はてなキーワード: 祖父とは
留学経験を鼻にかけ、「日本語しか喋れない人間とは話をしたくない」が口癖のいとこの嫁
この間の法事の際、長らく入院していが祖父が退院して久しぶりに皆と顔を会わせる事になった
初対面の祖父の前で、いつもの調子で親戚たちにいかに自分の語学力が優れてるかを説くバカ嫁
輪の外で聞いていた祖父だが、やがて山陰なまりのおだやかな口調で
「そうかそうか、それじゃわしとちょっと話しようか」
いきなり訳の分からない言葉でしゃべり出す祖父、バカ嫁ポカーン
「ドイツ語だ、遠くから大変だったなって言うたんだが、分からんかったか?」
「スペイン語だ、こっちは寒くて大変だろうって言うたんだ」
さらに別の言葉でしゃべる祖父、バカ嫁真っ赤になって完全に沈黙
このジイさん、大戦中は軍の諜報員として活躍していた人物なのだ
俺を含めた親戚全員はその事を知っていた為、ニヤニヤしながら事の次第を見守っていた
バカ嫁はいとこのいる離れに逃げ込み、以後帰って来る事はなかった
やっぱ改めて読むと嘘松臭すごいな。
喪服に腰回りが入るか心配をする季節。祖父の三回忌がもうじき行われよう、という頃であった。
祖父を追うようにして、と言うには少し年月が経っていた。そして、三回忌になる祖父の死を、祖母が認識できていたかは、はたしてわからない。
要介護4。祖母が認知症を患ってから、もう20年は経っただろうか。
合掌。
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戦前を知る祖母。海外旅行が好きで、アルバムが何冊もある。そのほとんどをめくったことはないし、思い出を尋ねたこともないが…。実に惜しいことをした。
裁縫が得意で、幼少期に好きだったゲームキャラクターのぬいぐるみを、ねだって作ってもらったことがある。手作りのプレゼント、と思い返すと、今でも気持ちがあたたまる。
祖母は長年、自営業だった祖父の会社の経理を務める傍ら、学童保育なんかの地域活動に勤しんでいた。60歳を過ぎたあたりで、そうした仕事縁が切れてしまったようで、毎日、特にすることもなく、会う人もなく、自室に籠りがちになった。
特に具合が悪いとは聞いていないが、時おり部屋を覗きに行くと、散らかり放題。まず、足の踏み場がないくらい服が散乱している。万年床で力なく横たわる祖母の頭上には、布マスクが何枚も干してあり、床には消費期限切れのあんぱんやバナナが、袋に入ったまま潰れている。
当時はげっそりするばかりで、祖母を慮ることができなかったが、おそらく、鬱だったのだと思う。社会に、自分の居場所がなくなってしまったのだ。家族でさえも、居場所を作れなかったのだと思う。
おばあちゃん、なんかヘンだね、と家族で話題にあがることもあるが、「しっかりしてよ!」と本人に言うくらいで、解決のしようがわからない。これからしばらく経つと、祖母の口から物や人の名前が出てこなくなり、めっきり口数が減った。
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次いで、認知症らしい症状が出てくる。
自分の食事が済んで部屋に戻ったあとで、入れ歯で咀嚼に時間がかかり、食事の遅い祖父に対して「まだ食べているのか」「洗い物ができない」と小言を言いにくるようになった。…3分おきに。
あまりに頻度が過ぎるので、逆に祖母が咎められる始末。でもまたすぐに、小言を言いに戻ってくる。まるでコントのようだが、本人の言い方は鬼気迫っている。見方によっては、祖父にだけは強く出られる、…それは愛情だったのかもしれない。
わかった、わかった、と折れるが食事の終わらない祖父。 その後、また小言を言いにくる祖母。祖母が老人ホームに入るまで、夕飯時はこのシーンが毎日、繰り返されることになる。
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振り返って、認知症の決め手に思えたのが、「死んじゃいたい」という祖母の発言だった。小言を言うようになって1年ほど経った頃に、祖母がふいに口にしたのだった。
なんてことを言うんだ…! …と驚いた。家庭に、希死念慮のある人がいるとは。
「情けないよ、死んじゃいたいよ」
これを何遍も繰り返す。認知症の人は、直近の出来事の記憶はなくなっても、腹が立った、哀しかった、恥ずかしかった、という感情は残るのだという。おそらく祖母は、このときには自身の認知症をはっきり自覚していて、それに伴う負の感情が、いよいよ堰き止められなくなったのだろう。
これはもう家族の手に負えない、と思って診断を受けてもらうと、当時は軽度ではあったが、やはり認知症の認定をもらったのだった。遅かった、と悔やむが、早ければどうにかできたのだろうか。接し方くらいは、変わったかもしれない。
買い物は危ない。出先で声をかけられたのか、家族で登録済みの生協に個人でまた登録してしまったり、フルーツの訪問販売に食べきれないほど買わされそうになったり、人の良さや判断能力の鈍さに"付け込まれる"ことは多々あったが、それでも祖母は、自宅で自分の身の回りのことをやれるだけの元気はあった。
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我が家ではねこを飼っている。認知症の祖母にとっても、ともに同居する家族にとっても、ねこの存在は救いだったと思う。
相変わらず祖父への小言は絶えなかったが、ねこを愛でるときは、祖母本来の、やさしい気質を感じさせた。
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祖母と過ごした時間は、祖母が認知症を患ってからの期間の方が、ずっと長くなった。
もう祖母の思い出というと、例の夕食のシーンがほとんどだったが、あるとき反物をもらったので、これを浴衣にしてほしい、と無茶を頼んだことがある。
「ずいぶん久しぶりだから、どうかしら…」
ちょっと困った顔をしていたが、やるだけやってみる、と十数年ぶりかに、針と糸とを手に取ってくれた。
数日後、ちょっと丈の短い浴衣が完成していた。物が出来上がったこともうれしかったが、大変だったのよ、とこぼす祖母の"小言"にも、うれしさを感じた。
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それから私は家を出て、LINEで家族から近況を伺うか、たまに帰ると名前を忘れられている人になるか、そういう距離感で祖母と接していた。
認知症が進み、施設介護が必要になってきた。ショートステイから始めて、遂にホームに入居するようになった。相変わらず、祖父は食事が遅いが、それを咎められることもなくなり、家は静かになったそうだ。
一方で、祖母はホームではよく食べるようで、自宅にいた頃よりもがっちりとした姿を写真で見せてもらっていた。
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一昨年、祖父が持病で亡くなった。
"長生き"が目標。90歳を超えて、呼吸や聴力、咀嚼に難はあったが、認知能力に問題はなく、足腰は丈夫で、最後まで自分の身の回りのことはこなしていた。友人には先立たれ、お金もあまりなかったようだが、酒と煙草はやめられない。…適量でね。カメラと高校野球が好きな、元気な人だった。大往生だろう。
年齢からすると、祖母も大往生と言える。ただ、人生の後半20年は、認知症との並走だった。家族も辛かったが、本人も辛かっただろう。どんな心境だったか、皆目検討がつかない。
本人が「情けなくない」と自分に安息できた瞬間は、この老後にあっただろうか? ひとつ、ねこを撫でているときは、そうだったかもしれない。
孫の私は30歳を超えて、訃報を聞いたきょうも、だらしなく生きている。もう倍生きると、祖母の認知症が始まった歳になる。
「情けないよ、死んじゃいたい」と、私もいずれ、誰かに言うことになるかもしれない。誰に言えるだろうか? そう口にしてから、どう仕切り直していけるのだろうか?
そしてそんなに裕福では無い
祖父が定年退職して祖父だけの年金では暮らせなくなり、高校生頃から仕送りしてた。
そのうち祖母が死に、祖父も80を過ぎもう家で生活が無理で昼間だけ施設に入れているが、年金があるから何とかなっているという感じ。
もちろん両親も祖父母の生活支えるための仕送りをしていたので貯蓄はそんなにない。
今後両親が施設に入ることになり、24時間365日預けるとしたら、年金貰えてたとしても年金では賄えない可能性が高い。
田舎に帰って昼間は親を施設に預けて仕事して戻ってきた両親を介護する生活になる。
しかし、年金がなければ田舎の給料で昼間親を施設に預けることも難しくなる
まず、しばらくここに投稿することができなくなったことを心よりお詫びさせて頂きたい。
私の身に何か起こったのではないかと心配してくださる方もいたであろう。現在、何事もなく生活できている。
ここでの注意喚起がストックホルム貴族の息のかかった遠縁の血縁者の目につき、工作員たちから逃れるために各地を転々としていたのである。その後実家や土地の整理などに追われており、はてな匿名ダイアリーにアクセスすることすらできなかった。
工作員の1人が私の主張に理解を示しており、彼から誘われとある過疎地域のワクチン接種会場で出動医としての勤務に就いた。もちろん、私にストックホルム貴族による虐殺計画に加担するつもりはなく、接種会場に訪れた方々に注意喚起を行うつもりであった。
過疎地域と侮っていたが、出動医、看護師、自治体職員までストックホルム貴族の影響下に置かれており、結局私は目的を果たすことのできないまま退去させられたのである。
そこから印旛郡の某自治体に戻り、そこに新しい生活の拠点を確保し、インターネット環境を整えようやく今に至るのである。
ここで再び自己紹介をさせて頂きたい。
父は教師をしながら祖父と共に清酒用の米を作り、休日には空気銃で鴨を撃つのどかな人間であった。母は音楽教師であり、米農家に嫁ぎながら遂に一度も田んぼに足を踏み入れないまま生涯を終えた気位の高い女性であった。
何事も起きない小さな町で生まれ育ち、千葉県立佐倉高等学校を卒業し代ゼミから一橋大学商学部に入るまでは安穏と過ごしていた。在学中ストックホルム商科大学に留学し、ローベン島の離宮で行われたパーティーで知り合った貴族達と関わるうちに彼らの有色人種虐殺計画を知った。一橋大学商学部卒業後、叔父宅での居候期間を経た後に神戸大学医学部医学科に入学。学部教育を終え大学院医学研究科にてストックホルム貴族達の陰謀を暴くため研究に打ち込むも怯えた教授達から医局と学会を追放。さらに帰郷後にはサナトリウムにて亥鼻の工作員たちから拘束される屈辱を受けた。
ある日の朝に姉の夫が亡くなる夢を見た。酔っ払って道路で寝て車にひかれていた。
夢の中では洗濯機で毛布を洗っていたら姉がやってきて、夫が亡くなったので姪を見ていてほしいと訪ねてきた。
妙にリアルだったので夢と現実の区別がつかなくなり、なぜか母に「念のため聞くけど姉の夫は死んでないよね?」とメールをした。
「たぶん生きてると思うよ。どうしたの?」
「朝方見たなら正夢かもね。おじいちゃん(母方の祖父)に似たのかな。一応お姉ちゃんに連絡しておくね」
そんなやり取りをした約一週間後、本当に姉の夫が亡くなった。酔っ払って道路で寝て車にひかれた。
結婚したばかりのころは優しいけどちょっと世間知らずな人くらいだったらしい。私から見ればごく普通の男の人だった。
だんだんお酒を頻繁に飲むようになり、そのためなら残業だの接待だの嘘もつくようになっていった。毎日飲むわけじゃないけど一度飲みだすと寝落ちするまで止められない。飲みに行くと家の近くの公園で寝ていたり、寝たままタクシーで送られてきたりしたそうだ。お酒を止める姉に平手打ちをして逆にぶん殴られてもお酒を止めなかった。
アルコール依存症だと周りは思っていたが、毎日飲まないから大丈夫という理由で絶対病院には行かなかった。
子供が欲しいとうるさかったわりには妊娠しても姉に何もせず、生まれてきた姪にも何もしなかった。最終的にメールで必要事項のみやりとりする仮面夫婦になっていた。
亡くなって姉がせいせいしたのかどうかはわからない。ただ、死に方が死に方だったのでここまで手間かけさせやがって、というのが本音。
鬼太郎の映画、ネットでは絶賛される一方、一部の人達の感想によると
どうやら祖父から孫への近親レイプがあるらしいな… しかも村ぐるみで代々行われてきたっていう?
うげーそれは無理だわ
ゆるキャン△のメンツってあんまり家庭のこと書かれないけど、最も実家が太いのは斉藤だよな。山梨って大手製造業の地方工場が結構あるんだけど、そこに、現地の製造子会社じゃなくて本社のエンジニアとして勤めてる家の子って感じがする。給与は間違い無く一本は超えてる。自営業とかの方が金はあるけど、せかせかする必要が無いので落ち着いて、そうとは悟らせずに贅沢な暮らしをしてるって感じがする。何かを買うときも、自然とハイエンドを当たり前の様に買っちゃう見たいな。
だから斉藤は大丈夫。30歳ぐらいになって、実家の援助を受けられるところで一人暮らししながら、独立して店とかやってそう。で、そのうち父親のように安定している夫と結婚して、一生あまり儲からないペットトリマーをしつつ、夫は斉藤のペットトリマーを節税に旨いこと活用して、豊に暮らしそう。
次はなでしこだよな。浜松から移ってきたと言うことで、まず間違い無く親父の勤務先はファナック。B2Bなので知らない人は知らない会社だけど、この会社が無ければ世界中のロボットが動かなくなる、製造業を陰に日向に支える会社。ここも一本は固いでしょう。姉は大学生だが実家から通っている様子なのだが、甲府市からだと中央線特急を使うと首都圏の大学にも通うことができる。それを支えていると考えると相当に実家は太い。だから小売店に勤めつつ、趣味をやりながらあまりカツカツせずに仕事ができる。そして、こう言う人はカツカツしないために逆に利益を運んできたりするのだ。アウトドア用品メーカとしてはかなり行けるだろう。
そして、イヌ子である。ここはごく普通の、平均的な勤め人の家か、あるいは公務員ではないだろうか。金銭感覚も普通だが、エキセントリックな性格では無い。そして、妹を美大に出せる程度には安定している職業という事だと思われる。
リンちゃんも恐らくここら辺だろう。ただ、祖父は愛知県住まいと言うことだが、いわゆる三遠で、豊橋市あたりではないか。りんちゃんが名古屋の出版社にいったのも、祖父の影響があったのではないか。元増田は40歳ぐらいで思い知るとあるけど、この手のスキルは不変的に求められる時代なので、どこかで出版社勤務というキャリアを背景に企業広報や企画職などに転職成功しそうではある。
そして、恐らく一番実家が太くないのは、大垣であろう。実は他の家は家族が登場しているが、大垣だけは不明なのである。作中で触れないし、一番付き合いが長いと思われるイヌ子も触れない。何らかに家庭の事情を抱えていると思われる。大学では間違い無く奨学金を使っているし、外の大学を出ていると思われるが、それでも公務員となって戻ってきたのは、地元愛もあるだろうが、諸事情もあったのではないか。 そして、何らかの家庭環境があったからこそ、大垣の面倒見の良さ、そして地元を愛する心が育まれたと思っている。つまり、嫁にするなら大垣。この中でイヌ子かその次ぐらいに早く結婚すると思う。
なので5人の中で、実家が太い順では、
生涯賃金が多い順では、
==非婚の壁==
ではないだろうか。
まあいい
家族制が近代的になりつつある明治時代から昭和後期までで説明しよう
明治から昭和にかけても大家族と言っても様々であったようで、この形態が必ず
とは限らない
(昭和の時代に祖父母やってる世代なら複数子どもがいるだろう?)、
彼らの中には生家でもある実家で自分たちの両親(子供世代には祖父母)と同居していた者がかなりいたんだよ
昭和後期にはかなり減っていったので増田は知らんのかもしらんが
それと「高等遊民」って調べてみてほしいな
「大学を卒業するという超エリートにも関わらず、経済的に不自由しないために賃金労働につかない者(小説や随筆を執筆したリはする)」
という定義が明確にある
私は今現在独り暮らしをしているが、4年ほど前まで姉と同居していた。
3年足らずの間だったけど、楽しかったのは最初の1年間だけだった。
一緒に暮らすようになったのは、姉が「実家を出たいが、一人で暮らすのは不安だ」と言ってきたからだ。
すでに私は隣県で独り暮らしをしていたが、ちょうどブラック企業勤めから逃げ出すきっかけが欲しかったから、姉と暮らすことにした。
最初は楽しかった。姉と趣味は違うが、別に話が合わないわけではなかった。
転職活動してる間は姉に生活費を賄ってもらっていたが、就職したら折半すると約束していた。独り暮らししていた私が使っていた家電(テレビ、洗濯機、冷蔵庫)を持ってきたから、就職までの生活費はそれでチャラになるはずだと思っていた。
でも、姉はそうは思っていなかった。
私が就職して、働きだすと生活費を半分出せと言うようになった。
払わなきゃと思いつつ、仕事の疲れからすぐに銀行に行けなくて、何ヵ月か滞納してからまとめて払うようになった。
姉の仕事が忙しくなってから、姉の態度はキツくなった。夜に自分の部屋で通話やゲームをしていると「うるさい!」と隣のへやから壁を叩かれた。
私だって早く生活費を渡さなきゃと思って、好きでもない仕事を始めたのに、なんで好きなことを仕事にしている姉に怒られなきゃいけないの?と思った。
部屋でゲームや通話を楽しむのは悪いことだと思ってベランダに出てやるようになった。それでも姉の機嫌は毎日悪かった。
嫌で嫌でしょうがなかった。姉のワガママで一緒に暮らしてたのに嫌な思いをさせられるのがつらかった。
それに私はブラック企業のせいで睡眠障害とうつ病になってた。姉が私をちゃんと理解してくれていたら、少しは病気が良くなってたかもしれない。
半年くらい姉からの冷たい態度を我慢していたけど、もう無理だと思って一度実家に帰った。かわいい弟と優しい祖父がいるから、安心だと思った。
でも、一週間くらいして弟が私の悪口をツイッターに書き込んでいるのをみてしまった。私の笑い声がうるさいと書かれた。ショックだった。弟もジャイアンみたいな姉のことをうざがっていたから、同じように姉を嫌がっていると思ってた。だけど本当は私のことを嫌がっていた。
実家にいたら姉がやってきて、なんで避けるのかって聞いてきた。きもいと思った。どこにも居場所がないと思って、いろんなところに行ってるだけなのに、避けてるとか思ってるのがきもいと思った。
母親にも怒られた。生活費をちゃんと払えと言われた。確かに5ヶ月くらい払ってなかったけど、姉の態度が怖くて話しかけられなかっただけなのに。
他にも、仕事で疲れてるのに夜中に騒ぐなとか、ごみを床に置いたままにするなとか、ついでみたいにいろんなことを言われて嫌だった。
母親は姉の味方をしていた。昔から姉のことばっかり大事にしてたから、きっと姉の味方すると思った。でも少しも私の気持ちとか聞いてくれないんだと思った。
姉と母親に責められて、ずっと黙って聞いてたら「何考えてるのか分からない」と姉に怒られた。何か言いたいことがあるなら言えとか言われたけど、どうせ私が悪者扱いだからどうでもいいと思って適当に何か言った。
出ていけと言われたから出ていった。
それから独り暮らししてるけど、今でも思い出して、身体中が痒くなる。
私がそんなに悪いことした?あいつらは身内に一番の悪者ができて満足だろうけど、悪者にされた私はどうなるの?
私が悪いの?
令和2年5月11日に白のサイモトの自転車に乗ってあの場所にいたことは認めますが、令和2年の拡声器は最初は AZAの前でやっていたので、令和2年になってから
いきなりあの場所にいたわけではない。令和2年8月20日に帰っていてもしばらく拡声器がなかったから、9月3日に小菅にいっていたことがある。
精神錯乱の保護は、11月27日にずれこんだが、それより前は不明。
令和3年4月21日、8月4日
8月4日は、がるちゃんが、戸田橋の地域センターの中に出てきていた時代。
7月5日以降は、自転車がなくなったので、 7月14日に、走って、さいたま地裁まで行った。 バクサイに記録されている。
あるじが毎回のように主張している、ライフル銃でやったらどうかという事件は、令和5年5月に、発生しているのではないか。ジジババと警官の4名が猟銃でやられている。
9月29日に、スイカをやりますという書き込みがあるので、おぺちの祖父が歩いて出てきたのもその頃だと思うが、 9月29日かどうかは分からない。
ただし向こうの方に立っていた。
マジで。
農家ではないが、ド田舎なので、価値のない土地家屋が何ヶ所もある
父方の祖父母が民宿をやっていたのでその土地建物があるが、産業廃棄物になる機器類も多くてマジでどうしたら良いのかわからない…
今はほぼ誰も立ち入ることがなくて廃墟になってる(年に1〜2度草刈りに行く)
祖父母が宿を畳んだ後で暮らしていた土地建物には寝たきりの祖父と祖父の世話をする父が住んでいるが、広い庭で祖父が老後の趣味に畑をやっていて、こちらも処分に困ってる
自分たちが育った家は、祖母の実家にあたる建物で、こちらは昨年きょうだいで金を出し合って処分した(ゴミの処分、家屋の解体等で大体三百万かかった)
母方の祖父母の家もあり、祖父母共に既に亡くなっているため近くに住む母が時々掃除したり風を入れに行ったりしているが、母の姉に当たる人が身体を壊してほぼ寝たきりの完全介護状態になっていて片付けに参加しない&その夫が主導して建物財産の権利を主張しているので処分が進められない
現在母が住んでいるのは、母が退職金で祖父母宅の近くに建てた母だけが住む家屋で、帰省先になるのも基本的にはその家だけど、兄弟全員実家地方に戻るつもりがないから早めに建物を処分して施設とか探して入ってほしいけど、まだ元気でパートや趣味で残りの人生楽しんでる感じ
特に宿の跡地の処分は父に何度も頼んでるけど、祖父が存命だから〜とかなんだかんだ理由つけてのらりくらり20年以上何にもしてもらえないでいる
【ここから本文】
私は神戸で生まれて育ちました。昔は裏六甲の北区で、今は海側の住宅街に住んでいます。
他の街は分からないけど、神戸は海も山も都会も田舎もあるいいところだと思っています。
子供のころはよく洋裁が得意な祖母が作ってくれたワンピースを着て、祖父に連れられて王子動物園と須磨海浜水族園に連れて行ってもらいました。
この夏は本当に暑くて、灘湾にもくもく立っている入道雲が憎たらしかったです。
神戸都市部の排熱が、全部六甲山から吹く風に淡路島の方まで流されて、雨雲になります。
こないだ、三宮でコーヒーと紅茶を買って、南京町で老祥記の豚まんを買いました。
山か海が見えると方角がわかるのですが、ビルに囲まれてしまうとたいてい、南北逆になってしまっています。どこにいても山が見えたらなあ。
湊川商店街は学生の頃と変わらずにぎやかで元気があります。湊川公園の、ちょっと怖い通路も実は好きです。
ずーっと下って新開地まで歩くと、西方面に大開通という道があって、とても懐かしかったです。高校生の時の通学路でした。
別の日。山に行きたくなって北区に行きました。
といっても地下鉄一本抜けたとこ周辺です。六甲山と丹生山系に挟まれた地域です。大切な風景です。
空が高くて、藁葺の屋根と田んぼの彼岸花を見ているとギューッとした気分になります。水路には赤とんぼがいました。
別の日。川に行きたいと思ったので住吉川を歩くことにしました。この川は地域の人達の協力もあってとてもきれいな川です。カモとかサギとかがのんびりしています。夏は子供さんが水遊びしてます。
別の日。山歩きがしたくなったので、少しだけ六甲山に入りました。新神戸駅の横から入ったけど、運動不足が祟って1つ目の滝をみてギブアップです。また、登りに来るねえ。
その日はフロインドリーブの焼き菓子を買ってバスで帰りました。
別の日。山に行ったら次は海!と思っていたので、海へ一目散。着いたのは六甲アイランドのマリンパーク。久しぶりに動いているガントリークレーンを見ました。子供のころはこれをキリンと思っていました。
阪神淡路大震災で、港は随分元気をなくしてしまったけど、まったく機能しなかった時からすれば、よく動いてくれてるなあと思うんです。
この日は帰るのが少しめんどくさくて、石段に座ってボーっと夕日が落ちていくのを見てました。
その日の夕飯は、スーパーで買ってきたコロッケと、作りおきの切り干し大根、卵のお味噌汁にしました。
お風呂に入っていると、夜、ボーーーーッという大きな汽笛の音が聞こえます。
昔祖父母の家に泊まった時も聞こえました。
別の日。買い物でハーバーランドへ行きました。神戸駅は東海道線の西終着駅です。大阪の梅田が終着駅だと思ってる人がいるんだとか。
それにしてもまた海です。ここはできた時からガラッと変わった部分が大きくて、まだ慣れません。
「かつてデートで来ていた二人がファミリーになってもう一度来る場所に」という感じのコンセプトでリニューアルしたそうですよ。
私、大きなモールの西側入口にあるディンドンというからくりが子どもの頃から大好きで、うっかり立ち止まってしまうとずーっと眺めてます。
ホールの東出入り口の近くに、モザイクに行くためのエスカレーターがあります。このエスカレーターは途中で平らになるんですよ。私のお気に入りです。
買い物を済ませて高浜岸壁に行くと、大きな船が入ってきていました。コンチェルトだったでしょうか。
夜は花火が上がるとのことだったので、混雑に巻き込まれないよう、早めに帰りました。
別の日。友達が来ることになったので、自分でパウンドケーキを焼きましたが、いまいち地味に仕上がってしまったので、急遽ケーキを買いに出ました。
日が落ちると友達が「今から夜景見に行かへん?!」というので、車に乗せてもらって、六甲山から夜景を見ました。お車代は断られたから、作ったパウンドケーキの半分をお渡ししました。
別の日。旦那と喧嘩しました。些細なことです。お箸たてにお箸をさすとき、どっちを上にするかで喧嘩しました。
現実逃避したくて、ずーっと部屋で犬を飼う構想を練っていました。朝起きるのが苦手な自分のことは棚に上げました。
犬がいたら、一緒に色んなところに行けそうなのになあ。
別の日。異国の寺院が見たくなって北野へ行きました。最初に頑張って北野神社に参りました。階段でいきなり足ガタガタです。
北野にはイスラム教寺院があります。とてもきれいな建物ですが、いまいちきれいに撮れるポイントがないです。でもここのモスクは日本で一番古いモスクなんですよ。
ジャイナ教の寺院があるのは日本でここだけです。どうしたらいいのか分からない度がすごいです。
輸入食品店でハルヴァという中東のおかしを買って、ちょっと西にそれながら坂を下って栄光教会を見上げました。この教会は阪神淡路大震災で崩れた煉瓦をもう一度組み立てて再建したという根性エピソードがすきです。
生田さんにお参りして終わりです。日本の神様は、他の神様にも参ったことを褒めてくれたらいいなあ。
この日は早めに帰って旦那と家で食事をしました。鶏モモを照り焼きにしたやつと、スーパーの高野豆腐と、トマトサラダと、卵の味噌汁です。
旦那の出身は神戸ではないので、こっそり、早く神戸好きにならんかなあと思っています。無理強いはできないけどね。
嫌な事件も多いし、どないなっとんねん!と思うこともあるけど、まあまあのどかで楽しいですよ。
ここまで読んでくれた人に、平和さが伝わってたら嬉しいです。
いろんな反応やコメントがあって嬉しいです。ありがとう。夜中に日記を読み返しながら書いたものなので、恥ずかしいはずかしい。
今日はいい天気なのもあって、嬉しかったし、なんとなくレスしたい気分なので、レスさせてください。
・固有名詞全部わかる~の人
→ありがとう。摩耶埠頭は私も好きです。県美のりんごには一人ではたどり着けません。なぎさちゃんもです。
・住んでたから分かる~の人
→ありがとう。住んでると身近なものばかり書いてしまいました。
・箸立て~の人のひとたち
→お箸の先が底になったら底の汚れが先に付きますよね。でも上にしてたら空気中の汚れが付きますよね。
そんな感じです。蓋付きのお箸立てを買えばいいことに気づきました。先端恐怖症ではないんですよ。
→怖い人とは関わりたくないなあと思いながら暮らしています。中学校は遠い昔の話ですけど、全員坊主はアカンかったなあと思います。関西弁、ごめんねえ。他地域の人にわかりやすく話したいとは思ってるんですよ。
・センタープラザ~の人
→カード屋も多いけど、最近はガチャガチャコーナーも増えてますね。うっかりすると小銭すぐなくなっちゃう。
シャッター、寂しいです。昔はもっと中古CDとか古本とかの店が多かったですね。
・イノシシの人
→ありがとう。夜道で遭遇すると「あれ?犬?」ってなります。うりぼうは可愛いけど近づきません。油断大敵です。
たまに小さい川の方に降りてきててカモと一緒にいると、鍋コンビやなあと思ってます。
・長田に行って~の人たち
→悲しい気持ちになるのは嫌だけど、切ない気持ちにはなります。シューズプラザの赤い大きなハイヒールを高校生の時に見て、もっと子供だったらすべり台にしてそう、と思ってました。
靴の青空市場で、一袋靴詰め放題1000円!というのがあって、さすがケミカルシューズの町!って思いました。
歌は謎だけどそばめし美味しいよね。長田は美味しいお好み焼き屋さんも多いんですよ。
・良い街なんだけど~の人
→ごめんなさい。そういう話し方をしたいわけではないんですけど、兵庫の言葉は押しというか、圧が強いみたいです。
敵意も悪意もないんです。私が話すのは神戸弁ですが、怖がらせてたら申し訳ないです。
・生まれ育った街が~の人
→いろんな街に住んで、それぞれの魅力が知れるのは、嫌だなと思う経験があったからかもしれませんね。
死ぬほど羨ましいと思ってくれるのはちょっと鼻が高いけど、でも死なないでください。いつか神戸に遊びに来てください。
・移住者だけど~の人
→住んでこそ楽しい街、本当にそうです。移住してきた方に言われると嬉しくなってしまいます。嬉しいなあ。
一緒に神戸に骨を埋めましょう。でも時々、生まれた街のことも思い出してくださいね。
あまりこういう日記を書かないので読みづらかったらごめんなさい。
エスカレーター、間違ってた!いやー!はずかしい!
【16:55 再追記】
こんなつたない散文がホットエントリに入ってしまったようです。念のため身バレを防ぐためにいくつかの箇所をいじりました。
内容は若干虚実入り交じっているし、別の日なだけで、時系列は過去未来様々です。
ブコメで懐かしいと思ってくださる方、良い文章だと言ってくださる方、本当にありがとうございます。
あまり他の都市のことは書かないようにしたいですが、神戸は近くに京都や大阪という大きな都市がある分、そしてそれ以外にも周辺に魅力的なまちがたくさんある分、旅行で神戸だけに長く滞在してもらうにはむつかしいのかなと思います。
でも暮らしていると、まあまあ平凡でぼんやりできるとこですよ、ということが書きたくて日記を読み返しました。
書いてない区のこと(西、垂水、須磨などなど)もちゃんと神戸です。読み返した分の日記の中には偶々なかったり、書くと身バレの危険がある部分だったりしたので内容には入りませんでした。
名谷駅のタイルの壁がなくなったの、ちょっとさみしいですよね。でも地下鉄の駅前はどこもにぎやかになっててすごいですよ。
書いていたら本当にキリが無くなるのでこの辺で。
とはいってもわざわざ好むわけではなく炊飯器に入れたまま保温が終わって品質保持のまま電源が切れた冷たい米飯を食べるときにわざわざ温め直すことをせずにそのまま食べるのです。
冷たい飯美味いですよね?
そりゃあ炊きたてのも美味しいですし、保温したもの(外食で食べるたいがいの米飯がこれ)も好きです。それと同じくらい冷たい飯も美味しいということです。
弁当のご飯も冷たくても美味しい。おにぎりもそう。もちろんホカホカご飯でも美味しい。
なんだってこんなことを書くのかというと家族がご飯が冷たいことにありえないくらい否定するからです。
それがわかってるから温めて出すけど、温めが足りないと再度の加熱を要求する。
私はレンジの加熱により熱くなった器を持つのと包んだ熱いラップを取るのと吹き出した蒸気が熱い状態が嫌いです。親の仇より嫌いです。
アレに触るくらいなら冷や飯でいいというのが正解なのかもしれません。
そう思ったのは幼少期にあると思い出したのです。
両親も祖父母も家で働いてましたから、早い段階で保育所に預けられてました。
保育所は弁当で、町内をバイクで移動する事が多い祖父が毎日昼時になると、おれに弁当を作って持ってきてくれました。自分たちの昼にあわせて炊いたご飯に作ったおかずをつめたのを持ってきます。
祖父がヘルメットを被ったままニコニコと現れて保育所の先生に渡すのは日常でありますし、だれもイヤミや妬み嫉みはいわずに羨ましがりもされてませんでしたが、たまに思いついたように先生が「毎日温かいご飯でいいねえ』と言われるのが幼心にみんなとちがい恥ずかしくもあったし、みんなの冷たい弁当のほうが美味しそうにみえたんですよね。
その感情が根元にあったから冷たい飯に憧れに似たようなものがあるのかもしれないです。
そう思い出したので記しておくことにしたんです。
いとこでワイだけFじゃない大学入れました。
頭が良くなるからやれと言われた。なんだかんだ一回小さな大会で優勝したり学校で伴奏したり役立った。
→文章力をつけるために寝る前に書かされてた。小学校に入ってからは3行日記が宿題で出てたため解放された。
言い回しとかは毎日添削入ってた。これにより小説書くのが好きになって今のささやかな趣味になってる。
物心毎晩読み聞かせしてもらってて、年少からは自分で絵本とか読んでた。親が10代の頃読んでたちょっとエロい漫画とかも読んでた。ルビ振ってくれてた。
→トランプオセロかるた。家族で園児の頃からめっちゃやった。祖父祖母ともやった。オセロは今でもめちゃくちゃ弱い。
こどもちゃれんじ
→進研ゼミのやつ。2歳くらいから小3くらいまでやってた。サボってたけど課題添削は出してたかなぁ。
→謎に2年くらい習ってた。何にも覚えていない。
土いじり
→親の実家が農家だったんで、田植えや稲刈りやじゃがいもの収穫とか物心ついた時から色々
やっとけばよかった
→英語と数学の先取りを全くやらずに中学に行ったのでキツかった。
→小学校の頃何か一つチームスポーツをやっとくべきだった。メンタル面での成長が欲しかった。
あとは園児の頃からイベント作る系の遊びが好きだった。ごっこ遊びと称してちょっとしたお遊戯会みたいなのを友達と開催したり(演目の練習とかプログラムとかも作ってた)紙芝居を友達と合作したり、お手紙交換も園児の頃からやってた。
「てめぇ!ふざけたもん出すなコラ!」
可哀想にスタッフの学生風の男の子、ヘコヘコ謝って丼を下げようとするから俺が声かけた。
「その代金俺が払うから、それ俺に食べさせて」
戸惑う男の子にいいからいいからってそのまま俺のテーブルで貰って、店長らしきお兄さんが「困りますよー」なんて出てきちゃったんだけど。
輩に聞こえるように言ってやったよ。
この丼一杯にどれだけの命が入ってると思ってる?
髪の毛一本入ってたくらいでへこたれるやわな身体じゃねぇよって。
そんなとるに足らない理由で沢山の命を無駄にする事は許さんと。
おかげで俺はラーメンと後から来たチャーシュー麺を二杯たいらげる事になったので腹はパンパンだ。
レジでさっきの店長さんが「ラーメンの方のお代は本当に結構なので」と言うから、俺が食った以上それはできん!と無理矢理お金を置いて行った。
そしたら店長さんわざわざ外までついてきてさ。
「では、らーめんの方のお代は子どもの病気への募金に寄付させてもらいます」
って。
なんかそのラーメンチェーン店でやってる募金活動があるらしく、まあ俺は金を払ったからそれをどう使うかはあなたにまかせるよと。
俺はさ、親父も祖父も畜産で働いていたからどうしてもそういう気持ちが働いちゃうんだよなぁ。
髪の毛一本くらいで大声出していい大人がみっともねぇよ。