はてなキーワード: 正当化とは
東南アジアの児童買春に関するポストがバズってた椎木透子って人、
何処かで名前を見たような気がして検索してみたけれど、震災後の福島に関するドキュメンタリー映画を作ってた人なんだね。
『この空を越えて』
この人、東日本大震災当時はアメリカにいて、福島どころか日本での震災での当時の経験すらないみたいなんだけど。
そんな人が作る福島のドキュメンタリーって、上記の買春クソキモポストの件と合わせると、被害を矮小化して援助の手を断ち切る目的しか感じなくなってきたな。
あと、これ。
その活動が2年目に入った時に、福島の子どもたちを対象にしたプロジェクトを行うことになりました。結果的にその活動はちゃんと届けることが出来なかったのですが、諦めきれずに、福島の9~15歳の子どもたちにアンケートをお願いして、彼らの思いを知ることができました。そのなかで、私をハッとさせた答えがありました。それは、「私たちは震災で大変な思いをしたけど、可哀想ではない。そう受け取らないでほしい」というものでした。
福島の子供達から「私たちは震災で大変な思いをしたけど、可哀想ではない。そう受け取らないでほしい」と言われたらしいけれど。
実際に震災で被害を受けたし、風評被害もあるし、そもそも震災以前から過疎化が進む地方で大変なのに。
この人は多分、きっと東南アジアで売春させられている少女に対しても同じように思ってるんでしょ、「可哀想なんかじゃない」って。
福島出身でかつて子供だった大人の一人として、当事者の言う「可哀想なんかじゃない」を安易に美旗に使ってはいけないと思うんだよね。
「可哀想なんかじゃない」って、そりゃ当事者は言うよ。子供なら尚更。同情されるのは惨めな気持ちになるし、辛い事だから。
自分も昔はそう思ってた。自分は可哀想なんかじゃない、可哀想なんて思われたくないって。
でもいざ大人になってみるとやっぱり客観的に見たら自分は十分「可哀想だった」し、
可哀想だと言ってても確実に支援してくれる大人の方が有難いんだと分かる。
子供相手に限らず、最近はとかく理論武装して他人を直接助けない事を正当化する言説が盛んだよね
魚を与えるよりも魚の捕り方を教えろみたいな言説もそう。
ポエムなのでソースはないです。最初にポジションの宣言しておくと、俺はDEIには肯定的というか、まだ何か可能性があるのではないかと信じたい派。
DEIのいいところはDEIのI、Inclution、包括性にあると思う。これは単に性的マイノリティを包括して1つのチームで頑張ろうぜというだけではなく、年齢、人種、国籍による先入観を持たず、その人の個性を尊重して共同作業しよう、生産性を高めていこうというところにあると思う。
この理想像はかつてのアメリカの理想像に重なるところがあると思う。様々なバックグラウンドを持つ人がアメリカという新天地で自分の夢をかなえるアメリカンドリームをより一般的にした概念がDEIだと思う。
表層的にはここが一番大きいと思う。性的マイノリティがDEIを自分のエゴを正当化する大義名分としてしまったため、そのほかのDEIをなんとなく知っている層への押し付けになってしまった。トランス女性トイレ問題や、ゲームなどにこれらの押し付けが出てしまっているので、なんとなくDEIを知っている人がDEIに対して嫌悪感を持ってしまった。
古くは共産主義、極右、民族、最近ではオタクなど、全ての集団は発言権を強化し利益を増やすための階級闘争に挑む。DEIが考慮すべき包括すべきとした性的、人種、国籍におけるマイノリティは実はマイノリティとして理解され協調しながら社会の一員になりたいわけではなかったというところがDEIの失敗の根本原因だと思う。
今のアメリカの分裂も詰まるところ白人、アフロアメリカン、インド既得権益層と、これからアメリカに入ってくるヒスパニック(メキシコ以南)、モンゴロイド(つまり中国人)との階級闘争なのだと思う。DEIの受容の精神は受容する側が好ましく思う限りにおいて受容できるという話に過ぎず、では受容可能な限度とは何かというと、自分の立場が脅かされない程度ということになってしまう。今のアメリカには完全なフロンティアなどすでになく、ゼロサムゲームなのだとしたら新規参戦があることはイコール自分の立場が脅かされることになってしまう。 無限の包括性は不可能であり、DEIは理論上破綻しているのだ。
ではどのようにマイノリティが受容されるべきかとなれば受容する側の受容忍度を変えるほかなく、それは今までの民族開放運動のような形となり、結局のところDEIは従来の開放運動の看板を付け替えたものにならざるを得ない。
わかりません。みんなが笑って暮らせればいいのにね。
この意見にはいくつかの問題点と矛盾が含まれています。また、いじめを正当化するのは、職場の健全な環境づくりや倫理的責任の観点からも大きな問題です。
いじめを「庶民の武器」と称し、特定の人を排除する手段として認めることは、職場の安全と平等を損ないます。これは法的なリスクを高め、組織の評判や雇用者としての義務にも悪影響を及ぼします。厚生労働省のガイドラインに基づくと、職場のいじめ・ハラスメントは法的に禁止されており、組織にはこれを防止する責任があります 。
いじめと追い出し部屋の使用は、組織としての対応を誤る要因となります。追い出し部屋は非効率的で、人材の適切な管理とは言えません。代わりに、職場の問題がある従業員に対しては明確な評価基準に基づき、必要に応じたサポートを提供するなど、建設的な対応が求められます。
3. 「ハッタショ」への偏見
発達障害を抱える人を「ハッタショ」と表現し、いじめの対象にすることは偏見に基づいた不適切な対応です。現代の職場では、個々の違いを理解し、多様なニーズに対応するインクルーシブなアプローチが求められます。障害者に対する差別や偏見を助長する行動は、職場の倫理基準や法的要件に反するものです 。
「庶民の武器」としてのいじめは暴力行為の代替としていますが、これは建設的な解決策ではありません。対話や適切なフィードバックの提供が可能であり、いじめという手段を正当化することは論理的に矛盾しています。職場のトラブルは、正当なフィードバックを通じて解決することが求められます。
穏当な対応策
問題のある被雇用者と面談を通じ、問題の原因や改善の可能性について話し合うことは効果的です。問題を特定し、改善目標を設定して、明確な指導を行うことで相互理解が深まります。
繊細でコミュニケーションに課題がある被雇用者には、メンターやコーチのサポートを提供することも有益です。業務上の悩みやスキル向上のための支援を行い、安心して成長できる環境を提供することが、職場全体の向上につながります。
適正に基づく配置転換や、個人に合った役割を明確にすることで、負担や不満を軽減できます。人事部門や管理職が適切な支援を提供することで、従業員の強みを生かし、職場の調和を維持することができます 。
職場では、お互いの個性を尊重し、建設的なコミュニケーションを図ることが不可欠です。いじめは長期的に見ても悪影響を及ぼし、代替手段としては不適切です。
年下同僚から年齢のことでよくイジられてた
正義感が強くて他の同僚が上司からパワハラ受けてたら正面切って抗議するくらい正義感が強い奴
イジりは職場の雰囲気を和ませるためと自分を正当化してたみたいだけど、実際は仕事の対抗意識から無意識にマウント取ろうとしているんだろうなって気付いてた
彼女はちょっとコミュ障気味でよく顧客からクレーム来てたし、英語はネイティブ並みなのに外国人同僚もよく怒らせてた
こっちはそういうの理解してたし、他の奴らもまた言ってるなくらいな感じだったから、いちいち反論するのも大人げないと思って大目にみてた
でもあんまりしつこいから、ある時、「でも、それってエイジハラスメントですよね?」って彼女のノリに合わせて軽い感じで返したら、顔真っ青にして土下座する勢いで謝りだしたからフロア全体が騒然として、逆にこっちが焦った
「ママ友の家にホワイトロリータを持って行ったら嘲笑された」の関連ポストを見てて思ったけど
「同人イベントの差し入れにコンビニ菓子の詰め合わせを持っていくのはどうなの?」ってやつとか
「セクシー女優の誕生日プレゼントにカップ麺を持ってくのヤバくない?」みたいなのとか
好きなものを貶されると自分も貶されてるように感じる的なニュアンスで
ソ連時代におけるユダヤ人の状況は複雑であり、特にスターリン政権下では反ユダヤ的な動きが顕著でした。優秀なユダヤ人たちは、社会的圧力や差別から逃れるために、しばしば学問や専門技術を秘密裏に学ぶ必要がありました。これは、彼らが公然と活動することが難しかったためです[1]。
一方で、ソ連の権力者たちは「教養」を重視し、政治的な教育を受けることが重要視されました。これは、政治的権力を持つ者が自己の地位を正当化するための手段として、教養や文化的知識を利用したことを示しています。彼らはしばしば、自らのイデオロギーや政策を「教養」として位置づけ、その中でユダヤ人を排除するような政策を展開しました[1][2]。
このような背景の中で、ユダヤ人は学問や科学の分野で重要な役割を果たしていましたが、同時に彼らに対する偏見や差別も根強く存在していました。特に物理学などの専門分野では、多くのユダヤ人研究者が活躍していましたが、その地位は常に脅かされていました[1]。
Citations:
[1] https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/slavic-studies/50/nagao.pdf
[2] https://www.npokokoro.com/why
[3] https://spaceshipearth.jp/holocaust/
[4] https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/victims-of-the-nazi-era-nazi-racial-ideology
[5] https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/introduction-to-the-holocaust
AI絵師さんたち、やたらと二次創作に文句つけてきますよね?こっちはオリジナル作品へのリスペクトと愛をもって合法的にファンアートを描いているというのに、なぜかAIで作ったものを「これもアートだ!」って違法なやり方で正当化しようとしてくるんですよ。しかも、AI生成って作品の切り貼りとコラージュばっかりじゃないですか!
私たちの二次創作は魂がこもってるからこそ、多くのファンの心に響いているわけで。違法な無断学習で作られたAI画像とは、魂の重みがまるで違うんですよ。だから、「AIの切り貼り画像と一緒にしないで!」って思わず言いたくなっちゃう!
それにしても、AI絵師さんたちって、なんで自分たちのAI画像に自信満々なんでしょう?学級会でも開いて、一度みんなで「リスペクトって何?」を議題に話し合ってほしいくらいです。AIが作るコラージュ画像じゃ、ファンの愛も、作品に込められた魂も再現できない!これからも私たちは、合法な二次創作で作品への敬意と情熱を伝えていきましょうね!
敗戦国日本における帰還兵の苦しみを伝える貴重な武田さんのお話を読みながら、私は一方の戦争の勝者であったエノラ・ゲイの機長・ポール・ティベッツ氏にインタビューしたことを思い出していた。
1945年8月6日、広島市に原子爆弾を投下したB-29爆撃機が「エノラ・ゲイ」である。
2004年に自宅を訪れると、美しく装飾された立派なリビングの壁にあったのが、キノコ雲の写真だった。
私がこんなものを飾るのかと絶句していると、ティベッツ氏は「私の人生の最大の功績だからね」と言った。
彼の話には一縷の悔恨も出ない。
アメリカでよく聞く肯定派の論理を繰り返すだけだ。「あの時私が落とさなければ戦争は終わらず、何倍もの日本人が死ぬことになった」「最悪の状況を止めるにはそれしかなかった」「むしろ日本を救う選択だったと信じている」と。
当事者の話を冷静に聞くという目的で行なったインタビューだったが、正直私の心には嫌悪しかなかったし、今思い返しても後味が悪かった。
その3年後、彼は亡くなった。
聞けば原爆投下に批判的な人々の抗議運動を常に懸念して、死後は葬式を行ったり墓石を造ったりしないよう頼んでいたという。
今思えば、ティベッツ氏も人間性を捨て、異常なまでに自己を正当化することでしか人生も家族も守ることができなかったのか。
ソース: naganotomoko.com
支持者に聞きたいんだけど、これってやる価値のある政策なの?今の日本は物価が上がりつづけてるんだけど、ここでさらに消費を刺激してどうしたいの?減税が正当化される理路がわからないので聞きたい。
ChatGPTは多くの人々にとって有益なツールであり、知識の共有や問題解決に役立ちます。これを「バカに送りつける」と表現することで、ChatGPTの価値を誤解させる可能性があります。
このような表現は、AI技術やその利用者に対するネガティブな印象を助長する恐れがあります。AIは多くの分野でポジティブな影響を与えており、その利用を軽視することは適切ではありません。
「煽りが定着してきた」という表現は、他人を挑発する行為を正当化するように聞こえます。煽り行為はコミュニケーションの質を低下させ、建設的な対話を妨げるため、避けるべきです。
他人を「バカ」と呼ぶこと自体が倫理的に問題があります。尊重と共感を持ったコミュニケーションが重要です。
このような意見を持つことは自由ですが、他者への影響や社会的な影響を考慮することが重要です。どのような意見でも、建設的で前向きな対話を心がけることが大切です。
世界は着実に良くなっているという話を聞いたことがあるかもしれない。
あるいは、世界の子どもの死亡率は19世紀初頭から10倍も減少している。
一人当たりの所得と平均寿命、そして、色と大きさが大陸を反映した泡で表現されたさまざまな国々がある。
ファクトフルネスという本で、そんなビジュアライゼーションもどきを見たことがあるかもしれない。
過去2世紀の間、どの国も寿命が延び、物を買うための収入が増えた。
しかし今日、ファクトフルネスはプロパガンダに利用されている、
既存の状況を正当化し、西洋資本主義を理想的な社会として称賛するためにである。
政治家も科学者もそうだ、ある事実を極端に強調する一方で、他の事実を完全に無視する。
例えば、グラフ中のアメリカを見てみよう。この小さな小さなバブルの中に、すべての住民が整然と詰め込まれている。
なぜこんなに小さいのか?
つまり、アメリカ国民の下半分の平均所得は年間16,200ドルであり、全米平均よりはるかに低い。
アメリカのこの半分の人々の所得は、40年間ほとんど変わっていない。
では、なぜ全米平均の所得が増えるのか?
それを理解するには、上位1%までの分布全体を見る必要がある。
そこで何が起ころうと、国民平均に大きな影響を与える。
この35年間で、上位1%の所得は3倍以上に増加した、
一方、人口の下位半分の貧しさは変わらない。
一方、下位1%に属するアメリカ人男性の平均寿命は73歳である。
このようなことが全国平均の下で起こっているのだ。
産業資本主義がより良い生活環境を無限に生み出すとは到底思えない。
例えば、イギリスとアメリカを見てみると、近年、平均寿命は実際に短くなっている。
いわゆる絶望死が増加しているのだ。
絶望とは、経済成長による健康への恩恵が宣伝されるたびに、ほとんど言及されないことだ。
資本主義の擁護者たちが、精神衛生について語るのを聞いたことがあるだろうか?
結局のところ、世界全体を見渡してみると、今日の不健康の主な原因は身体的な病気ではなく、うつ病なのだ。
そして全体として、いわゆる精神疾患は、世界中で障害の約3分の1を占めている。
では、なぜグローバル・ヘルスに関心のある人は、このような特殊な苦しみを無視したがるのだろうか?
その理由は、うつ病人口が最も多いのはヨーロッパ、オーストラリア、アメリカだからである。
アメリカ大陸、ヨーロッパ、オーストラリアでは不安障害が多い。
精神疾患の世界的分布について語る人が少ないのは、経済成長はすべての人間の問題を解決する万能薬であるという考え方には当てはまらないからだ。
また、世界はますます良くなっているという考え方にも当てはまらない。
この25年間、貧しい人も豊かな人も、実際にはますます苦しんでいる。
これを測る方法はいくつかあるが、医療記録を見るか、国民調査で症状について尋ねるかは問題ではない。
抗うつ薬の消費量を考えてみても、OECD加盟のいわゆる先進国では、わずか15年で倍増している。
だからといって、経済成長が必ずしも私たちを不幸にするとは限らない。
いや、生活に必要な物質が満たされれば、間違いなく幸福になる。
しかし、経済成長が一定のレベルに達すると、私たちの幸福に対するその効果は弱まる傾向にある。
例えば、1972年以降のアメリカの経済成長率を見ると、2倍以上になっている。
しかし、最も信頼性の高い調査によれば、アメリカ人の幸福度はほぼ横ばいである。
そしていくらか弱まってさえいる。
このことは、なぜ経済成長を際限なく追求しなければならないのかという疑問を投げかける。
さらに根本的なことを言えば、社会の良し悪しを評価する際に、健康がいかなる種類のものであれ関係するのだろうかという疑問も湧いてくる。
平均して貧しく、早死にするアメリカより、カタールに住む方がいいのだろうか?
中国を拡大してみると、1949年から1976年の間に平均寿命が目覚ましく伸びていることがわかる。
この間、中国は毛沢東という歴史上最悪の独裁者によって統治されていた。
これは何を物語っているのだろうか?
支配者であるエリートを批判する者が命の危険にさらされる権威主義的共産主義に生きるのは良いことだと言うのだろうか?
もしそうでないなら、資本主義の利点を示すときに、なぜこのような統計的なチェリーピッキングが受け入れられるのだろうか?
平均寿命やその他の健康指標は、私たちがどのような社会に住んでいるかを示す指標としては不十分なのかもしれない。
もしかしたら、私たちは社会の現状を見るだけでなく、その潜在的な可能性やありうる姿を考えるべきなのかもしれない。
どのように見るかは別として、世界はより良い場所になりつつあるだけではない。
多くの点で、私たちはその逆を見ている。
メンタルヘルスの問題を挙げたが、格差の拡大、住宅不足、労働市場のプレカリゼーションも注目に値する。
これらの問題があたかも存在しないかのように装うのは不誠実であり、社会科学のクソな点の顕著な例である。
世界が永久に改善されると宣言するだけでは、何の役にも立たない。
地球温暖化についても何か言うべきではないだろうか?
ビル・ゲイツがスティーブン・ピンカーやハンス・ロスリングを支持するのは、連中の分析が不平等を隠すからだ。
ロスリングの動画では、国々がバブルで表現され、200年間で人均所得と寿命が向上していると示される。
この楽観主義は、変化を求める必要がないと主張し、批判者を「警報主義者」と呼ぶ。
しかし、連中の「進歩」の物語は不確かな仮定や選択されたデータに基づいている。
ロスリングは気候問題を過小評価し、環境活動家を非難するが、実際には人類による生物種の急激な減少を無視している。
奴の「世界健康チャート」は、貧困データが1981年以降しか収集されていないにもかかわらず、過去数世紀のデータを示す。
アメリカでは富裕層と貧困層間の所得格差が寿命にも影響を与え、高所得者は87歳に対し低所得者は73歳だ。
スウェーデンでも教育レベルによる寿命差が存在し、ロスリングはこれらの不平等を軽視している。
また、ロスリングは「健康」を収入や寿命で測ること自体が誤りであり、精神的健康問題を無視している。
最近の研究では精神的障害が貧困よりも多くの苦痛を引き起こしていることが示されている。
奴の楽観主義は事実に基づいているようでありながら、多くの重要な側面を見落としており、その結果として現状維持を正当化するものとなっている。
「親ガチャに外れたから奨学金で大学に行かなきゃいけなくなった。親が金持ちだったら奨学金を返済しなくてよかったのに、ずるい。奨学金の返済なんかしたくない。私のかわりに奨学金を返済してくれる人がいたら、結婚してあげてもいいですよ」
こんな主張をブスババアがしていたら殴り倒したくなると思うけど、「相手が全面的に媚びてきて、自分は一切相手に媚びなくても良い関係を求める。相手Lose自分Winの一方的な関係だけど、自分がいじめのトラウマを背負っている被害者だから、それは正当化される」っていうのはそれくらい理不尽な要求を相手に対してしているので、だから無視されるんですよ。