「イスラーム」を含む日記 RSS

はてなキーワード: イスラームとは

2019-04-03

みんなが引き上げていったあと、イスラーム代表の方がやって来て「今日の騒ぎは何だったのか教えてほしい。」と質問されたらしい。

http://keisui.com/20190402-architect-29346-keisui/

更地売却してモスクができる予定だったのかな

2019-02-15

anond:20190215112943

教会イスラーム教徒をも尊重する。彼らは唯一の神、すなわち、自存する生ける神、憐れみ深い全能の神、天地の創造主、人に語りかけた神を礼拝し、イスラーム教の信仰が進んで頼りとしているアブラハムが神に従ったのと同じく、神の隠れた意志にも全力を尽くして従おうと努力している。

(第二バチカン公会議キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』3)

2019-01-11

北欧では、シス女性LGBTどころかムスリム移民も同じ弱者として共生しているらしいぞ

シス女性トランス女性を受け入れ、ムスリム異性愛男性女性同性愛者も自分と同じ権利を持った存在理解し、女性LGBTフェミニズム思想やクイア理論と並びイスラーム思想尊重する

どうやってるんだろうな

まあ北欧ではどうであれ解決できてるらしいと聞くと、トランスジェンダーの銭湯問題って、本質日本社会の後進性が悪いってだけでは

2019-01-09

anond:20190109224201

おっ、世界イスラーム共同体15億人を頭から全否定か、威勢がいいな?

定義クルアーンに書いている、以上。

anond:20190109223037

イスラームでは初めから全ての法源は神の法(クルアーンハディース)ですが。

行き詰まってるのは近代領域国民国家だけやで。

anond:20190109220551

見たくないもの個人的に見ようとしないのは勝手だが、それを事実だと思いこむのは認知の歪みだぜ。

イスラーム圏ではどこもトランスジェンダーへの迫害はとてもキツイ(身近なとこではインドネシアとかマレーシア悪名高い)

wikipedia英語版豊富記事があるから適当に眺めといて。ここで僕が例を列挙しても君は認知が歪んでいるので現実直視できないようだから、例示するのは無駄だと思いますので。(あくま個人的感想ですが)

2019-01-04

酒は呑まない方がいい

人達と深酒した。白酒火鍋を囲みながらひと瓶開けた。あとビールをジョッキで2杯。彼らはもっと飲んでいたが。酒が弱くはなった自覚はある。

翌日は仕事が入っていなかったので家にいられたわけだが、何もできなかった。無理にやろうと思えばできるのだが、できれば寝ていたい。寝てビデオを観て楽しかった気持ちよかったとは正直なところなのだが、やはり深酒はコストがかかる。高い。

そもそも酒を飲む必要があるのか、神経に作用するもの摂取を控えたい、と思うようになった。酒が楽しい思い出をつくることに貢献してくれるという点は否定しないけれども、それ以上に高いコスト負担しているようにも思える。

やはり控えるべきは酒である。歳をとればとるほどそういうことなのではないか。むしろ若い頃に酒で時間を浪費していると、後々大きな差となって現れてくるのではないか

酒をのまないという習慣は、実はとても大切なものなのではないか。この点、イスラームの教えはやはり正しいし、ついでに言えばトランプ大統領の習慣は正しいと思うようになった。

2018-12-28

怪談と隣人―波勢邦生「トナリビトの怪」を読む

【読んだもの】本を購入しようと思ったら、リアル書店ネット書店最近では出版社による直販(弊社もやってます)などさまざまなあるかと思いますが、今回ご紹介したい『アーギュメンツ#3』という評論誌は「手売り」、つまり関係者による直接販売というきわめて珍しい流通チャンネル選択した書籍です。売り方の時点でかなりチャレンジングな企画なのは明らかで、魅力的な論稿も多数収録されているのですが(レイ・ブラシエ(佐藤正尚訳)「脱水平化―フラット存在論に抗して」や、大前粟生さんの小説断崖」もすごかった)、その中の波勢邦生さんの論考「トナリビトの怪」が本当に本当にすばらしかった。ので、今回はそれについて書きます

当該論考のテーマをおおきくまとめると、理性的自己判断できる存在としての近代主体(いわゆる「強い主体」)の淵源にあるものとしてのキリスト教という一般的イメージに対して、ハワイ日本沖縄におけるキリスト教受容史をふりかえることで別の可能性(本書でいう「隣人」)がたちあがる場としてダニエル書・イザヤ書を読みかえすという試みといえます

いろいろ論じたい点はあるのですが、とくに筆が冴えるのは、小原猛『琉球奇譚 キリキザワイの怪』に紹介されている怪談ジーマー」の話です。曰く、ある男性が「ジーマー」という老婆に「神様用事の手伝い」を頼まれる。それは波上宮という砂浜で、彼女三味線に合わせて民謡を歌うというもの。そこで事は起きる。

知ってる歌は歌い、知らない歌は手拍子うつ適当にこなすうちに背後の砂浜に人が集まりはじめるが、おしゃべりの中に英語やうめき声が聞こえるなど、奇妙な何かがそこにあった。徐々に不審なおもいにかられたその男性は後ろを振りかえる。「すると、そこには誰もいなかった」やがて夜も明けて、ジーマーの三味線も鳴り終わったあとに砂浜をみてみると、声が聞こえた場所には子どもをふくめた無数の足あとが残されていたという。こうした情景に、その男性は戦争太平洋戦争のことか?)の傷跡を読みとり、波上宮鳥居を抱きしめて泣く。「みんな死んでしまった。父親も、幼馴染の友達も、学校の恩師も、みんなみんな死んでしまった。自分は生き残ったが、果たしてこれは良いことだったのだろうか。自分のようなくだらない人間が生き残って、優しく勇気のあった友達や、才能のあった人々が死んでしまう。この差は何なのだろうか?」(30ページ)

この「ジーマー」は沖縄固有の物語ですが、波勢さんはここに「死者との交換可能性」という「怪談本質」を見ます。生者と死者の想像力が同時に起動する場所、そこに怪談という物語は立ち上がる。そして同論考にとって重要なのは、この「怪談想像力」はキリスト教テクストにも見出されるという点です。

(「怪談として聖書を読む」というこの箇所は本稿でもっとも屈折し、そして読みでのある所なのですが、そこはあえて飛ばします。気になる方は「アーギュメンツ#3」をお買い求めください)

この怪談という想像力からみて、「西洋近代的自我による主体区分による解釈は、恣意的グロテスクな切断」(34ページ)となりますしかバベルの塔神話が示すように、神は常に「言語文化を奪われたものの側に立ち上がる」。つまり強き主体の側にではない、という点が重要です。

「神は奪われ排除されたものの側に立ち上がる。歴史と非歴史境界で『主体』と『弱い主体』を隔てる壁は消失し、ありうべからざるものが現れた。」「ぼくはそれを『隣人』という言葉に求めたい。なぜなら聖書において隣人とは、まさしく自他の交換可能性を示す言葉からだ。」「隣人が現れるとき、『神を愛せ、己を愛するように隣人を愛せ』というイエスの声が、聞こえ始める。隣人は、神の赦しを伝達するぼくらの似姿であり、またぼくらの赦しを待つ異形のものでもあったのだ」(35ページ)

ここで提示された「隣人」は、大仰で圧倒するような<他者>、私たち理解を拒む絶対的な<他者>ではないでしょう。どこにでもいるあなたであり、わたしであり、そして誰かです。これはブルーハーツの歌に出てくるような、といっていい。そう思います。(すこし恥ずかしいけれど、いや、しかしそう言ってしまっていい)

「隣人の思想」、波勢さんの論考が到達した地点をそう呼んでいいと思うのですが、ここで示された思想の内実とともに、この思想に至る論述あくまでもキリスト者としての波勢さんの信仰に貫徹されている。ここに本稿のもうひとつの傑出した点があります

たとえば「昨年11月、九三歳で祖父が死んだ」ではじまる本稿は、「キリスト教信仰告白せずに死んだ祖父天国でないどこかへ行ったのではないか不安になった」という文章地の文で、鍵括弧抜きで出てきます。たぶん信仰をもたない人にとってこの一文は、理解の遠い、「向こう側の人」の言葉に聞こえるのではないでしょうか。(本稿の最後、註のラスト文章も「神に栄光、地に平和、隣人に愛と怪。感謝して記す」です)

聖書怪談として読む」という本稿の試みをもし信仰をもたない人がするならば、さじ加減をまちがえたとき即座に「他者信仰否定」になるでしょう。でも、波勢さんはあくまでも信じることで聖典を読み替える(またはこれまで読まれなかったものを読み解く)という姿勢を貫く。そこにこのテクスト独特の緊張感と救いがあります

イスラーム法学中田考先生や、このたび『トマス・アクィナス』でサントリー学芸賞を受賞された山本芳久先生などもそうですが、これまで護教論や宗学として避けられがちだった信仰自身による学問考察のいくつかには、相対主義決断主義あいだでさまよう私たち課題を乗り越える何かがあるように思います。私にとって本稿はまちがいなくその一つです。そう断言していいものがこの論稿にはあると考えます

以上、編集Aは自社本を紹介していないどころか本すら紹介していないのではないか疑惑もあるのですが(広報誌とか、雑誌特集号の論稿とか)、これにて「トナリビトの怪」の長文の感想を終わります。ご清聴ありがとうございました。

2018-12-16

明治の「廃仏毀釈運動

各地の廃寺となった寺の数を知るだけでもその苛烈さが分かる。富山藩では、1600か寺以上あった寺院が6か寺にまで激減。薩摩藩でも1000か寺以上あった寺院明治7年には全廃となり、藩内には一つの寺院存在しなくなった。まさに「おどろくべき暴挙」(圭室文雄*1)であった。

当時の全国にあった寺院の約半数が廃寺と化し、途方もない数の文化財が廃棄・破壊され、果ては売買されたと伝えられているが、今もなおその正確な実態は掴めていない。

2001年アフガニスタンイスラーム主義組織「ターリバーン」が偶像崇拝禁止を掲げて、バーミヤン仏教遺跡群の石像破壊すると世界中から非難の声が上がった。その際、日本政府は修復のための基金設立し、最終的に3億円以上を拠出した。

だが、皮肉なことに、近代日本の夜明けを告げた明治政府は、「ターリバーン」など比較にならない規模の「ヴァンダリズム」(文化破壊運動)を容認していたことを、日本人として記憶に留めておくべきだろう。

2018-12-08

史学科のゼミとか卒論とかって何やってるの

数学科事情、すごく興味深く読んだ。

「数学の修得には時間がかかる」ことの概説 - Unhappy Go Lucky!

ただ、文系学部の「研究」や「卒業論文」の位置づけとかについて、過大評価していただいているような気がしなくもない。日本語とは縁遠い言語を話す地域を専門とする史学科卒の人間として、「ゼミ」や「卒論」の位置づけについて語ってみたい。

ゼミで何をやっているか

いやこれは本当に分野によるのだが、「研究」というよりも「勉強」をやっているところが多い。歴史学というのはまず史料に何が書かれているかを正確に読み解く必要があるのだが、その読み方を徹底的に叩き込まれる。場合によっては修士課程でもこれが続く。もしくは、研究文献の読み方を叩き込まれる。そもそも2・3年前まで高校生だった連中である文系研究書をどのように読むべきかよくわかっていない人も多いし、英語の本を通読なんてしたことないですという人がほとんどだろう。レベルの高い大学なら外国語文献の購読をし(何語なのかは研究分野や参加者による)、あまりレベルの高くない大学なら日本語の本・論文の読み方をゼミで躾けられる。

(「史料」ってのは要するに「昔の人が書き残したこと」。王様勅令だったりお役所行政文書だったりインテリの書いた思想書だったり過激派の撒いたアジビラだったり新聞記事だったり、色々である公文書館に行って実物を見てくる場合もあれば、別の学者がまとめて印刷出版してくれたものを参照する場合もある)

何で学部の段階からゼミに分かれるか、というと、「歴史学とは何か」「史料批判とは何か」みたいな概念方法レベルの話や、「いやしくも歴史学を学ぶ者として最低限踏まえておくべき各地域・各時代の基礎知識」みたいなのを除けば、分野ごとに身につけるべきスキル全然違うので。江戸時代歴史なら江戸時代古文書明治期の歴史なら明治期の文書中国史なら漢文イギリス史なら当然英語古文書……を読まないといけない。イギリスについて研究したい学生日本古文書の読み解き方を勉強しても時間無駄だろう。逆もまた然り。

ぶっちゃけ、「卒業論文」に大したオリジナリティはない

慌てて言えば分野による。

社会調査とかする分野で、自分なりにアンケート調査してみた、とかそういう論文なら、どれだけ拙かろうがオリジナリティはあるだろう。あるいは歴史学でも、オリジナル史料を発掘することが可能な分野ならオリジナリティは出る。

ただやっぱり、学部4年の段階で大層な「オリジナリティ」は出てこない。そもそも外国史の場合史料の読解すら教員の手助けを得てようやく、という人が多い。歴史学では一次史料が重視されるが、私の分野では卒業論文で一次史料を使った時点で優秀な学生の部類に入るだろうなと思う。二次文献、つまり他の研究書や論文をまとめて長いレポート(うちの大学では3万2,000字が下限だったかな)を書けたらOK、という運用をしている大学も多いのではないか。まとめるのにもオリジナリティは出るしね、という苦しい理屈だしそんなの査読つき学会誌に「論文」として発表できるレベルではないが、学会誌に「論文」として出せるレベルのもの要求していると4年では足りないわけで、多くの史学科の学生修士論文で初めて学会誌投稿できるレベルのもの要求されることになる。

何度も言うようにこれは分野による。地味に重要なのが、「その言語大学第二外国語として開講されているか、あるいは教養科目で講義が受けられるか」という点。朝鮮史ドイツ史やフランス史場合韓国語ドイツ語やフランス語文系学部ならたいていは必修の第二外国語として教えられていることが多いので、卒論でも韓国語ドイツフランス語論文は読めて当然だよなあ? というハードモードになることもある。中国史なら「高校から漢文やってるんだしゼミでも読んでるんだから卒論でもちゃん漢文史料は読めるよね? 現代中国語論文も読んでね」ということになるだろう。英語? そんなの読めて当然でしょ? 第二外国語ではなくとも、たとえばトルコ語アラビア語なら多少気の利いた大学なら教養科目とかで開講されているから、イスラーム史やりたいなら学部1年のうちから履修しといてね、という話になると思う。逆に、マイナー外国語必要な分野だと、せめて英語の本くらいは読んどいてね、くらいにまでハードルは下がる。アイスランド史を勉強したいです! と言われても、日本アイスランド語の授業がある大学がいったいいくつあるのか……という話になるわけで。まあ東大の某ゼミではゲエズ語購読とかやってたらしいですけどね。雲の上の世界すぎてまったく想像もつかない。

なので、大学に入った段階で既にどの分野に進むのかなんとはなしの道筋がついていないと厳しい。第二外国語韓国語選択して、やっぱり私ドイツ史がやりたい! というのは不可能ではないが難しい。第二外国語選びの段階である程度進路が決まってしまう、というのが史学科の特徴だ(まあ、英文学科とかは、学科選びの段階で専門地域が決まってしまうわけだが……)。イスラーム史やるなら第二外国語フランス語にしないとね。そんなのついこないだまで高校生だった連中にわかるか! もちろんこれは大学による。西洋史に進学した者にはドイツ語とフランス語双方の習得義務付ける大学もあるそうである。これならヨーロッパのたいていの地域対応できるね! 史学語学と言われる所以だ。

あとは西洋以外の地域だと、「史料に書かれている言語」と「論文に使われている言語」が違うことが結構あって、何でかといえば近代以降に西洋諸国植民地支配されていたりすると「オランダ人研究者がオランダ語で書いたインドネシア史についての先行研究」みたいなのがたくさんあるので。つまりいくらインドネシア語やアラビア語が堪能でもそれだけでは片手落ちで、オランダ語フランス語ができないと先行研究が読めないので勉強せざるを得ない(付け加えるなら、植民地支配されてたということは、お役所では宗主国言語が使われていたり宗主国のお役所植民地統治担当する部局があったりしたわけで、それらの史料は当然宗主国言語で書かれている)。さら前近代史だと、「昔使われていた言語」と「現在使われている言語」が異なっていることが多く、典型的には古文とかラテン語とかである現代日本語論文はスラスラ読めても古典日本語チンプンカンプンという人も多かろう。前近代西洋征服王朝なんかだと大変で、現地語+支配階級言語植民地支配してたヨーロッパ言語、をやらなければいけなかったりする(アラビア語オスマン語+フランス語、みたいな感じ)。いやー、西洋現代史はヌルゲーの領域っすわ……その国の言語ができれば用足りるからなぁ。現地に行けばネイティブスピーカーいるか勉強簡単だし(アッカド語みたいなネイティブがいない言語習得してる人ほんと尊敬する)。もちろんここで少数民族とか国際関係史とかに興味を持ってしまうと語学沼に引きずり込まれるわけだが。イギリス史なら英語だけでいいだろうと思っていたらうっかりウェールズに興味を持ってしまウェールズ語を勉強することになりました、とか、ドイツ語だけで通そうと思っていたら枢軸国外交に興味を持ってしまったせいでイタリア語も読んでます、みたいな。とはいえこれらは院に進学してからの話(あるいは院への進学を希望する学部生の話)だ。院に進学しない学生卒論レベルなら日本語英語or中国語でじゅうぶん、という運用大学ほとんどだと思う。

ヨーロッパ植民地についてしか述べていないのは、日本植民地場合宗主国言語習得する困難はほぼ存在しないからであって、日本植民地支配をしていなかったと言いたいわけではないので念の為。もちろんこれは日本語母語話者である学生の話で、韓国台湾学生あるいはそれらの国から留学生植民地時代自国史を勉強しようと思ったら日本語を読まなければいけないわけであり、なんというか申し訳ない)

でもまあ、卒論書くのは大事ですよ。たとえそれがレポートに毛の生えたレベルのものであっても、院に行かない学生にとっては専門家指導されしっかりと文献を読み込んだ上でこんな長文を書かされる機会はこの先の人生でなかなかないし、それを経験するというのが大学に行く意味だと思う。院に行く学生にとってはもっと長い修論博論書くんだから当然このくらい書けなきゃ話にならんわけで。

院に進んだら何やるの

留学します。

これも分野によるのだけれど、たいていどっかに留学する。中国史なら中国台湾フランス史ならフランス、みたいに。留学先で大学ゼミに参加したり史料を集めたり現地の専門家指導を受けたり、あるいは分野によっては語学勉強をしたりする。もちろん複数国に留学してもいいし、研究対象国以外に留学することもありえる。アフリカ史を研究するためにポルトガル留学した人がいたり(イエズス会士が書いたものを読みたかったらしい)。で、帰国してから博論を書く(たまに留学先でそのままPh.D獲っちゃう人もいる)。

上述のような事情があるので、歴史学を専攻している人はたいてい4年以上博士課程に在籍する。ちゃんとした大学で3年で博士号獲るのは一部のバケモノだけです。たまにいるんだよそういうバケモノが。日本史なら楽勝かというとそういうわけではなく普通に4年以上かかってることが多い。留学期間とかもあるので、博士課程の先輩に学年を聞いても即答できないことが多いから気をつけよう。29歳でドクター? 夢物語かな? まあ本当に文系大学院なんて資産の子供か養ってくれる配偶者持ちか自殺志願者以外は来ない方がいいです。男性歴史学者が書いた研究書のあとがき奥さんへの謝辞が書いてある場合、もちろん本当に純粋感謝の念であることも多かろうがけっこうな確率で一時期ヒモ生活を送っていたことへの感謝だったりする。奥さん実家でチクチクとイヤミを言われた経験を聞かせてくれた教授もいらっしゃる。これ有名大学の教授様になれたから笑って話せるだけで、なれなかったら悲惨だよな……。まあでも、研究者の不遇っぷりは文理問わないか

2018-11-29

anond:20181129203718

エキゾチックだけど黒人ほどは離れていない

それでいてイスラームよりも付き合う上で面倒事は少なく、肌の露出ムスリマより多い

日本人との恋愛ならあまりカースト関係ないだろうし

2018-11-18

徹底的なセクハラ事前回避策は禁酒

http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/tamagawagirl/status/1063406298752905217?s=12

徹底的にセクハラを事前回避するのであれば、ペンスルールでは不十分。

女性を誘わない行為もまたセクハラと見なされかねないからだ。

男女同席どころか男女問わず酒宴そのものを根絶したイスラーム先進性が、またもや証明される形となってしまった。。

2018-10-31

日本もはやくイスラーム化してほしいんだけどね。

東京シャリーアを!

anond:20181031180244

インドネシアとかパキスタン言うほど存在感いか??って思ったけど、イスラーム世界と日頃どれだけ接触してるかだと思った(こなみかん

逆にインドネシアとかパキスタンの人からすると、モンゴルだのジャマイカだの知らない人がほとんどだろうし。

2018-10-23

まだキズナアイで消耗してんのかよ

ブコメに「ミサンドリスト」に文句つけてる頭悪いやつがいるけど、そいつミサンドリストじゃないから。

フェミニストミサンドリストとは違うと主張して自浄しないとダメ」とか言うやつがよく湧くからはっきり言っておくけど、そいつ自称フェミなだけでフェミじゃないしミサンドリストに見えるけど実はそうでもないから自浄しようがないんだわ。

まりにも無理筋党派性だけのフェミニズム擁護を女の総意であるかのように言う奴は「女は非論理の生き物」みたいな不当な女下げに加担してるのであってそれはもうミソジニストから

家父長制に奉仕する男を男尊女卑の豚(メイル・ショーヴィニスト・ピッグ)って言うけど、この自称フェミニストの実質ミソジニストどもはまさに男尊女卑の豚であって、「豚」は日本語だと名詞的には性が非決定だからからも男からも自浄の対象にならない。

批判するなら正しくやれってこと。

「同一視されたくなかったら自浄しろ」じゃなくて頼むから自分批判してくれ。

はっきり言ってキズナアイ論争なんかはフェミニズムの最前線ではないから忙しいフェミニストがこんなものに関わると思うな。

まともな女は一部のおかしい人への批判を女全体への批判と取ったりしないか安心して批判しろ

「同じ女だから」なんて理由でたまには妥当なことを言ってるキモオタより党派性に狂った頭のおかしミソジニストの豚を擁護したりすると思ってるなら女をバカにしすぎ。

正直言うと単なるミサンドリストなら同情の余地はある。家父長制の社会で生まれた時から人生制限されてネガティブ言葉シャワーを浴びて苦渋を舐めさせられてきた女がミサンドリーこじらせるのは自然なこと。彼女たちの「お気持ち」に寄り添うのは、例えていうならニセ科学批判は騙される人の気持ちに寄り添えなければ被害者を救えない、ただの科学者オナニーになるのと同じ。フェミニストミサンドリストに寄り添う必要がある。そういうときは「妥当」なくらいしか取り柄のない男どもよりもミサンドリストの側に付くこともあるだろう。別に男を否定しているのではなく、優先順位問題だ。

でも自称フェミニストミソジニストどもは話が別。

あいつらはもはや女の敵なので寄り添う気も起きない。フェミニスト一人一派とは言うけれど、フェミニスト自称してるだけではその「一派」にすらなれない。また例え話をするけれど、イスラームにおける信仰にはたくさんの派閥がある。なかに原理主義的な危険信仰を持つ者もいる。でも少なくとも信仰というベースがあればそこにムスリムとしての連帯生まれる。問題信仰もないくせにムスリムが築き上げてきた社会インフラをハックするためにクルアーンの教えを利用する奴ら。

あいつらはイスラーム社会の敵であり、たとえテロと手を切って「平和宗派」を演じ始めても、その欺瞞が見えてるからムスリムと認めることはできない。

フェミニストを見破るための最大の目印は党派性だ。実際のところ、様々な偽◯◯の目印になると思う。偽オタクとか偽科学者とかな。自分の確固とした意見がある人間党派性ものを決めたりしない。特にそれが学術方法論に支えられたものであればなおさら一人一派フェミニズムなんて党派性からもっとも遠い学問だと言っていいくらいなのに、偽フェミニストはそこが分かってないから、あいもかわらずSNSで人を敵と味方に分けての議論ごっこに明け暮れる。

自分フェミニストじゃないことには気づいているかもしれないが、ミソジニストであることには気づいていないのだろう。

キズナアイへの攻撃ミサンドリストによるものだというはてな一般的になりつつある言説をずっと疑問に思っていた。

あれを叩くのは(叩いてない、と歴史改変するなら、あれを「NHK旧弊意識によるジェンダーロール刷り込み問題とするのは」でもいいが)明らかにミソジニストのものだろう。

そんな明白なことがなぜ分からないのか。

2018-10-11

anond:20181011210021

試しにググったら2秒ででたで

https://wezz-y.com/archives/53921/2

 ドーキンス性差別発言をしばしば批判されています2011年女性無神論者レベッカワトソンが、エレベータで不躾なナンパを受けたことをこぼすビデオを作ったところ、ドーキンスがそれに対して、抑圧に苦しむイスラーム女性に比べればどうでもいいことに不平を言っているというような意味諷刺的なコメントしました。このコメントは他の無神論者からも強く批判されました。ドーキンスはその後態度を変え、2014年フェミニスト無神論者オフィーリア・ベンソンと共同でハラスメントに反対する声明を出し、新無神論活動内での性差別に取り組む姿勢を見せました。

 ところが、直後にドーキンスは上にあげたハリスに対する批判炎上狙いの個人攻撃だと見なし、さらに性暴力被害者お酒を飲んでいたらその証言は信用できないと述べ、性差別的だという批判を再び受けました。2016年には、ヘイトスピーチで有名なYouTuberが、オンラインハラスメントを受けているフェミニスト女性中傷するために作成したビデオを、ドーキンスツイッターリツイートし、フェミニズム貶めるばかりか実在人物名誉毀損しているとして強い批判を受けました。このため、アメリカ北東科学懐疑大会(NECSS)でのドーキンスの講演が中止になりました。

リンク先では英語の元記事まで辿れる

2018-09-20

男女の性欲について

ちらっとTwitterネタ探ししたらあったので軽く書く

女性団体代表者特に)「性欲をコントロール出来ない人は色々(ry)」と暴力的に書き綴る事が良くありますが、

基本、女性は性欲コントロールできる体の構造になっていますが、

男性は性欲のコントロールは効かない。

という事です。…多分。

論文としては出ていないので、あくまでこれまで出てきた結果に、過去から統計(というか言い伝え)を含め考えると

(とりあえずはてなじゃクソ長い考察部分はカット

黄体形成ホルモンLH)が男性女性どちらにも性欲を促すのだが、

男性は性欲に直結してしまう=コントロール出来ないのに対し、

女性月経周期もあり、性欲を頭の中で(後シャワーを浴びて体温を下げる事で)コントロール出来るという事。

まあつまりは、男性のチカンコントロール出来ないので、

カンに会いたくない女性イスラーム教に倣い、ヒジャブを常に付ける。

という事で。

(因みに、ネットでこのネタの裏取りしようとしたら、微妙リンクとか消されてたりするんだよね。何かの力が

おや、玄関チャイムが鳴ったな。誰だろうこんな時間に??)

2018-08-21

anond:20180821180206

イスラーム圏では普通にあるけど?

日本人みたいな不信心者どもには高尚すぎてその背景にある理念理解できんだろうなw

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