はてなキーワード: 解釈とは
これ、最近もひろゆきが「違法だから全部潰せ」って言ってちょっと話題になったんだけど
もう何年も、特にコロナ流行ってからずっと誰か著名人や政治家がパチンコは違法賭博だって言うと
パチライター、パチyoutuber、木曽崇みたいなのがポジショントーク込みで反論するって図が続いてる。
で、俺この話題に興味あるからずっと追ってるんだけど、基本的には論点はあんまり無くて
以下の条文の解釈がお互いに違うだけ。
例えば「風営法の許可を得ているから」とか「三店方式(だから合法、だから違法)」っていう意見。これは間違ってはいないけど、言葉が足りない。
第百八十五条 賭博をした者は、五十万円以下の罰金又は科料に処する。ただし、一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときは、この限りでない。
合法派は「一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときに該当するから」
って言ってる。
「ジャンケンで負けた奴おごりな」みたいなのも賭博なんだけど、こんなもの取り締まる意味は無いので例外としてOKにしてるわけ
でもそうすると「え?パチンコで賭ける額ってそんなもんじゃなくない?」って疑問が浮かぶよね
となった時の合法派の答えが「風営法で認められてるから、一時の娯楽として賭博罪に当たらない」
これは荒唐無稽な話ではなく国会答弁なんかで認められちゃってるのよね。
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a192157.htm
「いや、そんな屁理屈捏ねても日に6桁勝った負けたするパチンコが当てはまるならなんでもアリだろ」となり
認められてるとしたらそれは「お目こぼしだろ」となる(ひろゆきが良く言う「警察のお目こぼしで捕まってないだけ」はこれ)
まぁ、つまり両派閥で言い合ってても答えは出ないのよね。どっちもある意味正しいから。
難しいわな
最近、何をするにしても怯えていた
Youtubeは無断転載のせいでオリジナルの動画を収益化剥奪された
Twitterのアカウントは愚痴を吐いたせいで永久凍結された(Twitterが生んだストレス)
もう外界から情報を受け取って何かを感じることさえ怖くなっていた
怒ったら負け、怒らされたら負け、悲しんでも負け、苛つかされても負け、そう思わなくてもそんな状況に陥るのが負け
何故なら、受け取った情報を必ずしも好意的に解釈しなくてよくなくなったからだ
悪いなら悪いなりに、どう悪いのかを流布すればいい
増田で得た不快(画像が出てこない時点で取るに足らないレベルだが)は増田で返せばいい
自分はTwitterで嘆いてたのは単純に見た目が気持ち悪い人間に気持ち悪いと吐いていたのがほとんどなので、そういった類いのストレスは増田では起こらない
@otakulawyer
礼拝所不敬罪は、礼拝所に対し公然と不敬な行為をした者にを処罰しています。屍姦は遺体に対し不敬な行為なのですが、死体損壊罪には不敬という文言がないので、死体「損壊」の概念に不敬な行為を含めるという解釈は無理がある。性犯罪は個人的法益に対する罪なので、死体に対する性犯罪はあり得ない。
https://twitter.com/otakulawyer/status/1619179114451308547
https://twitter.com/hyunhwa_2/status/1617843701904207873?
賢花
@hyunhwa_2
·
>「遺体への姦淫行為、つまり死姦については、昭和23年の最高裁判決で『死体に対する侮辱行為、例えば死姦は損壊ではない』と判断されています。死体損壊の『損壊』行為は刑法上、物理的な損壊のみを指します」
dailyshincho.jp
葬儀場の職員が、亡くなった「女子高生」の胸を…被害者の母は涙ながらに「娘のお墓に土下座してほしい」 | デイリー新潮
故人との最後の別れの場で、ご遺族が心穏やかに亡き家族を見送るための手助けをしたい――。…
賢花
@hyunhwa_2
死姦は当然、死体損壊に入るものと思いこんでた。性犯罪に対する考え方がおかしな国なのは十分わかってたつもりだけど、まだ驚かせてくれるとは。
俺は古典教育廃止しろ派、というか、文法とかどうでもいいから文学史だけやれ派なんだけど、その理由のひとつに、「古典」つって出てくんのが結局枕草子・源氏物語・徒然草程度じゃん!っていうのがある
なんなら小学5年〜中1くらいでやるだろその辺って
谷川俊太郎の詩とかと一緒にさあ!
それで暗唱させられたから覚えてるだけなんだ
水鏡とか大鏡とか、伊勢物語とか落窪とか、なんかいろいろあったろ?俺は覚えてねえけどさあ
日常的に軍記物語の語り口調でギャグを飛ばしてみんながウケるとか、しょっちゅう百人一首あたりを引用して喋るのが一般的とか、そういうレベルでみなさんが教養を持ってんだったら、俺だって文句は言いません
でも何すか、スーパーの惣菜売り場に「春は揚げ物」って書いてある、これが"古典教育"だ!ですって?
"「春はあけぼの」の元ネタがわかる"程度だったら、小学生のときに、授業1時間受けるだけで、充分たどり着けるんだよ
っていう話だろ
これ、実は明確な答えがあって、ないんです
なんせ何も覚えてねえ
昔、男ありけり ソーワット、ファックユー!
まあ実際、(ごく一部を除いて)つまんねえ上に教訓もないクソ説話・小説を6年にわたって読まされることで、ああ俺たちの先祖ってカスだったんだ、貴族階級のが書いて、かつ後世に残そうとされた、日本古典文学の上澄みがこのレベルだったんだ、貧しい文化の国だったんだなあ!と思えるというのは、ひとつの学びだったかもね
ここで10 Japanese Classic Booksなるまとめをチェック!
4 竹取物語 ングアー!やられた!!でも竹取物語って古典やんなくても知ってるだろ 古典教育の必要性って意味では、これはノーカウントじゃないか?? でもまあ、1ポイント
7 砂の女 そういえばこれ読んどきたい
9 雪国 ほら〜
見てくださいよこれ "クラシック"なんて頭につけても、ガチ古典vs近代文学で3:7ですよ
雑魚すぎんだって古典 しかも竹取物語はなんか、史料っぽい雰囲気だからな
アレある程度授業でやったけど、覚えてんのは「うつくしうてゐたり」の一文だけだ 美しく座っていた、という表現はちょっと英語っぽくてかっこいいな、という浅い印象だけ あと不死の薬を焼いたから富士山です(笑)みたいなオチがすげー鼻についた
枕草子・源氏物語・徒然草・竹取物語・今昔物語くらいをサラッとさらって、文法は一切触れず、こんな感じだったんですよ〜でお終いだ
原典の響きがどうこうって意味では、昔のハ行はパ行だったとかいうし、やるだけ無駄ってもんだろ
人の話を聞いてる聞いてないの問題じゃなくてそもそも行政に関する基礎知識の量に差があるんだと思う^^;
監査を正確に読めてないポエマーな人の不思議な異次元で論理を飛び越えたポエムというか、スピリチュアルな超解釈を理解できる理解力や読解力はないかな汗
詩人とかスピリチュアラーではなくて事実関係を知りたいだけなので^^;すまん
わかるよ。お店で商品を買うとなぜかレジでカツアゲにあうことを不満に思う人もいるもんな。感情は論理を越えるってことでしょ?
まず第一に俺が問題だと思う点と東京都監査委員が問題だと思う点を一致させる必要はない。
東京都監査委員が問題だと思うなら東京都監査委員が批判すればいい。
俺は購入してないものを購入したと報告するような、足し算の合ってない杜撰な報告書を出したColaboのせいで多くの人間が振り回されたと思っている。
他人のリソースを徒に浪費する連中の存在は俺は問題だと思っている。
わかった?
第二に監査結果に
https://www.kansa.metro.tokyo.lg.jp/PDF/08jumin/4jumin/4jumin5.pdf
本件事業実績額の内訳には実際とは異なる備品や購入していない備品が記
他にも
(1)監査対象局は、公金の使われ方について都民に疑念等を生じさせないよう、
事業実績額については、本事業の実施に必要な経費を正確に報告させ、これを
精査したうえで精算を行うとともに、事業実績額の対象経費の支出内訳につい
て受託事業者ごとに任意とするのではなく、仕様書に定める支出対象費目(報
酬、給料、職員手当等、賃金、報償費、謝金、旅費、需用費(消耗品費、印刷
製本費、会議費、光熱水費、食糧費)、役務費(通信運搬費等)、委託料、使用
料及手数料、備品購入費、共済費、扶助費 その他緊急に必要とする経費)の
区分に準じること。
つらつら書かれてるだろ。Colaboの今の状態を東京都監査委員も問題があると思ってるんだわ。問題が無いなら注文つけないんだわ。
「都民に疑念等を生じさせないよう」って書かれてるだろ。都民に疑念をもたせてリソースを浪費させるのは悪い事なんだわ。
俺と東京都監査委員の問題と思う点を一致させる必要はないが、この点一致してんだわ。
そのうえで自分に問題の原因がある連中が議員会館で記者会見を開いて「リーガルハラスメント」だのなんだのといって批判を封じようとした、それはさらに”俺は”問題だと思う。
どこら辺が問題なの?
この辺が”俺の中で”問題。
わかった?
これをどうにかしたいんだよな。
こういうおじさんにパワハラ防止で「でも周りの人は新人に対して令和の新人に対しての接し方をしてますよね?」と伝えても理解して貰えない。
歴史から学ぶ機能が0で、経験からしか学べない人を教育する方法が全くわからない。
なんというか、小学校の読書感想文で「僕が桃太郎だったら、怖くて鬼退治に出なかったと思います」と言って褒められた所で共感能力や想像力の成長が止まっているんだよね。
まあ確かに初歩の段階はそれでいいんだけど、それで大人になられると「1+1=2、1×1=1、どうだ!俺は数学が得意だろ!」みたいな状態になっちゃう。
どうやって教えれば理解してもらえるんだろうな。
そもそも自分が今の時代だと上司からあまりパワハラされないってことをどう解釈してるんだろう。
友達はもともと油絵を描くのが好きな人で、言外にイラストをバカにしてるところがあった。
まぁ、そういう人っているよね。
彼の絵は好きだったし、他の趣味やら考え方もあったし、そこは好みの問題と思ってかなり仲良くしていた。
ちなみに自分は典型的なオタクで、昔から人物イラストは模写したりデッサンやったり多少している。上手くないのは自覚していたので字書きがメインで、たまに細々と描いて満足している。
彼がハマったアニメのイラストを描くようになったのは最近のことだ。
イラストと言っても、ラフ段階くらいで線画にすらせず投稿するような感じ。そういう絵のスタイルというわけでもなさそうで、ごく稀に線画まで仕上げることもあった。
一度投稿し始めると、マイナーなアニメのファンダムの中で絵描きは貴重なようで、交流もするようになったらしい。彼も楽しいオタクライフを送るようになったんだなーと思っていた。よかったよかった。ここで終わればよかったのに。
前述のように自分は彼の絵が好きなので、絵に関してはいつも褒めていた。
イラスト描き始めの頃も、「イラストは初心者だから見てほしい」と自信がなさそうにしていたので、褒め続けた。
やっぱりたくさん楽しく描くのが一番だと思うし、もともと絵の得意な彼のことだからイラストも上手くなっていくだろうな、と楽しみにしていた。
一度だけ、イラスト描きにありがちなミスを見つけたので指摘した。キャラクターの傷の左右を間違える、のような感じの。プロでもやるようなミスだと思う。上手い下手の問題でもなし、字書きにおける誤字のようなものと思った。自分だったら指摘してもらいたいと思ったからこそ、こっそりと伝えた。
が。
彼はめちゃくちゃ不機嫌になった。
いわく、ミスではないと。前述の通り彼のイラストはラフのような絵なので、不必要な線がたくさんある。そのうちの一つがミスのように見えてしまったようだ。
すぐに謝ったが、指摘が細かいと言って怒りを引きずり続けた。
その時点で賞賛しか受け付けない人なんだな、上手くなりたいみたいなのはないんだな、と諦めていたのだが、さらに腹の立つことがあった。
どっぷりとファンダムに浸かっていった彼は、解釈違いの他人のイラストを「こんなん(描くの)ありえない」とわざわざダウンロードして送りつけてきたのだ。
そのイラストは愛を込めて丁寧に描きあげられた作品だった。表情にも構図にも工夫のあとがみられる。上手いわけではないかもしれないが、多少なりともイラストを描いた経験があれば、どれほどの熱量と努力の下に編み上げられたものかと想いを馳せてしまうような素敵なイラストだ。
自分も解釈違いというのにはうるさい方ではある。し、そのイラストが解釈違いなのは同意する。
けれど、特定個人の愛と努力の結晶をあげつらうのは、それはちがうだろうと。
オタクとして、他人の作品に最低限の敬意を払うのは礼儀じゃないか?
なんというか、彼の努力のしなさっぷりも含めて、イラストというものをバカにしているのではないかとすら思った。
それ以外にも自分のプライベートに対する失礼な言動があって距離をとることにしたのだが、いまだに彼のオタクとしての在り方に対する怒りが尽きない。
はぁ……ずっと仲良くしてたんだよ、本当に。大好きだったし。
悲しい。
ある漫画の登場キャラクターについて考えたブログを投稿する時に、それをどういうタイトルで発表すればいいか、考察を名乗って良いのかいつも迷う。
このキャラはこういう含意があるんじゃないか、このネーミングはこういう元ネタと関連してるんじゃないかというよくあるオタクの深読み的な記事だ。
はてなで有名なキャラで言えば、ドラゴンボールのベジータが自ら洗脳された時の心情を、王族、格闘家、戦闘民族、滅びた種族の末裔などの面から考えてみる、みたいな感じだ。
クリアしたい条件は、
・不特定多数が読む気になってもらえること
だが考察って言葉はネットのオタクが軽々と使いすぎて、考察を名乗るのがちょっとダサくなっている気がする。
また、少なくとも一万字くらいは語っていなければ考察を名乗るに値しないと思うので、五千字弱の記事で考察ですと出すのは名前負け感がして恥ずかしい。
次が「解釈」。
というのは、考察と名乗るのはちょっと荷が重いと思った人たちが、我も我もと「解釈」を名乗り、ついには考察と呼んでいいくらいちゃんと書き込んだものまで「解釈」と名乗る。
さらに、ツイッター上の気軽なやり取りでも「これはあくまで個人的解釈です」みたいな言い方が沢山みられるようになり、あれが露骨に逃げ口上って感じで非常にダサく、印象が悪い。
嫌いというのはダメだけどnot for meならいいよね、みたいな、くだらないおためごかしって感じでよくない。
もちろん、ちゃんとした意味で「解釈」という言葉を選択しただろうなという人もおり、それは美しい。
だが、「ベジータが自ら洗脳された理由を、彼の様々な立場から解釈してみた」というのは、考察と言いたいけどビビって解釈を選びますというのが見え見えでダサいだろう。
次は「感想」。
まあ、明確に間違いではない。
「ある作品の感想を書きました」という名乗りで出てきたのが、作中の、1キャラの、特定時期についてだけ考えた記事だったら、それはちょっと違うだろとなるだろう。
「作品の感想」という名乗りは、作品全体とか、せめて○○編とかの、ある程度の規模のもの全体についていう時に相応しいだろう。
これも、ワンシークエンスではなく、作品全体について語ったものでなければしっくりこない。
また、評論を名乗るならば考察に準ずるような分析精度、レビューを名乗るならば読者に対ししっかり紹介できる親切さが必要だろう。
「妄想」。
「ベジータは滅びたサイヤ人王族の数少ない生き残りであり王族であることがアイデンティティであり心の支えであり強くなるモチベーションだったのに、悟空という他のサイヤ人も残ってくれたし、まして自分にはトランクスという跡継ぎができたしで、どうしても彼の孤独や将来への絶望は薄れて、心に甘ったるさが満ちてしまうよな。臥薪嘗胆していたのに、いつのまにか苦い肝がキャンディになっていたのだ。また、尻尾の切断という要素も忘れてはならないだろう云々」みたいなオタク語りは、キモい妄想と呼ぶのが一番相応しいかもしれない。
女オタククラスタでは、恋愛カプ語りを「妄想」と呼んで発表することが割と一般的なようだが、ベジータと悟空の巨大感情を語っているわけではない……ということもないが、まあ主眼ではないし、想定読者層も女オタクではない。
「○○語り」。
洗脳された時のベジータ語り、みたいな。この増田内でもオタク語りって多用してるし。
うーん。なんか自意識過剰なのがバレそう。あとやっぱりこれも、五千字弱で語るを名乗るのはおこがましい気がする。
岩坪朗彦が控訴を棄却するとき、 民事訴訟法の3つくらいの規定を引用するが、その3つの規定を引用するとき、それは技術的な意味で、単に意味合いが重複する平凡な
岩淵茂樹が、住所について解するとき、民法22条と民訴法4条2項を引用するが、手続法と、実体法の別分野の規定に触れることはどのような技術なのか。
抗告を棄却するときに、民訴法の3つの規定を引用するが、手続法の3つの規定を引用するだけであり、平板な技術であると思う。これに対して、実体法と手続法の両者に規定されている
とある弁護士がデータベース等を使ってないみたいな言い訳をしているようなので。
詭弁と表現したのは今日データベースと表現されると一般的にはリレーショナルデータベースシステムや階層型データベースシステムを指すが、データベースという語義を原意的に広く解釈するとNT File SystemやApple File System、Extended File Systemなどのファイルシステムもデータベースシステムの一種として捉えることが可能ではある。
可能ではあるとするのは前述の通り、今日の情報技術者等の一般的な認識ではMySQLやMariaDB、NoSQLなどのデータベースシステムと解釈され、ファイルシステムとデータベースシステムは別概念として捉えることが常識的な判断であり感性なのだ。
ただ、現代社会でデータベースシステムを一切利用せずに取引するのはおおよそ不可能であることはデータベースシステムを熟知している者であればあるほど痛感するものであり、詭弁として挙げた通りにデータベースシステムという語義を途方もなく広く解釈するとファイルシステムもデータベースシステムなので、高度な汎用計算機たるコンピュータやスマートフォンを活用してしまうと我々、そして件の弁護士はデータベースシステムを利用していると言わざる得ないのだ。
ちなみにEメールクライアントやマルチメディアソフトのiTunesなどへデータの送受信や読み書きするだけでデータベースと相当されるものが生成される。Appleなどは情報技術者界隈でデータベースシステムを一新したがることへ悪い意味での定評があり、一般的なユーザーであってもiTunesのライブラリが壊れるなどと言った経験があるだろう。
筆者は法律の専門家ではないためシステムが自動的に生成するデータベースはユーザーが故意に作ったデータベースではないためユーザーがデータベース等を利用していないとする主張が妥当なのかどうなのか判定できない。
付け加えるなら筆者の学んだことや経験などを考慮すると、他者からファイルシステムもデータベースシステムの一種と主張されれば、100歩譲って言わんとすることは理解できるものの違和感が拭えなくファイルシステムとデータベースシステムは違うだろと言い返したくなる。そういう意味で詭弁なのだ。
https://www.asahi.com/articles/ASR1S0BMPR1KDIFI00M.html
俺が知る限りの成功例を書くよ。
特定されないようにフェイクを入れるけど、たぶん分かる人には分かっちゃうと思う。けど、分かっても黙っていてくれると助かる。
心機一転ゆっくりしたいと思い、地域おこし協力隊に応募して採用。正直場所はどこでもよかった系。
任務は、地域団体の常勤職員。地域の有償ボランティアベースで仕事をしてくれる人や会社と一緒になって、草刈りや放置竹林、荒れ地などの整備や、地域の人が出したアイデアを実際にハンドリングするのがお仕事。要するに小間使い。
既に着任している地域おこし協力隊の人と、役場から出向に来ている人の3名の職場。
最終的に、そこで知り合った地元企業の高齢社長に会社を引き継いでくれないかと依頼されて、任期終了後は解体・廃棄物処分業者の事業継承に向けて就職した。
仕事自体は、はっきり言って小間使い。年収も200万円ぐらいになってしまうんだが、忙しさだけで見たら正直それでは割に合わない感じがする。
ただ、周辺がもう都会から若い子が来たと言うだけで神様仏様扱いされるような環境。ガチで拝まれる。リスペクトされてる。
勤務は週5日日給制なのだが、実際には、地域おこし協力隊隊員はケータイに出られる場所で、何をやったかをLINEで報告すれば大抵何をしていても勤務扱いになると言う待遇。
今日は家の整理をしてました、みたいなのでも勤務扱いになる。まぁ若人が住んでいるだけで地域貢献担ってるという解釈だな。
一方で、地域の行事とかやるときには、さらっと事務局や会計など地味だけど重たくて面倒くさい役割にアサインされてやらされることになる。
ただ、日曜日にボランティア集めて何かするとか、夕方の会合に出るとか、そう言う時には漏れないように丁寧に時間外がつくそうな。
そして、そんな仕事だから無茶苦茶地域の人たちに顔が売れる。それもボランティアや地域活動に参加している人たちに顔が売れるので、強固な人脈ができる。
実は、自治体は顔をつなぎ、孤立させない事を目的に、何があっても孤立しないようにこの仕事を与えているような所がある。
最終的にはその人脈で任期終了後の就職先をゲットした訳で、この施策は人を選ぶけど、よいアイデアだと思った。
かなり実績があり、普通に村役場に入った人や、就職した人もいるし、他には、喫茶店を開いた人(イベント出店大杉で店は殆ど閉まっているが)、寺が開いてると聞いて仏門に入ってお寺を継いだ人(本業:塾講師)、お土産屋に就職して配達なのかチョークアート書いてるのかどっちが本職かわからん人、など個性豊かな面々がいる。
アラフォーの家族。当時子どもは中学生だったはず。前職は別の地方都市で商社に勤務していたが、前から自分の会社を持つ事が夢であり、探していたところ、起業型地域おこし協力隊というものがあると知って応募して採用。
自分でためていた金と、地域おこし協力隊の報酬(と言っても200万とか)を使って生計を立てながら、起業の準備をして融資を受けて任期2年目で食品加工工場を作り、その経営者になる。現在もその経営者として商売している。
前職の伝手で大手食品メーカから仕事を持ってきていて、最近は地元建設屋と共同で農業をやり始めた。
この人は明らかに起業をするつもりで、それができる場所を探していた感じ。こう言う人はたぶんあちこちにいて、そう言う人を地元に取り込むために協力隊制度を使ったって感じだね。企業誘致に近い。
本来の地域おこし協力隊の趣旨からは若干外れると言う議論はあるらしいのだが、最近、定着率が高いのはこう言う起業を前提とした移住だぞとも話題に上がる。
まぁ、こう言う目的がはっきりしている人は受け入れ側もありがたいやね。
他にも、パン屋さんをやりたいと応募し、ちょうど住んでた人が亡くなった直後の出物の古民家があり、そこを改造してブランディング、通販をメインにしたパン屋なんてのもいる。週末1日だけ限定のレストランとかもやってる。
その地域は昔、陶芸が有名な地域だったそう。しかし、台規模工業化に後れを取ってかなり衰退していた。そこで、自治体は一念発起して陶芸家を養成する学校というか訓練施設を作った。
そこには地元の若い人なども通うんだが、それだけではやはり難しい。
そこで、知恵者がいて、地域おこし協力隊の制度を使って、事実上2年間はお給料が貰えながら学び、独立語1年は所得が保障される環境を作り上げた。
まず、根性やら寝技やらで有名な芸術大学の名の知れた陶芸家との提携をゲットした。
そして、その先生の弟子、大学院生が地域おこし協力隊の制度を使って、お金をもらって移住してもらう。
その人が非常によい成果を出したために、話題になってあちこちから集まるようになり、毎年2名の枠にかなりの応募がくるのだそうな。
協力隊の任期は3年間あり、最初の2年が訓練所に加代追い、その後1年は身の振り方を考えるという構成。
その間にじっくりと学び、また作った作品は自分で売って自分の収入にできたりもするので、それで感触を確かめたりできる。
自立した陶芸家も多く出て、地域には高密度に陶芸作家がいる町という事でブランディングが行われ、愛好家が多く集まるようになったそう。
正直、制度はほとんど脱法的な使われ方だと思われるが、かなり有名な成功例として総務省も紹介しているからいいんだろと言う感じ。
地域資源と上手く填まった例で大変うらやましい。そもそも最初の提携が最も大変だと思うので早々真似はできないと思う。
だが、もう地域おこしの方向性が決まっていて、それを強化したい場合、伝統芸能の継承などと言う場合には、このメソッドは使えるのではないかと思われる。
地元出身者で、大学を卒業して首都圏で働いていたが、アラフォーになって心配になって、と言う事でUターンを決意。
そうしたら、たまたま農業従事と条件とする地域おこし協力隊の募集が、たまたま出身の村から出て、たまたま村議会議員をやっていた親父からそのことを聞かされてたまたま応募したら、たまたま受かったそうな。
応募後はたまたま開かれていた地元の農協がやっている新規就農者向けの講座を活用して融資をうけ、たまたまあった県の新規就農者助成金を受け取りつつ、たまたま求人を出していた第三セクターの農業の会社に勤めながら、実家の農業を……。
偶然ってすごいなー(棒読み
まぁ、色々と批判があるのは分かる。が、こういった紐付きコネのありが一番定着率が高いのも事実だと思われる。そして、確実に地域進行ができる訳だから、まぁ悪い事じゃない。
かわいそうなのは、もう紐付きで結果が決まっているとも知らずに、形だけ出された公募に応募した他の志望者だよな。
今、新規移住者向けの助成金とかあるんだけど、移住者・Uターン向けの生活保証金としては地域おこし協力隊が最も金は出る。そして、性質上他の補助金と重複申請ができたりするので、まぁいろいろできるのである。
地域おこし協力隊は、このような成功パターンを掴んでいる所と、駄目なのと頃の差が大きい。格差が開いている。
成功している所は
と言う好循環を生んでいる一方で、
駄目なところは殆ど改善されず、また改善する機会もなく、定着が進まない場所も多く、格差が開いているように感じる。
というか、応募者の数という点でかなり差がある。定着しているところは応募殺到して驚くこともあるが、定着率が悪いデータがある所は殆ど応募がないらしい。
移住者目線としては、とにかく地元でウェルカムな姿勢で募集している所や、既に定着している協力隊の先輩がいるところが良いと言うのが王道だ。
付け加えるならば、任務や勤務体系が柔軟で幅広く選べるところを選択するのが良いと思う。普通の就職みたいに仕事ががっちり決まっていてそこで勤めなさい、と言う様なケースだと単に補助金が出る労働力としてしか見られていない可能性がある。
目的がキッチリある場合なら、本当にその目的に適しているかをよくよく考えた方が良い。
そして、その目的にピンポイントに募集をかけているところにマッチングできればいい。考えているうちに違う考えになっていってもよいが、妥協だけはしてはいけない。
大きなミッションを与えられて、それをやりなさいと言うものもある。その時、これは本当に自分がやりたい事なのか、とにかく見極めとマッチングを大事にしてほしい。
受け入れ側目線としては、とにかく移住者を孤立させるな、コミュニケーションを取れという所があると思う。
地方移住の話をするときに、地方の人間関係はめんどくさいという話はよく出るが、ぶっちゃけ、田舎の人間関係が完全に嫌な人はそもそも応募してこないのでノイズである。
そして、何かあったらこの人に相談してね!と言う人を、数人。数人!話をつけておくことが大事だ。それも役人では無くてそれ以外の人。そしてできたら一番最初に、変な人のところに行く前に話をしておくのが良い。
というのは、人間関係にトラブルがあって辞めると言う案件、調べてみると、そもそも変な人に依存してしまっておかしくなると言うケースが結構ある。
外から来た人に最初に近付いていく人は、地域の顔役みたいな人でなければ、だいたいその地域で孤立しがちな人だったりする。
そう言う人は、何か問題を抱えているケースが多々ある。新興宗教に勧誘されてしまうと言うと言う様な分かりやすいケースならまだしも、
発生した問題に「それはきっと○○さんの嫌がらせだよ。あのジジィしつこから」みたいな事を吹き込んだりして、単なる事故が一瞬で陰謀論になり、疑心暗鬼を生んだりする。
(愛媛県の話がこれだと言っているわけではない)
そう言う事を防ぐ為にも、とにかく最初に頼りになるひとをつける事が大事だ。できたら先輩移住者と、地元で何かあったときに仲介ができる人と言う組合せがベスト。
色々書いたが、気楽に構えてやったらいいと思う。任期付きだけど給与は保障されるし、その間役所が面倒見てくれるし、リスクはそんなに無いのだ。
地域おこし協力隊の受入には落差があるけれど、実はさらにその前には「そもそも地域おこし協力隊みたいな制度を使う気すら無い」という場所が存在していて、そういう所に比べると、公募をしている所はそれなりに進んでいるところなのだ。
まずは気楽に話を聞いてみて欲しい。
ネット上に存在する人格に対して人権の一部を認めるって事だと解釈してるんだけど
これってまぁ当たり前と言えば当たり前でいいんだけど
同時にネット上で長く同じH.Nを使っている人間に対しても同様に認めないとバランスがとれないよね?
ってことは、人権としてどこまでって考えていくと配信で自分のアバター、自分が映されない権利も認められると配信者界隈もまた困りそうだな
令和3年7月30日 本件を弁論準備手続きに付する。 (裁判長 石村智)
8月4日 14階のぷちくらが出現する。
令和3年10月8日 第3回口頭弁論調書 弁護人が提出する書類は怪文書である。
本件の原判決は、国家賠償法第1条の内容に関して説明する昭和60年11月21日最高裁決定の内容をつけるのであるが、国家賠償法第1条は、公務員がその職務に際して違法な
行為をしたときは国家にその損害の賠償をさせるというだけの要点を絞った当然のことを規定しただけの立法技術に出たものであり、同裁判官が指摘する、最高裁決定も、この規定を踏まえたうえで、
特段の内容を説示したものではない。従って、この法解釈には何ら見るべきものもなく、一つの判例として事例判断をしただけでほとんど価値はないと解される。
"「人間にとって仕事とは本来手段であると同時に目的でもある。モノを加工して作り上げる中で自身の固有の性質を見出すが、賃金労働においては生活の為に強いられる手段に過ぎず、自身の本質から疎外されていく」"
これを解釈するなら、仕事ってのは本来、自分のために自然に働きかける事であり、例えば獲物を取ればそれが自分の空腹を満たすわけなんだから、喜びしかないんだよな(追記 農業とかして出来た作物を自分で食べてみるとわかるかも。自分が頑張って美味しいモノ作れば、自分の幸福に直結する。料理で食べたいものを作るとかでもいいかも)
今の仕事みたいに辛いとかそういうのじゃなく、生きるためにする当たり前のことというか
それが賃金をもらう代わりに他人のために働くとなった時に本来の目的から外れて苦痛になってしまうというか何というか
あとは、まあ賃金は経営側からしたらコストだから、労働の成果物の価値=コスト(賃金etc)+利潤なわけで、利潤を増やそうとしたら、自ずと労働者の生活を良くするという事からは乖離していくって事に繋がるわけで
>私は女なので、目の前で努力している男性に「そんなことしなくても愛しているからそうやって自分をいじめるのをやめてほしい」と思っていたが、どうやらそういうことなのだ。
男が年収や地位のために努力・苦労することを「自分をいじめる」と評価し、代替として女からの愛を提示しているが、
その努力・苦労はまずもって自分や家族の生活のためであり人生のためであり、男同士のマウンティング(があったとしても)は二次的要素だ。
この増田は、古典的な「仕事と私どっちが大事なの」の言い換えに過ぎない。
「契約書なんてただの形っしょ。こんなの担当者同士の話し合いをそれっぽい言葉にしただけなんだからさ。なんかいい感じにやればええやん」
みたいなノリだよね。
まあ公共事業なんて相手取ってたら擦れてそうなっちゃうんだろうな。
なんかもう全てがいい加減というか、ことなかれ主義を「何も起きてなかったと言い張れば良い」って解釈してる感じ。
今の東京都の案件とか安倍マスクとかも結局はそういうのの延長なんだろうね。
論理や倫理ではなく「なんか身内の中で大丈夫大丈夫言い合えそうな雰囲気」が最優先と言うか。
例えば IT リテラシーの場合は、IT リテラシーの低い親が子に与える情報のコントロールをすることができない。よって全面的に禁止するか野放しのどちらかになる。
同時に、倫理リテラシーと教育リテラシーも無いと何を制限して何を放念していいかの分別がつかない。また情操リテラシーが低い親は「全てコントロールすれば解決」というブス親ムーブに行き着く。
国語能力が低い親(片方だけ低いなんてことはだいたいなくて、親同士の知能レベルは大体一緒になっているもの。これも仮説だが。)は、その人達の会話が論理的な情報交換で成り立っているのではなくて、感情表現の応酬で成り立っている可能性がたかい。
あくまで可能性といっているのは、理解度を外から解釈しづらいから。論理的な表現が双方でなされている場合は第三者から観察可能だが、そこから外れていくと観察不可能になっていく。客観的に判定できない非言語のコミュニケーションによっていくのだから当然である。
そのコミュニケーションを正とみなして、その両親の子は育つ。最も身近な手本が両親なのだから当然である。
手本をもとに、手本より良い結果を出すことは難しい。学校での国語の成績はどうだろうか。母親が感情表現のみでコミュニケーションしていないだろうか。論理的なコミュニケーションを見せているだろうか。
論理的に通じる国語表現がなされた口述で、コミュニケーションがなされているのであれば、子もそれに沿った表現がなされるものである。
ある親子がいた。母親、娘(5)、息子 (4) という構成で娘は言葉が達者だった。息子もしゃべれはするがいくらか問題があるように思えた。
というのも、息子は「ん〜!!」とか唸り声と怒りの表情でコミュニケーションをしていたからだ。
そして母親は察しがよくやってほしいことを汲み取り、行動してフィードバックを与えていた。
当然のように息子は誰に対しても「ん〜!!」という唸り声で他人に迫り、動いてくれない相手が大半なのだからより一層鬱陶しい行動である「泣く」に進化させる。だいたいの大人は息子を疎ましい印象を持つ。
親のコミュニケーション能力が子のコミュニケーション能力を最低限に止めた良い事例だと思う。
ある家族がいた。父親は田舎出身で言語能力が低く表現が稚拙なうえ、暴言が多い。母親は東京出身だが事なかれ主義でわかってないことでも「はいはいわかったわかった」と話を終わらせがち。
この二人は端から見ていると会話が成立していない。が日々の営みにコミュニケーションを必要としない。共働きで経済的には独立しているし、兼業農家なので食料の備蓄や買い出しも雑で構わない。ミスコミュニケーションが起こっても問題が顕在化しにくく、修正もなされないためずっとその調子なのである。
この家庭で育った3人は当然のようにコミュニケーション能力が低かったが、進学先や受験勉強で常人並のコミュニケーション能力を獲得するに至った。
どちらの視点の方が楽しいだろうか。どちらの視点のほうがよりチャレンジするだろうか。
怒られてばかりいる子は当然チャレンジしなくなる。怒られて終わったイベントは二度とそのイベントを行いたくなくなる。学習とはそういうもので、どういう「結末」だったかで記憶は締められる。
良い結末ばかりで構成された世界はやさしく映るだろう。嫌な結末ばかりの世界は絶望にあふれるだろう。
ある親子が居た。母親が娘に対してよく叱っているシーンに出くわす。黙って涙をながし立ちつくす。感情的な母親は怒りがおさまるまで立たせておき、そして無視する。
母親は謝ってくるのを待っているのである。娘が「察する」まで何もフィードバックしない。
原因は、料理のお手伝いをすべく生卵をボールでわろうとしが、手を滑らせて生卵をラグの上に落とし、黄身でシミを作ってしまったことだった。4歳の子供なのだから手を滑らせることくらいするだろう。子育て環境でシミを作らないほうが無茶だ。子育て帰還中は可能な限り洗濯して良い製品で揃えておくものだ。
そうでないなら、ただのエゴだ。ノーヘルで自転車に乗せるようなもの。10cm ヒールを履いて子を抱えるようなもの。エゴを満たすだけのリターンを天秤にかけてリスクを取りに行ってるのだから覚悟して然るべきである。
話を戻す。娘にとっては生卵を割って叱られて終わったイベントだ。この調子で様々なイベントが怒られて終わっていく。かんたんなことさえビクビクしてやりたがらない、何でも避ける子の出来上がりだ。
生卵を落とし泣いてる娘に声をかけ、何が起こったかを聞いている。生卵を落として怒られたと言っている。これではまずいともう一度卵を割らせる。失敗して卵の殻の大半をボールに入れてしまう。
殻が入ってしまったことでグズりだすが、殻を除けば良いことを教える。
さらにもう一個の卵を割らせる。今度は小さな殻だけが入った程度だ。上手くいったねと伝える。
よくできたね、成功だねと伝える。
これについては成功エンドに寄せて終わらせることができたが、彼女にとってのイベントは大半失敗エンドだろう。この積み重ねで世界はどう見えるのか。
もっと色々あったけどなんか長文書いてスッキリしたかったんです。読んでくれてありがとう。
言うて俺の親は低スペックでかなりしんどい思いしてきたし、心肺機能系の一部に問題あるし大腸がんと緑内障の家系だけど、まぁ五体満足だしいいかなって思っている。子供の当時はクズ親だって思ってたし当時は恨んでたし、今でもそう思うところあるけど、おとなになって触れたもっとやばい家や親に比べたらまだマシだったなって。
Twitterのことに置き換えている人がどれも反論になって無くて可哀想過ぎる。
話の論点がこれっぽっちも見えてないな
「ヘイトワードで差別的だから、ど ん な 文 脈 で あ れ その単語の使用は禁止せよ」とする範疇は
抑制的であるべき、という前提の下に始まってる話なのよね。貴方はとうとう読めなかったようだけど
だから「文脈によっては侮蔑的な意味を持たずに使用されている現状がある」ということを示して
「マイナスイメージしかない」の反例を示すことに、意味が出てくる
ということをそもそも理解してないから、貴方のような素っ頓狂な解釈になる
「凄い」の例が出たのも「言葉の意味は時代によって絶えず変わるのが常」で
「ネガティブな言葉がポジティブな意味を持つこともある」ということを示すためのもので
だから、そもそも「 文 脈 を 一 切 考 慮 せ ず に 一律その単語が出ただけでアウトにする対象」に
軽率に入れるのはいかがなものか、という問題提起をするものとして出てきたって流れなのよ
ここまで「凄い」しか例が出てこなかったけど、例えば逆の例
「貴様」とかがそうよね。こういうケースって普段意識してないだけで
割と普通にあるからよく考えましょうね、って話の振りとして出てきたという
文脈を徹底無視してるのか、終ぞ理解できなかったのかは知らんが
無理繰りケチつけるようなことしか貴方はできないから、不毛な対話に終わる
「自分が正しいと凝り固まってるのはそちら」?
ソックリそのままお返しするわ
後ろ向きな感情を音楽なり文学なり絵画なりの自己表現によって昇華させたい。それが自分の存在の、人生の意義を証明するものになるから。と確信しているような人には琴線に触れる表現だと思う。
一方で、別の解釈をする人もいるのではないか。「軋んだ想いを吐き出す」を「鬱屈とした感情を言葉にする」と捉え、そのような振る舞いによって「敵」を作る事が自身の存在の意味の証明になる。「私」単体ではあまりに曖昧な存在である所を、「敵」との差異によって、「劣った敵とは異なる優れた私」という明確な価値が生まれる。そうする事でしか自身の存在を確かめることができない。という意味で捉えるのではないか。
という意味です。分かりました?