はてなキーワード: ボストン美術館とは
メモを取っているので一冊にかける時間が長い。とはいえ、世界史の教科書では一行で終わっていた出来事の細部を知るのは面白い。
東アジア史が中心。
価値観が現代とは変わってしまっている点が多数あり、今読むときついと感じる箇所も。
旧約聖書を読み始める。
旧約聖書を読了。学生時代に新約聖書を通読したから一応全部読んだことになる。
生物の標本にまつわる本を読みだす。やはり生物学は面白い。ネタが尽きない。
ジョジョを読み終えた。それにしてもハルタコミックスばっかりだ。
十三機兵防衛圏については友人に薦められたからクリア後のノリで買った。
今年はたくさんいけた。行かない月もあった気がするが、それはそれ、そのときの気分に従った。
「シン・ウルトラマン」★★
「プラットフォーム」★
「12モンキーズ」★★★
(長くなったのでブコメ)
https://anond.hatelabo.jp/20200101232410
はてな村で好まれそうな話題だなとは思って投稿したものの、想定以上に反応があって驚いてます。
酔った勢いで書いたものであるので、文体が一致してなかったり論理が破綻してたり誤字脱字がひどいですね。
結果、説明不足だったり変な文章だったりが原因でいくつかこれは補足しておきたいなと思ったコメントがあるので補足させてください。
解説本を読むことで原典にあたった際の新鮮な驚きが減るのは確かと思います。ネタバレ効果というか。小説系では顕著と思います。
また、解説者の解釈が固定化されるという懸念も確かにあるかと思います。
しかし、私の記憶では「これは私の解釈だが」「多数の説の中で、私が支持するのは」など、
俺の解釈が絶対だという態度で解説してた解説者はいなかったし、異説も提示していることが大半でした。
ここまでやってくれたらあとは受け取る側のリテラシーかなぁ、と思います。
また、100分で名著の解説で実施していることは「あらすじ」+「執筆背景解説(作者の人生の中で著作の占める位置など)」+「解説者の解釈解説」と思っていますが
この内「執筆背景解説」が一番の目玉であり、知識のつながりを作ってくれるところで、この部分は原典だけ読んでも絶対に得られない補助線です。
私は持久スポーツを趣味にしていますが、例えばフルマラソンなら当たって砕けろでもまぁ、レース中の数時間もがき苦しみ、暫く足がまともに動かなくなる覚悟があればゴールは出来るでしょうが、
ウルトラマラソンとか、アイアンマンになると当たって砕けろではまぁ無理で相応の準備がなければ、失敗したという経験を経験値に変えることも出来ずに敗退すると思っています。
特に古い思想書は知的作業としてウルトラマラソン級だと思いますし、かつ何かを求めて読むわけでしょう。
ウルトラマラソンで周りの景色も何も見えないぐらいつらい状態になって、制限時間オーバーで失格になっても兎に角意地になって歩き続ける人がたまにいて、マラソンならそれでもいいかなと思いますけど、
古典を読む場合最後のページにたどり着ければよい、というものではないですよね。
途中の景色を楽しむためには相応の準備というものが必要なのではないかな、よほど読書体力に自身があるのでなければ、背景を知識として持っておくのは良い方にしか働かないのではないか、と私は思います。
100分で名著の一番の強みは「TV番組であること」であり一番の弱みもまた「TV番組であること」であると思っています。
強みとしては、インタラクティブな解説(動く図形とか、アニメとか、俳優の朗読とか)が可能になること
弱みとしては「解説者の準備期間、解説時間に制限がかかること」「番組上では注釈を実質的に挿入できないこと」「月に1冊のペースでしかラインナップを増やせないこと」ですね。
特に月イチのペースでしか増やせないのは大きな制約で、解説本の中で出てきた関連本に解説が欲しくても、100分で名著で解説される可能性は極めて低いと言わざるを得ません。
そういう意味で、名著巡りの入り口にしかならないといえばならないのだと思います。
100分で名著をメインに追いつつ、他にも手を出してみようとは思っています。
私は実は番組はあまり見ていません(3割くらいかな)。毎週火曜日この時間にTVに向かっていることが難しいからです。
理想は両方こなすことだと思いますし、伊集院光さんのリアクションは時々ハッとさせられることもありますが、私はどちらかを取れと言われたら解説本だけ読みます。
番組が「あらすじ」+「執筆背景解説」+「解説者の解釈解説」で割合が2:2:6~1:5:4まで変動するとしたら
解説本は執筆背景解説に一律+3、解説者の解釈解説が一律-2って感じです。
(逆に、あらすじだけ知りたい場合100分で名著は重厚長大で、もっと手軽な選択肢があると思います。)
そりゃ、番組の中で解説にちらっと出てきた著者の友人の来歴とか、著書とか、いちいち全部触れられないですよね。
つまり、私が元投稿で言った「本の解説で繰り返し取り上げられる要素(人名、思想、歴史上の出来事など)があることがわかった」現象は
番組を見るより解説本を読んだときのほうが顕著に起こると思われます。
なので、もし元投稿を見て「知識がつながるって面白そう」という点に興味を持っていただけたなら、解説本の方をメインにされることを私はお勧めします。
頑張って読んだ、という感覚はありませんでした。
おそらく、原典には「頑張らないと読めない」ものもたくさんあると思いますが、解説書の段階では頑張らずに済みました。
正直、興味をそそられたかどうかにはレベル差があるので、結局読まない原典もあると思います。
古典名作だと聞いて読んでつまらなかったら被害甚大ですが、水際で食い止めてくれたことになると思います。
読みたくない本、という感覚もなくて、どちらかといえば「知らない本は読めない」ですね。
恥ずかしながら「エチカ」だとか「夜と霧」だとか「全体主義の起源」なんて知らずに生きてきたので
まず読みたくないかどうかも解説書読んで判断しようと思ってました。
食わず嫌いよりは、試食コーナーの匂いで避けた、の方がまだマシかなと言う感覚です。
シャワーを使う際には、本はタオルにくるんで蓋に挟んで防水します。
このスタイルで読書して2年位になりますが、多少湿ることはあっても、問題になるほどビシャビシャになったことはないですね。
以前スウェーデンに出向していた友人から聞いた話ですが彼の国では大学とは必ずしも高卒すぐ入るものではなく、
暫く働いてから勉強したいことを見つけて入る人も相当にいるらしいですね。
その彼が聞いた日本との違いを顕著に表しているセリフが「高卒のガキに大学教育はもったいない」「日本人は高校生の時職業決めるんでしょ?すごいね」です。
後者は嫌味なのかな?と言う気がしないでもないですが、前者は今本当に身にしみています。
大学教育をきちんと受け止められる18歳って、そんなに多くないですよね、、、
以下私の勝手な解釈です。見当違いのことを言ってるかもしれないですが、、、
私と趣味が合いそうだなと思ったら、まずは以下をお勧めします。
スペシャル版なのでちょい分厚いですが、これが私の一押しです。
日本の大乗仏教諸派の成り立ちと違いについて、今まで何度か教わったし読んだはずなのですが全く頭に入ってこなかったのがすらすら入ってきました。
読了後は、まるで自動車教習所に通ったあと今まで目にも入らなかった交通標識が急に意味を持ち出したような感じで、街中のお寺から情報を取れるようになりました。
私自身が茶道やってる事が大きいかもしれませんが、日本人が外国人に、英語で日本文化を説明する起点として最高と思いました。
実際、ボストンで友人とあったとき(作者の天心はボストン美術館の東洋部部長です)なんと役に立ったことか、、、
全編、声に出したい日本語だと思いました。言葉がやや古いのですが、原典も薄くて読みやすいです。
維摩さんというレジェンド級のアマチュア(在家信者)がプロ(菩薩軍団)をやり込めまくる話です。
「煩悩は湧くに任せよ、とらわれないことが大事だ」というフレーズがとても頭に残っています。
一番実践しやすい仏教な気がしました。アメリカの方で流行っているzenとかsatoriってこれを目指してるのかな?と思っています。
↓と思った記事
https://aishinbun.com/clm/20181218/1888/
人間は自己愛ゆえに苦しまねばならぬ、というのがメインの本と理解しました。それだけでも納得感あるのですが、
本人的にはキリスト教最高!で異教徒を折伏するために書いた本らしいのに仏教が目指してるところと同じっぽいのが面白くて読んでました。
原典が思いっきり重そうなのですが、いつか読みたい本の一つです。
いろんなことを言ってるわけですが、
私は趣味を持て、幸せになれるぞ?という本だと理解しました。ラッセルさんの趣味の定義とは「~を収集すること」らしいです。つまりスタンプラリーですね。
何かに対して情熱を持ってスタンプラリーしてるうちは人生に飽きない、ということかと思いました。
解説本読破もそのノリでやってやらぁと思ったのを覚えています。
正確には100分で名著シリーズではないのですが、この「一週間で資本論」が成功したので100分で名著が始まったらしいです。
資本家の行動原理が今とぜんぜん変わらず、ギグ・エコノミーとかも19世紀の理論で説明できることに驚きました。
経済を理解するためというよりは自分の身の振り方を考える上で有用だなと思った本です。
リストがほしいというコメントをいただいたのでリスト載せます。
趣味が合いそうだなと思ったら、参考にしてください。
(抜け漏れあったので追加。まだ何冊か忘れてる気がする、、)
・点と線
・かもめ
・人間失格
・斜陽
・三四郎
・こころ
・茶の本
・奥の細道
・昔話と日本人の心
・死者の書
・銀の匙
・世論
・ペスト
・ゴルディアスの結び目
・1984
・苦海浄土
・夜と霧
・野火
・ソラリス
・マクベス
年末年始休みは読書もはかどり、新たに買った原典も既に8冊終わりました。
今のところ、全て期待通りの内容でとても充実した休みになっており今年ずっとこの調子で読み勧めていけたら、、、(無理だろうけど)と思ってます。
どういうふうに仕事の本を差し込んだら、自分の中の読書熱にうまく歩合出来るかを考えるのが今年の課題かな。
動物本とか、読んでて飽きることがあるんですよね。
なお、私が100分de名著を知ったきっかけは単身赴任中の父がずっと見ており、解説本を纏めて実家に持って帰ってきたのがきっかけでした。
私も読み出して以来、お互いの話題の共通点も増え、お互いの読書の幅も広がって、
初めて父と同等の視点で知識交換をできるようになったような気がしており、その点でもこの番組には深く感謝しています。
(私の専門のITのことでは以前から教える立場でしたが、これとはなんとなく異なる現象のような気がしてます。)
良い1年を!
アメリカでは「文化の盗用」に関する議論が喧しい。ボストン美術館のキモノ体験についたクレームだとか、当事者であるはずの日本人から見ても「別にいいじゃん」と思わせられるようなケースさえあり、それ自体が差別的発想だという批判もあるくらいだ。実際、例の企画は、元々の画がジャポニスムをテーマにした画であり、その画の前で日本人ではない人がkimonoを着て写真を撮る行為は、むしろ「ある時代に存在したジャポニスム」そして「それを描いた画」という『オリジナル』を尊重した行為ですらある。たとえば日本人が着物を着てその前に立っても全く意味がないどころか、むしろそれこそ「オリジナルへの敬意を欠いた振る舞い」として批判されるおそれさえあるだろう(皮肉)。
(※ちなみに、時間のない方は、このあと太字部分だけ読めば大体の内容が分かります。)
だが、そんな自分が、日本でしばしば気になって仕方ない「文化の盗用」がある。それは、TV番組などでしばしばみられる「関東圏言語話者による恣意的な方言使用」である。よく例にあげられる「外国の都会の人の言葉は標準語で訳されるが、農夫の言葉は東北弁で訳される」みたいな問題だけではない。地方を舞台にしたドラマで登場人物が喋る台詞などにおいても、方言が、その地方やその地方の言語に対する十分な理解を欠いた人間、つまりネイティブ以外によって「ちょっとした彩り要素」としてカジュアルに使用される結果、おそろしくひどい形で表現されている。文化への敬意を欠いた使用は、まさに「盗用」と呼ばれるのにふさわしい。
たとえば、関西ネイティブとして断言するが、TVドラマや公に出版されるフィクションなどで見かける「関西弁による会話」をみて「自然だ」と感じることは99%ない。それなりにお金をかけているはずのNHKの朝ドラ(関西弁指導:●●、などとクレジットが入っているのに)などは、最もひどい例の筆頭である。
そういうひどい例を具体的にあげると枚挙に暇がないので、1%の「よい」例をあげてみよう。たとえば谷崎潤一郎「細雪」。戦前の作品だが、関西文化に対する深い理解をもとに、「自然な」関西弁が用いられている数少ないフィクションである。谷崎は江戸っ子だが、言語に対する深い感覚と、関西に移り住み関西ネイティブと結婚して緻密にその文化、所作、その背後にある思考法を観察した結果として、たとえば第一章冒頭の流れるような会話描写を実現した。相手の反応を伺うような、どこで途切れるのか分からない古典の時代のような会話、相手を立てるように話す長女と蓮っ葉な口をきく三女は、それぞれ阿吽の呼吸で話を推進する役/突っ込みを入れる役/疑問・答によって話のオチを付ける役、などの役割(ロール)を自在に演じながら会話を展開させていく。これに較べれば、NHKの朝ドラ等の会話が、いかに醜悪な「関西弁モドキ」の会話であり、結局「関東弁を関西弁ぽい口調にしただけ」の底の浅いものかがよく分かる。少なくとも関西ネイティブなら、その違いは明白に感じ取れるものだ。
NHK朝ドラで、たとえばヒロインに対して友人が、あるいはヒロインが知人や親に、時に熱く、あるいは涙を浮かべて関西弁で「○○○○なんや!」と叫ぶ。見ている私の胸には「ああ、またか」と鼻白む思いが広がっていく。あれで関西に配慮しているつもりなのか。関西は東京にとって単なる感傷的なエキゾチシズムの対象なのか。あんな関西人おらへんねん。ほんまに。
関西では、関東人のように「正論」を「熱弁」することは、申し訳ないがノーマルでナチュラルな振る舞いとは見なされない。話の半分をジョークで構成し、自分を「落とし」て低姿勢で粘り強く交渉するスタンス、疑問形を多用して「相手に語らせる」手法、話にはヤマとオチをつけるという作法、そういうものを欠く会話は、下品で場をわきまえない失礼なものとみなされ、見下される。幼い子供を除けば、自分の意志を相手に伝えたいときにはもっとも用いないやり方だ。関西ネイティブは一見感情豊かに見えるが、それはあくまでロールを演じる意味においてでしかない。生の感情を表に出すのは、基本的に大きな怒りを感じている相当限られたケース・シチュエーションであり、その際にはまた普段とは全くことなる口調・態度・話の作法を取る(先ほどの「細雪」では、たとえば上巻九で女中を叱責するときの口調がその好例となるだろう)が、それもまた原則的にはストレートな物言いを避けながら結論へと近づいてゆき、「自分の言いたいことを相手に悟らせ言わせる」ことを目指したやり方を取るのが通常である。そして、可能な限りすみやかに、通常の流れの会話への復帰が図られることで、その特異な状況の調停と幕引きが図られるのが常である(たとえば先の「細雪」の例では、女中を叱責して帰したあとすぐ長女が「やっぱり自分に落ち度があったのだろうか」という意味の自分の「落とし」を始めることで、通常モードへの復帰を図っている。もっともこのシーンでは、普段無口な次女が想像以上にこの件について腹を立てていたため、復帰があまりうまくいかない、というシーンになっているが)。
真顔で、正論を、熱弁するヒロイン! これを関西弁でやられると、演技の上手下手に関わらず(むしろうまければうまいだけ)、申し訳ないが周囲との調和を失い破綻した人格を演じているようにしか見えないのだ。このため、たいていの関西人が、あれを見て「奇妙に大げさで下手な演技をする演出が朝ドラのスタンダード」という歪んだ認知をもつことでスルーしていることを、NHK関係者は理解されているだろうか? 役者が上手に真面目に演じれば演じるほど、関西人には「下手糞」な演技に見え、演じたい役と演技の乖離は増してゆく。方言や文化に対する敬意を欠いた行為は、こういう一見滑稽な、内実を考えれば誠に悲惨な結論を生んでしまうのだ。
いったい、メディア関係者はこの明白な「盗用」行為について、どのように考えているのか。私はこれが何かを「考えた」結果であればまだ救いはあると思っている。しかし、おそらく「何も考えてない」というのが実情だろう。何も考えていないからこそ平気で「盗用」できるのだ。盗まれた側の痛みなどまったく想像もしていないから、平気で盗んで見せびらかすような真似ができるのだ。とんだ裸の王様である。
国内最メジャー方言である関西弁ですらこの有様だというところから見ると、おそらくそれ以外の方言についてはもっとひどいことになっているのだろう。異文化にカジュアルに親しむことが「悪い」ことだとは言わないし、敬意をもって接してもらえるなら、触れてもらう側にとってもそれは喜びとなる。だが、少なからず敬意を欠いた異文化との接触は、しばしば悲劇的な結論しか生まないものだ。国内異文化に対する振る舞いは、必然的に国外異文化に対する振る舞いにも敷衍される。奇妙に滑稽な「クールジャパン」の現状、昨今の極めて「内向的な」外交のありようと、このことは無関係ではないだろう。私たちは自分たちが何ものかも知らず、他者が本当は何者なのかも分からない中で、相手の予想のつかない振る舞いに、奇妙に怖れ、怯え、媚びているのだ。
「文化の盗用」議論に実りある内容があるとすれば、こういったことへの自覚が少しでも私たちの中に生まれることにあるのではないだろうか。私たちは自分たちのオリジナルな文化とは何なのかについてもう少し自覚的になり、「(異)文化とは何か」ということについてもう少し考えてみるべきだと思う。無邪気な子供のように「世界中ミナトモダチ」では片付かない、異文化に接触する際には慎重で警戒した身振りが必要となる、そういうリアルな感覚をもう少し我々はもつべきだ。そうすれば、外交についてももう少し現実に即した対応が行われるようになり、海外との交流もスムースに進み、そして関西に対する誤解をただただ広めるようなフィクションが制作されなくなり私がイライラする機会ももう少し減るのではないかと期待する。(←これがオチ)
「「Kimonoは『人種差別主義』『帝国主義』」芸術イベントで理不尽な日本批判 https://www.sankei.com/west/news/180905/wst1809050009-n1.html
読めばすぐ分かることだが、ライターの方はボストン美術館に寄せられた批判に対しておっそろしく頓珍漢な反論を行っている。
事件は当時有名になったから、ご存じの方も多いと思うが、教科書なんかにも載ってるモネの「ラ・ジャポネーズ」の絵の前で着物を着せるイベントを企画したら、アジア系の人からクレームがきた、というものだ。これは、当時大変盛んだった Cultural appropriation(文化の盗用/文化簒奪)やという視点に基づく批判の典型である。つまり、「弱者であったアジアの文化を、強者だった西欧人が真似して楽しむ、というのは、西欧がアジアから簒奪してきた歴史への反省や異文化に対する敬意を欠いた尊大な振る舞いである」という主張だ。日本でも、近年ようやく「ステレオタイプな異文化理解やその模倣が、異文化に対する敬意を欠いた失礼な振る舞いになる」ということにいくらかコンセンサスが生まれつつあるが、自国内で異文化と日常的にふれあう経験が少ないせいか、これを重要な問題と理解することがなかなか日本人には難しいようだ。
個人的に、この「文化の盗用」論に100%賛同するわけではない。特に、あまりにも過敏な反応は、逆に内なる差別性の表明、あるいは強者の驕りではないかと思う場合すらある。少なくとも、モネの絵の前でその真似をしたくらいで目をつり上げるほど怒る必要はないと思う。それは、「真似をする」行為がリスペクトを意味しもするという風に感じられるからだ。
しかしながら、「相手の真似をする」という行為は、一方で相手を侮蔑したり揶揄したりするときにも行われることも考えておくべきだ。大人しく着物を羽織ってる程度ならまだしも、そのまま椅子に腰掛けたら? その程度なら問題ないだろうか。では、たとえば撮影した写真に滑稽なタイトルを付けてSNSにアップすることは? あるいは、その着物を羽織ったままわざわざ眼鏡をかけ首からカメラをぶら下げる真似をしだしたら? どの時点からそれは「アウト」なのか。もちろん「リスペクトのない行為はダメです」とは言えるだろう。だが、残念ながら「内なるリスペクト」とやらを検証する方法はない。リスペクトを言い訳にすれば何をしてもいいのか。あるいは、結局、みている日本人の「お気持ち」だけが判断規準になるのだろうか。そんな明文化できない規準を我々はいちいち振りかざすべきなのだろうか。
それよりも、単純に「少なくともそういうこと(文化の盗用と疑われること)は軽々しくやっちゃだめ。少なくともダメだと言われたらすぐやめましょう。」というあたりが、今のところ落としどころになっている。今のアメリカでの「文化の盗用論」というのは、おおむねそういう風に理解しておいたらよろしいと思う。
以上の話を踏まえれば、御年73歳のこのコラムのライターの「分かっていなさ」「恥ずかしさ」がよく分かると思う。この方が引用した3人の批判者の主張はこのイベントが「アジア人に対する人種差別主義」であり、ステレオタイプが抱く「異国情緒」を楽しむ低俗なイベントであり、そして「帝国主義」的であるというものだった。そして、ライターの方はこれを「日本批判」と捉えたらしいがとんでもない誤解で、明らかに事実はその反対なのである。彼女らの主張は、「文化の盗用」と見えるイベントを企画したボストン美術館の姿勢自体に「アジア人に対する人種差別」があり、モネの絵のような「ステレオタイプ」なヨーロッパの東洋のとらえ方に基づく流行(=ジャポニズム)を今また模倣することは、かつての西欧の帝国主義の無邪気な肯定にすらなっている、ということである。そこには、日本に対する一欠片の批判の意図もなく、彼女らはむしろ「西欧帝国主義のおもちゃにされている(と彼女らが信じる)アジアと日本文化の尊厳」を守るべく、ボストン美術館に対して声を上げているわけだ。(かれらが掲げるプラカードも、体験する来館者に対して「あなたが着物をきてキュートで異国的に見えたとしても、それは差別じゃないの。美術館のイベントでなければね!(It's not racist if you look cute・exotic in it. Besides MFA support this!)」という、美術館批判の趣旨の言葉である。)
ネットに残る写真に写る方々が中国系アメリカ人なのか、日系なのかは知らないが、彼女らの出自などというつまらないことで邪推し、彼女らが「日本を批判しているに違いない」と思い込んでヒートアップして美術館に手紙まで送ったこのライターの方の行為は、相当差別的で恥ずかしい。
しかしながらもっと恥ずかしいのは、「文化の盗用」のような、現代の「差別」をめぐるごく基本的なワードや議論を全く知ることなく、このような稚拙な内容のコラムをそのまま掲載してしまった産経記者のあきれるような無知である。こういうところで「所詮は二流新聞」とあなどられることになる。それがイヤなら、産経は好き嫌いをせず、あおり記事ばかり書かせる練習をするのでなく、記者にもっときちんと勉強をさせるべきだと思う。できればライターや読者にも。
なお、参考までに、事件当時も似たような方々が大量に湧いていたらしい。こういうのなんて言うんだろう。セルフ釣り?(参考:https://togetter.com/li/845708)
米国内で中国系や韓国系などのエスノポリティックスをやる人たちが「目を横に引っ張るポーズが、非常に屈辱的であり大変な差別的である」というコードを米国内で定着させた。無意識だろうが何だろうが、公の場でやってはいけないこととしたんだよ。これを定着させれば、取締る役としてたまにお鉢が回るし、そのコードを啓蒙する講演や勉強会とかもやれるし(大リーグでもやるんじゃないの?)、一種のしのぎになっているんだと思う。
ボストン美術館でやろうとした着物の試着イベントも同じ文脈で潰してしまった。殆どの日本人は何とも思ってなかったのに。着物関係者はやって欲しかったのに。「ボストン美術館はレイシストだ!って抗議している連中もエスノポリティックスをやりたいアジア系アメリカ人だったみたいだし。「(日本人は)無知蒙昧だから気がつかないだろうけど、あんたらは差別されているんですよ。一緒に怒りましょう!」って、親切ぶっているけど、本当にただただ迷惑なだけ。
これに対する対応が、その人自身の知識、政治的立場、現実理解や対応方法の様々なレベルに対応する構図となっていて、とても興味深い。
もともとのモネの絵に、ジャポニスムを諷刺する意図があったかどうか=定かではない…(1)
裾を引きずりドレスのように着こなす仕方は、まさに「ジャポニスム」であり、「日本文化への理解」に基づいてはいない=事実…(2)
これを踏まえて、
今回の件の問題提起を行った人は、背後に反日的な意図をもっているかどうか=分からない…(4)
『批判は正当であり、中止はやむを得ない派』Iwa Taka氏、関裕子氏ほか
『今回の抗議は反日的意図によるものであり、不当である派』守谷知氏、望月鎌足氏ほか
を左右両極として、相互に噛み合わない意見表出が行われており興味深い。
個人的には、
前者に対しては、批判者の論理への理解力は高いことはよいとして、批判自体への批判が欠けている点は問題だと思う。たとえば、余りにこの意見を厳格に適用すれば、異文化を紹介するあらゆる試みは事実上不可能となること、そして、オリジナルを過剰に尊重する態度こそがかえって現実に生きている人間の文化を貶める働きもする、という知見こそがポストコロニアリズムの重要な成果の一つであったこと(つまり「『ジャポニスム』自体もまた一つの『文化』である」といった見方)に、もう少し思いを馳せるべきだと思う。
後者に対しては……まあ、いつものようにいつものごとく、なわけで、もう少し勉強してください、というか、何で批判されているのか分からないならせめて黙っててくださいという。いたずらに議論を感情論とか陰謀論に落とし込んで混乱させるし、かつ、分かった上で反論してる人までがバカみたいに見えて困るので。
政局はすでに選挙モードだ。政局が荒れると奇妙な法案が通るとか。きちんとソースを調べていないが、計量法施行法は荒れた政局で通ったと聞いたことがある。議決が滞りがちになるから、反対意見の出にくい法案を数的に通しちまえという発想らしい。審議拒否っぽく見えると野党もまずいし。
児童ポルノ関係も政局が荒れたときに、ドサクサ紛れに動きがありそうだという予感は持っていた。結果的にその予感はあたっちまった気分だ。この辺の動きはそれなりに二次元の女の子好きとして追っていた。鎌やんあたりのロビー活動もだいたい知っている。
ただ、ここまできちまったものは仕方が無いと思っている。オタクの中でも、児童ポルノ規制の経緯も何も知れずに、麻生をオタクの理解者としてローゼン閣下と本気で持ち上げる馬鹿はいたし。ああゆう連中は将来的にはファシストを平気で政権につかせるんじゃねかと思ったよ。(個人的に麻生はさほど嫌いではないけどね)
個人的に今回の動きで一番気に食わないのが民主党。極右から極左までいるの自由なのだが、政策全般に党内不一致が多すぎて結局のところ何の抵抗にもならない。党内不一致は児童ポルノに限ったことじゃない。正直、民主単独政権はノーサンキューだ。彼らの一致する党議は唯一つ、政権を取ることだけだ。また細川政権もどきが出来るくらいなら、自衛隊が蜂起したほうがましだ。
児童ポルノ規制反対という観点では社民党ということになるのかもしれないが、正直彼らに入れる気にはならない。民主党が規制反対で動いていたときも、枝野幸男という現実的な議論ができる論客がいたから現実性があった。(サンタフェの質問は相変わらず上手いと思った)
若干話が飛ぶが、陵辱ゲームが春画のように研究される対象になったときには、どこに探しにいけばいいのか?広重のコレクションをボストン美術館に見に行くような間抜け真似は勘弁してくれ。国立メディアセンターで全部コレクションしてほしいもんだ。そろそろ、PC-8801のゲームのアーカイブは作り出さないと間に合わなくなると思うのだが。