はてなキーワード: 村上春樹とは
マジでやめろ。
裁判において「判例」が引き合いに出されることはあるけど、それは「法解釈の参考」として使われているだけであって、それが即ち「法」ではないだろ。
少なくとも「判例」においてはその論拠となる「法」が語られているけど、大抵の人間が使う「前例」は単に何となくそういう風潮が感じ取れる程度でしかないだろ。
「最初にナプキンを取ったやつが右のナプキンを取るか左のナプキンを取るか決めるのだ」って要素は確かにある。
確かにあるけど、それはあくまで「その場においてそういう流れが出来た」というだけであって、絶対の法則じゃない。
別の席において誰かが逆側からナプキンを取り始めたらそれがその場におけるナプキンの取る側になるはずだろ。
そこで「俺が前に行ったレストランでは~~~」とか言い出しても、それは「お前がその時行ったレストランのたまたまその席においてそうだっただけだが?」にしかならんだろ。
「規則」として決まっていないこと、単なる「前例」に過ぎないものの脆さがここにあるんだよ。
限りなく同じ様な状況において、全く逆のルールが適用されたとしても、それに対しての反論として成立し得るだけの力を持ってないんだよ。
「前例」なんていくら集めても「理屈と膏薬はどこへでも付く」以上の何かにはなり得ないんだって。
確かに「前例」に対してリバースエンジニアリングをかけることで、何らかの法則が存在するように感じることはある。
たとえばとあるマンションの1号室に「一郎さん」が住んでいて、2号室に「二郎さん」が住んでいたら、3号室には「三郎さん」が住んでいることを期待してしまう。
でもそれは単に「ここまで偶然が続いたなら次もそうだと面白いよね」ぐらいの価値しかないわけで、そこに絶対の法則があると信じるほうがおかしいわけだよ。
恐ろしいことに人間社会にはこのレベルの「前例が偶然そうだった」以上の何物でもないものを「規則でこう決まっていると思うのですが」と言い出すキチガイがいるんだ。
そういう人に「その規則はどこに書かれているのですか?」と聞くと凄いことを言う。
「前例を見ればきっとこういう規則があるはずだと予想がつくでしょう。常識的に考えて」だよ。
ビックリするよ。
むしろ「前例なんてものから雑に逆算しただけのものに規則を見出してはいけない」こそが常識なんじゃないのかと言いたくなる。
でも頭のおかしい人の相手をまともにしても仕方がないから「そうなんですか。済みませんが、具体的にどこのどういう規則かを教えて頂けませんか。うちの上司(伴侶)はどうにも頭の固い人間でして」とでも言えば、相手は面倒になって上司を呼んでくれて話が進んだり、突然キレ始めたりするわけだよ。
もうね、本当勘弁して欲しい。
なぜ「僕が前例から妄想したさいきょーのほーそく」が「規則」になるのかと。
この宇宙はお前の見ている夢なのか?
もしそうならお前の認識こそがこの世界を形作る絶対の法則で間違いない。
だがそんなことはないだろう。
あまりにも酷い。
インターネッツの村上春樹好きの諸氏については、村上春樹が新刊を書いただけでも評価に値するのかも知れないが、10年来、いや……海辺のカフカを挫折した私にとっては、これはあまりにも酷い長編だった。村上春樹が単なる老害、「個人」と言う殻の中に閉じこもって、右往左往しつつ、ではその先は?と言う問いに応えるのは作家が同じテーマを繰り返す、と言う法則を踏まえて、それで良いのかもしれないが、それを一方的に見せられる他人にとっては「は?」と言う感想しか浮かばず、80も近い老人にとってはこれがせいぜい「外部」なんでしょうね、と言うあまりにも脱力した結果を残す、EOEに対するシン・エヴァのごとき、いや……それよりなおタチの悪い完結編と言うべきである。
「ぼく、私」にとって外部は一切関係ない。「きみ」が唯一の外部である、一貫して彼は「きみ」を求めており、それ以外の外部はいわば「おまけ」のようである。その「きみ」部分に対する「おまけ」である免罪符が2部に渡って冗長に繰り広げられる。あくまで「私」から照射された外部であって、コイツは本当にありのままの「外部」を認識する能力に欠けるんだろうな、と言う独白が続くのが酷い。
あたかもそれが「私は外部と関わりがありますよ」と言うように。あーだこーだと理由をつけて、「私」は「外部」が必要だ、と言う結論に至る。しかし、なぜ「外部」が必要なのかと言うことは語られず、青春時代の「ぼく」の記憶に「私」が遡行してゆき、「私」の分身たる本体も現実に帰ってゆく、という選択肢を取るだけである。ここまで読んで、なぜ「私」が現実を選び取るのか、「きみ」をどう思っているのか、と言う本質的にこの物語に求められる理由・動機が全く語られない。なぜなら「きみ」が一体どういう考えを持った1人の個人なのか?と言うことが一切語られないからである。
ここで「きみ」とは一体なんだった?と言う疑問が残り、「きみ」の作った世界であるはずの壁に囲まれた街にイエロー・サブマリンの少年が機構として残る必然性も特に語られない。「私」は一貫して受動的であり、現在という地点から耳を澄ませて自分に対する働きかけ、力のようなものをひたすら待ち続ける……それが70過ぎた大人が書く40代の姿なんですかね?と言う脱力感が酷い。「イエロー・サブマリンの少年」もとってつけたような「外部」であり、「外部」を描くのであれば、もう少し長さを持ってその必然性を描写するのが小説家の勤めであると思うのは、大作家様に対して不敬であろうか?
そもそも現代の40代の描写が的外れすぎて無理しすぎんてな、という感覚が酷い。スマホも使わずにジャズに詳しくてシャブリを家で冷やしてる40台ってどんな40代ですか?普通に60代70代の男性を描けばいいんじゃないですか?いちいち40代である必要性が(物語として)要請されてますか?
若い頃に村上春樹を読んで面白いな、と思った一切が脱臭されている。元々の短編を再構成した一部を除き、物語の面白さを残らず搾り取ったような退屈さを、さもそれが退屈であるが故に真実だ、と説教されているような描写が延々と続き、であるが故に「僕が感じた青春の妄想が最強なんだい!」と訳もわからず長い老人の語りと共に三部に至って「ワシは疲れたわ〜、もうええわ」と喚き散らされる、そんな体験だった。
これだったら『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の方がストーリー的にもテーマ的にもよっぽど綺麗にまとまっていたと思いました。
いやマジで本当に聞くけど、村上春樹ファンはこれを面白い、深いと思ってんの?本当に(一部を除いて)面白くないし、深くもないよ。二部以降の描写のどこが深いの?「外部」の契機があるだけだよね?「内部」であり「外部」である「きみ」に対してどうやってケジメをつけたの?教えてくれ。マジで、本当に。妄想の中で若返って「きみ」会いました〜、イエロー・サブマリンの少年がそれを助けてくれました〜、っていい歳した70の男が書く内容ですか?
なお、この増田は40代男性からお届けしております。10代で『ねじまき鳥クロニクル』が出版されています。聞いたことのあるジャズはチェット・ベイカーとジェリー・マリガンくらいです。パッと思い出せるのは。音楽はシューゲイザーが好きです。最近はparannoulって韓国のエモ+シューゲイザーのアーティストが良いと思うよ!言っておくが村上春樹はなんらかの普遍的な人間の思考に対する答えを求めて小説を描いてると思ったよ、しかしこれではチラシの裏に書いたなんだかかんだかと一緒じゃねーか!!それが熟年に達した小説家が自信をもって書く技巧の現れか?マジでガッカリした、悲しい。おれが10代の頃に感じた心の震え、自分の人生に対する、このようなことが俺の心で感じられるんだ、と言う希望を返して欲しい……そんなのテメーの人生だろう、シラネーってか?ああそうか、そりゃそのとおりだな!!おれは就職氷河期の最後の方にしてはソコソコ金稼いでるよ!!ChatGPTも使ってるよ!!どんな風に質問すれば確実なコードが返ってくるか悩んだりしてるよ!!バカにすんな!!そんじゃーね!!