はてなキーワード: ポップカルチャーとは
大爆死ですわ。
「リトル・マーメイド」リメイク版が厳しい評価に耐えた後、IMDbが介入、映画のレビューシステムを変更
映画評論家のクリスチャン・トトは、レビューサイトが「左派に受け入れられた」映画を保護しているように見えることが多いと述べた
インターネット ムービー データベース (IMDb) は、新しい「リトル マーメイド」リメイク版を鑑賞している観客の間で疑われる「異常なアクティビティ」を補うために、「代替重み付け計算」を有効にしました。
『リトル・マーメイド』は、1980 年代後半から 1990 年代にかけて作られた象徴的なディズニーのアニメーション映画の数多くの実写リメイクのうちの 1 つです。
この新作映画はさまざまな観点から批判されており、もともと白人だった人物の人種的再キャストから、アジア人 女優オークワフィナのラップ曲 「ザ・スカットルバット」への批判、ニューヨーク・タイムズ紙でウェスリー・モリスが子供向け映画には 欠けていた と嘆いたことまで多岐にわたる。 「キンク」。
注目すべき要因の 1 つは、複数の国や大陸にまたがる批評家がこの映画をパンニングしたことです。これは、これがすべて 1 つの集中的なキャンペーンによって引き起こされたわけではないことを示唆している可能性があります。 英国、ブラジル、カナダ、メキシコの何千人ものユーザーが 1/10 のスコアを付けています。
ニューヨーク・タイムズ紙、新作『リトル・マーメイド』に「ねじれ」がないことを嘆く記事をリッピング:「左翼が子供を性的対象にしている」
ウェブスター辞典によると、「キンク」とは「人の異常な性的嗜好」を指す場合がある
ニューヨーク・タイムズ紙 が新作実写映画『リトル・マーメイド』のレビューを掲載し、映画には「キンク」が欠けていると不満を述べたことがネット上で話題になっている。
映画評論家のウェスリー・モリスはタイムズ紙の書評で、「新作の実写『リトル・マーメイド』は、誰も映画に望んではいけないものすべてを備えている。律儀で防御的だが、承認を切望している」と書いた。
「義務と崇高な意図の匂いがする。喜び、楽しさ、謎、危険、風味、ねじれ、それらが欠けている」と彼は書いた。
特にポップカルチャーの文脈において「人の異常な性的嗜好」を意味する「キンク」への言及は、オンラインで注目を集めた。 「リトル・マーメイド」はPG指定を受けており、子供や家族向けに販売されている。
サブカルというか、最近10~20年くらいはポップカルチャーが人類史上なかったレベルで
天下取ったような状況になってるんだよなぁ…。
サブ・カルチャーにしろ、ハイ・カルチャーにせよ、一部の濃ゆ~い人たちを中心に動いていたものが
ポピュラー (pop + ular)=一般大衆に人気なものが中心になっていけば、
古参のハードコアな人たちからタメ息が聞こえてくるのは当たり前。
「スターウォーズ・オタクたちはいつまで反乱軍に感情移入するつもりなんだ?今やお前らこそ帝国だ」
ポップカルチャーが「反抗する若者」のものでなくってしまった世界でどう生きていくのか?
宮崎駿の『君たちはどう生きるか』楽しみですね
ワイ: 「めちゃめちゃ厳しい人たちが不意に見せた○○」の○○の中に単語を入れて面白い文章を作ってください
AI:「めちゃめちゃ厳しい人たちが不意に見せたカラオケスキル」
ワイ:4音で
AI:ごめんなさい、間違えました。「めちゃめちゃ厳しい人たちが不意に見せた恋愛」
ワイ:4音節で
ワイ:いいね
AI:うれしいです、気に入っていただけて!他に何か質問がありましたら、お気軽にどうぞ。
AI:あなたが指している特定の「元ネタ」は私にはわかりません。あなたの質問は、日本語のフレーズの一部を完成させる形式でしたが、それが特定のメディアやポップカルチャーから来ているとは限定されませんでした。私の知識は2021年までのもので、それ以降の情報は持っていませんので、もし最近の流行やメミーに関連しているなら、私はそれを把握していません。あなたが参照している具体的な元ネタをもう少し詳しく説明していただけますか?
AI:「微笑みの爆弾」は日本のアニメ「機動武闘伝Gガンダム」のエンディングテーマであり、その一部に「めちゃめちゃ厳しい人たちが不意に見せた微笑み」の歌詞があります。
あなたが提供してくれたコンテキストを元に、「めちゃめちゃ厳しい人たちが不意に見せた○○」というフレーズを作成するという私の理解が進みました。今回のタスクは、その歌詞を参照し、○○の部分に新たな4音節の単語を入れて面白い文章を作るというものだったのですね。
「めちゃめちゃ厳しい人たちが不意に見せたキンタマ」
欧米ではというLGBTは嘘つきです。ジョージ・ソロスの人形に過ぎない。こういう連中に被害者面されるいわれはない。
ケイリー・マケナニー:アディダスは「女性を消している」最新の企業だ
「アウトナンバード」の共同司会者ケイリー・マケナニーは、アディダスが「プライド」水着を発売するにあたり、ブランドから女性を「消去」したとしてアディダスや他の大企業を批判した。
アディダスの水着広告、「女性を消している」と反発「これはコーディネートされているように見える」
ケイリー・マセナニー:ライリー・ゲインズはあなたが女性を消していると言っていますが、それが実際に起こっていることです。女性はポップカルチャーから、社会から、コマーシャルから抹殺されつつある。しかし、私にとって驚くべきことは、それが起こっているスピードとその速度です。…バドライト、アディダス、私たちは毎日新しい会社の話題をしています。大学のスポーツ、小学校の教室、政府。そして、なぜ突然それが起こったのか知りたいです。ちょっと質問したいのですが、これを調整している中心的な非営利団体はどこかにあるのでしょうか?気候変動で見たように?ワシントン試験官、これらすべての小さな組織が 1 つの大きな組織から資金提供を受けているという爆発的な報告書はありますか? これは調和しているように見えるからです。ごめんなさい、
1980年代、我々アウシタンは巨大資本による商業汚染と戦った。
我々は虐げられた民
彼らは「法的に問題ないじゃん、そもそも正当なIP持ってるのは我々」
その通り、奴らはビジネス、コンプラ遵守、著作権を正しく取得し正統なコンテンツとして利益を得る。
我々は彼らのお情けで二次創作を黙認頂いてる身。
彼らは正しい
そんな歴史の当事者である我々アウシタンが「立花vs川上対談」をどう観たと思う?
拍手喝采どころではない。
立花孝志は隠れアウシタンに違いない、本人に自覚がなかろうが名誉アウシタンとして認定する
NHK党は瓦解寸前
どーすんの
ともかく、321対談は面白いので是非見てもらいたい。
京大卒エリート大資本が高卒チンピラにフルボッコ論破されて発狂する様子だけでも笑える
テーブル一つも準備できない
はい、中国のポップカルチャーが日本で人気となった例があります。以下はその一例です。
「ラブオン・ザ・ロックス」:2016年に放送された中国のドラマで、日本でもNetflixで配信されました。主演のジャック・マー(マアル)はアリババグループの創業者であり、日本でも彼の人気が高く、ドラマも好評でした。
「プロデュース101」:2018年に放送された中国のアイドル育成番組で、日本でも「PRODUCE 101」として知られる「PRODUCE 101 JAPAN」が放送されました。この番組で誕生したグループ「Rocket Girls 101」は日本でも知名度が高く、アイドルグループのライブイベントにも出演しました。
習近平国家主席の日本訪問:2018年に中国の習近平国家主席が日本を訪問した際に、その妻である彭麗媛さんが着用した着物が話題となり、日本の着物業界でも彼女の着こなしを参考にした商品が販売されるなど、中国のファッションや文化に対する関心が高まりました。
「青春」と言って真っ先に思い浮かぶのは、幼さ故の無根拠な全能感と大人に近づく中で未だ何者でもない焦燥感が入り混じった感情が、時の流れで脚色されたそれはそれはエモーショナルな情念。
だから「青春作品」でパッと思いつくのは『桐島〜』とか『ピンポン』とか。ナイーブだけど人生の中核を成す大切な悩みと真摯に向き合えるモラトリアムを描いた作品が好きすぎる。『スタンド・バイ・ミー』みたいな逃避のロードムービーも最高だね。
でも映画なり音楽なり、ポップカルチャーを見渡すと、(勝手なイメージが多分に含まれる気はするけど)「青春」と来れば爽やかな恋愛をしただとか、逆にできずに暗黒だったけどそれなりに楽しかったとか、それなりの楽しさすらなかったとか、とにかく恋愛を軸に二元的に語られるような気がする。恋愛こそが自分の思う「青春」を感じられる最たるなものなのかもしれないけど。
後ろ暗い青春のバイブルとして銀杏なんかはよく挙げられると思う。これも非モテ、恋愛がテーマ。まあ彼らも童貞ソングだけではないけど。暗くもエモーショナルな青春を愛するオタクくんならゴイステ/銀杏は通っておかないといけないような気がしたけど、なんだかあまり刺さらなかった。
同じくオタクくんなら愛すべき感のあるナンバガのOMOIDE IN MY HEADを今日初めて聴いてみた。歌詞が全く聴き取れんから調べてじっくり読んだら、何故だがどうしようもなく自分の思う「青春」を感じた。夜中にこっそり家を出て目的もなくフラフラ歩き回ってた個人的な経験が歌詞の断片的な要素と結びついたのかもしれない。それが当時抱いてたそのままの感情を掘り起こして、無性に心が掻き立てられたんじゃないかと思う。
モー娘。とかホワイトビスケッツとかは「そのグループがどういう集団で、どういう物語の中でこの曲を歌っているか。歌詞は何をイメージしたものか」をCD買ってるほぼ全員が理解していたレベルじゃん。
でも今チャートにいるのって、大部分がどういう連中が歌っているのか誰も知らない気がする。
ドラマや映画のテーマソングであっても「流行りそうな曲を流行ってそうな歌手に歌わせる。作品との相性は関係なく」みたいなのが一時期はやりすぎたせいで土壌が丸焼けになって、日本人の多くは「作品の何らかの場面をイメージしたもの」とは感じなくなってるように思える。
でも音楽ってのは本来「表現」なわけであって、つまりは「手段」としての側面こそが本体だったはずなんだよね。
祭りでドンガドンガ太鼓を鳴らすのは、祭りをやってますよと神様にまで伝えるためであり、その背景があるから聞いてる人達は「オラオラめっちゃ楽しいから一緒に混じって、ついでに俺たちの願いもちょっと聞いてけ」を踊りで表現したりする。
そういった文化の中で、いつからか単純に音楽そのものを楽しもうという研究が進み純粋な技術のぶつけ合いを至高とする人達も出てきたけど、それでもクラシックならオペラの劇伴であったりポップカルチャーなら時代の空気を歌うものであったりした。
CDを買うという文化が失われ、配信という超高速でチャートが入れ替わる世界が始まったことで、そういった感覚はかなり散り散りになってしまった。
誰がどこで何を歌っているのかはよく分からないけど、なんとなく歌詞に共感する気がしないでもないのレベルまで、音楽によって表現されるもの、少なくとも受け手が聞こうとするものは曖昧化していった。
そういう背景があるからこそ、「誰が歌詞や曲を書いて誰が歌っているのかを明確にフューチャーした音楽」が強烈なインパクトを持って伸びていったんじゃないだろうかと思うわけだよ。
saebou
@Cristoforou
Colabo叩きを面白がってる研究者、肉屋に投票する豚と同じだよ。次は科研費に来るに決まってるでしょ。というか既にきてるからね。
そもそも美術館女子に切れ散らかしてキャンセルしたのあんただろ。
はじまりが違う。
https://twitter.com/Cristoforou/status/1613364321802944513
@usovich
いや、ちゃんとさえぼう先生は叩いてましたよ、「お母さんがカレーを作って待ってくれる暮らしを守りたい」 って言ってたSEALDsの学生を。「それは性役割固定のアベ的家庭観!」って
https://twitter.com/usovich/status/1581844366511202307
トムヤザさん
@tommTycho
返信先:
@NoKichStickHigh
さん
さえぼうさんとかもいってたけど、もともと美術館通いをする女性層(美術ファン)がかなりいるので、ポップカルチャーを取り込みたい企画で「美術館女子」って使ってしまうと、もといるファン層の反感買うし、自分たちの積み上げてきた文化をAKBで塗り替えられるって思われちゃうと思う
@kenji_kajiya
·
東京大学教養学部報11月号に「「美術館女子」は何が問題だったのか」という小文を寄せました。ウェブでも読めます。 https://c.u-tokyo.ac.jp/info/about/boo
ね、この界隈はデタラメすぎる。
よほど憲法改正したいらしい。
完璧な国なんてないよ、いろんな国が男尊女卑や差別や侵略の過去を背負ってきてる
一夫一妻制は数万年前からの人類の生態で、人類は一夫一妻制に適応して進化してきている。むしろ一夫多妻の方が人類史からしたら少ない例。一夫多妻を否定する理由もないけどキリスト教規範に合わせて移行したわけではない。
アメリカでも保守派はそうだけど、ずいぶん雰囲気は変わっている。アメリカ人夫が奥さんに料理を作ってあげるとかは普通。今は高収入の女性が増えて、ジェンダーロールや女性へのリスペクトの意識は日本よりずっと進んでいる。日本はミクロでもマクロでも本ッッ当に女性がリスペクトされない国という印象。ミソジニーの性差別国家だね。
日本のポップカルチャーは多様性だなんてキラキラ褒められてる側面ばかり見てるのも浅いと思う。褒める面もあれば批判される面もあるよ普通に
MILFとか、性差別的なアニメばかりとか、モテない男を慰めるために作られた異常な女性キャラ作品がアニメとか、散々言われてる
作ってる人間が白人じゃないからぱっと見そう見えるだけで、実際には日本に深入りすれば白人至上主義はそこかしこにあるし、ミソジニーで差別的な作品ばかり
化粧やアクセサリーは単なる装飾以上にミソジニー的な面が大きいと思うね。着飾って売り物になって男に買われるという娼婦とか性奴隷的な産業から生まれた価値観を女性自身が化粧しないと恥ずかしいと肯定してるのはすごく滑稽で面白い。鎖自慢の奴隷みたい。
悪い文化なのは奴隷制を見ればわかるでしょ。反省しない日本とどっちがマシかはわからないけど日本には人権と民主主義という概念がないからね。あっちのがかなりマシだと思う。白人主義、欧米主義みたいなのが日本に多いのはわかるけどね自国の歴史についても他国の歴史についてもグローバルスタンダードについてもとにかく無知で理解が浅くて無学だなと思うよ、日本人は
欧米は自由で平等で公正、女性は虐げられること無く性差別に合うこともない。
愛を語り合い、倫理を尊重し、平和を求める。
そういった欧米観がインターネットの普及とともに否定されていっている。
そもそもここでいう倫理自体がキリスト教的なものであることが色んな場面で報じられるようになり、自分が知らず知らずのうちにキリスト教的なものが正しいものだと刷り込まれていた。
これも増田で読んだんだけど、そもそも日本は一夫一妻でなくグローバルスタンダードという欧米基準、すなわちキリスト教的規範に合わせて一夫一妻へ移行したのであり、一夫一妻こそが正しいという価値観すら一夫多妻、一妻多夫の文化を持っている人たちからすると横暴であり差別であると見ることが出来るようだ。
芸能人や政治家の浮気(浮気判定も他人がそう印象付けているだけ。真実がわかるのは当人たちのみ)にワイドショーやネットなどが盛り上がるのも、盛り上がっている人たちは知らず知らずのうちに一夫一妻が正しいと刷り込まれているんだ。
白人ばかりが活躍するハリウッド映画は良くないとされ多様性で様々な人種が登場するようになったけれど、これまでのハリウッド映画は意識してか無意識か、白人による欧米文化を肯定する内容が描かれ続けて来たのだと語られるようになってしまった。
私が好んだハリウッド映画にオーシャンズ11とかがあるけれどコレはよく観ると白人映画なんだなと気付いてしまい愕然とした。
アメリカの夫は家事を手伝うとされたこともあったけど、これもまた夫が他人から見て家事をするのはホームパーティーのときであり、これは欧米文化のホストとゲストの関係性からホストとして欧米文化なりのもてなしをしているだけであると知った。
アメリカの夫がやる普段の家事は日曜大工とか犬の散歩、車の運転とからしく(アメリカではこれらは家事判定らしい)、妻が主に調理や洗濯、掃除(屋外掃除は夫)するのはアメリカでも変わらないんだそうだ。
むしろアメリカの妻と夫の役割が説明できてしまうくらいにアメリカにもジェンダーロールが普通に存在しており、何でも男性スポーツ選手の妻の義務的な役割は夫の試合を観戦することらしい。
トロフィーワイフが日本で騒がれたこともあったけどアメリカでもそんなもんなんだという情報がどんどん入ってくるようになった。
私が見ていた欧米の正しさがどんどん否定されていき、むしろ日本的なポップカルチャーが日本国内で肯定されるばかりか、YoutubeやInstagramを観ていると海外でも受け入れられていることを知ってしまう。
これまで私が好んでいたハリウッド映画が白人映画と揶揄され、日本のポップカルチャーは元々が多様性にあふれていると評価される。それが現代の多様性価値観だ。
最近アニメで観た本好きの下剋上、少女漫画御伽話の文脈ながら主人公は結果的に女王様になるようだ。
ピンチに王子様が駆けつけて2人は幸せに暮らしましたではなく、女主人公自らが困難に立ち向かって戦って国のトップまで登り詰める様はこれまでのハリウッド映画じゃウケることなかった設定。
あんな子供っぽい御伽話風の作品はディズニーが得意とする部分だけれど、今のディズニーであっても決して出来ないんだろうなと感じる。
私が欧米文化に感化され、おかしな肯定の仕方をしていたのだろうけれど、今までの私が、子供の頃から憧れを持っていた価値観が、決して正しくないこともある、文化を侵略していたこともある、何なら悪い文化であると知らされてしまう現状が本当に、本当にキツイ。
私だけを愛して欲しいと思うことが正しくないこともある、可愛くて綺麗なお姫様に憧れた小さな私が視点を変えれば正しくなかったこともある、化粧をすることも、可愛い服やアクセサリーを身に着けることも、いつか結婚して子供と夫と白壁赤い屋根のお家に住むことも正しくないことがある。
・pivot
https://www.youtube.com/@pivot8935/videos
・シラス
https://www.youtube.com/@keizailabo
https://www.youtube.com/@NewsPicks/videos
多分これだけじゃないと思うけど。
どこのコンテンツも(方向性とか右派左派の違いはあれど)テレビの頸木から外れて時間無制限でテーマと出演者を絞って特定テーマを深堀するみたいなスタイルでやってる。
成田悠輔と東浩紀がなぜ言論界隈は90年代以降衰退したのか?新しいタイプの【知識人】が出てこなくなったのか?(東より年下の著名な知識人がいない)、アニメなどのポップカルチャーと違って大衆にリーチできないのか?
といった話をしてたが、これ10年続けたらかなりの規模になる気がする。
「女性が陰部を見せることで魔を祓う」という伝承に関する、本しゃぶり(honeshabri)さんのエントリを拝読したので、それに便乗して、思い出した雑多なことを書き残す。先に断っておくが、かなりくだらない話が多い。
中田雅喜(なかた・あき)という女性漫画家がいるのだが、彼女の代表作の一つで、80年代に成年向け雑誌『漫画ブリッコ』に発表した連載作品を一冊にまとめた『空は女の子でいっぱい』というタイトルの単行本がある。作品そのものの別名は『真・ダ○ボ』シリーズとも言う。伏せ字にしても意味が無いような気もするが、とりあえず○ィズニーが怖いので、形式的に伏せ字にしておく。
○ンボと言えば、耳が普通の象よりも大きくて、それで羽ばたいて飛行することが出来る、子象が主人公の物語である。
この『空は―』の主人公である少女も、身体の一部が通常の人間女性よりも大きく、それによって羽ばたいて空を飛ぶことが出来る。ただし『空は―』の主人公の巨大な身体パーツは、耳ではなく陰唇である。
ある日突然、X-MENのミュータントのように陰唇が○ンボ状態になってしまった主人公。女性に悪さを働く暴漢を巨大な陰唇で退治したり、人類からの差別や迫害に立ち向かったり、同じダ○ボ族たちと巡り会ったり、ダ○ボ族と人類の戦争が起きて巻き込まれたり和睦したりと、奮戦する主人公の姿と、普通の少年との淡い恋の行方。これら全てを描き切った一大ファンタジックSFエロチックコメディ絵巻である。念のために言うが、嘘は言っていない。ろくでなし子以前に、ここまでポップに女性器を強調したキャラクターを創造したクリエイターが存在したことは、日本のアート史上に記録しておいてよいであろう。
この最高に馬鹿げた漫画を執筆した切っ掛けが、果たしてどのようなものであったのか。それは、同じ作者によるエッセイ漫画『純情ももいろ日記』に経緯が描かれている。
この『ももいろ―』についても説明すると、現在でこそ、女性漫画家が性愛などについて赤裸々に語るエッセイ漫画や自伝的漫画のような作品は、決して珍しくもないが、中田による『ももいろ―』は、そのようなジャンルの先駆的作品である。日本漫画史上、もっと高い評価を受けて然るべき作品であると、個人的には考えている。
『ももいろ―』の内容も少し紹介する。例えば、成年向け作品の執筆に関して、誌面では最終的にボカシで消されるとはいえ、生原稿では性器を描かざるを得ない。他にモデルもいないし仕方が無いので、作者である中田雅喜は、自身や彼氏の性器の実物を見ながらスケッチしたという。そういったユーモラスなエピソードの数々が『ももいろ―』では、ポップで可愛らしい絵柄で描かれている。ちなみに、性器スケッチのモデルにもなった彼氏は、後に中田雅喜と結婚して夫婦になるのだが、漫画で描かれている外見的な特徴を見れば、彼氏の人の自画像そのままなので、誰なのかは一目瞭然である。よく本人がオーケーしたな……。器が大きすぎる……。ダ○ボだけに。
それで『ももいろ―』によれば、若き日の中田雅喜は、隙間風が吹く風呂無しアパートで暮らしており、冬の寒さに難儀していたため、ガス湯沸かし器を購入する資金が欲しかった。ちょうどそんな時に、知り合いの編集者が成年向け雑誌の仕事を持ってきた。その依頼を受けたことが切っ掛けで、中田は成年向け作品を執筆するようになった。そうして傑作『真・ダ○ボ』シリーズが生まれた。なお、中田雅喜は、無事にガス湯沸かし器を手に入れたそうである。
成年向け雑誌の仕事を中田雅喜のところに持ってきた、その編集者とは、何を隠そう「オーツカ某」である。この呼称を覚えている人がいたら、その人は若くない。これは、現在の大塚英志である。大塚英志といえば、千葉徳爾や宮田登の教え子であり、その学問的な素養を活かして『北神伝綺』『木島日記』『黒鷺死体宅配便』など数々の傑作を生み出した人物でもある。当時オーツカ某だった大塚英志が、漫画『真・○ンボ』の内容にどれほど寄与していたのかは定かではないのだが、もしかしたら民俗学や神話伝承などについて学んだ経験を活かして、アイデアを中田雅喜に提供したりしたのかもしれない。何か情報を知っている人は、教えて下さい。
かなり前置きが長くなったが、ようやく神話伝承の話題に繋がった。中田雅喜の『真・ダ○ボ』では、物語の終盤において「牙が生えている性器を持つ、女性の姿をした怪物の伝承」「自らの手で牙の生えた性器を広げる女性の姿を描いた石像」について言及される。そして「この恐ろしい怪物に関する人類の伝承は、遠い未来に遭遇する運命にあるダ○ボという異種族に対する、未来の記憶による恐怖の産物だった!」という話になる。分かる人には分かると思うが、これは勿論、アーサー C. クラークのSF小説『幼年期の終わり』が元ネタのパロディである。
さて、牙の生えた性器を持つ女性の神話伝承については、金関丈夫が「Vagina Dentata」と題した論文(岩波文庫『木馬と石牛』に収録)で、台湾や東南アジアなどに分布するものを特に詳しく紹介している。この神話は、日本列島にも存在する。
この神話群は、おおむね次のような内容である。「昔、とても魅力的な女性がいて、大勢の男たちから求婚された。しかし結婚しても、初夜に夫が死んだり逃げ出したりして、夫婦生活は長続きしなかった。その原因を調べてみたところ、彼女の性器に牙が生えていて、夫の性器を食い千切って死に至らしめることが判明した。その牙を抜いたり砕いたりすることで、彼女は普通の女性となり、新たに夫を迎えて幸せに暮らすことが出来るようになった(バリエーションとしては、単なる怪物として退治されて死んだといったものも存在するようである)」
この物語の典型の一つが、江戸時代の奉行・根岸鎮衛(ねぎしやすもり)の著した雑話集『耳嚢(みみぶくろ)』に収録されている「金精神(こんせいじん)の事」と題する一篇である。これは、津軽で「カナマラ大明神」と称して祀られていた、黒銅(黒鉄)で作られた男性器型の御神体について、その由来を聞き書きしたものである。
この由来物語でも、やはり、牙が生えた女性器を持ち、それが夜の夫婦の営みの際に夫の性器を食い千切って死に至らしめるために、結婚しても夫婦生活が続かないという女性が登場する。その悩みを聞きつけた或る男が、この女性に結婚を申し込んだ。そして迎えた初夜、新しい夫は、自らのものを初めて挿入する代わりに、まず黒銅で作った男性器を妻の性器に挿入した。すると牙の生えた女性器は、黒銅の男性器に噛み付いたために、牙が砕けて全て抜け落ちた。それ以後、女性は普通の女性となり、つつがなく夫婦生活を送った。その時に夫が用いた黒鉄作りの男性器が、後に神として祀られ、今のように崇敬されるようになったとの由。
古今東西の神話や呪術において、男女のいずれの性器も、生命力や呪術的な力の源泉として神聖視される事例が数多い。その中で特に女性器は、妊娠・出産による人間の誕生という重要な役割を担うことから、生命の象徴そのものであった。しかし、それとは対照的に、Vagina Dentata神話で描かれている女性器は、牙を生やしていて、生命を生む存在ではなく、むしろ奪う存在である。これは、陰唇と口唇の形態的な類似と、性行為時に男性器を受け入れるという機能から、男性器を喰らう女性器という発想に至ったと考えるのが自然なことであろう。けれども、それだけではないように思われる。
Vagina Dentata神話の根底には「生命を生み出す魔力を持つ女性には、それと表裏一体のものとして、生命を奪う魔力もまた備わっているのが当然である」とする、呪術的な発想もあったのではないだろうか。ニギミタマ、アラミタマという言葉が示すように、聖なる力は、好ましい側面だけでなく、同時に好ましくない側面や荒ぶる側面を併せ持つとされることも多い。聖なる力が人間の役に立つ時には「カミの力」とされるし、人間に害を及ぼす時には「妖怪の力」とされる。こういった「カミと妖怪の間を振り子のように行き来し、変貌する超自然的な存在」という妖怪の有様は、京極夏彦作品に多大な影響を与えたことでも知られる妖怪学者・小松和彦の著作で、詳しく論じられている。女性器の神聖性に対して人類が抱いた、善悪判断を超越した畏怖の感情。それがVagina Dentata神話には残されているのであろう。
もう一つ。生命力の源泉という呪術的役割を巡る主導権争い、すなわち、女性原理と男性原理との間に生じた闘争や対立の記憶を、Vagina Dentata神話は今に残して伝えているのではないだろうか。『耳嚢』の金精神(こんせいじん)についての伝承は、生命を生むための呪術的な過程において、vaginaを重要視する女性原理から、phallusを重要視する男性原理が、地位や主導権を奪ったこと、男性原理の側から見た勝利の記憶を留めているのではないか。牙を失い、呪われた存在ではなくなった女性器は、その代償として呪術的・超越的な力を失って馴致されたとも読める。
しかしまた、こうも考えられる。生命力の源泉としての呪術的な力は、女性原理の場合、女性器の妊娠・出産の力として発揮されるが、男性原理の場合、男性器の種付けの力として発揮される。その一例として、田植え神事において、男性器を模した御神体を田圃の泥土に突き刺し、稲の豊穣を祈願するという儀礼が存在するという事例が挙げられる。金精神(こんせいじん)の由来物語も、新たな生命を創造する過程である男女の営みの中において、生命の根源に係る呪術的な部分で、男性原理の種付けの役割にも"平等に"重きが置かれるようになったことを示しているとも考えられる。そう考えるならば、つまり金精神(こんせいじん)の由来物語とは、男女双方の原理の二人三脚でなければ、人間は生命を生み出す呪術的な力を得ることは出来ない、女性原理だけ或いは男性原理だけでは決して呪術は成り立たないのだという「男女の共存・和合を説く物語」だと解釈することも可能である。対立や征服の物語として捉えるよりは、そのように考えた方が、建設的で平和的なのではないだろうか。
ところで、魔を祓うのとは少し違うが、男性器もまた、困難時に着衣を脱いで曝け出すことで窮地を脱するための呪術的な行為とするという事例がある。例えば、猟師が山で迷った時に、勃起した陰茎を山に向けて見せれば、山の神(女神)が喜び、その男性を助けて無事に下山させてくれるという伝承がある。
また一方で、女性器にも似たような発想の伝承がある。田植えをする時に女性が和装で下着を着けていないと、丸見えの女性器を田の神(男神)が見て喜び、田植え作業が早く進んで終わるように手伝ってくれるという伝承がある(そういったエロ話をしながら、田植え作業に勤しむ農村女性たちの活き活きとした姿を、宮本常一が記録に残している)。
このように性器を曝け出して超自然的な存在に祈願する人間の姿は、文明化した我々現代人の目から見れば、大らかではあるが、馬鹿馬鹿しく滑稽に映る。しかし、自らの肉体の恥ずかしくて重要な部分を曝け出すことができるというのは、相手が神(カミ)であろうと人間であろうと、それを捧げる対象に全幅の信頼や愛を抱いていなければ出来ないことであり、ある種の真摯さや敬虔さの証となる行為でもある。そう考えると、男女間の異性愛だけに限らず、全ての性愛行為の根本において、信頼や愛が何よりも大切であるとされることの原点が、これらの呪術的行為や図像には秘められているとも言えるであろう。
そう考えれば、魔力を持つ性器を曝け出すという古来の伝承や図像、それらの子孫として現れるポップカルチャー的な表現は、単にこれらを面白がるだけでも全く構わないとは思うが、改めて見つめ直してみれば、案外と我々現代人が真面目に学べる何かをも多く含むのかもしれない。
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anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=2904s
48:24~53:05
伝統的な大学制度における性差別、人種主義、同性愛嫌悪などに挑戦する改革側を、自由を抑圧する権力者として描き出す
ニューヨーク・タイムズ紙コラム「政治的正しさという覇権の高まり」(1990)
ジョージ・H・W・ブッシュ大統領(当時) ミシガン大学におけるスピーチ(1991 (自分の考えを口に出す自由を脅かす不寛容さとしてのポリティカル・コレクトネス)
報告タイトルにもなってるキャンセル・カルチャーというのは、まさにこの文脈で作り出され拡散されてきた用語です。
これは学問の自由だけに関わるものではなく、幅広く文化活動一般に関して使われていますが、
ただ2010年代、後半ですね特に、から急激に広まってきた「キャンセル・カルチャー批判」についてお話をする前に、
その文脈ていうかその前身とも言える、いわゆる「ポリティカル・コレクトネス」っていうものについて少し確認をしていきましょう。
ポリティカル・コレクトネスという語自体は、
元来共産党が打ち出す公式路線に過剰に忠実な思考や行動を指す、ある左派の間の内輪の自嘲的な用語として使われていたものです。
ところがこれアメリカの文脈ですが、古典学者であるアラン・ブルームによる1987年の『アメリカン・マインドの終焉』、
1990年ニューヨーク・タイムズのコラム「政治的正しさという覇権の高まり」、っていうここら辺を契機として、
各種メディアなどにおいて、ポリティカル・コレクトネスを巡る議論というのが沸き起こる。
1991年5月には、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領、ブッシュ・シニアがミシガン大学におけるスピーチで、
「ポリティカル・コレクトネスというのは自分の考えを口に出す自由を脅かす不寛容さだ」というふうに言及するに至ると。
現在の日本でポリティカル・コレクトネスというと、
専らポップカルチャーでの表現みたいな、映画とか漫画とかそういうことをイメージされるかもしれませんが、
そもそもポリティカル・コレクトネスについての議論というのは、大学という場をその主要な舞台の一つとしていました。
1980年代アメリカの大学では、女性学・アフリカ研究など新しい学部やプログラムの設立、
それからアファーマティブ・アクションの採用、それから大学におけるセクシャルハラスメントへの対応の開始、
それからコースとかカリキュラムの見直しなどが一気に進んでいくことになります。
これらは全部具体的な制度的変更なんですけれども、それと同時に大学における教育研究というものが暗黙の前提としてきた、
性差別・人種主義・ホモフォビアなどの検討と修正とを迫るものでもありました。
こういう変革への抵抗や反感というものを、単に大学という限られた場所における制度上の闘争という形で提示したら、
それはあんまりアメリカの広い一般大衆の興味を引くことはなかったかもしれない。
けれどもこれをアメリカ的価値の根幹に関わる、思想と言論の自由の危機として提示することで、
伝統的な大学制度の覇権に挑戦する改革側のほうをこそ、逆に自由を抑圧する権力者なのだというふうに描き出すことに成功します。
「この国土において不寛容さが増大していること、論争を解決するのに理性ではなく威嚇を用いる傾向が強まっていることに、私たちはみな警戒心をもつべきだ」。
実際に当時、先ほど申し上げたブッシュ・シニアのミシガン大学演説ではこういう言い方がされている。
「この国土において不寛容さが増大していること、論争を解決するのに理性ではなく威嚇を用いる傾向が強まっていることに、
1980年代から続く共和党政権なんですが、ブッシュ・シニア共和党政権は、
例えば女性の性と再生産に関わる健康と権利の獲得に向けた運動というのを、はっきり言って足踏みさせた政権です。
またHIV/AIDSの流行に対して同性愛嫌悪に満ちた対応で、LGBTコミュニティに深刻な打撃を与えてきた政権でもある。
人種主義に関して言えば、国内の人種差別問題というのも当然温存されていて、
このミシガン大学演説の翌年92年には、ロサンゼルスでの人種暴動というものが起きてる。
にもかかわらずこの演説では、政府共和党によるそういう長年に関わる差別や抑圧が一切問題にされないんですね。
この演説が暴力的な抑圧者だとして名指すのは、そういう差別とか抑圧を指摘して批判してきた側のその差別に対する不寛容、
その差別に対する不寛容が暴力だと抑圧だというふうに名指していく。
ポリティカル・コレクトネスという言説戦略
大学という特定の組織における性差別、人種主義、同性愛嫌悪などに対抗することを目的とした取り組みを、思想・言論への検閲であるかのように見せる
つまり右派が持ち出した「ポリティカル・コレクトネス」というのは、
大学という特定の組織におけるセクシズムやレイシズム、ホモフォビアなどに、対抗することを目的とした取り組みというのを、
逆にあたかもマッカーシー旋風の再来を思わせるかのような、思想・言論への検閲であるかのように見せる、
この枠組みは既存の体制に内在する差別や抑圧から人々の目をそらす、
むしろ多数派こそが「ポリティカル・コレクトネス」なる強権的な弾圧というものから、
思想・言論の自由を守って闘う被抑圧者なのだというふうに主張することに成功したわけなんですね。
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜