「人種差別」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 人種差別とは

2023-05-31

anond:20230531144103

差別主義者が批判されるのは当然でしょ。

女性差別同性愛差別人種差別をした人たちはそうやって晒されて糾弾されてきたのに、「トランス差別」なら許されるとなぜ考えるのか?

田舎者なんで外国人同級生はおろか、街を歩いていても東アジア系以外の外国人を見掛ける事なんて殆どないんだけど

見た目ですぐ分かる外国人が沢山いる都会だけを指して『現代日本認定する人達って、

人種差別は許せなくても地方差別貧困差別ナチュラルにやってる辺り、本当に酷いと思う

パリになんて行った事がないし今のパリなんて知らないよ、仕方ないだろ金がないんだから

あーやだやだ、多様な人種と触れ合える恵まれ環境にいる人達が、純日本しか周りにいない田舎者を見下して

さも人格に劣っているかのように吹聴するのって。

多分フランスだって田舎になるほど白人比率が高いんでしょ?

2023-05-30

anond:20230530100851

???

無頓着から平気でやっているわけではなく、人種差別しない企業ですよアピールのために意図的にやっているし、見る側からは「なんで黒人なんだ」って批判も起きてるだろ。

anond:20230529143342

実写にするならヘンゼルとグレーテルマッドハイジみたいなアクション映画にすれば良いのに

というか

アメリカ人は"東アジア人は人種差別主義者"とネットで罵り始めてる

今後アメリカ人主人公黒人を使う事で売れない理由を↑とすることができるのか

なんと単純な連中

anond:20230529143342

>そしてその状況を見てアメリカ人は"東アジア人は人種差別主義者"とネットで罵り始めてる。

コロナ禍でアジア系暴行を働いていた奴等がよく言うわ…

2023-05-29

黒人女性を主演に起用したリトルマーメイド(2023) 残念ながら爆死

アメリカ本国ではそれなりに好調興行成績を出してるけど、それ以外の国では惨憺たる成績になり損益分岐点を超えるかすでに怪しくなってる。

中国韓国といった東アジアでは大爆死。中国では初週末251万ドル(3億5千万)しか稼げず、すでに上映を取りやめるところが出てきている。2週間で上映終了するのでは?とすら言われてる。

そしてその状況を見てアメリカ人は"東アジア人は人種差別主義者"とネットで罵り始めてる。

さらに驚くべきことにこの映画ヨーロッパでも中南米でも興行成績が思ったよりはるかに低い。

もはや絶望的な状況。


残念ながら日本リトルマーメイド擁護者はアメリカの成績だけみて、この状況に気づいていない。

おそらく日本での公開時に軽い炎上状態になるだろう。

2023-05-28

なんで、オタク外野から批判激怒するの?

オタクを含めて、何か特定対象に肩入れする人たちが、外野である第三者批判などに対して激怒するのかが分かった。

まず、外野第三者じゃない人というのは、たとえばファン消費者)とか、制作に関わるスタッフなど。こういう人たちの、批判については、内容にもよるけど、激怒して炎上とか、批判殺到とか、Colabo騒ぎみたいなことにはあまりならない。

対して、特別関係が無い第三者、たとえばフェミニズム団体コンテンツ批判した場合などは、大炎上騒ぎになったり、激烈な対立社会的な影響を及ぼすことがある。

これは何が違うのか。

ファン消費者)や制作スタッフ労働者)の要求というのは、基本的に、単なる要求に過ぎないのであって、せいぜい交渉材料であり、基本的に相対化できる。どんなに状況が悪くても、関係を断つ(ファンをやめるとか、仕事をやめるとか)で解決できる。法律上使用者労働者制作製造販売者消費者、こういった関係あくまで対等であって、その要求はどっちが偉いとか、正しいというものではない。

これに対して、第三者による要求は、労使関係や売買関係のようなものは無いのだから、その要求普遍的道徳倫理に基づくものとなる。例えば、吉野家役員の「生娘シャブ漬け」発言に対する批判は、商品の値段や味、賃金労働環境の話のような交渉材料の話ではなく、普遍的道徳倫理に反するから問題視され、批判殺到した。

しかし、この普遍的道徳倫理は重大な欠陥がある。それは、真に普遍的で万人に共有されているのかということは証明不可能であり、普遍性担保の為には逆らう者に強制をするしかないということである

たとえば、月曜日のたわわの日経広告問題を見てみよう。そもそも月曜日のたわわという作品は、未成年を含む胸の大きい女性性的にまなざすということを主題に据えた作品である。この作品ファンは、恐らく、「未成年を含む胸の大きい女性性的にまなざすということ」に対して問題意識を感じていない。現実の街中で他人の胸をジロジロ見るのはマナー違反である、と思う人は少なくないとしても、フィクションの作中で面白おかしネタにしたり、エロスを感じたりすることに対して、全く問題視をしていないだろう。対して、この広告批判側は、そのように未成年性的にまなざすこと、身体的特徴を面白おかしネタにすること、そういったことを肯定する作品社会に出回ることで社会ステレオタイプ助長されるかもしれないことに対して強い憤りと、普遍的道徳倫理への挑戦として考えてい居るだろう。

そして、先ほどから言う通り、第三者が口を出すということは、「普遍的であることを意味する。月曜日のたわわの青色版の価格が不当に高い、と不満を持つ消費者がいたとしても、その問題意識は基本的普遍的な物ではない。嫌なら買わなければいいだけであるしかし、第三者未成年性的にまなざすことを問題視するのは、「普遍的」な問題からこそである

この問題が「普遍的であるならば、これを問題視しない制作者やファン思想矯正されなければならない。ジェノサイドが許されない、人種差別が許されない、といった考えと同様に、それは普遍的価値観として強制されるべきであるということを必然的に含意することになる。

そして、だからこそ、ファンは徹底的な反発をする。おそらく、ファンは反対に「フィクションの中は自由であり、何をやってもよい」といった思想普遍的倫理道徳として内面化しており、それは双方とも「普遍的であるからこそ、両立不可能である

道徳倫理という概念は、具体的に正しさを証明することが不可能タイプの主張である。これを理由に、直接的な関係のない相手に対して主張する場合、その主張が「普遍的であると主張することになる。もし、普遍的ではない、個人お気持ちだとすれば他人に対して主張することはできない。人を殺してはいけないという主張が普遍的であると信じているからこそ、加害者でも被害者でもない第三者が、人殺しに対して批判をすることができる。これが、共有できていないときに、人はその普遍性担保するために、政治的経済的ないし物理的力により強制するしかなくなるのであり、であるからこそ対立無限エスカレートするのである

2023-05-26

「人を不愉快にする行為」が許容されるラインがわからない

例えば許容されるやつは「賢さで待遇を変える」とか、「嫌なやつを仲間外れにする」とか、「悪者をみんなで過剰に殴る」とかで、許容されないやつは「人種待遇を変える」とか「動物いじめる」とかそういうの

ざっとこのあたりがなんとなく思いつくけど、「人種差別やめようぜ」に対して「は?対等扱いとか不愉快なんだが?」みたいな人達もいっぱいいたはずであんまりしっくりこない

性的マイノリティへの差別やめようぜ」、とかもあんまりこの条件に当てはまってないような気もする(自分はこの手の差別社会的にマイナスだと思ってるけど、社会的にマイナスから差別をやめようぜ、になったとは思っていない)

「その行為がよくない」ということを正当化やすいかどうか、みたいのもあると思うんだけど、そういう道徳ができあがってきたか正当化やすくなっただけじゃない?という気もするし

自分は昔、人が不愉快になる可能性があることはすべて悪、という思想があったので他人に影響を与えうる行動があんまりできないで暮らしてたんだけど、最近他人って別に不愉快にしてもいいんだなーという気持ちになって暮らしている(他人不愉快にしない努力をしすぎると他人不愉快にすることが結構ある、ということに気づいたのもある)

みんなこういう道徳ラインをどうやって引いてるのか知りたいなと思った

2023-05-25

3以上は「たくさん」しかない説

オレがたぶん高校生大学生くらいの時代までは、まことしやかに言われてたと思うんだが。

南米アマゾンの奥地だか、アフリカ方面の奥地だかを探検やら調査研究やらに行ってきた人いわく:原住民たちの話す言語は、数の概念が未発達で、1つ、2つまでは数えるが、3以上はみんな「たくさん」という意味言葉しかない。

これ、最近はトント聞かなくなったよなーw きっと昔は人種差別意識とか偏見とかあって、そういう風に思い込んでたというか、だからアイツらは未開で原始的なんだよ〜って揶揄する傾向が出てたんじゃないかと。

常識的に考えたら、夫婦子ども2人だけでも「4人」だし、そっち方面乳幼児死亡率が高い環境なら、子ども3人4人とかもざらにあるんだから「5人」「6人」の区別は当然つくし、言い表す言葉だってあるに決まってんじゃんw

逆に、オレら含めて文明の大いに発達した先進諸国言語でも「人、人、人」とか「叩け、叩け、叩け」みたいに3つ同じことを繰り返したら「たくさん」「無数に」ていう意味で通じるじゃん。

「3つ以上はたくさん」てのは、万国共通人類みな共通なのだよww

2023-05-22

マリオ映画感想

はじめに

 マリオ映画を観た。

 まず私のプロフィールを明かしておく。

 大学院生社会学文学あいの子みたいな分野で、とくにジェンダーとかセクシュアリティとかそういう事を学んでいる。

 映画学部時代に少しかじった程度で、評価はB+だった。だから的外れなことも言うかもしれない。すみません

 匿名なのでもっと書くと、同性愛者で、SM実践者で、フィクトセクシュアルに片足つっこんでいるので、わりとどの界隈でも少しなじめない気持ちになりがち。

 

 「映画としてはちょっと……」というような意見が主にアカデミック評論の場で散見される。

 これは分からないでもない。ちなみにここでは個人攻撃みたいにするつもりはないので、引用特に必要でない限りはしない。

 「すげえ! マリオってこういう解釈ができるんだ!」みたいな「新しいもの」はなかった。しかし、「マリオ映画といえばこういうのが見たいよね」という「見たいもの」が詰め込まれており、「新しいもの」を入れる余地は90分にはないように思われる。

 メディアミックス映画としては一つの模範解答であり、文句なしの一級品といってもいいかもしれない。面白い映画といい映画は別だが、以下では「いい映画」(いい映画って何すか?)としての切り口を見てみたい。

試行する」快楽

 ゲームアニメとしたら、キャラクター解像度物語の運び方だけでなく、どのようにゲーム快感が写し取られているか重要ポイントに思う。

 マリオゲーム体験を思い返すと、快感は大きく二つに分けられる。

 「スーパーマリオブラザーズ」ならステージクリアタスク消化に似た快感

 「スーパーマリオ64」に連なる「箱庭マリオ」なら新しいマップを開いていく探索の快感

 マリオシリーズだけでなくゲーム快感はむしろこの二者に共通する「試行する」快楽が大きいのではないか

 私はといえば、ゲームが苦手だった。

 クリボーに激突する。穴に落ちる。ドッスンに潰される。空から落ちる。燃やされる。溺れる。

 我ながらヘタクソなプレイであるしかし、プレイを重ねると、一つ一つそれらを回避なり消化できる。そこにゲーム快感がある。

 翻って「映画マリオ」に戻る。キノコ王国に迷い込んだマリオは、ピーチ姫の旅についていくためにゲームばりのアスレチックに挑むわけだが、このプレイングも経験者ならば笑ってしまうほど失敗に満ちている。そしてその分だけマリオは「試行」を試すことになる。

 アスレチックだけでなく、ドンキーコング戦、クッパ戦と繰り返し作中で強調される「諦めの悪さ」が導くゲーム快楽とはこのような「試行」の快楽が適切だろう。

 文学研究者藤田直哉上記のようなことも含めて、「物足りなさ」を指摘している。

 https://twitter.com/naoya_fujita/status/1655397557198278662

 ここは鑑賞者のバックボーンも関わってくるのかもしれない。

 周回前提のゲーム「ドキド文芸部」「UnderTale」「シュタインズ・ゲート」の記憶が私にはすごく強くあるし、マリオシリーズから距離を取っていたので(ここまで多くの作品に触れたわけでもない)、試行錯誤性は面白く観た。

 また、勉強不足と笑われそうだが、3D映像2Dフィールド表現する映像も、私としては十分に真新しいものだった。

父と息子の物語としてのマリオ映画

 「反ポリコレ」とか、「ジェンダーから距離を取っている」いう話も聞く。

 しかし私はそうは思わない。LGBTと「マリオ作品群の関わりは以下のコラムに詳しいため、これ以上は言及しないが、さら男性性との関わりについて分析する。

 https://cinemandrake.com/pokemon-musashi-kojiro-lgbtq

 こちらも藤田直哉の評を引用する。私のマリオ映画への評価は彼とは異なるが、この評と私の見解は一致している。

 https://twitter.com/naoya_fujita/status/1656110486713434113

 クッパ名誉と所有、暴力原理においたキャラクターであり、婚姻幸せを直結させる家父長制を背負った男である

 ピーチ姫に対し無茶な論理婚姻を迫ったり、彼女の知人も含めた囚人婚姻犠牲として殺そうとしたり、人の論理の届かない人外らしさが映画における彼の輝かしい魅力でもあることは間違いないが、それは悪しき男性性の発露でもある。

 この「有害男性性」を退けることを軸にマリオ映画を見てみると、マリオは退けた先に何を得たのか。

 それは物語ラストが示すように、ピーチ姫ではない(ピーチ姫マリオとの恋愛成就がほのめかされてはいる。しかし、ほのめかされていることと明らかであることは違う)。

 

 マリオゲームにおいてプレイヤーの分身であり、あまり感情を発露しない。

 葛藤もあまり読み取れず、さらわれたピーチ姫を取り返すため、躊躇いなく絵画に入ったり火山に行ったり宇宙に行ったりしているように見える。

 しかマリオ映画においては、夢を追う自信のなさげな男として描かれる。

 イタリア系アメリカ人の家庭で育ち、家族仲はおそらく悪くないが、「父親に認められたことがない」ということが恐らく影を落としていて、自分のやりたいことと、父親に認められたいという二つの想いが両立できていない。

 そしてマリオ映画の終わりに藤田のいうところの「有害男性性」の発露であるクッパを倒し、父親から承認を得ることとなる。

 婚姻に大きな意味をおく家父長制の権化を倒した先に、父という家父長に認められるというメビウスの輪的な権力ねじれについて、私はまだうまく説明ができない。こういう嫌な書き方をすることで、妙な引っ掛かりを表明するしかできない。

感想、あるいは魔王へのラブレター

 倒されたクッパは小さく、管理されるものとして扱われる。

 その是非について何か言いたいわけではない。

 現実では家父長制や異性愛規範同性愛差別トランス差別人種差別が吹き荒れている。そのような不均衡な権力は改められるべきだし、悪しき男性性とは決別すべきである

 その是非についても何か言いたいわけではない。

 ここまでが建前。

 私はフィクションにおいてこういう権威的な男性が大好きだ。

 「家父長制の権化」と表現したけれど、理屈の通じない愛情を持て余す魔王クッパが大好きだ。

 本気で惹かれると言っていい。

 だが彼の愛は決してピーチ姫には届かない。正しくないから。

 そして彼は多くの部下に愛されながらも、彼の愛はどこにもたどり着かない。

 異形はある意味孤独である

 槇原敬之の「軒下のモンスターから「いっそ妖怪にでもなって 君を軒下からただ見ていたい」を引いてもいい。

 三島由紀夫の「仮面の告白から「お前は人間ではないのだ。お前は人交わりのならない身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生き物だ」を引いてもいい。

 

 ピアノを弾きながら「ピーチピーチピチピチピーチ」とか歌ってる彼のカットでは劇場で笑い声が起きた。

 「悪しき男性性」の回路ではもう誰かと心を交わしあうことはない。ピーチが振り向くことはない。彼の歌うラブソング哀愁に満ちて、あるいは滑稽かもしれない。

 私も笑った。でもぶっちゃけ泣きそうにもなった。

 今ギリギリこの男を笑って愛でながら見られるくらいには私もマジョリティにいられてるんだろうけど、こういうジェンダークィア批評規範可視化させ内破する営みであって、次に生み出される新しい規範にいられなくなったら、次は私が笑われる番なのだ

 本当は、弱者クッパの方なのかもしれない。でも私は彼にあまり感情移入しているから歪んだ読みをしているのだろう。

 でも愛してる、魔王クッパ

 お前の横暴さも、報われなさも、情けなさも、関われなさも好きだぜ。ほんとに。

2023-05-21

人種差別とかの前にさ

義務教育で行ける学校地域に縛られるのどうにかしてくれんか

人権侵害だよ

権威主義者以外は別に尊敬はしていないです

アインシュタイン書ききれないクズ伝説 (ほかにも盛り沢山)








anond:20230521141011

2023-05-19

anond:20230519165637

いや日本人でも野党の人が選挙後にしょっちゅう言ってることやろ

わざわざ黒人が言ったら怒るならそれ人種差別やろ

anond:20230427085623

白人の友人から、「アジア人嫌いなんだよね」って言われたらどう思うよ。

日頃からアジア人差別を受けているほど反発したくなると思うぞ。

そもそも好きでアジア人に生まれた訳じゃないのに、理不尽立場に置かれているのだから

友人は大人だけれど、子育てをしている親は、子供に向けられるヘイトを一身に浴びまくる。

子供だって、好きで子供状態でいるわけではないし、大人の誰もが通ってきた道なのにな。

アジア人を嫌いな人がアジア人嫌いでなくなる方法なんかない。

そんなもの存在したら、人種差別性差別カースト制度存在しないよ。

ただ、距離を置いて、嫌いだと言葉にしなければいい。内心は自由なのだから

2023-05-15

anond:20230514224227

あなたは深刻な人種差別正当化するのと同じロジックを使ってるよって話なんだよな

こういう自分の加害性に目を向けられない人間ってマジで無理だわ

2023-05-14

日本インチキLGBTが引き合いにするのは傲慢しか

太悟

@daigoalex

20時間

命をかけて人種差別戦って来た海外人達は本当にリスペクトするけど

それと全く異なる日本LGBT結び付けて、「異論を唱える奴は差別主義者だ!」という手法を使うのは本当に卑劣と思う

戦ってきた先人にも日本人に対しても失礼だし、もうこの手のやり方やめなよ

引用ツイート

星賢人@JobRainbowCEO

@kentohoshi

5月13日

今のLGBTを巡る罵詈雑言を見ていると、小学生の時に教科書で見たこ写真を思い出す。

1957年アメリカ、初めて黒人学生白人と同じ学校に登校した時、人々は彼女を取り囲み罵声を浴びせた。

この少女のように、誰もが自分らしく生きられる社会はくると信じ、毅然と、前を向いて歩いていきたい。 https://pic.twitter.com/QPGxf21gr6

そんな状況があったか

公金チューチューして殴っているだけじゃないか

ジュディス・バトラーについてChatGPT先生に聞いてみたよ

Q:ジュディス・バトラーの主張と批判について教えてください。

A:ジュディス・バトラー (Judith Butler) は、ジェンダーアイデンティティ権力問題に焦点を当てた哲学者ジェンダー理論である彼女の主な主張は、ジェンダーは固定的で自然カテゴリーではなく、むしろ私たちの日々の行動や相互作用を通じて継続的生産され強化される社会的構成であるという考えに基づいている。彼女クィア理論の発展に影響力を持ち、フェミニズム、異規範性、伝統的なジェンダー概念に対する批判を行ってきた。

バトラーの主な主張の1つは、ジェンダー遂行的であり、それは単に生得的または既存アイデンティティ表現する問題ではなく、むしろ私たちが行動や行動を通じて創造し、実行するものであるということである彼女は、ジェンダー私たちが学び、内面化する文化的スクリプトであり、私たち日常的な他者との交流を通じて常に再生産されていると主張している。つまりジェンダー私たちから独立して存在するものではなく、私たち積極的に生み出し、参加しているものであるということです。

バトラー研究のもう一つの重要な側面は、本質主義に対する彼女批判である本質主義とは、特定の特徴や性質個人集団に固有のものであり、これらの特徴がそのアイデンティティ定義するという信念であるバトラーは、本質主義は抑圧の一形態であると主張する。それは、アイデンティティには固定的で自然カテゴリーがあり、それが差別排除につながる可能性があるという考えを強化するからである。代わりに彼女は、複数の変化する表現形式可能にする、より流動的で柔軟なアイデンティティ概念提唱している。

ジュディス・バトラーに対する最も一般的批判の1つは、あまり抽象的で理論的であり、彼女アイデア現実世界でどのように実践できるかが必ずしも明確ではないということである批判者は、ジェンダーパフォーマンス的な性質アイデンティティ流動性に焦点を当てることは、具体的な政治的または社会的行動に変換することは困難であり、彼女仕事は不平等と抑圧の問題対処するための明確な戦略提供していないと主張している。

バトラー研究に向けられたもう一つの批判は、個人アイデンティティ主体性に焦点を当てすぎており、より大きな社会的制度構造私たち経験を形作る方法を十分に説明していないということである。一部の批評家は、彼女成果主義ジェンダー社会的構築を強調していることは、家父長制、資本主義人種差別のような制度システムを通じて権力機能する方法に十分に対応していないと主張している。

最後に、フェミニスト学者活動家の中には、生物学的な性と女性経験重要性を損なうとしてバトラー批判する者もいる。彼らは、ジェンダー流動性アイデンティティ社会的構築を強調することで、バトラー女性身体物質的な現実と、性に基づいて歴史的に抑圧されてきた方法を消し去ると主張している。

2023-05-08

anond:20230508080800

キャラクター女の子にすると、やれ性的搾取がどうとか文句を言う人が多いので

一時期は男女ペアキャラ作りする時代があった。

その後、LGBTの台頭により、性別を男女ペアで考えることが差別とされてしまったり、

ヒト型にすると必ず人種差別問題に触れる人がでてくるので、

最終的に非人間型無性別キャラが生き残った。

2023-05-06

フランス、すげえわ

フランス人だけじゃなくてそこに住むアジア人人種差別者に成り下がってる

アメリカより断然人種差別すごそう

2023-05-04

マリオ映画で、なんで「アメリカ映画評論家は薄っぺらだ」と言い出したのに観客は満足したか

これ。

アカデミー賞評価の際にも色々話題になった。

ようするに「スーパーマリオ映画には、別にマイノリティが出てこないし、人種差別LGBT差別問題も出てこない」

ということ。

まりアメリカ映画評論家が突きやす社会問題投影されていないということだ。

イタリア移民白人兄弟が、勇気を出して頑張る話」

という話だ。

テーマは「家族愛」と「勇気」だった。

社会問題は一切含まれていない。

から薄っぺらだ」と言っているんだろう。

娯楽作品に何でもかんでも社会問題を入れるのは、それが作品作用することはあるが「絶対的ルール」ではない。

差別に苦しんでいる人間以外にも、娯楽作品で楽しみたいひとはいっぱいいる。

マリオルイージの住むスーパーマリオ世界は、いわゆる「バカでのろまで、失敗続きの優しい二人が、勇気を出して困難に立ち向かう」

という映画だった。

わかりやす被差別アイコンは出て来ないが、十分普遍的テーマだったと思う。

ゲイでもトランスジェンダーでも、有色人種でもないが、上手く行ってない、社会から軽んじられている二人の物語だった。

多くの観客は、それで十分。

評論家のように属性を気にしなかった。

なぜなら、その二人は、かつて自分分身として、ゲームの中で悪戦苦闘をともにしてきた、古くからの友人だからだ。

とりたてて、別の社会的な属性付与する必要はなかった。

マリオマリオルイージルイージだった。

それ以上は余計なものだった。

観客にとっては「自分分身」であり、そこには特定属性意味を成さないのだから

2023-05-02

anond:20230502102455

人種差別の是非はともかく、民族自体が「自民族最高!他の民族人間ですらない」ですからねぇ

LGBT理解増進法について当事者女性達による緊急記者会見 を見たけど。

https://www.youtube.com/watch?v=hfaQLRsLwhc

本当にこの人たちはLGBT代表しているかどうかなんてわからんよなと。

どうしたいかとかなんてみんなから聞いてるわけでもないし。

あと織田道子とかいBBA存在邪魔。俺がトランス女性問題踏み込みにくいことやってる原因の塊だわ。

トイレ更衣室だけならいざ知らず、他のところにまで犯罪から守るために専用スペースがあっても差別でも何でもねえとかあほかと。

そんなもん認めたら、保護目的理由隔離措置やりたい放題だろうが。人種差別まで復活させるつもりかよ老害が。

まあ、どうせ権力勾配とか男への差別は認めていないとか嘗めたこと言うんだろうけど、そういうことばっかりやってるから信頼なくすんだよな。

2023-05-01

anond:20230501131226

2017年

2018年

2022年

2023-04-28

フランス人種差別

・今まで30カ国以上旅行したけど、あからさまなアジア人差別受けたのはフランスだけ

黒人アジア人差別やばい自分が受けてる差別ストレスアジア人にぶつけてんのかってレベル

差別を悪いことと思ってない説

黒人への差別は建前として否定したりするが、アジア人への差別は「冗談じゃんw何ムキになってんのw」というスタンスの人が多い

anond:20230428111018

人種差別というより、日本では、警官に逆らうようなやつのほうが悪い、って考えになりがちってこった

沖縄で眼球を警棒で潰された高校生だって高校生のほうが悪い」って声が多数だったろ

警官制圧大勢で地面へ押し付け)で窒息して死んだ事例だっていくらでもあるが、今まで警察官が叩かれるような流れにはなってないだろ

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん