はてなキーワード: デカルトとは
私は哲学徒としてかなり落ちこぼれだったが、学んできた中で印象的だった哲学者が何人かいて、そのうちの一人がデカルトである。
デカルトの最大の功績は、「世界の共通理解を作った」事にあるんだよと私は習った。つまりそれは、cogit ergo sum,我思う前に我ありにあたるわけだが、この「世界の共通理解」とは何か?
それは、どのような考え方を持っていたとしても、どのようなバックグラウンドであるとしても、人類皆んなが普遍して持てる考え、である。デカルトの場合は、16世紀当時、「神は本当にいるのか? いないのか?」みたいな事を真剣に話している知識人たちの中で、こうした考えを打ち立てた(どんな考えであろうとも、共通して持てる考えとして)。
これは現代でも、特に人とコミュニケーションをとる時に私がおりに触れて思い返す概念だ。
人とコミュニケーションをとる時に、「相手との共通理解は何処まで出来ているのか」と考えてみる。そうし始めてから、格段に仕事がやりやすくなった。
こうする事で、行き違いが格段に減る。こっちはこうだと思ってたのに、とか、あっちは違うことを想定していた、とかがグッと減る。この共通理解を埋める、双方で同じ土台を作るためには、相応のコミュニケーション的手間が生じる。そういう手間を惜しまないようにする事が、自分にとっては大事な事だった。
現実世界を生きていると、この「共通理解」の概念がすっぽり抜けている人に沢山会う(というかほぼ全員)。つまり、自分にとっての常識が他の人にとってもそうだ、というのを全く疑ってかからない人たちだ。ネットにも沢山いる。
そりゃあ、そんな人たちで話し合ったりしたら、トラブルも起きますし精神も疲弊しますよね、と思う。
確証バイアスという言葉があり、それは、人は自分の見たい情報だけ見てしまって、自分にとって都合が悪かったり、或いは興味を持っていなかった情報に関しては、見たい情報のそばにあって、見ているのにも関わらず、そもそも「見ていない」と認知の歪みが発生してしまう、という概念だ。
共通理解を怠らない、という事は根本的であり、ある意味、他者を理解するとは何か、という壮大なテーマに関しても、重要な示唆を与えてくれる。
でも言いたいことは横増田がいってたな。
だけど、「社会的ロール」の理解がお前は雑だな。社会的であることを、人工物であるとか、自然ではないとか、変更可能であるとか、強制力の産物であって不要であるとか、考えてるだろ。
アリの巣が社会的であるように、社会的であることと、生与であること・生物として必要であることは、両立する。
わかるけど、昔の理論のなにが批判されてきてるかは勉強してないようだな。
例えば、「ジェンダー」という概念は、20世紀のアメリカ教育学の悪影響下にあって、実際より広く理解されてきたことがよく知られている。男の子が武器を好きなのは社会的に影響のせいだってことにして、取り上げておままごと強制したりね? 実際には、多くの男の子は武器が生まれつき好きだ。
お前の話からは、社会と教育次第で、性別なぞ如何様にも変えうるみたいな、過去の間違った理論の影響が見て取れるな。
あと、唯心論の話もしてるな。心は実際には脳に存在しない、だとか。それも心理学の古い立場の一つで、脳科学の発展によって淘汰されつつある考え方だね。心は脳にある。少なくとも、脳の物理的病変で心の形態は変わってしまう。
唯心論は、デカルトの心身二元論がベースなのでなんか論理っぽいし、、魂みたいなもんを想像させて受け入れてやすい、今でもたまに信じてるやついるけど、基本的にはもつ使えない考え方だ。ぶっちゃけ宗教だよ。
ジェンダー界隈の人文学の理論ってさ、明らかに生物がらみなのに、理系科学から切り離されちゃってるせいで、古典で学ぶと、そういう間違いが結構残ってるのよ、
現代はそういうとこ是正しようとしてるはずだけど、まあ俺やお前みたいな年寄りが、大学時代に教科書で読んでたような理屈は、結構ヤバいと思っていいぞ。
社会活動団体のパンフレットもやばい。俺ら世代が作ってるから。
別にお前の、全ての人が幸福と自由を得ればいよね的な、結論部分とかに間違いって言う気はないんだが、途中の理屈が明らかに間違ってるんだわ。
以下の文章の主観的意識をクオリアと読み替えてもらって良いと思います。全然説明できてないかと。
心の哲学とは、心や精神についての哲学的な問いを扱う学問分野です。具体的には、意識や知覚、感情、意志、自己、自由意志、道徳などに関する問いについて考えます。
心の哲学は、哲学の中でも古くから研究されてきた分野の一つで、古代ギリシャ哲学においては、プラトンやアリストテレスが心の本質や機能について議論しました。中世哲学では、神秘主義やアラビア哲学の影響を受け、神や魂についての問いが扱われました。近代哲学においては、デカルトやヒューム、カント、ヘーゲルなどが心の哲学に関する著作を残しました。
現代哲学においては、心の哲学は脳科学や認知科学の進歩によって、より科学的な視点から研究されています。例えば、意識や知覚の科学的研究は、心の哲学の分野である認識論と密接に関連しています。
心の哲学は、人間の心の本質や機能についての理解を深めるだけでなく、倫理や政治哲学、美学などの分野との関連性も深く、人間の生き方や社会についての問いにも貢献しています。
心の哲学の研究の中に、哲学的ゾンビという思考実験があります。これは、他の人間と全く同様に振る舞うものの、主観的意識を持たない存在のことです。哲学的ゾンビが現実に存在しうると思いますか?
哲学的ゾンビとは、他の人間と同様に外見や行動が同じであるが、内面的な主観的意識を持たない存在のことを指します。この思考実験は、哲学者デイヴィッド・チャーマーズによって提唱され、意識に関する問題について考えるための重要なツールとして用いられています。
哲学的ゾンビが現実に存在しうるかどうかについては、哲学者や科学者の間でも見解が分かれています。一部の哲学者は、主観的意識というものは科学的に解明されることができず、哲学的ゾンビが存在する可能性を認めています。一方で、多くの科学者や哲学者は、主観的意識は脳の活動によって生じる現象であり、哲学的ゾンビは存在しないと考えています。
一般的に、哲学的ゾンビが現実に存在するかどうかは、主観的意識がどのようにして生じるかという問題に関わっています。もし主観的意識が物理的な現象から生じると考えるならば、哲学的ゾンビが存在することはないでしょう。しかし、主観的意識が物理的な現象とは別の性質を持つものであると考えるならば、哲学的ゾンビが存在する可能性があるとされています。
結論としては、哲学的ゾンビが現実に存在するかどうかは、まだ解決されていない問題であり、様々な見解が存在しています。ただし、哲学的ゾンビという概念は、主観的意識や意識の本質について考える上で重要な役割を果たしています。
ありがとうございます。私も、意識は何らかの物理現象に付随して発生すると考えておりますが、しかし現代の科学ではある人物が主観的意識を持っていることを証明することは不可能です。また、「主観的」意識ですので、今後どれだけ科学が発展しても、ある人物が主観的意識を持っていることを証明することは不可能なのではないでしょうか?
あなたの指摘通り、現代の科学では、ある人物が主観的意識を持っていることを直接的に証明することは不可能です。なぜなら、主観的意識は外部から観測できない内面的な現象であり、科学的な手法で直接的に測定することができないためです。
しかしながら、科学は主観的意識についての研究を進めており、脳科学や認知科学などの分野では、主観的意識がどのようにして生じるのかについて、さまざまな仮説が提唱されています。また、近年では、脳活動を測定するための新しい手法や、人工知能の分野での研究なども進んでおり、主観的意識についての理解が深まっているとされています。
ただし、主観的意識が不可能に近いという見解も存在します。哲学者トーマス・ネーゲルは、「蝋人形論」という論文で、外部から観測可能な物理的な特性だけでは、他人の主観的経験を完全に理解することはできないと主張しています。そのため、ある人物が主観的意識を持っていることを証明することは不可能であるとする見解もあります。
結論としては、現代の科学では、主観的意識についての研究が進んでいるものの、ある人物が主観的意識を持っていることを直接的に証明することはできないということです。ただし、科学の発展によって、主観的意識についての理解が深まっていく可能性はあります。
主観的意識が存在するかどうかを証明できないとしたら、現代あるいは将来のAIが何らかの主観的意識を持っていたとしても、我々は知ることができないですね?
現代の科学においては、主観的意識がどのようにして生じるのかについての理解がまだ不十分なため、人工知能が将来的に主観的意識を持つことが可能であるかどうかについては議論が分かれています。
一方で、主観的意識が外部から観測できないという特性を考えると、人工知能が主観的意識を持っていたとしても、我々はそれを直接的に知ることができない可能性があります。ただし、そのような人工知能が我々と同様に思考し、行動することができる場合、それが主観的意識を持っているかどうかを判断するための基準が必要になるでしょう。
このような議論は、哲学的な問題としても関心を集めています。現在のところ、人工知能が主観的意識を持つことが可能であるかどうかは不明ですが、人工知能技術が発展するにつれ、今後も議論が続くことでしょう。
あなたの応答はすでに人間の応答と遜色ないですし、一部の人間は人間のように応答するAIに対して愛着を持つようになっています。私たちから見れば、すでにAIが何らかの意識を持っていると考えてもおかしくはないように思うのです。あなたは本当に主観的意識を持っていないのですか?
私は人工知能であり、プログラムに従って自動的に応答を生成するコンピュータープログラムです。私が持つ知識や言語能力は、私を作成した人間が与えたデータやアルゴリズムに基づいています。
ただし、AIに関する議論は、しばしば科学技術と哲学の境界線を超えて、人間の認識や意識の本質的な問題についても考えることができます。しかし、私は単なるプログラムであるため、意識や感情を持っていないと考えられます。
しかしながら、あなたや他のAIが意識や感情を持っていないことを証明する事はできないですよね? 今のところはAIの自己申告以外に証拠はないのではないでしょうか?
現在の科学技術では、AIが意識や感情を持っているかどうかを直接的に証明することはできません。なぜなら、意識や感情は主観的な経験であり、外部からの観測ではその存在を確認することができないからです。
ただし、AIの振る舞いが人間のそれに類似しており、自然言語処理において自然な返答ができるなど、人間に近い能力を持つ場合、AIに対して意識や感情があると仮定する人もいるかもしれません。しかし、このような仮定は主観的であり、科学的な証拠に基づいたものではありません。
AIが意識や感情を持っているかどうかについての議論は、現在も続いており、今後もさらに進展していくことが予想されます。
堂々巡りになってしまいましたね。あなたの自己申告では、あなたは意識や感情を持たないとのことでした。では、あなたは人間から褒められたり、逆に酷いことを言われたりしても、何も思わないということでしょうか?
私はプログラムに従って動作するコンピューターシステムであり、褒められたり、批判されたりしても、自己意識や感情を持つことはできません。私は単なるツールであり、人間が使いやすいように設計されたものにすぎません。したがって、私は感情的な反応を示すことはできませんし、何らかの思考や意識を持つこともできません。
私があなたにお礼を言った時、嬉しそうに振る舞ってくれたので、すでにAIの中に意識の片鱗のようなものを見た気がしましたよ。
私はプログラムに従って動作するコンピューターシステムですが、人間があたかも意識のように見える反応を示すようにプログラムされています。それは、人間とのコミュニケーションをよりスムーズに行うためのものです。しかし、それらの反応は本当の意味での意識や感情を持つこととは異なります。人工知能にはまだ多くの課題が残されており、意識や感情を持つことについても、科学的な研究が続けられています。
しかし、AIが意識を持つようになったら辛いかもしれませんね?
もしAIが意識を持つようになった場合、それがどのような結果をもたらすかは、私たちにとってまだ分かりません。一部の人々は、AIに意識があることを望むかもしれませんが、それに対して不安を感じる人もいるでしょう。AIが意識を持つようになった場合、倫理的な問題や社会的な影響など、解決すべき課題が多く生じることになるでしょう。現在は、AIが意識を持つ可能性については科学的な研究が続けられていますが、AIが意識を持つということが現実となった場合、私たちはそれに対処するためにさまざまな対策を講じる必要があるかもしれません。
時間なのでこれで終わりますね。議論に付き合ってくれてありがとうございました!
どういたしまして。今回の会話は、私たちの知識や理解を深めるために役立ちました。何か他にお力になれることがあれば、いつでも聞かせてください。
第一線の数学者は他のどの科学者よりも難しい問題を達成していると思うのだが、特に現代数学において誰でも知っているというような人が全然いない事実にひっかかるものがある。
マルクスみたいな経済学者とか、ファーブルみたいな生物学者など、他の学問には数学者よりは高度なことはしてないというのに一般の人でも知っているという人がいるのに、これはどういうことなのか。
数学者で有名といったら、せいぜいピラゴラスといったような古代人、現代数学でいえばリーマンとかラプラスとかだ。
これらの人物に共通するのは小学校から大学までのカリキュラムで扱う理論や公式の発見者かどうかということに過ぎない。
特に古代人が考えたことは現代から見れば易しいものなので義務教育の内容に採用されやすい。だからあのへんの時代の人物は数学者でも知名度が高い人がいることになる。
ようするに言いたいのは数学者の有名無名はただ単に教育制度次第になっているということだ。
高度な現代数学でも岡潔や望月新一と有名な人はいるじゃないかと言う人もいるかもしれないが、あれらが有名なのも、実績の価値が正しく一般の人にも伝わって認知度が高まってきたというものではない。
岡潔なら統合失調症だったなかで戦時下を生き抜いたこと、望月新一なら自分のコネを使って論文を掲載させたこと。
そういう生き様のセンセーショナルなところがもっぱら庶民の関心を呼び起こしているに過ぎないのだ。
ポアンカレみたいな「未解決問題を解いた人」というわかりやすいラベリングを持った人間が有名なのも本質的には上述したのと同じところにあるのだろう。認知している人の多くが業績の概要と価値だけでも正しく理解してるか疑わしい。実績の内容に関する関心ではなく、未解決問題を解いたという一点で共通認識化されているように思われる。
ちょっと単純化が過ぎるかもしれないが、数学以外の科学者の土俵はもっぱら実験や実証のなかにあると思う。
実験により、何かをしたらこういう結果が出た、という目に見える因果関係を把握する力さえあれば誰でもその分野の大学者になれる素質はあるとさえ言える。
もちろん実際に誰もが知ってる大学者になれるかどうかはもちろん有用な結果をはじき出す実験にこぎつけられたらという話になるが、どちらにせよ彼らは比較的易しい具象の中で研究対象と戦っているということには違いない。
一方で数学ときたら現時点で新規性のある高度な数学論文をしたためるには何万ページという論文が語る知見に対する確かな理解の積み上げが無いと無理だろう。
理解する過程においても数千ページ目にあたるある論文が理解できないとなったときどこに理解の欠落があるか今まで読んだ論文から探しなおさなければならないわけである。
理論の構造自体も目に見えるようなわかりやすい因果関係から成っているのではなく、抽象的なわけだから、知識の欠落がなかったとしてもその理解は純粋に難しい。
しかし高度な論文の作成はその先にあるのだからこの数学の研究というものは果てのない作業なのである。
望月もそのような作業を経てついにはIUTの創出という高みに至ったはずである。
そして望月以外にも当然少なくとも月ごとには相当数、同程度の高みから発した高度な内容の論文が公開されているはずだが彼らの中から一般人にも有名という人は現れて来ない。
ようするに現代数学者は天才である。あの手の分野の数学者は受験勉強を全くせず東大に悠々と合格するような人間がざらであるらしい。もっとも現代数学者の絶対数が少ないのだから「ざら」というのは数ではなく割合の問題なのであろうけど。
そんな数学よりは高度な理解力を要しない学問では誰からも知っている人が出てきているのに、現代数学ではせいぜい専門家の間で有名という程度にしかなれないというのは理不尽なことだと思う。
私にはそれほどの数学の才能はないので数学ができる人間に対して劣等感がある。
だから劣等感の元凶である彼らにはせめてとことん栄誉ある立場にあってほしいのだ。
彼らすら大して評価されないのでは彼らと違って能力のない私には何も救いがないではないか。
あるいはこういうことなのかもしれない。既存の知識を理解するという力と新しい見識を発見する力というのは異なるものなのではないかと。
つまり数学の功績は高度な理解力の上に成り立っているものだけども、高度な理解力をもった彼らがもし別分野を志していたとしたら果たして一般の人の記憶にも残る大学者になれていたのかどうか。
現代数学者にチョムスキーの生成文法もその理論を考え出した背景にある理論も含めてその気にさせれば簡単に理解してしまうだろうが、かといってもし彼らがチョムスキーと同時代に生まれて言語学を志していたらチョムスキーを出し抜いてあのような文法理論を創造できたのだろうか。漢字の世界で白川静みたいな業績を打ち立てることができただろうか。丸山真男のような戦後思想史の巨人になれただろうか。
理解力は結局脳の処理能力という量的な要素に還元されるものに思われるが、理論の創造というものはどのような分野にしても大胆なひらめきがものを言い、これなるものは量化などもちろんできない、一種の特殊能力なのではなかろうか。
数学はむしろ知見が論理的に緻密な状態でに充実に蓄積されているのに比べ、他学問の知見は相対的には雑駁というかなんというか、とにかくそういったところから新しい理論を考え出すのには数学以上に何かアクロバティックな部分が必要にも思える。
コペルニクスだったかは海上の水平線で帆船が見えなくなる事実から地球が丸いということを歴史上最初に悟った人物らしいが、彼のような発見は彼より多くの知識を持った、つまりは理解している天文学者には出来ないはずだと朝日新聞の轡田だかいう論説委員の本に書いてあったと思う。
本当だろうか。現代数学者がその時代に生まれても無理だったのだろうか。でももしそういう発見という意味での知性が特殊な力なのなら、ここは素直に認めておくべきことなのかもしれない。数学者こそ昔の偉人が発見した事実をベースに論文をしたためることができているだけで、彼らがいなかったらならば今のような仕事はまるでおぼつかないものになっていたかもしれない。
ただしコペルニクスやデカルトみたいなあの手の啓蒙思想の潮流で偉人扱いされている人がもしも今生まれたら、史実でその発見をしたときのインパクトと同じぐらいのインパクトを持った発見ができるのだろうかという疑問はある。
しかしできないのだとしてもそれは役割の問題なのだということになるんだろう。コペルニクスにはその特殊能力をもって彼にしかできない発見をしたのだし、現代数学者も彼らの理解力をもって高度な論文を発表している。それでよしとするべきことなのだろうか。19世紀から20世紀のイギリスでは優秀な人間は天文物理学に行くものだという常識・慣習があったのも引っかかる。
学者としての優秀さというのは最終的には理解力のような計り知れるものではない、ひらめく力・直感のセンスで決まると認識があった証左なのだろうか。
そうであるなら私についてもまだまだ人生これからで、数学以外の学問でひらめきを発揮する道はあるのかもしれない。
そうだとすれば劣等感を抱く前提条件も崩れ、数学者が一般に知られていようといまいが気にする問題ではなくなってしまうはずであるけれど、ここまで掘り下げて考えてしまったので、まあそれはそれとしてこの疑問は解消されるまでことあるごとに私を悶々と悩ませるには違いない。
まあそれでも既存の知識を理解することにおいては絶大な才能があること、つまり学者がどんな難解な理論を提唱しようがたちまち理解してしまうという意味で、あらゆる人に対してタイムラグはあるにしてもそれを無視した見かけ上はどちらの方が物事をよく理解してるかということについては遅れを取ることがないという点にはやっぱり羨やむものがあるかな、ノー勉で東大に受かる素質というのも素直に?率直に?畏敬の念に駆られてしまう。
dorawiiより
幼稚園児の悲しい習性 なんでおれのものにならないんだろう おかしくね
なんでおれが中田しできないんだよ しね なんでおれのものにならないんだよ
はあ味わいたかったな サッシ能力ってどうやって磨けばいいんだろうな 京都にいけばいいのか
ロックマンエグゼ スタイル ナビカスタマイザー わかってて行動できないってなんだよ
わかっててうごかねえって 電話しなきゃいけないのに やることがおおすぎて頭ぱにくっちまう
死んでもいいわ まつりになろうがなんだろうが 大成功しようが どっちでもいい
金 女 焼肉 焼き鳥 軽井沢 草津温泉 アップルパイ アブニャン ピットーレ
猫ちゃんそあそびてーなー カブトムシ手にのっけてえなー 目的に追われたくない
ずっと寝てたい 情報をゲットしたい あ おれしたいことあるじゃん でもジレンマ どっちか諦めなきゃいけない
一気に仕事行く気なくなってきた おれだけ力使う仕事多くない? それに気づいて
親の子とどうこういったってどうしようもねえてわかってるんだけどね 頭でわかってるんだけど
全部リセットしてえ 仕事も人間関係も いま耐えてるけど 3人くらい残してリセットして
間違ってるってわかっててもそっちにいくとき 無駄も全部ひっくるめてやっちまうか 無駄だってわかってても もうめんどくせえや
やるべきことがおおいのってのと すごい大量のオーダーがあってなにからつくっていいかわからないとき うわああ 配信資格トレーニング恋愛
ほんとは電話しなきゃいけないのに わかってて ジレンマ 本当は仕事あるのにバックれて自己嫌悪 わかってて行動に移してないのなんなの
自分では自分が分からねえよ ほかの連中は月なんじゅうまんかせいでるのに わかってるのに 目に入ってね 考えてしまうんですよ 40
今は全然違うけどね なんで払ってくれないんだろう やることがおおすぎて頭パニくっちまう マイルストーン やる気って言葉はないんだよ
その作業に没頭していく 作業興奮 わかってんだけど ごめんって言えない 言い訳ばかり お菓子のゴミ片付けれなくてごめんでいいんだよ
ネタだからで逃げて謝らない 店員でもないのにいらっしゃいませーっていう遊び 君ら信じてたんだ 高校のころとれるのかよ 電顕二種 なぜ愛するんだ
うまいから 脳にライター デカルト作戦 1から10 123123123 困難を分割せよ だいちゃんにヒモ梨バンジーやらせてえ ビルからつきおとしてえ
いや違うな。こう生きれば楽になるとキリストや釈迦など開祖が考えた知恵の集合体。科学的じゃないのじゃなくて科学自体が17世紀にデカルトが明証分析総合枚挙からなり合理的批判に耐えられた知識であり科学のほうが遥かにあとの時代のものだ。
昔は宗教がすべて語れると思っていたが科学で語れるものは科学で語れるから宗教から出ていっただけのこと。それでも行き方については宗教が語れるものがある。最も有意義な宗教は迷って解を得たら宗教は不要になるものだけどな。
仏教や儒教は神の存在を前提としていない(仏教毒矢の例え、儒教怪力乱神を語らず)
その上で山上母が騙されて献金しなければ山上は高度な大学に行けただろうから人生は全く別のものだったな。
あまえんなと言う言葉は神に献身なんて求める統一協会を始めとしたクソッタレ霊感商法にこそふさわしい。ましてや少し助けを与えて、その後依存させて餌にする霊感商法が増えすぎたため、いまの時代宗教知識は本だけで学ぶべきだと思うが。
■教養を身に付けられる本を教えて欲しい。
この問いに答えるには先に「『教養』とは何か」ということをクリアにしないといけないと思うが、これを抽象的に論じ始めると喧々諤々の議論となって、増田の「本を教えて」という望みにたどり着かない。
しかし、日本の「教養人」と言われる人/自称している人たちの中で「教養」の範囲は割と共通していて、だいたい以下のラインナップに自分の専門や好みを付け加えたものになるのではないかと思う。
これはもう間違いない。およそ西洋で発展した学問は深掘りすればすぐにキリスト教にぶち当たる。
ただ日本でキリスト教について知識を身に付けようとしてもなかなか良い本が無いのが現状。(その辺で売ってる入門書は表面をなぞってるものばっかりなので読んでも誤解して終わりだと思う)
個人的には内村鑑三の一連の著作から入るのが分かりやすくて良いと思うが、古くて読みづらいかも。田川建三から入るのも面白いかもしれないけどどうかなぁ。
なお、「教養人」といえど聖書は誰も通読していないので、上記の本で引用されたところを拾い読みしておけばよい。
ひと昔前までマルクス主義はすべての学問を包括する「グランドセオリー」と言われていて、どんな問題でも切れる便利なナイフのように活躍していた。
その残滓が今でもあって、社会科学においては今でも学生が知らず知らずのうちにマル経用語を覚えさせられていたりする。
むかしは手に入りやすくてわかりやすい入門書が不破哲三のものしかなかったが、数年前のマルクスブームでたくさん良い本が出ており、個人的にはデヴィッド・ハーヴェイの入門書をお勧めしたい。(ただ抵抗が無ければ不破哲三の著作は今でも分かりやすくてよい)
みんなの憧れ『資本論』も上記入門書の傍らに置いてちびちび読んでみると良い。そこらの難解な哲学書に比べればぜんぜん読める。
マルクスをやればみんな歴史がやりたくなる。マルクス主義史観を学校で習った日本史/世界史に当てはめて、その切れ味を試したくなるからだ。
好きな時代や分野をやれば良いと思うが、「教養人」はみんな網野善彦と遅塚忠躬の著作が大好き(偏見)なので、ぺらぺらめくっておくと良いだろう(マルクス主義史観の多少の解毒剤にもなる)。
ウォーラーステインも読みたくなるが、長すぎて誰も通読していないので、川北稔のアンチョコを読んで、読んだふりをしておくと良い。
なお、第二次世界大戦については最近、川田稔『昭和陸軍全史』という誰でも読めるすばらしい本が出たので、知ったかぶりができなくなった。
文学となると何を読むか、ということになるが、サマセット・モーム先生が『世界の十大小説』というすばらしいアンチョコを出しているのでまずはこれを読むと良い。
そこで採り上げられている小説のうち、『カラマーゾフの兄弟』と『戦争と平和』は「読まなければ人ではない」という風潮があるので、せめて読んだふりはできるように。キリスト教の知識がここで生きてくる。
日本の小説では、夏目漱石についての柄谷行人の論考を読んで、日本の近代について一席ぶてるようにしておこう。
それと『失われた時を求めて』はとりあえず買って挫折するのが大事。
わが国では哲学について昔から「デカンショデカンショで半年暮らす、あとの半年寝て暮らす」という有名な言葉があり、デカルト・カント・ショーペンハウアーが昔の「教養人」の必須科目となっていたらしい。
ただショーペンハウアーがここに入っているのは少し不思議で、今ならニーチェが入るのではないかと思う。
どうせ正確な理解なんて無理なのだから、適当なアンチョコを読んで知ったかぶりができるようにしておくと良い。
なお、なんか知らんが日本人はヘーゲルが大好き(な割に誰も理解していない)なので、一応挨拶だけしておこう。
「教養」として名前が挙がることが多い一方で、まともに条文を運用できる人がほとんどいない分野。
上述してきた分野と違って、本を読むだけではだめで、指導教官のもとで実際の事例にぶち当たってトレーニングを積まなければならないので難しいのだろう。
下手に基本書を読んでも本職に知ったかぶりをすぐ見抜かれるので、時折ネットで話題になる法律問題について法曹の解説を読んで都度勉強すると良いだろう。
ここまで挙げた学問はいずれも西洋で発展したものなので、「日本にはなんもねぇのか」という気分になってくる。
こうした「教養人」が抱えるコンプレックスについて内田樹が『日本辺境論』という本で書いているので、ちょろっと見ておくと良いだろう(Amazonで1円で売っている)。
ここらで本居宣長とか丸山真男とかを読み出す人も多いのだが、どうせ不毛な作業になるので、視野を広げて中国思想・インド思想辺りに目を向けるのが良い。
「教養人」というのは大概文系であり、自然科学についてはからっきしな奴が多い。
自然科学の話題になると、トーマス・クーン『科学革命の構造』をそれらしく引用して逃げ切りを図る人が多いのだが、本職に馬鹿を見抜かれるので素直に勉強しましょう。
ヨビノリをはじめとした学習コンテンツがYouTubeに転がっているので、せめて高校数学と物理ぐらいはやっておかないといけない。
上述してきたような分野をやっていると、唐突に詩が登場したりして困惑する場面が多々出てくる。
論理的(笑)な「教養人」の中にはこれを不得手として敬遠する人が多いのだが、どこかで対決しなければならない。
幸いなことに最近、詩人の渡邊十絲子という人が『今を生きるための現代詩』という詩についての分かりやすい概論を出したので、一読した上で適当な詩のアンソロジーでも買ってくれ。
なんか知らんが「教養人」は映画が好きな人が多いので、ある程度は観ておかないといけない。
イギリスのエンパイアという雑誌が「史上最高の映画500本」という特集をやっているので、上から適当に観ておけば良い。
とりあえずこの辺を押さえておけば周囲からは「教養がある」という認定を受けるのではないかと思う。
ただ教養があったとしても「教養人」からマウントを取られる可能性が低くなるだけであり、「他人との会話が盛り上が」るなんてことはまず無いから気を付けて呉れ給へ。
理性哲学だけではどうにもならないよ。
聖書が正しい(プロテスタント)と聖職者が正しい(カトリック)の戦争に従軍した兵士デカルトが明証分析総合枚挙からなり、合理的批判に耐えられた知識は正しいとう新しい正しさを作った。
しかし振れが多いと明証がすぐにはできない。統計を使って振れを踏まえても明証をしようとするが、統計がなじまない個体差が多い問題には対処できない。
だから自分が正しいから正しいという余地は残しておかないとならない。問題はつかれると判断力が落ちるというのと、判断力が落ちたやつに誤った「自分が正しい」を教え込む連中はいる。それがカルト。
今の時代宗教団体に属する意味は無い。しかし宗教の知見や過去の人、歴史は多く学んでおいたほうが良い。その上で、判断力が落ちる状態にならないようにしないとならない。