はてなキーワード: ドストエフスキーとは
「あとドストエフスキーがニーチェ的なのではなく、ニーチェがドストエフスキーの無神論に影響を受けてる。」そういう話をしてるんではないよ、ニーチェ読んでみ。ドストエフスキー的なものとは全然違う。
「楽しんでいる人たちの大多数はもっと感覚的なところで素朴に純粋に楽しんでいる」
ここで目にする増田に比べると君は本読んでそうだけど、「感覚的なところで純粋に楽しんでる」なんてそれらしいだけで中身のない雑な表現をしてきて残念だよ。文化資本がなければその「感覚」がないって話をしている。そしてたとえば草枕を読んだり徒然草を楽しめる感覚と、フリーレンを楽しめる感覚は似たセグメントにある、という話をしてるんやで。
草枕、徒然草、ファウストはフリーレン的だと思わんかった?ドストエフスキーがニーチェ的だとは全然思わん。夏目漱石を楽しめるならツァラトゥストラも楽しめるはずだと思うけど。あとは古典SFやファンタジーじゃね?四畳半神話大系やシュタインズゲート、ゼーガペインにグレッグイーガンが多大な影響を与えているのは確かだけど、知らなくても説明的だから楽しめるんじゃね?フリーレンは説明も感情も抑制してるから教養ないと楽しめないって言われるんだろね。
草枕、徒然草、ファウストをフリーレンと関連づけるという発想そのものが出てこなかった。
あとドストエフスキーがニーチェ的なのではなく、ニーチェがドストエフスキーの無神論に影響を受けてる。
古典SF、四畳半神話大系やシュタインズゲート、ゼーガペインにグレッグイーガンは一切履修してない。完全にそのあたりの知識は欠落してる。自分が知るファンタジーはゲームのRPGがほとんどかもしれない。それが原因なのかも。
今回、ネットやSNSでフリーレンの感想を漁ってみたんだけど、楽しんでいる人たちの大多数はもっと感覚的なところで素朴に純粋に楽しんでいるように見えた。
なので、教養がないと楽しめないというより、教養があるとより楽しめる作品なんじゃないかな、というのが個人の感想。
それはフリーレンに限らないけれど、フリーレンはどちらかというと起伏があまりない作品なので、その傾向がより顕著になるんではないかなと。
有名な作品の企画展があると美術館に行ってみたくなるタイプだけど、有名な画家の有名な絵が観れるらしいし行ってみる程度だからぜーんぜん作品の良さとか時代背景とか作家の名前とかもわからんし、最近はパンダ見に行くようなもんだなと割り切ってる
なんとなくふんわりパステルの点描とかグラデーションみたいな描き方の風景の絵が好きだな〜って思ってるけどそれもなんとなく好きなだけで作家の名前とかは正直わからない
上野に何件もあるし、あとは六本木と竹橋に行ったことある気がするけどどこが何なのかはいまだにわからない
最寄駅で判別してるから上野まで辿りついてから途方に暮れることもあるし、なんなら駅間違えて慌てることもある
せっかくだから勉強したいなと思って美術史についてのYouTube動画とか見るけど〇〇派とか〇〇主義とか〇〇運動とかたくさん出てくるけど全然わからん…と毎回挫折してしまう(動画が合わないだけかもしれないが)
先日見に行った企画展で、ドストエフスキーの小説の挿絵になってるという絵画があって、初めて芸術と現実って地続きなんだな〜と思ったくらい、身近じゃないものだと思ってる
子供の頃、出身地の田舎の美術館にも巡回展でミュシャが来たことがあって、上京した後でミュシャのスラブ叙事詩の企画展を見に行ってみようかな!と思い立ったのがきっかけだったから、あんな田舎までわざわざ有名な絵を持ってきて見せてくれた人たちのおかげでこの娯楽に辿り着いたのだと思うと企画してる人たちに感謝の念を送りたい
(追記:真上に書かれてんのに見逃してた。すまん)
書き出し(安岡治子訳)
俺は病んでいる……。ねじけた根性の男だ。人好きがしない男だ。どうやら肝臓を痛めているらしい。もっとも、病気のことはさっぱり訳がわからないし、自分のどこが悪いのかもおそらくわかっちゃいない。医者にかかっているわけでもなければ、今まで一度もかかったこともない。医学や医者は立派なものだとは思っているのだが……。そのうえ、俺はこのうえもなく迷信深いときている。まあ、少なくとも医学を立派なものだと信じこむほどには迷信深いわけだ(迷信を馬鹿にする程度には、教育も受けているはずなのだが、とにかく迷信深いのだ)。いや、金輪際、医者なんぞに診てもらうものか。意地でも嫌だ。ここんところは、誰にもわかっちゃもらえまい。まあいいさ、俺にはわかっているんだ。もちろんいったい誰に嫌がらせをするつもりでこんな意地を張っているのか、そんなことは俺にも説明できやしない。俺が医者に診てもらわないからといって、医者にとっちゃ痛くも痒くもないだろう。そんなことは百も承知だ。こうして意地を張り通して、損をするのは他の誰でもない、たった一人俺自身だけだってことぐらい、俺だってよくわかっているんだ。しかしそれでも、俺が医者にかからないのは、やっぱり腹立ちまぎれに意地を張っているせいだ。肝臓が悪いなら悪いでかまうもんか、もっとうんと悪くなりゃあいい!
こいつが、道で知らん将校に肩ぶつけられたことを数年間ねちねち恨んだり、昔の同級生が選挙に出馬するってんで呼ばれてもないパーティ行ったり、たまたま出会った娼婦にクソ説教かましたりする話。
とにかくずーっと最悪なことしかしない。
ただ一つだけ言えるとしたらこいつはいわゆるFIREをしているので働かずとも暮らせてる。
地下室でだし基本金に余裕はないけど。
●上沼さんも、東野さんも、ホンコンさんも中田の事を思っての忠告だったのに、その諸先輩方を小バカにするようにいじってしまう。
●後輩巻き込んでおいて「見てる〜? 巻き込んじゃいけないって養成所じゃならわなかったんだもん。」と小バカにする。
●松本の優しい呼び掛けには逃げる。
この件でかかわってくれた人全てを半笑いでおちょくるような動画。
回転寿司で醤油を舐めた少年と似ていますね。炎上させて再生数を稼ぎたかったのですね。素晴らしい人間性です。
自分に注目が集まることに喜びを感じる。それを見て不快に感じる「誰か」のことは考えない。「再生数だけが正義」の世界観だと思いました。
中田が失笑されるのは、漫画と本の紹介をしているYoutuberが「ドストエフスキー級の笑い」言うからですよね。
そもそも、松本さんが「遺書」を執筆した時は、すでに松本さんは、お笑い芸人の断トツトップだった。ごっつの2時間SPの後、ガキ使の2時SPが放送されたくらい、まだ31歳と若かったし尖ってた故の発言で、でもちゃんと実績があっての言葉なので失笑はなかった。そもそも、松本さんのオマージュなら、なぜ後になってからコソコソ該当部分を削除なんてしたのか?
半笑いでボケどころか寒いぐらいのスベリまくり。こんなレベルでよく松本さんに噛み付いたなぁという印象。今の新人芸人なら簡単に超えられそう。
さすがにもう他の芸人は関わらないでしょ。そしたら俺に関わるなと圧力をかけてるとかいう匂わせで再生数を稼ぐのでしょうね。無敵の人になっちゃった。
家族は夫一人、未就学児の息子一人、今現在はフルタイムで働いている。
ずっと子どもなんて欲しくなくて、結婚しても欲しくなくて、夫と二人であちこち旅行に行ったり美味しいものを食べたり、楽しく暮らしていた。
子どもがいてもいいかもな、と思ったのは三十代になってから、就職した時からすごく良くしてくれていた上司が倒れて、ふと、このままずっと同じようには暮らしていけないんだなと気づいた時だった。三十代になって年齢的なこともあったんだと思う。先のことを考えた。あと四十年、五十年、生きられるとして、このままどうやってやり過ごして行けばいいんだろう? このまま楽しく暮らしていくことはできると思う。だけど、変わらないことを願いながら生きるにはこの先があまりにも長い。そう思って子どものことを考えた。そしてそう、夫と話をしたら、ちょうど夫も似たようなことを考えているところだった。
そしてなんやかんやで子どもが生まれて、本当に、幸い、運よく元気にすくすく育っている。歩いているのを横で見ているだけで、びっくりするほど掛け値なしに可愛い。
もちろん、心配なことはいっぱいある。この先の日本で大人になるこの子は、大変だと思う。まあ、自分たちの世代くらいまでいなくなったら楽になるかもと楽観的に思ったりもする。ままならないこともたくさんある。喧嘩なんかしたこともなかった夫と喧嘩することもある。保育園に通わせはじめて、自分が「学校」が大嫌いだったことも思い出した。友達の誘いを断るしかなくて、気を遣われているなと思うことがある。大好きだった仕事でも迷惑かけている。風邪ひくことも増えた。自由に辛い物も食べられない。旅行も好き勝手は行けない。
だけど、私は、子どもがいてよかった。
子どもと一緒に道を歩く。保育園の帰りに公園に行く。生えている草を見る。だんごむしを探す。一緒に鉄棒をする。ベランダで星を数える。家で子どもの好きな食べ物を作る。スーパーでたくさん牛乳を買う。どうしても、時折、自分の子供の頃のことを重ねあわせる。母親のことを思い出す。父親のことを思い出す。子供の頃好きだった本のページ。つまみ食いしたご飯。長靴で泥濘を歩く感覚。母親を呼ぶ自分の声。ずっと忘れていたそういうことを一つ一つ思い出すたびに、震える。驚きと、そしてたぶん嬉しいのだと思う。自分は親から、たくさんのものを貰っていたと、やっと気づけた気がする。これは辛い人には辛いことだと思う。だけど私にはとても大事な気づきだった。
十代の頃に読んだドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の一節を思い出した。
何かよい思い出、とくに子ども時代の、両親といっしょに暮らした時代の思い出ほど、その後の一生にとって大切で、力強くて、健全で、有益なものはないのです。(中略)自分たちが生きていくなかで、そうした思い出をたくさんあつめれば、人は一生、救われるのです。もしも、自分たちの心に、たとえひとつでもよい思い出が残っていれば、いつかはそれがぼくらを救ってくれるのです。
思春期に拗らせていた私と同じように、息子も生まれてこなければよかったと思う日が来るかもしれない。私も子どもの反抗期に泣くかも。大っ嫌いだと言われるかも。何にせよ、ずっと心配し続けるのかもしれない。夫だって同じだ。どうしたってきっと私も最後は一人で死ぬ。
そう言えば、阿佐ヶ谷姉妹の「私たちにとって仕事は思い出作り」という言葉が好きだった。
勝手に言葉を広げてしまうが、生きることも全部思い出作りだとするならば。
私は子供ができたことで、きっとこの先もこの瞬間を思い出して生きていけるだろうと思うことがたくさんできた。夫と息子が笑い合っている写真を何度も見ている。こうした思い出をたくさん集めて、この先も、私は救われるんだと思う。
実際、そういうものはつまらないし、彼らの信奉する文学理論は時代遅れなのである。
だから、世間で持て囃される「名作文学」とやらがつまらないと感じても、べつに「自分の教養が無いせいだ」などと思う必要は無い。
これは、フロイトがドストエフスキーを論じた際に持ち出したものだ。が、これには全く根拠が無いし、今日まともな文学者でフロイトの論を支持する者はいない。
今猶、フロイトの受け売りでドストエフスキーを絶賛してる評論家とか、「父親殺し」の作品を作っちゃったりしてる作家こそ恥ずかしい。
まあ、要するにそういうのを支持してる連中こそが「名作を読んでる俺SUGEEE」っていうスノビズムの権化みたいなもんであって、滅茶苦茶恥ずかしいってことだ。