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2023-05-26

いろいろな「三大欲求

プラトン法律』(紀元前350年ごろ)

I see that among men all things depend upon three wants and desires, of which the end is virtue, if they are rightly led by them, or the opposite if wrongly. Now these are eating and drinking, which begin at birth—every animal has a natural desire for them, and is violently excited, and rebels against him who says that he must not satisfy all his pleasures and appetites, and get rid of all the corresponding pains—and the third and greatest and sharpest want and desire breaks out last, and is the fire of sexual lust, which kindles in men every species of wantonness and madness.

私は、人間あいだではすべてのことが三つの欲望依拠していると見ています。それらは、正しく導かれれば徳であり、誤って導かれればその反対となります。まずは「食欲」と「飲欲」であり、これらは生まれときからまります。あらゆる動物自然とその二つの欲望を備え、激しく興奮させられ、己の快楽や食欲を満たしてはいけないと言う者に逆らい、付随する苦痛からは逃れようとします。そして第三の、最も強く鋭い欲望が、最後に噴き出します。それは人々のあらゆる種類の淫気と狂気燃え上がらせる「性欲」の炎です。

今のところこれが最古である。さすが西洋哲学の祖。「食」と「飲」が分かれているのが特徴。プラトン著作明治時代翻訳されていて日本人にも知られていたと思われる。

法雲『翻訳名義集』1134年

欲界三欲

(一)飲食欲,即凡夫於種種美味之飲食,多生貪愛之心。(二)睡眠欲,即凡夫之心多暗塞,耽著於睡眠不能修道業。(三)淫欲,即一切男女由互相之貪染,而起造諸種欲事。

欲界三欲

1. 飲食欲、すなわち凡夫はさまざまな美味の飲食において、多くは貪愛な心を生む。2. 睡眠欲、すなわち凡夫の心は暗く塞がり、惰眠に耽って修業に励むことができない。3. 淫欲、すなわちすべての男女は互いに貪欲に染まり、それがさまざまな欲事の原因となる。

翻訳名義集』は中国南宋時代編纂された仏教系の書物。もちろん日本にも伝わっている。というかこの組み合わせが現在スタンダードである

貝原益軒養生訓』(1713年)

いにしへの人三慾を忍ぶ事をいへり。三慾とは、飲食の欲、色の欲、睡の欲なり。

養生訓』は江戸時代の大ベストセラー貝原益軒儒学者だが、この組み合わせは仏教の「三欲」と同じなので、「いにしへの人」というのは僧侶ことなのか。三欲を「抑えるべきもの」と捉えているのも仏教である。「睡眠を減らすと健康になる」みたいなことも言っている。

内山真弓『歌学提要』(1843年)

そもそも飲食男女と、言語とは、天下の三大事なり。

歌学提要』は幕末歌人香川景樹理論をその弟子内山真弓がまとめたものだという。

山本友一『私の短歌入門』(1977年)によれば、

人間の根源の欲望を、食欲・性欲・表現欲に三大別して言うそのことは、江戸末期の巨匠香川景樹以来、歌界ではならいとなっている。

ということで「食欲」「性欲」「表現欲」を表しているらしい。

官報』(1885年

人生の三大欲望すなわち黄金健康・不死

これはイギリス科学振興協会の当時の会長であったライアンプレイフェアのスピーチ翻訳されたもののようだ。原文を当たると「かつての錬金術師黄金健康・不死のために賢者の石研究していた」…みたいな内容だったらしい。

they hoped to attain the three sensuous conditions of human enjoyment -- gold, health, and immortality.

直訳すると「人類享楽感覚的な三条件」か。

村上専精『宗教観』(1906年

思ふに人生の三大慾望たる知識慾、資財慾、生存慾は直ちに人生の三大不可能と云ふを得べし

村上専精は僧侶だが仏教の「三欲」とは異なるのか。「生存欲」は戦時中文章で「日本人は三大欲求生存欲を抑えて国家に殉じるからすごい!」というふうに使われているのを見かけて面白かった。

滝沢秋暁『愛の解剖』(1907年

人間の三大慾望たる衣食住

個人的に「衣食住」は欲望というより「基本的もの」「必要もの」というニュアンスで捉えていたのだが、井原西鶴の『世間胸算用』でも「分際相応に人間衣食住の三つの楽の外なし」と書かれているそうなので、あながち欲望」的な捉え方でも間違いではないのか。似たようなパターンだと三大欲求を「福・禄・寿」に割り当てることもある。

黒田鵬心『美学芸術学概論』(1917年

美慾は字に示す如く美を求める慾で食慾、色慾と共に人間の三大慾の一つである

美術評論家が三大欲求に「美欲」を入れるのは、歌人が「言語表現欲」を入れるのと似通っているか

依田今朝蔵『日本風土を主としたる保健衛生論』(1920年

人生の三大慾とも稱すべき食慾と性慾と名誉

明治以降経済発展もあってか「金銭欲(利欲・財欲)」や「名誉欲(出世欲)」を挙げることがかなり多い気がする。

ロス・ロックリッジ『愛情花咲く樹』(1958年

そうすれば一日にして人間の三大慾望を果たすことになる、性慾と食慾と戦争――つまり殺傷慾だな

もとはアメリカ1948年刊行された小説だが、原文だと「three main pastimes」なので「三大娯楽」かな。

小松武樹『囲碁将棋の泉』(1959年)にも、

また囲碁将棋は、人間の三大欲望、つまり、食欲、性欲に次ぐ、闘争欲の中和剤の役目をしてくれます

といった記述がある。

鍵谷幸信『食欲と性欲の谷間に顔を埋めてしまったフェリーニ』(1974年

食欲、性欲、排泄欲の根源的意味に比べたら、人間の他の欲望である出世欲とか名誉欲とか権力欲とか支配欲とか金欲とか知識欲など、それこそ屁以下の価値しかない。

いわゆる「生理的欲求」のひとつとして食欲や睡眠欲と並べて語られる「排泄欲」だが、「三大欲求」として挙げられていることは少ない印象を受ける。ただ「性欲(射精欲)」を排泄欲の一種とみなすこともあるようだ。

梶矢文昭『読者を想定した教材解釈と授業展開』(1978年

本来、仲間と一緒にいたい、集団の中で自分の安定した位置を占めたいという欲求――集団欲は、食欲、性欲と並んで三大欲と言われる程のものである

この「集団欲」を三大欲求とみなすのは戦後にかなり広まった感じがする。近年の書籍でも睡眠欲に代えて集団欲が挙がることがあるようだ。

吉田聖『誘惑に負けない勇気、強い意志』(1979年

貞潔清貧従順修道誓願人間共通の三大欲求(肉欲・所有欲・支配欲)にかかわるものとして、生涯の一大試練と誘惑になりうる。

これはつまりカトリック修道士が守る三誓願対義語となるような欲望貞潔↔肉欲 清貧↔所有欲 従順支配欲)を「三大欲求」と見なしているらしい。カトリックあいだでポピュラー解釈なのかは知らないが、三誓願のもの3世紀末くらいまで遡るらしいので、当時からそうした発想があったとしたら面白い。

実用日本表現辞典『三大欲』(2015年

一般的には、生存にかかる根源的な欲求とされている食欲、睡眠欲、性欲を総称した言い方。

現在一般的認識。「金銭欲」「名誉欲」「集団欲」あたりを含めて「諸説あり」と言われていてもおかしくなかったと思うが、最終的にほとんど「食欲・睡眠欲・性欲」で固定されてしまったのは面白現象である

2023-03-02

anond:20230302001009

でもノーベル賞を取る人って、キラキラエリート全然いないよね。

ビジネスエリートキラキラ経歴とは全然違う。

なんなら成り上がり感がある。

ではここでノーベル賞物理学者 湯川秀樹の経歴を見てみましょう。

1907年明治40年1月23日東京府東京市麻布区市兵衛町(現:東京都港区六本木)に地質学者・小川琢治と小雪の三男として生まれる。

1908年明治41年)、1歳の時に父・琢治(和歌山県出身)の京都帝国大学教授就任に伴い、一家京都府京都市移住する。このため、麻布の家には誕生後1年2ヶ月しか住んでない。

1歳から大学までは京都大学を出て一時大阪西宮いたこともあるが、人生の大半は京都で過ごしたことになる(ただし、ノーベル賞受賞の対象となった中間子論を発表したのは、湯川大阪帝国大学に勤めていた時であり、当時は西宮苦楽園生活していた)。

湯川自伝に「私の記憶京都に移った後から始まる。やはり京都が私の故郷ということになるのかもしれない」と記している[2]。

母方の祖父・駒橘は元紀州藩藩士であり、また湯川自体先祖代々和歌山県出身であるため“和歌山出身”と紹介されることもあるが、本人は京都市出身と称している。

和歌山県出身実業家松下幸之助郷里に「松下幸之助君生誕の地」の石碑があり、題字は同郷ということで湯川の筆によって書かれたが、湯川本人は和歌山暮らし経験はない。

5、6歳の頃、祖父・駒橘より漢籍素読を習った。駒橘は漢学の素養豊富で、明治以後は洋学を学び、晩年までずっと『ロンドンタイムズ』を購読し続けた人物であるという[3]。湯川自伝に「私はこのころの漢籍素読を決してむだだったとは思わない。…意味もわからずに入っていった漢籍が大きな収穫をもたらしている。その後大人書物をよみ出す時に文字に対する抵抗は全くなかった。漢字に慣れていたからであろう。慣れるということは恐ろしいことだ。ただ祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に親しみその後の読書を容易にしてくれたのは事実である。」と記している[4]。

2022-12-06

ネアンデルタールの祖が欧州からアジアアメリカに移動して適応した

欧州に残ったのがホモ・サピエンス

ホモハイデルベルゲンシス説)

1907年の説

お雇いドイツ人皇太子6才に「あなた祖先古代ドイツにいた」などと言っただろうと思われる

アジア人とアメリカ先住民祖先古代中国人であることがDNA分析で判明(ドイツ研究

2013年の説

アジア系の祖はホモ・サピエンスではない、と違いを強調する説(圧力?)

ホモ・サピエンスとは概ね、グローバルに過剰投資をして、ネアンデルタールが釣れると恐慌を起こしてきた金融派ではないか

最近ホモ・サピエンス史の本を見かけるが、アジア人類史の本はいつかなあ

モンゴルの英欧攻撃

2022-07-15

マッカーサーゴシップひどすぎワロタ

マッカーサーは、中学生ぐらいの年齢で入学した西テキサス士官学校のころから性的なことしか頭にありませんでした。近くにある聖メアリー女学校まで遠征すると(笑)誰彼なく声をかけまくってます。一応マッカーサーの通っている士官学校女学校ミッション系の学校でしたが、エロマッカーサーの頭にはそんなことは関係ありませんでした(笑)

その後も、マッカーサーは49歳の時に16歳の少女に手を出してるほどの、重度のロリコンで、人生で常に性欲に忠実(笑)に生きてきた男ですから(笑)

英雄(笑)は昔から色を好むと言いますし、女と金名誉尋常ならざる拘りを見せたマッカーサーの行動原理は正に英雄のそれでしょう(笑)

マッカーサーは初婚が四十路と典型的モテない男でしたが、ウェストポイント士官学校在学中には、モテないダサい高校生がやりがちな『俺は何人の女とヤッた』自慢をやっている(笑)

ちなみにマッカーサー入学するまでのウェストポイントの記録(笑)は7人の女性関係したのが最高だったそうですが、マッカーサーが8名と関係して記録を塗り替えた(笑)と吹聴していたそうです。

マッカーサーは近くのホテルに常駐していた母親ピンキー監視されており(笑)そんなマネはとても無理だったので、これまたマッカーサー武勇伝(笑)でしょう。下らないですね。

※参考:ジェフリーペレット著『ダグラス・マッカーサーの生涯 老兵は死なず』P.81

それでモテない暗黒の学生生活を送った反動で、マッカーサー士官学校卒業すると女狂いとなりました(笑)

と言ってもモテないのは相変わらずだったので、マッカーサーがやったことは現在でいうストーカーでした(笑)

1907年マッカーサーミルウォーキーのファニーベルヴァンダイク・スチュアート嬢という金持ちの娘に惚れて、仕事すら手に付かない状態まで入れ込んでしまます(笑)

しかしスチュアート嬢はキモくて野蛮なマッカーサーには全く興味がなく、まったく相手にされなかっため、どん詰まったマッカーサーラブレターを出しまくります

スチュアート嬢が身の危険を感じたのか、ミルウォーキーから故郷ニューヨークに帰った後も追撃(笑)しているぐらいなので、かなりの執拗さです(笑)

そのラブレターの中の一つを紹介すると

ニューヨーク少女

私が愛するのはあなた

何にもまして

なぜにあなたは私を愛してはくれないのか

という、「自分がこんなに好きなのになぜ相手自分の事を好きにならないのか?おかしいじゃないか(憤怒)」みたいな典型的ストーカー思想手紙であり、こんな手紙を何十通も送られてきたスチュワートさんはさぞかし恐ろしかたことでしょう、そりゃ逃げたくもなるよ(笑)

これでも十分やばいんですが、マッカーサートドメとばかりに(笑)27頁にも及ぶマッカーサースチュワートが主役の韻文劇を創作(笑)し、その脚本スチュワート嬢に送りつけるという暴挙に出ます爆笑

その内容は

軍人であるマッカーサースチュワート嬢と結婚し、散々二人でセックスした後に馬に乗って二人で戦場に赴く。

そこで、マッカーサーが重傷を負い、スチュワート献身的看護で一旦は回復するが、その後さらなる激戦でマッカーサー戦死し、スチュワート自分の夫マッカーサーを誇りにして余生を過ごす。

という中二病どころではない、もし普通の人なら、こんな妄想を考えている事がバレた時点で確実に自殺するような凄まじい(笑)内容でありましたが、マッカーサーは躊躇することなくこれをスチュワート嬢に送ってます困惑

こんな不幸の手紙以下の汚物をもらったスチュワート嬢の気持ち想像すらできませんが、マッカーサーの期待も空しく、スチュワート嬢は最後までマッカーサーになびくことはありませんでした(当たり前ですが)

※参考:ジェフリーペレット著『ダグラス・マッカーサーの生涯 老兵は死なず』P.109

若いモテない暗黒人生を送ったマッカーサーは四十代になって、元上官の愛人バツイチ子持ちという見えている地雷、ルイーズ・クロムウェルブルックスとようやく結婚しますが、彼女離婚歴もあり、また参謀総長のパーシングやその副官キュークマイヤーなど片手では収まらない男性交際するなど、非常に性経験豊富女性でした。

そこで、女性経験に乏しい(というか殆どない)マッカーサー旦那になったものですから彼女の不満は相当なもの

ダグラス将軍だけどベッドの上ではただの兵隊よ」

とか

ダグラスはペ○スをオシッコをするためのものしか考えてないのよ」

とか

パーティで出席者に向けて、自分の指を曲げて見せて、マッカーサーの○ニスが萎れた形にしてマッカーサー性的能力の乏しさを表現した

とかの言動を知人やマスコミにしています

※参考:マイケル・シャラ―『マッカーサー時代』P.28

結局、マッカーサー生来のセコさとマザコン男性機能の乏しさを理由離婚されます

その後、傷心のマッカーサーは新任地のフィリピンで、マニラオリンピックスタジアムボクシング試合を観戦中に16歳のイザベルロザリオクーパーという混血のモデル一目惚れ(笑)副官のトマスジェファソン・ディヴィスに命じて、イザベル愛人とする交渉をさせてます。部下に愛人交渉をさせる上官(それも少将)とか嫌すぎますよね、さらにその時のマッカーサーの年齢が49歳ですから・・・ガチ性犯罪でしょ(呆れ)

※参考:ジェフリーペレット著『ダグラス・マッカーサーの生涯 老兵は死なず』P.285

この副官のディヴィスという副官は気の利いた(笑)男で、結局マッカーサー帰国後にこのイザベルにもフラれるんですが、そのあと傷心のマッカーサーを慰めるためにワシントン郊外コールガールを呼ぶための専用のアパートを借りていますマッカーサーはそこに頻繁に来ており、好きなプレイは、コールガールをルイーズやイザベル見立てて激しく罵倒するプレイだったと後日スッパ抜かれてます(笑)

また、マッカーサーとデイヴィスは仲良く(笑)一人のコールガール3Pすることもあったそうで(笑)部下と3Pする上官(それもこの時は大将)とか嫌すぎますよね(呆れ)

※参考:ジョセフC・グールデン著『Korea:The Untold Story of the War

話はかなりそれましたが、日本では、毎日GHQ司令部のあった第一生命館と嫁・とクソガキが待っているアメリカ大使公邸の往復であったので、日本女性を食いまくっているヒマはなかったようです。

しかし、日本に進駐当初に、日本女性セクハラを試みたことは明らかになっています

1945年8月30日厚木飛行場に到着したマッカーサー横浜直行ホテル・ニューグランド日本最初宿泊の場としました。

当時、ニュー・グランドには唯一辞めずに残っていた26歳の(山口由美著「クラッシックホテルが語る昭和史」では24歳)女性社員霧生正子氏がいました。

マッカーサーと護衛の空挺隊員は、ニュー・グランドに到着すると、男性社員を集め後ろ手を組ませて身体検査しましたが、霧生正子氏にもそれを要求し、身体検査をすると通告しました。

護衛の空挺隊員には女性兵士はいなかったので、男性兵士身体検査にされるのを嫌がった霧生正子氏は、「こんの野郎」と憤慨し、その命令に従わずホテルウーマンらしく前で手を組みました。

霧生氏の強い意思に押された、マッカーサーはそれを許可し、霧生氏には空挺隊の中尉おっかなびっくり身体検査をしています

霧生氏が気丈な女性でなければ、マッカーサー自らが身体検査と称しセクハラをするつもりだったのかも知れません。

また、霧生氏は自宅を空襲で失っていた為、マッカーサーらのことをイヤでこの野郎と思っており「家をかえせ」と言った事もあるほど、強い敵愾心を抱いたまま硬い表情で米軍兵士と接していました。

米軍兵士らは困ったのか「笑え」と霧生氏に命令し、それでも霧生氏は媚びないので「おれ等は悪くない、東条英機文句言え」と責任転嫁したあげく、霧生氏に毎日コーヒーやらチョコやらを献上しにきたそうです。霧生氏は美人だったので、マッカーサーらには下心があったんでしょう(笑)

まぁ、マッカーサーも周りに連合国の高官らの目があるなかであまり無理もできなかったようで霧生氏がマッカーサー毒牙にかかることはありませんでした。

よかったですね。

※出典 USArmyInJapan A Japanese lady who worked for GEN MacArthur

https://www.youtube.com/watch?v=0RqsjRRkUpQ

https://www.youtube.com/watch?v=Cvh6uW0Yxek

山口由美著「クラッシックホテルが語る昭和史新潮文庫

鼻の下を伸ばしただらしないいやらしい顔で、女性従軍記者マーガレット・ヒギンズ女史に不必要なほど接近し、その右手でヒギンズ女史の腰を弄るマッカーサー

現在で例えれば、自衛隊司令官女子アナにこんなことしてればどうなるか火を見るより明らかなように、典型的セクハラですね(笑)

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12184777592

2022-04-28

anond:20220428104617

こいのぼり」を歌ってるのがお母さん。

作詞

近藤宮子(こんどう みやこ、1907年3月21日 - 1999年4月8日)は、日本唱歌作詞家。唱歌チューリップ』、『こいのぼり作詞者。  

国文学者の父・藤村作が広島高等師範学校(後の広島大学)へ教授として赴任した1907年広島広島国泰寺町現在中区国泰寺町)に出生。母・季子は広島高師附属中学山中高等女学校音楽教師を務めた。1910年、父が東京帝国大学文学部助教授に転任、東京市千駄ヶ谷に転居。1931年、父の教え子で東京音楽学校(後の東京芸術大学音楽学部)講師国文学者の近藤忠義結婚専業主婦となる。

2022-04-18

意見を通すのに自分の命を使う

https://www.otaru-uc.ac.jp/~egashira/diary/Cambridge/fukakai.htm

偽書の登場 編集

1907年煩悶記』也奈義書房出版岩本無縫篇。内容は藤村操が実は生き延びて書いたとする偽書出版直後に発売禁止処分になる。

藤村自殺未遂後、下山し、海賊船世界を巡り、パリ悟りを開く。それを原稿にまとめて知人に託したものをまとめたものとする。「予は迷ひ初めたり。予は疑ひ初めたり。予は泣きたり、煩悶したり」と始まる。内容は社会主義無政府主義の強い影響を受けており、発禁処分もそのためとも言われる。現在、3冊しか存在確認されていない希少本であり、神田古本まつり出展された際には、147万円の高値がついたことがある。そのうちの一冊は、野間光辰が所有していたことが判明し、また別の一冊を谷沢永一が所有しており、その全文が『遊星群 時代を語る好書録 明治篇』[31]に掲載されている[32][注釈 2]。また、城市郎の所蔵していたものが、明治大学に「城市郎文庫」として寄贈されている。[34]

http://blog2.p2s2rb.com/?eid=109#gsc.tab=0

2022-03-12

anond:20220312125958

講義』はソシュール1907年から1911年にかけて行った3回の講義の内容をバイイとセシュエがまとめたものであるが、この2人は3回のいずれの講義にも出席していない[13]。2人は授業に出席できなかったことを悔やみ、ソシュール講義を一つの本にまとめて形に残すことにした[14]。しかし、ソシュール講義は整然と言語学を論じるものではなかったため、2人は出席した学生から集めた講義ノートをそのまま本として刊行するのは不適切と考え、ソシュールが以前に書いた草稿などとまとめて大きな編集を施し、出版することにした[15]。

ソシュール一般言語学講義が終わるたびに、準備した走り書きを破り捨てており、これを参考にすることはできなかった。バイイとセシュエが参照したソシュールの草稿は、1894年前後のものを中心にしており、そのうち主要なものは3つある。「形態論」と題された講義の序論と思われるノート、上述の一般言語学についての本の草稿、ホイットニーに向けた追悼論文である[16]。2人はこれらを断片的に利用しつつ[17]、比較バランスの取れていた第3回講義を元にして、1916年一般言語学講義刊行した[18]。

ソシュール講義ノートをそのままには刊行しないというバイイとセシュエの方針には、同じソシュール弟子であったルガールが反対していた[19]。『講義』の刊行から3年経った1919年一般言語学講義にはソシュール講義が持っていた魅力が欠けており、講義ノートをそのまま刊行してソシュール思想を忠実に伝えたほうがよかったのではないか、と述べている[20]。

wikipedia一般言語学講義」より引用

一般論には同意だけど、「一般言語学講義」については創作性どうなんだろう、わからん

2021-09-14

見て閘門

石井閘門 - 宮城県石巻市北上川にある閘門1880年(明治13年)に完成した、日本初の西洋式の本格的な閘門現在日本国内で稼動する閘門の中では最古のものであり、国の重要文化財指定されている。

脇谷閘門 - 宮城県石巻市1931年12月竣工北上川本川旧北上川間の船の通行のために、脇谷洗堰に併設された。

見沼通船堀 - 埼玉県さいたま市。見沼代用水と芝川とを結ぶ閘門運河である昭和初期以降から使用されておらず、現在さいたま市緑区にその復元された遺構が残る。1982年(昭和57年)、国の史跡指定された。

荒川ロックゲート - 東京都江戸川区小松川東京都流れる荒川旧中川を結ぶ。大震災時などの災害時に水上交通有効であることから改めて水路が見直されることになり、2005年10月に供用開始された比較的新しい閘門

扇橋閘門 - 東京都江東区猿江一丁目。1976年(昭和51年)完成。小名木川に設置されている。

中島閘門 - 富山県富山市1934年(昭和9年)8月完成。富山駅北側付近から富山湾の河口まで南北に続く、富岩(ふがん)運河中流にあるパナマ運河閘門現在運用されており、観光船が運行し往来できる(冬季運休)。国の重要文化財指定されている。

牛島閘門 - 富山県富山市中島閘門と同時着工し1934年(昭和9年)8月に同時完成。富岩運河最上流部(南端)の富岩運河環水公園(旧 船溜まり)内にあり、並行するいたち川とを結ぶ現在運用可能パナマ運河閘門。国の登録有形文化財登録されている。

松重閘門 - 愛知県名古屋市中川区堀川中川運河とを結んでいた。1968年に閉鎖され、現在閘門としては使用されていない。名古屋市有形文化財1993年(平成5年)には名古屋市都市景観重要建築物等に指定されている。

船頭平閘門 - 愛知県愛西市立田町福原木曽川長良川の間をつなぐ。1899年(明治32年)に着工、1902年(明治35年)に完成した。1994年(平成6年)にはそれまでの手動から電動への近代化改修工事が行われた。2000年(平成12年)5月には明治期に建設されて現在でも使用されている貴重な閘門であるということで重要文化財指定された。冬季を除き、木曽川上流の葛木港より観光船が運航。一般には無料での往来解放がされている。

三栖閘門 - 京都府京都市伏見区宇治川と濠川を結ぶ伏見港に1929年(昭和4年)に建設された。いまは遺構が三栖閘門資料館として開放されている。

毛馬閘門 -大阪府大阪市北区淀川旧淀川(大川)を隔てる閘門明治40年(1907年)8月に完成した旧第一閘門1976年(昭和51年)まで使用され、現在重要文化財指定されている。

尼崎閘門(尼ロック) - 兵庫県尼崎西海岸町地先。日本初のパナマ運河式。物流機能としての運河を今なお支える船舶重要玄関口となっている。

下関漁港閘門 - 山口県下関市本土彦島を隔てる小門海峡(関門海峡小瀬戸)にあるパナマ運河水門1936年の設置以来、現在も稼動中。

三池港閘門 - 福岡県大牟田市1908年(明治41年) 完成。2008年機械遺産指定2015年世界文化遺産認定された明治日本産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業構成資産の1つ。

2021-08-11

anond:20210810233938

不勉強すぎて草

このあたり読め

ワイみたいな底辺KKOでも知ってるレベルだぞ

仏印進駐

出典: フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』

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1941年サイゴン市内の日本軍

仏印進駐(ふついんしんちゅう、仏: Invasion japonaise de l'Indochine)とは、第二次世界大戦下におけるフランス領インドシナ仏領印度支那)への日本軍の進駐のことを指す。1940年北部仏印進駐と、1941年南部仏印進駐に分けられる。1907年に締結された日仏協約が事実上無効化し、さら南部仏印進駐日米関係の決定的な決裂をもたらした、太平洋戦争への回帰不能であると評されている

2021-03-02

日本建築空間』における建築百選

anond:20210301191826

 

増田の蛮勇には敬意を表したいが、さすがに突っ込みどころが多すぎる。

同種の百選としては2005年新建築臨時増刊『日本建築空間』(asin:B00GUJ1HIE)がある。

https://japan-architect.co.jp/shop/special-issues/book-110511/

2005年なので現存しないものや非公開の私邸が含まれるけれども、優れた選出だと思うので紹介したい。

 

古代 592-1180

法隆寺西院伽藍飛鳥時代奈良
新薬寺本奈良時代末期 奈良
山寺八角763年奈良
平等院鳳凰堂 1053年 京都
浄瑠璃寺本堂 1107年 京都
三仏寺投入堂(三仏寺奥院) 平安時代後期 鳥取
高蔵寺阿弥陀堂 1177年 宮城

中世 1180-1543

浄土寺浄土 1194年 兵庫
東大寺南大門 1199年 奈良
長寿寺本鎌倉時代初期 滋賀
西明寺本堂 鎌倉時代初期 滋賀
熊野神社長床 鎌倉時代初期 福島
法界寺阿弥陀堂鎌倉時代初期 京都
厳島神社社殿 1241年 広島
永保寺開山堂 1352年 岐阜
東福寺龍吟庵方丈 1387年 京都
正福寺地蔵堂 1407年 東京
吉備津神社本殿拝殿 1425年 岡山
慈照寺東求堂 1485年 京都

近世 1543-1853

妙喜庵待庵 1581年 京都
園城寺勧学院客殿 1600年 滋賀
園城寺光浄院客殿 1601年 滋賀
妙法院庫裏 1604年 京都
大崎八幡宮本殿・石の間・拝殿 1607年 宮城
三渓園聴秋閣 1623年 神奈川
二条城二の丸御殿 1626年 京都
西本願寺飛雲閣 1628年 京都
西本願寺書院 1633年 京都
延暦寺根本中堂 1640年(再建) 滋賀
三渓園臨春閣 1649年 神奈川
曼殊院書院 1656年 京都
桂離宮 1663年 京都
慈光院書院 1672年奈良
江川住宅江戸時代前期 静岡
閑谷学校講堂 1701年岡山
東大寺大仏殿(東大寺金堂) 1705年(再建) 奈良
大峰山寺本 1706年奈良
大国住宅 1760年岡山
岡山後楽園流店 江戸時代後期 岡山
栗林公園掬月亭 江戸時代後期 香川
角屋 1787年京都
さざえ堂(旧正宗寺円通三匝堂) 1796年福島
大徳寺孤篷庵忘筌 1799年京都
渡邉住宅 1817年 新潟
羽黒山三神合祭殿 1818年 山形
高野住宅江戸時代後期 山梨
金比羅大芝居(金丸座) 1835年 香川
岩根沢山神社本殿庫裏 1841年 山形

近代 1853-1945 ※は現存しないもの

柏倉家住宅座敷蔵 1866年山形
旧大明寺聖パウロ教会堂1879年愛知 ブレル、大渡伊勢吉(棟梁)
宝山寺獅子1882年奈良吉村太郎(棟梁)
風間住宅1896年山形
武徳殿 1899年京都 松室重光
花田家番屋 1905年北海道
吉島住宅1907年岐阜西田伊三郎ほか(棟梁)
古谿荘 1909年静岡
高松城披雲閣 1917年香川清水
住友ビルディング1926年大阪住友合資会社工作部(長谷部鋭吉・竹腰健造)
聴竹居1927年京都藤井厚二
大倉精神文化研究所本館 1932年神奈川長野宇平治
軽井沢 夏の家 1933年長野 アントニン・レーモンド
※両関第二工場酒蔵 1933年秋田
日向別邸 1936年静岡ブルーノ・タウト
近江神宮1940年滋賀 角南隆、谷重雄
前川國男1941年東京前川國男
吉田五十八1944年神奈川吉田五十八

現代 1945-2005 ※は現存しないもの

神奈川県立近代美術館 1951年神奈川坂倉準三
斎藤助教授の家 1952年東京清家清
コアのあるH氏のすまい 1953年東京 増沢洵
南台の家(吉村順三邸) 1957年東京吉村順三
八幡浜市立日土小学校1956年愛媛松村正恒
香川県庁舎 1958年香川丹下健三
スカイハウス(菊竹清訓邸) 1958年東京菊竹清訓
ホテルオークラのメインロビー1962年東京谷口吉郎
日本生命日比谷ビル(日生劇場) 1963年東京村野藤吾
国立屋内総合競技1964年東京丹下健三
大学セミナーハウス1965年東京 吉阪隆正
千代田生命本社ビル1966年東京村野藤吾
白の家 1966年東京篠原一男
塔の家(東孝光邸) 1966年東京東孝光
※虚白庵(白井晟一邸) 1970年東京白井晟一
KIH7004 1970年東京鈴木
中銀カプセルタワービル1972年東京黒川紀章
大分県医師会新館 1972年大分磯崎新
プロジェクトマグネット1973年店舗模型倉俣史朗
阿部勤邸 1974年埼玉阿部
北九州市中央図書館1974年福岡磯崎新
幻庵 1975年愛知石山修武
上原通りの住宅1976年東京篠原一男
中野本町の家 1976年東京伊東豊雄
小篠邸 1981年兵庫安藤忠雄
弘前市斎場1984年青森前川國男
SPIRAL 1985年東京槇文彦
バーオブローモフ1989年福岡倉俣史朗
海の博物館1992年三重内藤廣
豊田市美術館1995年愛知谷口吉生
ウィークエンドハウス1998年群馬西沢立衛
せんだいメディアテーク2000年宮城伊東豊雄
横浜港大さん橋国際旅客ターミナル2002年神奈川アレハンドロ・ザエラ・ポロ、ファーッシド・ムサヴィ
金沢21世紀美術館2004年石川妹島和世西沢立衛

2020-08-02

戦史叢書、各巻の概要(書きかけ)

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戦史叢書

防衛研修所戦史室(現・防衛防衛研究所)が編纂した太平洋戦争及び日中戦争大東亜戦争)に関する公刊戦史。

開戦経緯、戦争指導、個々の作戦等について、各種文書口述記録並びに外国の公刊戦史等を元として、記述するもの

1966年昭和41年から1980年昭和55年)にかけて編纂・発刊。

大本営関係34巻 · 陸軍戦史37巻 · 海軍戦史21巻 · 陸軍航空戦史9巻 · 年表1巻の全102巻で構成

戦略レベル以上の分析史料批判に欠ける。旧軍所属していた元軍人が書いているため、身内に係る批判がされにくい。陸海軍対立編纂事業にまで及ぶ。捕虜の取り扱いや占領行政に係る記述が無いか少ない。索引が無い。誤りが多い等の問題点が見られるようだ。

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戦史叢書第099巻 陸軍軍戦備

 日本陸軍の軍備及び戦備並びにこれらに関連する事項について記述官制について記述

 扱う期間は慶応3年1867年)~昭和20年1945年8月15日

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戦史叢書第008巻 大本営陸軍部<1>昭和15年5月まで

 明治元年1868年から昭和15年1940年5月までの約70年間に亘る陸軍中央部施策中、大東亜戦争関連事項につきその大綱を概説して記述国防上の政策軍令機関等の制定改廃、帝国国防方針の制定改定等について記述

 扱う期間は明治元年1868年)~昭和15年1940年5月

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戦史叢書第009巻 陸軍軍需動員<1>計画

 主として大正6~7年(1917~1918年)頃から昭和12年1937年)頃までの約20年間に亘る陸軍軍需動員の計画準備について記述徴発制度法令官制計画等について記述実施面については、戦史叢書33巻『陸軍軍需動員<2>実施編』に詳述。

 扱う期間は大正6~7年(1917~1918年から昭和12年1937年)。

戦史叢書第065巻 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<1>

 大本営陸軍部の立場から大東亜戦争日中戦争太平洋戦争)に至った政戦略の経緯や戦争指導について記述。主として「大本営政府連絡会議」及び「御前会議」の運営及び開催に伴う陸海軍及び外交当局の動きについて記述

 扱う期間は昭和6年1931年)~昭和16年1941年8月30日

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戦史叢書第091巻 大本営海軍部・聯合艦隊<1>開戦まで

日本海軍創設から大東亜戦争」開戦までにおける海軍中央部施策 、開戦から終戦までの大本営海軍部・連合艦隊戦争指導および作戦指導概要記述

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戦史叢書第088巻 海軍軍戦備<2>開戦以後

 日本海軍の軍備及び戦備並びにこれらに関連する事項を重点的に概述。

 扱う期間は昭和16年1941年11月昭和20年1945年8月15日

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戦史叢書第043巻 ミッドウェー海戦

 昭和17年1942年6月5日から7日にかけて行われたミッドウェー海戦及びその前後海軍作戦について記述。本作戦は、戦争全般ターニングポイントとみなされている重要な戦役(戦闘)であり、本作戦の失敗(敗北)以降、開戦から常に先手を取り続けていた日本海軍は、守勢に回ることとなった。なお、本作戦は、アリューシャン列島西部要地攻略作戦と一体の作戦として計画及び実行されたものであり、戦史叢書第029巻『北東方海軍作戦』を関係して参照することが望ましい。

 明治戦争勃発前までの海軍作戦構想が概述されている。

 扱う期間は昭和17年1942年1月昭和17年1942年6月

 (但し、海軍作戦構想概略部にあっては明治以降)

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戦史叢書第046巻 海上護衛戦

 海上輸送及びその護衛について総合的かつ包括的記述

 外地特に南方占領地)から海上輸送は、戦争中の国力維持に対し極めて強い影響を与える。戦争敗因の一大要因として、わが海上輸送力の減退に基づく国力喪失が挙げられており、それらの実相並びに諸対策実態を明らかにするためにも、これらの関連分野全般に亘っての総合研究叙述が必要とされるところである

 扱う期間は明治40年(1907年4月昭和20年1945年8月

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戦史叢書第082巻 大本営陸軍部<10昭和二十年八月まで

 昭和20年1945年1月8月にかけての大本営陸軍部の作戦指導及び戦争指導の経緯を記述

 扱う期間は昭和20年1945年1月20日~昭和20年1945年8月15日

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2019-08-24

禁煙はたやすいことだ。私はすでに何千回もやった」は誰がいい出したか

作家マーク・トゥエインは、禁煙について書いてはいるが、このジョークを言ったというたしか証拠はない。

コメディアンのW. C.フィールズは、1938年に「禁酒講義」というラジオ番組で、「禁煙」ではなく、「禁酒バージョンギャグを言っている。だが、禁酒バージョンギャグは、これよりも前にすでに広まっていた。

最も早い事例は、1907年に、ハリス・ディクソンによって書かれた“Duke of Devil-May-Care”というタイトル小説である。その小説には「ポーカーをやめるなんて簡単なことさ。俺はゲームが終わるたびに、1000回以上もやめているぜ」みたいなセリフがあるという。

マーク・トウェイン禁煙ジョークの関連を調べてみると、1914年に、友人のエリザベス・ウォレスという人に、禁煙をしたいという手紙を書いたらしく、そのとき手紙が「マーク・トウェイン幸せの島」というタイトルの短い伝記に書かれているが、ここで書かれているユーモアは、例の「名言」とは異なるものである

禁酒法がまだ行われている間の1929年に、ネブラスカオマハワールドヘラルドという人が書いている。「ハリーは酒をやめると言うが、笑わせるぜ。酒をやめられないことなんてないぜ。なぜなら俺自身、もう100回以上も禁酒しているからな。酒をやめられるかやめられないか、これでわかるだろう」

1932年に、鉄道刊行している“Norfolk and Western Magazine”という雑誌には、禁煙についてのジョークがある。

車掌キャンベルは、たばこをやめたと言った。スチュワートは言った。「たばこをやめるのは簡単だよ。私は少なくとも100回はやめているからね」」

1935年の“The American Legion Monthly”の中に、酒でトラブルを起こす製材所の従業員を、主任解雇させようとしたという、やや長いジョークがある。

「何が問題なんです?私の仕事ぶりですか?」

「いや、仕事問題ない」

「じゃあ何で私が解雇されなきゃならないんです?」

仕事中に酒ばかり飲んでるじゃないか。そんなことでは、人も殺しかねないぞ」

「それならわかりました。なに、お酒をやめるなんて簡単なことです。実際私は、この10年で1000回以上もやめてきましたから」

1936年の“The Southwestern Sheep & Goat Raiser”という雑誌に、いま知られているジョークと非常に近いバージョンジョークがある。

先日、友人の一人が私たちに、禁酒なんて簡単なことだと言った。「私はもう1000回もしているからね」

1938年、W. C.フィールドは、「禁酒講義」というラジオの中で、こんなジョークを言っている。

禁酒できないなんて言わないで。簡単なことさ。俺はもう1000回もしている。

1938年10月に発行された“Scribner's Magazine”では、「私、たばこやめます」という記事を発表した。

ある若者が、医者から禁煙するよう命じられたが、それができないと不平を言ったところ、年をとったテキサス州民がパイプ一服しながら答えた。「禁煙なんて世界で最も簡単なことさ。俺はもう1000回もしている」

マーク・トゥエイン禁煙ジョークとの関係が最も早く表れるのが、1938年12月の“Journal of the American Medical Association”.である。彼が1910年になくなってからだいぶ後のものだが、この中に「マーク・トウェインは、これまでしてきた中で禁煙が最も簡単なことだ、なぜなら1000回もしてきたからだと言った」とある。つまりマーク・トゥエイン禁煙ジョークは、彼の死後になって結びつけられたのである

1941年に、カリフォルニア新聞コラムニストに、酒飲みが理由解雇された人のギャグがある。

あなた、酒飲んでるでしょう。仕事中に飲酒すれば、人を傷つけたり殺したりしかねません」

「わかりました。ではお酒をやめますお酒をやめるなんて簡単ですよ。実際私は、この2,3年で少なくとも1000回はやめましたから」

これは、先の1935年の製材所の従業員解雇されたときの話とまったく同じである

1945年リーダース・ダイジェストで、マーク・トゥエイン名言として、「禁煙は、私がこれまでしてきた中で最も簡単なことだ。なぜなら1000回もしてきたかである」が掲載されている。

2019-06-08

スポーツを考えた人たち

ラグビー

ウィリアムウェブエリス

1806年まれイギリス出身

1823年、パブリックスクールラグビー校で行われていたフットボール試合中に、エリスボールを持って走り出した。

このエリスの反則行為こそがラグビー起源である、という説が広く知られている。

当時、イギリス各地のパブリックスクールでは、それぞれにルールの異なるフットボールプレイされており、

そのなかでラグビー校で行われていたフットボールこそが、後のラグビーに多大な影響を及ぼしたこと事実であるが、

エリスエピソード自体一種神話であり、本当の出来事だったという証拠は見つかっていない。

とはいえ、他に名の知れた人物がいないこともあり、ラグビー発明者と言えば、いまでもエリスが挙げられるのである

ラグビーW杯トロフィーは「ウェブエリスカップ」と呼ばれる。

野球

ウィリアム・ウィートン。

1814年生まれアメリカ出身

野球の原型は、クリケットラウンダーズ、あるいはタウンボールといった競技だとされるが、

それを現代的な「ベースボール」に仕立てあげたとされる人物は何人か挙げられる。

1907年、「南北戦争英雄であるブナー・ダブルデイ将軍が、1839年クーパーズタウン野球を考案した」との調査結果が発表された。

この説は長く信じられており、クーパーズタウンには野球殿堂が建てられたが、やがて全くの無根拠であったことが明らかとなった。

次に、1842年にベースボールチーム「ニッカボッカーズ」を設立した、アレクサンダー・カートライトが「野球の父」として知られるようになった。

ニッカボッカーズが1845年に明文化した「ニッカボッカールール」が現代野球の元になったとされているからだ。

ただ、1857年ニッカボッカーズが野球の人数(9人)・イニング数(9回)・塁間(90フィート)を定めたとき

カートライトは既にニッカボッカーズを離れており、ドク・アダムスがチームのリーダーとなっていた。

アダムスはその後、1858年から1862年まで全米野選手協会に参加し、ルールの整備を主導していた。

そして、最近研究によると「ニッカボッカールール」は、別のチームであるゴッサムクラブ」のルールを受け継いだものだとされている。

ゴッサムクラブルール制定に携わり、それをニッカボッカーズに持ち込んだのがウィリアム・ウィートンだった。

サッカー

ベニーザー・コブ・モーリー

1831年まれイギリス出身

弁護士となってロンドンに出てきたあと、1862年バーンズフットボールクラブ設立した。

1863年、彼は新聞寄稿し、フットボールルール統一、およびそれを行うための団体設立提案した。

同年、各地のフットボールクラブパブリックスクール代表ロンドン居酒屋会合し、

ザ・フットボール・アソシエーションFA)が設立された。

モーリーFA書記に任命され、「ロンドンルール」と呼ばれる統一ルール草案を作りあげた。

このときボールを持って走ってはならない」「相手のスネを蹴ってはならない」というルールが導入され、

それに反対するフットボールクラブFAを脱退して、代わりに「ラグビーフットボールユニオン」を1871年設立した。

これによりアソシエーション・フットボールサッカー)とラグビーフットボールとが分立することとなったのである

また、モーリー統一ルールに基づく世界初公式試合プレイヤーの一人でもあった。

これらの功績により、モーリーは「現代サッカーの父」とみなされている。

テニス

ウォルター・クロプトン・ウィングフィールド

1833年まれイギリス出身

軍人であると同時に発明家でもあった彼は、

それまで室内で行われていたテニスを芝生の上で行う「ローンテニス」を考案して、1874年特許を取得した。

ラケットネットなどをワンセットにして「スフェリスティキ」と名付けて売り出し、大成功を収めた。

ローンテニスは急速に普及し、1877年には第一ウィンブルドン選手権が開催された。

当時、芝生でテニスを行う試み自体はいくつかあったものの、発明者としての名声はウィングフィールドに帰せられている。

アメリカフットボール

ウォルターキャンプ

1859年生まれアメリカ出身

当時、アメリカ各地の大学バラバラだったフットボールルールを、

ラグビーベースにしたもの統一しようという機運が生まれたことで、

1876年に「アメリカ大学フットボール協会」が設立された。

そして1880年会議において、イェール大学主将だったキャンプは、

フィールドプレイヤーを15人から11人にまで減らし、

さらに「スクラム」をやめて「スクリメージ」を導入することを提案した。

1882年に導入された「ダウン」制と合わせて、ここにアメリカフットボールの基本ルールが完成した。

彼はその後も、アメフト黎明期におけるルール整備の中心人物だった。

このためキャンプは「アメリカフットボールの父」と呼ばれている。

バスケットボール

ジェームズ・ネイスミス

1861年まれカナダ出身

1891年マサチューセッツYMCA非常勤体育教師となった。

冬季に屋内でプレーできる学生向けのチームスポーツとして、

サッカーラグビーラクロスなどをベースに、ネイスミスは新しく安全競技を案出した。

まず柔らかいサッカーボール使用し、

激しい接触プレーをなくすためにボールを抱えて走ることを禁止し、

さらシュート身体で防ぐ必要がないようゴールを頭上に設置した。

ゴールには桃の籠を使ったので「バスケットボール」と名付けられた。

現在、全米大学男子バスケの年間最優秀選手賞にその名が冠されている。

バレーボール

ウィリアム・G・モーガン

1870年まれアメリカ出身

1891年ジェームズ・ネイスミスに誘われて、彼の勤めるYMCA入学した。

卒業後は体育教師となり、別のYMCAに勤務した。

1895年モーガンバスケットボールよりもさら安全な屋内競技として、

テニスバドミントンハンドボールなどの要素を混ぜ合わせてバレーボールを考案した。

当初はバドミントンから取って「ミントネット」という名前だったが、

試合を見ていた教授がこれを「ボールをボレーする競技」と看破して

「ボレーボールバレーボール)」という名称提案した。

2018-11-03

韓国の88歳の大学教授ハングルで書いた文章です。日本語訳します。

韓国の88歳の大学教授ハングルで書いた文章です。日本語訳します。

http://yeoksa.blog.fc2.com/page-0.html

"私は88才です。 もう事実を話したいと思います。" [チェ・キホ伽耶大学客員教授]

朝鮮末期の私は1923年の生まれです。もう韓国のためでも、日本のためでもなく「事実」を話したいと思います

それは相当な覚悟必要です。生命危険覚悟していますしかし、これは私の使命であると信じています

私はソウルに住んでいました。 そして、時々、平壌東京に行きました。

その当時の韓国人は「日本人以上の日本人」でした。劇場に行けば映画の前に、戦争ニュースがありました。

例えばニューギニア日本が勝った映像が流れ、拍手万歳暴風雨でした。

私は映画が好きで、東京にも行きましたが、日本人は冷静でした。

しかし、韓国人は全員が狂ったように喜んでいました。 それが普通の姿でした。

なので「親日派」という言葉使用できません。その「使用できない言葉」を使って、先祖まで批判しています

「親切でやさしい日本人」という印象を、必死に消すために「反日」を指導者はそそのかしてきました。

韓国日本歴史教育比較すると、日本10%の歪曲といえば、韓国は90%が歪曲です。

朝鮮末期の正常ではないで政治腐敗を教えず、日本が関与しなければ独立ができたことのように使われています

韓日合邦によって「教育」医療」 「工業」 「社会インフラ」が整備されました。

近代国家の基礎が出来たことは明らかな事実です。

その実績を「日本帝国主義の侵略政策産物だ!」と糾弾する韓国にはあきれます

より一層「日帝民族産業を停滞させた!」という主張にはコメントする気持ちもなくなります

民族産業を殺したのは、朝鮮王朝です。 近代化を主張する先進的な思想家は反逆者とし、親族までも処刑されました。

韓国人は「日帝虐待! 性奴隷!」と叫んでいますが、私は信じることができません。 歴史真実を知っているためです。

朝鮮末期は「地獄」でした。 それは大韓帝国時代になっても同じでした。

1904年日本朝鮮惨状を救うために、財政支援決断します。

例えば1907年度、朝鮮王朝の歳入は748万円だったが、歳出は3000万円以上でした。

その差額は日本負担していました。 1908年にはより一層増加し、3100万円を支出しています

現在88才の老人の絶叫です。 どう思われますか?

2017-05-19

朴 泳孝(ぼく えいこう、박영효(パク ヨンヒョ)、1861年7月19日 - 1939年9月20日)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家で、日本統治時代朝鮮における貴族実業家日本名山崎 永春。

目次 [非表示]

1 生涯

2 家族

3 その他

4 登場するテレビドラマ

5 脚注

6 出典

7 関連文献

生涯[編集]

判書大監朴元陽の子として京畿道水原生まれる。金玉均らと共に開化党(独立党)を結党した。光緒5年(1879年)、金玉均らと共に李東仁を日本に密出国させ、日本の情勢を探らせた。福澤諭吉支援を受け、光緒8年(1882年)、壬午政変(壬午軍乱)の謝罪のために派遣された謝罪使(副使は金晩植と金玉均であった[1])として日本に向かう船上で、現在大韓民国国旗である太極旗デザインを考案したとされる。朴泳孝が日本派遣された4ヶ月間のことを記した日記『使和記略』によると、8月9日仁川から日本船籍明治丸に乗り日本へと向かった朴泳孝らは、船内でイギリス領事アストンイギリス人船長ジェームスにそれまで国旗として提案されていた八卦太極文様を描いた古太極図を見せて国旗について相談したところ、船長八卦が複雑で区別しにくく他国がこれを見て作るのに不便であると述べたため、四卦を削り、残りの四卦を45°傾けて四隅に配した図案が提案され、大・中・小3本の太極旗が作られたという。8月14日神戸に到着した一行は宿泊した西村屋にはじめて太極旗を掲げ、8月22日太極旗小本とともに国旗制定を本国に報告したという。

帰国後は漢城判尹となり、開化政策を進めるが守旧派事大党)の反対に遭って挫折さらに光緒10年(1884年)12月にはクーデター閔妃から政権奪還を図ったが失敗(甲申政変)、日本郵船の「千歳丸」で日本亡命慶應義塾に隣接していた福沢邸に寄食し、転じて神戸に居を構えた。

光緒20年(1894年)に甲午改革が始まると、帰国して内務大臣となり、改革の中心的な役割を果たすが、開国504年(1895年)に謀反の疑いをかけられ、再び日本亡命した。その後光武11年(1907年)に再度韓国に戻り、李完用内閣宮内大臣となったが、大臣暗殺陰謀の疑いで済州島流刑処分とされた。

隆熙4年(1910年)の韓国併合後には侯爵朝鮮貴族)となり、朝鮮貴族会長1911年)、朝鮮銀行理事1918年)、朝鮮経済会長1919年)、朝鮮維民会会長1919年)、東亜日報社初代社長1920年)、朝鮮人産業大会会長1921年)、朝鮮倶楽部の発起人(1921年11月)、京城紡績社初代社長朝鮮殖産銀行理事朝鮮総督府中枢院顧問1921年)[2]、東光会朝鮮支部初代会長1922年)、貴族院議員1932年)など、日本統治下の朝鮮における要職歴任した。昭和10年(1935年)、 朝鮮総督府編纂した"朝鮮功労者名鑑"に朝鮮人功労者353人のうちの一人に収録されている。

2016-07-07

銀行はなぜ合併しなければならなかったのか

江戸時代日本は米・金・銀という三種類の通貨システムを平行して扱っていた。徳川幕府諸侯領(明治時代以降藩と呼ばれるようになるやつ)が入り乱れた連合国家であった。諸侯領間における政治経済システムの違いは大きかった(要するに戦国の遺風を引きずった藩とそうでない藩があった)。上記のような事情があった結果金融業の発達は著しく、幕末には多くの諸侯がこうした金融業者の支配下に置かれるありさまだった。

明治政府戊辰戦争後、

などといった問題対処するために、新貨条例および国立銀行条例が制定した。これらの制度

というなにがなんだか分からない制度になっていた。しかしこれは当時の国際情勢を考えると仕方がない話で

といった状態で、日本近代金融システムを構築するにあたって模範とすべき制度はまだなかった。結果アメリカを真似して兌換券の分権的発行を主軸とする制度が作られた。このため各地に割拠していた金融資本国立銀行への転換が進んでいった。

しか殖産興業の進展、西南戦争による莫大な戦費などといった問題対処するために、不換紙幣の発行を国立銀行に認めるに至った。

結果インフレなど金融システムの混乱が見られたため、ここにアメリカ型分権型金融システムには限界があることが明らかになり、日銀法と旧銀行法が導入されイギリス式中央銀行制度が導入されることになった。これが 1882 年。

このような経緯があったため、金融資本の再編といった事態にまでは話が進まず、そのまま第一次世界大戦関東大震災突入する。戦争景気による企業の無理な業容拡大と戦後景気後退震災によって銀行には不良債権が蓄積された。

上記のように各地に雑多に存在する金融資本江戸時代のそれを引きずっていたため近代銀行としては規模が小さく、これによって金融不安が高まり昭和金融恐慌に至った。これが 1927 年(1929 年や 1930 年ではない)。

その状態さらに 1929 年 1024 日はやってきた。 1930 年にはその影響が日本にも及ぶに至った。

かかる状況の中で昭和二年旧銀行法改正により 1927 年から中小銀行の整理が進められていたが、 1936 年馬場鍈一大蔵大臣により「一県一行主義」が掲げられた。馬場大蔵大臣としては失格者で財界との対立の結果大蔵大臣から放逐され憤死することになるのだが、翌 1937 年に日中戦争が開戦、日米開戦もほぼ既定路線となるなかで一県一行主義継続され日米開戦のころには中小銀行の整理は完了した。

こうした集権的かつ計画的経済運営にあたったのはいわゆる革新官僚たちで、その親玉吉田茂だった。彼らは社会主義的な経済思想国家主義的な政治思想を併せ持っており、戦中戦後日本の内政を主導した。

全然関係ない話だが、社会主義国家主義反自由主義という思想セットは革新官僚リーダーの一人である岸信介の孫の安倍晋三にも受け継がれていることはよく指摘される。

戦後岸が政界進出したこともあり、結果として一県一行主義体制および統制的な銀行体制はほぼそのまま戦後に引き継がれることになった。もちろん建前上は一県一行主義廃止され、戦後資金流通の円滑化のために戦後地銀いくら設立されたが大勢に大きな影響をあたえることはなかったのだった。

このような情勢のなかで、戦後日本金融当局==大蔵省銀行に対して

  • とにかく安定して資金供給を行うこと
  • 間違っても競争などしないこと

を求めて各種の行政指導や各種許認可を縦横にもちいて銀行群をコントロールした。これをいつしか護送船団方式と呼ぶようになっていた。

これは実際うまくいっていた。バブル崩壊までは。バブル崩壊の余波は大きく、護送船団方式では銀行を守り切れないことは明らかになっていた。 1995 年には木津信用組合兵庫銀行倒産するに至った。

また長らくの護送船団によって日本金融システム陳腐化は著しく国際社会において東京金融都市としてまったく影響力が無い点も問題とされた。

これらの問題対処するためとして金融ビッグバンと称し護送船団は解体されてしまった。銀行はここに自由サービス投資を行えるようになった。

ところで足元の経済情勢を見るに 1993 年から 1996 年にかけて経済成長率は 2-3% を維持しており、ここに橋本総理大臣バブル崩壊による不景気は終了したという判断をするに至った。また 1995 年には武村正義大蔵大臣により「財政危機宣言」が出されており財政再建を開始すべきという機運が高まっていた。

そこで橋本内閣は 1997 年、消費税増税などを含んだ超緊縮予算を成立させる。これが大失敗であった。緊縮財政により景気は悪化金融システム不安は再発し北海道拓殖銀行山一證券破綻、翌 98 年には橋本内閣総辞職現在まで続く長い長い不景気が始まった。

しかしここに至って護送船団方式の再開は難しく、銀行はノーガードで野に放り出されてしまった。かかる状況のなかでは銀行経営効率を上昇させるような積極投資は難しいことは明らかで、銀行合併による規模の拡大によって身を守るという手段をとらざるを得なかった。

結果生まれたのが三大メガバンクである。このような事情によって、消極的理由で成立した合併であるから当事者たちは乗り気であるはずもなく、旧来の自己立場防衛のために果てしない内紛が始まることは、それはもう仕方のないことだったと言えるのではないか

そのような事情の中で銀行システムの開発にあたる SIer技術者は内紛の道具の一つとなり疲弊を重ねている。

僕が言いたいことは何か。誰か頭が悪い人が一人いたからこのような状況になっているという訳ではないということ。むしろ一人ひとりができることを着実にやった結果がこうなのだということ。つまり、逆に言えばこの状況を解決する手段など無いということ。みずほ現場で苦しむエンジニアにできることは、逃げることだけだということだ。

2015-04-05

http://anond.hatelabo.jp/20150404225021

とりあえず東北大学がなんででっかいか要点を書きたいと思う。

日経産業新聞がどういう算出方法旧帝大を比べたかはわからないので適当に。

(1) 東北大学は実は「日本要衝」にある大学

意外に思われるかもしれないが、東北大学前身東北帝国大学帝国大学でも

第三の設立(参考:東北帝大1907年京都帝大1897年)で、

日本の国土のバランスから見て政策的に重要視されてきたことはまちがいない。

ここらへんの人材資源開発における地理的考慮戦前の方が緻密だったようである

国立大学法人化前の予算配分もその背景に基づき、現在もその財政規模を引き継ぐ。

(ちなみに、東北帝国大学と同時期に計画された九州帝国大学設立1911年。)

(2) 東北大学は附属病院の規模が大きい

国立大学法人化の際に附属病院には借金を割り当てられたため、

これを返済するためどこの病院稼働率を最大限引き上げるよう努力するようになった。

結果、法人化後はどこの国立大学でも附属病院財政比重が膨れ上がっている。

とりわけ医療過疎地の真ん中にある東北大は国立大学附属病院中で最大級であり、

ここでだいぶ予算規模を稼いでいる。

参考:病床数 東北病院1308床、京大病院1121床

しか利益大学還元されるというわけではない。)

(3) 国立大学財務諸表には科研費の額は計上されない

個々の研究者が獲得した各種の科学研究補助金については国立大学法人財務諸表には現れない。

科研費の受入額ではやはりというか東北大よりも京大の方が上である

ただ、設立時に「研究第一主義」を標榜した東北帝大の流れを汲み、

戦後は「実学尊重」を掲げてきた故か、額にそれほど大きな差はないことがわかる。

参考:平成25年科研費受入総額(間接経費を除く) 東北大学111億円、京都大学136億円

(4) 東北大学震災復興関係お金がたくさんある

すでにブコメに指摘があるように、震災復興関係研究事業の受入れや施設整備交付金

一時的に増加しているという要因もある。

最後に力尽きたのが見え見えだが、ざっとこのようなことが影響していると思われる。

いろいろ言われてはいるが、特に研究面では東北大学世界で戦えるレベル大学よ。

2014-10-04

従軍慰安婦”の給料を同時期の公務員比較する理由

強制連行だったのかどうかという話はここでは置いておくが、強制連行だったにせよ自由意志での志願だったにせよ『無給ではなく、給料が出ていた』という事実については衆目一致するところである

ではその給料はどの程度のものだったのか、という比較についてよく用いられるのは小学校教師か巡査初任給である

「なぜ公務員とばかり比較するのか不明である」と某所で書かれていた(そして実は、その『某所』がどこか忘れた)ので、その理由を書こう。

1.当時の日本で最も多いのは農民自営業者である、が……

 農民自営業者収入というのは天候や景気による変動が相当に多い上、必要経費などについて家内で処理される部分が多く、実態が把握しづらい。これは現在でも同じである

そういう理由で、『当時の一般的農民収入比較』というのは難しいのだ。出来れば、『毎月決まった給料を受け取る人』が良い。

2.”大卒”の価値が違う

 じゃあ大卒サラリーマン比較すればいいか、と言うとそれも違う。いやまあ、現在経済情勢で大卒正社員になれる人は少数で非正規雇用の方が多いだろう、という話は抜きにしてもだ。

人口の5割弱が大学に進学する現在と、人口の5%しか高等教育機関に進学していない戦前(旧制高校[現在大学前半の2年間]、実業専門学校などを含む)では

大卒サラリーマン価値比較にならない。戦前大卒というのは多くが公務員(現在の一種に相当するあたり)への就職が中心で、残りも三井三菱などの財閥本社に勤務するような、本当のエリートだった。

3.『定額の給料で働く人』『戦前でも戦後でも、相当の人数が必要だった職』は何か?

 となると、事務方ではなく現業公務員適当になってくる。それも、福祉国家化に伴って増えたような職ではなく、本当に近代国家ならある程度の人数を必要とするような職は何か?

となると……。結論としてはやはり、「小学校教師」もしくは「巡査」になる。何せ全国にたくさんの人数が必要なので『エリートしか採用しません』では人数不足になるから

社会でも『平均よりは若干上かもしれないが、エリートとまでは行かない』位置づけになるという点で戦前でも戦後でもおおむね共通している。なお、戦前日本小学校進学率は日露戦争後の1907年には99%となっている。

(ちなみに戦前小学校教師になる方法制度に多少の変遷はあるが、おおむね尋常小学校→高等小学校師範学校という進学ルートになる)

まあ、軍票で払われていて戦後紙くずになったとかそういう部分は別として、『額面を比較する上では』公務員比較するのはある程度妥当だ。

4.実際に換算してみた

http://chigasakiws.web.fc2.com/ima-ikura.html

http://www.geocities.jp/wiz_emerald/bukka.top.htm

上記リンクの上によると、昭和6年には小学校教員初任給50円であったという。現在だと地方による差もあるがおおむね22万円だろうから、とりあえず昭和初期の1円=現在の5000円として換算してみると

[サービス関係]

散髪代:40銭(2000円) 週刊朝日12銭(600円) 山手線の初乗り:5銭(250円) 地下鉄上野浅草10銭(500円) ハガキ:1銭5厘(75円) 新聞定期購読一月:1円(5000円) 上野動物園:大人10銭(500円)、子供5銭(250円)

[食品]

三等米を一斗(≒15kg):45銭(2250円) 盛りそば1杯:10銭(500円) 二等酒を一升(1.8L):1円80銭(9000円) 小麦粉100匁(375g):7銭(350円) 赤味噌100匁:7銭(350円)

[家賃宿泊]

東京での4畳半一間+2食付きの下宿代:16円50銭(82,500円)  東京府による簡易住宅(6畳間+4.5畳間の2間)の家賃:6円~9円50銭(30,000~47,500円)  湘南旅館宿泊料・1泊2食:5円~10円(25,000円~50,000円)

宿泊費と酒は高いが家賃は安い目。あとは現代の我々と比べても、数割はともかく桁が違うような誤差にはなっていないと思う。

2011-02-17

禁煙全盛期の現在ヒトラーの関係

現在日本も「健康国民の義務」の風潮になってきている気が

 

 

健康政策

ヒトラードイツ民族健康を守ることにも強い関心を持っていた。特に、1907年母親クララ乳癌で失ったヒトラーにとって癌の治療は特別な意味を持っていた。厚生事業のスローガンとして「健康国民の義務」を定め、喫煙に対しても反タバコ運動に積極的に行った。環境職場における危険を排除し(発癌性のある殺虫剤や着色料の禁止)、早期発見を推奨した医師はとくにタバコの害を熱心に訴え、彼らは世界で最も早く喫煙を肺癌と結びつけた[39]。

また、「健全民族未来女性にある」として女性の体育を奨励したことでも知られる。そのため現在ドイツでは、政府による過度の健康問題への介入や禁煙禁酒運動ナチズムを彷彿させるものとしてタブー視する傾向にある[40][41][42]。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC

2010-08-30

http://anond.hatelabo.jp/20100830224509

1905年9月ポーツマス条約調印、日露戦争終結。

11月、第二次日韓協約、外交権を剥奪し韓国保護国とする。

12月伊藤博文韓国統監を拝命。

1907年4月、林外相伊藤博文電信に、

 「韓国の形勢今の如くにして推移せは年を経るに従ふて『アネキゼーション』は益々困難なるに至るへし」と打電。

 (伊藤が即時の併合を主張したのか、あるいはロシア対策をめぐる内地向けのレトリックであったか、史家の解釈は一致しない。)

7月ハーグ密使事件、高宗退位。保安法制定、言論集会結社の自由を制限。

8月韓国軍隊を解散。

1908年4月、「適当の時期に於て韓国の併合を断行する」政府方針に伊藤が同意。

6月伊藤韓国統監を辞任。

10月伊藤暗殺

1910年8月韓国併合

  (参考資料 瀧井一博『伊藤博文』)

伊藤もはじめは併合に反対していた、ってよくいわれるけれど、

伊藤が死ぬ前に併合の方向は決定していたわけだから、暗殺事件そのものは、大勢を動かすものではなかったんでないか。

2009-01-12

何と釣り合うって?(The Economistより)

The Economistより:

いわゆる死者の算術において、現在イスラエルハマスの戦いは不均衡な様相を呈している。最初の4日間で、イスラエル空爆により350名以上のパレスチナ人が死亡し、その多くは民間人だ。ひるがえってハマスロケット弾は4人のイスラエル人を殺した。しかしこのような一方的な流血事態が、アムネスティ・インターナショナルや、もうすぐEU議長国の6ヶ月任期を終えるサルコジ大統領らが議論するように、イスラエルを「不均等な力の行使」の件で有罪にするのだろうか?

「均衡」なる概念正義戦争という考えと密接に結びついており、それは1907年ハーグ会議で定められた交戦規定条約にて重要視されている。しかし現在よく知られるように、「均衡」とはいささか不安定なアイデアだ。欧米の学説においては、それは2つの意味がある。(ひとつは)開戦にあたり、「jus ad bellum(武力行使に際し、許容可能な正当性)」、つまり大儀が力の行使を正当たらしめる、後に起こる良き事が不可避の痛みと破壊を上回らねばならない。(もうひとつは)交戦に際し、「just in bello(戦争において許容できる行動)」、すなわちいかなる行動も民間人に対する害と等しいだけの軍事的勝利しか許されないという事だ。

人権法の発展には「just in bello」の考えが重要であった。1949年ジュネーブ会議では、主に国家間の紛争における民間人保護の議題が扱われ、1977年には内戦での取り扱いも明白に含むべく、改定された。イスラエルアメリカ後者の協定を批准していない。とはいっても、具体的・直接的軍事目的との兼ね合いをはるかにしの民間人の死や負傷・資産破壊といった偶発的損害を招くような行動を軍隊が避けなければならない、という原則に対して心底疑いを持っているわけではない。

それぞれの紛争に特有の曖昧さが、議論の焦点となる。イスラエル民間人の死を避けるべく十分な努力を払ったか?パレスチナ側の警察官は戦闘員なのか?目的が十分な抑止力の回復だとしたら、イスラエルの圧倒的な軍事力は正当であり、ときには必要だった。イスラエルに言わせれば、意図こそが重要なのだ。イスラエル民間人の死を回避すべく努力するのに対し、ハマスロケット弾で故意にイスラエル民間人を殺そうとする。ただ、ハマスのやり方が相対的に効果がないだけだと。ハマスは2つの点で反論する。均衡しえないくらい弱い側、つまりパレスチナ側は母国をイスラエルの占領から解放するという目的のために荒削りな手段しか取れない。また、ほとんどのイスラエル人が軍務に服するので、イスラエルには民間人はいないという論法をハマスはしばしば口にし、これはさらなる議論の対象となっている。

「just ad bellum」と「just in bello」を分けるのは難しい。無差別殺人戦争の正当性に大きな影響を与える。。そして戦闘における「均衡した」行動でさえも、ひとたび戦争そのものが不正だとみなされれば、非難される。イスラエルパレスチナ関係においては、合法性に関する議論はたやすくそれぞれの歴史に帰結する。お返しの始まりがハマスロケット攻撃なら、イスラエルには自衛の権利がある。1948年イスラエルが生まれた時、パレスチナの占領・資産没収があったから、抵抗の権利があるとパレスチナ人は主張する。「均衡」いかんに関わらず、論争が収まるまで無垢の人々が死んでいくのだろう。

2008-11-05

日本は侵略国家であったのか」を読む 補遺

http://anond.hatelabo.jp/20081101232814

 こんにちは元増田です。

 その後、台湾外交部からも抗議声明が出されたようです。

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20081102-OYT1T00492.htm

 しかし、田母神氏ご本人は、「誤っているとは思わない」「(論文の内容について)今でも間違っていない」、

http://www.asahi.com/national/update/1103/TKY200811030159.html

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081103-OYT1T00526.htm

とおっしゃっておられるようであり、

近現代史の一面的な見方を見直そうという動きが各方面から起きていたが、その象徴的論文

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081103/plc0811031834005-n1.htm

という新聞もあるので、ネット上にある反論ソースをあげておくのも意味ないことではないと思い、対中外交について落ち穂拾いをしてみます。今回もネット上にあるものだけを参照しており、私はこの時代の一次史料を読んでいませんので、「ちらしのうら」であることに変わりはないですが、根拠を何も示さない所論よりはましだと思っています。

日本は・・・(中略)・・・相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない」のか

見出し引用の出所は、田母神俊雄日本は侵略国家であったのか」2008年

http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf

それでは、公開されている次の論文を紹介する形で反論します。

古屋哲夫「対中国政策の構造をめぐって」『近代日本における東アジア問題』古屋哲夫山室信一編、吉川弘文館2001年、をPDFHTML化したもの(単行本にはあたっていないことをおことわりしておきます)。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/pdf/75.PDF

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 まず、日露戦争後の日本中国権益についてみてみましょう。そもそも初期条件は清の関与できない日露両国の話し合いで設定されました。

日露講和条約によって日本が獲得した在満権益とは、ロシア権益の残りの期間を、「清国政府ノ承諾」を条件として、譲り受けたものであり、具体的には 1923年大正12)に満期となる(露清原条約の期限が25年)遼東半島租借権と、運転開始から36年後の1939年昭和14)年に中国側に買戻権が生ずる南満洲鉄道経営権を中心とするものであった。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 清の事後的同意が必要とされたこと、租借権と経営権には期限が設けられていたことは留意されるべきでしょう。

 後の関東軍へとつながる駐兵権の話も、この段階で出てきます。

それは清国の了解なしに、その主権を侵害する鉄道守備兵駐兵権を設定したものであった。それは現に軍隊存在しているという既成事実を権益に転化させようとするものであり、日露両国は清国の主権侵害の共犯者となったことを意味し、また、以後の満洲支配についての日露共同行動の可能性をしめしたものでもあった。ところで講和条約ロシアから日本への権益の移転譲渡は、「清国政府ノ承諾」を条件とするとしており、それにもとづいて、1905年11??12月にそのための北京交渉が開かれたが、そこで清国側がもっとも強い反発をしめしたのは、この鉄道守備隊の問題であった。・・・(中略)・・・結局この問題は日本側が、ロシアが撤兵を承諾したときには、日本も同様に撤兵するという条件を付けただけで押し切ってしまうが、小村寿太郎全権は、ロシアの撤兵など起こりえず、したがって日本の撤兵もありえないものと考えていた(5)。この鉄道守備兵が、租借地守備兵とともに、後の関東軍を構成することとなる。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 先に既成事実があって後に法的に問題を確定させようとしていることは留意されるべきでしょう。

このようなやり方が、相手側に不満を生じさせ、後の紛争の種となるのも当然でしょう。

日露講和後の清国に対する交渉において、もっとも紛糾したのは、前述の駐兵権問題についで鉄道権益をめぐる問題であった。・・・(中略)・・・その結果、1905年12月に調印された、「満洲ニ関スル日清条約」(実質的内容は附属協定)では、吉長線も新奉線も協定附属の取極に譲らざるをえず、前者は清国の自主建設により、資金の不足分を日本からの借款による、後者日本から清国に売渡し、その改築のための費用を日本より借り入れる、という譲歩をよぎなくされている。結局協定本文には、安奉線が残されただけとなったが、これも軍用軽便鉄道商工業用に改良することは認めるが、18年後には清国に売り渡すべきことが規定されていた。それは安奉線についての日本の権利が、長春旅順間の鉄道とは全く異なるものとして協定されたことを意味していたが、日本側、とくに現地の実権を握る陸軍は、条約には目もくれず、安奉線を駐兵権や附属地を持つ満鉄の支線とすることを 実力で押し切ろうとしていた。

 実際に、満洲よりの日露両軍の撤兵期限である1907年明治40)4月になると、遂に、安奉線上の本渓湖の市街に新たに日本軍が進出し、同時に日本警察官出張所が設置されたとして、清国側からの抗議が提出された。これは前年8月陸軍が主導して在満権益を管轄するために設立された関東都督府(都督は陸軍大将または中将、初代は 大島義昌大将)が、既成事実を作り出しはじめたことを意味した。そして外務当局もこれを追認する態度を示している。日本側のやり方を条約違反とする清国の抗議に対して、同年5月18日林董外相は、安奉線は満鉄の支線であり、守備隊の駐屯や警察官派遣の権利も満鉄と同様だとの態度をとるよう奉天総領事に指示している(7)。それは条約よりも既成事実押し通せ、ということであり、対満洲政策の一つの性格が早くも形作られつつあったことを示している。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 上記のような「条約よりも既成事実押し通せ」という態度は、国際法にのっとった正当なものと言えるでしょうか。

軍と外務当局との関係については、一致することも異なることもあったでしょうが、ここでは両者ともに既成事実化をはかっています。

軍だけに責任を負わせることはできません。

安奉線が朝鮮半島満洲を直結するものとして重視されたことはいうまでもないが、日本側は他面では、韓国北東部に隣接し多数の韓国人が居住する間島地方に、領事館及分館を設立して、韓国人に対する領事裁判権を行使することで、日本の勢力を浸透させることを企図していた。そして清国側が容易に実行しないことを予期しながらも、日本希望を記録しておく意味で、前記「間島ニ関スル協約」に、清国が吉林から間島を経て韓国北部の会寧に達する鉄道建設する際には、吉長線と同一の弁法によることという一項を押し込んでいる。しかし中国側は辛亥革命後も、一貫してこの吉会線構想を拒否しており、満洲事変以前には交渉が成立する見込みさえも立たなかった。

 つまり、日露戦後の対中国政策は、その基礎に、「交渉」によっては解決しえない部分を抱えこむ形で出発しているのであり、この時点においてすでに、中国との平穏な交渉によって、利権拡張を図ることは不可能になっていたと言える。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 ここまであげてきた行為から、相手国の了承などどこ吹く風といった態度があったことは明らかではないでしょうか。

 つづいて、中華民国期に入ります。

ところで日本が主導しえなかったこうした〔引用者注辛亥革命以後の〕経過の中でも、日本の対中国政策のなかに、様々な特徴が蓄積されてくる点に注目しておかなくてはならない。その第一は、中国全体の情勢を制しえないならば、むしろ分裂を促進して日本が操作しうる地域を造りだそうという発想が生まれてきたという点である。たとえば、在清国公使伊集院彦吉は、1911年10月18日の時点で、清朝にもはや中国全土を統治する力はないとして、「中清ト南清ニ尠クトモ独立ノ二ケ国ヲ起シ、而シテ北清ハ現朝廷ヲ以テ之カ統治ヲ継続セシムヘシ」「何レノ途北清ノー角二清朝ヲ存シ、永ク漢人ト対峙セシムルハ帝国ノ為得策ナリト思考ス(10)」 との意見外相におくり、さらに11月19日になると、清朝の情勢がより困難となりこの三分案の見込みもうすれたとし、第二案として清朝をして「十八省以外満蒙等ノ地域」に国を保持させる、それも駄目で清朝滅亡の際には第三策として新共和国首都を武昌など中国中央に置かしめ「満蒙ノ地域ヲ遠ク辺外二置キ漸ク閑却セシムル(11)」との意見を具申している。それは親日地域の確保のための中国分割という発想に行き着くことになろう。さらに翌12年2月になると、いわゆる大陸浪人川島浪速らが、参謀本部関東都督府と連絡しつつ、北京より脱出させた清朝親王を擁し、蒙古の王公らをも参加させて、満蒙独立国を造り出そうとする画策が実際に行われるに至っている。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

ここでは、一外交官、一大陸浪人の例しかあげられていませんが、後にみるように、国の分裂を促進させようというのは国の政策となっていくのであり、その萌芽がみられることは留意しておくべきでしょう。また、ここでも軍のかかわりがみられるようです。もちろん、他国を分裂させようというのは、相手の了承を得た、国家間の条約を尊重する態度とは言えないでしょう。

この間〔引用者注革命後、1910年代前半の中国情勢の混乱〕に付加された対中国政策における第二の特徴として、中国現地において日本軍人が侮辱されたと日本側が解釈した場合には、「原因の如何にかかわらず」、中国側に責任者の処罰と謝罪を行わせて、日本軍威信を守るという方式が打ち出されてきたことに注目しておかなくてはならない。いわゆる第二革命の 時期に、日本人が被害を受けたとする、漢口・エン州・南京の三事件がおこっている・・・(後略)・・・

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 漢口事件について、古屋論文に基づき、要約します。

 まず、陸軍少尉中国軍の制止を無視して戒厳地区に進入し、一時抑留されました。

 軍からの報告は、「無抵抗の西村少尉らが、理由もなく暴行を受け、軍服をぬがされるなどの侮辱を受けた」というものでしたが、日本の総領事は「これを信用せず、自ら調査して西村らの横暴と暴行について牧野伸顯外相(第一次山本内閣)に報告」しました。しかし、「陸軍中央部は、現地の調査も行わずに、「日本将校凌辱事件」として」、謝罪と賠償利権を要求し、結果として中国側に処罰・謝罪させたものです。

 古屋論文は、このような事例が満洲では蓄積されていたであろうことを指摘し、「このような先例の蓄積は、「日本軍威信」の確保を第一義とするという条件によって、日本の対中国政策が実質的に拘束されるようになってゆくことを意味していた。そしてその翌年の第一次大戦への参戦は、対中国政策にさらに決定的な影響を及ぼすこととなった」と評価しています。

 交渉ごとにおいて、譲歩できないものを必要以上に多くすることは、カードの手札を事前に少なくしているのと同じではないでしょうか。

 つづいて、第一次大戦下の部分をみていきましょう。

第一次大戦下で目に付くのは、前述した鉄道付属経営権や、軍の威信を確保する事件解決方式など、条約面に現れない既得権の高圧的行使や、軍を背景とし、あるいは軍に依拠した陰謀的行動の横行であった。とくに袁世凱が自派による帝政運動組織し、1916年1月1日帝位について洪憲元年と称したのに対して、反対派が第三革命に立ち上がるという事態に対応して、大隈内閣が反袁運動支援の方針を決定したことは、こうした傾向を著しく促進することになった・・・(中略)・・・この〔引用者注内閣の〕方針は具体的には「適当ナル機会ヲ俟テ南軍ヲ交戦団体ト承認スルコト」などをあげているが、実際には山東に居座った日本軍(侵攻以来ワシントン会議後 まで7年以上駐留)や、満鉄守備隊を含む関東都督府の現地軍が関与あるいは支援したことが、最も重要であったと見られる・・・(中略)・・・大隈内閣の反袁政策は、結局のところ、現地日本軍と其の周辺の日本人の横暴への反感を広めただけに終わったようにおもわれる・・・(中略)・・・第一次大戦下の日本の対中国政策は、侵略性の膨張として特徴づけることができるが、列強のすべてが参戦し、中国に手を出すいとまがないという条件のもとで、初めて実現したものであり、従って戦争の終結とともに転換を迫られることは必至であった・・・(中略)・・・日本軍は、青島を攻撃・占領する以前に、ドイツ兵に守られているわけでもない中独合弁の私立会社経営する山東鉄道を占領(26)しているのであり、日本の参戦がたんにドイツ軍事力の打破のみでなく、新たな権益の獲得を目指していることは明らかと見られた。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 ここでは、中国の内部分裂を促進させる政策を内閣採用しています。政治が、権謀術数やパワーゲームというのはその通りなのかも知れませんが、これに対する中国の、その民衆の反発は至極まっとうなものでしょう。ベルサイユ講和会議における中国の要求が退けられたことから、五四運動へとつながります(中国ベルサイユ条約への調印を拒否しました)。周りにいくら根回しをしても、当事者同士に納得が得られなければ物事は進みません。

 そして、アジアの国際秩序について話しあわれたワシントン会議では九か国条約が結ばれます。

中国政策全体は、領土保全・門戸開放・機会均等というアメリカの主張を柱とする九か国条約規制されることになり、そこには勢力範囲政策を排除することも明文化されていた。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html


 このような流れのなか、詳細は省きますが、古屋論文では、「国際的に通用しなくなって」きた「特殊権益」、「勢力範囲」にかわり、「満蒙治安維持」という、関東軍の謀略による満洲事変につながっていく「政策理念」が出てくるとされます。

しかしそれ〔引用者注:満蒙治安維持〕は、他国の一部を自国の利益に従属させるという点では、勢力範囲と同じことであり、中国との対等の関係確立するためには、破棄しなければならない要求であった。しかしそのことは、幣原外交においても、ほとんど意識されることはなかったように思われる。

 それは幣原外交もまた、国民の対中国意識のあり方に規制されていたということであろうか。第一次大戦中に強められ広められた中国に対する侮蔑を基礎とする優越感は、大正デモクラシーによっても解体されることはなかったし、さらにその基底では、満蒙を20万の将兵の血と20億の巨費であがなわれた明治天皇の遺産とみる天皇制意識が形成され、大衆呪縛していたことであろう。現地軍における統帥権独立と、国内における大衆中国侮蔑感とは、対中国政策の構造的改造を困難にするものであった。そしてその大衆意識は、満洲事変への共鳴板として鳴りはじめ、状況を一挙に転換させることになるのであった。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 ここまでみてきたような、日露戦争から満洲事変にいたる流れをおさえてなお、「相手国の了承を得」た、「条約に基づいた」と表現することが妥当なのでしょうか。ご覧の通り、日本大陸政策に対する軍の関与は明白ですが、まさか防衛大を卒業された方がこの程度の知識をご存知ないとは思いませんので、あの「論文」の内容とどのように整合性をとられているのか興味深いところです。

 さて、このように、一つの論文をみて、「論文」の一部の所説を検討するだけでも結構な手間がかかります。歴史勉強はそれほど甘くはありません。粗雑な「論」を示して誤りはないと言われても困ります。また、「事実小説より奇なり」ということもありますし、歴史学においては、「神は細部に宿る」こともあるので、個人の感覚からおかしいと言うだけでは有効な批判にはなりません。また、学問においては、勉強が足りずに事実認識が間違っているのは、明らかに勉強が足りないことに非があります。今は勉強不足で根拠が示せないというのであれば、その主張は根拠がないゆえに認めれらないのです。いつか証明されるのかもしれませんが、そのときが来るまでその主張に強度はありません。

 ところで、古屋論文の最後に、「国内における大衆中国侮蔑感」の問題が出てきました。今もまた、中国に対する偏見百害あって一利なしであり、中国の実態を虚心にみつめ、評価しなければならない、と私は考えています。

 その意味で、中国の民衆運動について、興味深い論文をみつけたので最後に紹介します。

しかし,中国民衆のナショナリズムとは,つねにそうした「暴力」をともなうものとしてしか実現されなかったのであろうか。そこには多くの場合,「暴力」の受け手の側からするバイアスがかかってはいないだろうか。一昨年の,「反日デモ」についての日本マスコミ報道が,デモの「被害」を強調し,一面的な批判に終始したことも想起される。「歴史」と「現在」を同時に射程に入れねばならない現代史研究者にとって,そして,民衆の運動対象であったわれわれ外国研究者にとって,必要なのはこうしたバイアスを克服し,実証的に中国の民衆のナショナリズムの実態を注視することではないか

江田憲治「民衆運動ナショナリズム1925年の五・三〇事件を手がかりとして―」『現代中国研究』21、2007年、27-28ページ。http://modernchina.rwx.jp/magazine/21/eda.pdf

 私はこの問題意識に全面的に賛同し、実証的な近現代史の議論が進められることを希望するものです。

またしても、このような長文をお読みになってくださった方に感謝します。

 
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