒトラー最後の戦闘』(1966年)
Golbov took out of his tunic pocket a folded copy of the newspaper Red Star
用例が少ないために「それが定訳だった」とまでは言えないかもしれないが、「チュニックを略式軍服と訳していた」ということの証左にはなっていると思う。
https://togetter.com/li/2155299
早速AIに作ってもらった
風がざわめき 町を駆け抜ける
揺れる心 青春の予感
もどかしくて 早く降りたくて
ドアを開けた 空に飛び込む
未知なる世界へと羽ばたく
切なさと勇気が交差する
夢見る瞳に輝き溢れて
今日も歩き出す 一歩を踏み出す
時には辛くて 忘れたい瞬間もあるけれど
笑顔と涙が交じり合い
進む道を照らしてくれる
もどかしさが鼓動になり
加速するこのリズム感じてる
時を超えて 届けたいメロディ
強く想い届け 歌声に込めて
もどかしくて 早く降りたくて
ドアを開けた 風になりたい
いつか届くように
歌い続ける この胸の中で
誰かの心に 届けられるように
推しているVが伸びねえなあ、でも数字関係なく継続可能な限りは活動を楽しんでほしいし、推したいという話。
「良いものはほっといても売れる」なんて夢物語であることは、多くの人が同意するだろう。
というか、商売では売り込みとか、そっち系の戦略だって立派な実力の一つとも言える。
少なくともそれは、VTuberの世界にもしっかり当てはまると思う。
一口にVTuberと言っても色々いて、その中には楽器演奏を売りにするVもたくさんいる。
その殆どがピアノかギターだが、中にはフルートやサックス、クラリネットといった管楽器、中には津軽三味線とかもいたり。
そんな楽器演奏Vでも、自分のイチオシはヴァイオリンを弾くV。
ロックギタリスト兼ベーシストをリーダーに、アコギ弾き語り系シンガーとプロヴァイオリニストという、なんとも異色の3人組のユニットとしてデビューしたメンバーの1人で、
クラシックの上質な音をベースにしつつも、ポピュラー系の曲調にマッチするカジュアルな表現を志向したスタイル。
これが、以下の演奏の通り聴きやすい上に非常に気持ちいい音なのだ。
ちなみにクラシックを弾くとこんな感じ。
おわかりいただけただろうか?
クラシックとポピュラーで、ベースになる音の質が殆ど変わっていない。
ここから、この人はどんな曲でもクラシックの奏法の応用として、リズム感を変えたり装飾を適度に加えた音作りをすることで、
あらゆるジャンルでヴァイオリンの魅力が一番引き立つ表現を目指していることが見て取れる。
まさに正統派ヴァイオリニストとして、楽器の持ち味を十分に活かし、ジャンルに囚われない表現を追求していると。
他にヴィオラも弾けばギターで弾き語りもするし、最近はオタマトーンもお気に入りと、なんでも楽しもう!という柔軟でサービス精神あふれる姿勢にも好感が持てる。
好きなアーティストがYUIと坂本真綾ということで趣味もいい。
とはいえ、ソロのチャンネルを開設して1年ちょいであることを踏まえても、数字については…という感じ。
これだけ実力があっても数字にならないのがVTuberの世界というか、楽器の実力が必ずしも数字に結びつかないのはまあ知ってたというか。
でも音楽家としては間違いなく真っ当な活動なので、数字は関係なくこれからも推したいし、何かの拍子で有名になればいいし、ならなくてもいいし…と思っていたり。
医師です。
その場に居合わせた一般人のできる行動で、患者の予後を大きく変えるものは二つあります。
・継続的な胸骨圧迫
原則この二つで患者の予後は規定され、人工呼吸はやらなくてもそこまで悪くなりません(データによってはやらない方がいい、ということもあるようです)
AEDは持ってきてやるだけです。確かにブラジャーなど金属ワイヤーを含むものがある場合火傷のリスクがありますが、心停止時間が長い方がよっぽどリスクなので深いことは考えず最速でやるようにしましょう。(心停止に勝るリスクは治療者の二次被害、第三者の巻き込み事故以外ありません。)
胸骨圧迫は知らないとコツがいります。リズムよく、胸骨なんとなく下部を適切な深さで押さなければなりません。厳密なことを言うと、BPM100〜120、胸骨下部1/3(これは自信ない)、深さ5〜6cm(小児はこの限りではありません)ですが、こんなんどうでもいいんで自分のできることを最大限やってください。みなさん心臓の位置ぐらいは知ってると思うんで、その上をいい感じの深さでいい感じのリズムで押すだけです。アドバイスとしては、思ったより力は必要、曲名は忘れましたが「ダイヤモンドだね〜」の曲が異常に耳に残っていい感じのリズムだから口ずさむといい(異常者?)、です。
最後に、人工呼吸は最近上記のデータが集まったことやコロナ感染リスクにより院外では通常あまり行われません。感染しないようなバルブを用いた人工呼吸が行われますが、どこにでもあるものではないので使い方は本当に気になる人だけ調べてください。
適当なこと言ってる増田が目立つので書きましたが、まあこれも話半分に聞いて、気になる人は消防署や免許センターの講習を受けましょう。調べてもいいですが、実際に人形相手にやるのが一番です。元増田は気の毒ですが、自分の行動に責任を持つためには、みながこれらの知識にアクセスできるようにすべきだと考えます。
去年あたりメンタルぶっ壊れて死にそうだったので電気使う生活をしてた。
この書き方だとまるで原始人の生活してたみたいな文章だけど、ようは夜間にメインの蛍光灯を使っていなかった。
メンタルがおかしくなってから睡眠のタイミングがぶっ壊れたのか、メンタル壊れたから心を守るためにギラギラの蛍光灯を夜間もつけるようになったので眠れなくなったのかは、定かじゃないけどもとにかくメンタルがぶっ壊れてて夜間に照明をギラギラに使う生活をしていたら睡眠リズムがぶっ壊れた。
そしてメンタルのヤバさ加減が落ち着いてきてもなかなか睡眠リズムはぶっ壊れたままだった。
そんで、以前やっていた夜間の蛍光灯停止をすることに決めた。
基本的に暗いと人間は心も暗くなりがちな気がするので、またメンタルぶっ壊れる危険がありましたが、ここは少しずつ様子見で少しでもメンタルに悪影響があるならば蛍光灯使う生活に戻るという選択肢もありますよ?みたいなノリでやりました。
そして夜が長いと、人間の本能が。さすがにこんだけ長い間夜起きてるのってマジヤバじゃね?みたいな感じになるのか知らんけど、0:00くらいにはさすがに眠くなってくれる。最長でも2:00くらいまでにはちゃんと眠くなってくれる。ありがたい。
蛍光灯消したら暗いだろうと思われますが、そこそこ暗いです。でもそれはメインの部屋の明かりを消してるだけで、脱衣所とか、キッチンとかトイレとかの電気を付けて置けば漏れ出た光が照明になるし、もっと暗くていいなら外の街灯の光が眩しいのでカーテン開ければそれなりの光量は入ってくる。そんな感じ。
昼形になって良いことは、夜中の暇な時間を味合わずに済むことだと思ってる。あとやっぱり日光のある時間に行動するほうが合理的だし、天体の運動に合わせた合理的な活動ができてるという気持ちで自尊心が満たされる効能がある。他の人はどうか知らんけども。