はてなキーワード: ポールとは
吊り革は届かない。背伸びすれば指の第1関節で引っ掛けるくらいはできる。
(だからといってチビに吊り革を合わせるわけにもいかないのは分かる)
世間じゃ蛇蝎のごとく嫌われる狛犬ポジが取れればマシ。嫌がられるのは知ってるけどここにいる時が一番楽。まあここにいられることは滅多にないけど。
シートの端についてるポール的なやつに掴めるのも楽。
ギリギリな状態で吊り革に指を引っ掛けてるときにリュック背負ったままのサラリーマンや男子学生が前方にくると息がし辛い。
というかそもそも混んでると他人の身体が顔の周辺を囲むのでそりゃ息苦しいよね。
子供の頃は「なんか知らんけど乗ると気持ち悪くなる」のが理由で電車嫌いだった。
今も嫌いだけど車移動もできるので余程必要な時以外は避けられるだけマシ。
でもたまに乗るとやっぱ満員電車ってクソだなって思う。
お前らキーボードを買え~
とっととキーボードを買え~
なんでも良いワケじゃない~
シャーシがフルアルミのやつを買え~
表面がanodizing(陽極酸化処理)されてるのを買え~
e-coating(電気泳動塗装)されてるのを買え~
所有欲を満たす質感~
ガスケットマウントのやつを買え~
沈み込むやつを買え~
金属シャーシの高級機なら~
打鍵感はともかく音が悪くなる~買うな~
フォームが何枚も入ってるやつを買え~
吸音素材でコットコトに一歩近づける~
金属の重い筐体であればあるほど音は低くできる~
でも上下に分かれてるタイプは金属反響音対策してあるのを買え~
下手したらプラ筐体の万超えカスタム機種の方がコットコトになる始末~
modするのもいいが~
通ならソルダーでもいいんだが~
みんな大好きなCherry Profileキーキャップを使うなら~
北向きのやつらは意識が低い~
小さめレイアウトのを選ぶほど~
だいたいこのへんのところで買え~
いつも通り昼過ぎに起きる。昼ごはんにカレーメシ(スパイスチキンカレー味)を食べる。スーパーで120円!!で売ってあったので、買い溜めした内のひとつ。たいして期待していなかったが、これが非常に美味しかった。カレーメシではハヤシライス味が一番だと思っていたが、それ以上かもしれない。
それから、パスポート申請をしに立川へ行く。最寄駅で忘れものしたことに気づき、入場記録を消してもらおうとしたら150円かかった。自己嫌悪に苛まれる。家へ戻り、ふて寝。
目が覚めたら、19時近くになっていた。アマプラで仮面の米国を観る。30年代の映画は長くて90分程度で終わるものが多いのでノートパソコンで視聴するにはちょうどいい。ほんとうはtvで観たいが。
内容としては思っていたよりもずっと面白かった。どういうわけか、脱獄映画はどれも外れたことがない。この映画が始まりだけれど、かなり完成度が高い。主演俳優のポール・ムニもアップになればなるほど良い。悔しさを滲ませた演技といい、知性と鋭さを感じる目つきだったり。まぁとにかくハンサムだからね。スカーフェイス(1932年)も観てみたい。うろ覚えだけれど、以前観た米国の受刑者を取り扱ったドキュメンタリーで、囚人を使うとかなり人件費が安くつくからささいな罪でも収監されることを思い出した。しかも世界恐慌真っ只中の時代にできたものだから、生活に困り、軽い罪を犯して捕まった大勢の人をタダ同然で過酷な労働に従事させられたのを批判した映画なのかなぁ。そうだったら、今でも残っているぐらいアメリカのかなり根深い問題の一つなんだろうな。
映画を観終わったら、カレからLINEが来ていた。ハッピーなニュースがあったから、次会った時教えてくれるらしい。よかったね。
自分は仮免と卒検の実技でそれぞれ一回ずつ落ちたことがある。地元の知り合いたちは当たり前のように一発オーケーを出すから、自分がものすげえポンコツだと思った。
でも、インターネットの知り合いの話を聞いてみたら、5回以上落ちるのがデフォ、という地域もあるようだ。停止線をちょっとはみ出しただけで落ちたりとか、車の寄せが足りないとか、小さい理由で何度も何度も落とされている人もいるようだ。
自分の通っていた自動車学校はポールにぶつかるとか、脱輪するとか、停止するべきところでしなかったとか、そのぐらいでしか落とされてない。寄せ幅とかの細かい指定なんてなかったし、かなり判定がゆるかったんだなあ、自分の地元は……
映画「オッペンハイマー」と福島と 核の被害語ることは「悪」なのか
笠井哲也
7月下旬から米国で公開されたある映画が話題を呼んでいる。「オッペンハイマー」――。「原爆の父」とも呼ばれる物理学者ロバート・オッペンハイマーの伝記映画だ。米国では好評を博すが、米デュポール大学(シカゴ)の宮本ゆき教授(倫理学)は強い憤りと違和感を抱いているという。米国でも、そして福島でも、核(原子力)を語るときに「置き去りにされているもの」を考える。
また違和感か。知性の欠片もない。
「女性の皮膚がめくれるシーンがありますが、きれいなんです。皮膚がめくれて赤みが出るとかではなくて、うっすらはがれるんです。これが、米国の多数が不愉快にならない、ギリギリの線なのかなという感じを受けました」
クラスター爆弾がそうだ。化学兵器もそう。アメリカは全て肯定している。
映画は米国内では好評価を得ており、原作もベストセラーになっている。同日公開の映画「バービー」と2本立てで見ようという動きが起き、「バーベンハイマー」なる造語もできた。「本当に核がエンタメなんです。スパイダーマンやハルクなどスーパーヒーローも、放射能を取り込むことで強くなりますよね」
そこには1940年代後半から続く、「核(原子力)は偉大だが、手なずけられる力」という考え方がにじんでいると、宮本さんはみる。核は人の手でコントロールができるが、扱う人間によって善にも悪にもなる、ということだ。
「核を取り合うというシーンはハリウッド映画でもよく登場します。自分たちが持つのはいいけど、悪いやつの手に渡るのはいけないから取り返そうっていう、それなんです」
こうした核への見方が広がる社会の中、見過ごされてきたのが被曝被害だと、宮本さんは強調する。
そこには政治的な意図も絡む。米国をはじめとする核保有国にとって、核兵器や原発の技術を掌握することは、国の覇権を強固にするための手段でもあった。このため、保有国が被曝影響を隠すのは必然であったと、宮本さんは考える。
「例えば、アフリカなどで産出されるウラン鉱石を精製してできる物質は、英語で『イエローケーキ』と呼ばれます。原子力の原材料であるにもかかわらず、放射性物質とは認識されていません。放射性物質だと呼んでしまえば、(原産国が)力を持ってしまうことになりかねない。言葉によっても、支配下に置くわけです」
それで処理水とか言っているのはなんのぎゃぐなの?
「科学」も動員されてきた。文化人類学者のガブリエル・ヘクトは、国際原子力機関(IAEA)はこうした核による支配の構造を定着させるためにできたと批判する。つまり、IAEAは、核兵器をつくらない確約と引き換えに、原子力技術を提供し、核保有国の資源に頼らざるを得ない構造を作るのに重要な役割も買ってきた――、と。
マスコミが抜け落ちている。
米国には、核実験の影響で被曝し、がんなどを患った住民らを対象とした「放射線被曝補償法」がある。
でも、と宮本さん。「補償は、核で国の防衛に貢献したことと引き換えの『感謝』の意味もあり、結局は核抑止論の上に成り立っている。だから、『核兵器をなくそう』にはつながりにくいんです」
核施設に対して「恩義」を感じる住民も多いという。「核兵器で私たちは国を守ってきた。これが善なんだから、となれば、それにもの申す人はとんでもない『非国民』となってしまいます。被曝の話は、被曝地でこそ、できなくなっています」
東京電力福島第一原発事故後、福島の「復興」はハンフォードをモデルに形作られてきた。2021年4月に発足した一般社団法人「福島浜通りトライデック」は、ハンフォードの周辺地域を基盤とする商工会議所的な存在である「トライデック」から名を取った。22年9月には連携協力協定も締結している。
だが、そこで米国と似た現象は起きていないだろうか。「政府や県が掲げる『復興』が『善』とされる一方で、それを妨げるような、被害にまつわる言説は『悪』となり、風評被害をまき散らす、というふうになっていないでしょうか」
第一原発から出る処理水の海洋放出をめぐる議論でも同様だ。放出は復興のための「善」として、政府の言う「科学的」な説明をそのまま受け入れてしまってはいないか――。
思いっきりそれやっている。
https://www.asahi.com/articles/ASR896726R84UGTB004.html
【Q&A】ALPS処理汚染水、押さえておきたい14のポイント
ヒロシマもビキニも大して何も感じない国アメ公どもの不謹慎な日をリストアップしてみたぞ
どうせ世も末なんだからこのリストに著作権なんかねぇから、日めくりカレンダーも薄い本も関脇昇進もなんだってしてもらってもいいぜ
以下のエントリにぶら下がったはてな民によるブコメを読んでいて、「ああやっぱりいつのもはてな民達だ…」などとぼんやり考えていたらふと、芥川龍之介の蜘蛛の糸を思い出した。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2023/07/post-509289.html
血の池地獄で他の罪人と共に浮き沈みを繰り返していたカンダタは、生前にたった一度、蜘蛛を殺さなかった。たったそれだけの「良いこと」をその血の池地獄の様子をたまたま眺めていた天上界のお釈迦様が思い出し、天界から蜘蛛の糸を垂らしてカンダタを地獄から救ってあげようとしたが、その蜘蛛の糸を上っていたカンダタは、自分の後から続々と上ってきた他の罪人に気づき、「こらっ!落ちてまうやろ!上ってくんな!」と叫んだら、その瞬間、糸はプチッと切れて血の池地獄に真っ逆さま、というあの話だ。
ていうか、田野氏の2年前のツイート炎上の時もそう思ってた。芥川龍之介が始めた書いた童話だそうだが、芥川が伝えたかったことは曖昧で何か教訓めいたものがあるのかないのかよくわからない、と聞いたことがある。ただしかし、私は単純に、「ナチスは良いこともしていたのでは?」なるよくある言い分は、この蜘蛛の糸にそっくりな気がずっとしていたものだ。
蜘蛛の糸を喩えとみなせば、そのような一般的な言い分を認める人たちは、2派に分かれる。一派は、「ナチスは実は良いこともしていたじゃないか」として、絶対悪の淵から救い出そうとする勢力だ。これがおそらくそのような主張をする人たちの大半であろうと思われる。だから、それらの一派は蜘蛛の糸を絶対に切ったりはしない。たとえばそれらの良いことの実例の一つや二つ否定されたからと言って、それらの人たちは次から次へと蜘蛛の糸を垂らしてナチスを救い上げようとするのである。
もう一派は、蜘蛛の糸の話そのもの、みたいなものだ。良いことをしていたかもしれないことは認めるが、ホロコーストなどの悪行のせいで絶対悪の淵からは救い出せぬ、とするのである。まるでその人達は、天上界のお釈迦さまそのもののようでもある。
id:NOV1975 対戦相手を全否定するのって中々の悪手で、観客にその否定の一部でも「いやそれは正しくね?」と思わせてしまえば全否定という主張の根幹が崩れる、という最大級の弱点を無視する人多すぎ問題。
このブコメなどはまさにお釈迦さま視点である。このブコメの裏を取れば、全否定しなくとも、ナチスは否定できると言っているようなものであり、どんなにナチスに良いことがあろうとも、ブチっと蜘蛛の糸を切って血の池地獄に落としてしまえさえすればいいだけじゃないか、となるのである。
話は少し変わるけど、私自身がしょっちゅうはてな民は、お釈迦様みたいなものかもしれん、と思ってたりする。とにかく「偉そう」な物言いを常にするからだ(笑)。いや、ネット民なんてはてなに限らず、ほとんどそんなもんなのだけれど、はてな民は若干だか平均して知性が高いように思わせる「何か」があるので、その分だけお釈迦様度は高いように思われるのだ。
さて、話を戻すと、一つ言いたいのは、これらブコメを書いたはてな民たちの何人が一体、『ナチスは「良いこと」もしたのか?』を読んだのか?って話だ。この本は共著であり、およそその半分を小野寺拓也氏が著述しているのである。小野寺氏はウルリッヒ・ヘルベルトの『第三帝国』の翻訳者でもある(それがどうしたとか言わないでね。知る人ぞ知る名著です)。流石に二人とも現役のドイツ現代史研究者であり、『「良いこと」もしたのか?』は、極めて実証的に著述されている。もちろん、現代の学術的見解にも精通しているお二人だ。その観点で、記述内容自体は必要十分には詳細であり且つ正確だと考えられる。ナチスの経済政策や、労働政策、環境政策や健康政策などなど、それらが具体的にどんなものであったかを知るための入門書として非常に良書であると思われる。実際、このようにナチスの具体的な政策について概括的に知ることのできる本はこれまであまりなかったからである。『ナチスの発明』?あんなもんただのクソ本だ。ハーケンクロイツをデカデカと表紙にするセンスがそもそも信じ難い。
したがって、まずはちゃんと読んでほしいと言いたいところではある(たかだか100ページ程度の本だ)のだが、実は、同著は別に全否定しているわけでもない。確かに、田野氏は「ひとっつも良いとこなんてないですよ」とツイートでしたからこそ炎上したのだけれど、同著の記述方法は、まずは一般に言われるような「良いこと」を具体的に一つずつ、項目としてあげて丁寧にそれを「良いこと」として詳述するところから始めている。つまり、そこだけ読んで、その後の説明さえ読まなければ、ナチスは良いことばかりしていたかのように読むことさえ可能な本なのである(笑)。その辺が、小野寺・田野氏両名の学者として誠実なところではないかとさえ言い得る。つまり最初からナチスの政策を腐しているわけではないのだ。
結果的には評価として、ナチスの政策は良いところなんて一つもなかったと、結果論として評せざるを得ないことは確かである。その象徴が、現在もバルト海沿岸に残されている『プローラの巨人』と呼ばれる、ナチスドイツの歓喜力公団(Kraft durch Freude)が建設していた巨大リゾート施設である。同著では詳しい記述はないが、同施設は労働者が無料で使用できるリゾート施設になるはずだった。が、戦争が始まると、建設は中途で中止されてしまい、使用されることはなかった。現在は歴史的建造物として、廃墟のまま放置されている(以下追記)。しかし、ナチは確かに労働者に喜びや活力を与えようと、余暇を十分楽しめるように政策を実行しようとしていた証拠ではあるのだ。詐欺集団が実際には存在しない投資物件への投資を求めるのとは訳が違う。ただしそれもこれも、戦争の波の前に全て頓挫してしまったので、「夢」としては良いことかもしれないが、「現実」には良いことがあったとは言えないことになる。しかしその全てを台無しにした戦争を始めたのもヒトラーなのである。
個人的には、お釈迦さま視点など要らないと思う。個々人が個々人自身によって、ナチスにも良いところがあったのでは?と思うのであるならば、批判的視点を忘れずに、それを可能な範囲で自ら学ぶべきだと思う。否定・肯定を抜きにして、『ナチスは「良いこと」もしたのか?』は、知性高いはてな民にとってすらも良書だと思うのだが。1000円未満で買えるんだぞ(笑)。
追記:プローラの巨人については私自身の記憶が曖昧且つ古かったようで、再利用化が進んでいるようだ。以下、英語版ウィキペディアから機械翻訳そのまま(修正なし)でコピペする。
売却と再開発
2004年、10年以上にわたって敷地全体の売却が試みられたが失敗に終わった後、建物の各ブロックは様々な用途のために個別に売却され始めた[1]。 2004年9月23日、ブロック6は入札者不明で62万5,000ユーロで落札された[1]。 2005年2月23日、旧ミュージアム・マイルのブロック3はInselbogen GmbHに売却され、同社は建物をホテルとして使用すると発表した。2006年10月、ブロック1とブロック2はProra Projektentwicklungs GmbHに売却された。しかし、ブロック1は2012年3月31日に競売にかけられ、ベルリンの投資家が275万ユーロで購入した。
2006年11月、連邦不動産庁がブロック5を購入した。連邦政府とメクレンブルク=フォアポンメルン州からの財政支援を受けて、この建物にユースホステルを設立する計画だった。複合施設の最北端に位置するこの建物は、5つの連続した部分に分割された。
2008年末、プロラが本来の目的を果たし、近代的な観光リゾートに生まれ変わる計画が承認された。同協議会は、3,000人が住めるだけの居住スペースとユースホステル、観光客向けのアメニティを建設する計画を打ち出した。地元議員のケルスティン・カスナー氏は、プロラの海岸を「カリブ海のビーチ」に例えた。しかし、この決定は、すでにこの地域には観光客が多すぎると感じていたビンツの地元住民や、プロラの歴史家であるハイケ・タゴルド氏からは懐疑的な意見もあり、また、町の過去の歴史から観光客には不適切な場所だとも言われた。とはいえ、2011年には、かねてから計画されていた96室402ベッドの大型ユースホステルがオープンし、ドイツ最大のユースホステルとして人気を博している。低予算志向の観光客に向けた施設の拡張の可能性も提案されている[8]。
2010年9月、ドイツとオーストリアの投資家グループにより、1号棟と2号棟を高齢者向け住宅として改修し、テニスコートとスイミングプール、小規模なショッピングセンターを備えた300ベッドのホテルを建設する計画が発表された。投資額は1億ユーロと見積もられている。
2013年、ドイツのメトロポール・マーケティング社がプロラを改装し、サマーハウスとして販売する権利を購入した[9]。その年までに、いわゆるコロッサスの改装済みアパートメントが1戸70万ユーロ(90万米ドル)で販売された[4]。2016年、ブロック1に新しいアパートの第一号がオープンした[10] ブロック2のホテル「プロラ・ソリテア」は2016年夏に合わせてオープンし、2017年半ばには同ブロックで再建されたアパートの一部が売りに出された。当時、建物のうち4棟は再開発の過程にあり、5棟目はユースホステルとして使用され、残りの3棟は廃墟のままであった[4][11][12]。
2017年11月の更新によれば、ブロック1のユニット(フラット)のほとんどは、ハンブルクやベルリンに住む人々のための夏の家として販売され、売却されていた[7]。多くの所有者は、Airbnb[13]やHomeAway[14]などのサイトに短期賃貸として掲載していた。