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2019-06-08

スポーツを考えた人たち

ラグビー

ウィリアムウェブエリス

1806年まれイギリス出身

1823年、パブリックスクールラグビー校で行われていたフットボール試合中に、エリスボールを持って走り出した。

このエリスの反則行為こそがラグビー起源である、という説が広く知られている。

当時、イギリス各地のパブリックスクールでは、それぞれにルールの異なるフットボールプレイされており、

そのなかでラグビー校で行われていたフットボールこそが、後のラグビーに多大な影響を及ぼしたこと事実であるが、

エリスエピソード自体一種神話であり、本当の出来事だったという証拠は見つかっていない。

とはいえ、他に名の知れた人物がいないこともあり、ラグビー発明者と言えば、いまでもエリスが挙げられるのである

ラグビーW杯トロフィーは「ウェブエリスカップ」と呼ばれる。

野球

ウィリアム・ウィートン。

1814年生まれアメリカ出身

野球の原型は、クリケットラウンダーズ、あるいはタウンボールといった競技だとされるが、

それを現代的な「ベースボール」に仕立てあげたとされる人物は何人か挙げられる。

1907年、「南北戦争英雄であるブナー・ダブルデイ将軍が、1839年クーパーズタウン野球を考案した」との調査結果が発表された。

この説は長く信じられており、クーパーズタウンには野球殿堂が建てられたが、やがて全くの無根拠であったことが明らかとなった。

次に、1842年にベースボールチーム「ニッカボッカーズ」を設立した、アレクサンダー・カートライトが「野球の父」として知られるようになった。

ニッカボッカーズが1845年に明文化した「ニッカボッカールール」が現代野球の元になったとされているからだ。

ただ、1857年ニッカボッカーズが野球の人数(9人)・イニング数(9回)・塁間(90フィート)を定めたとき

カートライトは既にニッカボッカーズを離れており、ドク・アダムスがチームのリーダーとなっていた。

アダムスはその後、1858年から1862年まで全米野選手協会に参加し、ルールの整備を主導していた。

そして、最近研究によると「ニッカボッカールール」は、別のチームであるゴッサムクラブ」のルールを受け継いだものだとされている。

ゴッサムクラブルール制定に携わり、それをニッカボッカーズに持ち込んだのがウィリアム・ウィートンだった。

サッカー

ベニーザー・コブ・モーリー

1831年まれイギリス出身

弁護士となってロンドンに出てきたあと、1862年バーンズフットボールクラブ設立した。

1863年、彼は新聞寄稿し、フットボールルール統一、およびそれを行うための団体設立提案した。

同年、各地のフットボールクラブパブリックスクール代表ロンドン居酒屋会合し、

ザ・フットボール・アソシエーションFA)が設立された。

モーリーFA書記に任命され、「ロンドンルール」と呼ばれる統一ルール草案を作りあげた。

このときボールを持って走ってはならない」「相手のスネを蹴ってはならない」というルールが導入され、

それに反対するフットボールクラブFAを脱退して、代わりに「ラグビーフットボールユニオン」を1871年設立した。

これによりアソシエーション・フットボールサッカー)とラグビーフットボールとが分立することとなったのである

また、モーリー統一ルールに基づく世界初公式試合プレイヤーの一人でもあった。

これらの功績により、モーリーは「現代サッカーの父」とみなされている。

テニス

ウォルター・クロプトン・ウィングフィールド

1833年まれイギリス出身

軍人であると同時に発明家でもあった彼は、

それまで室内で行われていたテニスを芝生の上で行う「ローンテニス」を考案して、1874年特許を取得した。

ラケットネットなどをワンセットにして「スフェリスティキ」と名付けて売り出し、大成功を収めた。

ローンテニスは急速に普及し、1877年には第一ウィンブルドン選手権が開催された。

当時、芝生でテニスを行う試み自体はいくつかあったものの、発明者としての名声はウィングフィールドに帰せられている。

アメリカフットボール

ウォルターキャンプ

1859年生まれアメリカ出身

当時、アメリカ各地の大学バラバラだったフットボールルールを、

ラグビーベースにしたもの統一しようという機運が生まれたことで、

1876年に「アメリカ大学フットボール協会」が設立された。

そして1880年会議において、イェール大学主将だったキャンプは、

フィールドプレイヤーを15人から11人にまで減らし、

さらに「スクラム」をやめて「スクリメージ」を導入することを提案した。

1882年に導入された「ダウン」制と合わせて、ここにアメリカフットボールの基本ルールが完成した。

彼はその後も、アメフト黎明期におけるルール整備の中心人物だった。

このためキャンプは「アメリカフットボールの父」と呼ばれている。

バスケットボール

ジェームズ・ネイスミス

1861年まれカナダ出身

1891年マサチューセッツYMCA非常勤体育教師となった。

冬季に屋内でプレーできる学生向けのチームスポーツとして、

サッカーラグビーラクロスなどをベースに、ネイスミスは新しく安全競技を案出した。

まず柔らかいサッカーボール使用し、

激しい接触プレーをなくすためにボールを抱えて走ることを禁止し、

さらシュート身体で防ぐ必要がないようゴールを頭上に設置した。

ゴールには桃の籠を使ったので「バスケットボール」と名付けられた。

現在、全米大学男子バスケの年間最優秀選手賞にその名が冠されている。

バレーボール

ウィリアム・G・モーガン

1870年まれアメリカ出身

1891年ジェームズ・ネイスミスに誘われて、彼の勤めるYMCA入学した。

卒業後は体育教師となり、別のYMCAに勤務した。

1895年モーガンバスケットボールよりもさら安全な屋内競技として、

テニスバドミントンハンドボールなどの要素を混ぜ合わせてバレーボールを考案した。

当初はバドミントンから取って「ミントネット」という名前だったが、

試合を見ていた教授がこれを「ボールをボレーする競技」と看破して

「ボレーボールバレーボール)」という名称提案した。

2018-11-03

韓国の88歳の大学教授ハングルで書いた文章です。日本語訳します。

韓国の88歳の大学教授ハングルで書いた文章です。日本語訳します。

http://yeoksa.blog.fc2.com/page-0.html

"私は88才です。 もう事実を話したいと思います。" [チェ・キホ伽耶大学客員教授]

朝鮮末期の私は1923年の生まれです。もう韓国のためでも、日本のためでもなく「事実」を話したいと思います

それは相当な覚悟必要です。生命危険覚悟していますしかし、これは私の使命であると信じています

私はソウルに住んでいました。 そして、時々、平壌東京に行きました。

その当時の韓国人は「日本人以上の日本人」でした。劇場に行けば映画の前に、戦争ニュースがありました。

例えばニューギニア日本が勝った映像が流れ、拍手万歳暴風雨でした。

私は映画が好きで、東京にも行きましたが、日本人は冷静でした。

しかし、韓国人は全員が狂ったように喜んでいました。 それが普通の姿でした。

なので「親日派」という言葉使用できません。その「使用できない言葉」を使って、先祖まで批判しています

「親切でやさしい日本人」という印象を、必死に消すために「反日」を指導者はそそのかしてきました。

韓国日本歴史教育比較すると、日本10%の歪曲といえば、韓国は90%が歪曲です。

朝鮮末期の正常ではないで政治腐敗を教えず、日本が関与しなければ独立ができたことのように使われています

韓日合邦によって「教育」医療」 「工業」 「社会インフラ」が整備されました。

近代国家の基礎が出来たことは明らかな事実です。

その実績を「日本帝国主義の侵略政策産物だ!」と糾弾する韓国にはあきれます

より一層「日帝民族産業を停滞させた!」という主張にはコメントする気持ちもなくなります

民族産業を殺したのは、朝鮮王朝です。 近代化を主張する先進的な思想家は反逆者とし、親族までも処刑されました。

韓国人は「日帝虐待! 性奴隷!」と叫んでいますが、私は信じることができません。 歴史真実を知っているためです。

朝鮮末期は「地獄」でした。 それは大韓帝国時代になっても同じでした。

1904年日本朝鮮惨状を救うために、財政支援決断します。

例えば1907年度、朝鮮王朝の歳入は748万円だったが、歳出は3000万円以上でした。

その差額は日本負担していました。 1908年にはより一層増加し、3100万円を支出しています

現在88才の老人の絶叫です。 どう思われますか?

2017-05-19

朴 泳孝(ぼく えいこう、박영효(パク ヨンヒョ)、1861年7月19日 - 1939年9月20日)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家で、日本統治時代朝鮮における貴族実業家日本名山崎 永春。

目次 [非表示]

1 生涯

2 家族

3 その他

4 登場するテレビドラマ

5 脚注

6 出典

7 関連文献

生涯[編集]

判書大監朴元陽の子として京畿道水原生まれる。金玉均らと共に開化党(独立党)を結党した。光緒5年(1879年)、金玉均らと共に李東仁を日本に密出国させ、日本の情勢を探らせた。福澤諭吉支援を受け、光緒8年(1882年)、壬午政変(壬午軍乱)の謝罪のために派遣された謝罪使(副使は金晩植と金玉均であった[1])として日本に向かう船上で、現在大韓民国国旗である太極旗デザインを考案したとされる。朴泳孝が日本派遣された4ヶ月間のことを記した日記『使和記略』によると、8月9日仁川から日本船籍明治丸に乗り日本へと向かった朴泳孝らは、船内でイギリス領事アストンイギリス人船長ジェームスにそれまで国旗として提案されていた八卦太極文様を描いた古太極図を見せて国旗について相談したところ、船長八卦が複雑で区別しにくく他国がこれを見て作るのに不便であると述べたため、四卦を削り、残りの四卦を45°傾けて四隅に配した図案が提案され、大・中・小3本の太極旗が作られたという。8月14日神戸に到着した一行は宿泊した西村屋にはじめて太極旗を掲げ、8月22日太極旗小本とともに国旗制定を本国に報告したという。

帰国後は漢城判尹となり、開化政策を進めるが守旧派事大党)の反対に遭って挫折さらに光緒10年(1884年)12月にはクーデター閔妃から政権奪還を図ったが失敗(甲申政変)、日本郵船の「千歳丸」で日本亡命慶應義塾に隣接していた福沢邸に寄食し、転じて神戸に居を構えた。

光緒20年(1894年)に甲午改革が始まると、帰国して内務大臣となり、改革の中心的な役割を果たすが、開国504年(1895年)に謀反の疑いをかけられ、再び日本亡命した。その後光武11年(1907年)に再度韓国に戻り、李完用内閣宮内大臣となったが、大臣暗殺陰謀の疑いで済州島流刑処分とされた。

隆熙4年(1910年)の韓国併合後には侯爵朝鮮貴族)となり、朝鮮貴族会長1911年)、朝鮮銀行理事1918年)、朝鮮経済会長1919年)、朝鮮維民会会長1919年)、東亜日報社初代社長1920年)、朝鮮人産業大会会長1921年)、朝鮮倶楽部の発起人(1921年11月)、京城紡績社初代社長朝鮮殖産銀行理事朝鮮総督府中枢院顧問1921年)[2]、東光会朝鮮支部初代会長1922年)、貴族院議員1932年)など、日本統治下の朝鮮における要職歴任した。昭和10年(1935年)、 朝鮮総督府編纂した"朝鮮功労者名鑑"に朝鮮人功労者353人のうちの一人に収録されている。

2016-07-07

銀行はなぜ合併しなければならなかったのか

江戸時代日本は米・金・銀という三種類の通貨システムを平行して扱っていた。徳川幕府諸侯領(明治時代以降藩と呼ばれるようになるやつ)が入り乱れた連合国家であった。諸侯領間における政治経済システムの違いは大きかった(要するに戦国の遺風を引きずった藩とそうでない藩があった)。上記のような事情があった結果金融業の発達は著しく、幕末には多くの諸侯がこうした金融業者の支配下に置かれるありさまだった。

明治政府戊辰戦争後、

などといった問題対処するために、新貨条例および国立銀行条例が制定した。これらの制度

というなにがなんだか分からない制度になっていた。しかしこれは当時の国際情勢を考えると仕方がない話で

といった状態で、日本近代金融システムを構築するにあたって模範とすべき制度はまだなかった。結果アメリカを真似して兌換券の分権的発行を主軸とする制度が作られた。このため各地に割拠していた金融資本国立銀行への転換が進んでいった。

しか殖産興業の進展、西南戦争による莫大な戦費などといった問題対処するために、不換紙幣の発行を国立銀行に認めるに至った。

結果インフレなど金融システムの混乱が見られたため、ここにアメリカ型分権型金融システムには限界があることが明らかになり、日銀法と旧銀行法が導入されイギリス式中央銀行制度が導入されることになった。これが 1882 年。

このような経緯があったため、金融資本の再編といった事態にまでは話が進まず、そのまま第一次世界大戦関東大震災突入する。戦争景気による企業の無理な業容拡大と戦後景気後退震災によって銀行には不良債権が蓄積された。

上記のように各地に雑多に存在する金融資本江戸時代のそれを引きずっていたため近代銀行としては規模が小さく、これによって金融不安が高まり昭和金融恐慌に至った。これが 1927 年(1929 年や 1930 年ではない)。

その状態さらに 1929 年 1024 日はやってきた。 1930 年にはその影響が日本にも及ぶに至った。

かかる状況の中で昭和二年旧銀行法改正により 1927 年から中小銀行の整理が進められていたが、 1936 年馬場鍈一大蔵大臣により「一県一行主義」が掲げられた。馬場大蔵大臣としては失格者で財界との対立の結果大蔵大臣から放逐され憤死することになるのだが、翌 1937 年に日中戦争が開戦、日米開戦もほぼ既定路線となるなかで一県一行主義継続され日米開戦のころには中小銀行の整理は完了した。

こうした集権的かつ計画的経済運営にあたったのはいわゆる革新官僚たちで、その親玉吉田茂だった。彼らは社会主義的な経済思想国家主義的な政治思想を併せ持っており、戦中戦後日本の内政を主導した。

全然関係ない話だが、社会主義国家主義反自由主義という思想セットは革新官僚リーダーの一人である岸信介の孫の安倍晋三にも受け継がれていることはよく指摘される。

戦後岸が政界進出したこともあり、結果として一県一行主義体制および統制的な銀行体制はほぼそのまま戦後に引き継がれることになった。もちろん建前上は一県一行主義廃止され、戦後資金流通の円滑化のために戦後地銀いくら設立されたが大勢に大きな影響をあたえることはなかったのだった。

このような情勢のなかで、戦後日本金融当局==大蔵省銀行に対して

  • とにかく安定して資金供給を行うこと
  • 間違っても競争などしないこと

を求めて各種の行政指導や各種許認可を縦横にもちいて銀行群をコントロールした。これをいつしか護送船団方式と呼ぶようになっていた。

これは実際うまくいっていた。バブル崩壊までは。バブル崩壊の余波は大きく、護送船団方式では銀行を守り切れないことは明らかになっていた。 1995 年には木津信用組合兵庫銀行倒産するに至った。

また長らくの護送船団によって日本金融システム陳腐化は著しく国際社会において東京金融都市としてまったく影響力が無い点も問題とされた。

これらの問題対処するためとして金融ビッグバンと称し護送船団は解体されてしまった。銀行はここに自由サービス投資を行えるようになった。

ところで足元の経済情勢を見るに 1993 年から 1996 年にかけて経済成長率は 2-3% を維持しており、ここに橋本総理大臣バブル崩壊による不景気は終了したという判断をするに至った。また 1995 年には武村正義大蔵大臣により「財政危機宣言」が出されており財政再建を開始すべきという機運が高まっていた。

そこで橋本内閣は 1997 年、消費税増税などを含んだ超緊縮予算を成立させる。これが大失敗であった。緊縮財政により景気は悪化金融システム不安は再発し北海道拓殖銀行山一證券破綻、翌 98 年には橋本内閣総辞職現在まで続く長い長い不景気が始まった。

しかしここに至って護送船団方式の再開は難しく、銀行はノーガードで野に放り出されてしまった。かかる状況のなかでは銀行経営効率を上昇させるような積極投資は難しいことは明らかで、銀行合併による規模の拡大によって身を守るという手段をとらざるを得なかった。

結果生まれたのが三大メガバンクである。このような事情によって、消極的理由で成立した合併であるから当事者たちは乗り気であるはずもなく、旧来の自己立場防衛のために果てしない内紛が始まることは、それはもう仕方のないことだったと言えるのではないか

そのような事情の中で銀行システムの開発にあたる SIer技術者は内紛の道具の一つとなり疲弊を重ねている。

僕が言いたいことは何か。誰か頭が悪い人が一人いたからこのような状況になっているという訳ではないということ。むしろ一人ひとりができることを着実にやった結果がこうなのだということ。つまり、逆に言えばこの状況を解決する手段など無いということ。みずほ現場で苦しむエンジニアにできることは、逃げることだけだということだ。

2015-04-05

http://anond.hatelabo.jp/20150404225021

とりあえず東北大学がなんででっかいか要点を書きたいと思う。

日経産業新聞がどういう算出方法旧帝大を比べたかはわからないので適当に。

(1) 東北大学は実は「日本要衝」にある大学

意外に思われるかもしれないが、東北大学前身東北帝国大学帝国大学でも

第三の設立(参考:東北帝大1907年京都帝大1897年)で、

日本の国土のバランスから見て政策的に重要視されてきたことはまちがいない。

ここらへんの人材資源開発における地理的考慮戦前の方が緻密だったようである

国立大学法人化前の予算配分もその背景に基づき、現在もその財政規模を引き継ぐ。

(ちなみに、東北帝国大学と同時期に計画された九州帝国大学設立1911年。)

(2) 東北大学は附属病院の規模が大きい

国立大学法人化の際に附属病院には借金を割り当てられたため、

これを返済するためどこの病院稼働率を最大限引き上げるよう努力するようになった。

結果、法人化後はどこの国立大学でも附属病院財政比重が膨れ上がっている。

とりわけ医療過疎地の真ん中にある東北大は国立大学附属病院中で最大級であり、

ここでだいぶ予算規模を稼いでいる。

参考:病床数 東北病院1308床、京大病院1121床

しか利益大学還元されるというわけではない。)

(3) 国立大学財務諸表には科研費の額は計上されない

個々の研究者が獲得した各種の科学研究補助金については国立大学法人財務諸表には現れない。

科研費の受入額ではやはりというか東北大よりも京大の方が上である

ただ、設立時に「研究第一主義」を標榜した東北帝大の流れを汲み、

戦後は「実学尊重」を掲げてきた故か、額にそれほど大きな差はないことがわかる。

参考:平成25年科研費受入総額(間接経費を除く) 東北大学111億円、京都大学136億円

(4) 東北大学震災復興関係お金がたくさんある

すでにブコメに指摘があるように、震災復興関係研究事業の受入れや施設整備交付金

一時的に増加しているという要因もある。

最後に力尽きたのが見え見えだが、ざっとこのようなことが影響していると思われる。

いろいろ言われてはいるが、特に研究面では東北大学世界で戦えるレベル大学よ。

2014-10-04

従軍慰安婦”の給料を同時期の公務員比較する理由

強制連行だったのかどうかという話はここでは置いておくが、強制連行だったにせよ自由意志での志願だったにせよ『無給ではなく、給料が出ていた』という事実については衆目一致するところである

ではその給料はどの程度のものだったのか、という比較についてよく用いられるのは小学校教師か巡査初任給である

「なぜ公務員とばかり比較するのか不明である」と某所で書かれていた(そして実は、その『某所』がどこか忘れた)ので、その理由を書こう。

1.当時の日本で最も多いのは農民自営業者である、が……

 農民自営業者収入というのは天候や景気による変動が相当に多い上、必要経費などについて家内で処理される部分が多く、実態が把握しづらい。これは現在でも同じである

そういう理由で、『当時の一般的農民収入比較』というのは難しいのだ。出来れば、『毎月決まった給料を受け取る人』が良い。

2.”大卒”の価値が違う

 じゃあ大卒サラリーマン比較すればいいか、と言うとそれも違う。いやまあ、現在経済情勢で大卒正社員になれる人は少数で非正規雇用の方が多いだろう、という話は抜きにしてもだ。

人口の5割弱が大学に進学する現在と、人口の5%しか高等教育機関に進学していない戦前(旧制高校[現在大学前半の2年間]、実業専門学校などを含む)では

大卒サラリーマン価値比較にならない。戦前大卒というのは多くが公務員(現在の一種に相当するあたり)への就職が中心で、残りも三井三菱などの財閥本社に勤務するような、本当のエリートだった。

3.『定額の給料で働く人』『戦前でも戦後でも、相当の人数が必要だった職』は何か?

 となると、事務方ではなく現業公務員適当になってくる。それも、福祉国家化に伴って増えたような職ではなく、本当に近代国家ならある程度の人数を必要とするような職は何か?

となると……。結論としてはやはり、「小学校教師」もしくは「巡査」になる。何せ全国にたくさんの人数が必要なので『エリートしか採用しません』では人数不足になるから

社会でも『平均よりは若干上かもしれないが、エリートとまでは行かない』位置づけになるという点で戦前でも戦後でもおおむね共通している。なお、戦前日本小学校進学率は日露戦争後の1907年には99%となっている。

(ちなみに戦前小学校教師になる方法制度に多少の変遷はあるが、おおむね尋常小学校→高等小学校師範学校という進学ルートになる)

まあ、軍票で払われていて戦後紙くずになったとかそういう部分は別として、『額面を比較する上では』公務員比較するのはある程度妥当だ。

4.実際に換算してみた

http://chigasakiws.web.fc2.com/ima-ikura.html

http://www.geocities.jp/wiz_emerald/bukka.top.htm

上記リンクの上によると、昭和6年には小学校教員初任給50円であったという。現在だと地方による差もあるがおおむね22万円だろうから、とりあえず昭和初期の1円=現在の5000円として換算してみると

[サービス関係]

散髪代:40銭(2000円) 週刊朝日12銭(600円) 山手線の初乗り:5銭(250円) 地下鉄上野浅草10銭(500円) ハガキ:1銭5厘(75円) 新聞定期購読一月:1円(5000円) 上野動物園:大人10銭(500円)、子供5銭(250円)

[食品]

三等米を一斗(≒15kg):45銭(2250円) 盛りそば1杯:10銭(500円) 二等酒を一升(1.8L):1円80銭(9000円) 小麦粉100匁(375g):7銭(350円) 赤味噌100匁:7銭(350円)

[家賃宿泊]

東京での4畳半一間+2食付きの下宿代:16円50銭(82,500円)  東京府による簡易住宅(6畳間+4.5畳間の2間)の家賃:6円~9円50銭(30,000~47,500円)  湘南旅館宿泊料・1泊2食:5円~10円(25,000円~50,000円)

宿泊費と酒は高いが家賃は安い目。あとは現代の我々と比べても、数割はともかく桁が違うような誤差にはなっていないと思う。

2011-02-17

禁煙全盛期の現在ヒトラーの関係

現在日本も「健康国民の義務」の風潮になってきている気が

 

 

健康政策

ヒトラードイツ民族健康を守ることにも強い関心を持っていた。特に、1907年母親クララ乳癌で失ったヒトラーにとって癌の治療は特別な意味を持っていた。厚生事業のスローガンとして「健康国民の義務」を定め、喫煙に対しても反タバコ運動に積極的に行った。環境職場における危険を排除し(発癌性のある殺虫剤や着色料の禁止)、早期発見を推奨した医師はとくにタバコの害を熱心に訴え、彼らは世界で最も早く喫煙を肺癌と結びつけた[39]。

また、「健全民族未来女性にある」として女性の体育を奨励したことでも知られる。そのため現在ドイツでは、政府による過度の健康問題への介入や禁煙禁酒運動ナチズムを彷彿させるものとしてタブー視する傾向にある[40][41][42]。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC

2010-08-30

http://anond.hatelabo.jp/20100830224509

1905年9月ポーツマス条約調印、日露戦争終結。

11月、第二次日韓協約、外交権を剥奪し韓国保護国とする。

12月伊藤博文韓国統監を拝命。

1907年4月、林外相伊藤博文電信に、

 「韓国の形勢今の如くにして推移せは年を経るに従ふて『アネキゼーション』は益々困難なるに至るへし」と打電。

 (伊藤が即時の併合を主張したのか、あるいはロシア対策をめぐる内地向けのレトリックであったか、史家の解釈は一致しない。)

7月ハーグ密使事件、高宗退位。保安法制定、言論集会結社の自由を制限。

8月韓国軍隊を解散。

1908年4月、「適当の時期に於て韓国の併合を断行する」政府方針に伊藤が同意。

6月伊藤韓国統監を辞任。

10月伊藤暗殺

1910年8月韓国併合

  (参考資料 瀧井一博『伊藤博文』)

伊藤もはじめは併合に反対していた、ってよくいわれるけれど、

伊藤が死ぬ前に併合の方向は決定していたわけだから、暗殺事件そのものは、大勢を動かすものではなかったんでないか。

2009-01-12

何と釣り合うって?(The Economistより)

The Economistより:

いわゆる死者の算術において、現在イスラエルハマスの戦いは不均衡な様相を呈している。最初の4日間で、イスラエル空爆により350名以上のパレスチナ人が死亡し、その多くは民間人だ。ひるがえってハマスロケット弾は4人のイスラエル人を殺した。しかしこのような一方的な流血事態が、アムネスティ・インターナショナルや、もうすぐEU議長国の6ヶ月任期を終えるサルコジ大統領らが議論するように、イスラエルを「不均等な力の行使」の件で有罪にするのだろうか?

「均衡」なる概念正義戦争という考えと密接に結びついており、それは1907年ハーグ会議で定められた交戦規定条約にて重要視されている。しかし現在よく知られるように、「均衡」とはいささか不安定なアイデアだ。欧米の学説においては、それは2つの意味がある。(ひとつは)開戦にあたり、「jus ad bellum(武力行使に際し、許容可能な正当性)」、つまり大儀が力の行使を正当たらしめる、後に起こる良き事が不可避の痛みと破壊を上回らねばならない。(もうひとつは)交戦に際し、「just in bello(戦争において許容できる行動)」、すなわちいかなる行動も民間人に対する害と等しいだけの軍事的勝利しか許されないという事だ。

人権法の発展には「just in bello」の考えが重要であった。1949年ジュネーブ会議では、主に国家間の紛争における民間人保護の議題が扱われ、1977年には内戦での取り扱いも明白に含むべく、改定された。イスラエルアメリカ後者の協定を批准していない。とはいっても、具体的・直接的軍事目的との兼ね合いをはるかにしの民間人の死や負傷・資産破壊といった偶発的損害を招くような行動を軍隊が避けなければならない、という原則に対して心底疑いを持っているわけではない。

それぞれの紛争に特有の曖昧さが、議論の焦点となる。イスラエル民間人の死を避けるべく十分な努力を払ったか?パレスチナ側の警察官は戦闘員なのか?目的が十分な抑止力の回復だとしたら、イスラエルの圧倒的な軍事力は正当であり、ときには必要だった。イスラエルに言わせれば、意図こそが重要なのだ。イスラエル民間人の死を回避すべく努力するのに対し、ハマスロケット弾で故意にイスラエル民間人を殺そうとする。ただ、ハマスのやり方が相対的に効果がないだけだと。ハマスは2つの点で反論する。均衡しえないくらい弱い側、つまりパレスチナ側は母国をイスラエルの占領から解放するという目的のために荒削りな手段しか取れない。また、ほとんどのイスラエル人が軍務に服するので、イスラエルには民間人はいないという論法をハマスはしばしば口にし、これはさらなる議論の対象となっている。

「just ad bellum」と「just in bello」を分けるのは難しい。無差別殺人戦争の正当性に大きな影響を与える。。そして戦闘における「均衡した」行動でさえも、ひとたび戦争そのものが不正だとみなされれば、非難される。イスラエルパレスチナ関係においては、合法性に関する議論はたやすくそれぞれの歴史に帰結する。お返しの始まりがハマスロケット攻撃なら、イスラエルには自衛の権利がある。1948年イスラエルが生まれた時、パレスチナの占領・資産没収があったから、抵抗の権利があるとパレスチナ人は主張する。「均衡」いかんに関わらず、論争が収まるまで無垢の人々が死んでいくのだろう。

2008-11-05

日本は侵略国家であったのか」を読む 補遺

http://anond.hatelabo.jp/20081101232814

 こんにちは元増田です。

 その後、台湾外交部からも抗議声明が出されたようです。

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20081102-OYT1T00492.htm

 しかし、田母神氏ご本人は、「誤っているとは思わない」「(論文の内容について)今でも間違っていない」、

http://www.asahi.com/national/update/1103/TKY200811030159.html

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081103-OYT1T00526.htm

とおっしゃっておられるようであり、

近現代史の一面的な見方を見直そうという動きが各方面から起きていたが、その象徴的論文

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081103/plc0811031834005-n1.htm

という新聞もあるので、ネット上にある反論ソースをあげておくのも意味ないことではないと思い、対中外交について落ち穂拾いをしてみます。今回もネット上にあるものだけを参照しており、私はこの時代の一次史料を読んでいませんので、「ちらしのうら」であることに変わりはないですが、根拠を何も示さない所論よりはましだと思っています。

日本は・・・(中略)・・・相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない」のか

見出し引用の出所は、田母神俊雄日本は侵略国家であったのか」2008年

http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf

それでは、公開されている次の論文を紹介する形で反論します。

古屋哲夫「対中国政策の構造をめぐって」『近代日本における東アジア問題』古屋哲夫山室信一編、吉川弘文館2001年、をPDFHTML化したもの(単行本にはあたっていないことをおことわりしておきます)。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/pdf/75.PDF

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 まず、日露戦争後の日本中国権益についてみてみましょう。そもそも初期条件は清の関与できない日露両国の話し合いで設定されました。

日露講和条約によって日本が獲得した在満権益とは、ロシア権益の残りの期間を、「清国政府ノ承諾」を条件として、譲り受けたものであり、具体的には 1923年大正12)に満期となる(露清原条約の期限が25年)遼東半島租借権と、運転開始から36年後の1939年昭和14)年に中国側に買戻権が生ずる南満洲鉄道経営権を中心とするものであった。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 清の事後的同意が必要とされたこと、租借権と経営権には期限が設けられていたことは留意されるべきでしょう。

 後の関東軍へとつながる駐兵権の話も、この段階で出てきます。

それは清国の了解なしに、その主権を侵害する鉄道守備兵駐兵権を設定したものであった。それは現に軍隊存在しているという既成事実を権益に転化させようとするものであり、日露両国は清国の主権侵害の共犯者となったことを意味し、また、以後の満洲支配についての日露共同行動の可能性をしめしたものでもあった。ところで講和条約ロシアから日本への権益の移転譲渡は、「清国政府ノ承諾」を条件とするとしており、それにもとづいて、1905年11??12月にそのための北京交渉が開かれたが、そこで清国側がもっとも強い反発をしめしたのは、この鉄道守備隊の問題であった。・・・(中略)・・・結局この問題は日本側が、ロシアが撤兵を承諾したときには、日本も同様に撤兵するという条件を付けただけで押し切ってしまうが、小村寿太郎全権は、ロシアの撤兵など起こりえず、したがって日本の撤兵もありえないものと考えていた(5)。この鉄道守備兵が、租借地守備兵とともに、後の関東軍を構成することとなる。

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 先に既成事実があって後に法的に問題を確定させようとしていることは留意されるべきでしょう。

このようなやり方が、相手側に不満を生じさせ、後の紛争の種となるのも当然でしょう。

日露講和後の清国に対する交渉において、もっとも紛糾したのは、前述の駐兵権問題についで鉄道権益をめぐる問題であった。・・・(中略)・・・その結果、1905年12月に調印された、「満洲ニ関スル日清条約」(実質的内容は附属協定)では、吉長線も新奉線も協定附属の取極に譲らざるをえず、前者は清国の自主建設により、資金の不足分を日本からの借款による、後者日本から清国に売渡し、その改築のための費用を日本より借り入れる、という譲歩をよぎなくされている。結局協定本文には、安奉線が残されただけとなったが、これも軍用軽便鉄道商工業用に改良することは認めるが、18年後には清国に売り渡すべきことが規定されていた。それは安奉線についての日本の権利が、長春旅順間の鉄道とは全く異なるものとして協定されたことを意味していたが、日本側、とくに現地の実権を握る陸軍は、条約には目もくれず、安奉線を駐兵権や附属地を持つ満鉄の支線とすることを 実力で押し切ろうとしていた。

 実際に、満洲よりの日露両軍の撤兵期限である1907年明治40)4月になると、遂に、安奉線上の本渓湖の市街に新たに日本軍が進出し、同時に日本警察官出張所が設置されたとして、清国側からの抗議が提出された。これは前年8月陸軍が主導して在満権益を管轄するために設立された関東都督府(都督は陸軍大将または中将、初代は 大島義昌大将)が、既成事実を作り出しはじめたことを意味した。そして外務当局もこれを追認する態度を示している。日本側のやり方を条約違反とする清国の抗議に対して、同年5月18日林董外相は、安奉線は満鉄の支線であり、守備隊の駐屯や警察官派遣の権利も満鉄と同様だとの態度をとるよう奉天総領事に指示している(7)。それは条約よりも既成事実押し通せ、ということであり、対満洲政策の一つの性格が早くも形作られつつあったことを示している。

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 上記のような「条約よりも既成事実押し通せ」という態度は、国際法にのっとった正当なものと言えるでしょうか。

軍と外務当局との関係については、一致することも異なることもあったでしょうが、ここでは両者ともに既成事実化をはかっています。

軍だけに責任を負わせることはできません。

安奉線が朝鮮半島満洲を直結するものとして重視されたことはいうまでもないが、日本側は他面では、韓国北東部に隣接し多数の韓国人が居住する間島地方に、領事館及分館を設立して、韓国人に対する領事裁判権を行使することで、日本の勢力を浸透させることを企図していた。そして清国側が容易に実行しないことを予期しながらも、日本希望を記録しておく意味で、前記「間島ニ関スル協約」に、清国が吉林から間島を経て韓国北部の会寧に達する鉄道建設する際には、吉長線と同一の弁法によることという一項を押し込んでいる。しかし中国側は辛亥革命後も、一貫してこの吉会線構想を拒否しており、満洲事変以前には交渉が成立する見込みさえも立たなかった。

 つまり、日露戦後の対中国政策は、その基礎に、「交渉」によっては解決しえない部分を抱えこむ形で出発しているのであり、この時点においてすでに、中国との平穏な交渉によって、利権拡張を図ることは不可能になっていたと言える。

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 ここまであげてきた行為から、相手国の了承などどこ吹く風といった態度があったことは明らかではないでしょうか。

 つづいて、中華民国期に入ります。

ところで日本が主導しえなかったこうした〔引用者注辛亥革命以後の〕経過の中でも、日本の対中国政策のなかに、様々な特徴が蓄積されてくる点に注目しておかなくてはならない。その第一は、中国全体の情勢を制しえないならば、むしろ分裂を促進して日本が操作しうる地域を造りだそうという発想が生まれてきたという点である。たとえば、在清国公使伊集院彦吉は、1911年10月18日の時点で、清朝にもはや中国全土を統治する力はないとして、「中清ト南清ニ尠クトモ独立ノ二ケ国ヲ起シ、而シテ北清ハ現朝廷ヲ以テ之カ統治ヲ継続セシムヘシ」「何レノ途北清ノー角二清朝ヲ存シ、永ク漢人ト対峙セシムルハ帝国ノ為得策ナリト思考ス(10)」 との意見外相におくり、さらに11月19日になると、清朝の情勢がより困難となりこの三分案の見込みもうすれたとし、第二案として清朝をして「十八省以外満蒙等ノ地域」に国を保持させる、それも駄目で清朝滅亡の際には第三策として新共和国首都を武昌など中国中央に置かしめ「満蒙ノ地域ヲ遠ク辺外二置キ漸ク閑却セシムル(11)」との意見を具申している。それは親日地域の確保のための中国分割という発想に行き着くことになろう。さらに翌12年2月になると、いわゆる大陸浪人川島浪速らが、参謀本部関東都督府と連絡しつつ、北京より脱出させた清朝親王を擁し、蒙古の王公らをも参加させて、満蒙独立国を造り出そうとする画策が実際に行われるに至っている。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

ここでは、一外交官、一大陸浪人の例しかあげられていませんが、後にみるように、国の分裂を促進させようというのは国の政策となっていくのであり、その萌芽がみられることは留意しておくべきでしょう。また、ここでも軍のかかわりがみられるようです。もちろん、他国を分裂させようというのは、相手の了承を得た、国家間の条約を尊重する態度とは言えないでしょう。

この間〔引用者注革命後、1910年代前半の中国情勢の混乱〕に付加された対中国政策における第二の特徴として、中国現地において日本軍人が侮辱されたと日本側が解釈した場合には、「原因の如何にかかわらず」、中国側に責任者の処罰と謝罪を行わせて、日本軍威信を守るという方式が打ち出されてきたことに注目しておかなくてはならない。いわゆる第二革命の 時期に、日本人が被害を受けたとする、漢口・エン州・南京の三事件がおこっている・・・(後略)・・・

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 漢口事件について、古屋論文に基づき、要約します。

 まず、陸軍少尉中国軍の制止を無視して戒厳地区に進入し、一時抑留されました。

 軍からの報告は、「無抵抗の西村少尉らが、理由もなく暴行を受け、軍服をぬがされるなどの侮辱を受けた」というものでしたが、日本の総領事は「これを信用せず、自ら調査して西村らの横暴と暴行について牧野伸顯外相(第一次山本内閣)に報告」しました。しかし、「陸軍中央部は、現地の調査も行わずに、「日本将校凌辱事件」として」、謝罪と賠償利権を要求し、結果として中国側に処罰・謝罪させたものです。

 古屋論文は、このような事例が満洲では蓄積されていたであろうことを指摘し、「このような先例の蓄積は、「日本軍威信」の確保を第一義とするという条件によって、日本の対中国政策が実質的に拘束されるようになってゆくことを意味していた。そしてその翌年の第一次大戦への参戦は、対中国政策にさらに決定的な影響を及ぼすこととなった」と評価しています。

 交渉ごとにおいて、譲歩できないものを必要以上に多くすることは、カードの手札を事前に少なくしているのと同じではないでしょうか。

 つづいて、第一次大戦下の部分をみていきましょう。

第一次大戦下で目に付くのは、前述した鉄道付属経営権や、軍の威信を確保する事件解決方式など、条約面に現れない既得権の高圧的行使や、軍を背景とし、あるいは軍に依拠した陰謀的行動の横行であった。とくに袁世凱が自派による帝政運動組織し、1916年1月1日帝位について洪憲元年と称したのに対して、反対派が第三革命に立ち上がるという事態に対応して、大隈内閣が反袁運動支援の方針を決定したことは、こうした傾向を著しく促進することになった・・・(中略)・・・この〔引用者注内閣の〕方針は具体的には「適当ナル機会ヲ俟テ南軍ヲ交戦団体ト承認スルコト」などをあげているが、実際には山東に居座った日本軍(侵攻以来ワシントン会議後 まで7年以上駐留)や、満鉄守備隊を含む関東都督府の現地軍が関与あるいは支援したことが、最も重要であったと見られる・・・(中略)・・・大隈内閣の反袁政策は、結局のところ、現地日本軍と其の周辺の日本人の横暴への反感を広めただけに終わったようにおもわれる・・・(中略)・・・第一次大戦下の日本の対中国政策は、侵略性の膨張として特徴づけることができるが、列強のすべてが参戦し、中国に手を出すいとまがないという条件のもとで、初めて実現したものであり、従って戦争の終結とともに転換を迫られることは必至であった・・・(中略)・・・日本軍は、青島を攻撃・占領する以前に、ドイツ兵に守られているわけでもない中独合弁の私立会社経営する山東鉄道を占領(26)しているのであり、日本の参戦がたんにドイツ軍事力の打破のみでなく、新たな権益の獲得を目指していることは明らかと見られた。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 ここでは、中国の内部分裂を促進させる政策を内閣採用しています。政治が、権謀術数やパワーゲームというのはその通りなのかも知れませんが、これに対する中国の、その民衆の反発は至極まっとうなものでしょう。ベルサイユ講和会議における中国の要求が退けられたことから、五四運動へとつながります(中国ベルサイユ条約への調印を拒否しました)。周りにいくら根回しをしても、当事者同士に納得が得られなければ物事は進みません。

 そして、アジアの国際秩序について話しあわれたワシントン会議では九か国条約が結ばれます。

中国政策全体は、領土保全・門戸開放・機会均等というアメリカの主張を柱とする九か国条約規制されることになり、そこには勢力範囲政策を排除することも明文化されていた。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html


 このような流れのなか、詳細は省きますが、古屋論文では、「国際的に通用しなくなって」きた「特殊権益」、「勢力範囲」にかわり、「満蒙治安維持」という、関東軍の謀略による満洲事変につながっていく「政策理念」が出てくるとされます。

しかしそれ〔引用者注:満蒙治安維持〕は、他国の一部を自国の利益に従属させるという点では、勢力範囲と同じことであり、中国との対等の関係確立するためには、破棄しなければならない要求であった。しかしそのことは、幣原外交においても、ほとんど意識されることはなかったように思われる。

 それは幣原外交もまた、国民の対中国意識のあり方に規制されていたということであろうか。第一次大戦中に強められ広められた中国に対する侮蔑を基礎とする優越感は、大正デモクラシーによっても解体されることはなかったし、さらにその基底では、満蒙を20万の将兵の血と20億の巨費であがなわれた明治天皇の遺産とみる天皇制意識が形成され、大衆呪縛していたことであろう。現地軍における統帥権独立と、国内における大衆中国侮蔑感とは、対中国政策の構造的改造を困難にするものであった。そしてその大衆意識は、満洲事変への共鳴板として鳴りはじめ、状況を一挙に転換させることになるのであった。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 ここまでみてきたような、日露戦争から満洲事変にいたる流れをおさえてなお、「相手国の了承を得」た、「条約に基づいた」と表現することが妥当なのでしょうか。ご覧の通り、日本大陸政策に対する軍の関与は明白ですが、まさか防衛大を卒業された方がこの程度の知識をご存知ないとは思いませんので、あの「論文」の内容とどのように整合性をとられているのか興味深いところです。

 さて、このように、一つの論文をみて、「論文」の一部の所説を検討するだけでも結構な手間がかかります。歴史勉強はそれほど甘くはありません。粗雑な「論」を示して誤りはないと言われても困ります。また、「事実小説より奇なり」ということもありますし、歴史学においては、「神は細部に宿る」こともあるので、個人の感覚からおかしいと言うだけでは有効な批判にはなりません。また、学問においては、勉強が足りずに事実認識が間違っているのは、明らかに勉強が足りないことに非があります。今は勉強不足で根拠が示せないというのであれば、その主張は根拠がないゆえに認めれらないのです。いつか証明されるのかもしれませんが、そのときが来るまでその主張に強度はありません。

 ところで、古屋論文の最後に、「国内における大衆中国侮蔑感」の問題が出てきました。今もまた、中国に対する偏見百害あって一利なしであり、中国の実態を虚心にみつめ、評価しなければならない、と私は考えています。

 その意味で、中国の民衆運動について、興味深い論文をみつけたので最後に紹介します。

しかし,中国民衆のナショナリズムとは,つねにそうした「暴力」をともなうものとしてしか実現されなかったのであろうか。そこには多くの場合,「暴力」の受け手の側からするバイアスがかかってはいないだろうか。一昨年の,「反日デモ」についての日本マスコミ報道が,デモの「被害」を強調し,一面的な批判に終始したことも想起される。「歴史」と「現在」を同時に射程に入れねばならない現代史研究者にとって,そして,民衆の運動対象であったわれわれ外国研究者にとって,必要なのはこうしたバイアスを克服し,実証的に中国の民衆のナショナリズムの実態を注視することではないか

江田憲治「民衆運動ナショナリズム1925年の五・三〇事件を手がかりとして―」『現代中国研究』21、2007年、27-28ページ。http://modernchina.rwx.jp/magazine/21/eda.pdf

 私はこの問題意識に全面的に賛同し、実証的な近現代史の議論が進められることを希望するものです。

またしても、このような長文をお読みになってくださった方に感謝します。

 
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