はてなキーワード: 教科書とは
ここでは、彼の凄まじい軌跡を20項目にわたって振り返り、彼のアイドルとしての偉大さを再確認しようと思う。
ドラマ『ロングバケーション』での主演は、社会現象レベルの大ヒット。放送後、多くの男性がキムタクの髪型を真似し、ピアノ教室への入会希望者が急増したとか。
弁護士役を演じた『HERO』は視聴率34.3%を叩き出し、日本全国で「検事ってカッコいい」という認識を広めた。法曹界の人気も上がったとか。
『SMAP×SMAP』の「ビストロSMAP」コーナーではシェフ役をこなし、プロ顔負けの料理を披露。彼が作った料理を目当てに番組を観ていた人も多数いた。
『グランメゾン東京』でフレンチのシェフを演じた際、その技術力の高さに実際のシェフたちからも賞賛の声が上がった。木村自身も本格的なフランス料理の修行をしたという。
昔から美しすぎて、中学生時代にファミレスでバイトしていたときには、わざわざ顔を見にくる女子が多すぎて、接客に支障が出るレベルだったという。
工藤静香との結婚は、日本中を震撼させたニュース。当時のファンにとってはショックな出来事だったが、二人の夫婦生活は今でも仲睦まじいとされている。
ドラマや映画で着る衣装は、すべてキムタク専用のデザインで作られているという噂があり、そのスタイルを再現しようとするファッションブランドも数多く存在。
キムタクは、ある小学校の教科書に「現代のカリスマ的存在」として紹介されたことがある。社会科の「現代日本文化」の一環として。
SMAPの解散発表は国民的ニュースで、多くの人が号泣したとか。特にキムタクの涙ながらの謝罪会見は、ファンにとっては一生忘れられない場面だった。
キムタクが演じたキャラクターや映画が大ヒットしたことで、一般市民の間で「キムタクに憧れて始める」現象がいくつも発生。スノーボードやフランス料理などがその代表。
キムタクが出演するドラマやバラエティは、ほぼすべて瞬間視聴率ランキングでトップを取り続けた。これはほかのタレントでは成し得ない快挙。
若いころにバイク事故に遭ったことがあり、その際も「顔は傷つけないようにガードした」という逸話があり、彼の美しさへのこだわりが感じられる。
キムタクが髪を切るたびに、美容室がその髪型のリクエストで埋まる。彼のヘアスタイルを真似るために、多くの男性が髪を伸ばしたり、パーマをかけたりした。
キムタクがドラマやプライベートで着けていた腕時計が、瞬く間に売り切れになり、時計業界では「キムタク効果」と呼ばれる現象が定着した。
15.「世代を超えた人気」
20代から50代まで、世代を超えて彼のファンが存在する。しかも、世代間で好感度が高いというのは異例中の異例。
16.「名刺渡しの達人」
ドラマ『HERO』で見せた名刺の渡し方が美しすぎて、「キムタク流名刺の渡し方」というビジネスマナーが生まれたほど。
トヨタのCMに出演した際、車の売り上げが急上昇。キムタクが乗っていた車を買うために、多くの人がディーラーに殺到した。
若手俳優やアイドルが「尊敬する俳優」として名前を挙げることが多い。特に、その演技力とプロ意識は、多くの若手に影響を与えている。
24時間テレビで行ったスピーチが感動的すぎて、視聴者が涙した。彼の言葉の重みと真剣さが心に響く瞬間だった。
キムタクは、自身がモデルのゲーム『ジャッジアイズ』でも大活躍。ファンの間で「ゲームでもかっこいい」と話題になり、その人気はゲーム業界にも広がった。
木村拓哉の存在は、単なるアイドルの枠を超えている。彼の影響力は今なお健在で、20世紀だけでなく、21世紀にもその名を轟かせているのだ。
山田尚子監督作品を面白いと思ったことないが、視聴前に賛否の評を眺めてて、明らかに否の意見より賛の意見のほうが熱量も説得力も強かったので、これならいけるかなと思ったがやっぱり合わなかった。
今作は「言葉に出来ない」ことに向き合った話らしい。実際、セリフが全部無音だったとしても話や気持ちの伝わる作りになっている。そこは素直に良かったと思うし、そういった作品を作るためのスタッフを呼べるような若い監督がアニメ界にいるのは喜ばしいと思う。
もちろん直接的な説明は避けてるのよ。でもこういう場面でこういう会話がされるという事はこういうことを抱えていてみたいな、教科書的に連想できる表現や台詞が多いんだよ。
例えば退学女と祖母の食卓、二人の学校に対する想いのすれ違いが描かれてるが、わかり易く描きすぎ。このシーン無くても、退学した事実、それを伝えてないこと、祖母と仲が悪い訳じゃないことは表現できている。しかも悩みの種類自体が話の根幹に関わらないのだから、省略できるはずだ。家の背景や、台詞になってない言葉で既に理解できることを、会話まで入れて分かりやすく説明しちゃったら、その後の芝居が伝わるのは当前というか、ネタバレされた状態で見てる感じになる。
細かい所だが、捨てられてたソファを見てラッキーとか入れなくていいし、通り過ぎた後に戻るシーンと協会に搬入するシーンを繋げれば充分だ。ライブ後の中庭でバレエ踊るのは名シーンだけど、見えたとか言うな。それは絵で見せろ。
あと日常描写少なすぎな。トツ子が友達とだべってる所は殆どないし、彼女の見える世界や、それをどう音楽に落とすかの思索に終始している。音楽でサクセスする話ならいいけど、そうではないのだろう?もっと何でもない日常を描いて、その中から浮かび上がる感情を見守るコンセプトだと認識していたのだが違うのか?
退学女も言えずに溜め込むタイプなら、もっと音楽とバイト以外での独りで考えるシーンがあったほうがいい。折角綺麗な舞台を作ろうという意気込みがあるのだから、彼女が学校に行くふりをして家からバイト先の移動を撮って、その足取りと世界の綺麗さに悩みが現れるのではないだろうか?
『リズと青い鳥』もそうだが、肝心の感情芝居とそれが芽生える過程をどんだけ丁寧に扱っても、野暮で説明的な作中作ぶっ込むのは台無しだ。動物動画に赤ちゃん言葉でアフレコ入れるテレビとやってること変わらないぞ。
アニメの恣意的な面白さと、リアルの深みを融合させたいのなら、高畑勲という偉大な先人がいるので、彼を見習って最低限有名なフランス文学(フローベール、プルースト、スタンダール等)とか読んだ方がいいんじゃないか。心理とその層表に現れるものと、取り巻く環境の外圧のせめぎあいは、既に百年以上前の作家がやってるし。
一番キショいのが、この作品を丁寧と絶賛してる奴ら。駄作が作られるのはどうでもいいし、どんどんチャレンジして欲しいけど、見る目ない人が持ち上げてたら今の芥川賞みたいな内輪ノリにしかなんねえだろ。
英語のspotty(adj. 斑の。斑入りの。斑点のある[3])[1]
フランス語のpetit(adj. 小さい[5])
仁科邦男は、英語のpatch(n. 斑点[6])に由来すると唱える。
チェコ語のpojd' (v. (こちらへ)来い)jit(≒go)の二人称単数に対する命令形※不規則変化[7][8]
米川明彦によると、文献初出は小学校国語科教科書『讀書入門』[9]である。小学校教科書や唱歌に登場することにより、1900年代初頭には一般化したと考えられる[10]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%81_(%E7%8A%AC%E3%81%AE%E5%90%8D%E5%89%8D)
野球が好きすぎて毎日ツイッターで野球中継のツイートして、どんな話をしても野球ネタで例えようとするおじさん
◇まずこれは褒める気あるのか?というような下手くそな褒め方をするやきう大好き子供部屋おじさん
「**はプロ野球の監督なのに対して、この人は高校野球の監督みたいなもの」みたいな例えを使った。
このやきうおじさんの中では純粋な褒め言葉のつもりだったらしい。
プロ野球の監督も素晴らしいし、高校野球の監督も素晴らしい。どっちも特徴があって良いと言いたかったらしい。
ただ、そんなもん「お前の中ではそうなんだろうなお前の中では(=やきうおじさん特有の狭い常識=イデオロギー)」でしかない。
例えが下手すぎるし、空気も読めてない。
そもそもこれを聞いた相手がどう受け止めるか想像できていなかった。
「どういうつもりで発言したかしりませんが、ともかくこういう表現は迷惑だからやめて」
と怒られてしまった。
よほどのアホじゃなかったら、悪気がなかったとしてもまず「誤解を招くような表現をして申し訳ない」くらい言う。
このおじさん、どういう反応をしたか?
「高校野球の監督がプロ野球の監督より劣るという受け止め方をするのは教養の問題」
みたいなことを言い出した。
横で聞いてるだけの私ですら「う、うわあ・・・」としか言えなかったわけで直接言われた人は完全に「は?」って感じだっただろう。
ブロックした後も被害者ぶって、ネットで毎日のように「オレはアイツのことを褒めてやったのに!あいつはオレのことをバカにしやがった!」とキレ散らかす毎日。
自分が余計な発言しなければよかっただけなのに、この人の中では今でも自分は何も悪くないらしい。
NHKは全国の人にわかりやすい言葉で放送していて、同時にそのような言葉を共通語だと言っている。
しかし思うのだが、この「わかりやすい言葉」とはどういうものだろう?
どこにいっても伝わるような言い回しというのは江戸以前からもあって、NHKはそれを拾い集めて使っているのだろうか?
それともNHKによってお仕着せ的に放送され続けた言葉が「わかりやすい言葉に『なっていく』」のだろうか?
前者の可能性は否定できないものの、少なくとも後者はおかしい。
よっぽど引きこもりでテレビが自分にとっての世界の全てという人でもないかぎり、テレビから離れればすぐにその地方地方の周囲の人の方言を聞くことで言語感覚は方言人のそれへリセットされる。
言葉を覚え始めの幼児すらテレビの共通語ではなく身の周りの生身の人間が話す方言を使うのはなぜか。
それは幼児ですらどちらの言語にプライオリティを置くべきか理屈以前に脳で区別されるからだろう。
逆に言えば一度覚える対象から外れた言語は比較的触れられる状況下にあったとしてもなかなか吸収されない。
テレビ以外ではその地方の方言だけど、テレビだけはアラビア語しか流れない環境下のあっても、おそらくその子が話すようになるのはもっぱら日本の方言で、アラビア語を使いこなせるようにはならないのと同じだ。
で、言語習得の臨界期を超えて「共通語を学ぼう」と思い立った時には共通語はもはや英語などと同様ただの異言語などで、これまた聞き流しているだけで意味が理解できるようになるという可能性はついえるわけだ。
私の親の実家は東北だが、電話で実家と話している時1文字分すら何言ってるのかわからない言葉を話している。
そんな人でも首都圏で家庭を持つに至っては比較的共通語に近い首都圏方言を話すようになるのは不思議でしょうがない。
私があちらの方言をマスターできる自信がまるでないのと同じように、逆も無理なはずと考えるのが筋だろう。
共通語を使っているテレビは、今使っている共通語がどういう意味か語学番組よろしく逐一解説を挟んでくれることはない。
アラビア語でそれだったら一生アラビア語が何を言ってるかわかるようにならないのと同じように、同じ日本でも東北と共通語ほど違いある言葉を解説なしに垂れ流しにされても一生理解できるようにはならないものではないのか。
首都圏方言と共通語の違いは語尾にじゃんがつくかつかないみたいな瑣末な違いがある程度で、むしろそういう違いをことさら指摘されるか、自力で日本語学の初歩を身につけるでもしなければ、むしろ区別がつかない人がほとんどだろう。
共通語と首都圏方言をごちゃませにした短編を作っても、よもやほとんどの人はこれが二つの言語によって綴られていると気付けないと思われる。
さてそういう共通語は誰にでもわかりやすい前提なので、テレビと同様に学校でも教科書に書かれている共通語について一文節ずつ自分たちの方言との対応をおしえてくれはしないはずだ。
少なくとも首都圏の学校に通っていた俺の場合はそうだった。東北とかでは違うのだろうか?いやそんなはずはない。
で、だからこそどうなるか。言いたいことはここからごくわずかなものだ。
「共通語なんてないからこそ、教科書もろくに読めず落ちこぼれる人の問題が起こっているのではないか?」
つまり訛りの強い地方ほど共通語の教科書を見ても自分達の方言との類似性からの意味の類推も困難になり、だからといって誰もことさら解説しない、しかしそういうものだと諦めて、落ちこぼれるのではないか?
昔から兄とは性格が合わなかった、物心がつく前に両親は離婚して高校卒業までは母親と兄と祖母と4人で暮らしていた
小学生の頃の兄は対戦ゲームで負けそうになると対戦相手の私を殴ってくるし、一緒に自転車で通ってた塾の帰り道で兄が転んだので無視して進んでいたら置いていくなと怒りながら泣いて追いかけてくる
私が旅行のお土産で買ったキーホルダーを兄は自分の物だと言い張り奪ってきたので、母に言いつけたが最終的に私が母から殴られてキーホルダーは兄の物になった
甘やかされてわがままに育った兄は中学生になると同級生からいじめられていた、暴力はなかったようだけど悪口や教科書をボロボロにされたりしていた
このときばかりは家でも大人しくなっていたのですごく助かった、しかし母が兄に関する心配からのストレスで精神がおかしくなり少しでも気に食わないことがあると私に暴力を振るうようになった
祖母はあまり口出ししないように立ち回っていたので、中学生の頃には家で常に孤立しているような状況だった
高校になると兄は地元から離れた高校に通い小学生の頃のわがままさを取り戻していた、私の物を奪ってきたりと小学生の頃と変わらない兄を擁護し昔と変わらずに暴力で解決しようとする母に対して今まで我慢していた感情が溢れ出してしまい私の反抗期が始まった
これまで受けてきた暴力や理不尽な仕打ちを返すように家族と喧嘩が起こるたびに家具や壁やドアを殴って壊し、兄が相手の場合にのみ兄をボコボコに殴っていた
そんな私が気に食わない母と兄は嫌がらせをしてくることばかりだったが高校卒業とともに家を出ることで私は精神的な安定を手に入れることができた
実家にいる頃は家族のストレスで勉強に手を付けることができなかったので頭が悪く進学できる学校の範囲が狭かったため、学校の授業で好きになったパソコンを学べるIT系の専門学校に進学した
兄も同じく頭が悪いためビジネス系の専門学校に進学した、進学と同時に家を出て小さい不動産会社に就職したが同性の先輩からセクハラにあい数ヶ月で退職した
その後兄はしばらくフリーターで一人暮らを続けていたが金銭的に厳しくなってきたため、高齢になり将来が不安になった母からの希望で30歳手前で実家に戻ることになった
私は初のシステム開発がデスマーチで月の残業が120時間以上だった、それが半年程度続き鬱となり会社を退職した
2年ほどフリーターをして鬱を克服してから小さいシステム開発に就職し、さまざまなシステム開発に携わった
実家の頃のストレスと比べると大したことはないのと鬱になるレベルの残業を経験したことで大抵の仕事は余裕でこなすことができた
それでも中にはハードな仕事もあり、同じ会社で長く働き続けるのは厳しいと思ったため転職することにした
自分でも意外だったがそこそこ大きい会社へ転職することができ、20代後半に差し掛かったところでようやく余裕のある安定した生活を送ることができるようになった
https://anond.hatelabo.jp/20240904005812 の感想と個人的な考えの羅列
自分を含む多くの男性にとって、スキンケアは日常習慣の一部に過ぎない。もちろん日焼け止めや化粧水、乳液は教科書通りに使っているが、それは風呂に入ることやヒゲを剃ることと同じ、日常のルーティンである。
しかし、上記の記事に見られるスキンケアへの熱量は、異常なほどに高い。この熱量の背景には、肌に関わるルッキズム、社会的な要求、自己投資、官能、評価のあいまいさ、そしてコミュニケーションツールとしての側面があるのではないだろうか。
美しい肌は「中流」以上のコミュニティに参加するためのドレスコードの一部となっており、それが一種のルッキズムを生んでいる。
(この中流が何を指すのかは人によって異なるだろう)
スキンケアとは、その価値観に対する投資行為だ。しかし、この投資は常に変動し続けるものであり、スキンケアを続ける限り、終わりのない旅が続く。
スキンケアは単なる自己投資にとどまらない。自分の肌を観察し、手で触れ、歓びを伴う行為である。これはセルフケアの中でも最もフィジカルで、最もプリミティブで最もフェティッシュなものである。スキンケアを通じて、自身の肉体と深く向き合うことは自己肯定の行為にほかならない。肌に直接触れることは、他者の評価に依存せず、自分自身をケアする極めて個人的で感覚的なプロセスだ。
容姿に関する特徴のひとつは、その定量的な評価が極めて難しい点にある。美しさを完全に数値化することはできず、どのスキンケアが「最適」であるかを判断することも、無限に新しい製品が登場する中で困難だ。自分に合うものを見つけるには時間と試行錯誤が必要であり、その過程で「暫定的な解決」に達することはあるが、加齢や体調により状況は変わる。つまり、スキンケアとは常に変化に向き合う行為なのだ。
興味深いのは、スキンケアが単なる自己ケア以上の役割を果たしている点だ。スキンケアは女性同士の間でコミュニケーションの一部となり、容姿に関する話題を提供する。それは「機材談義」に似た、平和で楽しさを伴う話題だ。お互いの容姿レベルを直接的に評価するのではなく、グルーミングコミュニケーションとしてのスキンケアは、お互いを気遣いながら行われる。
最後に、肌は常に改善の余地がある要素であり、盆栽的な要素がある。
完璧な肌を手に入れることは難しいが、少しずつ改善していくプロセス自体が楽しみの一部なのだろう。(元記事の主張もそこにある)
こういう情報を頭からバカにして「科学的エビデンスがない」って言う男が多い。
でも、皮膚って立派な臓器だし皮膚科って診療科もあり古くから研究されている。化粧品会社や化粧品の原料会社も、研究所を持ち論文を出している。
普通に考えればエビデンスがあるのが自明なのに、とにかく女がやってることはとりあえずバカにしとくって根性が身についてるから「プラセボ」だの「金ドブ」だの言うんだと思う。
エビデンスエビデンス言う人のために、一般向けのスキンケアの参考書を紹介する。
美容家とか化粧品関係者とか女医が書いた本はどうせバカにするだろうから、皮膚科の偉い男の先生が書いた本に絞る。
コスメマイスター、スキンケアマイスターは化粧品業界の資格で、化粧品販売とかに関わるおじさんたちもわりと受検してる。教科書もユニセックス対象に書かれてると思う。
この2冊の著者の川島先生は光老化、アトピー治療の第一人者で、化粧品業界や美容業界にもパイプが強い。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E7%9C%9E
皮膚の仕組みとかが半分ぐらい。純粋に面白かった。著者の田上先生は皮膚科の重鎮みたいな先生。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%8A%E5%85%AB%E6%9C%97
同じ著者の「皮膚の医学 肌荒れからアトピー性皮膚炎まで 」https://www.amazon.co.jp/dp/B00LMB0C4A は手に取りやすい。ただし1999年の本でちょい古い。
今はもうちょっと進歩してるので、これだけ読んでわかった気になると良くないかも知れない。
余談だけど、化粧品の害を煽るみたいな本ってだいたい1970年-1980年の情報が下敷きになってて、現状と全くあってなかったりする
医療従事者向けの本で高価だけど、文献へのポインタあるのでおすすめ
何を選ぶか、何を必要かってのはこのへんの本読んで皮膚の仕組みを学んでからでいいと思う。
たとえば「脂でベタベタなのに何か塗らないとダメなのか」みたいな話は皮膚の仕組みを知ればおのずから答えが出るし、「化粧水はすぐ乾くのに塗る意味あるのか」は化粧品の役割を知ると納得できると思う。今は化粧品の成分もパッケージに全部書かれてるので、何が入ってどういう役割を果たしてるかは成分の教科書みるとだいたいわかるよ。
意味がわかると面白くなるのは他のジャンルと同じで、なんにしたって自分で調べて考えるに越したことない。
戦争とは教科書通りに行かないもので、ロシアの無計画性と核恫喝の効き目などを与件に入れた結果、21世紀に塹壕戦による押し合いへし合いが現実に行われている。
機甲部隊による突破がドローンで封じられると「安上がりなトライ」としてバイク特攻が試みられる、このグロテスクさ。
ところで塹壕を守るのは人である必要性があるのだろうか。カメラ付き据え置きリモコン機関銃(自爆スイッチ付き)は不屈の守備兵よりよっぽど頼りになったりして。
この記事がブクマでわりと反発されているのがよく分からない。もちろん、著者のシロクマ氏の考えも予想もすべて正しいとは言えないし、未来のことなんて誰にもわかりようがない。氏が最後で述べているように予想には極端さもあるが、これまでと現在の日本の趨勢に鑑みれば、決して頓珍漢なことを主張しているわけでもないと思う。
怒鳴り声ないしは怒りの感情だけが特殊で、排除される対象たりうるのだという声もある。しかし、現にそうはなっていない。記事中に例として挙がっている「赤ちゃんの泣き声」なんかは典型的な例で、一部ではすでに排除されているものだろう。マイナスの感情に限らず、「笑い」であっても、その表出が過度になれば煩わしいものとして眉を顰める人はいる。
記事で述べられているのは「低感情社会」であって、「無感情社会」ではない。タイトルにもあるが、皆が仏頂面の社会ではなく、「ニコニコしていなければならない社会」の話をしている。一部はここを誤解しているように思える。中学校の教科書に掲載されているので知っている人も多いだろうが、「素顔同盟」という短編小説がある(教育出版のWebサイトで全文が公開されている)。アルカイックスマイルの仮面を全員が付けることによって平和な社会が保たれている、という設定の物語だが、まさにこのような話をしているのではないか。そう考えれば、ブコメにもあるような「接客業の作られた笑顔」は、高感情社会ではなく、低感情社会の一側面と言えるかもしれない。
おそらく、この記事で述べられている社会が到来するとしたら、それはスイッチが切り替わるようなものではなく、非常に緩やかな価値観の変化として現れるだろう。もしかしたらそうはならないかもしれないが、しかし、「そんなわけない」と安易に切り捨てられるような話でもないだろう。
「教養」って言われてるものって学校の授業でやったようなことばかりじゃない?
高校までの教科書の中身が全部頭に入ってれば大体なんとかなる。
そっから知識を更新していくのも、毎日ニュース記事を10個ぐらい頭に入れてたらどの分野でも満遍なく網羅できるレベルだと思う。
スポーツ選手やアイドルのことだって、10年後に話題になるのは当時のトップ記事レベルだから、新聞の1面に書かれていた内容が頭に入ってれば思い出すだけ。
「それなりの記憶力」があったら、ただ生きているだけでこういった知識が身についていくはずなのに、何故かそのレベルが「教養」って言われているんだよね。
でも皆テレビやニュースはそこそこ見てるし、高校ぐらいまでなら皆通ってて授業も受けてる。
ここまで来たら結論は「それなりの記憶力さえ持ってない人が世の中には大勢いるんだろうな」ってことにしかならんと思う。
つまり、「教養のある人間」って呼ばれているのは「生まれつきそれなり以上の記憶力があった人」でしかないんじゃないのかということだよ。
勉強してるとか、興味があるとか、時間の使い方が上手いとか、そういうのじゃないんだよ。
それを真正面から「そうか、君は記憶力がないんだな」と言われるのと「君、もっと勉強したほうがいいよ」って言われるの、どっちの方が残酷なんだろうな。
まあどっちにしろ「教養がない」って言い方は失礼だと思うし、「教養がある」って言い方もなんか違うと思うんだよな。
「これはこういうことだよ」と「君は色々知ってるね」の使い分けでいいと思うんだよね。
教養に何の意味があるか分からないと言ってるのを見かけたが教養はその人の育ちを手短に判断するための情報だぞ。
昔欧米ではシェイクスピアが分かるか分からないかで育ちや知的レベルが分かってしまうので、日本人はその辺りの暗黙の教養がない状態で留学して苦労した人がいたりする。
日本でも春はあけぼのだとか山月記だとか吾輩は猫であるとか走れメロスだとか国民が広く共有している教養としての文化があるわけだ。
先に述べた春はあけぼのレベルだと小学校中学校の教科書で学ぶから日本の義務教育程度は受けていると分かる。
もうちょっとレベルが上がると戦国武将や歴史に関わる教養になってきて、それが分かるとある程度ちゃんと勉強してるなというのが分かる。
格言を使えば何を言いたいかをショートカットして伝えられたりする。
ネットのスラングで例えるとggrksはショートカットされてて何を伝えたいか詰まってる。
ggrksが分からない相手だと、こいつはネットリテラシーが低いからこいつとこの話題に付き合ってもしょうがないとか判断ができたりする。
教養というのは当たり前に我々の文化に浸透して根付いているものなのでその有益性や活用について自覚してない人が多いかもしれないが、昔は非常に重要だった。
教養の有益性を感じにくくなったのは日本の教育レベルがある程度高くなり普遍的になったため、育ちや知的レベルを手短に判断するのに活用しにくくなっただけだ。
現代ではもうちょっと違うものが教養の判断に使われていくだろう。
ビジネス用語だとアジェンダとかアサインとかイニシアチブとかエスカとかある。
相手が分からないと、ビジネス用語が必要な界隈にいないのだなと判断できる。(逆に自分がビジネス用語を使う界隈にいるなどの余分な情報を相手に与えるケースもある)
教養が指すのが何かは文脈によって時々変わりあまりにも広い範囲の単語として使われているケースもあるが、本質としては相手のランクを手短に判断したり、お互いのランクが一定水準以上だと確認し合うために使われたり、そういう用途になっていると考えて良い。