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2018-09-20

兄弟の嫁が嫌い過ぎて子供さえも憎い

四年前に祖母が突然亡くなった。

その時にたまたま立ち会ったのが従兄弟夫婦。普段飛行機で1時間以上の土地に住んでいるが、この時はたまたま結婚の報告をしに来ていた。

私も従兄弟とは別地方だが、飛行機で1時間場所に住んでいる。亡くなった報告を受けてすぐに実家へ行った。

空港で他地方に住む親の兄弟(従兄弟の父)と合流し、実家へ。実家に到着するなり、従兄弟の嫁(以下、嫁)がおじさんに抱きついた。

嫁「パパ〜!おばあちゃんが!」

嫁はおじさんの子供ではない。おじさんの息子の嫁である。実の父をパパ呼び・抱きつくことなんてしない私はポカーン。何、この女。おじさんとおばさんは困惑しながらも、看取ってくれてありがとうね、と言葉をかけていた。

そうだ、きっと目の前で人が亡くなったから気が動転しているんだ。

とりあえず私はそう言い聞かせることにした。

そして祖母遺体が安置されている葬儀場へ。おじさん→私→従兄弟の順で対面。最後に嫁。

嫁「おばあちゃん冷たくなってるぅー!」

ベタベタと顔を触りながら目をウルウルさせて叫ぶ嫁。何、この女。数年前にもう一人の祖母が亡くなった時、私は顔に触ることが出来なかった。それを思い出して、どうして、親しくもないお前がベタベタと顔を撫で回すのか。その時のクネクネした仕草あいまって祖母遺体ぶりっ子演出に使ったようにしか見えなかった。

それでもまだ、きっと目の前で人が亡くなったから気が動転しているんだと言い聞かせた。

その後一旦実家へ帰り、棺の中に入れる着物を母・おばさん・私で決めた。祖母の好きだった着物にした。それは着物好きな人だったら誰もが知ってる有名な産地のもので、祖母の宝物だった。

そんな話を部屋の外で聞いていた嫁は私の妹がいる前でこういった。

嫁「◯◯の着物燃やしちゃうもったいない〜。私ほしい!」

そして夕食の後、嫁は祖母箪笥を漁った。もうこの時は耐えられなかった。そして最後葬儀の後の食事の席で嫁は言った。

嫁「おばあちゃん、誰も来てくれないって言ってた。私と従兄弟ちゃんが行ったらすごく喜んでくれてー」

祖母はうちの実家から徒歩すぐのマンション一人暮らしをしていた。元々は田舎に住んでいたが、父がマンションを購入してそこに住まわせた。祖父祖母も父が面倒を見た。就職するまで私は実家を離れてそのマンションに住んでいた。妹は買い物や病院の送り迎えで車をだしたりしていた。どうして、お前がうちの家族の前でそんなことが言えるのか。

そんなことがあって嫁のことが嫌いになった。そして今、従兄弟と嫁の間には子供がいる。嫁が妊娠中につわりがひどいと知ればそのまま死ねばいいと思ったし、無事出産したと聞けば残念に思った。子供写真が送られてきたら、その不細工さに笑った。自分もびっくりするくらい、ひどいことを考えている自覚がある。

葬儀の日から嫁には会っていない。法事の度に嫁と子供が来るんじゃないかとドキドキしている。あの子供が寄ってきたとして、嘘でも可愛がる振りをするなんて出来そうもない。

anond:20180920110308

男は稼いでこいよって冷たい目を向けられるのが普通だわな 田舎だと祖父祖母育児に首突っ込んでくるし都会だと生活費が足りなくなるし

anond:20180920150443

俺は生まれも育ちも東京だし相続した実家祖父の家も祖母の家も全部東京にある。

ので、田舎者がこういう「東京は全部上京した人間が住んでる」みたいな幻想を振りかざすのが大嫌いだし、ましてや「東京に住む資格」とかいい出すのに反吐が出る。ここで生まれ育った俺は別に何の理由もなく東京に住んでるよ。それで悪いのか。アホが。

2018-09-19

anond:20180918233915

お母さんの気持ち想像で語るのはやめよう。その想像をもとに自責かられるのはやめよう。祖父母の言葉=母の気持ちではありません。わからないことはわからないままでいい。あなたあなた人生を生きてください。

2018-09-18

息子だけど、親権押し付け離婚した母親について

そういえば自分の周りに親権を押しつけて離婚した母親がいたなあと、元増田を読んでいて思い出した。

もう20年近く前の話だし、元増田の元家庭とはずいぶん環境も違う。

記憶も定かでは無いけれど、「親権押しつけて離婚した母親」がどう見えたか、息子の立場の思い出で自分語りする。

母親最後に見送ったのは私と弟だった。

私の母親は、私が10歳の夏に家を出ていった。

母親の姿を私が最後に見たのは自宅の玄関

私と弟が学童保育から帰ってきて一息ついたあと、入れ替わりで母親は家を出ていって、そのまま帰ってこなくなった。

私と弟がどこにいくのか尋ねたところ、

ちょっと買い物に出かけてくる、あんたたちも来る?」と母親は応えた。留守番をしている、と返したと思う。

まだ日が落ちる前で外は暑かったし、エアコンが効いた部屋から出たくなかった。

それが母親と面と向かって話した最後の会話だった。

その日以来、母親は帰ってこない。ずいぶん長い買い物である

父親が帰ってきたのは20時ごろだったと思う。

母がいっこうに帰ってこないから、勝手レトルトカレーを食べるか迷っていたところだった。

そこから記憶あいまいで、「お母さんは買い物に出かけている」と父親に伝えたこと、その日は結局帰ってこなかったこと、

翌日の夜に「お母さんはもう戻らないんだってさ」と父親に伝えられたことは覚えている。


日経ってから改めて、「お前たちはどうする?お母さんについてくる?」と父親に聞かれた。父と母だけで子供に見えないところでやり取りをしていたんだろう。

私と弟は、間髪入れずに「父親についていく」と伝えた。

子供ながらに、「父親は家に住んでいる、母親は家を出た」「父親仕事をしている、母親パートタイムで働いている」「母親と一緒になるのは不安しかない」と思ったから。

その日からしばらくは子供部屋ではなく、父と母親の部屋で寝ることになった。

父親には「お父さんが寂しいだろうから」なんて言ったけど、たぶん怖かったんだと思う。寝ている間に父親もいなくなったら、とかたぶんそういうことを考えてたんじゃないか

家庭事情、なぜ離婚したのか

正直なところ、離婚前後夫婦関係母親の状況について、父親に聞いたことはない。父の浮気のようなわかりやす理由があったのかも分からない。

当時は、父親の機嫌を損ねたくなかったから、そんなの聞けるわけがなかった。

私も弟も父親も、母親がいなくなって、各々で新しい日々を送ろうと四苦八苦していたし、そのうちに聞くタイミングを失ってしまった。

というかよく考えたら、父と母親の馴れ初めについてすら詳しく知らない。なにしろ私がそんなものに興味を持つ前に離婚してしまたから。

父の年齢から離婚時点の年齢を考えると33~4歳前後になるから、彼らはおそらく大学を出てすぐに結婚したんだと思う。

父は普通サラリーマン帰宅20前後母親も、私が幼稚園の頃からパート勤務をしてて18時頃の帰宅が多かった。

なにしろ大学を出てすぐ私たちを生んだわけだから我が家にも給料的には余裕が無かったはずだ。

共働きということもあって、私と弟は小学校に入るとすぐに学童保育に預けられた。

周りの友人たちの母親専業主婦ばかりだったし、いま思えばマイホームを持った落ち着いた家庭が多かった。

記憶にある限りでは、私の母親PTAなどにもほとんど参加していなかったと思う。地域での友人関係というのも無かったんじゃないか

当時は家の鍵を渡されてなかったから、学童保育から帰ったあとは玄関の前に座って、母親の帰りをぼうっと待っていたのを覚えている。

食事レトルトや総菜がほとんどだった。忙しかったんだろう。

離婚の経緯に関しては唯一、母親祖父から「あの子あんたたちを育てるのを投げ出した、だから勘当をした」という趣旨の話を聞いたことがある。

そのため、母が家を出て行った理由は、私と弟の世話に嫌気がさしたからだと思っている。

実際、当時の私と弟は問題児で、小学校でも幼稚園でも喧嘩忘れ物などの問題行動をよく起こしていた。

まり詳しく覚えていないけど、家庭でも似たような状態だったのだと思う。酷く手のかかる子供だったと思う。

そんな状態である上に、私と弟は昔から比較的父になついていた。母親から見れば「男3人と自分」という対立構造に見えるときも多かったんじゃないだろうか。

上に書いたように、父と母親のどちらにつくかのやり取りもあったから、子供目線だと「母は親権押し付けて出て行った」のではなく「僕たちは自分父親を選んだ」という意識を持っていた。

でも、こうして書いていると、やはり母親私たちと居ることが耐えられなかったんだと思う。

「買い物」に出ていく際の「あんたたちも来る?」という問いは、きっとそんな耐えられない息子たちと自分関係を確かめ意味言葉だったんだろう。

ごめんね、お母さんよりも冷房を選ぶような息子たちで。あの日暑かったからなあ。

離婚のあとのこと

断片的な記憶だけど、父親離婚届を書いているところ、書類を返送する際に「こんな男と10年以上いてくれて~~~」という趣旨手紙を添えていたことを覚えている。

父は「本当にお母さんと連絡したいと思ったら、この携帯番号にかけたらいいから」といって、母の連絡先が書かれたメモ電話機のわきに残してくれた。

何度か電話をかけた記憶はあるが、そのとき何を話したかはもう覚えていない。

しばらくは祖父母が手伝いに来てくれていたこともあり、私も弟もすぐに母親がいない生活に順応した。メモはしばらく壁に貼ってあったけど、どこかにいってしまった。

その後、母親祖父から絶縁されたらしい。

もっとも、何年かに一度は連絡がある、ないしは帰ってきていたこともあるらしいので、本当のところは知らない。

私が二十歳を過ぎたころぐらいに、祖母から母親と会うつもりはないか」と聞かれたこともあった。

ただ、そのときにはもう私も大学生だったし、妙な蒸し返し方をされるのが不気味で会うのを拒んでしまった。「会わなかったぶんのお小遣いをくれるなら考えるよ」とかなんとか適当なことを言って。

小遣い自体は実際にもらった。

大学時代、祖父母の援助で車の免許を取得させてもらった。

あとから聞いた話によると、これは母から祖父母に「息子のために使ってほしい」とあずけられたお金から出されたものとのことだった。

祖父から「残りは、いつかお前たちがいい人を見つけて結婚式をするときに渡したい」と言われた。

父と母親の間で、慰謝料だか養育費だかの金銭のやりとりがあったかについては、知らない。たぶんもう知ることもないと思う。

私のその後

離婚してすぐに一家4人ですごしていた家からは引っ越すことになった。

学校が変わったことがきっかけで、無自覚問題児から自覚のある問題児に変わった。

父親との関係とは紆余曲折あったものの、大学までは出してもらった。

その間、母親がいないことで不便した記憶というのはほとんどない。保護者参観に親が来ないことにもすぐに慣れた。

中高生ときから料理をするようになったし、親が家にいないおかげでのびのびと生活していたから、むしろ恩恵のほうが大きい。

最近になって若干面倒になってきたのは、職場の同僚や知人から

「いつ結婚するのか?」と尋ねられること。

これは母親がいなくなったこととは直接関係とは思うけど、異性と生活を共にして、家庭を持つイメージがどうしても持つことができない。

おじいちゃん、お母さん、ごめんなさい。どうも僕はあのお金をもらう気にはなれません。

母親をどう思っているか

今になって思うと、ひどく気の毒に感じている。

母親が私を生んだ年齢をすぎて数年が経つ。もし今の私が、私のような子どもを持っていたとしたら、おそらく私だって投げ出すと思う。

もっとも、母親が買い物に出かけた理由が、本当に私たちだったのかは知るよしもないんだけど。

元増田について

本当にお疲れ様でした。

自分語りをしながら、もしかしたら私も元増田の書いてるような「隠し通された子供」なのかもしれないのかなあ、なんて考えてしまいました。

ただ、いずれにせよ元増田さんの体験元増田さんだけのものですし、好き放題に増田で叩かれたり、長文で自分語りする父子家庭出身者が現れても、あまり気に病まないでください。

どうにかいろいろと上手くいくようになって、元増田にとってもお子さんたちにとっても一番傷が少ない結果になるように、祈ってます

https://anond.hatelabo.jp/20180918120625

幸せってなんだろう

先日、親戚の集まりがあった。

そこで数年ぶりに同い年の従兄弟に会った。

彼は結婚しており、子供が2人いる。

男の子兄弟で5歳と3歳、そりゃもう騒ぐ騒ぐ。

そのぐらいの子だと怒っても止まりゃしない。

子供たちの祖父母(自分から見たら叔父と叔母)の顔は嬉しそう。

職業商社マン世界中を飛び回っているそう。稼ぎもいいんだろうな。

都心マイホームを構え、一家大黒柱として立派にやっている。

すごく幸せそう。

自分は未だに独身で、結婚する予定もないし、今後もできる気がしない。

収入世代平均から結構上回っている。すごく贅沢ができるわけではないけど、一人で生きて行くぶんには十分なぐらいは稼いでる。

五体満足だし、趣味が充実しているので不幸と思ったことはない。

しかし、こういうのを見てしまうと幸せだと思っていたもの根底から崩れて、急に惨めに感じてしまった。

身近だと思っていた人間なのに、生きている世界が違いすぎる。

やっぱ親は孫の顔が見たいのかなー。

幸せってなんだろう。

2018-09-17

小学生とき一番嬉しかたこ


私は運動が苦手で走るのも遅くて運動会が苦手だった。でも絵を描くことだけは自信があったから、赤組白組でそれぞれシンボルマークを生徒が描いて投票で決めるって知ったとき徹夜して絵を描いた。

私は赤組だったから「火の鳥」を描いた。図画工作で使うような簡単な絵の具しか使わなかったけど、30作品の応募があったなかで圧倒的に大差で1位を受賞した。運動会当日には体育館の外壁に私が描いた火の鳥がでっかく貼り出されていて、本当に嬉しかった。何より親や祖父母も運動会に来てくれて私が描いたシンボルマークをいっぱいいっぱい写真に撮ってくれた。100m走はビリから数えたほうがはやいくらい悪い結果だったけど、それより何より家族が私の絵を観て褒めてくれてくれたことが嬉しかった。それから運動会は私にとって楽しみなイベントになった。せっかくなら100m走でも1位になりたいと思って、走る練習もした。そしたら翌年の100m走で初めて1位をとれた。私にとって運動会は小学校で一番好きな行事になった。

少し時間が経ってからあることを知った。シンボルマークの生徒から公募提案したのは当時の図工の先生だったそうだ。なんでも「運動会で輝けない生徒達にも活躍の場を与えて行事を楽しんでほしい」という思いがあったそうだ。

私が中学に入りその後の離任式に参加したときにその図工の先生からその話を聞いて、「私に居場所をくれてありがとうありがとうございます」と号泣してしまった。

それからいくつかの絵のコンクールに応募してたまに賞を取れていたりする。私が絵を好きになれたこと、努力が報われる喜びを教えてくれたのは紛れもなく図工の先生だった。

もう定年退職しているかもしれないけど、またどこかで会えたらありがとうって伝えたいな。

anond:20180916222326

親に長生きして貰いたかったら、「立場」のお祝いをするといい。

増田立場は「子供」なんだから、「祖父母」でもない「父母」を敬老扱いは失礼だよ。

敬老の日は、孫が祖父母を労う日じゃないの?

なんで子供が親を老人扱いするの?年齢じゃなくて「立場」を祝ってあげる日。

増田必要以上に親を老けさせたいの?

増田が老けてるのかな?

立場的に子供が親を老人扱いはしないほうがいい。

2018-09-16

死と骨と

私が最初に「死」を知ったのは、たぶん3〜4歳のとき

家族長野県にある小林一茶記念館で、親から小林一茶は死んでいる」ことを聞かされた時だった。なぜかその時のわたし小林一茶に親しみを感じており、かの一茶が既に「死んでいる」ことに大きな衝撃を受けたのだ。死ぬことがどういうことかよくわかっていなかったと思うが、自分の興味・親しみの対象がこの世から無くなってしまうことがあるのだと理解した(幼い子供は、あらゆる意味においてものごとが未分化状態にある。死という自分対象を引き裂く現象は鮮烈だったのかもしれない)。

その後も、私にとって死との遭遇は特異なものであり続け、不思議と私の興味をそそった。

5歳くらいの頃、家族高原ドライブに行ったときに、死に出くわすことがあった。

車を運転していた父が「あそこに死にそうな牛がいる」と、突然言い出したのだ。

父は路肩に車を停め、数百メートル先の牧場の牛舎を指し、ほらあそこに倒れている、という。私はどこどこ、と後部座席から乗り出してその牛を探した。

結局私は父がどれを指しているのかわからなかったが、家族4人で数分間じっとその牛のいる方向を見つめていたときわたしは何か畏れ多いものに触れるような感覚を覚えていた。

ドライブの帰り道も、帰宅した後も、あの牛はどうなってしまったんだろう、なんで死んでしまうんだろう、と想いを馳せていた。生き物の死に、ぼんやりとした悲しさと寂しさを感じていた。

また、こんなこともあった。小学校低学年の頃だったか実家敷地には昔、古い木造倉庫があった。祖父が細々と農業をしていたため、中には農耕具が雑然と積まれホコリとタールのにおいがしていた。その倉庫家族で片付けたときに、中に積まれていた段ボールの中で野良猫が息絶えていたのを、父親発見したのである

私は猫好きだったこともあり、死骸を見てしまたことにショックを受けた。と同時に、私は生き物の死に対してかすかな好奇心が湧き立っていたことに気づいていた。

当時の私は化石好きで、そこから派生してどういうわけか生き物の「骨」に異常な興味を持つようになっていた。道端に転がっていた骨らしきものを家に持ち帰り、これはなんの骨だと父に詰め寄ったこともあった。家の庭の土を掘っては、何か骨が出てこないかしたこともあった。

父達が猫の死骸を見つけ、枯れ木と共に段ボールごと燃やすという話を聞いたとき、実を言うと私は燃やした後の猫の亡骸がどうなるか知りたいという強い気持ちに駆られていた。もっと言えば、あの猫の「骨」がどうしても見たくなった。

時間後私はこっそり家を抜け出し、ことの始末を見に行った。枝で白い灰を探ると、何本も細い骨が出てきた。私はそのうちの1本を取り出し、家に持ち帰った。

骨は思った異常に軽く、脆く、青白かった。

自分の期待していた骨はこんなんじゃない、という落胆と、こんな形で容易く骨を手に入れてしまった自分に、ひどく失望した。それに耐えきれなくなった私は、結局その骨を元の場所に戻した。

それ以来、骨の蒐集への熱はパタリと止んだ。


しかし、骨は呪いのように私につきまとっていたようだ。

小学校高学年のとき、あるきっかけで小学生が書いた文集を読むことがあった。その中には身近な人を亡くした子どもたちの体験記が綴られていた。自分と同年代の子供が自分祖父母や親の死に直面し、火葬に立ち会う場面が幾度となく描写されており、当時の私に大きな衝撃を与えた。自分と歳も変わらないのに、そんな究極な場面に遭遇する子どもがいるのかと。

見事に骨への興味が再燃した私は、その頃普及しつつあったインターネットで、火葬場の仕組みや火葬場の写真検索した。調べれば調べるほど、人間の骨をこの目で見たくなった。

ちょうどその時期に父親が突然亡くなり、火葬の場面に立ち会うことになるとは、本当に皮肉なことだった。

40歳前半で死んだ父の骨は痛々しいほどそのままの形をとどめていた。金属の焼けたような鋭い匂いは、大人になった今でもあの記憶と共にかすかに鼻腔に甦ることがある。その場面は、11歳の私にとってあまり凄惨光景であった。頭蓋骨の2つの眼窩ポッカリ空いているの見た私は、もういい、許して、と心の中で叫び、浅はかな興味を持った自分を呪った。



あれから15年以上経った。今、比較的人の死に身近な仕事をしており(葬儀関係者ではない)、時には身寄りのない人の遺骨を扱うことも少なくない。

この前、つい好奇心に駆られ、事務所で保管している骨壷の蓋を開け、こっそりその中身を見てしまった。

やっぱり自分は変わらないな、と苦笑するしかなかった。

こわい、でも、みたいしりたい。自分の中で死と骨は密接に絡み合い、私を捉えて離さない。

2018-09-12

anond:20180911165115

誰にも言ってないプライベートな内容なのでひさしぶりに増田に。

今では考えられないがNECがまだ就職したい企業ナンバーワンだとかもてはやされた頃、母方の祖父や実父がNEC技術本部長以上をやってた。2人とも分野が違う理系職人タイプの人なので社内でも義親子関係にあるのを知っている人は皆無だとおもう。

自分まだ子供だった頃、緊急連絡用に渡された父の名刺には統括部長とか本部長とか事業部長とかいろいろな肩書が載っていた。「なんでこんなに部長だらけなの?」と聞いたところ「部っていうのは好きに作れるんだよ」と教えられたのだが、今考えるとそんなわけないよな?

当時「NEC線虫(うねうねした生き物)の研究とかもしてるんだぞ」と喜々として言ってたが、今の多くの日本大企業はこのようなまるで何の役にたつかもわからない分野に投資する力が亡くなってしまったようにおもう。今もやってる?

企業にとってR&Dは本分のひとつであるが、基礎系に近ければ近いほど当たりがでるまで数十年の長い時間と、利益に絡む少ない生存率が問題になる。誰の言葉であったか忘れたが「すぐ役にたつものはすぐに役にたたなくなる」との言葉どおり、経費削減という名目でR&Dから切り詰めた日本の多くの企業群はこの短い事業サイクルのなかで溺れそうになっているように見える。リストラクションをただの首切りにしてしまったやつらと同じ犯人がそこにいる。

祖父は寂しそうに「銀行経営に口出ししてくるようになって自由がなくなってきた」と言っていた。事業収益予測可能ものにしようとすると、短近線形で推測可能もののみへの経費割当しか行えなくなる。サイトが短すぎるのだ。そうすると必然、誰かが植えて偶然生えてきたにすぎない果実を毟る程度のことしかできなくなる。大企業役割はその安定性を活かしたよりよい事業の種の発見であるが、小作農の囲い込みしかできなくなっているのは寂しいことだ。

海外。ここらへんの立ち上げもやっていたな。むむむ。そろそろ喋りすぎている気がするぞ。終わりにしよう。

当時の人たちは少数で相当な苦労をしており日本バブル崩壊と相まって死にそうになっていたのを思い出す。

うちの父は最後は誰ぞのやらかし後始末をするために無理をし体を壊し、そのまま隠居あいなった。隠居当初は社長はやってみたかったなどと悔しそうにしていたが、今は回復し近所の小学生相手に竹とんぼとかを教え余生をすごしている。家族としてはそのほうが心配がない。小学生に竹とんぼを教えることは「すぐ役にたつもの」ではない。もしかしたらその中から次のNECのような企業を作ってくれる子が現れるかもしれないと考えたら、利益肩書に集られる有象無象相手にするよりも夢がある。

長々と書いても仕方がないから端的に書くけど、

母親精神障害2級で、

父親身体障害1級で、

自分ADHDアスペルガー協調性運動障害双極性障害Ⅱ型持っててあとなぜか知らないけど虚弱で、

自分一人っ子でいとこもいないから両親祖父母の介護は一人で頑張らなくてはいけなくて、

今後の人生お先真っ暗って感じしかしない。

つらい。

泣きたい。

せめて自分の食い扶持は稼げるように頑張って復職して生活を安定させよう。

自信がないな。

高望みはしないでいきていこう。

質素倹約を旨に生きていこう。

オタクADHD・躁鬱の時点ですでに質素倹約とは真逆生活しか送れてないけど、

いざというときに躊躇わず自殺する勇気がほしい。

それか安楽死実装してほしい。

親戚と家族全員を看取るまでは頑張るけど、心が折れそう。

20代都内一人暮らし医療費が月に2万弱というのがきついので、医療控除の書類作りを頑張ります

2018-09-11

ずっと自分は金がない普通の家の人だと思っていた

 小中は公立を出た。田舎に育ったので、レベルの高い公立校に行けない子がいく、レベルの低い私立高校を出た。で、適当に入れた私大入学した。その間、一切勉強しなかった。いや、一度だけ中3の一月に焦って受験勉強をした。もちろん間に合わず志望校は落ちた。が、少しだけ遅れて成果が出た。高1の夏の全国模試偏差値70を全科目で超えた。その後、全く勉強せず、遅刻サボりを繰り返して何とか卒業した。

 大学受験は家から一番遠いという理由だけで、大学を選んだ。入れた私大偏差値はたぶん50くらい。今は少し上がったらしい。

 中学の成績がいつも真ん中あたりだったので、自分偏差値50あたりの、いいかえれば「普通の人」だと思っていた。大学を出たあと、仕事を少しして、海外大学院を修士だけ出て、いま旧帝大博士課程にいる。その間、趣味でつくった文章編集者の目に止まるなどして、急に、環境が変わった。周囲の社会階層が上昇していって、いまは、いわゆる上級国民ばかりになった。友人たちは教授医者弁護士官僚大企業役員の子弟で、就職先は公官庁大企業ばかり。英語は出来て当然で、みなドイツ語フランス語もできる。ぼくは語学が苦手なので英語しか出来ない。あとはせいぜいギリシア語ラテン語辞書を使って読める程度だ。

 博士課程にいるが、学振に落ちたので、翻訳仕事などをして日銭を稼いでいる。先日、単身赴任から帰ってきた友人にあった。月収100万超の彼は飲み仲間で、バカ話をしては呑んで終わる間柄である。その中で、社会資本やら教育格差の話になった。なんとかしたいと思いつつも、何をどうすればいいのか分からない。

 大阪底辺中学校生徒の家庭教師をした友人いわく「家に本がない」子も多いと聞いた。当然、本棚もないのだろう。その家の子は、親からスマホの従量欲しさに殴られて、端末を取り上げられたこともあるらしい。

 大学全入時代というが、実際には、半分の人の選択肢しかない。偏差値など、その半分の中での曖昧な目安にしか過ぎない。しかし、そこに象徴される社会的分断は、想像しているよりも大きなものなのだ。たとえば「ラフマニノフ」と聞いて、ぼんやりとでも芸術関連のことばだと気付くか否かは、どうしても環境に寄るのではないか、と小説家の友人が言っていた。そうかもしれない。そういえば、ラフマニノフは一枚も持っていない。

 ぬるいオタクでもあるので、趣味仲間にはいろんな人がいる。それはすごく楽しい。同時に、恥をかくこともある。ネット仲間の知り合いで初めて会った人が「工場勤務です」というので、研究開発だろうと思って話していたら「ライン作業です」と言われてしまった。自分想像力の無さを恥ずかしく思った。

 親はよく「金がない、金がない」と言っていた。小4のとき引っ越してきた友人の家は金持ちだった。ずっと連絡していないが、誰もが知るPCサプライメーカー社長だった。また父親の友人に、趣味クルーザー釣りに連れていってもらったことがあった。父の友人には、ニューヨークの画商や官僚がいた。彼らに比べれば「金がない」という意味だったのだろう。たしかバブルの頃に、毎週、生け簀のある料亭で食べていたし、家にはマッキントッシュ真空管アンプが数台あった。祖父現金で、さらっと一億用意するのを見たこともある。ごく幼い頃の記憶だ。

 ずっと自分は金がない普通の家の人だと思っていた。無論、何が普通かなどわからない。ただ努力をしないまま、適当大人になった。結果として自分が貧しくなることは覚悟していたが、それ以上に、社会崩壊していく速度のほうが速かった。社会資本がなんちゃら、教育資本がうんたらかんたら。ニュースで見かけ、たまに出会う、自分の「普通」とは違う人々について、チャラチャラと考える。何とか人の役に立てるようになれないだろうか。答えは出ない。

祖父の遺骨を見て思ったこ

祖父が死んだ。

そんで焼き場に連れてって、焼いた。

随分太い骨だった。と、思った。なにしろ比較対象を見たことがない。

ペットうさぎが死んだとき火葬にしてもらったが、うさぎじゃ比較にならないしね。

とにかくまあ、頭と胸の当りが崩れている骨を見て、思ったこと。

骨(スケルトン)でエロい事考える界隈狂気すぎない???

世界一エロ画像の多い骨とかなんとか言うけど、エロ画像がある時点でヤバくない……???

と、思ったのだけど。途中から逆に思えてきちゃって。

生で骨(焼いてあるけど)見て、あー彼らはこういうのでえっちするのかなーと考えてなんだか変な気持ちになってきて。

それで家に帰ってからundertaleのエロ画像自慰した。

おじいちゃんごめん。煩悩まみれの孫だけど素敵に成仏してください。

2018-09-09

大坂なおみってどうせ大阪出身じゃないんやろ?

ワイ「おっしゃ、調べたろ」

大坂 なおみ(おおさか なおみ,英: Naomi Ōsaka,1997年10月16日 - )は、大阪府大阪市中央区出身女子プロテニス選手

マジかよ・・・大阪の中の大阪じゃん

母親北海道根室市出身日本人で、苗字の「大坂」は母方から来ている

え? 何でだよ、え?

札幌出会った両親は、その後大阪に転居[13]。姉の大坂まりプロテニス選手である[3]。

母方の祖父歯舞群島勇留島出身で、根室漁業協同組合組合長をしている[14]。

札幌市の住居が、なおみの日本住民票の住所である

ちょっとまってw濃すぎるw

 

ハーフなんだな

最近会社スポーツ選手ワールドワイドで、そろそろ祖国とか関係ない気がしてきてる昨今

まあそれでも応援したくなるよね

anond:20180909175409

じゃあ今東京に住んでる人間の半分はさっさとお国に帰ってもらいたいね。そうしたら今の満員電車もだいぶマシになって減災にもなるでしょ?

うちは父方祖父母が神田出身で母方祖父母が荏原郡出身から所謂ふるさと」がないんだ、田舎というセーフティネットが無い分選択肢タイトにならざるを得ないのはわかってくれ

2018-09-08

社会資本教育資本が何ちゃらチャラチャラ

 小中は公立を出た。田舎に育ったので、レベルの高い公立校に行けない子がいく、レベルの低い私立高校を出た。で、適当に入れた私大入学した。その間、一切勉強しなかった。いや、一度だけ中3の一月に焦って受験勉強をした。もちろん間に合わず志望校は落ちた。が、少しだけ遅れて成果が出た。高1の夏の全国模試偏差値70を全科目で超えた。その後、全く勉強せず、遅刻サボりを繰り返して何とか卒業した。

 大学受験は家から一番遠いという理由だけで、大学を選んだ。入れた私大偏差値はたぶん50くらい。今は少し上がったらしい。

 中学の成績がいつも真ん中あたりだったので、自分偏差値50あたりの、いいかえれば「普通の人」だと思っていた。大学を出たあと、仕事を少しして、海外大学院を修士だけ出て、いま旧帝大博士課程にいる。その間、趣味でつくった文章編集者の目に止まるなどして、急に、環境が変わった。周囲の社会階層が上昇していって、いまは、いわゆる上級国民ばかりになった。友人たちは教授医者弁護士官僚大企業役員の子弟で、就職先は公官庁大企業ばかり。英語は出来て当然で、みなドイツ語フランス語もできる。ぼくは語学が苦手なので英語しか出来ない。あとはせいぜいギリシア語ラテン語辞書を使って読める程度だ。

 博士課程にいるが、学振に落ちたので、翻訳仕事などをして日銭を稼いでいる。先日、単身赴任から帰ってきた友人にあった。月収100万超の彼は飲み仲間で、バカ話をしては呑んで終わる間柄である。その中で、社会資本やら教育格差の話になった。なんとかしたいと思いつつも、何をどうすればいいのか分からない。

 大阪底辺中学校生徒の家庭教師をした友人いわく「家に本がない」子も多いと聞いた。当然、本棚もないのだろう。その家の子は、親からスマホの従量欲しさに殴られて、端末を取り上げられたこともあるらしい。

 大学全入時代というが、実際には、半分の人の選択肢しかない。偏差値など、その半分の中での曖昧な目安にしか過ぎない。しかし、そこに象徴される社会的分断は、想像しているよりも大きなものなのだ。たとえば「ラフマニノフ」と聞いて、ぼんやりとでも芸術関連のことばだと気付くか否かは、どうしても環境に寄るのではないか、と小説家の友人が言っていた。そうかもしれない。そういえば、ラフマニノフは一枚も持っていない。

 ぬるいオタクでもあるので、趣味仲間にはいろんな人がいる。それはすごく楽しい。同時に、恥をかくこともある。ネット仲間の知り合いで初めて会った人が「工場勤務です」というので、研究開発だろうと思って話していたら「ライン作業です」と言われてしまった。自分想像力の無さを恥ずかしく思った。

 親はよく「金がない、金がない」と言っていた。小4のとき引っ越してきた友人の家は金持ちだった。ずっと連絡していないが、誰もが知るPCサプライメーカー社長だった。また父親の友人に、趣味クルーザー釣りに連れていってもらったことがあった。父の友人には、ニューヨークの画商や官僚がいた。彼らに比べれば「金がない」という意味だったのだろう。たしかバブルの頃に、毎週、生け簀のある料亭で食べていたし、家にはマッキントッシュ真空管アンプが数台あった。祖父現金で、さらっと一億用意するのを見たこともある。ごく幼い頃の記憶だ。

 ずっと自分は金がない普通の家の人だと思っていた。無論、何が普通かなどわからない。ただ努力をしないまま、適当大人になった。結果として自分が貧しくなることは覚悟していたが、それ以上に、社会崩壊していく速度のほうが速かった。社会資本がなんちゃら、教育資本がうんたらかんたら。ニュースで見かけ、たまに出会う、自分の「普通」とは違う人々について、チャラチャラと考える。何とか人の役に立てるようになれないだろうか。答えは出ない。

2018-09-07

失ったものを取り戻す戦い

昔は良かった。

祖父母はまだ元気だった。

死んだ人も居らず、認知症にもなった人もおらず、金にも困った人もいなかった。

叔父破産しておらず、母も今ほど困窮していなかったし、父を今ほど軽蔑嫌悪することもなかった。

そう、たかだか20年ほど前の話だ。

全てが悪い方向に進み、ぼくだけが取り残された。

ぼくだけはまだ大きな敗北をしておらず、親類はボロ雑巾になった。

お金は全てではないが、お金を失ったもの健全思考をすることは難しい。

中には元から金も思考力もないものもいたけれど。

ぼくは彼らのようにはなるまいと、お金に執着し、少しばかりのお金を得た。

まだまだ失ったものを買い戻すだけのお金はない。

もっと勝ち続けないといけない。

ぼくだけは20年前に戻って未来の僕を救わなくてはいけない。

分かっているんだ。

もう残された時間は少ない。

ぼくだけは負け犬に成り下がってはいけないと思うんだ。

2018-09-06

母が好き過ぎる

母が大好き過ぎる。ので吐き出したい。

27歳になるのに...。

14歳から下宿していまに至るまで一緒に暮らしはいない母。学生時代は寂しくて?反抗期もなく母とする電話が大好きで、電話した後いつも泣いてた。

甘えたい時に一緒に暮らせなかったからかもしれないけど、今でも暇があれば母に会いたいって思っちゃう

百貨店で働いてた母はオシャレ。

まり勉強はできないけどいつも一生懸命母親としての決断力があって本当に尊敬してる。

そんな母は最近終活かいって私にいろんなことをしてくれる。

冠婚葬祭用の上等なパールを買ってくれたり、親が死んだ時のお葬式着物をしつらえてくれたり、更年期の乗り越え方とか祖父負債の話とか...

真剣に聞かなければと思ってるけど聞きたくないくらい悲しい。

お母さんがいない人生なんて想像できない。ずっと元気でいてほしい。

防災必要性を全く理解しない人種

関西で大きく被害を受けた台風21号、300万戸も停電し大きな影響が出ている北海道地震など、大きな災害が立て続けに起きている

少し体調を崩し、東京から実家に帰っているのだが、祖父母とテレビを見ていて、

「うちもこういうときのために、水とか食料を備蓄しておいたほうがいいね」と言ったら

祖父(84)が、全くこう言うことをする必要がないと主張し始めた。

主張をまとめると

地震ほとんど起きない地域富山)なので気にする必要がない

起きても近くの自衛隊がきてくれて、すぐ食料をくれるから大丈夫

自分だけは絶対大丈夫」という考えを持たないと日常を生きていけない

自分たちより危険な人がたくさんいるのに、自分災害に備える意味がわからない

備蓄をすると整備する手間が発生して、結局ダメになる

自分たちに関係のない災害情報テレビ放送するな

と言う感じ。さらに「反論している増田の考えはおかしい」「もっといろんな人の話を聞くべきだ」、などと諭し始めてくる。

普通なら、災害惨状を見て「怖いねぇ」「備えておかないと」と思うところを、完全に他人事だと捉え、自分災害が降りかかるものだと思っていない。

今までに地震被害を受けたことがなく、プライドが高い人はこのような考えに至るのかなぁと思い、途中から聞き流していた。

地震は起きない

隣の石川県新潟県はやられたが、富山岩盤は硬いのでめったに地震は起きない、と言う。

そもそも防災とは災害が起きたときのために備えるものであるのに、その前提を受け入れない。

すぐ自衛隊が助けにきてくれる

近くに駐屯地があるので、食料や水をくれるので大丈夫だと言う。

近くの自衛隊が数十万人分の食料を備蓄しているわけはないので、輸送するのに数日はかかるだろう。

なので数日分くらいの水食料を備蓄しておいたらどうだ、と言っても、川の水を飲むとか、古い缶詰を食べればいいと言う。

自分だけは絶対大丈夫」という考えを持たないと日常を生きていけない

これが一番タチが悪い。

何か災害事故があるかもしれないと、日頃から怯えていては毎日を生きていけない。なので、なにがあっても「自分だけは絶対大丈夫」という考えを持たないといけないらしい。

普通災害ではなく、隕石が衝突したり地軸がずれて地球ダメになることの方がよほど不安で、そういう天変地異まで気にしていたら馬鹿らしいので、何も気にしない、何があっても大丈夫思考を持っているらしい。とても極端。

からすると、震度6,7程度の地震は生きているうちに起きる確率はそこそこあり、そういった状況程度は備えておいた方がいい、という意見

また「自分だけは大丈夫」という思想は、普段から危機管理に大きく影響を及ぼすのでやめていただきたいのだが、話を聞いてくれない。

自分たちより危険な人がたくさんいるのに、自分災害に備える意味がわからない

例えば山沿いに住んでいて、土砂災害リスクが高い人、地震が起きやす土地に住んでいる人など、そうした災害リスクが高い人は全て防災対策をしているのか、と言われればしていないだろう。なのに自分防災対策をする必要がない、という主張。

防災意識は人それぞれだが、人と比較する意味がわからない

備蓄をすると整備する手間が発生して、結局ダメになる

これはまあ分かる。

だが、公共機関備蓄してはそれを整備せず、毎回ダメにしている、との謎の主張を始めて困った。

備蓄は手間がかかるのは仕方のないことだが、万が一のことを考えたら必要な手間だと俺は思う。

自分たちに関係のない災害情報テレビ放送するな

北海道地震で、どこどこの家が潰れた、山が崩れたなど、局所的な情報全国放送で言うな、という主張。

全ての局所的な災害情報放送できるわけでもないし、家族の安否も放送では分からない。とすると、北海道関係ない人もある人にとっても価値のある情報ではない、とのこと。

俺的には、北海道家族友達がいる人にとって、どの程度心配すべき被害の大きさなのかを知らせるために、分かりやす被害の状況を伝えることに意義があると思う。

だが自分関係のない災害に興味がない人にとっては、放送するな!!と思ってしまうのだろう。

これは完全に俺の祖父という個別の事例なのだが、防災意識が低い人というのはこのような思考を持っているのかなぁと思った。

長生きしてもらいたいので考え方を直してもらいたいが、喧嘩になるのでとりあえず増田に書いておいた

anond:20180906013033

祖父母や親戚もしくは施設に預けられる。

早々に再婚するのどれかかと。

2018-09-04

老人に金回りすぎっていうけどさ

まあ実際そうなんだろうけどさ

俺は自分祖母祖父が大好きだからお金に困って欲しくないって思う

世の中には嫌な老人もいるから俺の祖母祖父だけの話です

関係ないけどおじいちゃん認知症なっちゃって本当につらい

遠くて会えないからより辛い

考えるだけで涙がボロボロ出てくる

もういい大人だけどさ

いくつになっても辛いことに強くなれない

2018-09-03

家族のつながり

から家族とか親族とのつながりにまったく興味がわかない。親兄弟と仲良くするのもまわりにぱらぱらと聞くと当たり前と言うが、うーん、そうかねえ、まあ私は違うなあ。と言う印象ぐらい。

さて、先日祖父が亡くなったという連絡が母から入った。「朝お父さんからも連絡してない?」と聞かれてメールフォルダをみたら、なるほど、メール来てました。気づきませんでした。ごめんなさい。

で、翌日朝告別式だという。色々仕事があることもあって、結局告別式には行けなかった。

祖父とは、小学校低学年の時何回か祖父母宅に行って、1週間ぐらいだらだら過ごした記憶があって、そのときにほんの少ししゃべったかなと言うぐらいだ。最近だと数年前にホスピスに入った時に何回かお見舞いに行ったこともある。自発的ではなく、両親にすごい尻を叩かれた結果ではある。

実感が湧かないというのか、思い入れが薄すぎるというのか。なんだかごめんなさいと思いながら、どうしてもそっちの方面には足が向かない。

年を経るごとにこんな感じだと、もし親に何かあったときとか、なんだか投げ出してしまいそうな気がする。今から謝っておきたい気分だ、本当にごめんなさい。

2018-09-01

援助交際してた(追記しました)

当たり前だけどリアルでは誰にも言えないので吐き出し。ただの自分語り

当時中学生田舎暮らしで塾まで晴れてる日は自転車、雨の日は徒歩で通ってた。

自転車15分、歩いて50分くらいのところ。

親共私になにもしようとはしてくれなかったけど祖父が私は勉強は出来るからもっと勉強しなさいってお金を出してくれてたので。自力で通ってたのは誰も送迎してくれなくて、授業が全部終わるとバスがなかったからだった。

田舎から街灯も少なくて暗いんだけど、まあそもそも人通りも少ないし毎回特に気にせず帰ってた。それで、自転車パンクして押して帰ってる日に性被害にあった。

(部活後に着替えずに行ったかジャージだったのによく性犯罪者欲情できるなと今だったら思う)

(強制性交ではなく強制わいせつ程度だった)

当時はパニック状態で、警察に連絡とか思いつかなかった。祖父携帯を与えられていたから、電話するか悩んだけど祖父はすでに寝てる時間だし電話するのは憚られた。結局、いつもより遅い時間に家に帰ったけど、家族きょうだい含めみんな寝てて、わざわざ起こしてまで報告するほどでもないかな?と思ってゆっくり風呂に入って寝た。

ここの思考転換をよく覚えてないんだけど、性被害にあったことを思考整理する中で色々と検索をして、援助交際存在を知った。時期を同じくして、当時仲の良かった友人からお小遣い稼ぎ」として誘いを受けた。今となっては不思議しかないけど、当時の私はそれに了承した。

前述の通り私は中学生だったので、出会い系サイトに生年を偽って登録したんだと思う。当時はgmailとかがなかったので(たぶん)、直メの誘いを受けてサブアド(xxneだったと思う)でやり取りをして、未成年であることを明かして会う意思を示してきた人に会っていた。初回に会う人は安全性担保として、例の友人についてきてもらった(もちろんその逆もあった)。

記憶曖昧だけど、よくネットで言われている隠語?のようなものを使った記憶はない。金額交渉特にしなかったと思う。

場所ネカフェが多かったのかな……。ファミレスときもあった。

何人かと会ったけど、ある特定の1人と長く続くようになった(私も友人も)。これも今考えると信じられないんだけど、場所相手の家だった。挿入はなかった。性器を触られたり、触ったり程度(ローターやバイブは使用された記憶がある)。相手40代くらいの太った男性だった。色白の丸々としたお腹を今でも覚えている。1度の訪問で、1万円もらっていたと思う。挿入行為は嫌だと伝えていたが、友人は「入れさせてくれたら3万円あげる」と言われて応じた、と言っていた。

両親は私の行動を気にすることはなかったので、私が出かけることにも興味を抱かなかった。半年で5〜6回会ったと思う。ここで私の携帯に、警察から電話がかかってきた。

初めは詐欺か何かだと思い、祖父相談したくらいだった(後から本当の警察と判明し、誤魔化すために落し物の連絡だった!と伝えた)。

私は出会い系サイトに、実住所と連絡先を登録していたので、連絡を受けると同時に、今近くまで来ていると伝えられた。幸い用事はなかったので、指定された駐車場に向かった。

パトカーではないんですね」「民家にパトカーで来ると目立っちゃうからね」という会話をしたことを覚えている。警官は男女1人ずつ、運転席と助手席に乗っていた。友人は近所に住んでいたので、一緒に向かった。

どうしてこんなことをしたのか、警察署に向かう際にきかれた。どうして、と正面切ってきかれるとどうしてか自分でもわからなかったが、友人が「まだバイトが出来ないので」と言ってくれたので、それに同調した。中2の末だったので、志望校を聞かれ、答えると、「そんなに頭がいいのにどうして」と言われたのが印象に残っている。

警察署に着くと、別々の部屋に入れられたと思う。事情聴取を受けたのは、私が出会い系サイト使用たからだと思っていたが(もちろんそれが理由なのだが)、この中に知っている顔はあるか、と4枚の写真を出された。その中には上記男性写真があった。おそらくだが、他の未成年との関係逮捕(?)され、登録サイト確認する過程私たちも呼ばれたのだと予想した。

供述調書を作る過程で、男性とどのような行為をしたかきかれた。ある程度は下敷きがあり、警官が声に出して読み、それに同意反論する形で進行していった(後にも先にも男性器のことを「おち○ちん」と呼称したのはこのときのみである)。

どれくらい時間を要したか覚えてないが、暗くなる前には帰れたと思う。記述された文書拇印を押した。

最後に、「もうこういうことはしちゃだめだよ、勉強がんばってね」と男性警官に言われた。

このことは友人との間では禁句になっていた。お互い誰にも言わないようにしようね、解散するときにそう約束した。

それで忘れようと思ったが、翌年、第一志望の高校合格し、当時のことを強く思い出すようになっていた。

私は住んでいる都道府県進学校に2時間程かけて通っていた。田舎にいるとき意識したことはなかったが、進学校に通う人たちは家庭環境や、親の職業からして住む世界が違うな、と痛感することが多かった。私は1回のお手伝いで10円のお小遣いをもらう生活体系だった(ほぼ全ての家事担当していた)が、クラスメイト必要ものがあれば、親に言えばすぐにお金が出て来る状況だった。お年玉没収されていたし、中学とき部活では費用を出してもらえず、祖父にお願いをしにいっていた(そしてそれは高校でも同じだった)。これは中学生ときの話だが、水泳水着を買ってもらえず、量販店で泣きながら親にお願いをするところをクラスメイトに見られたことは今も忘れられない。

家庭環境の恵まれた人たちに囲まれて、中学ときしたことを後悔するようになっていた。精神的な面もあるが、性病も気になっていた。でも検査に行く勇気はなかった。性病の症状をネット検索して、大丈夫、当てはまらない……と安心してはいものの、HIV罹患時の初期症状が風邪に似ている、の文言をずっと気にしていた(接触後1度、風邪をひいたことがあったので。潜伏期間が長いので自覚症状がまだ出ていないだけでは?と不安だった。大学生になり、性病血液検査をしたが無事に全て陰性であった)。

高校行事や、部活大会のたびに友達の親は見学応援に来ていたが、私の親は来たことはないし、もちろん部活費用バイト代で出したし、お弁当自分で作ったし、予備校費用祖父が、在学中に祖父がなくなったので大学受験費用バイト代で出した。ただ生活をしているだけで周りと差を感じることが多かった。お弁当自分で作ってるって言ったとき、周りからは偉い!女子力!と言われたのもしんどかったな。偉いとかそういうのじゃなくて、作りたくて作ってるわけではないし。材料は家にあったものを使ってよかったから、自分で作れば昼食代はただだったので。

大学生の頃、帰宅が遅れるとき、「親に駅まで迎えに来てもらいなよ、きっと心配してるよ」とよく言われたが、その親切心がつらいと感じていた。中学生に夜道を歩かせる親だぞ、そんなの思うわけないだろ、と思いながらも、スマホがあるから大丈夫ですよ!と返していた。

そして、完全に自分のせいでしかないが、色白の太った中年男性が非常に苦手で、そして性行為も好きではない。

中学生とき下ネタもよく言っていたが、高校からの友人にはよく「潔癖」と言われる。部活コーチ上記の特徴そのままで、本当に苦手だった。なにかあった?ときかれると、ちょっと苦手なタイプで……と答えていた。今まで付き合った人は、どう考えても太りそうにない人しかいない。

友達は好きだし、高校からの友人はもう10年近い付き合いになる(もう中学友達とは疎遠である)。でも、親の話も、もちろん援助交際も性被害の話も絶対にできない。受け入れてもらえないと思う。

よく、○○のご両親は?ときかれていた。その度に口を濁して来た。大学の友人も、親がOBOGだから志望した、合格をとても喜んでくれた、と言っていたり、ひたすらに眩しかった。

部活から帰ってきて寝ているところをお腹減ったと叩き起こされることも、何もしてくれないくせに試験が1位じゃないと怒られるようなこともなかったんだろうな。たぶん、よい家庭環境にはそれなりの苦労があるとは思うけど、私がその家に生まれてたらよかったなあと思ってしまうことがあって、つらい。

職場は通えなくはないが、今は実家を出ている。駅からは近いし、自分家事しかしなくていいし、快適すぎて実家に帰る気にはならない。

ただ、祖父に線香をあげに、祖母に顔を見せに節目には帰っている。その際に親に連絡をすると、駅まで車で迎えに来てくれるのだ。別にもう、タクシーで帰るお金はあるのに。タクるからいいよ、といっても、貯金しなさいと言うのだ。

お金がなくて、送迎して欲しかった中学生ときには車を出してくれなかったのに。それをただ、「親が優しくなった」と思うことは私には難しい。

ふと思い立ってこんな時間まで気持ちの整理のために書いたけど全然すっきりしなかったしなに言いたいかからない文章すぎる

終わり

追記

朝起きて(もう昼だけど)みたら優しい言葉も、厳しい言葉荒らし?みたいな言葉もいただいていてありがとうございます

すみませんはてな文化に慣れていないのですが、引用(?)でご自身境遇について語って下さった方もありがとうございます

吐き出しのつもりでしたが、やっぱり話を聞いてもらいたかったんだな、と思ってコメントをいただけて嬉しいです。吐き出しとか言いつつ書いた文章をわざわざ見に来てるの、矛盾してますよね。

リアルでは言えないと冒頭で書きましたが、実際に言ったらどういうリアクションをされるんだろう?とも考えていたので、厳しいお言葉も、暖かい言葉も嬉しいです。私のことを何も知らない方でも優しいお言葉をくださるのであれば、長い付き合いの友人ならもしかすると聞いてくれるかもしれないですよね。まあ話す予定はないですが。

被害意識

前提として、後悔している=被害ぶっているではないということはお伝えしておきます。私は思考の整理の最後に「援助交際」を選んだことを後悔をしているだけで、それは例えば友達喧嘩した後に、あのときああ言わなければよかったなとか思うことと変わらないと思います。「援助交際」に関しては被害者だとは思っていません。刑法上、援助交際を求める側にしか罰則がないので聴取で終わっただけだと思っています提供する側がいないと犯罪は成立しないので。まあ求める側がいるか提供する側がいるとも言えますが。

今1万円もらって同じことするか?ときかれたら即答でNOなので、同じ自分なのに考え方が理解不能だなと思っています

警官とのやりとり

車で来ることはない、とご指摘をいただきましたが、実際にあったことを書いてるだけなので……田舎なので知らない車が来ると話題になってしまうのですが、近くの駐車場で待たれていて、そこに向かった形です。ご指摘の方は警察の方か、よく警察が自宅に訪れられる方なのでしょうか?

車内では無言ではなく、土日のどちらかだったので、部活はやってないの?とか、試験はそろそろ?とか女子中学生が緊張しないように(だと思います)ご配慮いただいたと思っています。早い段階で止めていただき感謝しています。私が高校生のときですが、相手に殺されてしまった学生報道を見て、私がこうなる可能性もあったんだろうな、と思ったことを覚えています

(親に連絡がいかないのはありえない、との指摘をいただきました。盲点でした。もしかすると両親は知っているのかもしれませんね。確かに1度財布の中身を確認されたことがあります。新しい服や書籍部活の用具が増えているのが気になるといった理由でした。祖父に買ってもらったと伝えたら引き下がりましたので、あまり気にはしていなかったのですが、警察からの連絡だったのかもしれません……。

受験システムでの都道府県割れを避けたいので詳細は控えますが、私は内申を利用して高校に進学をしています。なので学校には連絡はいっていないとおもうのですが……)

男性の体型について

同じ特徴の方にご不快気持ちをさせてようで申し訳ございませんが、実際に仕事等でやり取りをする方とはちゃんお話しできていると自分では思っています。苦手意識があるだけで……。例えばみなさんも、派手な服装をした人が苦手、とかそういうのはあると思います。それに近いものです。今の恋人も痩せ型なのですが、たぶん小太りになったら恋人として一緒にいるのは苦痛かもしれないから別れるだろうな、くらいの苦手感です。伝わりますでしょうか。まあ伝わらなくても構わないのですが。

ネグレクト

私自身、そのような認識はなかったのですが、世間からみると当てはまるのだなと思って興味深く感じています。接種すべきワクチンは全て受けていましたし、弟と同室でしたが自室もありました。自分学習机もありました。ベッドは二段ベッドで、弟とジャンケンをして私が上を勝ち取りました。姉がいましたので、お下がりで服もありました。小学生ときまででしたが、家族旅行にも行っていました。3連のプリンも2セット買ってもらっていましたし、きょうだい4人でよくマリパしました。

その観点でいうと、明らかに年代の違うキャラものの服を与えられるのが嫌だった記憶があります(幼稚園の時、姉のお下がりキューティーハニーセーラームーンの服を着ていましたが、私はどちらも世代ではありません)。アニメは好きですが、キャラ印刷された衣類には今でも忌避感がありますとはいえ小学生ときはくまのエイミーちゃん(伝わりますかね……)とメゾピアノの服に憧れていたので、自分でも基準がよくわかりません。今は無地、花柄等の服を好んで着ています

私は姉たちよりも身長体重ともに一回り小さいのと、歳が近いので、中学生あたりからお下がりがなくなり、それが前述の水着等の話につながっています

・親との関係

私も、やっぱり老後は私に見てもらいたいのかなあと思って、複雑な心境でいます家族で過ごして楽しかった思い出もあるので。ただ、炊きたての白米投げつけられてできた痕(文章にするとコントみたいですね)とか、つねられて皮膚がえぐれて隆起してる痕(両腕の内側に多い)とかを見ると色々考えてしまったり、今パジャマにしてるクラスTシャツもみんなは親にお金出してもらってたなあ……とかふと思ったり。テレビ虐待報道を見ると、私は命に関わるようなことはされてないよなあと思ったりもしてしまい、答えがうまく出せません(上記のことが行き過ぎた躾なのでは?ということは高校生になってから周りの反応で気づき、口に出さなくなりました。家を締め出されることは高校の友人も経験があると言っていて、これは普通ことなのだと安心した記憶があります)。

姉姉私弟の4人きょうだいなのですが、姉2人にはあのときは助けてあげられなくてごめんね、と大学生になってから言われたこともあります。今更言うなよとしか思えなかったのですが、きょうだいはたまに泊めるくらいには仲がいいです。私以外は実家にいるので。姉2人は親に大学お金出してもらってるの、笑っちゃいますよね。一応姉たちは親に返金してるみたいですけど、私は利子付きなのにな(笑)って思ったりもします。弟は私とは少し歳が離れていて、まだ学生なのでどうなるのかわからないですが……。

幸い私は勉強ができて、近所には祖父という理解者がいてさら勉強させてもらえたし、奨学金バイトで大学には通えたし、実際したたか就活ではそのことをアピールしたし、無事に社会人として働いているので、どちらかといえば私自身も恵まれている方だとは思っているのですが、今でも過去のことを思い出すので、整理のために書いています面白くもない自分語りをご覧いただきありがとうございます

以上

2018-08-31

anond:20180831203534

👵お祖母ちゃん存在を忘れていませんかっ。それはとっても世知辛いなって。

※両親がいない、増田さんは彼氏デートしか情報がないため、祖父はいた模様。

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