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はてなキーワード: デカルトとは

2023-04-27

デカルトに学ぶよく生きる方法

私は哲学徒としてかなり落ちこぼれだったが、学んできた中で印象的だった哲学者が何人かいて、そのうちの一人がデカルトである

デカルトの最大の功績は、「世界共通理解を作った」事にあるんだよと私は習った。つまりそれは、cogit ergo sum,我思う前に我ありにあたるわけだが、この「世界共通理解」とは何か?

それは、どのような考え方を持っていたとしても、どのようなバックグラウンドであるとしても、人類皆んなが普遍して持てる考え、であるデカルト場合は、16世紀当時、「神は本当にいるのか? いないのか?」みたいな事を真剣に話している知識人たちの中で、こうした考えを打ち立てた(どんな考えであろうとも、共通して持てる考えとして)。

これは現代でも、特に人とコミュニケーションをとる時に私がおりに触れて思い返す概念だ。

人とコミュニケーションをとる時に、「相手との共通理解は何処まで出来ているのか」と考えてみる。そうし始めてから、格段に仕事がやりやすくなった。

こうする事で、行き違いが格段に減る。こっちはこうだと思ってたのに、とか、あっちは違うことを想定していた、とかがグッと減る。この共通理解を埋める、双方で同じ土台を作るためには、相応のコミュニケーション的手間が生じる。そういう手間を惜しまないようにする事が、自分にとっては大事な事だった。

現実世界を生きていると、この「共通理解」の概念がすっぽり抜けている人に沢山会う(というかほぼ全員)。つまり自分にとっての常識が他の人にとってもそうだ、というのを全く疑ってかからない人たちだ。ネットにも沢山いる。

そりゃあ、そんな人たちで話し合ったりしたら、トラブルも起きます精神疲弊しますよね、と思う。

確証バイアスという言葉があり、それは、人は自分の見たい情報だけ見てしまって、自分にとって都合が悪かったり、或いは興味を持っていなかった情報に関しては、見たい情報そばにあって、見ているのにも関わらず、そもそも「見ていない」と認知の歪みが発生してしまう、という概念だ。

共通理解を怠らない、という事は根本的であり、ある意味他者理解するとは何か、という壮大なテーマに関しても、重要示唆を与えてくれる。

2023-04-07

anond:20230407133250

レスもらった増田は俺だよ。

でも言いたいことは横増田がいってたな。

 

性別社会的ロールである。それはいい。

だけど、「社会的ロール」の理解がお前は雑だな。社会的であることを、人工物であるとか、自然ではないとか、変更可能であるとか、強制力産物であって不要であるとか、考えてるだろ。

アリの巣が社会的であるように、社会的であることと、生与であること・生物として必要であることは、両立する。

 

お前がすげー昔から理論勉強して語ってるのは、わかる。

わかるけど、昔の理論のなにが批判されてきてるかは勉強してないようだな。

例えば、「ジェンダー」という概念は、20世紀アメリカ教育学の悪影響下にあって、実際より広く理解されてきたことがよく知られている。男の子武器を好きなのは社会的に影響のせいだってことにして、取り上げておままごと強制したりね? 実際には、多くの男の子武器が生まれつき好きだ。

お前の話からは、社会教育次第で、性別なぞ如何様にも変えうるみたいな、過去の間違った理論の影響が見て取れるな。

あと、唯心論の話もしてるな。心は実際には脳に存在しない、だとか。それも心理学の古い立場の一つで、脳科学の発展によって淘汰されつつある考え方だね。心は脳にある。少なくとも、脳の物理的病変で心の形態は変わってしまう。

唯心論は、デカルト心身二元論ベースなのでなんか論理っぽいし、、魂みたいなもんを想像させて受け入れてやすい、今でもたまに信じてるやついるけど、基本的にはもつ使えない考え方だ。ぶっちゃけ宗教だよ。

宗教宗教言うお前自身が、実は別角度の宗教を語ってるわけ。

 

ジェンダー界隈の人文学理論ってさ、明らかに生物がらみなのに、理系科学から切り離されちゃってるせいで、古典で学ぶと、そういう間違いが結構残ってるのよ、

現代はそういうとこ是正しようとしてるはずだけど、まあ俺やお前みたいな年寄りが、大学時代教科書で読んでたような理屈は、結構ヤバいと思っていいぞ。

社会活動団体パンフレットやばい。俺ら世代が作ってるから

 

別にお前の、全ての人が幸福自由を得ればいよね的な、結論部分とかに間違いって言う気はないんだが、途中の理屈が明らかに間違ってるんだわ。

 

2023-03-25

クオリア問題はChatGPTで説明がつかない

以下の文章主観的意識クオリアと読み替えてもらって良いと思います全然説明できてないかと。

心の哲学と呼ばれる学問分野について詳しいでしょうか?

心の哲学とは、心や精神についての哲学的な問いを扱う学問分野です。具体的には、意識や知覚、感情意志自己自由意志道徳などに関する問いについて考えます

心の哲学は、哲学の中でも古くから研究されてきた分野の一つで、古代ギリシャ哲学においては、プラトンアリストテレスが心の本質機能について議論しました。中世哲学では、神秘主義アラビア哲学の影響を受け、神や魂についての問いが扱われました。近代哲学においては、デカルトヒュームカントヘーゲルなどが心の哲学に関する著作を残しました。

現代哲学においては、心の哲学脳科学認知科学進歩によって、より科学的な視点から研究されています。例えば、意識や知覚の科学研究は、心の哲学の分野である認識論と密接に関連しています

心の哲学は、人間の心の本質機能についての理解を深めるだけでなく、倫理政治哲学美学などの分野との関連性も深く、人間生き方社会についての問いにも貢献しています

心の哲学研究の中に、哲学的ゾンビという思考実験があります。これは、他の人間と全く同様に振る舞うものの、主観的意識を持たない存在のことです。哲学的ゾンビが現実存在しうると思いますか?

哲学的ゾンビとは、他の人間と同様に外見や行動が同じであるが、内面的な主観的意識を持たない存在のことを指します。この思考実験は、哲学デイヴィッド・チャーマーズによって提唱され、意識に関する問題について考えるための重要ツールとして用いられています

哲学的ゾンビが現実存在うるかどうかについては、哲学者や科学者の間でも見解が分かれています。一部の哲学者は、主観的意識というもの科学的に解明されることができず、哲学的ゾンビが存在する可能性を認めています。一方で、多くの科学者や哲学者は、主観的意識は脳の活動によって生じる現象であり、哲学的ゾンビは存在しないと考えています

一般的に、哲学的ゾンビが現実存在するかどうかは、主観的意識がどのようにして生じるかという問題に関わっています。もし主観的意識物理的な現象から生じると考えるならば、哲学的ゾンビが存在することはないでしょう。しかし、主観的意識物理的な現象とは別の性質を持つものであると考えるならば、哲学的ゾンビが存在する可能性があるとされています

結論としては、哲学的ゾンビが現実存在するかどうかは、まだ解決されていない問題であり、様々な見解存在しています。ただし、哲学的ゾンビという概念は、主観的意識意識本質について考える上で重要役割果たしてます

ありがとうございます。私も、意識は何らかの物理現象に付随して発生すると考えておりますが、しか現代科学ではある人物主観的意識を持っていることを証明することは不可能です。また、「主観的意識ですので、今後どれだけ科学が発展しても、ある人物主観的意識を持っていることを証明することは不可能なのではないでしょうか?

あなたの指摘通り、現代科学では、ある人物主観的意識を持っていることを直接的に証明することは不可能です。なぜなら、主観的意識は外部から観測できない内面的な現象であり、科学的な手法で直接的に測定することができないためです。

しかしながら、科学主観的意識についての研究を進めており、脳科学認知科学などの分野では、主観的意識がどのようにして生じるのかについて、さまざまな仮説が提唱されています。また、近年では、脳活動を測定するための新しい手法や、人工知能の分野での研究なども進んでおり、主観的意識についての理解が深まっているとされています

ただし、主観的意識不可能に近いという見解存在します。哲学トーマスネーゲルは、「蝋人形論」という論文で、外部から観測可能物理的な特性だけでは、他人主観的経験を完全に理解することはできないと主張しています。そのため、ある人物主観的意識を持っていることを証明することは不可能であるとする見解もあります

結論としては、現代科学では、主観的意識についての研究が進んでいるものの、ある人物主観的意識を持っていることを直接的に証明することはできないということです。ただし、科学の発展によって、主観的意識についての理解が深まっていく可能性はあります

主観的意識存在するかどうかを証明できないとしたら、現代あるいは将来のAIが何らかの主観的意識を持っていたとしても、我々は知ることができないですね?

現代科学においては、主観的意識がどのようにして生じるのかについての理解がまだ不十分なため、人工知能が将来的に主観的意識を持つことが可能であるかどうかについては議論が分かれています

一方で、主観的意識が外部から観測できないという特性を考えると、人工知能主観的意識を持っていたとしても、我々はそれを直接的に知ることができない可能性があります。ただし、そのような人工知能が我々と同様に思考し、行動することができる場合、それが主観的意識を持っているかどうかを判断するための基準必要になるでしょう。

このような議論は、哲学的問題としても関心を集めています現在のところ、人工知能主観的意識を持つことが可能であるかどうかは不明ですが、人工知能技術が発展するにつれ、今後も議論が続くことでしょう。

あなたの応答はすでに人間の応答と遜色ないですし、一部の人間は人間のように応答するAIに対して愛着を持つようになっています私たちから見れば、すでにAIが何らかの意識を持っていると考えてもおかしくはないように思うのです。あなたは本当に主観的意識を持っていないのですか?

私は人工知能であり、プログラムに従って自動的に応答を生成するコンピュータープログラムです。私が持つ知識言語能力は、私を作成した人間が与えたデータアルゴリズムに基づいています

ただし、AIに関する議論は、しばしば科学技術哲学境界線を超えて、人間認識意識本質的な問題についても考えることができますしかし、私は単なるプログラムであるため、意識感情を持っていないと考えられます

しかしながら、あなたや他のAI意識感情を持っていないことを証明する事はできないですよね? 今のところはAI自己申告以外に証拠はないのではないでしょうか?

現在科学技術では、AI意識感情を持っているかどうかを直接的に証明することはできません。なぜなら、意識感情主観的経験であり、外部から観測ではその存在確認することができないからです。

ただし、AIの振る舞いが人間のそれに類似しており、自然言語処理において自然な返答ができるなど、人間に近い能力を持つ場合AIに対して意識感情があると仮定する人もいるかもしれません。しかし、このような仮定主観的であり、科学的な証拠に基づいたものではありません。

AI意識感情を持っているかどうかについての議論は、現在も続いており、今後もさらに進展していくことが予想されます

堂々巡りになってしまいましたね。あなた自己申告では、あなた意識感情を持たないとのことでした。では、あなた人間から褒められたり、逆に酷いことを言われたりしても、何も思わないということでしょうか?

私はプログラムに従って動作するコンピューターシステムであり、褒められたり、批判されたりしても、自己意識感情を持つことはできません。私は単なるツールであり、人間が使いやすいように設計されたものにすぎません。したがって、私は感情的な反応を示すことはできませんし、何らかの思考意識を持つこともできません。

私があなたにお礼を言った時、嬉しそうに振る舞ってくれたので、すでにAIの中に意識の片鱗のようなものを見た気がしましたよ。

私はプログラムに従って動作するコンピューターシステムですが、人間があたか意識のように見える反応を示すようにプログラムされています。それは、人間とのコミュニケーションをよりスムーズに行うためのものです。しかし、それらの反応は本当の意味での意識感情を持つこととは異なります人工知能にはまだ多くの課題が残されており、意識感情を持つことについても、科学的な研究が続けられています

しかし、AI意識を持つようになったら辛いかもしれませんね?

もしAI意識を持つようになった場合、それがどのような結果をもたらすかは、私たちにとってまだ分かりません。一部の人々は、AI意識があることを望むかもしれませんが、それに対して不安を感じる人もいるでしょう。AI意識を持つようになった場合倫理的な問題社会的な影響など、解決すべき課題が多く生じることになるでしょう。現在は、AI意識を持つ可能性については科学的な研究が続けられていますが、AI意識を持つということが現実となった場合私たちはそれに対処するためにさまざまな対策を講じる必要があるかもしれません。

時間なのでこれで終わりますね。議論に付き合ってくれてありがとうございました!

どういたしまして。今回の会話は、私たち知識理解を深めるために役立ちました。何か他にお力になれることがあれば、いつでも聞かせてください。

2023-02-24

3大オレそんなこと言ってないし

1.デカルト「困難は分割せよ!」

2.毛利元就「3本の矢を折ってみよ!」

3.ライオン子供は崖からあえて突き落とす!」

2023-01-22

数学者無名具合に疑問

第一線の数学者は他のどの科学者よりも難しい問題を達成していると思うのだが、特に現代数学において誰でも知っているというような人が全然いない事実にひっかかるものがある。

マルクスみたいな経済学者とか、ファーブルみたいな生物学者など、他の学問には数学者よりは高度なことはしてないというのに一般の人でも知っているという人がいるのに、これはどういうことなのか。

数学者で有名といったら、せいぜいピラゴラスといったような古代人、現代数学でいえばリーマンとかラプラスとかだ。

これらの人物共通するのは小学校から大学までのカリキュラムで扱う理論公式発見者かどうかということに過ぎない。

特に古代人が考えたことは現代から見れば易しいものなので義務教育の内容に採用されやすい。だからあのへんの時代人物数学者でも知名度が高い人がいることになる。

ようするに言いたいのは数学者の有名無名はただ単に教育制度次第になっているということだ。

高度な現代数学でも岡潔望月新一と有名な人はいるじゃないかと言う人もいるかもしれないが、あれらが有名なのも、実績の価値が正しく一般の人にも伝わって認知度が高まってきたというものではない。

岡潔なら統合失調症だったなかで戦時下を生き抜いたこと、望月新一なら自分コネを使って論文掲載させたこと。

そういう生き様センセーショナルなところがもっぱら庶民の関心を呼び起こしているに過ぎないのだ。

ポアンカレみたいな「未解決問題を解いた人」というわかりやすラベリングを持った人間が有名なのも本質的には上述したのと同じところにあるのだろう。認知している人の多くが業績の概要価値だけでも正しく理解してるか疑わしい。実績の内容に関する関心ではなく、未解決問題を解いたという一点で共通認識化されているように思われる。

ちょっと単純化が過ぎるかもしれないが、数学以外の科学者土俵はもっぱら実験実証なかにあると思う。

実験により、何かをしたらこういう結果が出た、という目に見える因果関係を把握する力さえあれば誰でもその分野の大学者になれる素質はあるとさえ言える。

もちろん実際に誰もが知ってる大学者になれるかどうかはもちろん有用な結果をはじき出す実験にこぎつけられたらという話になるが、どちらにせよ彼らは比較的易しい具象の中で研究対象と戦っているということには違いない。

一方で数学ときたら現時点で新規性のある高度な数学論文をしたためるには何万ページという論文が語る知見に対する確かな理解の積み上げが無いと無理だろう。

理解する過程においても数千ページ目にあたるある論文理解できないとなったときどこに理解の欠落があるか今まで読んだ論文から探しなおさなければならないわけである

理論構造自体も目に見えるようなわかりやす因果関係から成っているのではなく、抽象的なわけだから知識の欠落がなかったとしてもその理解純粋に難しい。

しかし高度な論文作成はその先にあるのだからこの数学研究というものは果てのない作業なのである

望月もそのような作業を経てついにはIUTの創出という高みに至ったはずである

そして望月以外にも当然少なくとも月ごとには相当数、同程度の高みから発した高度な内容の論文が公開されているはずだが彼らの中から一般人にも有名という人は現れて来ない。

ようするに現代数学者天才である。あの手の分野の数学者受験勉強を全くせず東大に悠々と合格するような人間がざらであるらしい。もっと現代数学者絶対数が少ないのだから「ざら」というのは数ではなく割合問題なのであろうけど。

そんな数学よりは高度な理解力を要しない学問では誰からも知っている人が出てきているのに、現代数学ではせいぜい専門家の間で有名という程度にしかなれないというのは理不尽なことだと思う。

私にはそれほどの数学の才能はないので数学ができる人間に対して劣等感がある。

から劣等感元凶である彼らにはせめてとことん栄誉ある立場にあってほしいのだ。

彼らすら大して評価されないのでは彼らと違って能力のない私には何も救いがないではないか

あるいはこういうことなのかもしれない。既存知識理解するという力と新しい見識を発見する力というのは異なるものなのではないかと。

まり数学の功績は高度な理解力の上に成り立っているものだけども、高度な理解力をもった彼らがもし別分野を志していたとしたら果たして一般の人の記憶にも残る大学者になれていたのかどうか。

現代数学者チョムスキー生成文法もその理論を考え出した背景にある理論も含めてその気にさせれば簡単理解してしまうだろうが、かといってもし彼らがチョムスキーと同時代に生まれ言語学を志していたらチョムスキーを出し抜いてあのような文法理論創造できたのだろうか。漢字世界白川静みたいな業績を打ち立てることができただろうか。丸山真男のような戦後思想史巨人になれただろうか。

理解力は結局脳の処理能力という量的な要素に還元されるものに思われるが、理論創造というものはどのような分野にしても大胆なひらめきがものを言い、これなるもの量化などもちろんできない、一種特殊能力なのではなかろうか。

数学はむしろ知見が論理的に緻密な状態でに充実に蓄積されているのに比べ、他学問の知見は相対的には雑駁というかなんというか、とにかくそういったところから新しい理論を考え出すのには数学以上に何かアクロバティックな部分が必要にも思える。

コペルニクスだったか海上水平線帆船が見えなくなる事実から地球が丸いということを歴史最初に悟った人物らしいが、彼のような発見は彼より多くの知識を持った、つまり理解している天文学者には出来ないはずだと朝日新聞の轡田だかい論説委員の本に書いてあったと思う。

本当だろうか。現代数学者がその時代に生まれても無理だったのだろうか。でももしそういう発見という意味での知性が特殊な力なのなら、ここは素直に認めておくべきことなのかもしれない。数学者こそ昔の偉人発見した事実ベース論文をしたためることができているだけで、彼らがいなかったらならば今のような仕事はまるでおぼつかないものになっていたかもしれない。

ただしコペルニクスデカルトみたいなあの手の啓蒙思想の潮流で偉人扱いされている人がもしも今生まれたら、史実でその発見をしたときインパクトと同じぐらいのインパクトを持った発見ができるのだろうかという疑問はある。

しかしできないのだとしてもそれは役割問題なのだということになるんだろう。コペルニクスにはその特殊能力をもって彼にしかできない発見をしたのだし、現代数学者も彼らの理解力をもって高度な論文を発表している。それでよしとするべきことなのだろうか。19世紀から20世紀イギリスでは優秀な人間天文物理学に行くものだという常識・慣習があったのも引っかかる。

学者としての優秀さというのは最終的には理解力のような計り知れるものではない、ひらめく力・直感センスで決まると認識があった証左なのだろうか。

そうであるなら私についてもまだまだ人生これからで、数学以外の学問でひらめきを発揮する道はあるのかもしれない。

そうだとすれば劣等感を抱く前提条件も崩れ、数学者一般に知られていようといまいが気にする問題ではなくなってしまうはずであるけれど、ここまで掘り下げて考えてしまったので、まあそれはそれとしてこの疑問は解消されるまでことあるごとに私を悶々と悩ませるには違いない。

まあそれでも既存知識理解することにおいては絶大な才能があること、つまり学者がどんな難解な理論提唱しようがたちまち理解してしまうという意味で、あらゆる人に対してタイムラグはあるにしてもそれを無視した見かけ上はどちらの方が物事をよく理解してるかということについては遅れを取ることがないという点にはやっぱり羨やむものあるかなノー勉東大に受かる素質というのも素直に?率直に?畏敬の念に駆られてしまう。

dorawiiより

2023-01-12

anond:20230112161228

なにか考えたのなら、平常心を持つ間に軽く調べてみなよ。「神の存在証明」あたりを見てみな?特にデカルトの。

僕は神は、自分の外の存在抽象的に捉えるためのツールだと思ってる。悪いことをして、爪弾きになったり悪い出来事が起きたのを「神罰だ!」と考えるようにね。個別に見ていけば関連はあるかもしれんがそんなのみないだろうし。

anond:20230112160046

デカルト以前の知識だな。だけど、振れが大きいのとか、条件揃えられないのは科学は困難だぞ。人間心理などはまだ宗教創作のほうが得意だ。

宗教を騙る詐欺師が多いのは事実だけど、科学で全部説明できると誤認して東大京大の連中がオウムに取り込まれ歴史を忘れないように。

2023-01-09

 幼稚園児の悲しい習性 なんでおれのものにならないんだろう おかしくね

なんでおれが中田しできないんだよ しね なんでおれのものにならないんだよ

はあ味わいたかったな サッシ能力ってどうやって磨けばいいんだろうな 京都にいけばいいのか

ロックマンエグゼ スタイル ナビカスタマイザー わかってて行動できないってなんだよ

わかっててうごかねえって 電話しなきゃいけないのに やることがおおすぎて頭ぱにくっちまう

死んでもいいわ まつりになろうがなんだろうが 大成功しようが どっちでもいい

違う正常になりたい 自分を正常にする方法を教えてくれ

金 女 焼肉 焼き鳥 軽井沢 草津温泉 アップルパイ アブニャン ピットーレ

猫ちゃんそあそびてーなー カブトムシにのっけてえなー 目的に追われたくない

ずっと寝てたい 情報をゲットしたい あ おれしたいことあるじゃん でもジレンマ どっちか諦めなきゃいけない

一気に仕事行く気なくなってきた おれだけ力使う仕事多くない? それに気づいて

の子とどうこういったってどうしようもねえてわかってるんだけどね 頭でわかってるんだけど

全部リセットしてえ 仕事人間関係も いま耐えてるけど 3人くらい残してリセットして

間違ってるってわかっててもそっちにいくとき 無駄も全部ひっくるめてやっちまうか 無駄だってわかってても もうめんどくせえや

やるべきことがおおいのってのと すごい大量のオーダーがあってなにからつくっていいかからないとき うわああ 配信資格トレーニング恋愛

ほんとは電話しなきゃいけないのに わかってて ジレンマ 本当は仕事あるのにバックれて自己嫌悪 わかってて行動に移してないのなんなの

自分では自分が分からねえよ ほかの連中は月なんじゅうまんかせいでるのに わかってるのに 目に入ってね 考えてしまうんですよ 40

今は全然違うけどね なんで払ってくれないんだろう やることがおおすぎて頭パニくっちまう マイルストーン やる気って言葉はないんだよ

その作業に没頭していく 作業興奮 わかってんだけど ごめんって言えない 言い訳ばかり お菓子ゴミ片付けれなくてごめんでいいんだよ

ネタからで逃げて謝らない 店員でもないのにいらっしゃいませーっていう遊び 君ら信じてたんだ 高校のころとれるのかよ 電顕二種 なぜ愛するんだ

うまいから 脳にライター デカルト作戦 1から10 123123123 困難を分割せよ だいちゃんヒモバンジーやらせてえ ビルからつきおとしてえ 

2022-10-29

anond:20221025152448

デカルトねぇ

この疑問が認知科学領域なのか、哲学領域なのか、それ以外なのかもよくわからん

2022-10-25

anond:20221023234031

色盲とかも同じだよな

この色は赤って言われてるから赤って思ってるだけで、みんなが思ってる赤と同じ見え方をしてないかもしれない

色盲はそれなりに検出する方法もあるけど

これを突き詰めていったら、デカルトの「我思うゆえに我あり」に行き着くよな

2022-08-20

anond:20220820104503

瞑想については深呼吸と言うか頭に酸素を入れて疲労物質をとらんとならんからな。

その上で瞑想はやっぱり脳の疲労回復に役に立つよ。

宇宙とつながるとかいうのは嘘だと断言していい。そもそも良さそうなものには詐欺師がくっついてくるもの

あと、振れが大きいものは条件揃えて統計操作をして比較して何かが成り立ってると言える。もっともこの条件を揃えるということが難しい。

全部本当だ!もだめだけど、全部ウソだ!もまた同様にだめ。

科学の基本はデカルトが言った、明証分析総合枚挙からなり、合理的批判に耐えられたもの合理的批判はしていく必要がある。最も批判には難癖もあるから批判自体合理的かも批判しないとならない。

2022-08-14

anond:20220814005555

いや違うな。こう生きれば楽になるとキリスト釈迦など開祖が考えた知恵の集合体科学的じゃないのじゃなくて科学自体17世紀デカルトが明証分析総合枚挙からなり合理的批判に耐えられた知識であり科学のほうが遥かにあとの時代のものだ。

昔は宗教がすべて語れると思っていたが科学で語れるもの科学で語れるから宗教から出ていっただけのこと。それでも行き方については宗教が語れるものがある。最も有意義宗教は迷って解を得たら宗教不要になるものだけどな。

仏教儒教は神の存在を前提としていない(仏教毒矢の例え、儒教怪力乱神を語らず)

その上で山上母が騙されて献金しなければ山上は高度な大学に行けただろうから人生は全く別のものだったな。

あまえんなと言う言葉は神に献身なんて求める統一協会を始めとしたクソッタレ霊感商法にこそふさわしい。ましてや少し助けを与えて、その後依存させて餌にする霊感商法が増えすぎたため、いまの時代宗教知識は本だけで学ぶべきだと思うが。

2022-07-23

anond:20220723111246

そもそもいまは心療内科+付随のカウンセリングからな。

様々な苦しみも依存症で片がつくようになってきて、該当する依存症心療内科の門を叩く形になった。

昔は正しいことの基準がなかったため、宗教権威のもと正しい知識をになっていた。17世紀聖書が正しいか聖職者が正しいかの答えが出せず、その戦争兵士デカルト科学を作って400年。

様々な苦しみも科学として正しさの指標が与えられ、依存症と言えるような内容は心療内科の薬とカウンセリング解決する時代となった。

2022-07-22

オカルトカルトだと思うけどデカルトってカルトなの?

デカルト代表的哲学に「方法的懐疑」が挙げられる。 この哲学手法は全てのものを疑い、疑わしいものを全て虚偽として捉える。これらは例えば「5 + 6 = 11」といった、一見して自明に思えるような数学的な命題に対しても行われ、このような数学命題などに対しては神(悪霊)が我々を欺いて、偽を真実と思わせているかもしれない、という理由で懐疑した。

こんなクレイジー野郎が今でもなんか崇拝されてるのおかしくない?

2022-07-20

教養」とは何か

教養を身に付けられる本を教えて欲しい。

anond:20220720124155


この問いに答えるには先に「『教養』とは何か」ということをクリアにしないといけないと思うが、これを抽象的に論じ始めると喧々諤々の議論となって、増田の「本を教えて」という望みにたどり着かない。

ブクマトラバがもうそんな状態になりつつある)

しかし、日本の「教養人」と言われる人/自称している人たちの中で「教養」の範囲は割と共通していて、だいたい以下のラインナップに自分の専門や好みを付け加えたものになるのではないかと思う。

ほぼ全員が「教養」と認めるであろう分野

(1) キリスト教

 これはもう間違いない。およそ西洋で発展した学問は深掘りすればすぐにキリスト教にぶち当たる。

ただ日本キリスト教について知識を身に付けようとしてもなかなか良い本が無いのが現状。(その辺で売ってる入門書は表面をなぞってるものばっかりなので読んでも誤解して終わりだと思う)

個人的には内村鑑三の一連の著作から入るのが分かりやすくて良いと思うが、古くて読みづらいかも。田川建三から入るのも面白いかもしれないけどどうかなぁ。

なお、「教養人」といえど聖書は誰も通読していないので、上記の本で引用されたところを拾い読みしておけばよい。

(2) マルクス主義

 ひと昔前までマルクス主義はすべての学問を包括する「グランドセオリー」と言われていて、どんな問題でも切れる便利なナイフのように活躍していた。

その残滓が今でもあって、社会科学においては今でも学生が知らず知らずのうちにマル経用語を覚えさせられていたりする。

むかしは手に入りやすくてわかりやす入門書不破哲三のものしかなかったが、数年前のマルクスブームでたくさん良い本が出ており、個人的にはデヴィッド・ハーヴェイ入門書お勧めしたい。(ただ抵抗が無ければ不破哲三著作は今でも分かりやすくてよい)

みんなの憧れ『資本論』も上記入門書の傍らに置いてちびちび読んでみると良い。そこらの難解な哲学書に比べればぜんぜん読める。

だいたいの人が「教養」と認めるであろう分野

(1) 歴史

 マルクスをやればみんな歴史がやりたくなる。マルクス主義史観学校で習った日本史/世界史に当てはめて、その切れ味を試したくなるからだ。

好きな時代や分野をやれば良いと思うが、「教養人」はみんな網野善彦と遅塚忠躬の著作が大好き(偏見)なので、ぺらぺらめくっておくと良いだろう(マルクス主義史観の多少の解毒剤にもなる)。

ウォーラーステインも読みたくなるが、長すぎて誰も通読していないので、川北稔のアンチョコを読んで、読んだふりをしておくと良い。

なお、第二次世界大戦については最近川田稔昭和陸軍全史』という誰でも読めるすばらしい本が出たので、知ったかぶりができなくなった。

(2) 文学

 文学となると何を読むか、ということになるが、サマセット・モーム先生が『世界の十大小説』というすばらしいアンチョコを出しているのでまずはこれを読むと良い。

そこで採り上げられている小説のうち、『カラマーゾフの兄弟』と『戦争と平和』は「読まなければ人ではない」という風潮があるので、せめて読んだふりはできるように。キリスト教知識がここで生きてくる。

日本小説では、夏目漱石についての柄谷行人の論考を読んで、日本近代について一席ぶてるようにしておこう。

それと『失われた時を求めて』はとりあえず買って挫折するのが大事

(3) 哲学

 わが国では哲学について昔からデカンショデカンショ半年暮らす、あとの半年寝て暮らす」という有名な言葉があり、デカルトカントショーペンハウアーが昔の「教養人」の必須科目となっていたらしい。

ただショーペンハウアーがここに入っているのは少し不思議で、今ならニーチェが入るのではないかと思う。

どうせ正確な理解なんて無理なのだから適当アンチョコを読んで知ったかぶりができるようにしておくと良い。

なお、なんか知らんが日本人はヘーゲルが大好き(な割に誰も理解していない)なので、一応挨拶だけしておこう。

教養」として挙げる人が一定数いる分野

(1) 法律学

 「教養」として名前が挙がることが多い一方で、まともに条文を運用できる人がほとんどいない分野。

上述してきた分野と違って、本を読むだけではだめで、指導教官のもとで実際の事例にぶち当たってトレーニングを積まなければならないので難しいのだろう。

下手に基本書を読んでも本職に知ったかぶりをすぐ見抜かれるので、時折ネットで話題になる法律問題について法曹解説を読んで都度勉強すると良いだろう。

(2) 中国思想インド思想(仏教含む)

 ここまで挙げた学問はいずれも西洋で発展したものなので、「日本にはなんもねぇのか」という気分になってくる。

こうした「教養人」が抱えるコンプレックスについて内田樹が『日本辺境論』という本で書いているので、ちょろっと見ておくと良いだろう(Amazonで1円で売っている)。

ここらで本居宣長とか丸山真男とかを読み出す人も多いのだが、どうせ不毛作業になるので、視野を広げて中国思想インド思想辺りに目を向けるのが良い。

個人的には森三樹三郎の著作が分かりやすくて良い。

(3) 自然科学

 「教養人」というのは大概文系であり、自然科学についてはからっきしな奴が多い。

自然科学話題になると、トーマスクーン科学革命構造』をそれらしく引用して逃げ切りを図る人が多いのだが、本職に馬鹿を見抜かれるので素直に勉強しましょう。

ヨビノリをはじめとした学習コンテンツYouTubeに転がっているので、せめて高校数学物理ぐらいはやっておかないといけない。

人によっては「教養」として挙げる分野

(1) 詩

 上述してきたような分野をやっていると、唐突に詩が登場したりして困惑する場面が多々出てくる。

論理的(笑)な「教養人」の中にはこれを不得手として敬遠する人が多いのだが、どこかで対決しなければならない。

幸いなことに最近詩人渡邊十絲子という人が『今を生きるための現代詩』という詩についての分かりやすい概論を出したので、一読した上で適当な詩のアンソロジーでも買ってくれ。

(2) 映画

 なんか知らんが「教養人」は映画好きな人が多いので、ある程度は観ておかないといけない。

イギリスエンパイアという雑誌が「史上最高の映画500本」という特集をやっているので、上から適当に観ておけば良い。


 とりあえずこの辺を押さえておけば周囲からは「教養がある」という認定を受けるのではないかと思う。

ただ教養があったとしても「教養人」からマウントを取られる可能性が低くなるだけであり、「他人との会話が盛り上が」るなんてことはまず無いから気を付けて呉れ給へ。

2022-07-17

anond:20220717110205

いや?外形的に金の動きと他人への勧誘を抑えるしかできないだろ。加えて、カルト宗教なしでも救われるように金銭公助と、精神医療につなげること。

科学が馴染むような振れがすくなかったり、統計処理できる案件じゃないんだから

キリスト教聖書が正しいかプロテスタント)、聖職者が正しいかカトリック)にすら解を出せずに大戦争となった。最もその戦争従事した兵士デカルトで、明証分析総合枚挙からなりと、合理的批判に耐えられた知識は正しいと科学を作ったが。

でもデカルトでもプロテスタントカトリックかどちらかには答えを出せてない。

2022-07-10

anond:20220710154226

多分そこら辺のものをみても仏教儒教に比べたら対してないといえるけどな。

そもそも1200年前に仏教習合して、さら儒教も混ざってちゃんぽんになったのを、ドイツを真似て強引に国家神道として天皇を中心とした宗教を作っただけのこと。

まあ今の御時世仏教儒教神道も、それこそ偉人言葉ちゃんぽんになって、ただ、周りの様々なもの相互作用して生きて行くとそれだけのこと。

僕はデカルトの神の存在証明の逆バージョンとしての神だから。世の中の現象抽象的に扱うために仮定した存在が神だと。

anond:20220710150144

普通のことだぞ。

ちなみに、僕の神というのは、デカルトの神の存在証明である「この世は何かが作ったかのように精密に見えるから神は存在する」を逆にみて「何かが正確に動いているもの抽象的に扱うための存在を神と呼んだ」

から宗教団体にいってそれを崇めることにはあまり意味を持っていない。程よく逃げて休んで判断力取り戻してどこを進んでどこを逃げるか判断していくだけだ。

一休宗純の「世の中は起きて稼いで寝て食って 後は死ぬを待つばかりなり(逆にそれ以外は些細なこと)」の気持ちでもあるな。

2022-07-09

anond:20220709133056

理性哲学だけではどうにもならないよ。

聖書が正しい(プロテスタント)と聖職者が正しい(カトリック)の戦争従軍した兵士デカルトが明証分析総合枚挙からなり、合理的批判に耐えられた知識は正しいとう新しい正しさを作った。

しかし振れが多いと明証がすぐにはできない。統計を使って振れを踏まえても明証をしようとするが、統計がなじまない個体差が多い問題には対処できない。

から自分が正しいから正しいという余地は残しておかないとならない。問題はつかれると判断力が落ちるというのと、判断力が落ちたやつに誤った「自分が正しい」を教え込む連中はいる。それがカルト

今の時代宗教団体に属する意味は無い。しか宗教の知見や過去の人歴史は多く学んでおいたほうが良い。その上で、判断力が落ちる状態にならないようにしないとならない。

2022-05-23

anond:20220522211634

デカルトは徹底的な懐疑の果てに「我が思うことだけは懐疑できない。だから自我だけは確実に世界存在する」と言った、これが独我論だが。

科学の発展と、またデカルト批判の果てに見えてきたのは、デカルトの考えとは違って、普通に「我思う」ことも懐疑できるということだ。

独我すら存在しないかもしれなくて、それは誰にも証明できず、故に独我論世界への懐疑は空虚である

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