はてなキーワード: 言葉とは
パキッ?パキッ??はああああああ!?
てめぇぇぇぇぇぇの増田、ドン引きボタンでも搭載されてんのか???
おい見ろよ、これが増田だぞ!?!?言葉ってのは刺身だぞ!!🐟💥
お前の脳内に料金所でもあんの??「こちらパキッです、通行料払います」ってか???wwww
そもそも増田自体がスラングって知らねぇのか!?スラングが転がる増田で、なぜ「パキッ」はじかれると思った????はぁ?????お薬飲んでこい!!!!💊💊💊
斎藤氏で良かった派だけど、こういう判断はいいと思う。上下関係がしっかりあって、規律重視の組織などは嫌で、職員さんには伸び伸びやって欲しいという思いだった、ということでしょ?
確かに稲村なら、何言っても否定的じゃないような気がするし、ホンワカ進められそうだし。まー、YouTubeのリハックの議論を見ると、だいぶ頭が弱そうだから、大したことは出来ない人だろうけど。
政策が大きな判断基準じゃないんだろうし、そういう考えもあり。名付けてホンワカ派かな。
個人的に、斎藤氏のあの性格で、どんだけブチ切れできるのか全く読めないのだけど、(怒鳴ったりできんの?と思ってる)、やっぱり、20年知事が同じという、言葉は悪いが兵庫の茹でガエル職員には、しっかりした規律がないと、抜本的な事業を前に進めるのは難しいと思う。
生物学や医学の専門家でも「肉体の客観的な属性だけで性別を一意に断定する」ことはできないのだが、
断定できる前提でそうした言葉を使うのは乱暴では?と感じている。
・外性器
精巣・卵巣の有無と外性器の形が一致しないケースがある(仮性半陰陽など)。
・遺伝子
XY型を持つが膣を持ち胸が膨らむケースもある(アンドロゲン不応症など)。
このような場合、自分の性別に疑問を持たないまま一生を終えるケースもあるという。
・ホルモン
薬物などを一切使わずともテストステロンの値が外れ値になる人がいる。
・精巣・卵巣の有無
真性半陰陽のように、精巣と卵巣どちらも持っている人も存在する。
様々な要因で機能しなかったり失われたりするので、判断材料に適さない。
これらのようなケースでは、どんな性として生きるのかは、さまざまな要素を総合した上で、家族や本人の意向を踏まえて個別判断するようだ。
「肉体の客観的な属性だけで性別を一意に断定する」のは乱暴で、肉体的にその属性を持たないシスジェンダーも無視してしまう。
また、上記のようなことを考慮しないまま、揶揄や中傷の意味で「生物学的」「生得的」「身体的」と使っている人も多いように見える。
ので、妥当な共存ラインを探りたいだけなのであれば、あまり使わない方がいいと考えている。
13:09
書こうと思ったけどやめた件について言及ついてたので早めに追記しておく。
量的な話:
1%しかいないケースには個別に対応したり診断書を求めたりすればいい、同意です。だってトランスジェンダーも1%しかいないので。
トランスジェンダーに関しては例外処理なく肉体属性で一律排除せよ、医師の診断書があっても戸籍や手術が自分の定義と一致しなければ移行先の性別とは認めない、と言う人もいるんですよ。
大事なのはその人がどういう状態かつ何を目的に何を求めてて、それにどう対応するかの、いわゆる合理的配慮と考えています(そのラインをどこに引くはもちろんケースバイケース)
個人が選挙に行くことを妨害する行為は、日本国憲法や法律に明確に反する可能性があります。以下にその理由を解説します。
• 日本国憲法第15条
公務員の選定や罷免についての規定で、「すべて公務員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」とあり、国民の選挙権が保障されています。
• 日本国憲法第44条
選挙権は法律の定める資格に基づいて平等に与えられるべきものとされています。
• **日本国憲法第15条(主権者の権利)や第43条(国会議員の代表性)**などに基づき、選挙権の行使は民主主義を支える基本的権利です。この権利を妨害することは、憲法が保障する基本的な政治参加の権利を侵害する行為とみなされます。
選挙の自由を妨害する目的で脅迫、暴行、詐欺、その他の方法を用いる行為は処罰の対象となります。この条文は、個人が自由に投票する権利を保護するためのものです。
たとえば、家族や他人が投票に行くことを言葉で妨害するだけでなく、投票所への移動を物理的に阻止した場合などは、上記の法律に違反する可能性があります。
選挙権は、民主主義社会における基本的な権利であると同時に責務でもあります。これを妨害する行為は、たとえ法的処罰を受けなくても、民主主義の原則を揺るがす行為として批判されるべきです。
4. 具体的なケースにおける対応
明らかな自由妨害と認められる場合は、法律違反に問われる可能性があります。
直接的な妨害行為ではない場合、法的には問題になりにくいですが、選挙権の行使を意図的に妨害する目的が認められる場合は違法となる可能性があります。
個人が選挙に行くことを妨害する行為は、憲法や公職選挙法に反する可能性が高いです。具体的な行為がどの程度の妨害にあたるかによりますが、民主主義の基本的な権利を侵害する行為として、社会的にも法律的にも厳しい非難を受けるでしょう。
元エントリの筆者です。
私のゲスな人生体験の雑記を、真剣に読んで言葉にしてくれて嬉しいよ、こちらこそありがとう(AIじゃないよね?笑)
私が摂食障害になるまで病んだのは、相手が他に本命彼女もいた人であり、外面よくしながら、私に対して人権も何もないような扱いをしてきたからだと思う。私も同意してた時点で完全な被害者づらするつもりはないんだけど。
彼女になった人への愛情があり、「こういうプレイやっても大丈夫?」とちゃんと事前に同意とりつつ、相手が心身傷ついてないかを確認しながら、要は愛情を感じれば、多少は要素を取り入れてもいいんじゃないかと思う。加減難しいけど。
S的なプレイが絶対ダメ!ってわかってたらまぁ、やらない方がいいと思うけど。
ちょっと前までなら「陰謀論」と言えば雑誌『ムー』なんかで取り上げられるオカルト・スピリチャル界隈を指す軽い言葉だったのに、今は政治・社会用語として報道で定着してしまっていて怖さを感じるわ
「推し事」とは、応援するアイドルやアーティストのために全力を尽くす活動を表す言葉です。しかし、日常の会話の中で使うと、その熱意が強調されすぎてかえって奇妙に聞こえることがあります。まるで仕事の一部と化した応援活動を強調しすぎて、生活のすべてがその「推し」に捧げられているかのようなニュアンスが、少し重たい感じを与えることも。例えば、「今日は推し事が忙しいから無理」と言われると、一瞬「それって本当にそんなに重要なの?」と思わずにはいられないかもしれません。そんな風に、「推し事」という言葉は、その熱意の裏にある独特な雰囲気を持っているのです。
小学校高学年って大人と子供の「いいとこ取り」ができる貴重な2年間だと思うんだよね。
身体が丈夫になるし、自意識が芽生えて大人ぶったり恋愛ごっこが始まる一方で、休み時間や放課後はみんな仲良く外で遊ぶし、小学生ということで社会的にも「子供」でいられ、甘やかしてもらえるもんな。
これが中学生になると「いいとこ取り」のバランスが崩れてしまう。
中学に上がった途端に環境への不適応を起こしてしまう「中1ギャップ」という言葉があるけど、これは「競争」を意識した受験や、学年による上下関係の生まれる部活が始まることなどが原因とされている。
人には能力の差があり、身分の差があるという「大人の社会」の現実を中学生から見せつけられるわけだ。
中学生は社会的に「半分大人扱い」になり、自立を求められもする。
親や先生は甘やかしてくれない。
小学生の頃は受験も上下関係も恋愛も携帯も責任もなんもなかった。
過去を美化するあまり、あの頃の負の部分を隠してしまっていると思う。
それでも、俺にとっては”小学校高学年”時代は紛れもなく幸せだった。
戻りてぇなぁ。
「擦り合わせる」という言葉を使ったけれど、これが意味するのは「価値観の相互理解」
オーシャンゼリゼ~
ここは花の都パリ!
フランスで言うところの紙袋からフランスパンがカッコよくはみ出していてもカッコいいような風景。
日本でもそんな同じような光景をネギで見たことあるかも知れない。
その時たまたま、
私が目にしたのは
それは会計を済ませレジを通過したところに存在するお買い物したものを袋に詰めるエリアで繰り広げられていた。
その時の光景は今でも私の目に焼き付いているの。
その一瞬の隙に
全てが終わったあと、
高く空中に放り上げられたレジ袋が彼女の手にふわりと商品が入れやすいように口が広がって舞い降り戻ってくる。
そうカッコよく長ネギは見えるみたい。
でもその時のその人はそれが許せなかったらしい。
それからは手早く本当にまた瞬く間に
私はそんな光景を初めて見たのよ。
それこそネギの汁が出ていたらそこはネギの血で染まっていたかも知れない。
と言うべきだったかも知れない。
少なくとも買い物を詰め込んだ袋の中がネギの汁で他の商品がベタベタになってないことを祈ったわ。
その様子を見ていた私とその人とで目が合ってしまって
圧倒されていた私は
その葱を膝で一瞬でへし折る鮮やかな技をみてグッドジョブとサムズアップをしたの。
ここでは勝者こそが正義!
でもやっぱり、
やはり私はそう忠告すべきだったのかも知れない。
いや今からでも間に合う!伝えよう!
すでに彼女はもう去っていた、
じゃあなと背中で言わんばかりのあだち去りをしながら。
私は彼女の買い物袋の中がネギの汁でベタベタになっているのかは定かではない。
彼女の今晩の食卓のメニューが長ネギをふんだんに使った鍋だということを願うしかなかった。
包丁のような鋭利な切り口じゃない断面積が最大に大きくなるネギの膝折だから。
きっと美味しい鍋になるだろうと思う。
少なくともネギまるごとをそのまま1本のお箸替わりとして使う、
この日、
しかし
大根はそのまま折られずに1本まるまるの長さでレジ袋に入っている姿を見て
うふふ。
最近納豆巻き率高しで人気急上昇中の私の中の納豆巻きは朝の元気の源をいただく黄色い元気な色のタマゴに加えて色は茶色いけれどとってもセクシーヤミーなのよ!
これは手軽に食べられるから最強外出時ニューヨークスタイルで片手で持って食べ歩ける街でも恥ずかしくない姿よね。
この手軽さがいいのよ。
外出時にはネバネバを敬遠して食べないがちだけど
手巻きとなると話が変わってくるのよ。
美味しい納豆巻きいいわね。
元気の源よ!
ちょっとお味噌加えたらそれはもはやお味噌汁ってなるかも知れないけど
この濃さの限度の境目ってどこなのかしら?
この境目を研究するのもホッツなことかも知れないわ。
さすがにそれは今朝はしなかったけれど
ネバネバ系を得たいのなら
そんな色々なことを考えながら飲む朝のホッツ白湯ストレートウォーラー!
しかも飲み頃70℃!
ペキカンよ!
いい朝ね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
東大文一に落ちて早稲田大学法学部に進学した息子が司法試験の勉強をしている。
私は努めて平静を装い、母として「頑張ってね」と声をかける。
でも心では思う。
どうしてもっと10歳から12歳、16歳から18歳という人生で最も重要な6年間に今の頑張りと結果を出してくれなかったんだろう、と。
その6年間にかけたお金と手間を思い出し虚しくなる。
第一、仮に予備試験と司法試験に合格したとして早稲田大学法学部から裁判官や検察官になって何の意味があるのだろう。
判事ならその大半を最高裁事務総局付や最高裁判官調査官として、検事ならその大半を法務官僚として過ごす。
そしてその先に高裁長官、最高裁判官、最高裁長官、法務次官、東京高検検事長、検事総長という職務が待っている。
それが一流だ。
法廷に立って犯罪者を裁く判事、送検された被疑者を取り調べて被告人にして法廷で責め立てる検事は現場で働く現業職であり二流なのだ。
なせわそれに気が付かない。
だからお前は二流なんだ。
そんな言葉を飲み込み、頑張ってねと声をかける。
そもそも「先進国として垢抜けない」とは言ったが「洗練された国がある」とは一度も言ってないよね。
洗練って言葉を勝手に幻視してからの「そんな国ない!」と虚空キレムーブしてきたのはそっちだし。
どの国も垢抜けないところはあるだろうが、日本を指して垢抜けないという表現をしたのは、技術的にも産業的にも零落が目立つ日本の現状の不甲斐なさを表現するための修辞の一つでしかないってこと、普通は分かるよね?
言葉尻に囚われすぎて、物事の本質を大局的に見る能力が著しく低い、そして脱線しようとしたがるのは、非生産的・非論理的なことにこだわってコミュニティ全体の意志を統率することを重視しすぎるムラ社会型人間の悪しき思考回路なのである。
元増田ですが、何もせず苦しませて生かすということではないから「緩和ケア」と言います。
薬で痛みを和らげてあげたりストレスなく終わりを迎えられるようしたりするということです。
また緩和ケアというのはペットだけではなく人間の医療でもこの言葉は同じような意味で使われますから、簡単に考えられてそう発言されたなら、今後いつか知識を深められた方がいいかもしれません。
もし死ぬことが避けられない場合で緩和ケアしないならば、それこそ本当に「病気の苦しみを感じながら死を待つ」ということになるからです。
「緩和ケア」という医療やその効果を否定し何もしていないことと同じだと、私の猫に安楽死がお勧めだとお考えになられているならば、あなたの考えのままに、もしもあなたの大切な家族が病で死が近いときには「何もせず苦痛を取り除けないまま生きるだけだから緩和ケアはいらない」と、痛み止めなども利用されない方法をお勧めされたらいいかと思います。
「何もせず苦痛を取り除けないから緩和ケアして生かすのは可哀想、人間のエゴ」というのがあなたの考えであるから、あなたの思う一番良い方法を私にもお勧め頂いたと思うので。
でもあなたの「苦しみながら生き続けるのは嫌なことだ、可哀想だ」というお考えは伝わってきて理解できますし、話されたい趣旨は分かります。
ですから私は…あなたの考えを無視した失礼な例えかもしれませんが、もしあなたやあなたの家族が病気になってしまったら、「苦しむのが怖い」という気持ちが強いあなたにこそ緩和ケアは必要なもので、お勧めしたいと思います。
まだ少しご飯を食べていてわたしに親愛の表現をしてゴロゴロいっている猫ですが、最期に怖い思いをさせて、病院の台のうえで「人による確実な死をすぐに与える」というなら、それはそれで人間のエゴで、「わたしの猫にとっては」それは悲しくて苦しい、可哀想ではないか、と私は考えます。
(これは私の猫に対する私の考えです。治療の末に『苦しませたくない』とその方法を選ばれた方がいらっしゃることもまた理解していますし、それはそれで愛だと思っています)
「飼い猫」であり「自然環境」で生きているわけではありませんからエゴというならばどれもがエゴで、「これが絶対正しい」というものはなく、飼い主が愛情を持ちながら猫の様子を見て、その時々で選択していったものが「正しい」のだと思います。
私は、悩んで出した自分の判断が「それが猫にとっていいものだ」と考えていますし、自分のエゴで選んだ結果は最期まで自分で責任をもってお世話して、わたしの猫の命を見届けます。
女優じゃなくて竿役。はげて、肌は油で光っているけれども、痩せて弱そうなおじいちゃん。
まあ、よくみたら他人の空似だったんだけれども...
ただ、なんか萎えてしまって、体も重くてベッドから起き上がれないから、布団の中でぼーっと先生のことを思い出していた。
数学を教えていたその先生は、生徒からも教師陣からも評判が良くなかった。教え方は下手だし、何よりやる気がなかった。
しかし、数学の試験で何度も落第していた私は、成績についての面談で少し仲良くなっていた。面談で先生は怒らず、雑談ばかりした。
職員室の隅に席を持つ先生は、教室の隅にいるような生徒にやさしかった。
「どんなことでも、6年間、毎日続けてやったら、モノになるよ。君のガラなら、将棋とかだな。今日からやるんだぞ。」「じゃあ、先生はやったことあるんですか」「うるせえ、それができたら、教師なんかもうやめてるからな」
それからもう7年たつ。
結局私はほとんど何もしなかった。
運動は下手だからとやらなかった。本は多少読んだが、集中力が続かず、完読したものは少なかった。将棋は、せっかちな私にまるで向かなく思えた。
何事もやるなら一番になりたかったが、そのためには、どんなことも今更やるには遅く思えた。
ただ一つ、続けていたことがある。
部活にも入らず、趣味も持たず、親にゲームやテレビを禁じられていた私は、自宅に帰ると自慰に励んだ。想像でも十分だし、時代小説のサービスシーンも役に立った。
同級生が部活帰りにみんなで眺める夕日を、私は賢者タイムの中一人で見ていた。行為後の散歩で眺める地元の景色は美しかったが、役に立ちはしなかった。
残ったのは、伸びたチン皮だけ。しっかり剥けはするけど、本当に情けないその見た目が恥ずかしく、銭湯も温泉も行けたものでない。快楽と怠惰に逃げ続けた私にふさわしい成果だ。
何度、行為後に自分を情けなくなったろう。助けてくれと思ったろう。でも、それも今日までだ。明日からは、無理なら明後日から。こんなことはやめて、何かをやろう。勉強をしよう。人と話そう。勇気をもって銭湯に行こう。そう思いながらもチン皮をくちゃくちゃ揉んでいる私を、思い出の中からよみがえった先生が「どうせ今回も同じだよ。お前はそういうやつだからな」とケタケタ笑っている。