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2018-11-05

不倫相手の子どもが欲しい - GOOD GENES と GOOD DAD を知った話 -

まさか自分不倫をするとは思わなかった。しかもそれが2年半も続くなんて、想像もできなかった。

ニュースで、不倫が原因で仕事を干されたり、活動休止を発表する有名人の話をよく目にしますよね。そういうニュースを見ても、自分の身には関係のない、理解共感もできない話だと思っていました。

夫(当時はまだ彼氏)とのセックスに不満はあったけれど、一緒に暮らすのは楽しくて、別れるつもりはなかったし、他の人となんて考えられなかった。

でも、「その時」は簡単に訪れた。

そうなることが当然であるかのように、台本でも用意されていたのではないかと思ってしまうくらい自然に、私は他の男の人とも寝るようになった。

セフレといえばそうかもしれないけど、その呼び方はどうもしっくり来なくて

私が結婚してから不倫なのだけど、その呼び方もしっくり来なくて

人に話したことはないけれど、誰かに説明するとしたら、そういう関係と言わざるを得ない男の人が、私には3人いる。

自分がどういう心理状態なのか分からないので探してみた

からしゃべることが苦手な私は、自分気持ち言葉にするのがすごく苦手で、というか、そもそも自分がなにか感情を抱いているのかどうかも分からなくなることが、よくある。

自分のことが、分からない。

結婚して挙式や新婚旅行を終えて落ち着いた今、自分の将来をどうしたいのかが分からない自分に(今さらながら、改めて)気がついた。

彼氏(夫)以外の男性と会うようになってから、本当に自分でも驚くくらい、毎日身体も心も満たされている感覚がある。純粋恋愛を楽しんでいるような、味わったことのない感覚恍惚としていた。それは、彼氏(夫)といる時にはなかったような新鮮な刺激だった。

一方で、彼氏(夫)と暮らす毎日は、それはそれで別の次元幸せである。何が幸せかというと、「衣食住の価値観が合う」「頼れる」「かわいがってくれる」ということに集約されるような気がする。とても楽で、とてもQOLが高く、なによりも幸福を感じられる。

性的に満たされない、という部分を除いて。

このままでいいわけがないと思いつつ、このままでいたいような気もしていた。

普通じゃない道を進んでいる気もするし、よくある話のような気もした。本能的には、間違っていないような気さえしていた。

今の自分をちきんと捉えて言葉で整理しないとどんどん苦しくなる気がして怖くなった。

そこでようやく私は、自分客観的に見ようと思った。

自分言葉で考えるのが苦手な私は、世の中に溢れる情報の中に、答えを求めたのだった。

良い遺伝子(グッドジーン) と 良い父親(グッドダディ)

恋愛系のお悩み相談ブログとか、分析系の記事というのはネット上に溢れていて、そういうものをいくつか読んでみたり、専門家の本を読んでみたりした。

不倫 なぜ 」とかってひたすらググった。笑

一番しっくりきたものとしては、

「人はなぜ不倫するのか」という、様々な学問専門家インタビュー形式不倫について語ってもらうという内容の新書があり、次のような話が載っていた。

女 =メスにとっては 、 「グッドジ ーンとグッドダディ (よい遺伝子かよい父親 ) 」は両立しにくい問題です 。だからこそ 、適当な男を確保しておいて子を産み 、あとから別の男と浮気してよりよいグッドジ ーンを取り入れるメスがいるのはうなずけます本来 、女にとっては夫よりいい男との子を産むことに躊躇はないはずですから

モテる男の要素として"good genes, good dad" という考え方があるらしい。

この考え方は恋愛工学という類の書籍でも目にした。提唱者が誰なのかは分からないけれど、不倫をしている(夫がいて、夫以外にセックスするパートナーがいる)私にとって、今の自分が揺らいでいる根本的な原因を言い表しているのはこれだ、と思った。

まり、私にとって夫は圧倒的にグッドダディであり、不倫相手は圧倒的にグッドジーなのだということです。

そういうことか・・・

と納得するうちに、今の自分が何をしたいと思っているのか、分かってきた。

そしてそれはとんでもなく恐ろしいことだった。

気づいてしまった自分本音

「夫と暮らしていたい、そして不倫相手のこどもがほしい。」

グッドジーン、グッドダディの話を読む中で、自分の中でもやもやとしていた思いが言語化されていくのを感じた。

グッドジーである不倫相手の子どもがほしいという気持ち自分の中にあることを、はっきりと自覚したのだ。

しかもその子はグッドダディである夫と一緒に育てたいと思っているということにも気付いた。

自分気持ちに素直に向き合って、言語化してみると、恐ろしい本音が浮き彫りになった。

そういうことか。

なんということだ。

しかにそう思ってるかもしれないけど、

改めて言葉にするとすごいやばい

当事者同士で解決するしかない

自分気持ち、望んでいることをようやく言語化することができた。

では、どういうアクションを取るのが最適解なのだろうか…

夫に黙って不倫相手のこどもを作る?

そんなの、隠し通せる気がしない。

でも、不倫相手のこどもがほしい。

でも、離婚するのはいや。

離婚が嫌というか、夫との暮らしを手放すのが嫌だ。

結婚しなければよかったのだろうか。

この先、夫とも不倫相手ともうまく付き合っていく方法はないのだろうか。

自分客観的に整理してみた結果、

より深い迷宮

足を踏み入れることになったような気がする。

2018-11-04

anond:20181104014626

自分が読んでる本を「重厚もの」って言うの、なんか背伸びしてる感じがしてダサいわ。イキっててきついし、むしろあんま読んでないんだなって思う。

おれくらいになると貧困問題新書経済学の専門書を読んでるが普段東スポ以外で活字を読むことはありませんて言ってる。

2018-10-28

新書単著まで出してるようなのが頓珍漢なこと言ってるのをツッコミ入れたらセレクティブエネミー!て、ええー…

誰が言っても野放しにしろってことかよ…

2018-10-25

anond:20181025110954

あの人は自分で、俺は便利だから社会学者って経歴を名乗ってるだけです、って言ってるんだ。

そう前置きしてからガチ社会学者全員に話を聞きに行く新書はなかなか面白かった。

2018-10-22

教養の有無と人生の充実

社会人になって数年。最近痛感するのが教養の有無と人生の充実の相関だ。

年収が高く役職持ちな人はみな教養持ちだ」、といった次元が低いことが言いたいのではない。

教養のある人物はなんというか、充実感に満ちており有意義に生きていて感性も見た目も若い気がする。

趣味も多いし、フットワークも軽い。何歳になっても好奇心知的探求心が衰えないのだろう。

少しでも気になった事があればその日の帰り道で専門書を買って熟読、海外だろうが平気で現地に赴いたりする。

常に勉強を欠かさないし、当人は「勉強」を苦を伴うものと思っておらず、むしろ楽しんでいるのだ。

類は友を呼ぶのか、周囲の家族や友人も相応に知的な人が多く、頽廃的だったり怠惰人間はあまり見受けられない。

当然、教養のある人はそれ相応の社会的地位についていることも多い。

社会的地位を獲得した後に付け焼き刃で教養を身に付けたのだろうか?いや違う、幼少期からの習慣の積み重ねだろう。

こういった知的な態度を有する人たちに接すると、無教養・無学な自分コンプレックスを非常に刺激される。

教養のある人達の会話はありきたりな雑談の途中で話題が予想しない箇所に飛ぶのだ。

姫路城改修から池田輝政の功績に飛んだり、クリミア半島からソルジェニーツィン著作に飛んだり。

ベラスケスやらサルトル、後期コルトレーンの話が出たこともあったが、無学な自分ではちんぷんかんぷんだ。

こちらが話題に参加できないでいると「あ、興味ないよね〜。うんちく晒してごめんごめん。」とすぐに平謝りし、

それ以降はグッと敷居を下げた会話(ワールドカップやらジブリアニメ、近所の旨いラーメン屋の話など)を展開してくれる。

こういう出来事が何度かあると、彼らはそのことを覚えているようで配慮からハードル高めな話をあまりしてこなくなる。

その「優しい配慮」が、かえって悲しいような悔しいような不思議感覚自分の中に呼び起こさせた。

上記の行動は、彼らの衒学趣味由来の嫌味や当てこすりだろうか?私にはあまりそう思えない。(ゼロではないだろうが。)

第一、こんな何処の馬の骨分からん小僧マウンティングしたところでなんの得もない。

なんというか彼らの「知」に対する基本的スタンスは、自分のそれと一から十まで

まるで異なっていて、そのほころびに自分勝手につまづいて痛がっているだけなのだろう。

痛がっている自分を見て彼らは「まずい!」と察し、ほころびを取り除くために

平易な話題シフトしてくれいているのだ。その気遣いが余計に胸に刺さった。

加えて彼らの凄いところはジャンルの垣根を設けずに、気になったら徹底的に探究する姿勢だ。

自分子供の頃から怪獣映画が好きなので彼らとの酒の席でシンゴジラ話題が出た際に、

第五福竜丸被爆事件からゴジラ誕生した、田子の浦港ヘドロ公害からヘドラが生まれ

バイオテクノロジーの隆盛からビオランテが生まれた、シンゴジラは言うまでもなく津波原発である

といったような感じで社会問題ゴジラ怪獣の密接な繋がりを時系列簡単に話した。

すると彼らは決してバカにする事などなく、「それでそれで」と少年のように目を輝かせて聞いてくれる。

ありがとう勉強になった。もう少し調べる。」とその場でアマゾンを使い、DVD解説本の購入を済ませていた。

うーむ、この人たちには逆立ちしても敵わないなぁ、と帰りのタクシーで溜め息が漏れた。

(次に会った時には彼は初代ゴジラはもちろん、宇宙大戦争やらサンダ対ガイラまで鑑賞済だった。これには舌を巻いた。)

彼らは目の回る忙しさの合間を塗って絶えず教養を身に付けているのだ。多忙な彼らの何倍も時間を有している自分には教養がない。

自分も彼らのような「知」に対して極めて能動的な人間になりたいが、どうやったら彼らに少しでも追い付けるのだろう。

なんにでも興味を持つ知的探究心。古典から新書まで常に読書を怠らない継続力。そして読書で得た知見をすぐに実行してしまう行動力

自分のように怠惰で流されるままに生きているような人間では彼らの足元にも近付けそうもないが頑張ってみよう。

ソルジェニーツィン、読んでみますね。あ、ドストエフスキーすら読んだ事ないからまずはそこからか。

2018-10-11

anond:20181011083926

anond:20181011083926

バトラー議論がテキトーに数行に要約されそれが正しいかのように流通

それをベースフェミキチガイかーの大合唱になって酷い惨状だが

まともに理解し、考えたいという人がいれば、それに資するように新書の参考文献を挙げておきたい

仲正昌樹 現代思想の名著30 ちくま新書

著者は金沢大学法学部思想史先生思想論点整理、まとめがうまく

啓蒙書を一杯書いており思想哲学に興味がある人には著名と思う

何故この本をあげるかというと

まず、フェミガーで溜飲さげるアホが多いようなので

普通に現代思想として思想方面で取り扱われてる議論ですよというのを示すことと

あとバトラー理解するには、フランス現代思想構造主義ポスト構造主義理解必要だが

この本では先行してそれらが解説されたあとバトラー議論が紹介されるため議論理解がしやすいこと

電子書籍があること

その三点

anond:20181011040543

ぶっちゃけ話をすると,私はこれまで「別に査読はなくてもいいだろ」という話を延々としてきたのだが,ブコメやらtwitterやらで文系擁護派の一部の人が「人文系学問査読になじまないんだ!」みたいな議論を始めてることには正直困惑している.

日本語文学関係査読つき論文とかたくさん出てるし,というか英文文学を専門にした査読誌は普通にあるし,国際的和文査読誌も存在するし,問題のおおもとになった日本社会学会には和文英文査読誌があるわけで,文学社会学論文本質的査読に馴染まないなんてわけはない(実定法学は知らん).査読できるならした方がいいだろう.学術的ではないエッセイにまで査読を求めるのは間違っているけれど,新規性のある学術論文査読制度に向いてないと言い募ることもおかしいと思う.

査読になじまない型の研究としては,たとえば史料校訂とかそういうのが挙げられるかもしれないけれど,それだってやろうと思えば外部チェックは入れられる.論集だってもし余裕があれば査読をした方が質が高まるし,選書系や新書系ではない単著査読をした方がいいだろう(このへんは出版社の体力との相談になってくる面もあるので,今すぐに査読制度を取り入れろとは言えないことがもどかしいtwitterではOxford University Press査読つき単著刊行した人が議論していたけれど,OUPと日本出版社は体力違いすぎるんで……).

私が査読なしの論文を業績として認めるべきだと主張するのは,現在査読がなくとも良質な論文や著書が多く存在しており,それらを形式的査読されていないという理由だけで無価値であるかのように扱うのは間違っていると考えるからだ.だが未来永劫査読すべきでないと主張するつもりはない.

もちろん査読という制度には様々な問題があるので,全面的な導入に慎重になるのはわからないでもない.文系分野での査読制度の拡大は止められない趨勢だろうが,一方で「査読されていないものの良質な文献」も産出され続け,全面的査読制度の導入まではかなり遠いだろう.そのあいだにじっくりと議論をすればよいと思う.査読がないか文系は無価値だ! と絶叫するのでも,文系査読はなじまない! と拳を振り上げるのでもなく.

追記

id:hogefugapiyox査読がないか文系は無価値だ! と絶叫するのでも,文系査読はなじまない! と拳を振り上げるのでもなく」ほんこれ/ 査読が実質なしという事で近年問題のpredatory journalについての考えも聞いてみたいか

英語じゃないと業績として認められない分野のことはわからないけれど,和文論文が業績として通用する分野ではpredatory journalの話はあまり聞かない.

というのは,和文査読誌を出してる主体は,学会もしくは大学研究所などの機関にほぼ限られるから

学会が出している査読誌の多くは,投稿資格を会員に限定していて,多くの学会は年数千円の会費(院生非常勤常勤では価格に差をつけている学会が多い)を払いさえすれば誰でも会員になれる(推薦者が必要場合もあるが,指導教官とか先輩とかに推薦してもらえばよほどのことがない限り会員になれる).つまり査読誌は会費で維持されており,こういう雑誌では投稿掲載ふつう無料だ(流石に抜き刷りとかは金を取ることが多いだろうが).会員は会費を払い,見返りとして論文投稿権利雑誌頒布される権利を得る(余談だが,日本学術誌のOA化にあたっての障害の1つがこの「会費で学術誌を維持する」システムだった.会員は会費を払って雑誌を受け取っているのに,会費を払っていない者にまで無料で公開するなんて何ごとだ! というわけ.今でも,CiNiiやjstageで無料公開してるのは発行から○年過ぎた号だけです,みたいな運用をしている雑誌はある.

大学研究所は言うまでもなく自分たち研究費で雑誌を維持しているので,投稿料や掲載料を取らないことが多い.それって紀要じゃ,と言われるかもしれないが,投稿資格学生教員限定していない場合があり,下手するとそのへんの学会誌よりも査読が厳しく良質な論文が載ったりするので,研究機関が出している=紀要というわけじゃない.これは外国でも割と見るんだよね.

もちろんごく稀に出版社商業で出している学術誌もあるのだが,そういう奇特出版社文系学問理解があり非常に良心的なので投稿料を取らないことが多い.少なくとも私が知ってる雑誌はそうだ.

そして,日本語アカデミアは豊かではあるが英語ほど広くないので,predatory journalが参入しようと思うほどの旨味がないし(全世界から微妙なデキの英語論文をかき集めてくるから商売になるわけでしょ?),たいてい自分レベルでも投稿できる雑誌が探せばどこかにあり,場所を選ばなければ発表できてしまうわけで,わざわざ悪徳業者にカネを払うインセンティブがないんですわ.最近学内紀要にも査読つきが増えてるから紀要に出して「査読つき論文です(キリッ」というのも可能.ただ学会誌か紀要かは下手すると雑誌タイトル見れば判別つくから,「あ,こいつ査読論文いっぱい書いてるとか言ってるけど全部紀要だわ」みたいなのはそれこそ業績リスト見るだけでわかったりする(まあ,学内紀要でもガチ査読していることはあるので,紀要からといって低く見られるのも可哀想なのだが.うちの大学では学内紀要に落ちたという悲鳴もちらほら聞こえます).

なのでpredatory journalに関しては,うちらには関係いね程度の感覚id:min2fly氏の指摘は本当にそのとおりだと思う.

(……)査読英語で“Peer review”,同じ分野の研究仲間(“Peer”)による評価を指すが,国際化が進み,大量の研究者・雑誌論文存在する状況において,果たしてある雑誌投稿者,査読者,読者が一つの研究コミュニティの「仲間」となっているのか,ということになるだろう。互いに見知ったコミュニティであれば,でっちあげられた架空研究者に査読を依頼するなどありえないし,不正査読を通過して論文掲載したところで,内容が稚拙であればむしろ評価を下げることになる。また,ある程度雑誌数が限られていれば,聞いたこともないハゲタカOA 誌に掲載された論文不審に思うはずである。(……)査読はある程度限られた規模の研究コミュニティにおいて問題なく機能する仕組みであって,現状の国際化・巨大化した研究集団の規模に適用するには限界があると言えるだろう。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jkg/66/3/66_115/_pdf

2018-10-10

anond:20181010083204

なんか新人は大変そうだなって。

年いったら年功序列が良くて若い頃は成果主義がいい、でも自分業界では年功序列会社ばっかり、みたいに思わないのかな。

私がその増田で話していたのは「著書」の話です。ふつう論文ではない。著書を出してる時点で既に何本か業績があるのは前提。

そんなん常識だろって思って文系キャリアパス説明しなかった私も悪かったと思うので詳しく説明します。分野によって違うけど、私の分野では、

院生時代査読つきも含めて論文を何本か出す→博士号取得→前後して博論を元にした著書を書く

というのが「最初単著」に至る流れです。

さて、学術書というのは分厚いですね? 基本的文系学術書というのは論文を何本も積み重ねてようやく書けるサイズのものです。というか博士論文の時点で学術書として出版できるくらいのボリューム要求されたりします(まあここは院によりますが、しかし薄い博論学位を取れたとしてもそんな論文は本として出版できないかマイナー出版から出版するほかないので、評価されるちゃんとした書籍を書こうと思ったらめっちゃ書き足す必要があったりして、要するに「書籍出版」を業績とみなすのも故なきことではないのです)。なので、実質的論文を何本も書いたことがないと単著なんて出せません(私の院では、博士論文の提出に際して既発表の論文数などは問われません。なので発表した論文ゼロ状態博士論文を提出することも理論的には可能なのですが、実質的にそんなの無理です。私の周囲の博士号取得者は何本も論文書いた上で博士号獲ってます)。

まり単著出してる時点で論文デビュー済みのことが多いわけです。

(ちなみにこの辺は国によって違ってて、日本だと博論は既発表論文を寄せ集めて書いても問題ないけど、たとえばドイツだと博論に既発表の論文を組み込まずに書き下ろす必要があり、なおかつ博士論文には出版必須なので、ドイツ最初単著を出した人のその時点での業績は日本基準では少なかったりします。そのへんの話はこちらのまとめを参照→https://togetter.com/li/9904

もちろん、最初の著書が新書です、みたいな人もいます院生時代研究成果をもとにした新書書いて、そのあと博士号取って分厚い単著しましたみたいな(『パンダ外交』)。むっちゃ分厚い修論書いてそれを単著にしちゃう猛者もいます小熊英二)。ただそういうのはレアケース。また、博士号取得→別のテーマ単著出版→その後に博論に基づいた単著出版という流れもありえます。こっちは割とよく見るかな。講談社選書メチエの『湾岸産油国』とかそうじゃなかったっけ。

んで、良い論文を何本も書いたり、単著出したりしてると、インテリ向け商業誌とか権威のある学術誌とかからお呼びがかかります。「お前、うちの出版社が出してる商業誌に書いてくんね?」とか「お前、うちの学会で今度組む特集号に書いてくんね?」って感じです。これが例のセンセが言ってた「招待論文」。「依頼論文」と呼ぶ業界もありますね。当たり前ですが、程度の低い研究ばっかりしてると呼ばれません。

査読がなくても良い論文が有り得るってのはそういう意味です。最近だと院生向けの紀要にも査読つきが増えてるけど、そういうマイナー誌の査読論文よりも商業誌に載った論文の方がよく読まれていたりする。当たり前だけど紀要の無査読論文とかよほど内容が良くない限りめったに読まれませんし参照もされません)

要するに、昔はどうだったかは知りませんが、最近では査読誌の論文新人登竜門として使われ、ある程度実績が増えると査読なしの論文を書く機会が増える、というのが私の周囲での割とよくあるキャリアパスです。それまでの実績がない若い人にも当然チャンスはあります

2018-10-07

anond:20181007163603

ほんとにトラバ議論の前提だぁ!と喚いてて草生えたwキモオタってそういう努力しないネット情報新書レベル知識教養ぶっちゃうのなんでだろうね

新書にも辞書にも百科事典にすら乗ってない造語を振りかざすアホがなんかわめいておる

2018-10-05

anond:20181005143355

社会学系の新書面白い

本を書けば実績になるけどネット上でいくら書いても実績には結びつかないか

ネット上に発信してる情報社会学者の能力判断してはいけない

anond:20181005100039

電子書籍から意識しづらいのかね。

ノベルズはその名のとおり新書版なのでサイズがでかい

実物を見れば一発で文庫とは区別できる。

2018-10-03

ウヨ歴史に興味がない

ここ10数年、右傾化ガーとか歴史修正主義ガーと言われて久しい。

ところがウヨが興味あるのは慰安婦とか南京とか戦前戦中の話だけで、それ以前はどうでも良いらしい。

過去10数年ぐらいに刊行されてる、吉川弘文館人物叢書だの、朝日選書だの講談社中央公論社だの各社の新書とかで、古代中世日本史の本を読むと、なぜウヨ激怒発狂しないのか謎でならない。

しろ古代史では『日本書紀』は大ウソだらけ、万世一系ではなく継体天皇の代からは新王朝可能性が濃厚、任那日本府は通説よりずっと規模が小さく「日本府」って名前も後世につくられた、「大化の改新」の中身はほとんど無し、厩戸王実在したけど聖徳太子の手柄の大部分は蘇我氏の業績、藤原氏中臣氏)を美化するための誇張が濃厚、壬申の乱記述天武天皇正当化する作為が濃厚――といった調子皇国史観絶対で「記紀の内容はすべて史実!」て言ってた戦前基準じゃ許されん話ではないか

神武天皇実在した」とかドヤ顔で語ってた自民党議員は怒らないのか?

中世史も、『平家物語』の名場面の大部分は創作源氏卑劣後醍醐天皇政治的無能だったか建武の新政は失敗、戦国時代には住民虐殺奴隷人身売買が通例……とかなんとか、そんな話がフツーに記されてる。

竹田恒泰とかの「日本伝統に詳しい人」と称する連中に言わせると、近代以前の日本には中国韓国のような野蛮で卑劣な話は一切なく、この世の悪はすべて戦後民主主義せいらしいが、全然そんなことはなかったと公然と書かれてる。

やれ「歴史戦」とか言う連中は、なんでこういうここ10数年の歴史学者の成果を「ブサヨ歴史捏造だ!」と言って怒らないのかw

ウヨ連中は本当に、明治期以降か下手すりゃ昭和戦前しか興味ねえんだろうな

専業主婦とか夫婦同姓が本気で日本伝統と思ってたり、小島毅が書いてたように「明治維新が起きたのは江戸時代儒教が広まったから」とか知らんで、本気で「中国韓国儒教国家だからシカラン」とかドヤ顔してる奴多いし

でもさ、ウヨって基本的に「昔は良かった史観」だろ? それがこんな近代以前にはまったく無知でいいのか

ま、あいつら「伝統興味ない」「天皇嫌い」が本音なんだろうけど

2018-09-30

女子大生(たまに男子大生)と話していても、ある程度新書文庫を読み込んでいる人とそうでない人とでは、話していて受ける「圧」のようなものが違うんだよね

知力が圧や緊張感となってこちらに迫ってくるような感じ

多少の緊張感を持って会話を交わせる女子大生とか良いよね

もともと知力があるからよく本を読んでいるのか、そこの因果の順は何とも言えないところだが

2018-09-28

まだ「大学よりオンラインサロン」って議論で消耗してるの?

200ページくらいの新書1冊2日で読めますよね。

なら1年で180冊、15万程度。

分厚い学術書でも1冊にまるまる1週間かければ読めますね(当然初学者のものを読む、用語辞典片手として)。

それで3年で150冊。3年で50万~80万。

これのほうが安いのではないですか。

飲み会交流大学勉強するところです。もし関わりが持ちたけりゃ外部のサークルとか……オンラインサロンに参加すれば良いではないですか。

オンラインサロンでは早稲田政経ブロガーのイケ●ヤさん、慶應ブロガーのは●ちゅうさんが注目されていますね。彼ら曰く「大学不要」とのこと。

サロン費足しても学費ほどは高くなりませんよね。東京にあるという大学を出て研究室にこもってきたエラ~いセンセイと、フレキシブルかつ柔軟な頭脳を持つ方々のサロン、どちらが魅力を感じますか。

皆さん、まだ大学で消耗してるの?……………………………(?)

2018-09-26

新潮45』の休刊失望した

新潮社が『新潮45』を休刊することを発表した。

私はこの判断に心から落胆し、新潮社という出版社のものに心から失望した。

おそらくもう回復不可能失望だ。

まず断っておくが、私は杉田水脈氏の記事(論文とは決して呼ばない)を一切支持しない。

一切、完全に、ただの一行たりともだ。

続く号で発表された杉田氏の擁護記事も、仮に部分的事実があるとしても一切の論旨に賛同しない。


だが、私は『新潮45』が休刊したことについても深い憤りを覚えている。

杉田氏の記事ならびに擁護記事批判が集まったあと、新潮社代表取締役佐藤隆信氏は以下のようなリリースを発表した。

https://www.shinchosha.co.jp/sp/news/20180921.html

弊社は出版に携わるものとして、言論の自由表現の自由意見多様性編集権独立重要性などを十分に認識し、尊重してまいりました。……

 それらに鑑みても、あまり常識を逸脱した偏見認識不足に満ちた表現が見受けられました。……

 弊社は今後とも、差別的表現には十分に配慮する所存です。

このリリース佐藤氏は、『新潮45』が差別的記事掲載したとは一切認めていない。

まずはじめに言論の自由をうたい、《今後とも》差別には配慮する=今までも差別には配慮していた、としている。

新潮45』の問題あくまで「常識を逸脱した偏見」と「認識不足に満ちた表現」(不足に満ちた?)だ、ということだ。

このスタンス休刊を発表したリリースでも変わらない。

https://www.shinchosha.co.jp/sp/news/20180925.html

会社として十分な編集体制を整備しないまま「新潮45」の刊行を続けてきたことに対して、深い反省の思いを込めて、このたび休刊決断しました。



これらのリリースから新潮社が何を問題視して休刊に至ったのか、私にはよく読み取ることができない。

言論の自由」を重要視するならば、「常識を逸脱した偏見」という言葉矛盾している。

なぜなら、偏見は時に常識の顔をして生活根付いているからだ。それに対抗しうるのは言論しかない。

言論の自由」をうたうなら、常識から逸脱したこと謝罪するのは自殺行為だ。

認識不足に満ちた表現」というのもよくわからない。誰の、何に対しての認識が不足していたのか不明である

(筆者の、LGBTに対する)認識が不足していたというならば、それは表現ではなく論旨そのものに直結する問題だ。

二度目のリリースの「編集体制が十分でなかった」ことから無理矢理意訳するなら、言論としての質が低かったことがもっとも重大な問題、と理解すればいいだろうか。


佐藤氏はこの問題に関して、何よりもまずはじめに言論の自由表現の自由意見多様性編集権独立言及した。

新潮45』は、私の目には差別的侮辱的で唾棄すべき蒙昧な文字列だったが、

佐藤氏は質が低いことは認めても、差別的であるとは最後まで言わなかった。


杉田氏の記事およびその擁護意見を、新潮社として「自由多様性」の一部として認めるならそれでもよい、と私は思う。

だが、それが社としての意見だというならば、そして問題は「質の低さ」だというならば、少なくとも新潮社にはこの問題について「質の高い」意見を示す社会的責任があったのではないか

そして、「多様性」を庇護したいのならば、杉田氏および擁護意見への反論意見として熟議し、「多様性のある」議論を展開するべきではなかったのか。

それこそが「言論の自由」を保証した、出版社としてあるべき姿だと思う。

その範を示すことが、長い歴史と信頼のある大手出版社役割であり、代表取締役が「言論の自由」に言及した意味ではないのだろうか。

質の高い多様な意見を募るには歴史と信頼と知性の集積が必要だ。そんな出版社はそう多くはない。

けれど、新潮社ならできたんじゃないのか。

今回、新潮社は『新潮45』の廃刊という形での幕引きを図った。

差別的表現であったということは認めず、

しかし改めて「質の高い」意見を示すこともせず、

批判に応答もせずに。

言論の自由いちばんはじめにうたったはずなのに、世間の声に反応して言論の場そのものを潰すという、もっともするべきではないことをした。

これを「批判による言論封殺だ」とみる人もいるだろう。

まりに多くの批判が集中しすぎて発言できなくなる。

それはたしかに、この社会が抱える問題ひとつだと思う。

しかし、新潮社は本当に、この幕引き以外選択肢はなかったのか。

新潮社でさえこんな風に逃げ出すしかないのなら、我々はいよいよ、批判を躊躇わなければならなくなる。

意見を示す出版社側は、「常識から逸脱した」意見を出すときは『新潮45』のように潰されることに怯えなければならず、

批判する消費者側は、自分自身批判言論の場を潰し、言論封殺の謗りを受けることに怯えなければならない。

そんな状態こそが「言論の自由」の妨げなのではないか


新潮社は「質の高い」反論をすることも批判を受け止めることも投げ出して、結局真っ先に言及した「言論の自由」を蔑ろに踏みにじった。

私にはそう思える。

そして、そんな愚かな選択を、あの新潮社したことに心から失望している。



はじめて買った文芸誌はyomyomだった。

確か高校生ときだ。

100%orangeかわいい表紙に、めくると広がるとりどりの物語に心をときめかせて創刊から買い続けた。

新潮文庫背表紙が好きだった。明朝体文字だけのそっけなさ。

書店に行くたびあの背表紙群を眺めて、次は何を買おうと迷うのが楽しかった。読んでも読んでも読みたい本が尽きない。頼もしかった。

新書玉石混淆さにはもう十年以上もうんざりしているけれど、それでも新潮新書には基本的安心感を感じていたし、学生時代論文でも、参考文献に新潮社の本を何冊も並べた。

私は新潮社本が好きだった。そして信頼していた。

今はただ悲しい。

2018-09-24

[][]友だちと100%わかり合おうなんて思わなくていい

友だち幻想 (ちくまプリマー新書):Amazon.co.jp:本

友だちと100%わかり合おうなんて思わなくていい

「みんな仲よく」の重圧にさよなら |NHK NEWS WEB

100%自分理解してくれる友だちはいない

出版から10年で“大ヒット” 「友だち幻想」のメッセージ|けさのクローズアップ|NHKニュース おはよう日本

少なくとも私は親兄弟に関しては相当の相互理解を持っているとは思いますが、

友人等の基本的には他人である人間に関して、親友と呼べる人間でもせいぜい6割の相互理解関の山だと思います

そして、一生かかっても100%の相互理解を得られる人間なんて存在しないでしょう。

それは恐らくは私だけではなく、ほとんど全ての人に言えることだと私は思います

もちろん本人が理解し合っているつもりってのは除いてですよ。

知る

人の心などわかるはずがない

こころの処方箋 (新潮文庫):Amazon.co.jp:本

2018-09-22

はてぶ、好きだよ。でもね・・・

時間感情無駄だなって思う。

自分が注目してたニュースブクマされると嬉しい。

「あ、この話に語りたいの俺だけじゃないんだ」って思う。

時々増田投稿される自分語りで、軽やかで美しい文章を見つけたら、心が躍る。

でも、ブコメ恨み節が多すぎ。

あいつをやっつけてやろう、あいつに恥をかかせてやろうってやり合い多すぎ。

ブクマされてる話題について語ったはずが、周りをチラチラ見て態度決めたり、馬鹿馬鹿しい。

コメント喧嘩売られた気になって、会ったことのもない、これから会うこともない奴に言い返して、たとえいい勝っても何もない。

足跡が残るだけ。

残った足跡を「ほらほら」って持ってきてケンカを売る奴がまた現れる。

時間を使って、なんの結果にもならない感情と体力を無駄遣いさせられるだけ。

から最近は別の時間で埋める。

本読んでいればこんな無駄なことしなくて済む。

から今日書店で良さげな本を探す。

新書が好きなんだ。

さらっと読めるから

2018-09-19

女著者の新書自己肯定本ばかり

なんであんなおつむの弱い内容ばかりなのかね

自説最強、文句ある奴はかかってこい、という気概を感じるものほとんどない

読み手価値観をひっくり返してやるぐらいの姿勢で持論をぶち上げて

資料引用で論旨を固めていくような堅実なものはなく

読み手の「わかるわかる~」に寄り掛かった薄っぺらい内容

からこれだから女は」って言われるんじゃないの?

2018-09-14

anond:20180914094822

総じて「文学」とか「論壇」とかが生んだ宗教だよね。

文章風景を描く~だとか、そんなことに拘るジャンルなんだ。

からおかしなことに、エンターテインメントであるべきフィクションほど、かえって挿絵が少なかったりするよ。新書だとか、ノンフィクションのほうが写真風刺絵をたくさん使っている。昔のブルーバックスとか必ずかわいい絵があったりしたのを覚えてる。

でも戦前から挿絵のついてない本は売れない、とか普通に言ってたはずだしね。

現代美術として展示される出てくる有名な絵なんて、往々にして雑誌なんとかの表紙、だったりするし。

何というか、合理主義が徹底されてなかったのだろうな。

2018-09-13

anond:20180913171612

リベラルといえば、ロールズじゃないの?

正義論」を読むのはしんどいだろうからサンデルあたりのロールズ批判を読むのもいいだろうし、正義論の解説新書あたりで読んでもいいよね。

これとかはどうかね。

https://www.amazon.co.jp/dp/4480066128/

2018-09-11

anond:20180910200206

昔はノベルスという単行本未満、文庫以上の新書サイズミステリが量産されていた。

これはもちろんスレイヤーズフォーチュン・クエストといった文庫サイズファンタジーSF古典ラノベとは一線を画していた。おっさん向けの時刻表ミステリなんかもノベルスでたくさん出てた。ミステリインテリぶった大人が読めるエンタメだった。

講談社ノベルスは人気ミステリをいくつも抱えたブランドだった。

新本格ブームでみんな講談社ノベルスを読んだ。若者も取り込んだ。

そんな最中ミステリとして出たのが姑獲鳥の夏だった。

アンチミステリとして異質なものとして注目された。

人気が出たことによりメフィスト賞なんてものが作られ、キャラ主体の変な小説が量産されることとなり、今のラノベ文化につながっていった。

大衆小説児童書しかなかったミステリラノベにつなげた走りだな

2018-09-08

大正ロマン燃える理屈はわかる

この件とか> https://togetter.com/li/1264601

はじめに言っておくと私は大正ロマン大好きだし、イギリス紅茶文化とか素晴らしいと思うし、漫画アニメでそういうの見るのは大好きなんだけど、簡単に一蹴できるような話じゃないと思うんだよな。

上の棘まとめでは、「イギリス植民地支配謝罪したけど、紅茶文化謝罪してませんよね?」という主張があった。

でも、イギリス紅茶文化ってのは、カリブ海黒人奴隷を牛馬のごとく酷使して得た砂糖と、植民地で現地の民族構成を大幅に変えながら栽培した茶葉で成り立っていて、植民地支配がなければそれらが安価かつ大量に流入して普及するなんてありえなかった(cf. 川北稔『砂糖世界史岩波ジュニア新書)。イギリス紅茶文化植民地支配と不可分のものだ。植民地支配なくして紅茶文化なし、なのだ

同様に、帝国日本で栄えた豊かな文化は、たとえそれがいかに「平和的」で「銃後」のものであったとしても、植民地から収奪の上に成り立ったものだ。朝鮮日本本土と同じくらいの豊かさを享受していたか、といえばそんなことはなく、農地が奪われ同化政策が行われ、つまり典型的植民地としての収奪が行われていた。その収奪の上に花開いたのが大正期の文化なのだ

なるほど確かにはいからさんなどの文化一見して軍国主義と無縁に見えるかもしれない。しかしその文化は、植民地支配から養分を得ていた。

ブラック企業社長の子ども、というものを思い浮かべればいいのかもしれない。別に子どもパート店員ハラスメントをしたわけでも派遣社員酷使したわけでもないが、その子もの豊かな生活は彼らの膏血を搾り取ることによって成り立っている。そのような環境でのびのび創造性を育んだ子ども自分クリエイティブさを誇るのが当然だとすれば、ブラックな働き方で過労死した社員の子どもがそれに怨嗟を向けるのもまた自然なことだろう。

とはいえ、そこまでの責任は取れない、と思うのも人情だろう。正直私は、上に書いたようなことを理屈ではわかっているが、だからといって大正ロマン紅茶文化糾弾に値する悪しきものだとは思わないし、作品に出てくれば普通に嬉しい。

しかし、まったく倫理的問題がない、と力説する気にもなれない。

それに私たち日本人は、いやこれに関しては韓国人も同じだが、先進国に生きる民として途上国の人たちの生き血を啜って暮らしている。安価に手に入る服、とか、そういった表面上の話だけでなく、近代世界ひとつシステムで、途上国は発展の途上にあるのではなく先進国の都合によって低開発状態に留め置かれた国々であり、そのシステム私たちは間違いなく搾取者の側にいる。

私たちはその構造から逃れることはできないし、いくら文化糾弾しても私たちが負った原罪が消えることはない。それは個々人には到底負いきれぬ責任かもしれないが、せめてそこに責任があることを認めるべきではないかと思う。紅茶文化大英帝国の暴虐を切り離すことはできない。大正ロマンから日本軍国主義切断処理することはできない。そして日本韓国といった先進国の発展を、途上国の窮乏から独立したものだと見做すことはできない。だから罪人として生きるべきだ、とは微塵も思わないが、このような構造に絡め取られていること自体は、認めるべきだとも思うのだ。

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