はてなキーワード: 市民とは
「フェミニズム(男/女=平等)」も、反権威主義的な「ネットde真実(マスコミ/匿名情報=平等)」も、
そのどちらも、社会を構成する市民が「民主主義下」で教育を受けて育ち「平等主義を内面化した人々」
だからこそ、発生する。平等主義(≒民主主義)の帰結である「反・格差(=金持ちを引きずり降ろせ!)」は、
簡単に「反・権威(=上から目線で正義を語るやつを引きずり降ろせ!)」に転化する。というより同じものだ。
より正確にいうならば、「〈反・格差〉を煽動する人間が〈権威〉になる社会」が民主主義(言論の自由がある社会)なのだ。
「反・格差」は絶対的に正しいが、「反・権威」は絶対的な誤りであるという風には、人間は都合よく切り替えられない。
人はそれを「ダブスタ(ダブルスタンダード)」と呼び、嫌悪する。
「共産国家(独裁政権)」と「秘密警察(監視と密告)」が絶対に切り離せないワンセットのように、
近頃、オールドメディアとネットにおける情報性について取り沙汰されている。
マスコミの偏向報道は事実として連綿と繰り広げられてきたわけだが、
では逆にネットで正しい情報が得られるかといえば、甚だ疑問だと思う。
例えばオールドメディアが受動的な情報発信であるのに対して、ネットであれば自分から能動的に情報を取得しにいくため、そこで真偽を見極められるという意見はあると思う。
だが、実際には検索エンジンにはアルゴリズムというものが存在し、検索にヒットしやすい情報とそうでない情報が存在する。
それこそ、このアルゴリズムを逆手にとれば、目立たせたい情報だけが検索されるようにすることもできるし、それらはお金を使って操作することもできる。
SNSや動画サービスに関しても同様で、おすすめ表示などはアルゴリズムによって決定されるし、情報を配信する側もよりPVが得られやすい情報に偏りやすい。
そうなると、正しい情報がPVが得られにくいものだった場合に、やはり埋もれてしまい探すことが難しくなってしまう。
ネットで「正しい情報」を得た、とおっしゃっている方々のどれくらいの割合が、この状況を知った上で情報を得ているのだろうか。
おそらくは、99%の人が、そこまで考えずに目に触れた情報だけを拾っているのではないかと思われる。
そうなれば、情報を広く集める上でのリテラシーが欠如している状態だと思う。
民主主義が正しく履行されるためには、下記のような条件が整っている必要がある。
有権者が正しい判断を下すためには、次の条件が整っている必要があります:
有権者が情報を正しく理解し評価する能力を持つことも重要です。
またリテラシーが欠如している状況が続けばどのような結果を招くかというと、このようになる。
これは、まさに今回の兵庫県知事選挙の結果だと言えると思う。
兵庫県知事選の結果を受けて、テレビ・新聞などのマスメディアは vs SNSの構図を作ろうと躍起になっているように見受けられる。
SNSはデマが多く信頼性が低い上、エコーチェンバー現象により偏った意見に染まってしまうリスクもあるとする一方で、
マスメディアの報道は裏取りを行った上で公平性に重点を置いているため、信頼性が高いと主張しているのだ。
しかし、世間の多くにとって見ればマスメディアもまた、報道の自由を盾に偏った報道を行ったり、不十分な取材により誤報を流したりすることが当たり前のものだと思われているのではないだろうか。
事実、某キー局が放送している朝の情報番組や関西の某局から全国へ放送されているニュース番組で語られる上記の主張に対するSNSの反応は、ほとんどが否定的なものである。
もはやマスメディアこそが偏向報道の元凶であり、そこで報道されない部分にこそ真実があるという主張が市民権を得つつあるのだ。
さて、このような世間からの逆風に晒されているマスメディアが信頼を取り戻すためにはどんな方法が残されているのだろうか。
私はメディアがメディアの監視装置になることこそがその唯一の方法だと考える。
ネットや一部の雑誌のみがカウンターメディアとしての役割を果たす現状を打破し、マスメディア自身が互いのカウンターメディアとなることを通して
自らの存在意義を再定義することこそが市民に信頼される報道機関としての地位を取り戻すことができるのではないだろうか。
もちろんそこには大きな痛みを伴う。先の衆議院選挙ではまるで事前に打ち合わせをしたかのようにどの局でも一部の自民党の候補者の名前の横に「裏金バッチ」を付けるという方法を取っていたが、
それはあくまで自民党の候補者に対してのみであり、過去に巨額の裏金が指摘された野党候補者に対する同様のバッチはついていなかった。
SNS上で多くの批判が見られたこのような報道姿勢が本当に公平なものだったのかを振り返ることは多くのマスメディアに取って自分の喉元に刃物を突きつけるようなことになるだろう。
それでもオールドメディアはやらなければならない。それが彼らの唯一の生き残る道だからだ。
マスメディアの持つ"優れた"取材能力の一部を使って、他のマスメディアの報道姿勢を監視し、本当に公正な報道を行っているのかを市民に伝えること。
いつ自らが報道される側になってもそれに恥じない報道を行っているという自負を持って報道を行うこと。
これこそがマスメディアが信頼を取り戻すためには欠かせないことだと私は考える。
べつに市長なんて誰でもいいだろ
誰がそこに就こうと実際的には行政なんてチームプレイなんだし勝手にバランス取られるだろ
バランス取られていく過程で失敗してリカバリーすることもあるだろう
インテリ層の良くない部分が出ているので、あえて名指しで批判する。
シロクマ先生の書き方は良くないです。今すぐに謝罪して記載を改めるべきです。どんな人間も馬鹿にされたことは敏感に感じ取ります。
もしも本当に、心の底から馬鹿にするつもりも嘲るつもりも無かったのであれば、全ての比喩表現を直接的な表現に改めて、その上でどのように受け取られる可能性があるか考えてみてください。
シロクマ先生の以下の記事は、齋藤知事のパワハラと全く同じです。
ビバ! デモクラシー!
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20241119/1732024800
斎藤氏はパワハラ疑惑を巡る認識を問われると、「よい県政をしていきたいという中で業務上の指導や注意を厳しくしたことはあった。これがハラスメントに当たるかは第三者委員会などで審議されることになる」と語った。
小学生を含めて(個人的な感覚では、不満を表明できるのは小学三年生前後)、悪意には非常に敏感です。どのような言葉遣いであっても馬鹿にされたかどうかは瞬時に理解します。
「インターネットで民主主義が加速して良かったですね」という「良かったですね」という物言いは、対象を嘲る言い方です。自覚が無いのであれば今すぐに改めるべきです。
以下、具体的に指摘します。
「今回の選挙は、民主主義を正しく反映したと言えるのではないだろうか」という書き方ではいけなかったでしょうか。
なぜ、「民主主義が三度の飯より好きな人には」と、民主主義を好ましいと思う人を「三度の飯より好きな人"には"」という表現にして限定しましたか?
今回の選挙結果を、揶揄する意図が無いのであれば即刻改めるべき表現です。
他の支持者との一体感を体験しやすい仕組みのおかげで、「いいね」や「シェア」ぐらいでも推し活気分や選挙活動気分を味わえたりする。
「自分は、いいねやシェアボタンを押す行為は、選挙活動とは言えないと思う」と書き方ではいけなかったでしょうか?
なぜ、「推し活気分や選挙活動気分を味わえたり」という、自身で「参入する敷居がものすごく低い」と書いているにもかかわらず、「気分」や「味わえる」という表現にしましたか?
他人の選挙についての関わり方を見下すつもりが無いのであれば即刻改めるべき表現です。
SNSや動画にじかにコメントする、という方法もある。なにもコメントが秀逸である必要はない。凡庸なコメントでも、論理的に破綻したコメントでも、事実関係の怪しいコメントでも、別に構わない。支持する人への応援コメントでも、敵対者への批判や非難のコメントでも、数多く集まりさえすれば強力なコメントたり得る。どんなにしょうもないコメントでも、200も300も連なれば有意味だ。誰が言ったかや何を言ったかだけでなく、何人が言ったかも重要であることを、いまどきのネットユーザーが知らないわけがない。
「どんなコメントであっても、200も300も連なれば有意味になってしまう。論理的に破綻したコメントでも、事実関係の怪しいコメントでも、いまどきのネットユーザーにとっては、何人が言ったかが重要になってしまう。私はそれを好ましいとは思わない」と言う書き方ではいけませんか?
どのようなコメントであっても数が連なれば有意味になることが好ましくない、もしくは危険だと思うのであれば、そう表現すべきではありませんか?
なぜ、「事実関係の怪しいコメントでも、別に構わない」と許容したのにもかかわらず、「どんなにしょうもないコメントでも、200も300も連なれば有意味だ」として、自分と同じコメントをする人が200や300ある人たちを「しょうもない」と馬鹿にしたのですか?
他人のコメントの書き方を馬鹿にする意図が無いのであれば、即刻改めるべき表現です。
それらは従来型のマスメディアが機能した帰結でなく、双方向メディアとしてのインターネットが普及し、猛威をふるった結果として起こった。だからインターネットがテレビになったというのは不十分な表現で、テレビを超えた、いや、テレビ以外の何かとしてはびこるようになった、と表現すべきだったと思う。
「それらは従来型のマスメディアが機能した帰結では無く、双方向メディアとしてのインターネットが機能した結果として起こった。だからインターネットがテレビになったというのは不十分な表現で、テレビを超えた、いや、テレビ以外の何かとなった」という書き方ではいけませんか?
もしくは「双方向メディアとしてのインターネットは、従来型のマスメディアの機能とは異なり、より積極的に他人に干渉するようになった」というような書き方ではいけませんか?
従来型のマスメディアを超えることによるなにがしかに危機感を覚える、好ましく思えないのであれば、それを直接表現すべきではありませんか?
「猛威をふるった」や「はびこるようになった」という書き方に、従来型のマスメディアよりも双方向メディアとしてのインターネットを貶める意図が無いのであれば、即刻改めるべき表現です。
特にこの表現は顕著なので注記しますが、「ならばマスメディアが猛威をふるいはびこっていた従来よりも良くなったでは無いか」と返答されるとは、本当に思いませんでしたか?
その返答に対して「マスメディアの方が優れていた」以外の回答を持っていますか?もしも持っていないのであれば、それは双方向メディアとしてのインターネットを見下した表現です。
「投票率が上がり、選挙活動への参加が増えたことは良いことだ」と言う書き方ではいけませんか?
馬鹿にする意図が無いのであれば「良かったですね」という表現は即刻改めるべきです。
単独の文言では無く、前後の文脈から、この文章を読み取った相手が「投票や選挙活動への参加を馬鹿にされた」と受け取らないと、本当に信じていますか?
「なるほど、コイツはインターネットで情報収集したり、いいねで応援したり、コメントを書いたり、自分で考えて投票した俺を、子ども扱いしているんだな」と受け取られる可能性が無いと思っていますか?
真摯に相手の人格を尊重してなおその表現しか出てこないのであれば、おどけた調子の文章を書くのは止め、少なくとも真面目な話題ではビジネス文書のように書くべきだと思います。
インターネットも含めた諸々をとおして、投票所により多くの人が足を運んだこと、より多くの人が選挙活動に参加したことだ。それって民主主義にとって基本的で必要不可欠なことでしょう?
段落内のおそらく骨子の部分である、この部分はとても良い書き方をしているだけに残念でなりません。
民主主義はタテマエとしてずっと、全員参加を謳っていたし、少なくとも欧米ではだいたいうまくいっていた。 まれに、チョビ髭の伍長のような人物を輩出するとしても、だ。
その前段の、民主主義論に関する部分は私自身の主義主張とは異なるが、それは捉え方の違いだろうと思う。
(「"良い民意"が"悪い民意"に変わってしまうとしたら、民主主義は壊れるのがお似合いではないだろうか」というのは、どのように書き換えてもアリストクラティア(優秀者支配制)を意味すると思うが、そこは民主主義の捉え方の違いだろう)
「民主主義は、時としてヒトラーのような独裁者を生み出すとしても、全員参加が理念であった」という書き方ではいけませんか?
前段の主張も含めて、文脈からは「民主主義とは、建前としては全員参加だが、本音ではバカは参加しないものとして上手く回っていた。バカが参加して壊れるのは制度の限界だ」としか読み取れません。
それ以外の意図を持つ文章として文脈を構成しているのであれば、全面的に書き直すべきです。おちゃらけた書き方をしようとするあまり、文脈上そう受け取る人がいても非難できないと思います。これよりのちの文章を読む限りではこの読み方をして欲しいと想定するしかないです。
(また、ヒトラーの例えを出しておいて「マスメディアという制御弁が民主主義政体を安定させる効果があったのは、たぶんそうだろう」と書く意図は量りかねます。ナチ党の躍進にラジオが大きな役割を果たしたことには一定の了解があるはずです)
いまどきの民主主義の理念を作り上げた人というと、ロックやルソーやジェファーソンといった近世~近代の思想家を思い出す。ところが彼らが生きていた時、末端の大衆にまで選挙権が行き渡り、末端の大衆の選択までもが民意にフィードバックされる民主主義を想像するのは難しかったのではないか。たとえば、民主主義の始祖たちの眼中に、立花氏がバカと呼んだ人々はどこまで含まれていただろうか?
少なくとも、ジェファーソンの名前を出して合衆国独立宣言で最も有名な一節である "We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal,"を無視するのは看過できません。
このall men (すべての人々)に、大衆(シロクマ先生の言うところの「末端の大衆」)が含まれていないと推測するのは侮辱でしょう。もしもよく知らないのであれば名前をあげるべきではありません。
トーマス・ジェファーソンが、いかにマスメディアに悩まされていたか("nothing can now be believed which is seen in a newspaper. truth itself becomes suspicious by being put into that polluted vehicle")を知らずとも、
ほんの少しでも興味があれば、ジョン・ロックが人はみな生まれながらにして公平であるが、そのままでは不都合なので、人の承認のもと政府を作るであるとか、ジャン=ジャック・ルソーが間接民主制すら否定していたことなど、見聞きしたことがあるはずです。
彼らが、貴族や選良市民のみを対象として考えていただろう、末端の大衆(シロクマ先生が想定するのが、教育を受けていない人、政治に詳しくない人だとすると、当時の農民や奴隷、犯罪者等)は考えていなかっただろうと想定して枕詞に使うのは、不適切です。
(その後の段落は、シロクマ先生の想像や思いが書かれているので、別に問題は無いと思います)
個別の選挙結果が未来の制度設計の材料になっていくのも、民主主義のいいところだ。亀のようにゆっくりと、しかし着実に。ただし、こうした民主主義のドタバタを、ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう。未来が明るいといいですね。
この段落でも、その前段の、民主主義論に関する部分は私自身の主義主張とは異なるが、シロクマ先生の考え方を述べている部分なので良いと思う。
ただし、文脈上「全員参加という民主主義の建前を維持したまま、インターネットが深く介在する場合には"悪い民意"を取り除き、"良い民意"を選び取れる制度設計を、末端の大衆ではない我々が行うべきである」としか読み取れませんが、そういう主張でないとすれば記載を改めるべきです。
(私はそれをアリストクラティア(優秀者支配制)だと思いますし、良くないものだと思いますが、主義主張の違いなのでそれについて表明することは良いことだと思います)
「ただし、制度設計が改善される前の現在の良くない状態を、他国が狙っているかもしれない。改めるべき点は早急に改めるべきだろう」と言う書き方ではいけませんか?
「ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう」というのは、陰謀論と何が違いますか?何を意図して記載したのでしょうか。
「未来が明るいといいですね。」というのは、皮肉では無く本心からそう思っているのだとすれば、記載を即刻改めるべきです。
また皮肉を書いたつもりであれば、誰を皮肉ったのでしょうか?今回の選挙に参加した誰を馬鹿にする意図をもって表現されましたか?
シロクマ先生の「インターネットで民主主義が加速して良かったですね」という記事は、全体としては皮肉めいた、兵庫県知事選挙の結果を受けての現行の民主主義制度への感想でしょう。
これを、面白おかしいものとして読む人がいることは否定しません。(私もホットエントリーにあがってきたので読みました)
パワハラをする側にとって、されたものが右往左往したり泣いたり病んだり職を辞するのを見て愉快だと思うのと同じだという指摘です。
齋藤知事は、「よい県政をしていきたいという中で業務上の指導や注意を厳しくした」と表現しています。
前知事時代のパワハラを問題視した人は、この「業務上の指導や注意」の「やり方」を問題視したはずです。性根や意図、背景では無く、手法に問題があったのだと認識しているはずです。
愛があろうが、心の底から相手のことを思っていようが、パワーハラスメントに該当すれば、それはやはりパワーハラスメントなのだというのが、これからの社会での共通認識で合って欲しいと、自分は思います。
その意味で、シロクマ先生の「インターネットで民主主義が加速して良かったですね」という記事は、インターネットを利用して投票先を決定した人をバカだと呼び、彼らを選挙から排除すべきである、そうしなければ民主主義は壊れる、利するのは他国だ、という記事になっています。
そういう意味で書いたつもりでないのであれば、そう読み取れるようにおちゃらけた書き方をするべきではありません。すぐに改めてください。
(バカだと呼んだのは立花氏であるとか、選挙から排除すべきとは書いていないという、言葉遊びをするべきではありません。本当にその意図が無いのであれば比喩や暗喩の使い方が致命的に間違っています)
もっと言えば、記事全体が記事中に貼られた立花氏と同じことを言っており、そこから一歩も外に出ていません。
制度設計で排除すべきでは無いかと暗に書いている分、また「ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう」と記載している分、なお悪いと考えます。それは選良主義や陰謀論と具体的に何が違いますか?
そして、バカや犬や猫と同じと言われた側とすれば、率直にそう表明する立花氏に好感を持ち、シロクマ先生に嫌悪感を持つと思います。率直さは美徳であり、当てこすりは悪癖です。
なぜならば、立花氏は返す刀で「バカじゃ無くなればいい、キミはいまバカじゃ無くなった、立派な選挙民になったんだよ!」と導くからです。
シロクマ先生が、「自分はマスメディアが一定正しいものだと思っている。それを大きく超える力をインターネットが持つと証明されてしまったようで怖い。こんな選挙結果になると思わなかった」と思うのであれば、そう表現してください。
投票に行った国民を「お前らにはどうせこうやって書けばわからないだろう」という書き方で馬鹿にするのは即刻止めてください。
その積み重ねが、インテリ層への嫌悪に繋がり、わかりやすく自分を肯定してくれる者への同調に繋がります。
よい県政になりさえすればパワハラが許されるわけでは無いのと同じで、民主主義の問題だと思う点や選挙への在り方を指摘するのに他者を馬鹿にして良いわけではありません。
別に何を面白がろうが自由だけど、二言目には自浄作用が無いだの、パワハラは現代にはそぐわないだの言っておいて、中身が正しけりゃ表現は些末な問題と言う立場をとるなよ。
読み取り方の問題じゃないし、皮肉だから何しても許されるとか無いの。そういう表現は、お前らがバカにしているネットde真実と1ミリも変わらねえよ。
なんで、人気ラジオ番組という、”既得権益にまみれたマスゴミ”の煽ったルワンダ虐殺の責任を、YouTubeの動画に責任転嫁してるの?
なんで、”既得権益にまみれたマスゴミ”は、そういう前科があるのに、虐殺の原因にならないと決めて、そんな前科が一度もないYouTubeの動画には、何の根拠もなく、そうなる可能性がある、とか攻撃してるの?
ルワンダ虐殺を煽ったマスゴミは、完全に”既得権益”からの指示を受けて、プロパガンダを行ってたんですけど、何でその話を、「既得権益無罪論」に利用できてるんですかねぇ?
ルワンダ虐殺を起こす可能性のある衆愚が日本に居るなら、こんな無茶苦茶なマスゴミ擁護論を、平気で受け入れてる馬鹿どもでしょ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E8%99%90%E6%AE%BA
>>ルワンダ政府中枢部の指示を受けていた『カングラ』誌は、1990年10月に開始された反ツチおよび反ルワンダ愛国戦線キャンペーンで中心的な役割を担った。
>>1994年4月6日以降、(ルワンダ政府)当局がフツ過激派を煽り、虐殺を指揮するために両ラジオ局を利用した。特に、虐殺当初の頃に殺害への抵抗が大きかった地域で重点的に用いられた。この2つのラジオ局はルワンダ虐殺時に、フツ系市民を煽動、動員し、殺害の指示を与える目的で使用されたことが知られている。
まあ最大の問題は、あの兵庫県知事が、元(テレビなどのマスゴミを管轄する)総務省官僚という完全なマスゴミ既得権益の出身なのに、マスゴミに叩かれ、それを擁護する動画もまた、マスゴミに拡散されたという事実。
多分あの県知事は、マスゴミ既得権益の中でも、人格的に最も屑いヤクザの一人で、それを、反マスゴミのネット民に支持させようと、自作自演で味方だと思わせた、というのが真相に思える。
深夜ワンオペが社会問題化してもすき家に食べに行き続け、社員を自殺するまで追いつめてもワタミはなくならないのだから、従業員がどうなろうと、消費者にとってはどうでもいいことなのよ。
だから、兵庫県庁でパワハラが横行してても、それなりに市民サービスさえ提供し続ければ知事が選挙で勝てるのは当然、ということよね。
まぁ福祉に滞りがなく、経済も上手く回してくれる=知事としての仕事をちゃんとこなしてくれるならパワハラとかどうでもいいというドス黒い本音を持った市民は多いだろう
今回の選挙の後の自分の周りの反応がいつもと異なっており、純粋に疑問を抱いたため考えをまとめる意味合いと、複数の意見を聞ければいいと思い文章にまとめている。関連の記事を読んで、自分も考えてみるかとなった。
これに尽きる。いつも意見合う友人だったから今回は真逆でびっくりした。
仲良くしたいから直接は聞けないけど、何でかは気になるからここに書いてる。理由は詳細版に書いてるが割愛。
空気感に煽られたとしても、今まで選挙に興味すらなかった層が10%以上選挙に足を運んだということだけでもかなりの快挙なんじゃないかと。そしてそういう層が今後も選挙に行ってくれるなら、国民のお気持ち1つで当選する人を選べるんじゃないか?
そもそも実際の政策に満足した層だっているはずなのに、ポピュリズムで括られてしまうのってどうなんだろうな。
ようするに、政治に関心はあるが詳しくない一般人であるということだけ理解して欲しい。そんな訳で意見などあれば、わかりやすく教えてくれると助かる。
最初にニュースを見た時のことはあまり覚えていないが、パワハラで人が亡くなってしまったということで、痛ましいなと思った。
その後、報道が多かったからか名前を見かける度に今どうなっているんだろうと経緯をネットニュースなどで調べたりしていた。そして調べる度に進捗がさしてないなと思っていたところ、辞められたので驚いたし、調査結果出たのかなと思ったら、出ていなかったので更に驚いた。
正直、公務員周りの仕組みや政治についての知識が乏しすぎるので、それが適正なのかどうか自分には判断ができなかった。
会社員の端くれとして、結果がわからないのに解雇されるようなものだと思うと何でだよと思っても許されるんじゃなかろうか。
そして知事選やるのかあと思っていたら、斎藤氏は辞めてもう一度選挙に出るるらしいし、稲村氏という票集めに強い人が担ぎ出されていたりした。まあ稲村氏が当選するんだろうなと、結局疑惑はうやむやにされてわからずじまいだろうなと考えていて、しばらく特に追うこともなくなった。
自分は毎回選挙に行ってるが、段々と生活が苦しくなる実感だけが肌に積もっていくのを感じながら、もうどうにもならないんだろうなと、世間の大多数の人同様、諦めに似た気持ちだった。
若年層でもっと投票率を上げるしかないとは思っていたが、もう難しいんだろうなと自分の昔を振り返ったりもしていた。
もっと教育に組込んで欲しいが、政治を動かしている政治家達は投票率が上がったら都合が悪いだろうから、絶対にやらないだろうなと。そして家庭内で行うには両親に依存しすぎだし、全体で見ると格差が酷く歪になるだろう。自分もそうだが、様々な理由で親から教育されないものが取りこぼされるし、そういった人々こそ選挙には行くべきだと思っている。
いつも選挙の時、票を投じたい人や政党など1つとしてなく、まさしく断腸の思いで投票するも、多数派には入れないのでいつもささやかな意思表示のみに留まっていた。
その選び方も、個人的最低を除外した後から選ぶのだが、その判断基準が選挙の度に酷くなっているなと自分でも思っている。年寄りよりは若い方がまだマシだろうお前もまだ数十年生きるんだらかな、といった具合なのでお察しだろう。
ここ数年は特にしんどくて、これ海外だったらもっと暴動起きてるんじゃないのか?と思いながら、でも自分自身も暴動を起こそうとは思えないので、他責がすぎるわけだが、思考の中でぐらい許してくれよと言い訳しながら、それでも何かある度に溜息と共に考えていた。
そうして選挙戦が始まり、投票日も近いしそろそろ情報収集するかと思ったところ、予想外に斎藤氏が善戦していて何があったんだ?というところから始まった。
知事選とは思えないぐらい、色んな情報が飛び交っていて、正直自分のレベルでは真偽が付けられなくて本当に困った。
公約などそのあたりを見るのはともかく、SNSを覗いたら先日の衆議院選よりもかなり過激な内容が飛び交っていたように感じた。事の発端を考えればそりゃそうかと思いつつも驚いた記憶がある。
もし過去に政治家や企業よりも国民のための政策を乱打してくれた実績があるなら自分の票をその人にいれるだろう。
全員そんな実績もなく、選挙の時だけ発動するお綺麗で薄っぺらい公約を掲げているだけなら、経験がなくても具体的でパワフルな公約を出してくれる人に入れる。
政策については短くキャッチーにまとめた方がわかりやすいというのはわかる。でも今はインターネットがあるんだから、アクセスしたい気持ちのある人に、わかりやすく伝える努力ぐらいはして欲しいし、実績ももっと掲載して欲しいよな、何回も当選されて、貢献したという自負があるなら華々しく載せて欲しいもんだ。
でも今回は政策や過去の実績についての言及というよりも、ヘイトスピーチにしても雑すぎないか?というようなものをたくさん見た気がする。気分が良くなかった。
だからといって発端の斎藤氏の件についても真偽が何1つわからなかった気がする。随分と盛り返しているので何か新しい事実か決定的なことでも出たのかなと思ったけど、おそらく出ていない。何かあったとしても情報の海に溺れてしまった自分にはわからなかった。
斎藤氏については事実は知り得ないが、最初の印象が最悪すぎた中、行ってきた政策の着手率が凄く高く、そこは好印象だったので無実でテコ入れしてくれたらいいなと市民として軽く考えていたぐらいだった。
無実ではなかったとしても、市民に良い政策、良い政治として還元してくれるなら正直構わないと個人的には思っている。
政治家に潔癖性を求めるには政治に対して疲弊しすぎているのだ、共に働く役所の方には申し訳ないが。今回の騒動は大きかったため、さすがに抑止力や監視力などがかなり働くと思うので、結局再当選した斎藤知事には本当に本当に気をつけてほしい。
あちこちで見聞きする裏金問題のことを考えれば、ここだけ切り取って好感を持っても許されるのでは?とすら思ってしまう。
そんなことでと思うなら、政治家の皆様はわかりやすく報酬をカットしたらいいんじゃないだろうか。その分、裏金が捗るというなら、どうしようもないが、いい加減その辺りは厳罰と返金を必須にするなどして欲しい。そこについても色々問題が、と言われても一般国民は難しいことはわからないのでは?というよりそれは国民が考える問題ではないでしょうよと思ってしまう。
他人の物を奪うなって当たり前すぎて子供でもわかることなのになと。
SNSで繋がっている友人知人は思考が似ている奴等が多く、選挙の度に見かけるツイートも共感するものが多かった。
ところが、今回はそうではなかったのだ。
斎藤氏が当選し、自分としては総合的には良かったなと思ったが、何人かの友人はそうではなかった(考えが違って当たり前なのは理解した上で、いつもより強めの乖離があるため気になったのだ)
特に①については若年層が今後投票に行く後押しになれるんじゃないかと思ってかなり嬉しかった。
②は①を起こすために必須なのでやっぱり嬉しい。
しかし先に述べていた友人の幾人かは、結果について激しい落胆だけを述べていたり、中身もなく煽られたポピュリズムのクソ結果じゃないかと、アメリカ大統領選と絡めてそんなことを言ったりしていた。
彼は自分よりも結果を重視するタイプだと思っていたので、驚いて、多分少しショックで、今こんな長々と書いてるんだろう。
勝手に落胆しているので悪いのはこちら側であるし、本人と揉めたい訳ではないので、不特定多数への問いかけという手法を取っているだけということは理解して欲しい。
新旧メディアの対決のように言われていて、最終的に形の掴みにくい「既得権益者達」と「ハメられた斎藤氏」という、権力に切り込もうとして虐げられた者という日本人の好きそうな構図に合致してしまったなとは思うが、先にも述べた通り斎藤氏自身の報酬のカットや学校関連の予算増額など、目に見えた恩恵を受けた県民だっているのだ。
面と向かってディベートできず匿名で文章を書いている自分は狡いとわかっているが、じゃあ今回はポピュリズムを嘆いている人達はどうしたら良かったと思うんだろう、今後どう政治を見ていけばいいのか教えてくれよと、そういうメッセージを投じたかった。
感情論も入った文章になっている自覚はあるが、自分と違う意見を非難したり馬鹿にしたいわけじゃなくて、自分の意見すらままならず、自分の思いもよらない考えの過程に思考が至らないだけなので、教えて欲しい。あと、あんまり怖いことや難しいこと言われると泣いてしまうので、なるべく優しく頼みたい。
その点、政治家はプロだ。そんな政治家の行ったことを、生きて暮らしている中で自分が感じた気持ちを投じて是非とするのが選挙だ。
期待されて当確した政治家がパッとしなかったら、次回はAを落としてBにする。それでいいと思うんだが、そんなに悪いことなんだろうか。ここ数年はどんなに否と叫ぶ人々がいてもその変更すらままならなかったと思うんだが。
そういう意味では空気感に煽られたとしても、今まで選挙に興味すらなかった層が10%以上選挙に足を運んだということだけでもかなりの快挙なんじゃないか。そしてそういう層が今後も選挙に行ってくれるなら、国民のお気持ち1つで当選する人を選べるんじゃないか?と期待したくなる。
前回の選挙で石丸氏に投票した若者がSNSで批判されまくってた時の気持ちに似てるのかなと思わなくはない。考えた末に鼻で笑われるとかたまったもんじゃない。わからなくても詳しくなくても知りたい気持ちはあるのだ。
これからお目にかける雑文は、データにもエビデンスにも専門知にも基づいたものではない。
むしろ一市井の人間の有限(どころか乏しい)観察と未熟な想念、そして「何か書かなければならない」という衝迫のみを支えとしている。昔風に言えば標題のとおり印象批評だし、現代風に言えば単なるお気持ちである。
それでも、虚言や流言、罵詈雑言が猖獗を極めるクソッタレインターネットへ供する一服の清涼剤たらんという意志を持って草した文であり、そのように読まれることを希う次第である。
以下に続く文章は、主語がデカすぎるだの、事実認識がお粗末だの、構成がなってないだの様々な批判に晒されるであろうことは最初から織り込み済みである。いずれも筆者の能力の至らなさに起因するので「ごめん!」としか言いようがない。
もっとよりよい認識や知見の給源は他にあると思うので、それらに接するのが一番いいと思う。そのような批判を恐れずにあえて書く理由は、まさに標題で仄めかした「民主主義を虚無に捧げてはいけない」という信念を擁護するために自分でできることをしようと思った、ただそれだけである。
この文を書こうと思った直接のきっかけは昨日の兵庫県知事選挙である。
つい1週間ほど前に太平洋の向こう側でトランプが当選し、「MAGAくんさぁ……」という軽侮の念を抱きつつも、どこか他人事の如く受け止めていた自分がいた。
しかし、メディアやネットでパワハラ野郎だの私利私欲を極めたゴミだのサイコパスだのさんざん叩かれた斎藤元彦がメイク・ヒョーゴ・グレート・アゲインした途端、愚かな民衆なる集合は爆弾ゲームよろしく我々にヒョイと手渡されたというわけだ。
尤も、自分の最初の認識がそもそも間違っていたというのは認めるにやぶさかでない。要は愚かな民衆も、賢明な民衆もどこまでいっても抽象概念で、そのような概念で語れる事柄には限界があるという単純な原則をしばし忘れて物を考えがちというだけのことだ。
このような間違った考えで一喜一憂しているのは筆者だけはないらしい。
選挙結果が出てから、兵庫県知事選は立花某にハックされたということや、あるいはネットで真偽不明の奇々怪々なフェイクニュースを浴びせられて正常な判断ができなくなった結果だとして、SNSと選挙の結びつきを否定的に見ている向きがある。
もちろん、我々はアメリカの大統領選にロシアやイランが介入しようとしたという事例を知っている。ならず者国家の裏工作を挙げるのが極端だとすれば、ケンブリッジ・アナリティカのような倫理観の欠片もない連中がいることも知っているはずだ。
しかし、現段階の情報でもって、兵庫県民は騙されたのだという前提で話を進めるのは問題だろう。それをもってしても社会の底が抜けたとか、もはや民主主義は終わりだという悲観的で短絡的な発想に至りがちということを見ても、この種の作業仮説は民主主義に有益どころか有害であることは明らかだ。そういう人たちがエピストクラシーを実現するのか、リベラルな思考をもった等質的な市民たちによる思想のゲーテッド・コミュニティを作るのかは知らないが、それはきっと非民主主義的な操作で行われるものではないか。筆者はリベラル嫌いだが、それでも自分たちの理念に後ろ足で砂をかけるような彼ら・彼女らは見たくないというのが嘘偽らざる思いだ。
各種報道を見る限りでは、兵庫県民は普通の民主主義国家における市民と同じくらいの能力や感覚を持ち、それなりに各候補者を比較考量した上で投票に臨んだと考える方が現実に近い、と筆者は考えている。
ここでは斎藤や稲村の政策についてどっちがいいとかいうことは考慮の埒外に置くが、少なくとも「何かいじめられててかわいそうだから!」とか「メディアの一辺倒な報道が気持ち悪いから!」だけで110万票も取れるんだとしたら、残念ながら民主主義以外の選択肢の有効性も検討すべき時期が来ているのかもしれない。もちろん、実際のところそうではないのではないか、というのが筆者の見立てだ。
何が斎藤元彦に再び県庁の敷居を跨ぐことを許したのか。それを考えるために補助線を引きたい。もちろん、論理的必然性をもった操作ではない。何故ならこれは印象批評にすぎないので。
少し前に国民民主党の玉木代表の不倫問題が報じられた。不倫の責任の取り方は様々だろうが、代表を続投しこれからも頑張っていくということが比較的多くの人に受け入れられているように思った。
その方策の是非はともあれ、手取りを増やそうというストレートな訴えが若者を中心に多くの支持を広げていて、それに水を差すような報道を苦々しく思っている、あるいはある程度「相対化」可能な事柄だとして脇に追いやってもいいという雰囲気があるように筆者の目には写った。
筆者個人はこの種の思潮には到底賛同できない。不倫するような人間に増やしてもらう手取りなんぞはこちらから願い下げである。議員辞職するまでではないとしても、代表を辞任し一兵卒として政策の実現に邁進するということだって責任の取り方としてありえたのではないかと思っている。
どれだけ政策を懸命に訴えても、政策を進める当事者の「人品」というのは、決しておざなりにしていいものではない、と個人的には思う。実際、自民党の政治資金収支報告書不記載の問題に端を発する「裏金」逆風はそのような考えから生まれたわけだし、与野党伯仲という結果に実を結んだと考えれば、個人的かつ奇異な考えではないとも思う。であれば、妻子ある男性が別の女性に懸想することを問題視しなくていいのだろうか(妻子にとっては経験しなくていい嫌な出来事であるし、相手方の女性が公党の代表者と不倫したことがバレればその社会的地位をも脅かしかねないという帰結を予想できなかったのであれば、政治家どころか責任ある社会人としても御しがたいレベルの不見識なのではないか。)。
とはいえ、上の筆者の考えは少数派に属するものだと思う。不倫は家族や当事者の間で解決されるべきでダメだったら家庭裁判所へどぞ、というような私的な話で、こんなことのために俺たちの手取りが台無しになってたまるか、玉木はきっちり反省してその後頑張れという意見が大勢を占めているのではないか。
そしてこれは、斎藤が公益通報制度を度外視して告発者を袋小路に追い込んだことや、トランプが弄する信じがたい人種差別的・性差別的言動によって当事者が傷つけられることを等閑視するメンタリティと相通ずるものがあるのではないか。
もちろん、そういった非倫理的な行いに諸手を挙げて賛成するダークトライアドガチ勢のような人間ばかりではないだろう。しかし、それはそれとして、というような相対的態度をとらざるを得ないのは、言い換えれば自分たちにとって焦眉の問題が別にあるということにほかならない。
このような相対化を導くに至る根源的な不満の存在それ自体は目新しい指摘でもなんでもない。ラストベルトの労働者も、閉塞感を感じてきた兵庫県民も、手取りが増えない若者のいずれも「古くて新しい問題」であり続けている。目新しいことでもないのに、定期的にこの種の話が出てくるのは、解決が困難なことの証である。そもそも解決可能な話なのか? 全てのステークホルダーに満足を与えられるほどのリソースがあるのか? 自分たちの満足のために誰かにふるわれる不正義もやむなしとする世界で、オメラスから立ち去る勇気を持つ者たちが果たしてどれだけいるのか? 我々はずっとこの問いかけの中に閉じ込められているし、この困難さを抱きしめることが民主主義の要諦なのかもしれない。
この文では、貧しくあってもせめて人並みの倫理ぐらいは持てよバーカ、とか、人民の悲しいまでの想像力の欠如を嘆かん、という倫理的お説教や慨嘆を述べ立てるつもりは毛ほどもない(そういうリベラルへの嫌悪感を筆者は多くの人と共有するものである。)。政治家に自分たちの方を向いてほしい、助けてほしいというのは当然だし、その願いが届くのが民主主義のいいところではないだろうか。
だが、その時、もしかしたら誰かを犠牲にしているのかもしれないという一抹の不安は感じてほしいなとは思っている。それが望蜀に属する話だとしたら、民主主義の皮を被った椅子取りゲームを続けるべく、我々はいつ鳴りやむか分からない音楽に耳をそばだて、減り続ける椅子を横目に生きていくのだろう。これがいいとは、筆者は決して思えないが。
「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。」
大人になってから『のび太の結婚前夜』を改めて見た時に、「なんて当たり前のことを言ってんだ。よっぽど褒める言葉が見つからない時用の言葉って感じだ。」という冷笑的な感想を持った。しかし、今ならのび太が全くもって稀有な人間であったと痛感せざるを得ない。
立花が言うように元県民局長がどんなに酷いことをしていても(逆にどんなにいいことをしていても)、斎藤の拙速かつ強引な統治手法(このことは必ずしも立証されていないが、その後の百条委に至るまでの対応を見ればそう思わざるを得ない)に問題意識を感じて声を上げたこと、そして斎藤がそれをこれまた拙速かつ強引に対峙し、県政停滞のハードランディングに至ったのとは別の問題である。その対応に関する法的な問題などはこの際措くとしても、百条委で問われた道義的責任を「わからない」と述べた斎藤が、再選で得た民意を盾にこの問題を「相対化」しようとする危険性がないとは決して言えないだろう(当選後、記者団に対して「知事部局として一緒にやっていくのは公務員としての責務」と述べたのは、県職員に対して「俺は民意を得たんだからお前らがついてくるのは当然だよな?」と釘を刺した形とも言えるし、先行きは不透明だ。)。
斎藤に投票した人は、せめてそういう状況が棚上げになったままであることを認識した上で、自分たちの居心地の悪さに素直に向き合ってほしいと思う。(元県民局長が死んだのは別の理由であるという卑劣な矮小化をするのではなく、)たとえ拙速で強引でも斎藤が自分たちにとっていい兵庫県を作ってくれると信じて投票したのだとすれば、その結果誰かが痛い目を見ることになるかもしれず、それはひょっとすると顔見知りかもしれない。その時、その人の不幸を悲しみ、その人の幸せのために何かできるだろうか。そういった考えを頭の片隅に置き続けることが、民主主義のレジリエンスを形作る重要な要素だと筆者は考える。清廉潔白完全無欠な政治家が存在しない世界で、民主主義を選び取った全ての清廉潔白完全無欠でない我々にとって、「それがいちばん人間にとってだいじなこと」ではないだろうか。
日々の生活に汲々として自分の人生にやりきれなさを感じながら 「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむ」というのはそうそうできることではない。とはいえ、できていないなと思うだけでも、「あの時できなかったから次こそは」という思いにつなげられるかもしれない。
@kataokamasashi
座間未来の党代表/相談受付実績1,000件以上!/市民一人ひとりの声をお聴きし、迅速に解決します!/福祉用具専門相談員/将棋五段/明治大学商学部卒/座間市への要望やお困り事、何でもご相談下さい!/かたおか将志直通電話番号080-3718-0800
神奈川県 座間市go2senkyo.com/seijika/179865誕生日: 1994年9月12日2019年10月からTwitterを利用しています
この人、数年前までN国関係者だったけど、どうやら新しい党を作って市議になって、そこを隠れ蓑に立花の活動を支援してるぽい。
あなたが法律を守っていればもう少し結果は良くなったかもしれませんね。
西宮市民から西宮市長が腕章を着けていないと画像が送られてきました。
何がなんでも法律を守らないという姿勢が市民からは異様に思われていましたよ。
https://megalodon.jp/2024-1118-2041-23/https://x.com:443/kataokamasashi/status/1858281693431599472
市民生活はあなたのおもちゃでもないし、金儲けの道具でもないし、使い潰していいリソースでもなければ、バズるための資源でもない。
縁はあるかもしれないけど、それをいうなら隣の洲本市だし、ふるさと納税問題の後始末でまだゴタゴタしてるところに颯爽と切り込んで解決してくれたら本当にかっこいいと思う。
そもそも今の地方は都市圏に人が出ていってマンパワーが足りてない。
地域活動も縮小の一方だし、こういうフリーライダーにサービスする余裕なんてない。
自分たちの生活を自分たちで繋ぐので精一杯だし、実際自分の同級生、2クラス80人とかも、地元に残ってるのは数えるほどしかいない。
立花さんは、小さい頃に訪れた古き良きふるさとをイメージしてるのかもしれないけど、その風景も昔のもので今は荒廃して無くなってるから、幻想を抱かないで欲しいし、仮に残ってるのであればそれは今現地に残っている人が維持してきたものだから、リスペクトを持って欲しいし、それを使い潰して既存するようなことはしないでほしい。
観光に来る人は観光というルートで来て、提供するものにちゃんと対価を落としてくれている。
これをちゃんとマネタイズできていないのは地元の課題だし、ここが弱い、ちゃんと継続できるように考えろと言われたら、それはまさにその通りだと思う。
けど、それは今、こっちに住んで、生活を営んでいる人の課題であって、組織の長としてくるのであれば、それをどう運営しようとするのか。
今ここで暮らしている自分たちの生活を、どう維持していこうとするのか、どう変えていこうとするのか、そこを見せずに、ただビジネスのために選挙を利用するのなら、まさにLUUPのようなフリーライダーだから、そういうのはマンパワーや資源に余裕のある東京とか神戸でやって欲しいというのが本音。
今の市長と比較すると、少なくとも自分たちの生活を壊すようなことはしていない。
点数づけするなら当然満点なんてことはとても言えないし、要望してもやってくれないこと、改善してほしいこと、言いたいことはいくらでもある。
それでも、向き合ってくれているという実感はあるし、地方という状況からして、どうしようもないなりに足掻いてるんだろうな、と感じることはしばしばある。
けど、立花さんがトップになるなら、それこそ絞り尽くして、利用し尽くして、全部お金に変えて、何も無くなった絞りかすだけ残して、自分は外に拠点があるから気軽に捨てて出ていくんだろうな。という未来がありありと見える。
もう一度言う。
自治体の運営は住んでいる人のためのもので、インフルエンサーのおもちゃでも金儲けの道具でも、youtuberの素材でもなんでもない。
それでも、そういった仕組み、今の世の中を変えたいと言う立花さんの姿勢自体は感じるものがあるし、実際自分もある側面ではNHKもうちょっとどうにかならんのか?と思うところがないかと言われたら嘘になる。
ちゃんとこちらに住む一人の市民として、民意を代弁するものとして。
議場でちゃんとできてない職員をけちょんけちょんにする立花さんはみてみたいと思うし、居眠りしてる議員とか、ボケた質問しかしてない議員とか、ぬるい解答しかしてない職員とか、そういうダメなところに真正面からぶつかってほしい、と思う。
( NHK選挙報道より https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241117/k10014640801000.html )
どちらが勝ってもきっとそうなるだろうなと思ったので、強く強く強調しておきたいのだが、兵庫県民がパワハラを良しとしたわけではないし、県民が県庁職員の命を軽んじているわけではない。
逆に言えば、もしも稲村和美が選ばれていたとしても、パワハラが許されない県民性だ、と言うこともできなかった。
これは右派左派問わず、まず念頭において欲しい。ブコメをする際にも一瞬だけ書き込む手を止めて考えて欲しい。
97万人もの人間、投票したうちの39.6%の人間の意思を無視した発言になってないか。
いわゆる、従来の選挙として、前半は以下のような感じだった。
自民党の大敗が記憶に新しいが、小選挙区で自民党の内紛が起きていたところが概ね負けていたことを思い出すと、清水貴之立候補表明あたりで少し不穏さを感じていたと思う。
ただ、良くも悪くもテレビや新聞のマスメディアでは、齋藤が再出馬するとは、という論調であった。
そもそもで言えば、県議会が(維新も含めて)全会一致で県知事の不信任決議をする、というのが異例だった。
民意と言えば聞こえは良いが、マスメディアの報道を受けて支持母体からの圧力が日々増しており、かかる火の粉を振り払った結果、というところだろう。
事ここに至って、齋藤元彦が県知事失職以前に取っていた言動が、功を奏していた。
齋藤元彦は、「公益通報に該当するとは思っていない」や「瑕疵はない」と述べており、発言に一貫性があった。(端的に言えば過ちを認めて謝罪していない)
告発文書が7つの項目からなっているのであれば、本来マスメディアは、それぞれについて裏を取り、特に知事選挙や政治資金パーティーでの違法行為を追求すべきであった。
失職に至る経緯である、告発文書の報道が、主に理解しやすく視聴率を稼ぎやすいパワハラとおねだりに集中していた点が、事態を悪化させていた。
ハッキリとここで書いてしまえば、齋藤元彦の選挙戦略は至極全うである。
街頭演説では、おおむね、前知事の井戸敏三県政の無駄遣いの批判、自身の県政でのお金の使い方(高校への投資、企業との連携)の話、未来ある子供たちへの投資の重視などが語られている。
そもそもの前回の知事選挙でも、トップダウン式の井戸県政を嫌ったと評されるが、基本的には自民党の分裂選挙であり、自民党の内紛と勢いのある維新への合流が生んだ結果と言うこともできる。
つまり、現職なのでそもそもの地盤はしっかりとあり、井戸敏三県政から路線変更を行って財政再建を行っていて、元々市町村とは折り合いが悪い、という点までは織り込み済みの状況である。
マスメディア側に誤算があったとすれば、「パワハラぐらいみんなやってるだろ」とか「あの程度のおねだりは役得じゃないの」という市民の声がカメラの前で拾えるはずがない、という至極当然の目線を忘れていたからだと言える。
トップダウンの井戸県政を嫌ったはずの齋藤県政で、強引とも言える市町への予算縮減などをもっとフォーカスして解説すべきだったと思う。
逆に言えば、稲村と清水との分裂選挙と言える状況で、稲村和美陣営には手抜かりがあったと言われても仕方がない。
一本化を図ろうとした市町の連帯を示す文書は、明らかに遅かったし、清水貴之への根回しも済んでいるようには見えなかった。
マスメディアによる齋藤元彦おろしは成功している。通常こうした場合、再出馬や再選はあまり現実感が無い。
そのため、マスメディア側のいわゆる醜聞を集める準備期間がほぼなかった点がある。
また、全国的にも良く知られているが、関西圏は維新に対しては通常親和的な報道が行われる。
齋藤元彦は、前回の兵庫県知事時代に、自民党と日本維新の会と共闘して県政を行っていた。
マスメディアとして、及び腰になっていたのではないかという点は、指摘できると思う。
また、醜聞、いわゆるゴシップとして視聴率を稼ぎやすいネタが、齋藤元彦を利するものであった点も報道が少ない理由の一つと言える。
(もしも前知事時代に女性関係の醜聞があれば、こぞって報道されていたであろうことは想像に難くない)
しかし、コメント欄などを見ると、メディアに騙されていた、齋藤元彦を応援しますという声は少なからずあり、影響が無かったとは言えない。
また、街頭演説に限って観てみるとわかるが、明らかにトレーニングを受けた演説慣れした者と、あまり演説しなれていない者とハッキリわかれる。是非聞き比べて欲しい。
出直し選挙で民意を問うでべきであるという逃げを打った県議会やマスメディアは、再出馬されてしまった場合に、取りうる手段が無い。
現に、今回民意を反映して(少なくとも当選する程度の民意は得ている)知事に返り咲いた為、県議会は筋論としては協力せざるを得ない。
また、あまり話題になっていないが、辞任と失職では県知事の任期に差があり、失職後に出直し選挙で当選しているので、任期はリセットされており、ここから4年の任期となる。
恐らく、齋藤元彦兵庫県知事の元、今後も市町とは揉めながら県政を行っていくと思われる。
文書問題調査特別委員会(通称、百条委員会)については、粛々と聞き取りと調査が進めらると思うが、おそらく公益通報には該当しない、パワーハラスメントに該当する行為はあった、給与の自主返納あたりで手打ちになると思う。
これはあくまでも一般論だが、刺すべきタイミングで的確に刺せないと、政治ではうまくことが運ぶことは無い。
兵庫県警が公益通報として受け取らざるを得ない内容、厚生労働省が調査せざるを得ない内容、法務省が調査せざるを得ない内容として、それぞれピンポイントに匿名で通報し、マスメディアにも流した場合、結果は違ったように思う。
五百籏頭氏が傑物であったことに異論は無く、執務中の急性大動脈解離については痛ましいとしか言いようがなく、それがストレスを起因としたものであったかもしれないが、それを知事の問題とするには飛躍が過ぎる。
繰り返しになるが、稲村和美へと票を投じた97万人がいたことを忘れてはいけない。ほぼ、齋藤元彦では無い人物というワンイシューで集まった票がこれほどの規模だったことを忘れずに話をして欲しいと思う。
立花孝志の選挙戦略が当たったのではないかという話があったが、そもそもで言うと県議会が推す候補が一本化できていない(稲村と清水に分かれていた)点に問題があった。
単純な算数だが、対立候補が稲村和美(と共産党)だけだった場合、当選していたのは稲村和美であった。
県知事の任期は4年であり、第53代兵庫県知事の齋藤元彦は、2021年8月1日付に県知事になったので、ほうっておいても2025年7月末には任期を迎えた。
文書問題調査特別委員会が設置されたのであれば、この調査結果を待ってから辞職を迫るのが筋であった。
マスメディアの大変良くない点だと常々思っているが、加熱した報道で辞職を迫るのはいい加減どうにかならないか。それは報道では無く扇動である。また辞職は罪を償う手段ではない。
齋藤元彦が、井戸敏三県政を嫌っていることは外部からもうかがい知ることが出来るし、法律上はどうあれいわゆるパワハラを日常的に行っていたであろうことも百条委のアンケート結果からは伺い知ることが出来る。
ただ、それを告発する為にとった手法が公益通報に該当するのか、内容が真実だったとして法律上の罪に問われるものなのかは、また別の問題である。
そういう、法律上はどうあれ報道され一部でも事実があり実害が出たのであれば責任を取って辞めるべきだという、マスコミを利用した政治手法が、うまくいかなくなった結果だと考えている。
(贔屓目に見ても怪文書としか言いようのないあの告発文書でここまでの騒動になるのだから、実情はさらに酷いのだろうと思うが、それは司法を飛ばして私刑を行って良い理由にはならない)
風向きで辞任を迫ったり、風向きでついたり離れたりしていると、触れるメディアからの情報で同様に風向きが変わるのは当たり前だろう。
返す返すも、百条委の結果を待って、結論が出てから辞任を迫っていれば違っていたように思う。
パワハラの認定がなされたあとの再選と、パワハラ疑いの再選は大きな隔たりがある。
パワーハラスメントは、録音録画を行えば証明できるような単純なものでは無い。うっかりパワハラではないとされた時に、職も信用も失う危険な行為なのだ。
そして、パワハラを行う人間は、誰がやったかわからないような不特定多数がいるような場所でパワハラをしない。通常、パワハラは録音データが漏れてしまえば即特定されるのだ。
そして、日本のマスメディアには信用が無い。暴露は得意だが保護は不得意だ。
そうすると、パワハラは日常的に行われるのに、職を失いたくないから何の証拠も出てこないという状況が容易に起こりうる。
従来のマスコミのゴシップと同様の効果を、ほぼ単独で行えた点にこそ、大きな価値が出てしまった。
ただ、逆に言えば、事実に基づき、政策で判断してほしいというような選挙戦略には、付け入る隙は無い。
やはり、そろそろマスメディアが私刑として機能し、首長を叩き辞任させようとする傾向は慎むべきなのだと思う。
辞任以外の落としどころを作らない限り、また同様のメディアスクラムが起きた時に、立花孝志はおそらく違う手法で望んだ結果を得るだろうと思う。
実際の所、流れた情報の何が本当で、何がデマなのかは誰にも判断できず、なにが正しいのか理解できている人はほぼいないと思われます。
とにもかくにも、立花氏の戦略が、今の時代を的確に捉えており、柔軟に対応できたことが大きいと思われます。
従来の選挙戦略では到底太刀打ちができない、新しい選挙のやり方が生まれてきたなという感想です。
@tokushinchannel
https://megalodon.jp/2024-1118-1845-54/https://x.com:443/tokushinchannel/status/1858444726560780618
訴状によると、男性は1987年に教団に入信したという。「富山をよくするために藤井(裕久)市長や自民党所属の市議会議員らを応援し、選挙協力に力を尽くしてきた」という。しかし、安倍晋三元首相の銃撃事件以降、報道によって「突然巻き起こった社会的偏見の嵐にさらされることになった信者たちは、息をひそめるようにして事態の成り行きを見守るほかはなかった」という。
提訴後に会見した男性は「信者も含めすべての市民に対して中立、公平、平等であってほしい。市政に参加し、意見する場を取り戻したい」と述べた。代理人の徳永信一弁護士によると、同様の訴訟は全国で初めてという。
https://web.archive.org/web/20240219135739/https://www.asahi.com/articles/ASQDJ5T75QDHPISC00D.html
選択肢が存在することを最初から受け入れないで狭い選択だけで正しく判断し続けられると思う?
仮に間違ったとしても選択した経験は次の選択の機会の糧になると思うよ。
善き市民というのはそうやって形作られると思うの。
民度の高いホワイト企業なら、そもそも参加したくない人をむりやり参加させることはしない
会社の同僚の会話だと、お互いあまりよく知らないわけで、手の内を小出しにしながらキャラを認知し合ってしていくんだろう
会社での立ち位置をベースに容姿や声の大きさなどだいたいの序列はコンセンサスがとれていて、それから大きく離れるキャラを主張すると違和感を持たれて、場合によってはいじめられる
テーマ設定を根本から間違えてるの衆院選と同じ大敗したパターンじゃん。
衆院選では市民の声を聴いてれば常識的に理解できる「経済」を一番重視するに決まってるから
一方はてブは極左バカに洗脳されて「裏金」 「統一教会」でいけると勘違いしてて立憲共産もエコチェンバーに飲まれて伸び悩んだ。
兵庫も同じようにパラハラ一本足で行けると勘違いしてエコチェンバーの誤った課題設定をした。
県民は当然それ以外も見て重視する内容が違うのは当たり前で
https://nordot.app/1230859205733745222
ふつう重視するのは当然こっちだよね。
神戸市民の皆様、かつて「日本第三の都市」と自負していた神戸の惨状をどう受け止めていますか? 輝かしい過去の栄光は今や遠い夢。福岡市や川崎市にも追い抜かれ、政令市序列7位に転落した哀れな姿を直視する勇気はありますか?
一度は150万人を超えた人口が再び150万人を割り込み、もはや「大都市」の看板すら危うい状況です。神戸市は今や、「衰退都市」の代名詞となりつつあります。
かつての国際都市としての威光は完全に失われ、今や大阪の影に隠れた存在でしかありません。神戸市民の皆様、この現実をどう受け止めていますか? 神戸市の凋落を傍観するしかない無力感、そして他の成長する都市を羨む屈辱感を日々味わっているのではないでしょうか。
神戸市の未来は暗澹たるものです。人口減少、経済停滞、そして都市としての魅力の喪失。これが神戸市民の皆様が直面している冷徹な現実なのです。かつての誇り高き港町は、今や時代に取り残された「負け組」の代表格となってしまいました。
神戸市民の皆様、この現実を受け入れる準備はできていますか? もはや「震災」を言い訳にすることもできません。神戸市の衰退は、無能な行政と市民の慢心がもたらした必然の結果なのです。神戸市は今後も衰退の一途を辿り、やがては大阪のベッドタウンとして消えゆく運命にあるのかもしれません。
かつての栄光は二度と戻ってきません。神戸市民の皆様、あなた方の子や孫の世代は、この衰退した都市に未来を見出すことができるでしょうか? おそらく彼らは、より活気のある都市へと流出していくことでしょう。神戸市に残るのは、高齢者と希望を失った人々だけです。
神戸市民の皆様、あなた方の誇りはどこへ行ってしまったのでしょうか? かつての輝かしい神戸の面影は、もはやどこにも見当たりません。あなた方は今、日本中から哀れみの目で見られているのです。神戸市民であることを誇りに思えますか? それとも恥ずかしく思いますか?
神戸市の衰退は止まりません。あなた方にできることは何もないのです。ただ、この哀れな都市の衰退を見守るしかありません。神戸市民の皆様、あなた方の人生は、この衰退都市とともに終わりを迎えるのです。