「ポップカルチャー」を含む日記 RSS

はてなキーワード: ポップカルチャーとは

2021-03-16

宇部高等学校的シン・エヴァンゲリオン考察

いろいろな考察が出ていて、それぞれに説得力もあり、なるほどと得心したりしている。

私はエヴァTVシリーズから全部見てすげーすげーと楽しんできたが、考察にはあまり興味はなく、いろんな謎にも詳しくないが、庵野さんの同窓生ということで、主に宇部高校とシン・エヴァンゲリオンとの関連を考察したいと思う。(かれこれ40年以上前ことなので、記憶違いや勘違いはご容赦を)

エンディングに出てきた宇部新川駅や宇部興産の工場群を見て、あ、庵野さん、宇部を許したんだな、と唐突に浮かんだ。なぜそう思ったかは分からない。そもそも「許す」って。

宇部山口県瀬戸内にある工業都市。美しくもなんともない味気ない街で、明治以降炭鉱で栄えるまでは寂しい漁村だったとか、歴史文化も無縁のところだ。

宇部新川駅は宇部市の繁華街にある駅で、庵野さんの育った地区に近く、少し海側に行くと宇部興産の工場がある。

庵野さんは地元進学校宇部高校出身だ。あれだけアニメの才能(空間認識力)がある人だから、頭が良くて、中学ではろくに勉強しなくても宇部高に入れたろうと思う。高校生活は1年生から受験中心。2年生までに3年生の教科書を消化して、3年生の1年間は受験勉強のみという方針だった。勉強価値を見いだせないタイプは授業について行けない。当時の校長キャッチフレーズは「国立300、野球甲子園」。ちなみに、ノーベル賞本庶佑さんは宇部出身で、伝統的に京大を目指す生徒が多い。民主党の菅元総理ユニクロ柳井さんも宇部高。

そんな文化不毛受験偏重宇部高で庵野さんを魅了したのが、宇宙戦艦ヤマトアルプスの少女ハイジなど、ポップカルチャーとしての黎明期にあったアニメではないか。一番好きなのは特撮かもしれないが、当時はウルトラマンゴジラも低迷していた。

庵野さんは宇部高にあって勉学はともかく、生徒会長中村さんを主人公にしたナカムライダーや、文化祭用に短編アニメなどを作って校内有名人だった。

短編アニメは、宇宙戦艦ヤマトが爆発しながら太陽に突っ込んでいく、というような内容で、セル画のために美術部の予算をひとりで全部使ってしまったといううわさだった。アニメの出来は素晴らしく、「高校生がこんなプロのようなアニメを作れるんだ!」と驚嘆したし、校内では数少ないアニメファンたちの間で天才として知れ渡った。

だが、庵野さんの才能がその活躍の場を見出すのは大学に入って以降で、たぶん、庵野さんにとって宇部での暮らし高校生活は、灰色鬱屈とした、愛せない時間空間だったのではないか

漠然とした印象だが、庵野さんは宇部がきらいなんだと思っていた。それが、シン・エヴァンゲリオンでは、聖地にしてもいいよ、的な振る舞い。なんか、ずっと嫌っていた宇部時代自分を、ほかのもろもろのトラウマとともに昇華、あれで良かったんだよと受け入れたように思う。

ちなみに、聖地巡礼なら観光起点として山口宇部空港から入り、レンタカー宇部新川駅へGO、車で約10分。駅を見学したら190号線から宇部湾岸道路山陽小野田方面に向かえば、車窓から宇部興産の工場群が見学できる。あとは秋吉台とか角島大橋、萩、山口など、観光地へ赴くのが吉です。

2021-03-04

日本ポップカルチャー

2000年代まではポップカルチャーとして

ドラマ」 「お笑い」 「音楽

があったんだけど2010年代流行したドラマお笑い音楽をそれぞれ10個答えろって言われて答えられる人はそんなにいないだろう

この3つが3つとも2010年代サブカルチャー化してしまった今の日本にあれを知ってないのは遅れてるみたいなのは無くなったと思う

2021-02-17

シンデレラガールズプロデューサー」はつまらない

もしも総選挙が一人一票という決まりだったなら、三年ぐらいで企画が終了していたのではないかと思わせる出来事がごく最近二つあった。


まずはアイマス15周年企画の一環として行われた、ポップカルチャーライフスタイル情報誌BRUTUS」とのコラボであるアンバサダーアイドル推薦企画」だ。

https://asobistore.jp/content/title/Idolmaster/Idolmaster_ambassador/

すでに結果は出ているのでこちらを見てもらったほうが早い。

https://twitter.com/BRUTUS_mag/status/1360529192132235266

一位・高垣楓雑誌では二位と三位公表されていて、今後の話のために必要なので書くが、二位・北条加蓮三位一ノ瀬志希となっている。

まらない。つまらなすぎる。シンデレラガール総選挙の上位常連と一切代わり映えのしない面子だ。

自分から日記タイトルに異を唱えることになってしまうが、これは企画自体が悪いせいもある。

「推薦文」を要求しておきながら、内実は一人一票の定例外総選挙であり、そうなると自身担当を推薦したくなるのが人情というものであろう。

それは仕方のないことなのかもしれない。だがここで、先述したBRUTUSのツイート掲載されている高垣楓トップにある推薦文を見てみよう。

また、6代目シンデレラガール(年に1度の「シンデレラガールズ」内総選挙1位)であり、過去総選挙の平均順位も1位と、知名度アイドルマスターの中で上位です。

そうじゃない。そうじゃないだろう。

自担を推すことについてはもう何も言わないが、「どうしてそのアイドルポップカルチャーライフスタイル誌のアンバサダーに相応しいと思うのか」が推薦理由であるべきではないのか。

多少ごり押しであっても、担当のために悩み抜いてどうにか関連性を引き出して理屈をつけ推薦するのがプロデューサーの姿ではないのか。

こんな推薦文が掲載される時点で彼女に寄せられた(公開されていない)他の推薦文も同レベルだったのだろうと想像できてしまうし、これを選ぶ羽目になったBRUTUSの編集者もかわいそうである

二位と三位に関しては、担当Pには悪いがBRUTUSへ送り出すアンバサダーとしてそこまで相応しいとも思えない。

つまるところだたの人気投票に堕してしまっているのは他のアイマスブランドでも傾向として見られるが、シンデレラガールズはとりわけ酷い。

自分はあまり詳しくないため恐縮だが、その次に酷いのはSideMだという声をちらほら聞いたし、なるほどと思わされた。ミリオンライブ!でロコが一位になったことは誇っていい。

シンデレラガールズが持つ他のブランドにはない強みは、百九十人もの個性豊かなアイドルたちによる多様性であり、幅広いニーズに応えられるという層の厚さである

そして相手は「食・カルチャー・旅・ファッションアート等を扱う、男のポップカルチャー誌」である。わざわざ名前を出さずとも、シンデレラガールズのPなら、

特定食べ物にこだわっている」「特定文化に造詣が深い」「旅が好き」「アートに全力」で思い浮かぶアイドルが必ずいるはずである

ブランドから適任者を送り出すのではなく、ただ自分担当が目立てばそれでいいのだ、という考えは、自身担当アイドルも、それ以外のシンデレラガールズのアイドル馬鹿にしている。

(そういった流れを防止するために、得票数でなく推薦文を吟味してBRUTUSの編集者独断偏見でもって決定すべきだったのだが。一体推薦文の存在意義とは何だったのだろう)


次に、YouTubeアイマスチャンネルで行われた「みんなで選んだ、もう一度見たい!TVアニメアイドルマスター シンデレラガールズ』セレクションである

https://twitter.com/imas_ch/status/1354763025224355841

シンデレラガールズのアニメから好きな話を三つ選んで投票し、その上位三話を配信するというものである。結果は以下の動画で発表された。

https://www.youtube.com/watch?v=f-Y6w_Hz5hEアニメ本編が配信されているため、今後非公開になる可能性もある)

結果は二十三話・二十四話・二十五話。最終話とその手前の二話が選ばれただけである

まらない。つまらなすぎる。どうすればここまでつまらなくできるのかというぐらいの現代アート的つまらなさである

「話数順に流します」と言われて最初二十三話が流れた時の「え、もしかして23,24,25か?」というコメントが忘れられない。

あの唖然とした空気。白けた薄ら笑い。大学入試で九九が出題されたかのような間抜けさだ。

企画したAPも「まあまあまあそういうことなのかな、とはね、なるんですけど」と取り繕わざるを得ない状態

最終話とその手前に投票して一体どうしようというのか。最終話が一番盛り上がるのは古今東西どのアニメでも同じである

とは言え、二十三話に関しては投票するPの気持ちも分かる。主人公である島村卯月クライマックスとも言えるシーンだからだ。泣かされたPも多いだろう。

から問題は、二十四話と二十五話に投票したプロデューサーセンスの無さに集約される。

人の感動にセンスの良し悪しでケチをつけるなという意見もあるだろうが、少しは企画内容を斟酌してやってはどうかと反論せずにはいられない。


アイマスブランドの中で唯一、毎年恒例で人気投票をやっているシンデレラガールズのPが、最も投票が下手で盛り下げ役にしかなれないというのは皮肉な話である

あるいは、総選挙存在が「何をおいても自担投票しなければならない」という一種強迫観念を植え付けてしまったのかもしれない。

総選挙もそうだが、シンデレラガールズのP(特に、上位常連や既にシンデレラガールに輝いた経歴のあるアイドル担当しているP)はもっと余裕を持って、お祭りだと思って楽しむ気持ち重要なのではないか

特定属性を褒めそやすと荒れる元になるのであまり言うべきでないのかも知れないが、パッション比較的上位常連の固定がゆるく、

なるべく多くのアイドルにボイスをつけよう、出番を与えようという気持ちでやっているように見受けられる。

シンデレラガールズは担当アイドルけがすべてではない。百九十人全員でシンデレラガールである。そのことをどうか忘れないで欲しい。

2021-02-12

必読書コピペマジレスしてみる・海外文学編(2)

(1)はこちら。anond:20210212080317

キャロル不思議の国のアリス

好き。ただし、当時の人にしかからないパロディジョークが多く、というかこの本を通じてしか残っていないのもあるので、純粋に笑えるかどうかはわからない。とはいえ、わからないなりにナンセンスさは楽しく(「ぽっぺん先生シリーズにも引き継がれている)、トーベ・ヤンソンなどいろいろな人の挿絵も楽しめるし、こじらせ文学少年文学少女とも仲良くなれるかもしれない。大学時代読書サークルは楽しかったなあ。

ドストエフスキー悪霊

ドストエフスキー小説基本的に頭がおかしい。ドストエフスキー自身ギャンブル依存症ユダヤ人嫌いのヤバいやつだし。

登場人物基本的自己主張が激しくて感情に溺れやすく、数段落数ページにまたがって独白する。プライド無駄に高くて空想癖がひどく、思い込みが激しくて人の話を聞いちゃおらず、愛されていないのに愛を語る。そしてそんな奴らが大好きだ。

ぜひとも増田ロシア文学沼に落としたいのだが、いかんせん「悪霊」を含む五大長編から挑戦するのはハードルがあまりにも高いので、「永遠の夫」か「賭博者」か「地下室の手記」か「白夜からおすすめロシア文学はいいぞ。

ところで、高校時代の友人曰く「ドストエフスキーにはまるのは自己愛自己嫌悪の衝突を必死プライドで支える人間、言い換えるとモテない」とのこと。ひどい。

チェーホフ桜の園

こっちはスマートなほうのロシア文学一家が没落して家や土地を売らないといけないのに、家の経済状態をわかっておらず(認めず)すぐに物乞い金貨を上げちゃう現実の見えていないお母さんのキャラが強烈。ギトギト描写するドストエフスキーに対し、勘所をびしりと抑えるチェーホフ

実家のお母さんと(特にお金関係で)うまくいっていない人におすすめ

チェスタトンブラウン神父童心

未読。怪作「木曜日だった男」は読んだんだが。ミステリはあまり読んでいないのでそのうち読む。

プルースト失われた時を求めて

誰もが冒頭のマドレーヌの香りから想起されるママンとの思い出についてしか語らず、たぶんみんなちゃんと読んでないかなのだが、実は無職マザコン自分の性の目覚め(野外オナニーを含む)やソープ通いや失恋の思い出について延々と語っている話で、何度語り手に向かって「働け!」と言いたくなったことか。

しかし、実のところ登場人物の九割がLGBTという当時としては非常に先進的な小説で、さらに当時炎上していたドレフュス事件という両陣営を真っ二つに分断した冤罪事件ネタにもしているので(今でいえばMeTooやBLMに相当する)、実は差別反差別についていろいろ語っている増田たちにすごく刺さる内容だと思う。俺差別してないし~、あいつは〇〇人だけどいいやつだよ~、的な態度もぐさりとやられている。最高でしかない。

ちなみに、金に苦労しないボンボンがうだうだ恋愛で悩む小説が好きになったのはこの本のせい。「アレクサンドリア四重奏」とかね。

カフカ審判

不条理ギャグすれすれで訳もわからずひどい目に合う小説。いきなりこの小説チャレンジするのはしんどいので、まずは「変身」か岩波文庫短編集を読んで、カフカのノリが気に入ったら読むといいんじゃないかな。

読んでいるとカフカがお父さんのことめちゃくちゃ苦手だったってのがびりびり伝わってきて気の毒(カフカは線の細い文学青年、父は叩き上げビジネスマン想像できるでしょ?)。お父さんとの関係がこじれている人におすすめ

魯迅『阿Q正伝』

最高のダメ人間小説精神勝利法なることばはどこかで聞いたことがあるんじゃないだろうか。作者は当時の中国人意識の低さを批判したつもりらしいが、万人に刺さる内容。

ちなみに自分ダメ人間、情けないやつ、どうしようもないやつが大好きなので「指輪物語」のゴクリ(ゴラム)だとか、「沈黙」のキチジローだとかが大好きです。

ジョイスユリシーズ

さえないおっさんが妻の浮気を知りながら一日中ダブリンの町をウロウロするだけの寝取られ小説で(途中で女の子スカートをのぞいて野外オナニーもする)、このリストの前に出てきた「オデュッセイア」のパロディでもある。

これだけだと何が面白いのかよくわからないのだが、実は当時の反英的な機運の高まっているアイルランド空気活写している。それだけではなく小説の様々な実験手法の見本市みたいになっており、和訳もすごい。たとえばある章では英文学の様々な文体歴史順に真似て英文学の発展をパロるのだけれど、和訳ではその章は祝詞に始まって漢文になり、漱石芥川文体を経て現代小説になるという離れ業で訳している。これがもっと無茶苦茶になると「フィネガンズウェイク」になるのだけれど、すでに言語の体をなしていないのでまだ読めてない。

上記説明ドン引きしないでください。「ダブリン市民」をお勧めします。

トーマス・マン魔の山

結核療養サナトリウム小説北杜夫ファンの間で有名な「ねーんげん的」の元ネタ。あらゆる知識を山のサナトリウムで吸収した主人公運命いかに! 「ノルウェイの森」で主人公京都山中精神病院にこの本を持っていくのは村上春樹なりのジョークか。

ただし、やっぱり長いので美少年萌えな「ヴェニスに死す」か陰キャの悲哀「トニオ・クレーゲル」にまずチャレンジするのがおすすめ

はまったら「ブッデンブローク家の人々」や「ファウストゥス博士」を読もう。

ザミャーミン『われら』

洗脳エンドのディストピア小説なんだけど、増田で「一九八四年」が古いと言われてしまうんだったらこれはどうなるんだろ。読むんだったら他の「すばらしい新世界」とか「ハーモニー」とかと読み比べて、ディストピア概念現実社会の変化に合わせてどんな風に発展してきたからを考えながら読むと面白いのかも。

ムージル特性のない男』

未読。長すぎる。

セリーヌ『夜の果ての旅』

未読。

フォークナーアブサロム、アブサロム!

文学サークルの友人に勧められて読んだんだけど、とんでもない小説だった。あらすじとしては、野望に取りつかれた南部人種差別主義者自分帝国を作るために理想女性結婚するが、その女性黒人の血が混じっていたために離婚して別の女性結婚することから始まる、二つの家系因縁なのだが、時系列しっちゃかめっちゃかなのでとにかくその男の妄念とその子孫の不幸ばかりがじりじりと迫ってくる。あまりにもすごかったのでフォークナーの他の作品は読めておらず、黒人差別を扱った小説も怖くて読めていない。

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』

未読。

サルトル嘔吐

読んだがよくわからなかった。うつ状態ときには時間の経過さえも苦痛で、それを救ってくれるのは音楽だけだ、的な話だったか。とにかく本を読み漁っていたころ、新潮文庫サルトル短篇集を意味も分からず読んでいたのを思い出す。わけもわからないままヌーベルヴァーグを観ていた頃だ。さっき出てきた高校時代の友人曰く「フランス映画のあらすじはセックスして車で逃げて殺されるだけだ」とのことだが、起承転結還元できない小説を楽しむようになったのはこの頃からだった。

ジュネ『泥棒日記

未読。

ベケットゴドーを待ちながら

短いのですぐ読める。ゴドーはいまだに再臨しないキリストアレゴリーだという説もあるが、実際のところはよくわからない。意味の分からない話だけど、僕らの人生結構意味不明だよね、みたいな感じか。

ロブ=グリエ嫉妬

未読。「消しゴム」は数年前に読んだが理解できなかった。

デュラス『モデラートカンタービレ

未読。「愛人」は読んだが記憶のかなた。まだ幼くて没落する富裕層とその爛れた愛を十分に楽しめなかった。

どうでもいいが自分が年上萌えに目覚めたのは「海辺のカフカ」のおねショタシーンです。

レム『ソラリスの陽のもとに』

レムの作品の中では一番好き。たとえ出てくる科学技術描写が古くなっても(SFだとこういうことはよくある)、理解できない対象として立ちふさがるソラリスという惑星描写は古びない。

SFは考えうるあらゆる可能性を検討し、人類の達成しうることや宇宙の中での意味について想像力の境界をどこまでも遠くまで広げていく文学だ。中には人類がろくでもない理由で滅亡してしまったり、人間など取るに足りないという悲観的なヴィジョンに至ってしまったりするものであるが、それでさえ美しい。なぜなら、想像力がヒトという種の肉体に縛られまいと羽ばたいた結果なのだから

最近SFをろくに読んでいないが、元気が出たらまた読みたいものだ。

ガルシアマルケス百年の孤独

初めて読んだラテンアメリカ文学。起こりえないことが起こり、名前がややこしいので誰が誰だかすぐに混同され、しかもそのすべてが意図的である。混乱してもとにかく読み進めてほしい。目の前で起きる不可解な出来事をまずは楽しもう。

慣れてきたら、これが不条理しか言いようのない南米歴史の縮図だとかそんなことを考えてみるのもいいかもしれない。この本のおかげでボルヘスに、バルガスリョサに、ドノソに出会うことができた。

一説によるとこの本が文庫化されるとき世界の終末が近づくという本の一つ(未確認情報)。新潮社がなぜか頑なにハードカバーしかさない。ちなみに「薔薇の名前」にもそうした風説がある。

ラシュディ『真夜中の子どもたち』

インド独立の瞬間に生まれ子供たちが全員テレパシーの使い手だった! こんな話があの岩波文庫に収録されるんだから世の中わからない。

主人公は裕福な家で育つが、じつはそれは出産時の取り違えによるものであり、誤って貧しいほうで育ってしまった子供復讐にやってくる。それも、真夜中の子どもたち全員を巻き込む恐ろしい方法で。

インドパキスタンの分裂、人口抑制政策、そういったインド歴史ちょっと頭の隅っこに入れておくと面白いが、昼ドラ的な入れ替わりの悲劇の要素のあるSFとして娯楽的に読める。権力を持った強い女性に対する嫌悪感がほんのりあるのが難点か。

ちなみに、「悪魔の詩」も読んだが、(亡くなった訳者には本当に申し訳ないが)こっちのほうが面白かった。あれは当時のイギリスポップカルチャーがわかっていないと理解が難しい。

ブレイクブレイク詩集

独自神話的なヴィジョンで有名らしいんだが、邦訳あったっけ?

ベルダーリンヘルダーリン詩集

未読。

ボードレール悪の華

卒業旅行パリに持って行った。たぶん時期的には最高だったと思う。とにかく血だとか死だとか堕落だとか退廃だとかそういうのに惹かれる人生の時期というのがあり、まさにそのときに読めたのは幸せだった。もっとも、所詮自分はそれらを安全から眺めていただけだったが。

ランボーランボー詩集

同じく卒業旅行パリに持って行った。残念ながらフランス語はわからないのだが、フランスサンドイッチは最高だった。当時はまだピュアだったのでキャバレーフレンチカンカンは見に行っていない。

エリオット荒地

未読。

マヤコフスキーマヤコフスキー詩集

未読。

ツェランツェラン詩集

未読。詩をあまり読んでいなくて申し訳ない。

バフチンドストエフスキー詩学

ドストエフスキー作品カーニバル的、つまり一斉にいろんな出来事が起きてしっちゃかめっちゃかになって、日常価値観が転倒する、みたいな内容。確かにドストエフスキー作品爆弾抱えた人間が一か所に集まってその爆弾が一斉に大爆発、的な内容が多い。

ただ、これ以上のことは覚えていない。実はあまり文芸批評は読まない。

ブランショ文学空間

未読。

以上

疲れたので続編をやるかは不明日本文学哲学思想海外文学ほど読んでないし。まとめてみて、遠ざかっていた文学に久しぶりに手を伸ばしたくなった。

皆様も良い読書ライフを。

2021-02-09

[] popadanets

日本のisekai animeに関する英文中に突然知らない単語が出てきたので面食らったが、どうやらロシア文学用語らしい。

タイムトラベルや転生によって「異世界に/異世界から飛ばされてきた主人公」のことをさす。動詞попасть(「やってくる」)を名詞化した造語なので「転生マン」みたいな感じ。

文学といっても元々SF小説B級映画ありがちなプロットについて語るときに使われていた、ポップカルチャー寄りな言葉のようだ。

なおpopadanetsは複数形であり、単数形はpopadantsy。さすがロシア語だ、ストレリツィみたいでかっこいいぞ

2021-01-20

anond:20210120074652

オタクの再定義が求められるようになって久しいが

ポップカルチャーサブカルチャーが好きならオタク、というような定義一般的であり

具体的に作品に対してコンテクストだとか高度なものを求めるようなオタクもいれば

そうでないオタクもいるだろう

オタク自体が増えすぎたことでウケるオタク作品ハードルの低いものになっていることが多い

そして実写化されるのも主にそういったものたち

要は主語がでかすぎる、そのように思っているのはオタクではなく自分ではないか

2021-01-17

教育実習生

どこの公立学校だろうが、教育実習生は必ず来る。この実習生の前でピアノ披露するのが半ばお約束になっていた。

たいていの教育実習生は私のぶったたきタッチに凍り付いていたのを思い出す。

BrahmsPiano Sonata No.3を弾いた時が一番凍り付いていたのではないかと思う。中2の話である

Scriabin Op.2-2は、何処に行っても本当によくひいた。これが中3の話である

Scriabin Piano Sonata No.5を高2の時に弾いた思い出がある。

Chopin Scherzo No.4はおそらく中1の時だ。

シューラ・チェルカスキーがStockhausen Klavierstück IXをやったので、中3の時真似していた。一番濃厚に思い出す。

意味も分からずに現代音楽を覚えるという経験は、無駄になっていないと思う。

ポップスも、プリンセスプリンセスのMをやってくれと言われて、一回やったことがあった。あの時代ピアノイントロがああやって入ってくるのは貴重な作品で、令和のポップカルチャーの中のピアノとは和声イディオムが違う。

私の親がクラシック偏重否定的だったので、クラシックではない「軽音楽」を大量に購入しており、その中にリチャードクレイダーマンのLPがあった。

なんと!全曲楽譜がついていたのである。とにかく、全部練習した思い出がある。でも、人前でギャラを取って弾いたことはない。

小学生から中学生にかけて、都内の人には共感を得られないような、雑多な覚え方で習得していた。

田舎ではホロヴィッツカルメン変奏曲のコピーは出回っておらず、これは弾けるようにならなかった。すでに地方都市首都圏ではコピーが出回っていたのである

2021-01-02

ギリシア神話ポップカルチャー最頻出ってなんだろ?

神名とか怪物とかの固有名詞で。さすがにロゴスで、なんたらロジーとかポリスで、なんたらポリスとか一般名詞複合語はなしで。英語読みとかはアリアリで。

神話のものじゃなくて、名前の由来とかでもOKで。

ゼウスとか神の名前はそれなりにあるだろうけど、やっぱりミノタウロスケルベロスメデューサグリフォンあたりは特にギリシア風でなくてもRPGの敵とかで結構でてくるよね?ペガソスはちょっと微妙かな?

神の名前より英雄たちの方がでてくるかも。オデッセウスユリシーズラテン語経由でスペルもかなり変わってるのでセーフかアウトか難しい。ヘラクレスハーキュリーズやヘルキュールあたりはありかな?

うーん、ティタンタイタンもしくはチタンを含めればそれなりの数がありそう。

ナルシズムはナルシシズムからし複合語なのでなしかな。

まあ、ぶっちゃけアイギス特にその英語読みのイージスが一番かな?

2020-12-21

anond:20201221211325

浮世絵だって茶碗の包み紙程度の扱いだったんだし、ポップカルチャーかくあるべしだと思うけどね

2020-12-19

anond:20201219154204

アジアに興味がない。ましてや衰退確実でスタイルの悪い日本人などは世界中多数派だとは思うが

上記理由から名前くらいは知ってるだろ

 

日本人におけるブエノスアイレスくらいの感覚じゃないの

名前は知ってる、ピアソラねみたいな

知的水準劣化すれば社会は分断されないか無問題漫画のような話だが本当の話である

最近は、textを扱うどこのサーヴィスでも「お金があればこれができた」と「お金があればここに行けた」のオンパレードである日本も本格的にこの文句が踊るようになってきた。大学入試に関する限り、あと30年ほどはこの文句はどうやっても消えることはないだろう。

明治維新によって、日本にもヴァイオリンピアノ演奏会が始まりつつあった時も、聴衆のほとんどはこのように感じていたのだといわれている。しかし、当時の日本人は、西洋との格差を感じつつも、西洋文化をかつての中国のように否定はしなかった。明治を抜けて、大正昭和時代になってさえも、首都圏に限ってはゴドフスキープロコフィエフ来日した。アンリ・ジル=マルシェックスも来日し、ストラヴィンスキー日本初演して帰っていったことは梶井基次郎の「器楽幻覚」でわかる。海外との絶望的な生活水準格差を感じつつも、「格差を感じるのでこの作曲家は嫌だ」ということを日本人は言わなかった。追いつけ追い越せなので文句は言えなかった。「名人芸披露したところでは客が拍手をした」としっかり、プロコフィエフ日記に書いており、日記に何でも付けた彼のことだからまるっきり嘘ではないだろう。

令和はどうだろう。

田舎地方ですらもピアノ電子オルガンによる教育が浸透し、ポップカルチャーの中のピアノニコ動ですらもキーワードになり、挙句の果てにはどこの大学にもピアノクラブがある。ジナステラピアノソナタ第1番は東大生によって日本初演され、リゲティ練習曲集第2巻は元京大生の手によって日本初演された。昭和田舎サルゴリラ動物園で騒いでいた時よりも、平成から令和期にかけての状況は良いではないかという主張をする者さえいる。しかし、今の東京藝大ですらもレベッカサンダースやオクサナ・オメルチュクを招聘できるほどの体力はコロナ禍で残されていないだろう。

アカデミアの中核が、「格差を感じるのでこの作曲家は嫌だ」と言い出しているのである

はっきりと、「お金があればこれができた」と「お金があればここに行けた」が飛び交うのは名古屋だといわれている。何の同人イベントを行っても成功しない名古屋名古屋人は受験勉強には強くても、ほかがさっぱり、というのが平成常識であったが、令和になったら変わるのだろうか?愛知平成期にオーケストラを4つも持っていたが、戸島美喜夫にオーケストラ曲を委嘱することはほとんどなかった。単に、個人怨嗟で終息するのなら問題がないのだが、同調圧力とでもいうのだろうか、市民のまとまった声になるのだといわれている。

かつてストラヴィンスキーメシアンブーレーズCIA支援していた(グリフィスのModern Music And Afterを参照のこと)昭和期の日本では、海外からようこそいらっしゃいましたという敬意で満たされていた、と、されていた。事実は実は違っていた。招聘して喜んでいたのは首都圏身の回りだけで、田舎地方はそのような情報すら一切入手できなかった。田舎では、ピアノを床に置くスペースで演奏会を行う風習すらない。つまりベートーヴェンの「熱情」すら生で聞く演奏会がない。地方ではラヴェルスペイン詩曲すら聞けない。これが1980年代日本であった。

2020年代日本は、主に田舎地方居住者によって、格差証言されることが増えた。まだまだクラシック音楽現代音楽を専攻する人間に向かって「金の無駄遣いだ」と言葉暴力を用いる偏見は残っているが、奨学金で600万円も借金する学習障碍者が増えたおかげで、音楽アカデミアに集う人間への攻撃は減った。もう、音楽アカデミアで勉強する人間よりも、ほかの人間のほうが金を使うことは珍しくなくなった。中学勉強で躓くと、地方ならあっという間に私大文系コースだろう。そちらのほうの教育が高額になってしまうのである

こうして、底辺教育費で底上げされ、アカデミアへの偏見は全体としてへっているというのに、アカデミア自らが「格差を感じる」ので大物の招聘が少なくなっているのである。かつてはジャンカルロ・カルディーニだろうが、ヘルベルト・ヘンクだろうが、ティニー・ヴィルツだろうが昭和日本では交流会と称して招聘ができたのである。ところが、1990年代からなぜか変わってきた。「インフルエンザ休みます」というファックスを送付したのはハンス=ユルゲン・フォン・ボーゼであった。各種イベントに「非来日」という書き添えが加えられることが多くなったのである日本経済難を指摘する音楽評論家は多いが、ただ単に個人招聘することくらい地方自治体でもできる。地方自治体が、「もう知的進化することを放棄」したのが目立って増えたのが1990年代であった。

知的格差自己責任になってしまったのである1980年代昭和時代まではこうではなかった。知的格差を埋める人材山本直純芥川也寸志のようにいた。田舎地方教育は相変わらず公立に丸投げで、大卒組と非大卒組でしっかりと会話が分かれていた。「お金があればこれができた」という声があっても一瞬で黙殺できた。女性はまだ一方的男性に殴られ、中傷されていた。殴られた現場を見ているので間違いがないのである東京黙殺すれば、それが常識にすらなったといえば言いすぎであろうか?

東京地盤沈下は進んでいた。杉浦の解析入門を一行も理解できない東大生が増えたのは1990年代であったと聞いている。このことは、当時東から遠く離れた私の耳にまで風のうわさで入ってきたので、結構有名なことだったのだろうか。1990年代東京はもうどうしてよいか、さっぱりわからなかったのではないか知的格差を埋めるために行った政策も、ほとんど功を奏さなかった。作曲コンクールもかつては30分も自由に書けて3管編成で30段以上で攻めることができたのに、少しづ演奏時間オーケストラの規模の縮小が始まっていた。「お金がないので、この編成で我慢しといてね」とアカデミア自らが言う羽目にまでなった。

そのうち、NHK電子音楽スタジオというものがなくなった。ドイツアカデミー・シュロースソリチュードマスタークラスがつぶれた。今、知的格差を埋める国家プロジェクトといえばIrcamのCursus1か2ではないだろうか。「あとは自分でやっといてください」と教育者が放言するのである。これも、誰かが言った現場を目撃した。ネット時代なら、この男は失職したのかもしれない。

私はそのような教育者の怠慢があっても、なんともなく一冊づつフルスコア図書館文字通り「積んで」勉強したのでノーダメージなのだが、私のような人間がほかにいるのだろうか?他の人間憎悪と怒りで満たされ、やる気をなくすのではないか教育者が、これに気が付いたのはここ数年であろう。性差という観点から考慮すると、女性への人権向上が始まったと同時に、日本国内ではアカデミアの怠慢が始まっている。これは女性の手によってアカデミアのレヴェルが下げられたのではない。なんと、女性気持ち悪がられるのを男性が恐れ、知の最先端放棄しているのが東京なのである

最先端ピアニスト作曲家って誰なんだろう。そういう会話はもう日本では行うことは不可能である。できるのはドイツオランダくらいかアカデミアの中核にいる男性を、赤の他人女性が難なく受け入れるということはきわめて難しい。首都圏人同士だと、女性から難なく受け入れたケースがあるのは知っているが、これが首都圏地方人だとそうではないことがほとんどのはずである首都圏の人にとって、首都圏以外の人間アカデミアに乗り込んでくるのは、本音では嫌だろう。それと同じことが男女関係にも及ぶ。アカデミアに触れた男性赤の他人女性が受け入れるということなどあるのだろうか、という問題は、今後切実になってくると思われる。これは男女を逆にしても成立する。田舎地方では「アカデミアに触れた男性は、一般女性と会話が合わないので気持ち悪い」「アカデミアに触れた女性は、一般男性と会話が合わないので気持ち悪い」というのが真相ではないのか?

そんなことはないという日本人は多いだろう。しかし、少子化と出生数が裏付けている。後進諸国ではアカデミアと大衆が切り離されているので、日本韓国のようなタイプの急激な人口減などという問題には遭遇していない。しかし、日本を含む多くのヨーロッパの国々は「お金があればこれができた」と「お金があればここに行けた」が盛大に飛び交って少子化しているのであるフォーミュラ1アレクサンダー・アルボンは、莫大な資金援助で一年半だけレッドブルに乗ることができた。リオ・ハリヤントですらマノー半年乗れた。「お金があるのでこいつはドライブできる」という声はタイ人インドネシア人からは聞かれない。タイは確かに少子化したが、まだまだアカデミアと大衆は交わらない。交わらない国家から刺激的な作曲家が次々と出てくるのは、性の限界を示している。交わった国家けが衰退しているのである

2020-12-14

anond:20201214060940

なんかいっぱいブックマークがつくのは予想外なので、返信をしてみようと思います

>>日本一億総貧困時代突入たからこれからピアノなんて誰も弾かなくなる。スラムピアノなんて無いのだ。それが日本人の選んだ未来。>>

その割にはポップカルチャーに多くピアノの音が出現したような気がしますね。かつては全くと言っていいほどありませんでした。

>>難しいピアノが弾けてなんぼって本当芸術家は頭悪いな。人間に弾けない楽譜だって機械はいくらでも演奏できる。では機械にできず人間にできることは?と考えるのが道理だろう。>>

難しい曲が弾けなくてもいいじゃないか、こうしていったんフランスピアノ業界は25年以上にわたる低迷期が訪れましたが、近年はなんだか復活したみたい。

>>エリザベート国際音楽コンのノルマが減ったのは過密日程で第一次予選から音源配信があるからでしょ。>>

ノルマが減りだしたのは河村尚子さんが入選した時からかな。

>>自分表現したいもの技術がなくてできなかったり、技術がついたか発見できた表現もある>>

その通りですよ。

>>これは凋落ではなく揺り戻しだと思う。>>

ノルマを減らすコンクールの出現とともに、増やすコンクールも出たんですが、それはまたのちのエントリで。

>>ピアノの良し悪しはピアノかじらんとビタイチわからん>>

今はスマホで楽に聞けますので、理解する人は増えそうですよ。

>>ゆとり教育ガー>>

ヨーロッパ版。

>>ピアノアカデミアってのが何を指すのかわからないけれど、難しい曲を弾くことなの?>>

妥当な難曲ですね。今でもピアノアカデミアって、易しい曲も難しい曲も、両極端は流行らないんですよ。

>>アカデミアの空洞化が知らん人間としては直感にわかりにくい>>

これからまた別のエントリで。

>>学校音楽を学ぶこともコンクール評価軸とする事も必要が無いピアニストもいるのです>>

最近コンクールをやらない「コネ」系ってのは、賞味期限が短くなったような気がします。聴衆が進歩したので。

>>ピアノ演奏技術はそうならなかったの?>>

1990年代限界でしょうね。

>>好きな曲は「Circus Galop」だ。>>

この作者は1990年代地獄の直前の世代ですね。

>>迷ってたけど読んだらなんかめんどくさくなった…>>

理系数学より簡単ですよ。

>>ハッタリもここまで読ませれば芸術の域>>

事実を申したまで。

2020-12-13

コロッケそばっていつの間にかポップカルチャーになってきたよね

地域柄もあるが、僕が小学生の頃コロッケそばを習っている男子クラスに1人いるかいないかくらいだった。当時「男のくせにコロッケそばかよ」「コロッケそばとかお坊ちゃんかよ」みたいな、今風にいうと”ハラスメント”を受けていた記憶がある。

だがコロッケそばという楽器を取り巻く世の中は大きく変わってきた。状況を整理したくなったので書き留める。

流行バンドにおけるコロッケそば

中高の頃バンド活動に興味を持った時にはじめに手に取った楽器ギターだった。僕は小さい頃からコロッケそばをやっていたが、バンドで鍵盤を弾くという選択肢は頭に浮かばなかった。バンドといえばボーカルギターベースドラムという編成が主流だと思っていたからだ。当時の僕の周りではバンドでやる曲といえばアジカンバンプエルレなどが主流だったし、もっとから人気があったミスチルラルクなんかもキーボード正規メンバーはいない。

しかし数年後にはバンドキーボードがいるのが当たり前という感覚になっていた。東京事変などのバンドボカロ曲アニソン演奏する人が増えて、大学サークルではキーボーディストが引っ張りだこになっていた。「けいおん!」の影響もあるのかもしれない。さらゲス極、セカオワヒゲダンなどコロッケそばが目立つバンドは増えていった。

コロッケそばYouTuberの台頭

YouTubeニコニコ動画コロッケそばを弾いている人は10数年前からいたが、そういう動画を見るのはネットに入り浸った一部のオタクという感じだった。だがここ数年で状況は大きく変わってきている。

スマホを全世代ほとんどの人が持つことにより、ネット動画を見るのは一部のオタク趣味ではなくなった。YouTube音楽聴くのはどの世代でも当たり前のこととなっている。そして、今までテレビだけ見ていたような人たちでも自然に楽しめるような「顔出しアングル」、「観客の反応」、「解説テロップ」、「ドッキリ」等の要素を持つストリートコロッケそば動画2019年流行った。

2020年には外出自粛の影響もあり、それまでコンサートをメインでやっていた演奏家もYouTubeチャンネルを持つことが当たり前になった。メジャーアーティストも「無観客ライブ」を行うことが増えて、ネット配信を見ることがどんどん一般的になってきている。

芸術からポップカルチャー

僕が小さい頃コロッケそば教育ママ女の子に習わせるお稽古で、コロッケそばコンサートは一部の金持ちが見る高尚なもので、流行りの音楽に含まれコロッケそば縁の下の力持ちポジションだった。コロッケそばを弾くといえばほとんどクラシックジャズの二択しかなかったように思う。

それが今や、コロッケそばを弾きたがる男の子も(実感としては)増え、アニソンポップスコロッケそばを弾くYouTuber一般大衆が聴き、バンドMVでは派手にコロッケそばを弾くカット流れる世の中になっている。クラシックでもジャズでもないポピュラー音楽耳コピしてアレンジしながら弾く人も増え、彼らは発表会やコンサートという閉じた空間ではなく誰でも気軽にアクセスできるYouTubeストリートコロッケそばで、プロアマチュアジャンルという垣根もなく演奏を楽しんでいる。

質の低い演奏蔓延しているとか、正統派プロよりYouTuberが持て囃されるのはどうなのかとかネガティブな考え方もあるけど、個人的にはコロッケそばをより多くの人が多様な形で楽しめるようになっていくのは嬉しい。

僕の狭い視野で感じたことなので「昔からサザンとかX JAPANかいたじゃん」等の反論もあるかもしれないが、なんとなく思っていたことを整理できてスッキリした。今後はどうなっていくのだろうか。コロッケそば演奏者にとっては、披露する機会も多いがライバルも多いという状況になっていきそう。

https://anond.hatelabo.jp/20201211180649

2020-12-12

ピアノっていつの間にかポップカルチャーになってきたが、アカデミアの中のピアノは日に日に薄くなる一方だ。

ピアノっていつの間にかポップカルチャーに…」というエントリもあるので実体から書いてみようと思う。

1990年、まだバブル崩壊の恐怖を味わってなかったころ、日本ピアノブームは少々は残存していた。かつて労働者層が輸入楽譜を購買することはなかったのだが、1990年の段階では普通に買うようになっていた。園田高弘さんのような堅物も残っており、横山幸雄さんがショパン国際ピアノコンクールで第3位を得たと同時に、日本田舎地方は一斉にピアノ熱が高まったといっても過言ではないだろう。

その1990年代、今の韓国中国がやっていたことと、全く同じことを日本がやっていた。マイナー国際やローカル国際は、あっという間に日本勢が技術力で占拠してしまうので、コンクールになりえないとまで言われた。ただ、現代音楽ピアノ演奏ハードルが高すぎたのか、ブライアン・ファーニホウさんのLemma-Icon-Epigramの日本初演は1992年と遅れた。しかし、近代音楽シマノフスキさんからバチェヴィツさん、バルトークさん、バーバーさん、メシアンさん、果てはパンチョ・ヴラディゲロフさんに至るまでほぼ全部を掌握しつつあった。とにかく技術力があって調性音楽なら、もう日本人に弾けない曲はなかった。こんなことを言うと、「サムイル・フェイベルクは弾けなかったじゃないか」といわれそうだが、あれは楽譜が手に入らなかっただけである。もしも手に入っていたら、あっというまに全クリしていたに違いない。

2000年代に入ると、韓国勢の時代になったが、まだ日本勢は団塊ジュニア馬鹿力で踏みとどまっていた。しかし、「もうこれ以上課題曲を難しくすると、出来レース八百長もできない」といわれていた。事実課題曲難易度を極度に上げたおかげで、予想外の脱落者の数は増え続けていた。そのために、なんと、アジア人以外の審査員は「もう少し余裕をもって演奏させるのがよいじゃないか」と言い始めたのである。もちろん、アリエ・ヴァルディ教授などの強面おじいさんがこんなことを言うはずがない。白人の某審査員が、白人ピアニストミスの多さに堪りかねて、つい、言ってしまったのである

2010年代から、「もっとかに音楽的に弾いてほしい」という声に負けて、どんどん課題曲は易しくなった。かつてヴィオティ国際音楽コンクールピアノ部門課題曲は中レヴェルであった。ところが2019年はどうだろう?イタリアで最も困難な国際メジャーになってしまったのであるブゾーニ国際だろうが、あきれるほどにスカスカで、これでは1990年代に受験させられた人がかわいそうである。これは、古典ソナタベートーヴェンじゃなくてもいいよ、などという救済措置に原因があるのではないかと思われる。

かつてのエリザベート国際音楽コンクールピアノ部門は、それなりにハードノルマで知られていたが、今や第1次予選は25分以内、第2次予選は35分以内プラスモーツァルトさんの協奏曲で、もうこれでファイナル進出である。これはいくらなんでも少なすぎではないだろうか。どうしてこうなってしまったのだろうか。それはピアノアカデミアは体育会系本質的には全く一緒で、ルール時代によって変わるのだ。でも、ルール時代によって易しくなりましたなんてことは数学では聞いたことがない。明らかにピアノアカデミアは空洞化が始まった。

東大1990年が頂点なら、東京藝大も1990年が頂点ではなかったかと考えることが多くなった。ブゾーニ国際ピアノコンクールの予備切りでも国内ではスターなのだから、誰も何も言わなくなってしまっている。中国だと国策テコ入れしてくれるのだろうが、日本にそんな国策はない。したがって、堕ちる一方である日本にはどうやら堕ちてもいいという思想存在するようだが、ピアノ演奏でこれをやってはいけない。なぜなら、堕ちた人が教鞭をとってしまうからである

そう思うと、私を含めた海外の精鋭たちは、それなりに保守的伝統的な修練を無理やりやらされて、結果を出した人物ということになるのだろう。おかげで、どこの国に行っても、誰とでも私は話が合う。どうやら、非常識であろうが同じノルマに耐えると、人間は分かち合えるようである。私は、「あの国人間と組んで思い切りむかついた」という経験がない。ヨゼフ・レヴィーン教授のように「岩の上で戦う」というのも2020年代通用する正論なのだ

ところが、2030年代以降のピアノアカデミアは、課題曲を難化させる傾向をほぼなくしているはずである。すかすかになったノルマとすかすかのアカデミアから、いったいどのようなピアニズムが生まれるのかは不明だが、私がクリアした楽曲が再クリアされることはないみたいである。ちなみに、私がクリアした曲のある一部分は、常人には難しいのか、少なくとも12年以上再演されていない。

2020-12-11

ピアノっていつの間にかポップカルチャーになってきたよね

地域柄もあるが、僕が小学生の頃ピアノを習っている男子クラスに1人いるかいないかくらいだった。当時「男のくせにピアノかよ」「ピアノとかお坊ちゃんかよ」みたいな、今風にいうと”ハラスメント”を受けていた記憶がある。

だがピアノという楽器を取り巻く世の中は大きく変わってきた。状況を整理したくなったので書き留める。

流行バンドにおけるピアノ

中高の頃バンド活動に興味を持った時にはじめに手に取った楽器ギターだった。僕は小さい頃からピアノをやっていたが、バンドで鍵盤を弾くという選択肢は頭に浮かばなかった。バンドといえばボーカルギターベースドラムという編成が主流だと思っていたからだ。当時の僕の周りではバンドでやる曲といえばアジカンバンプエルレなどが主流だったし、もっとから人気があったミスチルラルクなんかもキーボード正規メンバーはいない。

しかし数年後にはバンドキーボードがいるのが当たり前という感覚になっていた。東京事変などのバンドボカロ曲アニソン演奏する人が増えて、大学サークルではキーボーディストが引っ張りだこになっていた。「けいおん!」の影響もあるのかもしれない。さらゲス極、セカオワヒゲダンなどピアノが目立つバンドは増えていった。

ピアノYouTuberの台頭

YouTubeニコニコ動画ピアノを弾いている人は10数年前からいたが、そういう動画を見るのはネットに入り浸った一部のオタクという感じだった。だがここ数年で状況は大きく変わってきている。

スマホを全世代ほとんどの人が持つことにより、ネット動画を見るのは一部のオタク趣味ではなくなった。YouTube音楽聴くのはどの世代でも当たり前のこととなっている。そして、今までテレビだけ見ていたような人たちでも自然に楽しめるような「顔出しアングル」、「観客の反応」、「解説テロップ」、「ドッキリ」等の要素を持つストリートピアノ動画2019年流行った。

2020年には外出自粛の影響もあり、それまでコンサートをメインでやっていた演奏家もYouTubeチャンネルを持つことが当たり前になった。メジャーアーティストも「無観客ライブ」を行うことが増えて、ネット配信を見ることがどんどん一般的になってきている。

芸術からポップカルチャー

僕が小さい頃ピアノ教育ママ女の子に習わせるお稽古で、ピアノコンサートは一部の金持ちが見る高尚なもので、流行りの音楽に含まれピアノ縁の下の力持ちポジションだった。ピアノを弾くといえばほとんどクラシックジャズの二択しかなかったように思う。

それが今や、ピアノを弾きたがる男の子も(実感としては)増え、アニソンポップスピアノを弾くYouTuber一般大衆が聴き、バンドMVでは派手にピアノを弾くカット流れる世の中になっている。クラシックでもジャズでもないポピュラー音楽耳コピしてアレンジしながら弾く人も増え、彼らは発表会やコンサートという閉じた空間ではなく誰でも気軽にアクセスできるYouTubeストリートピアノで、プロアマチュアジャンルという垣根もなく演奏を楽しんでいる。

質の低い演奏蔓延しているとか、正統派プロよりYouTuberが持て囃されるのはどうなのかとかネガティブな考え方もあるけど、個人的にはピアノをより多くの人が多様な形で楽しめるようになっていくのは嬉しい。

僕の狭い視野で感じたことなので「昔からサザンとかX JAPANかいたじゃん」等の反論もあるかもしれないが、なんとなく思っていたことを整理できてスッキリした。今後はどうなっていくのだろうか。ピアノ演奏者にとっては、披露する機会も多いがライバルも多いという状況になっていきそう。

2020-12-10

2021年コミケと、2025年コミケと、2030年コミケ

来年5月以降リアルコミケが開催される前提の話

2021年コミケ

V関連の列の長さが猛烈に伸びる

Vデビューした作家やVの親をやっている作家の列が開始前と比べて数倍に跳ね上がる

コミケが「Vの中の人リアルで会える場」という認識をされるようになる。

2025年コミケ

殆どクリエイターが何等かの形でインターネット上で当人キャラクター自体を売るようになり、

コミケ会場はアイドル握手会総合会場と化す。ここに来て、オタク向けに「アイドル本人と出会える+アイドル本人が作ったグッズが買える」という商法を取るのがとても金回りの良い商売だという事が世の中に認知され出し、既存アイドル経営事務所が参入を計画し出す。

2030年コミケ

ジャニーズ秋元康組、吉本等、マスメディア上で人気商売をする人間コミケで売り出すようになり、

コミケは「ジャパニーズポップカルチャー有名人リアルで会える総合会場+おまけでグッズを買う場所」になる。

2020-11-11

anond:20201028224200

病気の人じゃん

 一時期、ブームになった「自分探しの旅」や「ていねいな暮らし」も、羨望まじりの激しい揶揄バッシングを受けたが、どちらも女性のためのセルフケア方法論だったからというのがあんなに叩かれた理由かもしれない。

 よって、女性セルフケアは、反体制的であり、フェミニズムである

 占星術フェミニズムである

 女性男性追随して金星欲望蔑視しており、その発露の究極が韓国起源の「脱コルセット運動である女性たちが、家父長制に反抗するために化粧もおしゃれもやめて男性と同じ装いをする。男性と同じじゃないかといわれると、これは男性の装いでなく、装飾を抜いた、人間として標準の装いだと彼女らはうそぶく。男=人間の標準と定義している。

 先に書いたように金星生存関係ないむだやぜいたくをも象徴する。芸術文化に関しても、ある程度人間の心に余裕がないと、つまりむだなものを許容する余裕がないと生まれないし、発展しない。もう数十年もの間、経済地盤沈下しつづけて、貧困国に転落した日本では、その心の余裕もない。国が豊かになり時代が安定すると、無力なものや弱いものかわいいものそのままで肯定し愛するポップカルチャー(=女性文化)がさかんになるという説がある。日本はその逆をいっていて、すべてが男性的になっていると感じる。女性や、フェミニストの間ですら、おしゃれや外見にこだわることを恥でダサいとする風潮が広まっている。男ウケファッションはダメ、愛されコーデはダメ。抑圧された女性たちが自己表現のかわりに女体消費のストリップを見に行って、金星を託している。強引なイケメン少女が押し倒される少女漫画規制される。いまどきは、BL漫画の中ですら、受けキャラレイプで感じるのは倫理的によくないと論じられる。だれもが金星を殺されている。

 殺された金星はどこに行くのか。

金星はどこへ行くのか/フェミニズム占星術序論 - 宇宙の産み落とした私生児

https://astrotoyokawa.hatenablog.com/entry/2020/09/27/180713

2020-10-29

anond:20201029131859

でもまあ香港の元のイラスト日本漫画に慣れた人から見れば80年代美少女イラストであり「性的欲望の発散のまなざし」の視点は失われて「懐かしさを与えるポップカルチャー」の視点で用いられてるんだよな。シティ・ポップアジア流行ってるから広告にそれっぽいイラスト取り入れたって感じ

2020-10-17

宗教家による物語の独占が気に食わない

数日前、『終末のワルキューレ伝説伝承に出てくる神と人間タイマンする漫画)』に対して、ヒンドゥー教聖職者シヴァ神を軽視しているとクレームをつけたというネットニュースを見た。

ジャパニーズポップカルチャーでは宗教上の神話登場人物(登場神物?)をキャラクター化するのは当たり前と化していて、その宗教に属する人々から批判を受けるということは今までもたびたびあった。

ただこうした批判自体宗教価値観特有傲慢さに基づくものに感じて、俺は昔から気に入らないと思っていた。

まず第一に思うことが、どれだけその宗教の人々が心から信じようと神話あくまでただの一”物語”に過ぎないということだ。

著作権国際的統一法はないが、何百年、何千年も前の物語著作権保護の期間の範囲内だと主張する人は流石にいないだろう。

であるならば、神話だって著作権の切れた他の創作物と同じように後世の人が自由に使って良いだろうと思うのだ。

そして第二に思うのは、現代宗教家は著作者本人でもなければ、委託を受けた権利管理団体でもなんでもないだろうということだ。

宗教なんて大抵どこも宗派で分裂したり争ったりしていて、神話創作された当初と同じ組織体系を維持しているところはほとんど存在しないだろう。

現代宗教家なんてキリスト教だろうが、ヒンドゥー教だろうが、イスラム教だろうが、どこも勝手に正当後継を名乗っているだけで、神話創作された頃の人々が自分たちの後継と認めるかどうかも分からない、その程度の集まりに過ぎないのだ。

そういう意味では彼らも日本漫画家と同じで、許可も取らずに勝手神話使用している”利用者”に過ぎないわけだ。

日本漫画家はキャラクター原案に神話を使い、宗教家は自分信仰に、あるいは統治神話を利用している。そこにあるのは使い方の違いだけだ。

物語というのは、過去物語が人々に読まれ、そこから発想や知啓を得た人々が新たな物語が作り、そうして連綿と生み出され続けるものだと思う。

かつて神話を語った人もきっと、それまでに聞いた物語を参考にしつつ、自分なりのオリジナリティを加えて神話を綴ったのだろう。

であればいい加減、宗教家は神話を独占して自分たちだけに使用権があるかのように主張するのではなく、次世代物語のために神話を開放するべきでないか


ちなみに一応、言っておくが、俺のこの主張は別に、例えば『終末のワルキューレ』のような神や偉人キャラクター化する創作物擁護するものではない。

個人としては「別に良くね?」と思うが、それはなんとなく世間で許されてまかり通っているだけで、論理的正当性を主張することは難しいと思う。

一次創作である神話に対するリスペクトが足りないという批判は当然あるだろうと思うし、だから宗教家の人たちが解釈違いとして文句を言うのならそれは一つの意見だと思う。

ただ逆に言えば、それは一つ意見だとしか思わない。

宗教家が、自分たちけが神話という物語の神を”使う”権利があると思って批判をしてくるのならば、それは大きな驕りだと断じたい。

2020-09-10

カーネマン時代には早い思考に流されず遅い思考を持つことがよいことのように思われていた

しかし実際はどうだ?ポップカルチャーは常に早い思考要求するように作られているし、

インターネットを通じてあらゆるものが早い思考を通じ伝達され共有される世の中になった

高度で知的ものがより優れているというのでなければ、やる気など起こさずに堕落していた方がいい

多数決で決められたことの全てが正しいと誰が証明できる?結果が全てだ

もう終わったんだ、あとは敗戦処理をするだけだ

2020-08-12

うたた寝してる男の子の首を噛みたい

うたた寝してる男の子の首を噛みたい。

何するんだよってうっとおしがられながらも

自らに向けられる愛情困惑する顔を見たい。

叶わぬ夢。

中学生の頃、じゃれ合っている同級生男子を遠巻きに見ていた。自分はそういうものに何も興味はないと思っていた。私はもっと高邁で、奇抜で、愉快で、進歩的なことを考える人間だと思っていた。

高校生のころになると私は(主観的認識としては)原因不明寂寥感に苛まれていた。このままではまずいと思った私は、世間に対する警戒を緩め、私の世界ポップカルチャーやら何やらが流入してくるのを受け入れた。そのころ、私はようやく、抽象観念的な理想は、自分が具体的他人とどう付き合っていきたいかということとあまり関係がないことに段々と気がついていった。

そして、私が友情という観念に仮託していた自分感情は、大人の友人関係では叶えられないものであることを知った。むしろ、私が欲しているのは、愛、しかも痴なる愛であることを悟った。

私を慕う部活の後輩がいた。そして、彼の声には甘えるような響きがあり、回りくどい冗談には愛着が示されていた。時がたつにつれ、彼の声に私は痺れるようになった。私のそんな気持ちは伝えてしまたかったが、うまくいかなかった。そうならないように、彼が会話の雰囲気操作しているような気がした。私の胸は焦がれた。

私は自分目的を達するためにもっとも良いと思った遠方の大学入学した。私には野望があまりに多かった。一方で、私の心は干からびているようだった。自己肯定感あふれる鬱病患者のような奇妙な状態に陥った。私の自己実現欲求は空転し、私は留年した。

大学生になっても、課外講義をとると、キラキラした笑顔で川の水をかけあっている一年生の男子がいた。とても眩しく見えた。留年生の私だが、そんな彼にも普通にしかけることができたし、彼は自然に仲間のように接してくれた。でも、私は関わろうとするのを辞めた。「友情」に素直に満ち足りる彼らは、最初から別世界存在のように思えたからだ。私が人間で、彼らが天使であるかのような。

そういうことがあったせいからか、親密な感情を全く想起させないが、冗談や興味深い話はするというような「好ましい」人間関係が、これまで以上に、勝手に構築されるようになっていった。相手は居心地が良さそうにしていた。私もまあ居心地は良かった。でも、それを破壊したくて仕方がなかった。私は飢えのために闘わなければならなかった。不道徳で、実りの無い戦いを。

今、私はそれから何年も経って、いろいろなできごとを起こしていったし、巻き込まれていった。しかし、未だにこんな文章を書いているほどに、何も進歩がない。

2020-07-12

性的マジョリティBLを愛してはいけないか

先日、Twitterでこんな記事を読んだ。

https://i-d.vice.com/jp/article/8xeg4b/does-it-matter-who-writes-queer-stories

欧米におけるヤングアダルト小説(こちらでいうライトノベルのような枠組みだろうか?)で、LGBTQを取り扱った作品が隆盛していることについての話だ。

そういうポップカルチャー多様性が描かれるのって、良いことじゃない?

多くの腐女子はそう思うのではないだろうか。

しか問題はこのように続く。

売れたLGBTQ小説は、ストレート女性によって書かれたものが多いそうだ。

そのことについて「また女性作家ゲイ少年モノという流行に乗っかって利益を得ようとしている。本物のゲイ作家もいるのに、その人たちは取り沙汰されない」という批判が起こっているという。

いつも描かれるのは「シスジェンダー性的マジョリティが同じマジョリティの読者に向けて描いたセクシャルマイノリティ」。

これが問題だという。

ようは同性愛描写が単なるコンテンツとしてマジョリティに消費されているということを言いたたいのだろう。

これを読んで思ったのは、これって日本でも議論できることだなぁということ。

日本腐女子って自分のことを「マイノリティ」かのように認識してる人が多い気がする。

自分BL好きという"特殊性癖"を持っていると自己認識して、たまにBLを嫌う人をミソジニストと呼んで戦ってたりする。

でもだいたいの場合自分自身はストレートなのだ

腐女子の描くBLは「性的マジョリティマジョリティに向けて描いたセクシャルマイノリティ」というものが大半だと思う。

私は腐女子で、普段二次創作中心のBLを取り扱っている。

私は二次創作BL作品は極力隠れたほうがいいと思っていて、その理由上記の一点に尽きる。

BL作品好きを腐女子と呼ぶのはゲイの人に対する差別からshipperを自称する」という運動が一時期起こっていたが、私にはそれもできない。

私自身はたぶんストレートだし、専門的にその方面勉強もしてないし、マイノリティの人たちに関する活動をなにかしてるわけでもない。

おそらくヘテロであろう作者がヘテロとして描いたのであろうキャラクターを、その解釈範疇から大きく逸脱しない範囲内でセクシャルマイノリティに改変して創作してる(例えば普段ヘテロだけど相手にだけはゲイということにしたり)。

この創作ゲイの人への理解を促進するとか心を救うとも思わない。

同じ腐女子に向けた作品しか描いてないから。

ゲイに向けたものではない作品群を肯定することが、ゲイ肯定することとはイコールで結ばれない。

‪話はそれるが、でもBLが好きという自分趣味肯定したい、だから腐女子という貶めた呼び方ではなくshipperと呼びたいという気持ちなのであればそれは共感できる…

自分たちのために自分たちを肯定するのはとても良い事だし、そこにゲイ人達への配慮みたいなものを挟むのは筋が違うと思う。‬

多様化が描かれる中で、私たちは「性的マジョリティ」だ。

その私たちBLを愛していくにはどういう姿勢で向き合っていけばいいのだろう。

2020-06-09

anond:20200609103412

もう、ポップカルチャーだね。

ポップに気楽にやればいいのにと想う。

2020-04-30

1年前にタイムリープしたとして

一般人にできることって何があるかな

うまいことネットとかを使って未来人としての地位確立し、新型コロナ言及するだけでも随分変わってきそう

でも今なんの準備もなく放り出されたらけっこう何もできない気がするんだよな

覚えてる災害系のニュース全然ない 一番未来人ぽさがある地震最近かいのがなかったような気がする 

政治芸能ニュースも覚えてねえ Brexitなんかデカいけど別にここ一年でなんかが決まったって感じではないし 

逆に流行ミームとかポップカルチャー系を予言しとけばいいのか?でも漫画ネタバレとかやるのは害悪だし、なんつうか出方が難しい

武漢に出かけて市場コウモリ食うな!って叫びまくるヤバい日本人になったらバタフライ効果でなんとかなったりするのかな 報われなさすぎる

諦めてマスク買い溜めしとくのがパンピーの身の振り方か

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん