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はてなキーワード: 教科書とは

2019-04-18

anond:20190418222541

少子化対策のためなら15とか16とかでもいつか男に犯されること前提で教育していいのかって話と男に犯されたいって言ってる女の気持ち悪さとそういう女の集団に突っ込まれて「結婚出産幸せですよね!!!!!!!」っていう教科書から女は子供生産機としか見てない社会への不快感しかないことの話なんですけど

男に犯されるとかそういう汚らわしいことに興味があること前提で話されても困ります

そういう行為の結果生まれてきたこ自体嫌悪してるのに!

2019-04-17

anond:20190416214033

教科書執筆なんてどんな大御所でもほぼボランティアだよ。

大学(か、場合によっては研究自由にさせてくれる企業)の職があるというのは、どんな大物でも研究をする大前提

anond:20190414230201

私は生活保護から東大に入って卒業したけど、ふつういいんじゃないのと思ったよ。周りの人が恵まれていることに無自覚なのにかなりイライラたから。ひいおじいちゃん教科書に出てくる学者です、とか、お父さんもこのサークル部長やってたんだー、とか。

2019-04-16

anond:20190416134111

ノーベル賞評価が固まってからなので

とる人はもう余生に片足かけてる

教科書冊書いてそれで十分くっていけてるレベルの「御大

酒に酔わせて無理やりセックスすれば無罪放免の流れ

酒に酔わせて数発セックスしても無罪です、って学校教科書に載せるべきだな。

ナンパ塾」講師ら不起訴大阪地検

https://www.jiji.com/jc/article?k=2019041600920&g=soc

2019-04-15

今年、第一志望だと周りに言い張っていた大学に進学した。

同じ学部に進む同級生が4人いて、全員違う学科。他の3人は友達ができるか不安だとか常に言っていたが自分は全く心配していなかった。高校で友人に恵まれていたから。同じ高校ほとんど同じグループにいて一緒に騒いでいたのに不安だという彼らに疑問しか抱いていなかった。

入学式後、身体測定やらガイダンスやらの予定表を配られ、ここかもしくは名前だけは知っている学科歓迎会なるもの友達作りができるだろうと考えていた。

だが、ガイダンスで集められた部屋ではすでにグループがいくつかできていた。これはまずいぞと感じ取って一人で座っている人に話しかけたが反応は薄かった。その日は座って説明を受け、軽く大学内の説明を受けて解散したがその間に声をかけてきてくれた人、話しかけに行った人と何となく話してみたが何というか、ノリが誰一人として合わなかった。初対面だし、まだ緊張しているんだろうなと思っていたが、ガイダンスが終わり、授業が始まっても変わらなかった。冗談も、ノリも、何もかもが合わなかった。話題を出してもすぐに終わり、続けようとしない。自身問題があるのかと言われれば断言はできないが、おおむね無いだろう。コミュニケーションをとるのは得意な方だし、人との接し方でなにかを言われたためしはおそらくない。

このグループワークが重要視される大学で、毎日気を使いながらコミュニケーションをとることを4年間続けるの無理だ。

話題や話し方、言葉遣いをどう努力してみても無理なのにさらに気を使うなんて。

しか歓迎会はうちの学科だけ行われなかった。例年は開催されていたらしいが今年はない。どうしろと。

毎日泣いている。家へ帰る途中で、家についてからも、大学から離れて同級がいないところへ行くと、勝手に涙が流れてくる。泣いてしまう。泣こうだなんて全く思っていないのに。

編入学も今この時点で考えたが、学費を考えると親になんか言えない。ただでさえ高い学費を払って入学させてもらい、パソコン定期券スーツ大学へ来ていくための私服やバッグ、教科書、体育費用、ほかにも支払ってもらっているのに。自分バイト代だけではどう頑張っても編入先の初年度の学費なんか払えない。

もう、死ぬしかないと思った。自殺するにしても、だれにも迷惑はかけたくない。樹海に行って死のうと思った。だけど、自分がただ死ぬだけでは支払ってしまった学費もったいないし、申し訳ない。

から生命保険下りるように死のうと思った。なのに生命保険自殺だとダメなんだって迷惑はかけるけど、交通事故で死のうと思った。でも、ちょっと注意すれば起きなかった事故とか、保険金のためだけに死ぬお金くれないんだって。じゃあ自分はどうすれば親に迷惑をかけないの。大学を続ければ費用はまだかかる。し、自分はもう大学には行けない。何かがおかしくなりそうだ。毎日泣きたくないし親にも迷惑をかけたくない。19が書いたぐちゃぐちゃな文章なんて意味なんてないのにな。大学エピソードがうっすらとしか書いてないけどきっと事細かに書いたらばれるし、書こうとすると嗚咽が止まらない。ごめん。誰にもどこにも言えないから書いちゃっただけなんだ。ごめんなさい。

高校友達と会って遊ぶのは楽しいのにな、この先だって仲良くしたいし、友達でいたいし、結婚式だって出たいのに、でも死にたいって思っちゃうんだよな。死にたいなんてファッションだったのに。今は真剣死ぬ方法を調べながら、ずっと死にたいって言ってる。今も涙なんか止まってくれないし。将来の夢もあるしやりたいこともまだちょっとあるんだけど、いまもちゃん死にたいよ。

自分が死んだら兄弟自殺した人の兄弟になっゃうのか、やっぱりそしたら生命保険金くらい降りてくれないといけないのに。臓器とか皮膚とか眼球とかって全部売ったら大金になるんだろうか。処理もしてくれるだろうし。ちゃん家族お金振り込んでくれるのかな。臓器って全部売ったらしねるのかな

anond:20190415110359

 男女別の名簿によってなされることは、まず女子生徒、男子生徒の明確な区分です。そして、その名簿に基づいて学校内の様々なシステムが動くわけですが、多くの場合男子が先、女子は後という序列とります。

仮に、義務教育高等学校12年間、この序列に浸れば「男が主、女は従」、「男は正、女は副」という序列が身にしみてしまうのではないでしょうか。

規則教科書に書かれている事柄ではなくとも、このような形で男女の役割分担が無意識の内に刷り込まれていくことを「隠れたカリキュラム」と呼びます。このような刷り込みをなくすため、混合名簿が県内ほとんどの学校採用されています

http://www.asuterasu-shimane.or.jp/swc/publish/21thhitotohito/chapter/03_3.html

2019-04-13

anond:20190413122017

台形の面積の公式の導入なんて教科書でもネットでもいくらでも転がってるのに

そのレベルの事を分からない時点でお察しだろ。

分かりやす数学教科書は返ってわかりにくい

分かりやすいという触れ込みの数学書にありがちだけど、現実世界への応用例や自然現象とのつながりを上手に説明してて、

なんとなく博識になった気にはさせてくれるけど、中身は表面をさらっとなぞっただけにとどまっていてあまり役に立たないものがある。

数学言語的な理解よりも何度も叩き込んで身体で覚えることの方が大事意味理解はあとからいくらもついてくる。

抽象概念の具体化と正確なルール運用こそが数学本質であって、かけ算九九の段階でそれに気付いてる人だけがマスターできるのだ。

https://anond.hatelabo.jp/20190411221341

anond:20190411221341

数学で使われている記号表記には、誕生した経緯があります

学校先生教科書は、「どうしてこういう書き方になったのか?」という由来から説明してくれた方が、生徒は納得しやすいですよね。

いきなり「これはこういうものだ。悩む必要はない」と押しつけられても、納得できない人は納得しづらいでしょう。

私も可能な限り省略しないで完全な記述にした方が分かりやすい、その方が好ましいと思うタイプですが、面倒くさい場合は省略形を使っても良いと思います

2019-04-12

anond:20190406224912

SSDじゃないけど近い業界企画・開発職してる.

僕もA氏もこの内容を理解しているし,リマーク品という指摘も妥当だったと思う.

「廃棄品」など扇動的表現技術系読者の鼻についたとも思うけど.

一般論として半導体特にNANDメモリは数社の巨大メーカーが大量製造する一方 製造ばらつきも極めて大きい.畑でとれる野菜と同じにね.

から動作検査で選別し,高品質品は専用の後工程を持つ自社ブランド(Micron),残りはグレード別にサブブランド(SpecTekとか)と分けて販売することで広いマーケットニーズ対応している.

「SpekTekマークの上にMicronと書くのは廃棄品利用であり偽物」というA氏の主張はこのビジネス特性に基づく.

そして皆の指摘どおり,今はドスパラこそ疑惑を認めた形に見える.

結局 メーカーであるRitekMicron製として部品を購入していないんだよ.

からリマークの経緯とか 性能例とか ウダウダ話をそらしてばかりいる.

コンプライアンス違反がない」というドスパラ表現は法的・ビジネス的には何の保証もない.

何を「無添加」にしたのかわからない回転寿司屋もあったね.

リマーク否定できないからこそ こう言うしか無い.

逆にあなたは何者だい?理系大学生

技術教科書は読んでいても ビジネスで苦しんだ経験はなさそうだが.

anond:20190411115210

俺が出題者ならこうするよな。

教科書には何と書いてありましたか: 肉を(   )が出るまでこねる。

こう書けば、答が一意的に定まるんだが、前半抜きで問題文がいきなり来ていて、(   )に汗って入れてたら×、って、実はおかしいんじゃないかと思うわけだ。□肉□食→焼肉定食、とかと一緒だよ。

四字熟語になるように□を埋めなさい: □肉□食

なら分かるんだが、前半抜きの問題に「焼肉定食」で何故×なのか。馬鹿教師はそんなことも考えないんだろうが。

anond:20190412011849

へえ、それでも一応不遡及を習ってはいるんだな、最近のお子さん?は。

昭和の昔は公民なんてそんなに詳しくやらなかった

(と思うがちょっと世代にきかないと年齢的に忘れているだけの可能性も大いにある)。

手元に昭和教科書なんて残っていないか確認できない。

楽ちんですぐおわる社会一種だとおもってた。

事実だとしたら元増田には噛み合わない話をしてしまたか申し訳ないな。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%B0%91_(%E6%95%99%E7%A7%91)

そうかー・・

2019-04-11

16年前に書いた文章が発掘された

やっと80年代回帰が始まった。この分だと、90年代回帰が始まるのは、2010年頃になるだろうか。

ラジオから流れてくる80年代ポップスカバー曲を聴きながら私はそう思った。

2010年。私が25歳になる年。同じ世代の大半の人がおそらくそであるように、私は25歳の私を想像することができない。21世紀に入ってからというものの、時間感覚が酷く曖昧で、今18歳であることすら、実感が湧いてこないのである

1995年と聞くと、つい最近のことに思えてしま自分がいる。2001年地下鉄の延伸。2002年サッカーワールドカップ日韓共催2004年アテネオリンピック開催・・・小学生の頃教科書に載っていた未来の予定が、どんどん既成事実になっていく。あの頃の私には教科書の中の未来はどれも実現不可能なことのように思えたのに・・・

ノストラダムスの大予言について、あれほど熱心に議論を交わしていた人々は一体何処に消えたのだろう?

ノストラダムス予言の年、私は14歳だ。結構生きられる、と思っていた。そして1999年7月1日ニュースでは、アナウンサー笑顔で「さて、この世界もあと一ヶ月になりました」と言うはずだと思っていた。まるで年の瀬ニュースのように・・・

人々は世紀末という言葉を忘れた。21世紀という言葉も、昔ほど使われなくなった。70年代80年代のことはよく話題にのぼるのに、今が何年代と呼ばれるかについては、誰も口にしない。

物心がついてから10年余りが経った。総理大臣は何人代わっただろう。冷夏は何回あっただろう。巨人は何回優勝しただろう。

私たち世代昭和最後の一人になりうる。何歳まで生きたら、昭和最期を見届けられるのだろう。明治はもうすぐだ。大正もすぐ後を追う。多くの人が愛した昭和が完全に歴史の中に入るのはいつのことだろう。

歴史は巨視的に見れば円軌道を回っているだけにすぎないのかもしれない。人はその一切片を直線であると思って生きていくしかないのかもしれない。

anond:20100912211411

anond:20190411221341

おことわり:わいは数学教師でも文科省でもないけどな

 

・∠ABC(角ABC)って言うのかが理解できない。

*みたいな図形の真ん中の交点がBの場合、他の2点を指定しなければどの角かを指定できたことにならないから、「AとCの方角にのびてる線にはさまれてて頂点がBである角ですよ」という意味でABCと呼ぶ。もちろんかくABCはかくCBAと同一の角である

  

・2(2x-3y)があったとしてなぜ×を省略するのかわからない

 

2×(2×x-3×y) だととても見づらいからです

 

函数

昭和前記まではそうでした。大学にいくとそう書いてよくなります(たしか大学で使った教科書にもそのタイトルのがあった)。当用漢字に函が搭載されてないか漢字教育の都合上関数とされただけです。

 

・台形だと上底+下底ってなるのか

台形の上底の幅を0になるまで狭めると三角形になります。その場合台形とおなじように(底辺+0)×高さ÷2という計算をやってるわけです。基本的に同じ式です。

 

なお、はてなには人力検索というサイトがあってこういう質問をいつでもうけつけてるぞ、増田はみたとおり煽りや嘘が平気で書ける場所なので本当に聴きたいことがあれば人力検索でid出してきいたほうがマシな答えが得られると思うぞ、老婆心まで(余計なお世話をしたときの決まり文句だぞ)

情報収集の難しさ

自分は今まで情報を集めることよりも、何かを考えることの方が難しいと思っていたが、実際は逆のような気がする。思考の仕方にはあらかじめ決められた型があるためそれを覚えれば良いが、自分にとって有益情報がどこにあるのか探し出すのは容易ではない。

学校勉強なら教科書を手に入れ内容を理解するだけで良いが、これが研究になると簡単には行かない。研究には教科書と言えるもの存在しないため、その都度、入手できる情報を集め、整理し、考える必要がある。この作業は地味にキツイが、必要ことなのでやらなければならない。

地獄のさんすうセット

子供が新小1なんだけど、用具の名前けがありまして。筆記用具やら教科書やらノートやら。それ自体はまあ普通で、幼稚園の時にも名前付けはありました。

ただ「さんすうセット」。これがいけない。なんだこれ。拙者たちの時分には無いものでした。サイコロおはじき時計模型etc…。色々ござる。1枚ずつに120までの数字が書いてあるカードとか。「けいさん棒」なんてのもある。綿棒くらいの大きさの棒が100本ほどござる。そして「けいさんかあど」、これも多い。2+3など簡単計算が書いてあるカードで180枚くらい。

数がそれほどではないけど細かい物もある。おはじきプラスチック硬貨得体の知れないマグネットブロック「すうずぶろっく」(訛りだろうか?)。

諸々入ったさんすうセットですけども、これらの名前付けってのが全部に対して必要である。全部?それってどういう範囲での全部です?いや、全部。全部?全部だ。

ひえー。手書きで?いやまさかまさか(笑)文明の利器、名前シールがあります楽天等でさんすうセット専用のものが売っております。大変便利、名前プリントされた大小のシールが約800枚入りでございます。これが文明でございます。いやいやいや。800枚ってお前。800枚入ってるって事は800個に貼るって事だぞ。馬鹿かこれ。しか名前シールにピンセットも付いてくんの。サービスいね。いやいやいや。ピンセット付いてくるってお前。ピンセットが必要作業って事だぞ。文明の辿り着いた場所がこれかよ。

このさんすうセットを入学式の日に渡される。3月中渡しの学校もあるらしい。しかし我が子の通う学校入学式渡しである。すなわち馬鹿である。これを授業始まる日までにやれってか。アホってか。共働きの家とかどうすんのこれ。できないでしょ。できんの。やれる?やれるのか、おい。専業主婦存在を前提とした悪しき時代遺産とかなの?でも昔こんなん無かった…。無かった…。

うちより大きい子の居る家から噂には聞いてたけど、ダメでしょこれ。いかんでしょ。そのくせ終わっちゃったら「いやあ、あれは大変だったねー」レベルの思い出になってしまうやつでしょ。こういう恨み骨髄まで達さない癖に大変な一回きりの作業って、改善もされないから一番ダメなやつでしょ。

アホ。やりたくない。今しろ。今どうにかしろ。350枚くらい名前シール貼った。半分いってないの?ア…ア…ア…(絶望の表情)

大体これ各家庭一つずつ所有する必要あんの?クラス備品にすりゃ良いんじゃないの。学校所有にして必要な時に貸し出しゃいいでしょ。と思って検索したら10年前既に通過した道だったわ

http://www.asahi.com/edu/tokuho/TKY200906010225.html

ただ通過してるわ。通り過ぎてて何も変わっとらんわ。殆どの家庭が一度しかやらないので廃止ムーブメントが盛り上がらない。私は現象になりたい。毎月末に各家庭のさんすうセットの名前を消して回る現象になりたい。そうすれば皆気付くであろう。目覚めるのです。

あとついでに、欠席の連絡もちょっと前に噂になった例のアレである。朝、近所の家に連絡帳を託して学校に持って行ってもらうシステム電話連絡は不可。なんだー。幼稚園だとアプリで連絡できて楽だったんだけどこれコミュ障の親子どうすんの?いや他人事みたいに言った。うちがどうすんの。名前シールも貼れない大人が朝からまともなコミュニケーション取れます?ほんでPTAからの配布プリント見たらベルマーク貼る係がいんの。あ、これもはてブで見たことある。何時間も掛けて0.5円のシール分類したり台紙に貼ったりします?良かったらうちのピンセット使います?マジかー。これも現実だったかー。私立校だと違うんかなー。なんかこう、私立だと凄いのあんじゃないの。そもそも電車通学の私立小なら連絡帳託すシステム無理だし。例えば電話で欠席の連絡が可能だったりする画期的な…。ひっ、これが格差社会

2019-04-10

anond:20190410165900

実験でドカーンとやると警察が来てその場で逮捕だろう

実験を繰り返せる環境がない以上は出たとこ勝負になる

しか製造途中に爆死のリスクを考えたらとてもとても自衛隊経験がない一般人製造に着手できない

そりゃあ火薬専門家とか火薬が専門じゃなくても教科書を一読すれば構造を的確に想像できる教授先生はできるかもだが

ただの平均的な70歳には不可能な芸当だ

自衛隊爆弾製造訓練を経験してない普通の日本人には不可能

2019-04-09

文学部に進学すべきでない理由

学問的態度が身につきづらい

文学部学問に重きを置く人が少ない。

私の出身大学京都大学)だと、大学院に進むのは1/4程度でしかない。

同じく京都大学工学部だと9割近くが院に進学することを思うと、割合が低い。

また、単位認定があまりにゆるく、出席してあとは超くだらないレポートを書けばほとんどの講義単位が出る。

4年間いて、単位で苦しんだ覚えがない。

また、卒業論文文字通りの参加賞であり、教授に1回しかも5分間ほどしか指導を受けなかったが

難なく卒業することができた。

以上のように学問を軽んじる風潮が蔓延している。

私は気を抜いて周囲に流されてしまったので学問的態度や論文の書き方が身につかず、

社会人になってから業務である分析レポートを書く際に色々と恥ずかしい思いをした。

学問するもしないも自己責任ではあるが、文学部高等教育にふさわしい教育体制を備えていなかったことも確かだと思う。

生涯年収が低い、就職が悪い

文学部は良い会社就職しづらい。

高校生にはイメージしづいかもしれないが、新卒で入った会社給与が低いと、

たとえ転職してもその低い給与基準に新しい会社給与も決まりがちなので、低賃金という状況から逃れづらい。

工学部を出てメーカーに入った友人が30台半ばで1000万円近くの年収を得ている一方、

しょうもない会社に入ってしまうと同じ年齢で500万円程度しか貰えなかった。

生涯年収では1億円以上の差が出てしまうのではないだろうか?

私の場合仕事の成績が良かったので上司特別年収アップを交渉したり、

アップしてもなお低すぎたので転職したりしたが、

いずれにせよそれなりにエネルギーを使うことになった。

また、転職すると業務内容や業務の進め方が変化するので前職で得た能力がかなり無駄になってしまった。

さらに、京大文学部場合都道府県庁市役所就職できればまずまず上出来という雰囲気があったが、

京大を出て地方小役人は悲しすぎる。

京大には多額の税金が投入されており、本人にも高い能力があるはずなのに、小役人で良いのだろうか。

私は滑り止めで出身地県庁受験し、内定を得た。京大生はあの手の試験は得意なので半月真面目に勉強すれば十分だったが、

公務員試験予備校で1年間勉強してやっと合格するレベルの人もたくさんいると聞いて、

そんな人達と一緒に仕事をするのは嫌なので内定を辞退した。

だが、それでも、文学部卒業する人にとってはまずまず上出来な就職先であり、仕方がなく小役人になる者も多い。

メリットが小さすぎる

大阪大学卒業セレモニーで金水先生が語った式辞がしばらく前に話題になった。

曰く、文学部学問本領を発揮するのは人生の苦悩に直面したときであり、その苦悩を客観的に捉えられるようになることがメリットである、といった趣旨のことだった。

https://withnews.jp/article/f0170724005qq000000000000000W00o10101qq000015619A

しかし別の分野でも同様のメリットがある。

たとえば両親が死にそうだという苦悩に関してはキューブラー=ロスが提唱した死の受容モデルを知っていれば、親の心理状況の把握や子の立場としてのメタ認知を得ることに役立つ。

他にも、心理学、ミクロ経済学などの知見も苦悩と向き合うツールになるだろう。

また、金水先生自身上記の式辞で述べている通り、

文学部学問は、例え企業就職しても、家庭に入ったとしても、一生続けることができます」。

そうであれば大学で学ぶ意義がどこにあるのか。

例えば高校教科書を引っ張り出して山月記を読むことは誰にでもできるし、アマゾンで買ったタタール人砂漠砂の女通勤電車で読むこともできる。

以上のように文学部メリットは、デメリット釣り合うほど大きくない。

負の社会的シグナルとして機能する

文学部を出た人間仕事に向いていない、専門知識を持っていない。これが事実であるか否かにかかわらず、このような考えを持っている人が社会には多い。

そうした社会の中で「大学文学部卒業しました」と言うと、上に述べた妙な先入観で見られることが多い。

文学部入学して、卒業することは、社会からシラけた目で見られることなである

それでも文学部に入って良かった理由

ここまでデメリットを並べたが、私はそれでも文学部に入って良かった。

コスパは確実に悪い。

しかし、私個人が持っていた疑問、すなわち文学とは何か? 文学の美とは何か? といった点に私なりの答えを見出すことができた。

これは社会的にはほとんど無価値問題である

しか私自身が個人的に抱いた疑問をひたすら考える4年間を得たことで、私が私自身の人生を生きているという感触を得ることができた。

けれども、繰り返すがコスパが確実に悪い。

年収が低くなるし、そうすると結婚しづらくなったり、良い医療を受けづらくなったりする。周囲から白い目で見られる。

このような現実的問題説明なしに、「文学尊い学問の一つだ! 大学就職予備校ではないのだから学びたいことを学ぶべきだ!」と無知高校生を焚きつけるのは大人社会的責任を放棄するに等しい。

から私は、基本的文学部に進学すべきではないと考えている。

私の場合世間一般よりもかなり地頭が良いので、なんとか世間並みの暮らしができているが、

普通の人にとっては文学部に入るというのは人生ハンディキャップだ。

から文学部に進学すべきでない。

東大新入生が「こんなはずでは・・・」となる前に

10年前くらいに東大(文系)に入学したときのことを振り返ると、前期教養課程自由度が高い一方で「こんなはずでは・・・」という失望に包まれやすい期間だと思う。

大学教員は教えるプロとは限らないため、単純な話のうまさやわかやすさのレベルでみると、それまで授業を受けていた予備校講師とかと比べると落差が大きかったりする(もちろん上手い人は上手いが、少ない)。今頃「まさか東大の授業がこんなにつまんないなんて・・・」と頭を抱えている人もいるだろう。

逆評定を見たり先輩の話を聞いたりして楽に単位が取れそう、出席が緩そう、シケプリが充実している授業ばかりを履修した結果、専門課程に入る前に大学の授業、ひいては学問のものにすっかり絶望してしまうかもしれない。

なんだかんだ真面目な人も多いので、つまらないとしか思えない授業に毎回出席してしっかり話を聞いている優秀な同僚を見て、こいつらとは住む世界が違う…という感覚を抱くこともあるだろう。

幸い、大学生活には部活サークルバイト学生団体ボランティアインターン起業麻雀ツイッターその他打ち込めるものがあるし、授業を適当にやり過ごしてもそれなりに充実した生活を送ることができ、課外活動から大きなことを成す人もそれなりにいる。

しかしながら、個人的には前期教養のうちに大学学問絶望してほしくない。知的ディシプリンを身につけることは自信になるし、何かに躓いたときの拠り所にもなりうる。

楽単を稼ぐこと自体が悪いわけではなく、楽単をとりつつも、自分の関心に合わせてハードな授業や少人数の演習科目を履修して、今学期はこの授業は頑張る!というメリハリをつけられればよいかと思う。講義では教科書朗読するだけだったおじさんおばさんが少人数の演習では本来の知性を発揮して学生真摯に向き合ってくれたりすることも多い。しんどい課題を乗り切れば嫌でも体系的な知識を身につけられる。

残念ながら、引退寸前のロートル教員が錆びついた内容の講義を行っているということはそれなりに見られた(その分過去シケプリが充実していて楽だったりするのだが)。

現役で論文をしっかり書いている研究熱心な先生は授業内容も日々アップデートを続けているし、そういう知的生産の先端に意識的に触れて欲しい。そういう先生は授業が下手でも参考文献リストは宝の山ということもしばしばある。それだけ持ち帰って片っ端から読んでいっても良い。

とにかく、大学の授業、図書館書籍部、新聞論文データベースなど、あまり豊富リソース活用する術を身に着けないうちに大学学問絶望するのはまだ早いし、主体的になにかを学ぶことを楽しんで欲しい。逆評定や他の人の評判はあくまで参考であり、第一印象にとらわれず、自分の耳と頭でより深く考えて決定してほしい。

入学おめでとうございます。充実した大学生活になることを心から祈りしています

支配欲を教科書で教えてないのはおかし

語りたがる、威張りたがるのも全部これだろ

正論!も人を支配して思うように動かしたい本能からくるものなのになんで社会の授業で本能の一つとして項目を作らないん

2019-04-08

anond:20190408180028

人が動物の上に立つモチーフイルカアシカイエイヌが、けもフレ1以後の「人間がいなくなってる世界」でそれを強調されることが視聴者にとって不快で、それを書くなら悲劇性や罪悪感も書くべきだ、との主張でしたね。誤解していました。失礼しました。そうするとリョコウバトは構わないのでは。けもフレ1でもトキ絶滅していますが、人が上に立っているわけではないので問題ない。リョコウバトも同じ扱いでいいのではと思いますしかけもフレ1でカフェを訪れるフレンズは別の鳥でも良かったわけで、トキ選択されたのは何らかの意図があるでしょう。以前に書いたような「テーマとして昇華していない程度の示唆」でとどめても善いのではと思います不快になるまで強調されるならドラマに絡めて決着を付けるべきだということですね。ならばイルカアシカイエイヌでそこまで不快になるということ自体製作者の想定外なのではないでしょうか。俺もグロテスクさは感じましたが話が入ってこないほどは気にならなかったです。「そこに居心地の悪さを感じるのは当たり前」とおっしゃいましたが、監督交代のいざこざ抜きでもそう言えると断言できますか。

ヒーローがなんか技名叫んでパワーアップ」は、戦隊ものでもプリキュアでもアンパンマンでもあるので、そうそう引っかからない

これまでそういう表現が主流だったというだけです。戦闘ときに技名を叫ぶのはフィクション的です。攻撃タイミングがバレてしまうし、叫びに使うエネルギーを拳の乗せろよ、です。詳しくないのですがハリウッドヒーロー物では技名宣言は少ないのではないでしょうか。国内で閉じるローカルルールに縛られずによりリアル表現模索したのでしょう。「サーバルの目が光ると、ビーストも同じように目が光るカットがあるので、『同じ系統のパワー』に見えるんですよね。」とのことですが、同じ系統でよいと思います。常時強制的に野生部分が開放されているのがビーストだと俺は捉えてます

私の意見は「内面世界の外への進出自体は、多くの作品共通する、いわゆる「盛り上がる」部分です。ただ、その進出の仕方に、世界現実の仕組みに矛盾しない理屈がある場合と、理屈なしでイメージが直結する場合がある。ケムリクサは前者で、けもフレ2は、後者のように見えるという話です。

俺はケムリクサの最終話での細かいつじつま合わせに納得していません。「盛り上がり」とはリンが赤い木に対峙するシーンからですよね。ケムリクサでは草周りが特に緻密に組んであるので引っかかっているのかもしれませんが、矛盾していてノリで処理するの範疇に入っていますけもフレ2でのキュルルちゃん葛藤は「盛り上がる」部分ということでいいですね。とすると問題はフウチョウよりむしろ吹っ切れた後にタイミングよく飛んでくるビーストのような気がしますが… ただそこに至るまでに作品評価は決してしまっていたし、葛藤をフウチョウという便利な舞台装置で処理したところで全体がファンタジーということにはならないのでは。むしろケムリクサは柔軟性のあるギミックやしがらみのないプレーン舞台を用意していることで矛盾をでなくしているように思います。まあファンタジー蔑称ということもないのでしょうが、多くをノリで処理すべき寓話世界観というほどには、けもフレ2は堕していないと思います

1と2の共通するクライマックス部分で、似た構図の印象的なカットを出して、共通性を感じないわけがないです。そこは制作者は気づくべきです。

しかし、たつき監督けもフレ2をやっていたらそのカット問題にならないわけでしょう。監督が代わるごとに構図被りに難癖つけられるなら、正解は作らない一択ですよ。俺は野生解放こそ失念していましたが、かの名シーンの存在は覚えていて、でもその被りには気づきませんでした。観客が悪意を持ってアラ捜ししていることまで計算に入れて作っていかなきゃならないなら、アニメ制作者が家に帰らない期間は年単位で増えていくでしょう。観ると決めたら、ある程度製作者を信用することは視聴者側の責任だと考えています

視聴者視点では行動が横暴に見える」のであれば、それは「優しい世界」「癒やしとしての芸術表現」として失敗してるのではないかと思います。...(中略)...「優しい世界」というのは、面白かった作品への誉め言葉として使われているように思えます

この先奇跡的にけもフレ2の人気が反転して評価が逆転したら繰り上がって「優しい世界」になるのでしょうか。だとすると「優しい世界」は「感じが良くて人気だった」くらいの概念になってしまうでしょう。批評文脈でそのようなものを論じるのは意味がないのでは。作品制作において(俺は関係ないですが)、優しい世界を目指すというのは単に売れるよう頑張る以上のものであって、今のところは曖昧ですが、これから更に研究していく必要があるほど奥の深い領域だと考えていますけもフレ2でギスギスが解禁されたことで、G・ロードランナーやフウチョウ、イエイヌなど、けもフレ1に収まりきらなかっただろうフレンズへの間口が開かれました。そこはメリットだったのですが他方優しい世界性は減じてしまったということです。スピリットは二作品継承されましたが、休日リピートして癒やされるのはやっぱり一期ですよね。

話が前後して申し訳ないのですが、作劇論について…

ドラマとして盛り上がる重要ポイントで誤解を与えてはいけない

なるほどこれまで俺は不備を、設定の矛盾のようなものに絞っていましたが、重く捉えてらっしゃるのはプロット上の未消化や演出上の目論見の失敗、などですね。この方面は完全に素人なのですが、胸をお借りするつもりで議論に足を踏み込ませていただきます

「おうち探し」がテーマで、「仲間と一緒のここがおうちだった」に落とすためには、通常、「おうちは見つかったが、その上で、仲間と一緒にいることを選ぶ」というプロットします。そうしたほうが「自分意志で選んだ」感が出るからです。「おうち」が見付かったけど、廃墟だったとか、「おうち」側から同胞と認められなかったとかでショックを受けて、その後、決心するとかが基本パターンですね。そこが全くないので響かないんですよね。

論理同意できません。自由意思はどちらの選択をとっても自由ときにのみ現れるものです。事実上その選択しかないのにそれを選ぶのを決心するのは意思ではなくて屈服ですよ。敗北したのではなく自分で選んだと言い聞かせるために自分発破をかけているわけでしょう。けもフレ2のキュルルちゃんは諦める必要がないときに諦めの決断をしているので、そこに確かに彼女自由意志があると判るはずです。響くか響かないかは決意の重さを事前に示しているかでしょう。リリの「会えないのはもっと嫌だ!」は赤い木を生み出した(観念的な)責任彼女にあるし、あそこで「好きに生きて」などいわれて逃されて、わかりました楽しく生きますは納得感が全く無いので、戦線復帰が可能だとわかった時点で行動は一択なわけです。でもワカバとの日々でお化けになることを怖がったり、ワカバが倒れるのを心配したりしていたので、彼女自身が消えることの怖ろしさは十分に示されてる。それでも積極的に行くところに決意の強さが見て取れるわけですよね。キュルルちゃんはそれまで三人でおうちを探して旅をしてきて最後に、それがパークのどこにもなく手がかりの絵も尽きて絶望したことが示されているので、諦めるということがそれなりに重い決定であることは判っているわけです。それで充分だとは思いますが、まあ死ぬほどの重みではない。先々週にリリの決断をみているのでそこからすると見劣るのは否定できないです。

増田さんのプロット案は面白いですね… そっちのバリエーションも観たかたかも(実はプロの人なの?)。

最初イエイヌが、キュルルを、去って行った飼い主と完全に誤解している。キュルルや他のフレンズの助けで、イエイヌが元の飼い主のことをきちんと思い出す。その時、元の飼い主がイエイヌと別れた時に、安易に捨てたわけではなかったことがわかる。キュルルはイエイヌの寂しさを受け止めつつも、今の自分に出来ることはないので、別れる。一人のイエイヌの家に、他のフレンズが遊びに来る、などとします。

でもそうするとセンちゃんアルマーさんを入れる尺がなくなりませんか。誤解させるための設定も用意しなくちゃならない。というかイエイヌちゃん完全に救われちゃってますよね。このときのキュルルちゃんが横暴に見える、とまでは俺は思っていませんが、視聴者の多くはそう捉えたようです。おかしいと思わない人はサイコパスとまで言われていました。素人考えなんですけど、あそこでキュルルちゃんが(観点的な)非道を働いてしまうことには狙いがあったのではと思いますお話の上でキャラクターが何らかのミス悪事を働いて被害を作ってしまった場合、それに悪意がなくても、天災的な事故観念的な罰を受ける。視聴者の溜飲を下ろすためなのか、そういう処遇はよくあると思います。でないと消えざるを得なかったリリ・ワカバがただひたすら不遇ということになってしまう。キュルルちゃんホテルで海に落下させるためにイエイヌ回で下げたのではないでしょうか。落ちたときニコニコ動画では「ざまああwwww」が連発されましたが、あれは制作の狙いだったと考えています。そして必然的落下からのフウチョウ説教・海底火山紹介に自然につながります

肩すかしなのは、キュルルちゃん出自と、最終話に至るドラマキャラ動機等が、特に関連しなかったからです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズで、疑似不老不死だったことを眼目とするなら、それが何かと絡む必要があります

キュルルちゃん疑似不老不死説は俺の自説で、そこまでの確証はないことは一応留意してください。むしろ話の流れのメインだったのは”スケッチブック最後のページの行方”だったと思います。すべてのドラマスケッチブックに沿って展開され、最後の絵は破られていたことは最初の話で既に明らかにされていて、ホテル海上で悩むキュルルちゃんは千切られたページの跡を見つめていました。長い時を生きてミライさん時代からパークを見守ってきたイエイヌに対してキュルルちゃんが「おうちにお帰り」を言い、逆にイエイヌ彼女から送られた絵をみて(観念的に)おかえりを言うわけです(実際に口にはしてないけど、まあ立場的に)。キュルルちゃんはそのシーンを持って本当におうちに帰った、受け入れられた。それを最後のワンカットで示すのが強い、と思うのですがいかがでしょう。

通常、作品における伏線・回収は、プロット重要なメインの部分についてやるものだと思います

一般的エンタメの作劇上のセオリー評価できないというのはわかりましたが、しかしそのセオリーに従わなければいけない強い理由があるのですか。不勉強ながら俺はそれを知らなかったし、多くのファンも同じではないでしょうか。視聴者には考察班的に楽しむ人もいるし、癒やし目的カジュアルに流し見る人もいるでしょう。教科書的な表現から逸脱することで芸術進歩してきたのではないですか。

2019-04-07

日本の「近代」は何時代と言えば良いのだろう

新元号も発表されてそろそろ平成も一区切りだけど

明治大正昭和平成令和と5つも並ぶと流石に数が多く思えてくるし

明治維新から終戦までが77年で終戦から今年までが74年なのだから

そろそろ歴史教科書でも明治時代大正時代昭和時代と分けずに

維新から終戦までを一つの時代として扱っても良いんじゃないだろうか

そう思うとその「維新から終戦までの期間」を何時代と呼べばいいのだろう

帝国時代

2019-04-06

anond:20190406131516


 

緊急寄稿

「令和」から浮かび上がる大伴旅人メッセージ

品田悦一

 

 新しい年号が「令和」と定まりました。典拠文脈を精読すると、〈権力者の横暴を許せないし、忘れることもできない〉という、おそらく政府関係者には思いも寄らなかったメッセージが読み解けてきます。この点について私見を述べたいと思います。なお、この文章は「朝日新聞」の「私の視点」欄に投稿したものですが、まだ採否が決定しない時点で本誌編集長国兼秀二氏にもお目にかけたところ、緊急掲載のご提案をいただいて寄稿するものです。

 

 「令和」の典拠として安倍総理が挙げていたのは、『万葉集』巻五「梅花歌三十二首」の序でありました。天平二年(七三〇)正月十三日、大宰府長官大宰帥)だった大伴旅人が大がかりな園遊会主催し、集まった役人たちがそのとき詠んだ短歌をまとめるとともに、漢文の序を付したのです。その序に「于時初春令月、気淑風和」の句が確かにあります。〈折しも正月の佳い月であり、気候も快く風は穏やかだ〉というのです。これはこれでよいのですが、およそテキストというものは、全体の理解と部分の理解とが相互依存し合う性質を持ちます一句だけ切り出してもまともな解釈はできないということです。この場合テキストは、最低限、序文の全体と上記三二首の短歌(八一五~八四六)を含むでしょう。八四六の直後には「員外思故郷歌両首」があり(八四七・八四八)、さらに「後追和梅花歌四首」も追加されていますから(八四九~八五二)、序と三八(三二+二+四)首の短歌の全体の理解が「于時初春令月、気淑風和」の理解相互に支え合わなくてはなりません。

 

 さらに、現代文芸批評でいう「間テキスト性 intertextuality」の問題がありますしかじかのテキストが他のテキスト相互に参照されて、奥行きのある意味を発生させる関係に注目する概念です。当該「梅花歌」序は種々の漢詩文を引き込んで成り立っていますが、もっと重要かつ明確な先行テキストとして王羲之の「蘭亭集序」の名が早くから挙がっていました。この作品書道の手本として有名ですが、文芸作品としてもたいそう味わい深いもので、「梅花歌」序を書いた旅人知悉していただけでなく、読者にも知られていることを期待したと考えられます。「梅花歌」序の内容は、字面表現された限りでは〈良い季節になったから親しい者どうし一献傾けながら愉快な時を過ごそうではないか。そしてその心境を歌に表現しよう。これこそ風流というものだ〉ということに尽きます。「蘭亭集序」の語句構成を借りてそう述べるのですが、この場合、単に個々の語句を借用したのではなく、原典文脈との相互参照が期待されている、というのが間テキスト性の考え方です。「蘭亭集序」は、前半には会稽郡山陰県なる蘭亭に賢者が集うて歓楽を尽くそうとするむねを述べており、ここまでは「梅花歌」序とよく似ていますが、後半には「梅花歌」序にない内容を述べます。人の感情は時とともに移ろい、歓楽はたちまち過去のものとなってしまう。だからこそ面白いともいえる。人は老いや死を避けがたく、だからこそその時々の感激は切なく、かついとおしい。昔の人が人生の折々の感動を綴った文章を読むと、彼らの思いがひしひしと伝わってくる。私が今書いているものも後世の人にそういう思いを起こさせるのではないか……。

 

 「梅花歌」序には、人生の奥深さへの感慨は述べられていません。続く三二首の短歌も、〈春が来たら毎年こんなふうに梅を愛でて歓を尽くしたいものだ〉(八一五)やら、梅の花は今が満開だ。気の合うものどうし髪に飾ろうではないか〉(八二〇)やらと、呑気な歌ばかりが並んでいるのですが、そしてそれは、旅人大宰府役人たちの教養の程度を考慮して、「蘭亭集序」を理解したうえで作歌することまでは要求しなかったからでしょうが旅人自身は「蘭亭集序」全体の文脈をふまえて歌群を取りまとめました。その証拠に、上記「員外思故郷歌」は

  わが盛りいたくくたちぬ雲に飛ぶ薬食むともまたをちめやも(八四七)

   ……わたしの身の盛りはとうに過ぎてしまった。空飛ぶ仙薬を服用しても若返ることなどありえない。

  雲に飛ぶ薬食むよは都見ば賤しきあが身またをちぬべし(八四八)

   ……空飛ぶ仙薬を服用するより、都を見ればまた若返るに違いない。

というのです。人は老いを避けがたいという内容を引き込んでみせている。

 しかも、ここには強烈なアイロニーが発せられてもいる。旅人にとって平城京はもう都でないのも同然で、「都見ば」という仮定自体が成り立たなかったからです。

 

 都はどうなっていたか皇親勢力の重鎮として旅人が深い信頼を寄せていた左大臣長屋王――平城京内の邸宅跡から大量の木簡発見されたことでも有名な人物――が、天平元年つまり梅花宴の前年に、藤原四子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の画策で濡れ衣を着せられ、聖武天皇皇太子呪い殺した廉で処刑されるという、いともショッキング事件が持ち上がったのでした。この事件は後に冤罪と判明するのですが、当時から陰謀が囁かれていたでしょう。旅人もそう強く疑ったに違いありませんが、遠い大宰府にあって切歯扼腕するよりほかなすすべがなかった。『万葉集』の巻五は作歌年月日順に歌が配列されているのですが、梅花歌群の少し前、天平元年のところには、旅人藤原房前に「梧桐日本琴」を贈ったときのやりとりが載っています事件は二月、贈答は十月から十一月ですから、明らかに事件を知ってから接触を図ったのです。〈君たちの仕業だろうと,察しはついているが、あえてその件には触れないよ〉〈黙っていてくれるつもりらしいね。贈り物。はありがたく頂戴しましょう〉と、きわどい腹の探り合いを試みている――あるいは、とても太刀打ちできないと見て膝を屈したとの見方もありえるかと思いますが、とにかく、巻五には長屋王事件痕跡が書き込まれている。

 

 巻五だけではありません。巻三所収の大宰少弐(次席次官小野老の作

  あをによし寧楽の都は咲く花のにほふが如く今盛りなり(三二八)

は、何かの用事でしばらく平城京滞在し、大宰府に帰還したときの歌でしょうが、『続日本紀』によれば老は天平元年三月、つまり長屋王事件の翌月に従五位上に昇叙されていますから、たぶんこのときは都にいて、聖武天皇から直接位を授かったのでしょう。すると、大宰府に帰った老は事件後の都の動向を旅人らに語ったと考えられる――そういうことが行間に読み取れるのです。また巻四には、長屋王の娘である賀茂女王大宰府官人だった大伴三依との交情が語られていて、三依は事件に憤慨しながら大宰府に向かったようです(五五六)。さらに巻六。歌を年月日順に配列する中で天平元年に空白を設け、直前に、長屋王嫡子事件ののさい自経した、膳王の作を配しています(九五四)。

 これらはみな、読者に長屋王事件喚起する仕掛けに相違ありません。偶然の符合にしては出来すぎている。

 

 「梅花歌」序とそれに続く一群の短歌に戻りましょう。「都見ば賤しきあが身またをちぬべし」のアイロニーは、長屋王事件を機に全権力を掌握した藤原四子に向けられていると見て間違いないでしょう。あいつらは都をさんざん蹂躙したあげく、帰りたくもない場所に変えてしまった。王羲之にとって私が後世の人であるように、今の私にとっても後世の人に当たる人々があるだろう。その人々に訴えたい。どうか私の無念をこの歌群の行間から読み取って欲しい。長屋王を亡き者にした彼らの所業が私にはどうしても許せない。権力を笠に着た者どものあの横暴は、許せないどころか、片時も忘れることができない。だが、もはやどうしようもない。私は年を取り過ぎてしまった……。

 

 これが、令和の代の人々に向けて発せられた大伴旅人メッセージなのです。テキスト全体の底に権力者への嫌悪と敵床心が潜められている。断わっておきますが、一部の字句を切り出しても全体がついて回ります。つまり「令和」の文字面は、テキスト全体を背負うことで安倍総理たちを痛烈に皮肉っている格好なのです。もう一つ断わっておきますが、「命名者にそんな意図はない」という言い分は通りません。テキストというものはその性質上、作成者意図しなかった情報を発生させることがままあるからです。

 安倍総理政府関係者は次の三点を認識すべきでしょう。一つは、新年号「令和」が〈権力者の横暴を許さないし、忘れない〉というメッセージ自分たちに突き付けてくること。二つめは、この運動は『万葉集』がこの世に存在する限り決して収まらないこと。もう一つは、よりによってこんなテキスト新年号の典拠に選んでしまった自分たちはいとも迂闊(うかつ)であって、人の上に立つ資格などないということです(「迂闊」が読めないと困るのでルビを振りました)。

 

 もう一点、総理談話に、『万葉集』には「天皇皇族貴族だけでなく、防人農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌」が収められているとの一節がありました。この見方はなるほど三十年前までは日本社会の通念でしたが、今こんなことを本気で信じている人は、少なくとも専門家あいだには一人もおりません。高校国語教科書もこうした記述を避けている。かく言う私が二十年かかって批判してきたからです。安倍総理――むしろ側近の人々――は、『万葉集』を語るにはあまり不勉強だと思います。私の書いたものをすべて読めとは言いませんが、左記の文章はたった一二ページですから、ぜひお目通しいただきたいものです。東京大学教養学部主催の「高校生のための金曜特別講座」で語った内容ですから高校生なみの学力さえあればたぶん理解できるだろうと思います

 

【記】

品田悦一「万葉集はこれまでどう読まれてきたか、これからどう読まれていくだろうか。」(東京大学教養学部編『知のフィールドガイド分断された時代を生きる』二〇一七年八月、白水社

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