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はてなキーワード: 世界とは

2019-05-24

人は本当の闇を知ることはない

なぜなら、我々の肉体は常に滅び続け、その欠片が光となるから

我々がこの世界にいる限り、我々自身が光を生み出す

この光は俺達だけが生み出しているものじゃない!いくぞバナージ!←このAA大好きなので誰かブコメに貼って

anond:20190523193839

スターバックスハードボイルド世界なんだよ。

水分と糖分さえ補給できれば、それで十分だ。

スターバックスが美味しすぎて行列ができてしまったら困るだろ?

anond:20190522224201

>彼らが主張しているのは何か?それはあらゆる動物における「苦痛回避」です。

世界苦痛に満ちている。

私が常々疑問に思うのは、なぜ、暴力的な振る舞い、他人不快にさせる振る舞いで

主義主張を拡げようとする人々が、その情熱を、人の苦痛回避に向けないのか?

という点である

自分の手近にある、見映えの良い活動ファッションとして楽しんでいるなら、それは

偽善ではないか

穀物畜産への投入を止め、食料問題解決しよう、と主張するならまだ解るが、、、

舞姫」の主人公バンカラアフリカ人ボコボコにする最高の小説世界明治存在したので20万字くらいかけて紹介する本 isbn:9784760150076

新聞の一面下の広告でコトリコ名前を見るとは

anond:20190524024725

日本酒より洋酒を好み、晩酌を欠かさなかった。夜はかなりの量を食べたが、ご飯はあまり食べず、「ふろあがりののんびりした体に、めしを詰め込んでげっぷをしながらでは、創造精神ははたらかない」というのが持論であり、「この国の広大な平野から、でき得るだけでいい、稲田追放しよう」と述べ、米を嫌っていた。編集者のひとりは「先生が亡くなられたら、お米がすごくうまいんです。もうストップをかける人がいないと思うと、つい食がすすみます」と本音を言ったという。

嵐山光三郎は「米は、たぐいまれなる栄養食であり、米を主食とする日本型食生活日本人世界長寿にしたのであるけれど、このころは、それを言う人は少なかった。カロリーの高いものを食べすぎた結果、周五郎は63歳で死んだのである」と評している。

山本周五郎wikipediaより

anond:20190523194129

他人気持ちとか知らんし

どうせお前等はこの世界NPCだろ

『鳴鳳荘殺人事件』が許せない話。

やあやあどうもお前らこんばんは。

FGO最近全然やってないけどTLに冬木クリア条件のイベントがあるって流れてきたかシナリオ読んで来てその勢いで書籍版も買ってきたマンだよ。

*この先、FGOイベント及び書籍『惑う鳴鳳荘の考察 鳴鳳荘殺人事件』のネタバレ満載ですご注意ください。



さて。

俺はこの『惑う鳴鳳荘の考察 鳴鳳荘殺人事件』という小説が許せない。

ゲームシナリオの方はどうでもいい……って言ったら失礼か。とにかく。小説独自要素?小説の落とし?が許せん。


この小説は。消費者にとって、そして二次創作者にとっては福音かもしれないけど、一次創作者にとっては、間違いなく、呪いだ。

タチの悪い呪いだ。

物語る者の矜持を打ち砕いて、迷わせてしまうような、そんな呪いが込められている本だ。


どういうことだとお思いの方も多いだろうから説明をする。

この『惑う鳴鳳荘の考察 鳴鳳荘殺人事件』は、「脚本家が倒れたミステリ映画の続きを登場人物達が考える」という、メタミステリものだ。

個人的には『愚者のエンドロール』あたりを連想するところだけど、まあそれは置いといて。

作中では5つの「あり得たかもしれない未来」(ルート)が提示された。

ゲーム版では、プレイヤー達の「投票」によって、一番得票の多かったジャンヌ・ダルクオルタルートエリスルート)が選ばれ、"撮影"されたのだが、小説版では提示された5ルートの全てが一旦は"撮影"されたことになっている。


大まかなストーリー説明はこれくらいにして、俺の気に障った箇所についての説明をしていこう。

『鳴鳳荘』の冒頭には、ラストにも繋がる、とあるシーンがある。

おじさんが幼女大事な本を壊してしまい、図書館司書作中作の「映画」では脚本を務める)に修復を依頼する、そんなシーンだ。

ゲームではこのシーンは「映画」にうまく組み込まれるだけだったが(伏線回収は見事であった)、書籍版では、なんと、このシーンに対応するシーンがエピローグとなっている。

紆余曲折の末、壊してしまった「ペパーミントグリーン色の本」(ゲーム版の方で亡くなってしまったキャラのことを暗示してるらしいですね)を復元したおじさんが、幼女に本を返却する。

速読み始めた幼女は、ややあって、突然本を閉じてしまう。

「これはわたしの読んでいたご本とは違うような気がするわ。出てくる子たちや舞台は同じなのに、なんだか違う話を読んでいるよう……」

そう。

「不幸な事故」によりバラバラに壊れてしまった物語を、おじさんたちがなんとか修復し、意味の通じるようにページを繋ぎ合わせたが、もともとの物語とは全く違うものになってしまったのである

更に幼女は続ける。

「このままページを捲れば、本当の結末とは違うものが待っているんでしょう? それは……とても怖いわ」

これに対して、おじさんはこう答え、

「もし君にとって不本意な結末なら、忘れてしまえばいい。いや……」

「良かったところまで巻き戻して、そこから想像しなおせばいいんだよ」

最後に、こう読者に語りかけて、『惑う鳴鳳荘の考察 鳴鳳荘殺人事件』という「物語」は幕を閉じる。

登場人物感情物語上のマクガフィンを受け)「何より結果をもって、その選択肯定しようなんて……おこがましいとは思わんかね?

ちなみにこのおじさん自身は、世界史実在した人物テーマにすることが多いFateには珍しく、創作バックボーンもつキャラクターである。余談ではあるが。


俺には、おじさんのこの言葉が、呪いしか受け取れなかった。

創作者の、「物語る者」の役目は、責務は、自分の頭の中にぼんやりとある、つかみ所のない"話の種"みたいなものを、しっかり捕まえ、「物語」という形にして消費者に届けることである

もちろん、その過程で、いくつもの"語られなかった"可能性は摘み取られる。

でも、そうして、物語というのは"物語"になるのである


あり得たかもしれない未来ひとつを捨て、もうひとつ未来を掴み取るための主人公決断

見えかけていた可能性のひとつを捨て、別の可能性を選び取るためのヒロイン葛藤


世界にとってか、主人公にとってか、主人公の愛する者にとってか、はたまた悪役にとってか。

誰にとってかは不定しろ、とにかく、より良い「結果」を目指す登場人物たちの苦悩、死闘葛藤、そして決断

それこそが「物語」の本質だろうと、俺は思う。


から――

よりにもよって、そんな一次創作登場人物達に、「良かったところまで巻き戻して、そこから想像しなおせばいい」だなんて言わせるなんて、許せない。


「『本当の結末』なんてない」と主張するのは、「全ての結末は等しく同じ価値がある」のと同じことで。

それは、「本当の結末」のルートに辿り着くために主人公たち登場人物が払った犠牲を、抱えた葛藤を、定めた決断を、無価値である貶めることにはならないだろうか。

物語る者は、物語を創り出すと同時に、物語中の人物の"感情"も創り出す。

全部が嘘でも、主人公が、ヒロインが、登場人物が抱えた"感情"だけは本物で、そんな"感情"に人は共感するから人類有史以来物語を求め続けてきた。

そう、俺は思っている。


この『鳴鳳荘』は、ひょっとすればそんな「登場人物感情」は交換可能であり、等しく価値がある(≒等しく無価値である)。そう主張していることになりはしないだろうか。

だとしたら、俺は、この作品のことを許せない。一生根に持ってやる。



翻って、二次創作をする人たち(同人誌漫画を書いたり、pixiv小説を書いたりする人を想定している)からすれば、この「呪い」は間違いなく「福音」であろう。

というか、彼らが日頃からやっていることだろう。

あり得たかもしれない未来、語られなかった可能性を追い求め、掬い取り、自分の力で結晶にする。

だって二次創作したこともあるからわかる。

「こうだったらいいな」「あれがああだったらどうなってたのかな」

"if"を追い求めるのは、ロマンがあるし、楽しい。それはわかる。


でも、その楽しさは、「原作絶対」という前提あってこそのものではなかったのか。

公式で語られたことは全て「正しい」。その前提の上で、ちょっとだけ世界を歪めてみて、結末がどう変わるのか。

それを楽しむための、ただの思考実験ではなかったのか。

"全ての結末は等しく同じ価値がある"だなんて、俺にはとても思えない。



現実的なことを言えば、Fateがもともとマルチエンディングな"ノベルゲーム"という媒体から派生したものであることと、俺が抱えているもやもやは繋がっているのだろう。

ゲームセーブロードシステムが使えるから何回だってやり直しができるし、消費者プレイヤーはいくつも用意された結末を全て体験することができる。

それは素敵な体験かもしれないが、ある種「逃げ」である、かもしれない。

「選ばなくても結末に辿り着ける」あるいは「複数選択から複数を選べる」ことなんて、人生ではあり得ないのだから

2019-05-23

オレはダメ人間から

自分より下の人間を見るとつい安心するんだよね。

からそういう人らを怒りを込めて叩くより、このままでいいんだよと温存したくなる。

他人に厳しい世界を望んだら自分他人から厳しくされる。

オレはできるだけゆるく生きたいんだよ。

馬券の下手な奴も、センスない奴はやめちまえとマウントを取って追い出すより、大いにやりなさいと保護しておけば、当たり馬券配当が旨くなるわけでね。

何かを愛することと『しもべ先生尊い生活 DEATHLESS』

我妻命先生の『しもべ先生尊い生活DEATHLESS』をやっと通販で購入でき、読了。本編同様号泣したのでこの感情激流のままに感想を書き殴ります

元々商業版の『しもべ先生尊い生活』が大好きで大好きで、自分にとってあまり大事作品で、紙の単行本が発売されなかったことは未だに悲しんでいて私が権力か財力か名声を手に入れたら絶対に紙の単行本にするよう出版社圧力をかけるんだと心に決めているし、電子版も分冊じゃなくてまとめて出してよ〜!!と未だに祈ってる。そもそも好きすぎてなるべく早く電子版手に入れたくて、kindle追加が待てずにしもべ先生の為にkinoppyダウンロードしてkinoppyで購入したんだよなという甘酸っぱい思い出。

諸々の思い出はさておいて、『しもべ先生尊い生活』がなぜ私にとってこんな大事作品なのかというと、この作品はあまりにも何かを愛するということを真摯からなように思う。私は所謂厄介解釈厨みたいなタイプ人間で、なにかを好きになると1人でどんどんどんどん解釈純度をあげる方向に向かい、誰に見せる訳でもない感想解釈を何万字も書き殴る、そういうタイプ人間だ。だからこそ迂闊に他のファン意見をみることすらできないし、公式メディアミックスかに結構傷つく事が多くて、1人静かに黙々とオタク活動をするしかない。そもそも好きになる作品は、例えば漫画なら重版からないような漫画ばかり。重版がかかろうがかからまいが私にとってはその漫画世界一売れてて世界一素晴らしい漫画だと思ってるけど。

しもべ先生という作品は、何かを愛するということに対してあまり真摯だ。漫画アニメに限らず、何かを愛する、何かに救われる、何かを崇める、何かを祈る、ということに、あまり真摯なのだ

本編で私が一番好きなのは(いや全話一番好きだけど)第5.5話で、かなりザックリ言うとこれは自分気持ちが恋なのか?と悩むしもべ先生辞書の恋という定義に当たるものの……という話なのだが、これ、何かを愛する人、本当にみんなに読んでほしい。特に女の子が好きな女の子に。上手く言えないけど、あなたの好きは変なんかじゃないんだよということを、好きにまつわる苦悩から逃げないままに、全身で訴えてくれる、それがしもべ先生なのだ

そう、しもべ先生という作品は、力強く好きという言葉肯定する一方で、好きということが引き連れる苦悩から決して目を逸らさない。だからこそ、好きというものに救われながらも苦しむ私達の、私の、救いとなるのだと思う。

本編の話は無限になってしまうので置いておいて、さて、同人誌版『しもべ先生尊い生活 DEATHLESS』について。

この本も相変わらず、何かを愛するということに非常に真摯だった。

「しもべとベアトリクス様」は、人間が何かに救われ生きるということ。ふと、何かに救われる瞬間、救われることで世界がきらめく瞬間、社会という苦悩、こういうものをこんなに上手に表現できるのかと。我妻命先生モノローグが本当に好きなんですが、まさしく我妻命先生の最高モノローグや最高画力、最高画面構成なんかで、この苦しい社会の中で惨めで空っぽ気持ちで生きる人間が、ふと何かに救われる瞬間について丁寧に丁寧に描かれている。苦しい人、悩んでいる人、何かに救われた経験のある人、みんなに読んで欲しい。愛することができるというのは、愛させてくれるというのは、やはり救いで、祈りだ。

そして、「しもべと舞台 その2」。これは本編でも描かれていた舞台化についての話だが、本当に、本当に私が抱えてきた公式メディアミックスやなんかによる傷つき、けれどどうしようもなく愛することはやめられないこと、祈り、それらに対する救いだった。

例えばアニメ化が嬉しいこととは限らない。もちろんそれで売れてくれれば嬉しいし、好きな作品が多くの人の目に留まるのは嬉しい。私は、連載で、続きもあるのに、続きの単行本を出すこともできない作品をたくさんたくさん知っていて、たくさんたくさん好きになった。一冊しか漫画を出してないまま漫画を描かなくなった(描けなくなった)漫画家さんの漫画を、いっぱい好きになった。だからこそやっぱり好きな作品が有名になるのは嬉しい。

けれど、作画だとか、脚本だとか、演出だとか、声だとか、演技だとか、そういう色々な要素に時々どうしてもひっかかってひっかかって飲み込めないやつがいて、アニメ化関連のグッズやなんかを買うし録画もするけれど、結局アニメ本編はみられなかった、ということが往々にしてある。そういう時は、アニメ良かった〜というファンニコニコ眺めて、私はひっかかって飲み込めないやつをどうにか外に出さないように、1人で消化できるように、頑張るしかない。

舞台化もそうだ。いや、舞台化やアニメ化に限らず、どうしてもどうしても大好きな作品でも、メディアミックスかなんかでどうしようもなくひっかかってしまう瞬間というのがある。

けれど、ひっかかってしまう、全ての展開を全肯定してニコニコできるような、謂わば〝模範的〟なオタクではないけれど、けれど私はどうしようもなくそ作品が好きだし、例え私にどこかひっかかるところがあったとしても、やっぱりメディアミックスしかりで作品に関わってくれた全ての人には言葉に尽くしきれない感謝はあるのだ。

好きという感情は、どうしようもなく厄介だ。必ずしも、幸せだけを連れてきてくれるわけではない。好きになればなるほど、モヤモヤも苦しみも一緒に連れてきてしまう。けれど、それでもやっぱり私はその作品を、その何かを愛して良かったと胸を張りたいし、愛していると叫びたい。

しもべ先生は、そういう、好きというもののどうしようもなさも、しっかり向き合ったうえで、けれど好きというものの美しさを語りかける。だからこそ、私にとってこの作品は救いだ。色々苦しい想いをしてきたけれど、けれど私の愛した様々なものを、私は愛して良かったと思わせてくれる。

漠然としていて抽象的な書き殴りの絶叫だが、本当に素晴らしい漫画だった。

我妻命先生、本当にありがとうございます

ウシ、ブタクジライルカイヌネコ、ヒト。どこまであなたごはん(orおかず)ですか?

日本をはじめとする多くの国では、隣人を殺して食べることが禁止されている。

これは、隣人には人権があるからだと考えられる。

 

一方、日本をはじめとする多くの国では、ウシを殺して食べることは禁止されていない。

(ただし、他人の所有するウシはこの限りでない。また、ウシに著しく苦痛を与える行為は、動物愛護法禁止されている。)

これは、ウシにはヒトに対するものほどの権利が認められていないからだと考えられる。

ウシだけでなく、ブタについてもイヌについても、ヒトに対するものほどの権利は認められていない。

 

ところで、世界ではある時期まで、ある属性の人に認められる権利が、別の属性の人に認められる権利よりも制限されていた。

たとえば、かつてのアメリカでは黒人権利白人権利よりも制限されていた。(現在でもそうだ、と主張する人もいる。)

この黒人に対する差別は、差別に反対する多くの人(そこには黒人白人も含まれる)の努力により解消、あるいは少なくとも縮小した。

 

かつては白人に生まれるか黒人に生まれるかで、与えられる権利に大きな差があった。

現在もヒトに生まれるかイヌに生まれるかで、与えられる権利に大きな差がある。

ある人はイヌを殺して食べるのはかわいそうだという。別の人はクジラを殺して食べるのはかわいそうだという。

でも、ウシを殺して食べるのがかわいそうだという人は少ない。そういう人達デモ企画したら炎上した。

 

しかし、ヒトを食べるのは犯罪で、イヌを食べるのがかわいそうなのに、ウシを食べるのはOK、という倫理自明だろうか?

ペットとして飼われるイヌネコ食用には向かないと思うけれど、仮に食用に適したイエネコ品種ができたら、食用に供するのが自然だろうか?

あなたが食べる動物、食べない動物について、万人が納得できるように説明できますか?

障害者マイノリティに喰われる日本という国

そうとしか思えない事案が目立つようになってきた。盲目の人が仕事に行き帰り出来るために信号機の音声を夜中も出せとかLGBT配慮したコミニュケーションを取れとか。

おまいら大好きアメリカではそういう配慮はあまりいからな。

障害者雇用を促進する法律はないし、マイノリティ優遇するガイドライン法律もありそうでない。

特に障害者については「一人前に成果を挙げるか、社会に出ずに福祉を受けるか」の二択という考え方が普及している。障害者であってもそれはスキルの一要素に過ぎず、働くのであれば障害があっても容赦されない世界だ。

一方で日本は、障害者マイノリティ配慮し過ぎて非効率ストレスフルな社会になっている。彼らは要求しかせずまともなリターンがないので、このままでは障害者マイノリティに喰われてしまう。

アメリカ並みに「配慮しない」社会にしていくべきでは?

好きすぎるので死んでほしい

1年前にある人をメチャメチャ好きになっちゃって、付き合ってもらったけど私の好き度合いがやばすぎて「私が〇〇したい」「私が」「私が」ってやりすぎて引かれた。「好きって気持ちを抱くビジョンが描けない、ボランティア意味合いが強い」って言われちゃって、感情に振り回される自分に付き合わせるのが申し訳なくなって別れを切り出した。それが1ヶ月前。

で、今。全然だめ。気持ち薄まるかなとか思ったけどそんなことない。ずっと好き。執着レベルで好き。もはや何でこうなってるのかも分からない。少しずつ諦めようとしてるのに、他の好きなこと好きな人見つけようとしてるのに、その人が「〇〇とだったら一緒に住める」とか言ってるの見ちゃって気が狂いそうになる。

すっっっっごい理不尽だけど、いっそ死んでくれないかとすら思う。ごめん言いすぎた。私の世界から消えてほしいくらいの気持ち。私が勝手に好きになったのにこういうこと言うの本当に相変わらず自分勝手なクソだと思うけど匿名から許して。それでもあなたがいない世界なら、私はもうちょっとまともな人間のフリができていた。勝手に一人の人間に狂わされて勝手に死を望んでいるクソ野郎の話でした。

zaikabouの中国観光シリーズが「ジャップの癖に生意気だ」に着地してて草

21世紀覇権国家を今見ておいた方が良い

いずれにしろ中国21世紀超大国であることは間違いないわけですから

黄昏国家日本ですが、過去資産世界最強の威力を誇るパスポートがある。今後の世界経済に占める日本位置や、昨今の米中対立や、民族主義の台頭や、不法移民問題を見ていると、この立場がこれより良くなる未来はあまり見えない。海外行くなら今ですよ、と思うのです。

エントリを重ねても「丁重にノーサンキュー」なブコメが減らず

自制しつつも段々イラついてきてるなってのは感じてたけど

最終エントリですげえ地が出ちゃったよ

こーゆー人だったのね


日本人観光客、中国大陸)に行かない問題、さいごに

http://zaikabou.hatenablog.com/entry/20190523/1558579612

そもそもなんでそれが”問題”なのか、シリーズ最初からわからんかった

なんかしらんけどこの人が怖い

女がわがままを言わない社会

それこそが世界で求められていること

anond:20190523155938

お前の感覚が間違っている。

日本に限らず、女の人権なんて世界的にあんまり認められてないんだよ。

からフェミニスト人権人権うるさいんだ。

からしろ人権がない性」に生まれものだと認識して行動しろってこと。

anond:20190523153230

違うよ。

安全ピンで刺した相手が人違いなら、公共の場所で女をボコれるんだから、女だってそう迂闊に安全ピンなんて使わないでしょ。

抑止の均衡で、むしろ安全世界になるんだよ。

[]

久々にこっちで雑感。

ツイッターとかの明示されたアカウントで語るには取り扱いに困る、そんな話をしたかったのが理由。「お前は敵がつくりてぇの?」って聞かれたら、作りたくもないし、作る意義もないからね。とはいえ、やっぱり語りたくなる。今回の『青のフラッグ』の44話には、そういったパワーがある。

各々に考えがあり、理由がある。そこに普遍的な是非を求めることの危うさ。

いやあ、ほんと。本作は漫画という媒体で、どこまで多元的な考え、人格描写するつもりなんだっていう。面白いかっていわれると、愉快ではないんだけれども。安楽椅子状態での会話がメインって絵的には面白みが薄い。どうしてもセリフばっかりになるし、読者側にエネルギーを要する。しかも本作はスッキリしない。わかりやすく間違っている人間に対して、正しいことを言って溜飲を下げるだとか、そういった明瞭な快活さを与えてくれないのでストレスたまる。それでも評価せざるを得ない話ってこと。

本作は各々が自分なりの考えを持っていて、そこに明確な是非を要求すべきじゃないってのを逐一訴える。今回の女子高生二人の言い分も間違ってはないんだよね。むしろ現代社会の通念上は、正しい寄りの考えと言ってもいい。じゃああの丸刈り君は偏狭性差別者で、“普通じゃない、間違っている人間”なのかっていうと「ちょっと待った」ってなるわけ。私も同性に痴漢されたことはあるからからなくもない。そういった経験から来る嫌悪感普遍的な通念では拭い去れない。読者の中には今回の話を読んでなお、あの丸刈り君をただのクソ野朗で終わらせる人もいるだろうけれども、作中ではそれこそ狭量ではないかと指摘しているようだった。

安易善悪二元論の懐疑。ああいった問題で、正しいだとか間違っているだとかの線引きで考えたり、分かりやす悪者を作り出すことの危うさを作者は知っているんだと思う。作劇として見た場合言語化しすぎてて読み味も良くないんだけれども、本作はそういうのを妥協したくないんだろうなあ。『鈴木先生』を思い出す。大衆が受け入れがたい、スッと入ってこないであろう考え方を大げさに、だけど真っ向から長々と語る。

「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」は名言でも正論でもない。

「好きって感情はいいけど、嫌いって感情ダメ」みたいなセリフが劇中に出てきて、私は「うげえ、また“ツギハギ論”かよ」って思った。「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」。『ツギハギ漂流作家』という漫画打ち切り間際に描いたあのセリフ。あの漫画顛末を踏まえた場合逆ギレじみた言い分に近い。けれども、なんだかセリフだけ一人歩きしてしまって名言になった。なってしまった。だから私は“ツギハギ論”って呼んでいる。実際このセリフ安易引用する人間の主張にはツギハギ感があるので、その点でも“ツギハギ論”って呼び方は適格だと個人的に思ってる。

で、ちょっとウンザリしたところで、「好きって感情は良い感情、嫌いって感情は悪い感情って考えは雑すぎる」といった指摘が入る。ああ、そこも言語化ちゃうだっていう。もう完全に私はこの作品に踊らされている。「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」の歪さを分かってる。あのセリフが憚って10年以上も経っているのに、まだあれを正論だと思っている人がたくさんいる。あれが大した理屈じゃないことは、好き嫌いについて向き合っているのなら自ずと分かるはず。けれども、好きなもの他人に嫌いだって言って欲しくないという自己保身のために、あのセリフを都合よく使う人は後を絶たない。

好きという感情肯定する以上、嫌いという感情肯定しなきゃ辻褄が合わない。まあ、肯定否定個人感情によるところも大きいので、各々がどういうスタンスをとるかまでは是非を問えないけれども。そのせいで、意見の不一致による衝突は出てくるし、それを避けたいのも人間本能だしね。だからだって、こういう話は後腐れのないところで書く。とはいえ感想書きは、結局この“好き嫌い”を様々な言葉で紡ぐ表現手法の一つなわけで。好き嫌いのものを、片方だけ是としたり、有耶無耶にしたりすると評論としてはむしろ信頼できない。

とはいえ、これを完全に理解するには面倒くさすぎる。

そんなわけで評価はしているけれども、本作はかったるい。言語化しすぎというか、野暮ったいセリフ選びも多い。セリフの少ない場面とかはすごくエモいだけに尚更そう感じる。エンタメという枠組みで見たとき、あれは愉快な描き方ではないし、上手い描き方でもない。「悪役が何かエグいことをやっている」だとか、そういう“エンタメ的には良い不愉快さ”みたいな意味ですらなく。飲み物なしでビスケット食っているみたいな感覚

例えば、同サイトで読めるのだと、『さよならミニスカート』は分かりやすい。あれは良くも悪くも複雑じゃない。いや、人によってはあれでも余剰過ぎるくらい複雑かもしれないけれども、訴えていること自体はすごくシンプルなんだよ、あれは。基礎的なジェンダー規範を取り扱って、それをテーマにしている作品。様々なマンガで、以前から脈々と語られてきたジェンダー論をメインに、現代の人たちに刺さるようドラマティックにリブートしている。だから陳腐とまではいわないけれども、やや表層的ではあると思う。ああいったテーマを多側面的に考えたことのない、一般大衆向け。それ故に刺さりやすいし、読み味も良い。『青のフラッグ』もウケてはいるけれども、作者が想定しているであろう理解力の読者はそこまで多くないと思う。

その点で『さよならミニスカート』は多くの読者に色んな意味で優しい。まあ、テーマ的に何かすごいことをやってる~みたいに持てはやしだしたら危ないと思うけれども。『サウスパーク』とかで登場する、ソーシャルアジェンダに踊らされた大人たちみたいになってしまう。「私たちはそういうのに理解があるよ」といったスタンスゴリ押すことに一切疑問を持たない、実際のところ無理解人間。「社会正義から」、「一般の善良な考えだから」といった、誰かがあらかじめ作っておいた前提で理屈を紡ぎ出す。だから一見すると尤もらしいんだけれども、ちょっと小突かれただけで論理破綻してしまう。

とはいえ、そういった指摘をフィクション世界でわざわざ言語化しても、ほとんどの人はそこまで様々な視点から物事を考えないので伝わりにくい。一般社会の善良そうな考えで生きれば支障はまずないから、考える必要がない。むしろ考えすぎて自我袋小路に入ってしまうこともあるからちょっと無思慮なくらいが丁度良いまである。色々考えていたとしても、個々人の規範一般社会規範をすり合わせる他ないから。『青のフラッグ』のセリフからとるなら「お前は敵がつくりてぇの?」となる。私は御免こうむるし、多くの人も「そんなつもりはない」と言うはず。自覚しているか、実際の行動と矛盾しているってパターンは多いけれども。敵味方っていう構図の作り方が、そもそも履き違えているのを大体の人は分かっている。前提を共有をしていなければ主張の押し付け合いにしかならないし、かといって論理ゲーム本質から遠ざかっている。

そんな感じで、私の中でもまとまっていないので、ここで雑感は終了。ここまで語っておいてなんだけど、こういう特定作品を基に社会論をアレコレ語るのは、どこぞのサブカルくそ野朗みたいで我ながらアレだと思ってる。自分ツイッターじゃあ、絶対こんなこと呟けない。あれこれ考えてしまうから吐き出して解消したいだけで、漫画もっと気楽に楽しみたい派。ぶっちゃけ私は『むとうさとう』レベルの軽いノリでジェンダー取り扱ってる漫画の方が好きだ。

anond:20190523134246

引用する時は

>>

畜産の不合理

世界的な環境問題食糧問題に絡んでくる

<<

で囲めばそれっぽくなるで(記号は小文字

  

畜産の不合理

世界的な環境問題食糧問題に絡んでくる

こんな感じに

anond:20190523133210

畜産の不合理

>全世界的な環境問題食糧問題に絡んでくる

こういうのエビデンス用意しろ言うても机上が限界だし、実現しようと思うとものすごーく大規模かつ不可逆な改変が必要になって、当然そうなってから発覚するイレギュラートラブル無限に出てくると思うけど、

万が一実現して、そして更に万が一裏目って人類が大ピンチになった場合ヴィーガンは何らかの責任を取ってくれるのかな?

ごみ分別

プラビニール分別する様にした結果、燃えるごみの焼却炉の温度が足りなくなったので石油足して燃やしてる的な話は聞いた事がある。

anond:20190523105744

基地外を説得する必要はありません

最終的に動物権利侵害されない世界を目指すのがヴィーガン目的なのに?

その基地外は肉食い続けるけどいいの?

anond:20190523132843

ヴィーガンの主張は「動物愛護」と「畜産の不合理」に拠っていて

前者はまあ「お気持ちであるにしても

後者は全世界的な環境問題食糧問題に絡んでくるので

それはおまえが省エネごみ分別に励まねばならないのと同じくらいの理由にはなるね。

年収1000万はゴールではない

年収500万以下の人、あるいは若者にとって

年収600万が一つの豊かさのボーダーライン、1000万が小金持ちのボーダーラインと思ってるかもしれないが

想像よりずっと普通だし、豊かさを感じない

主な原因は税金関係が増えること

支出も増える

貯金もしなければならない

計算してみると余裕がまるでないと気づく

 

じゃあもっと低かった若者の頃はどう生きていたかと振り返れば

何も買えない、貯金もないという「ギリギリ以前」な状態だった

それを「普通に買う」「普通貯金する」に切り替えただけで一瞬で金が消える

600万、1000万はそういう意味で「並」「普通」でしかない

結婚相手年収にこのくらいを望むのも、分からなくはない(普通は「共働きしよう」になると思うが)

 

並をゴールにしても良いけど、皆の想像するゴールは「余裕」ではないかと思う

そういう意味では600万はスタートラインにすぎないし、1000万は途中でしか無い

まり日本の平均年収を見ると、「何だこの辛い世の中は」と言う感想しか出ない

 

現代においてさえ、何も買えない、何もできないが普通なんだと頭を切り替えるべきだ

あと基本無料サービスは素晴らしいと思う

 

※ちなみに、1000万に住宅補助などの福利厚生がつくとか、ローンなし持ち家がある、実家通い、地方住まいだと一気に余裕が出る

 1000万は非常に惜しい位置にいる、しか国内ではどれだけ優秀な人も1000万手前で飼い殺すのが一般的だし、地方で1000万は非常に厳しい

 救いはほとんどない

※では豊かさの象徴はどこかと言えば「年収2000万円」もしくは「貯金5000万円」ではないかと思う

 世界が変わる

"「動物はおかずだ」デモに関して"に見られるヴィーガン論理問題

動物はおかずだ」デモに関して(1)及び(2)

http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2019/05/21/172032

http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2019/05/22/072351


上記リンクではアニマルライツ運動奴隷制廃止運動になぞらえ動物の様々な権利を認めようと説く。

だが待ってほしい。黒人権利ははじめから存在しなかったのか?違う。

彼らが彼ら自身社会で持っていた権利は不当に奪われたのだ。何によって?人々の倫理観によって。

奴隷制廃止運動倫理の敗北の結果として起きたのであり、そこに言及せず、倫理観武器に戦うアニマルライツ運動文脈倫理勝利した例として引き合いに出すのはあまりにも白人主義である


このような倫理観の敗北が起こったのはこの時代倫理観が未熟だったからだろうか?

例えば上記リンクでは、現在において奴隷を持つ権利自明でなくなったように、肉を食べる権利が将来において自明でなくなることを示唆する。

まりアニマルライツ運動とは将来の倫理の先取りであるということで、これは「現在倫理過去倫理よりも優れている」よって「将来の倫理現在倫理より優れている」という主張に他ならない。

本当にそうか?奴隷制廃止運動以後ですらそうとは思えない事例を我々はいくつも知っている。

最悪なもので言えばホロコースト現在も大規模な民族浄化が進む中国、そして我々日本人が起こした戦争

仮に将来において中国世界覇権を完全に握るとすれば民族浄化倫理的に問題ないことになるだろう。ならば我々はその倫理観を「先取り」していいのだろうか?

自分たち世界の行く末が分からないように、自分たち倫理観の行く末も分からないと私は考える。

そういう私にとって自分に都合のいい将来を仮定しそこから倫理観を持ってくる論理は非常に不誠実に感じられる。


(以下蛇足

こういった論理を用いなくても現在倫理観でやれるところまでやり、達成が困難な目標に対しては倫理観の変革は後回しでよいのではないか。前者について例えば家畜飼育環境改善などは現在倫理観でも十分対応できるし、後者については肉の代替品が健康面等で肉に勝利すれば倫理観はあとからついてくるように思う。

ヴィーガンが壊す食文化

動物人間ご飯でした。過去数千年も人間狩猟採集で生きていました。

狩で仕留めたマンモスを食べて氷河期を生き抜き、山でシカイノシシを食べて生き抜きました。私たち祖先はヤギや豚や牛や羊や鶏を、長い長い長い年月をかけて家畜しました。家畜化なんて一朝一夕一世代で出来ることではありません。祖父から父へ、父から子へ、飼育ノウハウを受け継ぎながら、家畜を食べる肉食文化を発展させました。

色々な国で色々な食文化が発展してきました。それは日本のように仏教によって禁止されながらも、こっそりと楽しまれたり、文明開化とともに最先端料理として食べられたり、ヨーロッパのようにソーセージベーコン干し肉なんかにして長期保存できるようにされたり、焼いたり蒸したり揚げたりして、美味しく食べれるように工夫されたりしてきました。イヌイットのように生食する民族も、沢山の香辛料スパイシーに食べる民族もいます食文化は、宗教やその土地気候と密に絡み合いながら発展してきました。

文化人間が長い歴史の中で作り上げた叡智の結晶です。衣、食、住の1つである、生き物にとって欠かせない「食」の文化は何にも劣らない人類史の大切な要素です。文化人類学的な価値を持つものです。

生物学的にも人間動物を食べるのには意味があります日本人だけが海苔を消化できるように進化したことは有名ですが、お肉も同じです。人間が肉を美味しく食べて、消化して、エネルギーとして利用できるのも、人間が長い間肉を食べ続けて、そのように進化たから美味しくお肉が食べられるのです。お肉を食べるのは人間が生態です。人間は雑食なのですから

連綿と続くこの歴史の中で、動物可哀想だという考えを持ち、肉食をやめることもまた文化です。人類がそのように方向転換し得る可能性を持つこともまた大切なことです。

しかし、それを望まぬ人に強要すること、人間全体から食文化を奪うことは文化破壊です。畜産家や肉屋やコックさんから仕事を奪う権利は誰にもありません。

食文化生活根付いて始めて意味がありますレシピの本だけあっても仕方がありません。肉を食べないということは今まで育んできた肉食文化永久に手放してしまうことになります日本和食文化遺産であるように、世界の肉食文化和食よりもうんと重要文化です。ヴィーガンの肉を食べない「食」が尊重されるべきように、私たち雑食の食文化尊重されるべきです。

そうして考えると「動物はあなたのごはんじゃない」というスローガンはあまり暴力的文化否定ではありませんか。

anond:20190523103139

今回の総選挙でウザいレベルに増えて認知されたというのはあるだろうけど、別にそう新しい世界でもないと思うよ

アイマスクソ長文というのはもうずっと前からあんな感じだったし、総選挙お気持ち表明にしても別に今年が初めてじゃない

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